僕たち三人は住宅街の中で道に迷っていた。車もとおれない狭い路地が縦横に交差し、もはやどこを歩いているかもわからなかった。日差しは強く、汗がずいぶん出ていた。1987年、真夏の上海。
目的の家を探してくるといって一人が歩いていった。残された二人は大きなリュックを下ろし、待った。あらためて周りを見回してみた。石を敷き詰めた路の両側には、煉瓦や石でできた似たような建物が延々と続いている。どの家も入り口に扉がなく、薄暗い家の中にはテーブルや椅子などが見えていた。
ある家の暗い入り口から、老婆がゆっくりと出てきて、僕たちのほうを見た。僕は一瞬、身を硬くした。僕たちはどこから見ても日本人観光旅行者だったし、彼女が少女時代、青春時代に経験したであろう出来事を考えれば、石を投げ付けられるくらいのことはあってもおかしくないと思ったからだ。だが、度の強そうな眼鏡の奥にあるまなざしには、敵意は感じられなかった。
老婆は、僕たちに何かを言いたそうだった。見ていると、家の中から小さい椅子を二脚、持ち出してきた。そして、椅子にすわれとしぐさで示した。僕たちは軽くおじぎをしてから、椅子に腰掛けた。老婆は再び家の中に入り、今度は水の入ったコップをもってきた。そしてそれを飲めと、やはりしぐさで示す。さんざん汗を流したあとだったから、ありがたかった。僕は差し出されたしわだらけの手からコップを受け取り、一口二口飲み、もう一人にまわした。
やがて僕らの仲間が、目的の場所がわかったと戻ってきた。僕たちは椅子を老婆のところへ戻し、もう一度頭を下げ、その場を去った。結局老婆は最初から最後まで一言もしゃべらなかった。
それが上海での日々の始まりだった。
(1999.1.17)
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