当サイトの一コーナーとして位置づけるには伊丹十三は大きすぎる存在ではありますが、大江さんとの関係を入口として伊丹ワールドに関心を深めていった当方の都合により、このようになったしだいであります。
2005年12月27日の夜、赤坂の草月ホールにて『ゴムデッポウ』の一回限りの上映会が催された。この映画は1962年、伊丹十三(当時は一三)が29歳のときに制作した初監督作品。翌年に都内のアートシアターギルド系の映画館で『砂の女』と併映されたという。今回の上映会は、新潮社の「考える人」編集部が主催。「伊丹十三の本」の制作をきっかけとしてこの映画のフィルムが伊丹邸で発見されたことで、この上映会が実現した。
上映会の模様は次のとおりであった。
まず、待ち時間の間、四国でだけ放映されていたという一六タルトのCMが数本上映された。伊丹十三が松山弁でしゃべるユーモラスなCM。噂には聞いていたものの、実物を見るのは初めてで、予想外のプレゼントであった。
壇上にはまず「考える人」編集部の松家編集長が登場し、『北京の55日』に出演した伊丹十三がその金で購入したアリフレックスというカメラでこの映画を撮影したことなど、当時の状況を説明。
次に、松家氏の紹介で宮本信子さんが登場。『伊丹十三の本』の撮影のために久しぶりに湯河原の家に行き、整理をしていたらフィルムが見つかったといういきさつを語ってくれた。伊丹十三はこのフィルムの存在は一言も口にしていなかったので、宮本さんはとても驚いたという。
続いて『ゴムデッポウ』の上映。モノクロで30分ほどの短編。内容は、要するに東京の若者の会話や遊んでいる様子を淡々と写し取った、という感じのもの。実際、出演している人たちのほとんどは当時の伊丹十三の遊び仲間とのこと。彼らのよくやる遊びが、木を削って作った鉄砲に輪ゴムをかけて的に当てるゲーム。これが映画のタイトルの元になっている。伊丹監督の、後年の完成度の高いエンタテインメント作品群とは比べられないが、これはこれで面白かった。そこに描かれている、何の役にも立たない遊びに熱中したり、くだらない会話を延々と続けたりという若者の姿は、リアルであったし、そのくだらない会話の中に散りばめられているドライなユーモアやちょっとスタイリッシュな感じは、昭和の高等遊民といった感じでそれなりに魅力的でもあった。伊丹十三は、当時のパンフレットの「作者のことば」として、「若者たちの日常生活の、散漫なたたずまいそのものを、映画の中へ移植してみたい」と述べ、「若者たちの、生活や意識を表現するのに適した時間構造をもつ映画」を作ることを課題としたと述べている。それは成功しているのではないか。
映画のあとは、松家氏が会場に来ていた市村明氏(映画に「イッチャン」名で出演していた方)を壇上に呼び、撮影時のことなどを聞いた。詳しい話は、『考える人』2006年冬号に掲載されている。会場で市村氏の隣にはなぜかユニクロの柳井氏の姿があった。
最後は(これが結構長かったが)、それぞれ伊丹十三の担当編集を経験している村松友視氏と新井信氏の対談。編集者が原稿用紙を覗き込んでいるような状態で、しかも編集者と会話しながら原稿を書き上げてしまう異才ぶりや、迫る締め切りに焦る編集者をそばでまたせたまま猫と遊び続けたりするマイペースぶりなど、身近で見ていた者ならではの伊丹十三の逸話が多数散りばめられていた。
最後の締めで松家氏が述べていたが、2007年に松山に伊丹十三記念館ができるとのこと。伊丹十三と「記念館」というのはちょっと合わない感じもしないではないが、そういうのができたならぜひ見てみたいところでもある。
伊丹十三DVDコレクションの発売を記念して、2004年12月18日〜26日、テアトル新宿にて「伊丹十三レトロスペクティブ」というイベントが開催 された。これは伊丹監督の作品を連続上映するというもの。
初日の18日は4作品をオールナイトで上映。それに先立って、伊丹十三の夫人で、10本の伊丹映画のほとんどで主役を演じた宮本信子さんと、伊丹映画の多くで撮影監督を務めた前田米造氏とのトークショーが行われた。和服姿で現れた宮本信子さんは冒頭の挨拶で「私は伊丹十三の作品が映画館で上映されることはもうないと思っていた」と語り、イベントを開催したテアトル新宿関係者とジェネオン(DVDを製作した会社)、集まった観客への感謝の気持ちを述べていた。トークショーでは、妥協せず、しかも不測の事態に対して臨機応変に対応する伊丹十三の監督ぶりや、屋外撮影でここぞというときに奇跡的に雲間から光のスジが差してきたという撮影秘話などが披露された。
以下の写真は、 会場のテアトル新宿のロビーに展示されていた、伊丹十三の遺品や映画の台本。
伊丹十三の帽子と半纏
伊丹映画の台本
伊丹十三によるものか、書き込みも多数ある
5月15日 京都に誕生。本名は池内岳彦(戸籍名は義弘)。父は「無法松の一生」の脚本や「赤西蠣太」の監督・脚本を担当した伊丹万作。妹ゆかりは、作家大江健三郎の妻。
大映ニューフェイスとして「嫌い嫌い嫌い」でデビュー。芸名は伊丹一三。同年、「男は騙される」「おとうと」「偽大学生」「銀座のどら猫」に出演。実験映画「ゴムデッポウ」を監督。この年、最初の結婚。
「黒い十人の女」(市川崑監督)に出演。大映を退社。
「洋酒天国」「婦人画報」などにエッセイを発表し始める。
中国の義和団事件(北清事変)を描いた米映画「北京の55日」(ニコラス・レイ監督)に日本公使館武官役として出演。チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナー、デイヴィッド・ニーヴンらと共演する。
「執炎」にて浅丘ルリ子と共演
「洋酒天国」などに書いたエッセイをまとめ「ヨーロッパ退屈日記」として刊行。テレビドラマ「あしたの家族」(NHK)、「源氏物語」(MBS)に出演。
英映画「ロード・ジム」に出演
「男の顔は履歴書」に出演
「日本春歌考」(大島渚監督)、「懲役十八年 仮出獄」(降旗康男監督)に出演
「昭和元禄 TOKYO196X年」、「人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊」、「金瓶梅」、「新宿の肌」、「あゝ予科練」、「命かれても」に出演。
「栄光への5000キロ」、「ごろつき部隊」、「かげろう」に出演。女優宮本信子と結婚。
「非行少年 若者の砦」に出演
「やさしいにっぽん人」、「甘い秘密」に出演。この年から1997年まで、テレビ番組「遠くへ行きたい」にレポーターとして出演。
「わが道」、「妹」、「修羅雪姫 怨み恋歌」に出演
「吾輩は猫である」(市川崑監督)に出演
この年から1980年まで、西友のテレビコマーシャルに出演。
松山名産品一六タルトのテレビコマーシャルに出演。
「もう頬づえはつかない」(東陽一監督)に出演
「夕暮まで」(黒木和雄監督)に出演
「悪霊島」(篠田正浩監督)、「仕掛人梅安」(降旗康男監督)、「スローなブギにしてくれ」(藤田敏八監督)に出演。伊丹十三責任編集と銘打つ雑誌「モノンクル」を創刊するも、6号で終刊。
「キッドナップブルース」(浅井慎平監督)に出演。この年から1989年まで、味の素マヨネーズのテレビコマーシャルに出演。
「草迷宮」(寺山修司監督)、「細雪」(市川崑監督)、「居酒屋兆治」(降旗康男監督)、「家族ゲーム」(森田芳光監督)、「迷走地図」(野村芳太郎監督)に出演。キネマ旬報助演男優賞受賞。
「化粧」(池広一夫監督)「瀬戸内少年野球団」(篠田正浩監督)に出演。自ら製作・脚本も兼ねた「お葬式」で監督デビューし、数々の映画賞を受賞する。
映画「タンポポ」公開。「ドレミファ娘の血は騒ぐ」に出演。
映画「マルサの女」公開。
映画「マルサの女2」公開。
映画「スウィート・ホーム」をプロデュース。
映画「あげまん」公開。
「C(コンビニエンス)・ジャック」(当摩寿史監督)に出演。映画「ミンボーの女」公開。暴力団員に襲われ、全治三ヶ月の重傷を負うも「この程度のことではくじけない」と宣言。
映画「大病人」公開。上映館のスクリーンが右翼によって切り裂かれる事件も発生。
映画「静かな生活」公開。
映画「スーパーの女」公開。
映画「マルタイの女」公開。12月20日 他界(64歳)
12月18日〜26日、テアトル新宿にて「伊丹十三レトロスペクティブ」開催。12月20日、伊丹十三DVDコレクション「がんばるみんなBOX」発売。
2月25日、伊丹十三DVDコレクション「たたかうオンナBOX」発売。
1984年、124分。事実上の監督デビュー作。義父の葬儀という実体験をヒントに、現代の“お葬式”をユーモラスにヒューマンに描いた作品。大滝秀治の演技が最高に面白い。また、浅井慎平が撮影した、劇中人物による記録映像のシーンがすばらしい。キネマ旬報ベストテン第1位、日本アカデミー賞(作品賞、主演男優賞、助演女優賞、監督賞・脚本賞)、ブルーリボン賞(主演男優賞、監督賞)を受賞。
1985年、114分。女で一つで切り盛りする売れないラーメン屋を、トラック運転者の流れ者ゴローが仲間たちの協力のもと、最高のラーメンを出す売れるラーメン屋へと再生させる物語。そのメインのストーリーと微妙に交差しながら、さまざまなグルメエピソードが織り込まれている。いまはトップスターとなった渡辺謙、役所広司などの名優の若き日の演技も見もの。
1987年、127分。女シリーズの第一作目。キネマ旬報ベストテン第1位、日本アカデミー賞(主演男優賞、主演女優賞、助演男優賞、監督賞、脚本賞)、ブルーリボン賞(作品賞)受賞。
1988年、127分
1990年、118分
1992年、123分
1993年、116分
1995年、121分
1996年、127分
1997年、131分
ヨーロッパ退屈日記
女たちよ!
再び女たちよ!
女たちよ!男とたちよ!子供たちよ!
小説より奇なり
自分たちよ!
日本世間噺体系
フランス料理を私と
問いつめられたパパとママの本
『お葬式』日記
『マルサの女』日記
哺育器の中の大人―精神分析講義(岸田秀との共著)
倒錯―幼女連続殺人事件と妄想の時代(福島 章、岸田 秀との共著)
パパ・ユーアクレイジー(ウィリアム・サローヤン著)
主夫と生活(マイク・マグレディ著)
中年を悟るとき(ジャンヌ・ハンソン著)
ポテトブック(マーナ・デイヴィス著)
以下は、ある方の仲介によりイタリアのウェブマガジンに翻訳して掲載してもらうために書いた文章です。イタリアの文学ファン向けに大江健三郎と伊丹十三の関係を紹介しています。
ところが、残念なことにそのウェブマガジンが廃刊になってしまい、この文章は掲載されるに至りませんでした。
山村で生まれ育った大江健三郎*1は、松山東高校という、16歳のときに転入した地方都市の伝統校で背の高い美貌の若者と知り合う。それが伊丹十三*2である。後に俳優ともなる伊丹は、高校時代からすでに際立つ印象を与える若者だったらしい。大江は当時の伊丹についてこう書いている。 「お母さんが特注されたネービー・ブルーのラシャの半外套を着たかれは――もとより高校でそれが許可されていたはずはありません――なんとも美しい少年でした。かれは翻訳されたばかりのカフカの『審判』について確実な意見を持っており、ランボーの詩集をガリマール版で読み、そしてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を深く楽しんでいる、という若者でした。さらには体育の教師に目の敵にされても、決してくじけない男でもあるのでした。」*3
このような若者として伊丹は大江の前に現れ、生涯にわたる二人の友情が始まった。そして25歳で大江が伊丹の妹ゆかりと結婚することで、大江と伊丹の関係はさらに切り離せないものとなる。後に大江は伊丹のことを「自分の運命だと考えるほかない重要な人間」と語っている。*4
*1 1935年1月31日生まれ。現代日本文学の代表的作家の一人。1993年に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』によりイタリアのモンデッロ賞、『万延元年のフットボール』などの作品により1994年にノーベル文学賞を受賞。
*2 1933年5月15日生まれ。本名池内岳彦(戸籍名は池内義弘)。商業デザイナー、俳優、テレビリポーター、雑誌編集者、エッセイスト、などを経て、映画監督に。『たんぽぽ』(Tampopo)や『マルサの女』(A Taxing Woman )などを監督。父は映画監督・脚本家の伊丹万作。1997年12月20日没。
*3 『ゆるやかな絆』(講談社)より
*4 『大江健三郎・再発見』(集英社)より
伊丹は大江より2つ年長だった。京都という都会のインテリの家庭に育ったことに加え、勉強好きの性格もあって、伊丹は大江にない知識を多く持ち合わせていたのだろう。高校時代に、大江がその著書に感銘した渡辺一夫*5が東京大学の教授であることを教えたのは伊丹だった。それを知って大江は東京大学への進学を決心した。その大学時代の大江の短編『奇妙な仕事』*6は、当時商業デザインの仕事をしていた伊丹を喜ばせる目的だけで書いた戯曲が元になっているという。そして大学新聞に掲載された『奇妙な仕事』が文芸評論家の目に留まり、それが大江健三郎の作家としてのデビューにつながったことを考えると、伊丹十三こそノーベル賞作家大江健三郎の生みの親といっていいかもしれない。こういった二人の関係を振り返り、大江は伊丹のことを「長年、僕のテューター役だった」*7と語っている。
伊丹が大江に教えたのは文学にかかわることばかりではなかった。大江は伊丹から「女性を抱きしめるときは尾てい骨から上に一、二、三番目の関節を押さえれば、それが最も理想的な抱きしめ方だ」と教わったとも語っている。あるとき大江は、それを伊丹の妹で大江の妻であるゆかり夫人に試そうと考え、抱きしめる際に尾てい骨を探り、心の中で「一、二」と数えて三番目の関節を押さえようとしたところ、その瞬間、妻が「三!」と言ったそうだ。伊丹十三は妹に対してもテューター役だったのかもしれない。
*5 1901年-1975年。フランソワ・ラブレーの研究で知られる。東京大学、立教大学などの教授を歴任。大江健三郎はノーベル賞受賞記念講演で「私は、人生と文学において、渡辺一夫の弟子です」と述べている。
*6 1957年、東京大学在学中の作品。病院の実験用に飼育されていた犬を撲殺するアルバイトに雇われた大学生を描いた短編。東京大学新聞に掲載され、五月祭賞を受賞。
*7 『大江健三郎・再発見』(集英社)より
大江作品には、いろいろと形を変えながらではあるが、伊丹を思わせる人物が何度も登場している。たとえば『不満足』*8に登場する不良仲間の勇敢なリーダーである鳥(バード)については、伊丹十三が影を落としていると大江自身が語っている*9。独特のモラルの感覚を持つ若者として『日常生活の冒険』*10で描かれる斎木犀吉は、若くして映画スターを経験することや資産家の娘と結婚することなど、いくつかの点で伊丹を連想させる。自伝的要素の強い作品といわれる『懐かしい年への手紙』*11に登場する秋山は、設定上、伊丹であることが明らかである。山村の出身の生真面目で垢抜けない「僕」に対して、ハンサムで快活、演劇に熱中して学校生活からドロップアウトした不良といった秋山の描かれ方は、高校当時の二人の関係 がどういうものだったかを連想させる。
*8 1962年の作品。定時制高校を退学になった3人の少年が、精神病院から逃げ出した患者を探して夜の街をさまようという物語。
*9 雑誌『小説現代』1999年7月号「やぶさか対談」より
*10 1964年の長編。日常生活を冒険的に生きることをモットーとする斎木と「僕」の「冒険」を描く。
*11 1987年の長編。『万延元年のフットボール』の続編にあたる。大江がこの文庫版のあとがきで「自分にとって特別な小説」と書いている。
伊丹十三のほうは商業デザイナーなどを経て、1960年に俳優として映画会社に入社する。その年、大江健三郎原作、増村保造監督の『偽大学生』に出演し た伊丹は、学生運動の冷酷なリーダーを好演した。
その後、伊丹は『北京の55日』や『ロード・ジム』といった海外の大作への出演も果たすが、エッセイスト、テレビリポーター、雑誌編集者などとしても才能を発揮する。1965年に発表したエッセイ集『ヨーロッパ退屈日記』は、日本人による海外旅行が珍しかった時代にヨーロッパの風物や文化を独特の観察眼で取り上げ、好評を博した。この本では、大江からの手紙のことなども紹介されている。
伊丹は1984年に自ら脚本を書いた映画『お葬式』*12(The Funeral)で監督としてデビューする。この映画は高い評価を得、日本アカデミー賞(作品賞、監督賞ほか)やブルーリボン賞(監督賞ほか)など国内の映画賞をいくつも受賞 する。こうして伊丹は映画監督しての人生を歩み始めたのだった。
*12 この映画は、義父の葬儀を取り仕切った伊丹の経験に基づいて作られている。現代日本の葬式の様子が、ユーモラスに、エロティックに、そしてある部分は詩的に描かれている。
近い関係にいながらも、伊丹と大江の活動する分野は異なっていた。その二人の軌跡が交わったのは、1995年に伊丹が大江の『静かな生活』*13を映画化したことによってである。これは大江の家庭をモデルとした物語で、作家 をしている父が母とともに海外に長期間滞在する間に三人の子供たちが経験する出来事を描いている。伊丹はこの映画のBGMとして、大江の長男であり、映画の主人公のモデルとなっている光(ひかり)*14の曲を使った。使用された光の曲はすべて光が映画とは関係なく作っていた既成のものなのだが、映画の展開に合わせて作られた曲のように見事にはまったことが不思議だったと伊丹は語っている。
この映画は一般受けする娯楽作品ではなかったためか、興行的には成功しなかった。しかし大江ワールドを美しく映像化しているという点で大江ファンにとって大きな贈り物となったし、伊丹のヒューマニスティックな資質が前面に出ている作品として伊丹ファンにとっても忘れがたいものとなった。
映画化された大江作品としては、ここで紹介した『偽大学生』と『静かな生活』のほかに、『われらの時代』*15(1959年、蔵原惟繕監督)と『飼育』*16(1961年、大島渚監督)がある。私は『われらの時代』は観ていないが、 他の3作の中では『静かな生活』が最も上質で、大江文学の香りを感じさせる映画といえるだろう。
*13 1990年の作品。6つの短編からなり、いずれも作家Kの娘である「マーちゃん」の視点で描かれている。
*14 1963年生まれ。脳に障害を持って生まれ、4、5歳まで言葉を話さなかったが、野鳥の声を録音したレコードに強い興味を示し、鳥の声を聴き分けるようになる。やがてクラシックを愛するようになり、自らも作曲を始め、1992年CD『大江 光の音楽』を発表し、日本ゴールド・ディスク大賞を受賞する。1994年『大江光 ふたたび』、1998年『新しい大江光』を発表。
*15 1957年の作品。売春婦と暮らす仏文科の学生や、トラックを買って放浪の旅に出ることを夢見るジャズ・トリオの若者たちの激烈な挫折を描いた長編。
*16 1958年の作品。第二次世界大戦中の日本の山村に捉えられた米国の黒人兵をめぐる村人やその子供たちの人間模様を描いた短編。
伊丹十三は1997年12月20日にビルから飛び降り、自らの命を絶った。こうして高校時代に始まった大江と伊丹の関係は、約半世紀の後に唐突に終わった。写真週刊誌に載った若い女性とのスキャンダル記事に対して、「死をもって潔白を証明する」と遺書には書かれていたという。1992年に暴漢の襲撃*17を受けたときですら「私はくじけない。映画で自由を貫く」と毅然とした態度を示した伊丹が、なぜ女性スキャンダルで死を選んだのだろうか。その本当のところは、残された人間には知りようがない。 自殺はいつも、残された者に「なぜ?」という思いを長く引きずらせる。
大江はしばらくの間、この出来事についての文章を発表しなかった。二人の結びつきを考えれば、大江の受けた衝撃の大きさは想像するに余りある。それは容易に文章化できるものではなかったに違いない。
その3年後、大江は『取り替え子』*18という小説を発表した。取り替え子(Changeling)とは、妖精が赤ん坊を奪って醜い子を残すというヨーロッパの伝承のことだ。この小説で大江ははじめて伊丹十三の死を描いた。
物語は主人公・古義人の友人吾良が自殺するところから始まる。古義人の高校時代からの友人で、義兄でもあり、映画監督という設定の吾良はまぎれもなく伊丹十三だ。吾良は死に先立って、独白を録音した大量のカセットテープを 古義人へと送っていた。このテープと古義人の「対話」を中心として、吾良と古義人の高校時代から現在にいたるさまざまな情景が回想される。古義人(=大江)と、すでに存在しない吾良(=伊丹)との対話である。その回想の過程で、二人が高校時代に経験したある決定的な出来事の存在が明らかになっていく…。
終章で視点は古義人から妻の千樫へと切り替わる。千樫は、絵本作家モーリス・センダックの取り替え子をテーマとした絵本「まどのそとのそのまたむこう」(Outside Over There)に偶然触れ、取り替え子とのアナロジーによって、吾良の死、そして古義人や自分の役割をより深く理解できたと感じる。小説の最終局面で千樫は、生前吾良が交際した若い女性と出会う。その女性が吾良に似た男性との交際で宿した新しい生命の誕生へと千樫が希望を託すなかで物語は終わる。
これは大江にとってどうしても書かねばならない小説だったはずだ。「自分の運命だと考えるほかない重要な人間」である伊丹十三と自分の人生全体を理解するため、そして伊丹の死を受容するために、大江は書かねばならなかった。これは フィクションであり、事実そのものとして書かれているわけではないのだが、根本においては、大江健三郎による伊丹十三への極めて個人的な追悼文でもあるように私には思える。
いとうくにお
2002.7.31
*17 ヤクザと戦う女性弁護士を描いた映画『ミンボーの女』公開直後、伊丹は自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔などに重傷を負ったが、事件後の会見で「私はくじけない。映画で自由を貫く」と述べた。
*18 2000年の作品。大江は「私の一生の作品の中で、最も大切な三作のひとつ」と述べている。
死亡記事が掲載されています。
メディアの取材や報道のあり方についての浅野健一氏の考察。
宮本信子さんの公式サイト。