1989

Photo

 

写真は一種のタイムマシンだ。写真に写っているのは必ず過去の光景であり、それを眺めていると撮影当時へと心は飛んでいく。

自分がときどき眺める写真がある。1989年に撮影した妻の写真。スキャニングしてパソコンに取り込んであるため、いつでも画面上で見ることができる。いまもいっしょに生活している女性の写真をなぜ見るのか。とりわけ美しく写っているからというわけではない。もっとよく撮れている写真もある。若いころの写真だからというわけでもない。もっと若々しい写真もある。自分でもよくわからないが、その写真を見てしまう。

それは結婚することを決めた僕らが、そのことを両親に話すために実家のある函館へ行ったときのものだ。かつて函館戦争の舞台となり、いまは公園となっている五稜郭。その公園を囲む土手の上で撮影したのだった。斜面に荒々しく繁茂しているススキ、遠くに見える青い山並み。その景色は、結婚後十年間帰省することのなかった自分にも、すぐさま十代の記憶を呼び起こす。彼女は後ろを歩く僕のほうを振り返り、何かいいたげな表情をしている。写真を見るたびに、その表情の意味するところを把握しきれず、少し不安な気持ちになる。

写真に写っている彼女のほうも不安だったはずだ。結婚のための十分な準備もなく、あわただしくあれこれのことを片付けていく日々。そして初めて訪れた北海道。初めて会う将来の親戚。いったいこのさきどうなるのかな? わたしたちは大丈夫なのかな? とその表情は言っているようにも思える。大丈夫、きっとうまくいくと自信を持ってこたえる、僕はそのようなタイプでもなかった。

そのさらに十年前。僕は五稜郭公園の隣にある高校へ、毎日公園の中を抜けて通学していた。理由のない幸福感、つかみどころのない焦燥感、試験後の開放感などなど、そこを歩いたときの心情はいろいろだった。無頼を気取って缶ビールを飲みながら歩いたこともあれば、好意を告げた相手から婉曲に交際を断られて傷心の思いで歩いたこともある。短い交際期間だったが初めてのガールフレンドとも何度か歩いた。五稜郭公園は思い出の多い場所なのだが、苦い思い出がそのかなりを占める。自分にとってそういう場所だということを彼女に知らせたかったはずだが、うまく話すこともできず、ただ彼女の写真を撮ることしかできなかった。

写真を見ることで、自分は結婚前のときへと時間をさかのぼり、そこからさらに十年前の高校時代へとさかのぼる。写真に写しこまれた二つの時間、そしてそれを眺める現在、その三つの時間のもたらす幻惑が、自分をこの写真に惹きつけるものの正体かもしれない。(2000.3.21)

[戻る]