大江氏に関する書籍

数十年にわたって日本文学の先頭を走ってきた大江健三郎氏。それだけに、氏について書かれた本も少なくありません。ここでは、評論はもちろん、批判的なものも除外することなく、大江氏に関連した書籍をご紹介します。

『歴史認識と小説 大江健三郎論』

小森陽一著、講談社

『取り替え子』、『万延元年のフットボール』、『同時代ゲーム』、『懐かしい年への手紙』の四作品を中心に、歴史認識の観点から読み解いていく力作です。

『作家はこのようにして生まれ、大きくなった 大江健三郎伝説』

黒古一夫著、河出書房新社

大江氏の少年時代から『憂い顔の童子』までの創作・評論を追いながら、大江文学のテーマの深化・発展、文学者・民主主義者としての思想の軌跡を解説した評論です。大江健三郎の作家活動の全体を見渡すことができます。

『河合隼雄 全対話 IV 無意識への旅』

第三文明社

臨床心理学者の河合氏の対談集シリーズ。IVは、大江健三郎、村上陽一郎、コリン・ウィルソン、多田智満子、湯浅泰雄、山折哲雄の各氏との対談からなる。

『セリーヌを読む』

有田英也 (編集)・富山太佳夫 (編集) 、国書刊行会

たまたまアマゾンで発見した本で、まだ買ってもいないのですが、一応情報として書いておきます。

セリーヌ作品に秘められた未知の扉が、「ジャズ」「アフリカ」「博覧会」「ロマン・ノワール」「大江健三郎」「イスラエル」などという新しい鍵によって、今、開かれる。

と紹介されているので、たぶん大江氏のことも少しは出てくるのでしょう。読まれた方は、教えて!

『作家の表象―現代作家116』

尾崎秀樹・奥野健男著、時事通信社

前田さんに紹介していただいた本です。現代作家116人について紹介する内容で、大江健三郎氏も取り上げられているとのこと。

『よくわかる大江健三郎』

文藝研究プロジェ編著、ジャパン・ミックス社、1300円。
参考書のような書名ですが、内容もそうなっています。大江健三郎を一夜漬けで把握しようというわけです。三つの章で構成されており、第1章は大江健三郎の作品の傾向分析、第2章は大江健三郎に関するQ&A、第3章は主要作品のあらすじ紹介です。作品によっては10ページ以上を費やして紹介しているので、これだけで実際の本を読んだような気になってしまいそうです。付録として詳しい年譜がついています。

『日本文学研究論文集成45 大江健三郎』

島村輝編、若草書房。
編者の島村さんからご紹介いただきました。ここ10年ばかりの間に出た、大江健三郎に関する批評・論文の中から15編ほどを選して、この間の批評・研究の論点を概観できるようにしたもの、とのことです。

『大江健三郎文学事典−全著作・年譜・文献完全ガイド』

篠原茂著、森田出版。ダ・ヴィンチ99年8月号で紹介されていました。

『大江健三郎とは誰か 鼎談:人・作品・イメージ』

鷲田小彌太、中澤千磨夫、桑原丈和著、三一書房。

飲み屋の雑談といった感じの話を本にしたといった感じのもの。けなしたり誉めたり。ノーベル賞を受賞したので急いで出したというのがあからさまに見て取れます。

『妊娠小説』

斎藤美奈子著、ちくま文庫、680円。

日本の近現代文学には「望まない妊娠」がキーとなる小説の一大ジャンルがあるとし、それを「妊娠小説」と名付け、そのジャンルの有名作品を解説した評論集。爆笑ものの傑作です。大江作品からは「死者の奢り」、「われらの時代」、「見るまえに跳べ」の三作品が取り上げられています。

『噂の真相』2001年2月号

雑誌ではありますが、「伊丹十三の衝撃自殺をテーマにした大江健三郎新刊本の”恥辱的な弁明”」という記事が掲載されていました。非常に間違いの多い内容なので、それを指摘しておこうと思います。

間違いを指摘する前に、この記事の内容について簡単に紹介しておきます。この記事では、『取り替え子』のことを「自殺してしまった「伊丹十三」という存在を通じてただ自分自身を正当化しようとしているだけなのだ」(「噂の真相」p.66)と結論付けています。その正当化の内容ですが、この記事によると「大江と伊丹の間にあったのは、どう考えてもいまになって大江が書いているようなお互いを認め合い、理解し合うような美しい関係ではなく、むしろそれは”憎悪”とも呼べるような極めてドロドロした関係だったのだ」(同p.65)そうですが、それを正当化するというのが一つ。もう一つは、『政治少年死す』を本として出版していないことを正当化しているということ。『取り替え子』はこの二つを正当化するために書かれた、というのがこの記事の主張のようです。

さて、間違いについて。

▼今回の『取り替え子』では大江と伊丹のお互いへの理解、関係の深さばかりがやけに強調されているが、実をいえば大江と生前の伊丹の関係は、大江が自分で書いているほど仲の良いものではなかったのだ。(同p.64)

本当に『取り替え子』を読んだ上で書いているのでしょうか。小説では、成人してからの二人(古義人と吾良)が疎遠になったことが描かれています。お互いの作品について批判し合う、そういう緊張感もある関係であったことも書かれています。それでも深い部分では理解し合っていたというのが、小説で描かれた二人の関係でしょう。「噂の真相」が書いているような強調のしかたではありません。

では実際の大江さんと伊丹さんは、どうだったのか。これは後述します。

▼「大江に長男の光君が生まれた時など、名前をどうするか相談してきた大江に対しこう答えたんです。『大江”戸祭(とさい)”はどうだ?』と。つまりこの名前、読み方を変えれば”オオエドマツリ”(笑)。完全に大江をからかっていたわけです」(同p.64)

これは記事では伊丹十三が言ったことになっていますが、実際は逆です。伊丹さんの名著『ヨーロッパ退屈日記』にはこう書かれています。「大江健三郎より書簡。来年の六月に子供が生まれる由。子供の名前に、戸祭などはどうだろう、という。苗字とあわせて大江戸祭になる、というのだ。ふざけた男である。」 つまり大江さん自身がギャグとして言ったわけです。伊丹さんのほうは「ふざけた男である」と書いていますが、そこからは若い二人の気の置けない関係が感じられます。

▼「この座談会出席者のひとりの東海林さだおが”伊丹さんはこの世に生きがたい人で、見ていて痛ましい”という文章を山口瞳が書いていた、と話を振ったんです。なにしろ山口瞳といえば伊丹と宮本信子の仲人を努めた人物だからね。ところが驚いたことに、大江は憮然としてこう答えたんだよ。『僕は山口瞳はきらいです』と」(文芸誌編集者)(同p.64)

伊丹に恩がある山口瞳のことを嫌いだと言うほど大江さんは伊丹十三を嫌っているといいたいわけでしょうが、これまた間違い。この座談会は小説現代1999年7月号のものですが、大江さんは「山口瞳が嫌いでした」と言ったあとに、こう続けています。「確かに、伊丹のことを非常に優しく書いていられる。でも、優しいふりをして意地悪な人がいるんです。親身なようなことばかり言うけれど、心の中に冷たいものを持っていて、それがある人間だけに照射されるような人が。それが山口瞳さんと伊丹十三の関係だったのじゃないか。」 つまり、大江さんは伊丹十三のことを思いやったうえで、山口瞳を嫌いだと言っているのですね。

▼つまり大江と伊丹の間にあったのは、どう考えてもいまになって大江が書いているようなお互いを認め合い、理解し合うような美しい関係ではなく、むしろそれは”憎悪”とも呼べるような極めてドロドロした関係だったのだ(同p.65)

これは最初に引用した文章ですが、「いまになって」という部分が間違い。小説の中の描きかたは一言でいえるような単純なものではありませんのでおいとくとして、大江さんが伊丹十三をどう見ていたか、『ゆるやかな絆』というエッセイ集に収められた大江さんの1995年(伊丹さんが存命のころ)の文章(「『静かな生活』をめぐる二通の手紙」)から引用しておきます。

「その伊丹さんは、やがてかれ自身でも映画を作るようになり、世界にひろがる大きい名声をえましたが――ニューヨークやパリの知識人と話していてジューゾー・イタミについて説明する必要はありませんし、ストックホルムで国王と王妃のお二人から『タンポポ』の感想を聞きもしました――、そのかれがいま、なんでもない人という思想に惹かれているようなのです。」

「それは伊丹さんが、かれ自身の人生において、きびしい批評性において自分をきたえてきた、ということでしょう。(中略)その上で、伊丹さんは私の書いたものに共感してくれた、ということだろうと思います。少年時代からの永い友人にそのような理解を示されるほどの、本当に深い喜びが多くあるとは思いません。」

伊丹十三に対する大江さんの敬愛の思いが感じられる文章ではないでしょうか。大江さんは伊丹十三の生前からそのように書いていた。「いまになって大江が書いているような」というのは間違いなのです。

* * *

さて、実際の二人の関係はどうだったのか。これは当事者でなければ正確なところはわからないと思いますが、エッセイにしても小説にしても、大江さんによる伊丹さんの描きかたには敬愛がこもっていると僕には感じられます。伊丹映画のことも高く評価しています。小説現代1999年7月号の座談会では「僕は彼が死んでからしばらく、家中の者が寝てから、彼の映画のビデオを全部、何度も何度も観たんです。シーンのつくり方はもう完璧です。」「僕が文章として書くならこうでなきゃいけないってふうにつくってある。」と評しています。(いま思えば、これは古義人が吾良のテープに聴きふけったという『取り替え子』のエピソードを彷彿とさせます。)

また伊丹さんのほうは、『静かな生活』を映画化したことだけとっても、大江文学を愛していたことは間違いないでしょう。映画を製作するということは大変な作業でしょうし、リスクも大きいものなはずです。義理の弟の作品だからというような義理人情だけで映画化などできるものではないと思います。原作を高く評価したからこそ映画化に踏み切ったのではないでしょうか。しかも、実際にできあがった作品からは、大江文学に対する愛情が感じられると僕は思うのです。そういったことから考えて、二人の間に互いの作品に対する敬意があったことは間違いないと僕は信じます。(2001.1.11)(2001.1.17加筆)

『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状』

谷沢永一著、クレスト社、1600円。
保守派による「戦後民主主義者」大江健三郎批判。外国のメディアに対しては天皇批判などを口にするのに国内ではあいまいな態度を取るのは卑怯だといったような内容の批判が、毒舌口調で書かれています。僕としてはファン心理が傷つけられるものではありませんでした。

『大江健三郎の人生 貧困なる精神X集』

本多勝一著、毎日新聞社、1000円。
きついタイトルのこの本は、批判にいたる経過の説明が具体的でもあり、批判するに足る内容を伴ってもおり、大江ファンとして僕は動揺を覚えました。にもかかわらず「それでもまだ大江健三郎の小説は魅力的である」という考えを僕はもっています。本多氏は、大江健三郎の人物に対する評価をもってして、大江作品を読む気がしない、読む必要がないと結論するわけですが、はたしてそうだろうかと思うわけです。

『悪魔の思想』-「進歩的文化人」という名の国賊12人-

谷沢永一著、クレスト社、1600円。
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状』の著者による、戦前戦後の進歩的文化人批判。やり玉に挙げられているのは、大内兵衛、鶴見俊輔、丸山真男、横田喜三郎、安江良介、久野収、加藤周一、竹内好、向坂逸郎、坂本義和、大江健三郎、大塚久雄の12人。大江健三郎が入っているので一応取り上げましたが、僕はこの本の立場とはまったく違う考えですので、そういった本をここで紹介することには若干の抵抗を感じます。この本のメインテーマは、日本の左翼や進歩的文化人は日本がソ連の属国になることを画策する国賊であるという主張です。批判の一部は当たっているかもしれませんが、彼らが「国賊」であるとはとうてい思えません。
大江健三郎に対しては「ユスリ、タカリの共犯者」という形容をしています。ここでいうユスリ、タカリは、日本に謝罪や補償を求める中国や韓国の国民のことのようです。日本と中国、日本と韓国の間では、賠償の問題は解決済みなので、いまさら謝罪や個人補償などを求めるのはユスリ、タカリだというわけです。で、大江健三郎は彼らに与する主張をしているから「ユスリ、タカリの共犯者」ということになるそうです。
しかしたとえば従軍慰安婦の問題を見てみると、国家間での賠償問題が決着された時点ではそれは表面に出ていなかったことです。従軍慰安婦であった人たちがそのことを語り始めるのに50年の歳月が必要だったわけですから。日本は1993年に公式に謝罪をしましたが、国としての補償は行っていません。謝罪したなら補償もするのが当然ではないでしょうか。被害者がそれを求めることはユスリ、タカリでしょうか?


このページは大江健三郎ファンクラブの一部です。