オフ会レポート

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TAC30周年記念講演オフ

オフ会とは異なりますが、結果的にミニオフのようにもなりましたので、講演会のレポートをここに入れておきます。

2000年6月18日(日)
11:00
 小田急線に乗り新宿へ向かう。成城学園で大江さんが乗ってくるのではないかと一人どきどきしていたが、そんなことは起こらず、新宿到着。総武線に乗り換え。千駄ヶ谷駅の手前で同じ車両に大江さんがいるのを発見。黒いズボンにワイシャツの襟を開け、7人がけのシートに肩を狭めて座っている。話し掛けようかと思ったが、こっちが立った状態で上から話し掛けるのもためらわれたし、周りの目も気になったので、思いとどまる。
千駄ヶ谷駅到着。大江さんの数メートルあとを歩く。駅を出て、信号を待って立ち止まったところで声をかける。
「あの失礼ですが、大江先生ですね」
「あ、はい」
「あのファンクラブをやっている伊藤です。今日、講演をうかがいに」
「あ、どうも」
ここで信号がかわり歩きはじめる。
「チケットのほう、ご提供いただきありがとうございました」
「いや、僕はなにも。家内がぜんぶ」
「ありがとうございます。今日の講演、楽しみにしておりますので」
「ええ」
「では」
「はい」

 後を追うような形にならないよう、自分はまた信号を戻り、レストランへ入る。トマトジュースを注文。ちょっと興奮状態。

12:15
 津田ホールへ。ロビーで白石さん、真春さん、真春さんのご主人に会う。ほどなくバーバラさんが来る。真春さんご夫婦とは初対面なので、いろいろとお話しをする。

12:30
 開場。3階の講演会場へ。待ち時間に、白石さんが、ノンノンさん夫妻が来ていることを教えてくれる。平賀さん、ちえさん、ちえさんの妹のりえさんにも会う。ノンノン夫妻、平賀さん、りえさんは初対面。natsuさん、田中さん、ミロさんにも会う。矢部さんと息子さんも来ていた。

13:00
 東京アスレチッククラブの理事長の挨拶。大江さんがボランティアで講演されるということを紹介。

13:12
 大江さん登壇。電車での姿とは変わって、背広を着ている。手にしていた紙袋に入れてあったか。
 いつもどおり、ユーモラスなエピソードから始める。以下、講演メモから。

 一昨日、クラブに泳ぎに行き、顔見知りの人に今日の講演のことを話した。その人はどれくらい話すのかと聞いてきた。1時間半くらいと答えると、その人は「聞く身になればそれでも長い」と言った。(会場から笑い)
 ベルリンにしばらく行っていた。週に2回の講義。それだけでは生活できないので、いろいろなところで講演をした。そこでは、未発表の文章を読むのが習慣。今日もあとで、未発表の文を読む予定だ。
 TACには28年前、37歳のときから通い始めた。「洪水は我が魂に及び」を書いている途中だった。プールでゆっくり泳ぐこと、単純に繰り返し泳ぐことが、小説のことを考えるうえでとてもよい。泳ぎを始めてから10年くらいしてから、自分もプールのことがわかってきたと思い、プールのことを書いた。「『雨の木』を聴く女たち」がプールを書いた最初の小説だ。
TACへは小田急線で新宿まで出て、そこから中央線で中野へ行く。片道30分。往復1時間。その時間は、その時期に集中して読んでいる作家とは別に、読みたいものを読む。自由な読書の時間だ。例えば源氏物語を読んだ。乙女の巻に大和魂という言葉が出ていた。中国の技術など外国のことを学んでこそ、大和魂が生きてくると光源氏が言っている。水泳の本も読んだ。電車内で写真のある水泳の本を読んでいると変な目で見られるので、写真のない、しかもフランス語の本を読んだ。クイックターンのことをフランス語ではソペリウという。「宙返り」という意味もある。小説のタイトル「宙返り」はここから取った。そんなふうにこの読書が小説に役に立ったこともある。
 ハーバード大学の名誉博士号をもらった。ハーバードの卒業式に出席した。チョムスキー氏とたくさん話ができた。あるOBから、名誉博士号をもらって嬉しいかと聞かれ、嬉しいことは嬉しいがそれほどではないと答えた。では、どういう賞が嬉しいのかと聞くので、ベストスイマー賞が嬉しい、今年、それを受賞したのだと答えた。それはどういう賞かと聞くので、ホラを吹くことにした。プールで受賞式がある。プールのこっち側に、受賞者である吉永さゆりさん、自分、橋田すがこさんが水着姿で並んでたち、プールの向こう側に賞を渡す人がいる。笛が鳴ったら吉永さんが飛び込み向こうへ泳いでいく。そうしたら自分もすぐさま後を追うつもりだ。しかしそのアメリカ人は日本通で、こう言った。儒教の伝統のある日本なら年長者から順に飛び込むのではないか、すなわち橋田さんが飛び込み、そのあとに大江氏、最後が吉永さんであろう。
(会場は爆笑の連続)

 自分には頭だけの生活しかなった。しかし身体の生活が小説には不可欠。身体を使うためにTACへ通い始めた。頭で考えたことを、抽象的な言葉ではなく、肉体を通して、生きている人間を通して表現するのが小説だ。母親に、ベッドシーンはなぜ必要かと聞かれた。あなただって私を生むようなことをしただろうにと言いたかったが、そんなことを言ったら怒られる。代わりに、愛し合うということは、頭や精神だけで行うことではない。肉体も含めた全体が愛し合うことだ、と答えた。
 ドイツの文学作品「朗読者」はドイツではベストセラーで、邦訳も売れることが確実視されているが、そこには身体が描かれていない。気分や感想ばかり。童話でも、身体がよく表現されている作品がある。モーリス・センダックの「アウトサイドオーバーゼア」がそう。
 なぜ小説に身体が必要か。古代やルネサンスの時代は、肉体は頭と一体だった。18世紀、19世紀になって、人間は頭だけの存在になってきた。それへの反省として、小説は身体を描く必要がある。
 肉体の存在のわかりやすい例は、痛みだ。どんな偉い学者でも後ろからぽかっと殴れば痛みの存在を思い出す。人の痛みを理解するには、想像力が必要だ。このことはルソーも言っている。
 演題である「地球に優しい身体」とはどういうことか。身体だけではなく、頭も感情も含め、人間全体が地球に優しくなくてはならない。優しいということは、まず破壊しないということ。例えば核などで破壊しない。イノセントという言葉がある。無垢、けがれのない、というような意味で使われるが、ラテン語の語源は「人を傷つけない」という意味だ。仏教の用語でアヒンサーというのがある。これも「傷つけない」という意味だ。人を傷つけないということ、これが21世紀に向かって生きる人間の基本的なモラルになるべきだ。
 南ドイツ新聞で、子供たちの質問にノーベル賞受賞者が答えるという企画があった。自分の番では「なぜ学校に行かなくてはならないのか」という質問に答えることになった。その答えの文章をここで読むことにする。
(以下、朗読の要約)
 自分はいままでに二度、その問題を考えたことがある。苦しい問題をじっくりと考えることは、大切なことだ。最初は十歳の秋。日本は戦争に負けた。それまでは天皇が神様で支配者だったが、今度は敵だったアメリカが日本の復興を助ける立場になった。先生の態度も急に変わってしまった。村の高いところから、米軍のジープが谷間にやってくるのを見ていた。他の子供たちは米兵にハローと呼びかけていた。それを見て自分は泣いた。それから自分は学校に行かなくなった。毎日植物図鑑を手に森に入り、樹木の名前や性質を図鑑で調べては過ごした。ある日、雨の中、熱を出してたおれた。気がつくと家にいて、母が看病してくれていた。おかあさん、ぼくは死ぬのだろうかと聞くと、母は「もしあなたが死んでももう一度産んであげる」と答えた。しかしそれはぼくではないのではないかと聞くと、「いやその子供にはあなたと同じ体験をさせ、同じ言葉を覚えさせる、そうすればそれはあなたになる」自分はよくわからない気もしたが、安心した気分になった。病気が回復してから学校に行くようになった。ふと、自分は母が産み直した新しい子供のほうなのではないかと思った。ほかの子供たちも、大人になれなかった別の子供たちの代わりの子供たちなのではないか。だから自分たちは、大人になれなかった子供たちの代わりに、ちゃんと学校にいかなくてはならないと、そう考えた。大人になったいまの自分にはその感覚はわからなくなってきているが、子供のあなたがたにはもしかしたらわかるかもしれないと思い、この話をした。
 もう一つの出来事は光という息子のこと。脳に障害をもって生まれた光は、言葉を使うのが遅れていたが、その代わり鳥の声や音楽はよく理解し、親しんだ。ふつうより1年遅れで養護学校に入学したが、大きな声を出す子供、あちこちにぶつかるような元気のよい子供、そんな中で光は耳をふさいでちぢこまっていた。それをみて、なぜ学校に行かなくてはならないのかと思った。しかしそれを解決したのは光自身だった。大きな音の嫌いな友達を見つけて、いっしょに過ごしたり、力の弱い友達を助けたりして、やがて言葉によって友達とのつながりを持つことができるようになっていった。自分をしっかり理解し、友達や世の中とつながっていくためのもの、それが学校だ。
(朗読はここまで)
 21世紀を自分はそんなに長くは生きることはできないが、子供のための本を書きたい。
 アフリカのノーベル賞作家ウォーレ・ショインカの作品「キングスホースマン」に、死んだ人のことは忘れよう、生きている人のことも。これから生まれてくる人に心を向けよう、という言葉がある。21世紀を考えるとき、そういう態度が大切だ。いまの世界の問題は、私たち生きている人間がもたらしたものだ。私たちのことよりも、これから生まれてくる人たちのことを考えていこう。

14:30
 講演が終了し、撮影会。希望者が大江さんと並んで写真をとってもらう。カメラは自分のものを使い、スタッフの人に撮影してもらうのだ。大勢の人が順番を待って並んだ。自分もデジカメを持って行列に入る。自分の番のとき、駅で突然声をかけたことを大江さんにわび、いま撮影した写真をホームページで使ってもよいかたずねたところ、「どうぞ自由に、好きなように使ってください」と了承してくれる。

大江さんとのツーショット


 元気のよい若い女性ファンの中には、大江さんの腕にしがみつくようなかっこうで写真をとってもらう人もいた。大江さんも、両側に並んだ女性のそれぞれの肩に手を回してポーズをとるなど、大サービスするシーンもあった。

15:20?
 撮影会が終わり、サイン会に。持参の大江作品もしくは会場外で販売されていた「宙返り」にサインをしてもらう。古い単行本を持参している人もいて、大江さんが懐かしがる光景も。白石さんが次の作品について質問したところ、「光と家内と伊丹十三の小説を書くつもりです。家内が僕から自立するのです」と答えられたとのこと。

サイン会


 バーバラさんの番では、こんなやり取りがあったそうな。

「オックステイルシチュー、おいしいでしたよ」とバーバラさん。
すかさず大江さんは「あー、あのシチューですね。皆で食べたっていうあれですね。あれは、色が赤すぎますねー」と答える。
「そうでしょうか、大江さんのシチューは赤いのかと思っていました」
「いや、あんなに赤くないですよ」
「でもおいしいでしたよ」
大江さんは苦笑しつつ「でも、僕のより美味しいってことはないでしょう。だって僕はねー、あれを30年も作っているんですよ」と自信ありげに主張。
「そうですか。私はまだ経験が浅いですね。…では、大江さんのその美味しいオックステイルシチューの作り方を今度教えてくださいね」

 これには少し解説が必要だろう。今回の講演会のチケットを提供してもらった件について僕のほうから大江さんにお礼の手紙を出してある。その中にファン倶楽部の今年前半の活動として、バーバラさん主催のオックステイルシチューオフのことが紹介してある。そこに次の一文があるのだ。

口に含むと、私がかつて食べた牛肉料理の中でも最上級の味覚がそこにありました。バーバラさん曰く「大江先生のよりもおいしくできているはず」。はたして、そうでしょうか?

 大江さんが不満を表明していたのはこの部分について。ちゃんと手紙を読んでくれているんだなあ。サイン会で僕の番が回ってきたときに、「あの写真はうちの安いプリンタで印刷したものなので、色は正しく再現されていないかもしれません」と説明すると、「いやあ赤すぎる」「ワインの入れすぎでしょうか」「ワインを入れるともっと黒くなるはずなんだけどなあ」。大江さんのこだわりが垣間見えた一幕だった。

16:30?
 サイン会が終わってから、メーリングリストのメンバーで時間のある人が、近くのレストランへ。オープンカフェで、お茶を飲みながらいろいろと話す。

ちえさんとりえさん

 18時ころ、解散に。バイクで帰る平賀さん。バイクがスーパーカブであることが判明。しぶいぜ。

平賀さんとスーパーカブ


このページは大江健三郎ファンクラブの一部です。