貧困、差別、暴力

もうすぐシドニーオリンピックが始まる。その関係だろう、NHKでアトランタオリンピックの総集編を再放送でやっていた。その番組では、人種差別と闘ったキング牧師が39歳で凶弾に倒れ、その墓がアトランタにあること、アトランタオリンピックで起った爆弾テロで大勢の死傷者が出たことなども紹介していた。戦火の中で生まれ、いまも戦争が続いているアフガニスタンの選手のことも紹介していた。アパルトヘイトを終えたネルソン・マンデラ大統領が送り出した南アフリカの黒人・白人混成の選手団も紹介していた。

番組を見て思ったことがある。それはすごく当たり前のことだが、貧困と差別と暴力が大勢の人を苦しめているということ。それがこの世界の現実だ。

貧困というのは、端的にいえば食い物がないということだ。日本人の「金欠でさあ」という程度のものは世界レベルでみたら貧困でもなんでもない。世界には、食べ物がなくて死をまつばかりという人が大勢いるのだから。しかし日本に貧困が存在しないかというとそうではないと思う。食べるのでせいいっぱいという人は少なくない。ホームレスの増大もそれを証明しているのではないか。しかもいまの政治の流れは、自己責任の美名のもとに貧富の格差を広げるようなほうへと向かっているような気がする。

差別というのは、南アフリカのかつてのアパルトヘイトがその代表だが、白人による黒人の差別といったものを基準に考えてしまうと、日本にはそういう問題が存在しないかのように思えてしまうかもしれないが、実際には日本にも差別はある。貧困、差別、暴力と三つを並べたときに日本国内でもっとも顕著な問題は差別ではないだろうか。人種差別もある。職業差別もある。性差別もある。年齢差別もある。出身地による差別もある。アパルトヘイトのようなはっきりと見えるような形での差別はないかもしれないが、差別する側が気付いていないような差別はたくさんあり、それが多くの人を不幸にしている。

暴力は、その最たるものが戦争だが、テロも暴力だし、いじめという暴力もある。マスメディアによる言論の暴力もある。家庭内暴力というのも社会問題化している。暴力は、間違いなく人を不幸にする。即座に不幸にする。暴力の犠牲者、犠牲者の家族、最終的には加害者をも不幸にする。すべての武器を楽器に、と言ったのは喜納昌吉だ。いいことをいう男だ。

貧困と差別と暴力は、相互に関わりあっていることが多いように思う。差別が暴力を生み、暴力(戦争)が貧困を生む。そして貧困から抜け出ようとして暴力が生まれたりもする。貧困が新たな差別を生むこともある。硬くからみあった糸のように、この相互関係を解きほぐすのは難しい。

しかし僕としてはこう言いたい。貧困と差別と暴力を憎め、平和を愛せよ。ストレート過ぎるだろうか。日本人の日常感覚としては、そんな言葉は恥ずかしく感じるかもしれない。しかしその問題が日本にも存在するのだから、はっきり言葉にすることは大切だと思うのだ。ましてや世界の状況を考えるならなおのことだろう。貧困と差別と暴力を憎め、平和を愛せよ。

(2000.9.3)

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