いま髭を伸ばしている。長い部分なら4、5センチある。しかも頬の大半が覆われている。髪も長めだから、みたところ顔のかなりの部分が毛で占められているという印象だろう。

さて、世の中にはこのように髭を伸ばしたことのない人がかなりいることと思う。まず、ほとんどの女性たちがそこに含まれる(まれに、髭の伸びる人もいるようだが)。それからほっといてもたいして髭の伸びない男性も含まれる。最後に、生活習慣として、髭を伸ばすことをよしとしない男性が含まれる。あ、あとまだ髭の生えてこない子供たちだ。ざっと日本の人口の9割は、髭ボーボーの状態を経験したことがないものと思われる。そこで、髭を伸ばすと、どういうことが起きるのか、ということを説明したい。それが今回のテーマだ。

伸び具合に応じた3つの期間に分けて説明をする。まず剃った状態から髭が数ミリ程度までの、伸び始めの時期。これを第一期としよう。この時期は、外見上は精かんな印象を与える。長島茂雄の髭剃り跡の青々とした顎を思い浮かべてもらいたい。そこへうっすらと髭が伸び始める。非常に男らしい感じではなかろうか。髭は非常に短いため、腰が強く、なでるとじょりじょりとした感触がある。これで人に頬ずりでもしようものなから、非常に痛いようだ。子供のころ、父親にやられた経験がある。それをいまは自分の家族に対してやって、痛がる様子を見て楽しんでいる。第一期の特権的娯楽である。ファッション的にも有利だ。一時、元プリンス、ジョージ・マイケルなどの海外アーチストが短めの髭をセクシーにキメていたことがある。あなただってそれが可能だ。ただし、服装がダサダサだと、ただの無精髭にしか見えないので要注意だ。

髭の長さが5ミリを越えると第二期に突入する。髭の腰は弱くなり、じょりじょり効果が薄れる。精かんさも薄れ、むしろ薄汚さが目立ってくる。この時期は服装がいっそう重要になってくる。ラフな格好では、路上生活者風になってしまう。すれ違う人にそのように見られるだけならまだいいが、仕事、レストラン、病院など、さまざまなシチュエーションで接する相手の態度が、まあ端的にいうと軽蔑を含んだものになる。外出時にはきちんとした服装をし、「ちょっと薄汚く見えるでしょうが、もっと伸ばすための途中経過なのであって、だらしがなくてこうやっているわけじゃあないんですよ」ということをさりげなくアピールしておく必要があるのだ。

ところで、その数ミリ程度の髭を観察してみると、自分の場合、赤い毛が含まれていることがわかる。映画でも赤髭の医者の話があったと思うが、日本人でもこうして赤い髭が生えるものだということが自らの毛でもって確認できる。最近は白い毛も増えてきたのだが。

髭がさらに伸び、3センチを越えるようになってくると、本格的な髭男になってくる。第三期だ。この長さになると、無精髭というようなレベルではないため、髭面にするというはっきりとした意志が感じられるだろう。そういったファッションを目指した結果かもしれないし、宗教上の理由かもしれない、そんな印象を人に与えるのではないか。僕のようにあくまでも無精髭の延長としての髭面というケースもあるのだが。

視覚的インパクトも強いようで、電車に乗り込んだときなど、視線を感じる。いわせてもらえば、特に中年女性がぶしつけな視線をなげかけてくることが多い。「まぁーセクシーなお髭」という視線ならよいのだが、どうも「うぁー、なにこの人」といった視線のような感じがする。あるとき地下鉄のエスカレータで下っていたら、隣の昇りエスカレーターの、これは中年男性だったが、その人が、怪訝そうな表情でジっとこっちを見ていた。数秒にわたってである。オウム事件の最中だったせいもあるかもしれない。

さて、第三期は感触も前二期とはだいぶ異なってくる。顎の下あたりは、なでてもまったく肌に触れることがなく、ごわごわした髭の密集した感じがするだけである。この感じ、なにかに似ていると思ったら、そう犬の背中をなでた感触とそっくりなのだ。もはや動物的レベルの感触になってきているわけだ。この段階になると、当人にとって不都合なことも出てくる。まず、鼻と上唇の間の髭がうるさくなってくる。毛先が上唇にかかってくるし、食事のカスが毛についたりもする。だからその部分の毛だけはときどき切ってやる必要がある。段三期に至ると、喉元あたりは長さの不揃いな毛が四方八方へ伸びててじゃまくさくなる。夏場は髭の中に汗が溜まるようになる。第三期に至って、僕は髭を剃りたくなるのが常だ。いまちょうど、その時期で、剃ろうかどうか、迷っているのである。もっと伸ばしているとどうなるのか。つまり第四期になるとどういうことになるのか。僕はまだ体験したことはない。

(1999.1.23)

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