年譜

講談社文庫『新しい人よ眼ざめよ』『万延元年のフットボール』の付録を参考にしました。(2003.12.3更新)

1935年(昭和10年)

1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村に大江家の三男として生まれる。父は大江好太郎、母は小石。兄二人、姉二人、弟一人、妹一人。大瀬村は隣接する内子町に合併され、内子町大瀬となっている。子供時代、祖母から明治時代の一揆の話を繰り返し聞く。

1944年(昭和19年)9歳

父、好太郎死去。

1947年(昭和22年)12歳

大瀬中学に入学。中学二年のとき、子供農業協同組合の組合長に選出される。

1950年(昭和25年)15歳

愛媛県立内子高校に入学。

1951年(昭和26年)16歳

二年への進級時、愛媛県立松山東高校へ転校。文芸部で雑誌「掌上」を編集。伊丹十三と知り合う。

1953年(昭和28年)18歳

松山東高校を卒業。東京大学を受験するが、試験を途中で放棄し帰郷。神奈川県の藤沢に下宿し、浪人生活を送る。

1954年(昭和29年)19歳

東京大学文科二類に入学。東大学生演劇の脚本「天(そら)の嘆き」執筆。

1955年(昭和30年)20歳

「火山」を<学園>九月号に発表。脚本「夏の休暇」執筆。

1956年(昭和31年)21歳

フランス文学科に進み、渡辺一夫博士に師事する。脚本「死人に口なし」、「獣たちの声」執筆。

1957年(昭和32年)22歳

東京大学新聞に掲載された「奇妙な仕事」(「獣たちの声」を小説化したもの)が毎日新聞の文芸時評で評価され、学生作家としてデビュー。「死者の奢り」、「他人の足」、「石膏のマスク」、「偽証の時」、戯曲「動物倉庫」を発表。

1958年(昭和33年)23歳

「飼育」、「人間の羊」、「運搬」を発表。『死者の奢り』刊行。
「芽むしり仔撃ち」、「見るまえに跳べ」を発表。『芽むしり仔撃ち』刊行
「暗い川おもい櫂」、「不意の唖」、「戦いの今日」発表。
「飼育」により芥川賞受賞。
短編集『見るまえに跳べ』刊行

1959年(昭和34年)24歳

東京大学を卒業。卒論は「サルトルの小説におけるイメージについて」
「夜よゆるやかに歩め」連載。書き下ろし長編『われらの時代』を刊行。「青春の汚名」連載。『夜よゆるやかに歩め』刊行。「上機嫌」発表。

1960年(昭和35年)25歳

「勇敢な兵士の弟」、「報復する青年」発表
伊丹万作の長女ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。
「後退青年研究所」発表。安保批判の会、若い日本の会に参加。
短編集『孤独な青年の休暇』、長編『青年の汚名』、『大江健三郎集』刊行。論文「現実の停滞と文学」連載、「遅れてきた青年」連載、「下降生活者」発表。中国訪問。

1961年(昭和36年)26歳

前年の浅沼社会党委員長刺殺事件を題材に文学界1月号に「セヴンティーン」、2月号に「政治少年死す」発表。右翼団体からの脅迫を受ける。「強権に確執をかもす志」、「私小説について」発表。東欧、西欧、ソビエト旅行。

1962年(昭和37年)27歳

長編『遅れてきた青年』刊行、「わが旅・文学的側面」、「サルトルの肖像」、「私がソヴィエトの青年なら」、「不満足」、「性的犯罪者への関心」、「ヴィリリテ」発表。紀行および対談集『世界の若者たち』刊行。「善き人間」、「叫び声」発表。紀行集『ヨーロッパの声・僕自身の声』刊行。毎日グラフ誌上にて連続対談。

1963年(昭和38年)28歳

長編『叫び声』刊行。「スパルタ教育」、「戦後文学をどう受けとめたか」発表。「日常生活の冒険」連載。「大人向き」、「性的人間」、「敬老週間」発表。中篇集 『性的人間』刊行。「困難の感覚について−わが創作体験」発表。6月13日長男光誕生。

1964年(昭和39年)29歳

「空の怪物アグイー」、「アトミック・エイジの守護神」、「ブラジル風のポルトガル語」発表。長編『日常生活の冒険』刊行。「犬の生活」、「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?−サルトルをめぐる文学論争」発表。書き下ろし長編『個人的な体験』刊行。「ヒロシマ・ノート」連載。 『個人的な体験』により新潮社文学賞受賞。

1965年(昭和40年)30歳

「不幸なら手を拍こう−<期待される人間像>批判」発表。エッセイ集『厳粛な綱渡り』刊行。「沖縄の戦後世代」発表。『ヒロシマ・ノート』刊行。夏から初冬まで米国旅行。

1966年(昭和41年)31歳

「自己検閲の誘惑」、「狂気と自己救済」を発表。『大江健三郎全集』全6巻刊行。「アメリカ旅行者の夢」連載。「記憶と想像力」発表。

1967年(昭和42年)32歳

万延元年のフットボール」連載、刊行。これにより谷崎潤一郎賞受賞。「走れ、走りつづけよ」、「同時性のフットボール」発表。「すべての日本人にとっての沖縄」、「沖縄の嘆きと憤りを共有するために」発表。

1968年(昭和43年)33歳

「生ける贄男は必要か」、「核基地に生きる日本人」発表。「狩猟で暮らしたわれたの祖先」連載。オーストラリア旅行。「政治的想像力と殺人者の想像力−われわれにとって金嬉老とはなにか?」、「参院選は民意を反映したか−投票が権利放棄を意味するとき」発表。英訳『個人的な体験』刊行、出版元と訳者の招きで米国旅行。「原爆後の日本人の自己確認」、「核時代の森の隠遁者」、「父よ、あなたはどこへゆくのか?」発表。全エッセイ集『持続する志』刊行。「広津和朗氏追悼−知識人の死」発表。

1969年(昭和44年)34歳

「核基地の直接民主主義」、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」、「死者の怒りを共有することによって悼む」発表。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』刊行。「活字のむこうの暗闇」連載。「沖縄ノート」連載。「作家にとって社会とはなにか」発表。

1970年(昭和45年)35歳

「地獄めぐり、再び」発表。評論『壊れものとしての人間−活字のむこうの暗闇』刊行。講演集『核時代の想像力』刊行。「文学者の沖縄責任」発表。『沖縄ノート』刊行。「作家が小説を書こうとする……」発表。

1971年(昭和46年)36歳

「再び持続する志」、「言葉と文体、眼と観察」、「復帰拒否者を想像せよ」、「想像力の枷」発表。広島原爆病院長重藤博士との対話『原爆後の人間』刊行。大田昌秀琉球大学教授(後に沖縄知事)との共同編集で季刊<沖縄経験>創刊し、「沖縄日記」連載。「表現の物質化と表現された人間の自立」、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」、「敗戦経験と状況71」、「死滅する鯨の代理人」発表。 『伊丹万作エッセイ集』を編集。

1972年(昭和47年)37歳

「再び日本が沖縄に属する」発表。作家論「同時代としての戦後」連載。全エッセイ集『鯨の死滅する日』刊行。「作家が異議申し立てを受ける」、「自殺について」発表。埴谷雄高との対談「革命と死と文学」。「核時代の『悪霊』」発表。中篇二部作『みずから我が涙をぬぐいたまう日』刊行。「受身はよくない−いわゆる『戦後の終り』にむけて」発表。

1973年(昭和48年)38歳

「書かれる言葉の創世記」、「死者たち・最後のヴィジョンとわれら生き延びつづける者」、「状況へ」発表。作家論集『同時代としての戦後』刊行。「言葉によって」、「消すことによって書く」発表。「書いたあとの想像力」連載。書き下ろし長編『洪水はわが魂に及び』刊行(これにより野間文芸賞受賞)。<沖縄経験>五号で終刊。

1974年(昭和49年)39歳

「ソルジェニーツィンを考える−追放について」、「『洪水はわが魂に及び』ノートより」、「この一年、そして明日」発表。評論集『状況へ』、『文学ノート 付=15篇』刊行。

1975年(昭和50年)40歳

「未来の文学者」、「『収容所群島』の文学的構造』発表。韓国の詩人金芝河(キムジハ)の釈放を訴えて、小田実、井出孫六らと数寄屋橋公園で48時間坐り込み。「表現された子供」、「にせの言葉を拒否する」、「全体を見る眼」、「なぜ人間は文学をつくり出すか」発表。

1976年(昭和51年)41歳

「風刺、哄笑の想像力」、「創造の原理としての想像力」、「道化と再生への想像力」発表。メキシコへ客員教授として3月から7月まで滞在。評論集『言葉によって 状況・文学*』刊行。「ピンチランナー調書」連載。長編『ピンチランナー調書』刊行。「眼量を放げられよ−毛沢東の死によせて」発表。下半期から芥川賞選考委員に。

1977年(昭和52年)42歳

「現代文学研究者になにを望むか」、「文学・その方法の総体」、「知的な協同作業と文学」、「イメージの分節化の方法−『ヴェニスに死す』による」発表。『大江健三郎全作品』第二期・全6巻刊行。

1978年(昭和53年)43歳

「小林秀雄『本居宣長』を読む」発表。翌年末までの二年間、朝日新聞の文芸時評担当。評論『小説の方法』、評論集『表現する者 状況・文学**』刊行。「文学は戦後的批判を越えているか」発表。

1979年(昭和54年)44歳

「想像する柳田国男」、「独裁者という鏡」、「青年へ−中年ロビンソンの手紙」、「海外文学への同時性」、「青年と海外モデル−熊をからかうフライデー」発表。書き下ろし『同時代ゲーム』刊行。「人生の師匠たち」発表。

1980年(昭和55年)45歳

「頭のいい『雨の木』」、「子規はわれらの同時代人」発表。「身がわり山羊の反撃」連載、「『芽むしり仔撃ち』裁判」連載。「同時代論の試み」発表。評論集『方法を読む=大江健三郎文芸時評』、中短編集『現代伝奇集』刊行。「反論理の水先案内人」発表。『大江健三郎同時代論集』全十巻刊行。

1981年(昭和56年)46歳

「核時代の日本人とアイデンティティー」、「宇宙のへりの鷲」、「白鳥の宇宙モデル」、「媒介する小説」、「青年へのドストエフスキー」、「核シェルターの障害児」、「作家としてフォークナーを読む」、「子規・文学と生涯を読む」、「『雨の木』を聴く女たち」、「核状況のカナリア理論」発表。

1982年(昭和57年)47歳

「『雨の木』の首吊り男」、「さかさまに立つ『雨の木』」、「泳ぐ男−水のなかの『雨の木』」発表。講演集『核の大火と「人間」の声』刊行。「無垢の歌・経験の歌」発表。連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』刊行。「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」、「反核を明日につなぐ」、「核の戦後史」発表。

1983年(昭和58年)48歳

「蚤の幽霊」、「落ちる、落ちる、叫びながら……」、「想像力新論」、「魂が星のように降って、足骨のところへ」(足の字は、実際は足偏に「付」)、「鎖につながれたる魂をして」、小林秀雄追悼「『運動』のカテゴリー」発表。「小説のたくらみ、知の楽しみ」連載。連続講演「渡辺一夫の著作を読む」。「新しい人よ眼ざめよ」発表。連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』刊行。「河馬に噛まれる」発表。秋、カリフォルニア大学バークレー校に研究員として滞在。

1984年(昭和59年)49歳

「揚げソーセージの食べ方」、「グルート島のレントゲン画法」、堀田善衛との往復書簡を朝日新聞に発表。「見せるだけの拷問」発表。「再び、状況へ」連載。講演集『日本現代のユマニスト 渡辺一夫を読む』刊行。「メヒコの大抜け穴」、「もうひとりの和泉式部が生まれた日」、「大いなる『妹の力』」、「河馬に噛まれるPart2」(のちに「『河馬の勇士』と愛らしいラベオ」と改題)、「その山羊を野に」、「明日に展く林達夫」、「『罪のゆるし』のあお草」、「いかに木を殺すか」、「『浅間山荘』トリックスター」発表。短編集『いかに木を殺すか』刊行。上半期で芥川賞選考委員を辞任。

1985年(昭和60年)50歳

「旅行器としての樹木」発表。『生き方の定義−再び状況へ』刊行。「河馬の昇天」発表。『小説のたくらみ、知の楽しみ』刊行。「四万年前のタチアオイ」、「確信されたエロス」、「死に先だつ苦痛について」、「サンタクルスの『広島週間』、「生の連鎖に働く河馬」発表。『河馬に噛まれる』刊行。大佛賞受賞。

1986年(昭和61年)51歳

「カーブ湖居留地の『甘い草』」、戦後文学から今日の窮境まで」、「戦後文学から新しい文化の理論を通過して」発表。長編『M/Tと森のフシギの物語』刊行。戯曲草稿「革命女性」連載。

1987年(昭和62年)52歳

評論「ポスト戦後世代と正義」、評論「『明暗』の構造」、「渡辺一夫の今日性」発表。書き下ろし長編『懐かしい年への手紙』刊行。

1988年(昭和63年)53歳

評論「「最後の小説」」発表。書き下ろし評論『新しい文学のために』刊行。評論集『「最後の小説」』刊行。「夢の師匠」発表。長編『キルプの軍団』刊行。新潮カセット・講演『時代と小説、信仰を持たない者の祈り』刊行。新潮5月号にて江藤淳、開高健、石原慎太郎の四人で座談会。

1989年(昭和64年/平成1年)54歳

「人生の親戚」、「マッチョの日系人」発表。長編『人生の親戚』刊行。「再開、あるいはラスト・ピース」連載。「アフリカへ、こちらの周縁から」発表。EC文学賞受賞。ベルギーでユーロパリア文学賞受賞。

1990年(平成2年)55歳

「再開、あるいはラスト・ピース」の戯曲化「治療塔」発表。「案内人」、「静かな生活」、「この惑星の棄て子」発表。長編『治療塔』刊行。「自動人形の悪夢」、「小説の悲しみ、「家としての日記」発表。長編インタビュー「最初の小説、新しい小説家のために」、「最初の困難、新しい小説家のために」、「最初のモデル、新しい小説家のために」。連作小説集『静かな生活』刊行。『自立と共生を語る−障害者・高齢者と家族・社会』三輪書店より刊行(大江健三郎、正村公宏、川島みどり、上田敏共著)。朝日新聞紙上で5月には浅田彰と、12月には安倍公房と対談。芥川賞選考委員に復帰。河合隼雄との対談を収録した『河合隼雄全対話 IV 無意識への旅』が3月に刊行される。 『人生の親戚』にて第1回伊藤整文学賞受賞。

1991年(平成3年)56歳

「古典の経験」発表。ギュンター・グラスとの対談「ドイツと日本の同時代−多様性・経験・文学」発表。「井筒宇宙の周縁で−『超越のことば』井筒俊彦を読む」発表。『治療塔惑星』刊行。政府の湾岸戦争貢献策批判の声明。

1992年(平成4年)57歳

僕が本当に若かった頃』、『人生の習慣』刊行。

1993年(平成5年)58歳

長編「燃えあがる緑の木」発表。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』によりイタリアのモンデッロ賞受賞。『「救い主」が殴られるまで―燃えあがる緑の木 第一部』刊行。エッセイ集『新年の挨拶』刊行。

1994年(平成6年)59歳

揺れ動く<ヴァシレーション>―燃えあがる緑の木 第二部』、『小説の経験』刊行。長男光の作曲家としての成功を期に小説執筆の終止を宣言。ノーベル文学賞受賞。文化勲章と愛媛県の賞を辞退。

1995年(平成7年)60歳

大いなる日に―燃えあがる緑の木 第三部』、『恢復する家族』刊行。朝日新聞紙上にてギュンター・グラスとの往復書簡「戦後への問い」発表。伊丹十三監督が『静かな生活』を映画化。ノーベル賞記念講演『あいまいな日本の私』刊行。フランスの核実験への批判「大地は煙り鳥たちの歌はない」発表。フランスで開催予定の日仏文学シンポ出席辞退(結局このシンポは中止となった)。

1996年(平成8年)61歳

2月、作曲家武満徹の告別式で作家復帰を宣言。4月、講談社よりエッセイ集『ゆるやかな絆』刊行。8月、渡米。米プリンストン大学の客員講師に。朝日新聞に『エルムの木陰より』と題したエッセイを不定期連載。岩波新書『日本の「私」からの手紙』刊行。河合隼雄 、谷川俊太郎とともに岩波書店から『日本語と日本人の心』刊行。

1997年(平成9年)62歳

5月、帰国。帰国前に米国芸術アカデミーの外国人名誉会員に。滞米中、新作「宙返り」の執筆を開始。

1998年(平成10年)63歳

4月、新潮社より『私という小説家の作り方』刊行。

1999年(平成11年)64歳

6月、『宙返り』上下巻、講談社より刊行。各地でサイン会実施。ニュース23、はなまるマーケットなどテレビ番組にも多数出演。11月からベルリン自由大学で客員教授として「日本作家の現実」というテーマで講義。

2000年(平成12年)65歳

2月(3月か?)に帰国。中国の作家で米国に亡命中の鄭義(チョン・イー)氏との往復書簡を朝日新聞に掲載。5月、朝日新聞夕刊紙上にてエッセイ「沖縄の『魂』から」全八回を連載。5月、有楽町朝日ホールにて朝日賞記念講演「『知』をめぐる私の意見」。『論座』7月号誌上にて沖縄の作家目取真俊氏と対談。6月8日、米ハーバード大から名誉文学博士号を授与される。6月18日、津田ホールにて東京アスレチッククラブ創立30周年記念講演(前日に次作の第一稿書き上げる)。7月16日日本スイミングクラブ協会によるベストスイマー賞受賞。10月、ノーベル経済学賞受賞者アマーティア・セン教授との往復書簡。10月から週刊朝日にて『「自分の木」の下で』連載。11月11日同志社大学125周年記念シンポに参加。11月25日渋谷幕張中学にて開催された『ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀の創造」教育フォーラム「君たちに伝えたい言葉」―ノーベル賞受賞者と中学生の対話」』に参加。12月5日講談社から『取り替え子(チェンジリング)』刊行。

2001年(平成13年)66歳

2月22日東京オペラシティで開催された武満徹没後5周年のイベント「夢窓」にて講演。3月16日、「新しい歴史教科書をつくる会」の検定不合格を求める声明を三木睦子氏らと発表。3月、読売新聞社から『君たちに伝えたい言葉 ノーベル賞受賞者と中学生の対話 読売ぶっくれっと25』刊行。『世界』6月号に歴史教科書問題についての評論「ここから新しい人は育たない」発表。6月、朝日新聞夕刊紙上にN・チョムスキー氏との往復書簡掲載。6月、朝日新聞社から『「自分の木」の下で』刊行。7月、すばるの特集をベースとした『大江健三郎・再発見』(集英社)刊行。9月、小沢征爾氏との対談集『同じ年に生まれて』(中央公論新社)刊行。11月評論集『鎖国してはならない』、 エッセイ集『言い難き嘆きもて』(ともに講談社)刊行。

2002年(平成14年)67歳

2月、朝日新聞夕刊紙上にE・W・サイード氏との往復書簡掲載。5月仏レジオン・ド・ヌール勲章コマンドール受賞。9月『憂い顔の童子』(講談社)刊行。

2003年(平成15年)68歳

週刊朝日にて『「新しい人」の方へ』を連載。読売新聞にて小説『二百年の子供』を連載(この関係で、読売新聞のテレビCMにも出演)。1995年から断続的に朝日新聞に掲載 した往復書簡を『暴力に逆らって書く 大江健三郎往復書簡』(朝日新聞)として5月に刊行。9月、週刊朝日の連載『「新しい人」の方へ』(朝日新聞)刊行。9月25日、親交の深かったエドワード・サイード氏死去。10月、日本ペンクラブ主催のシンポジウムにて鄭義(ていぎ)氏と対談。11月 、新聞連載の『二百年の子供』(中央公論新社)刊行。12月、仏リベラシオン紙にてイラクへの自衛隊派遣計画を批判。テレビ番組、新聞広告、講演などで、子供たちに向けた現在の自分の活動をサイードの定義に基づく「後期の仕事(レイトワーク)」と位置づけていると発表。NHKスペシャルで、イラクへの自衛隊派遣、改憲問題などについて、後藤田正晴元副首相、中曽根康弘元首相、栗山尚一元駐米大使と討論。

2004年(平成16年)69歳

1月、テレビ番組「徹子の部屋」出演。 加藤周一氏の呼びかけにより結成された「九条の会」に参加。すばる8月号に「佐多さんが『おもい』と書く時」掲載。世界8月号に「あらためての『窮境』より」掲載。広島原爆記念日の前日のクローズアップ現代に出演。 朝日新聞にて エッセイ「伝える言葉」を連載。 「九条の会」の集まりにて沖縄などで講演。2003年11月に青山学院で行われた「教育フォーラム」での白川英樹氏と大江健三郎氏の講演を収録した『何を学ぶか 作家の信条、科学者の思い』(読売新聞)刊行。エッセイ集『「話して考える」と「書いて考える」』(集英社)刊行。

2005年(平成17年)70歳

「群像」1月号に『さようなら、私の本よ!』第一部掲載。新潮1月号に「『後期の仕事』に希望がある(か?)」掲載。5月、韓国の漢陽大学(ソウル)にて講演。6月東京オペラシティにて『もう一度de nouveau 大江光』開催。10月、「大江健三郎賞」創設を発表。

2006年(平成18年)71歳

1月、テレビ東京「たけしの誰でもピカソ」に出演。4月、「エドワード・サイード OUT OF PLACE」完成記念上映会にて講演。6月から12月までジュンク堂池袋本店にて「大江健三郎書店」開催。7月、「世界」に「教育の力にまつべきものである――改定案から欠落している一句」掲載。「すばる」9月号より読書講義「生きること・本を読むこと」スタート。

2007年(平成19年)72歳

4月、中原中也生誕百年前夜祭にて光さんの曲の演奏と講演。5月6日、大江健三郎賞、長嶋有「夕子ちゃんの近道」に決定。5月18日、東大創立130周年記念講演、夕方より講談社にて大江賞受賞者・長嶋有氏との対談。『核時代の想像力』(新エピローグ付き)(新潮社)、『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮社)刊行。6月、『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』共著(集英社)刊行。7月『読む人間』(集英社)刊行。10月、『さようなら、私の本よ!』が中国にて魯迅文学賞の全国優秀文学翻訳賞受賞。11月、『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(新潮社)刊行、「沖縄戦裁判」大阪地裁で証言。

2008年(平成20年)73歳

3月28日、「沖縄戦裁判」 大阪地裁判決。原告の請求はいずれも棄却。4月、第2回大江健三郎賞は岡田利規氏に。 「群像」に大江健三郎賞の選評掲載、「すばる」に「「意志の行為としての楽観主義」に向けて」掲載。5月、第2回大江賞受賞者の岡田利規氏と公開対談。10月31日、「沖縄戦裁判」大阪高裁が原告の控訴を棄却。

2009年(平成21年)74歳

『臈たしアナベル・リイ』、中国の「21世紀年度最優秀外国小説・2008微山湖賞」 を受賞。1月16日、北京にて授与。4月、週刊朝日にて井上ひさし氏と対談。第3回大江健三郎賞、安藤礼二氏に。5月に安藤氏と対談。世界5月号に「加藤周一さんを再読(リ・リード)する」寄稿。6月、 九条の会「加藤周一さんの志を受けついで」にて「啄木にも比すべき、困難な時代を生きる若い人たちへ」という演題で講演。10月、台湾で開催されたシンポジウム「国際視野の中の大江文学」に出席。新潮11月号にて野田秀樹氏と対談。11月、ノーベル賞作家ル・クレジオ氏と対談。12月、世界人権問題研究センター15周年記念講演。群像に「「後期の仕事」の現場から」寄稿。 鶴見俊輔著『言い残しておくこと』の付録冊子に寄稿。 紀伊国屋サザンセミナー「いま、『日本文学史序説』を語る」にて講演。

2010年(平成22年)75歳

岩波書店「図書」1月号にエッセイ「親密な手紙 <不思議な少年>」掲載。


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