ムツゴロウ氏の勇気

先日、新聞にムツゴロウこと畑正憲氏がライオンに指を噛み切られるという記事が出ていた。命に別状はなかったようだが、そのシリアスな出来事は、テレビで浸透しているほのぼのとしたムツゴロウ氏のイメージの破綻を印象付けたように思えた。もはやあの人気テレビシリーズは成立しなくなるのではないか、そんな気もしたのだった。

動物とたわむれるおじさんというイメージがテレビによって浸透している畑正憲氏だが、僕にとっては中学時代に読んだ「ムツゴロウの青春記」「ムツゴロウの結婚記」の人、というイメージが強かった。内容はもうほとんど覚えていないが、彼の著作によって大いに楽しませてもらいもしたし、励まされもしたことは覚えている。

こちらが大人になってからは、ムツゴロウ王国の主としてテレビに登場する動物好きのおじさんとして親しむようになった。そのテレビシリーズは、毎回動物と人間の係わり合いを考えさせられる内容で好感が持てた。不定期ながら、長年続いているところを見ると、評判もよいのだろう。

今日、その最新作がテレビで放映された。驚いたことに、番組の終わり近くで、ムツゴロウ氏がライオンに指を噛み切られるシーンがそのまま放映された。人間が動物に肉体を傷つけられるシーンをそのまま放映するのは前代未聞のことではないだろうか。そのシーンは、こんなふうだった。網の檻に入れられたライオンがいる。畑氏はジャケットの前をはだけるようにして網に体を寄せる。ナレーション「檻に入っている動物に近づくのは、引き込まれる可能性があるので危険だ」。ライオンは畑氏の体臭をかぐようにし、やがて体をあお向けにした。ここでまたナレーション「体をあお向けにして弱い腹部をさらすのは、最大の親愛の情の表現だ」。起き上がってライオンは軽くひっかいたりなめたりする動作を畑氏に対してしている。一瞬、畑氏の体が硬直したようになり、網にかけた右手に力が入っているようす。何度か右手を引こうとするが、動かないらしい。数秒後、網から手が離れ、畑氏は無表情で振り向き、右手を前に差し出した状態で網から離れて歩いていく。周りからは大声で叫ぶ声がする。畑氏の右手中指の先は欠けて、骨が見えていたように思う。ナレーションによれば、第一関節から先が食いちぎられたという。病院へ急行して治療し、ふたたび戻ってきた畑氏は右手の手首から先に大きく包帯がまかれていたが、畑氏は笑顔で現れ、ライオンの持ち主と抱擁した。

僕が驚かされたのは、指を噛み切られた瞬間もそのあとも、畑氏がまったく声を出さず、慌てもしなかったことだ。なんという勇気だろうか。あのように振舞える人がほかにいるとは思えない。彼がそのように振舞ったがゆえに、テレビで放映することも可能だったと言えるだろうし、ムツゴロウのイメージも破綻しなかったと言えるのではないだろうか。

畑氏はこう語った。あのとき自分の後ろには飼い主がいた。友人がやってきたので飼い主はその場を去ろうとした。それを見てライオンは、行ってほしくないという気持ちから自分の袖を噛もうとした。それが間違って指をかんでしまったのだ。だから誰も悪くはない。自分の過失だった。それを飼い主にも伝えた。

包帯姿でライオンの檻の前に戻った畑氏は、ライオンの名前を呼んで、近くに呼び寄せようとした。おまえは悪くないのだと教えてあげたいという。しかしライオンは近づいてこない。自分が悪いことをしたという意識があるので、近づけないのだという。その様子を見て畑氏は、動物というのは本当に優しい心をもっている。こんなかわいいライオンにだったら、指だけでなく体全部を食われたっていいと語った。

それを勇気と呼んでいいものかどうか。人によってはそれはもはや狂気ではないかと言うかもしれない。ともかくも僕は彼の姿に感動したし、敬意も感じたのだ。

(2000.7.20)

[戻る]