無名のボクサーが世界チャンピオンと戦う機会を与えられ、善戦する。これが映画『ロッキー』のあらすじだ。誰でも知っている。しかし深夜テレビで放映されていたこの映画を改めて観てみて、自分が誤解していたことに気付いた。「無名のボクサーが世界チャンピオンと戦う機会を与えられ、善戦する」という説明は、この映画の片面しか語っていない。この映画にはもう一つの面があり、たぶんそっちのほうが重要だと思う。
映画は、フィラデルフィアの場末のリングから始まる。闘っているのは無名のボクサーどうし。薄暗い場内、観客からは容赦なく物が投げつけられる。ボクサーの一人がエキサイトして相手に頭突きを喰らわす。やられたほうは 頭から血を流しながらも激しくパンチでやり返し、相手をダウンさせる。流血したのがロッキー。選手控え室に戻り、シューズを脱ぐ。隣のベンチではさっきまで戦っていた相手が 氷で頭を冷やしている。男は「まぐれさ」と嫌味を言う。無言のままロッキーは着替え、外へ出る。ロッキーはジムの向いにあるペットショップに立ち寄る。そこでアルバイトをしているエイドリアンに会うためだ。彼女はもうすぐ30になる。引っ込み思案でおどおどしており、無口で、 外見は地味で、おせじにも美人とはいえない。それでもロッキーはエイドリアンが好きなのだ。ロッキーはたどたどしいようなしゃべり方で話し掛ける。考えてきたジョークで彼女を笑わそうとするが、彼女は話し掛けられても何も答 えず、仕事をしながらちらちらとロッキーを見るだけ。観ているこっちは、たまらなく切ない気分にさせられる。未来のない男と、世間から忘れ去られたような女。このように映画の前半は、きわめて沈鬱な雰囲気が続く。それはまるで社会派のドキュメンタリー映画のようだ。『ロッキー』は単純明快で痛快なサクセスストーリーではなかったのか。
感謝祭の日、ロッキーはエイドリアンと住んでいる兄ポーリーに勧められて、エイドリアンとデートをする。エイドリアンがスケートが好きだとポーリーから聞いたロッキーは、スケート場に行く。すでに閉まっているが、清掃員に頼んで10分だけ 滑らせてもらう。スケート靴を履いてあぶなげに滑るエイドリアンの横をロッキーは歩く。清掃員が「あと5分!」というように分刻みにせかしてくるなか、二人は話す。「なんでボクシングをするの?」「ほかに何もできないから。お前は頭が悪いから体を使えって親父に言われたんだ」「私は逆のことを言われた。体が弱いから頭を使えって」こうして二人はしだいに打ち解けていく。
試合日程を組み、大量の宣伝もおこなっていたチャンピオンのアポロ。ところが彼の対戦相手は怪我のために試合ができなくなってしまった。そこで、無名のボクサーに対戦のチャンスを与え、アメリカンドリームの夢を観客に見させるということをアポロは考える。そして選ばれたのがロッキー。 連絡を受けたロッキーは、驚きながらもそのチャンスにかける。ここからはおなじみの『ロッキー』だ。早朝のロードワーク、ジムでの激しい練習、街中を走るロッキー、あのテーマ曲が観るものの心を燃え立たせる。
試合の直前、ぼんやりとした表情でロッキーは独り言のようにエイドリアンに話す。「だめだ。俺は勝てない。」「どうするの?」「俺はクズのようなものだった」「そんなこと言わないで」「いや本当だ。だが最後のゴングがなる時まで立っていられたら、俺はクズではないことが証明できるんだ」
簡単に終わると思っていたアポロの目論見は外れ、試合は激しいものとなった。アポロは3ラウンドで片付けるつもりだったのが、途中ダウンも奪われ、結局最終ラウンドまでもつれこむ。 そして最後のゴングが鳴り、試合結果は判定に持ち込まれる。アポロの勝ちが告げられる。しかしロッキーにとってはもう試合結果のことなどどうでもよ かった。ふらふらになりながらリング上で繰り返しエイドリアンの名前を叫んでいる。エイドリアンは人ごみをかきわけ観客席からがリングに上がる。そして顔のつぶれたロッキーと抱き合い、「愛しているわ」と言う。映画はそこで終わる。
映画『ロッキー』のもう一つの面とは、こういうことだ。これは社会の底辺に生きる男女が、自分に課した目標へ向かって挑戦することで、人間としての誇りを取り戻す物語であり、孤独な二人が確かな愛を得る物語である。
NHKの「ビバリーヒルズ青春白書」をちらっと見たあとだっただけに、『ロッキー』の物語がいっそう胸に迫ってきた夜だった。(2001.5.3)
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