大江健三郎のススメ

一回目のオススメ

 読んでもいないのに大江作品をカタくてコムズカシイもののようにイメージしている人はいませんか? 確かにそういう作品も中にはあるのですが、ユーモア、アクション、濡れ場(?)といった娯楽的なシーンも大江作品にはたくさんあります。彼の作品は深遠なことがらがテーマとなっているにもかかわらず、手に汗握る娯楽作品として読むことが可能だと言えましょう。世界で愛読され、ノーベル文学賞まで受賞したのは、ダテじゃありません。世界に通用する深みと面白さが大江文学にはあるのです。同時代にこのような作家がいて、その作品が日本語で読めること、この幸運を享受しない手はありません。

 大江ワールドの入門書として私がお薦めしたいのは、いろいろあるんですが、絞り込んでこの二冊を挙げておきます。ぜひお読みください。

(1995年秋、記す)

二回目のオススメ

 ふと思い立って、上記の文に補足をしておくことにしました。この説明はいまも自分にとっては間違いではないのですが、「私が車椅子で出て行く伝道も、滑稽かつ無残な結果に終わるにちがいない」という『大いなる日 燃えあがる緑の木 第三部』の一節を読んで、自分の説明不足に気づきました。

 大江文学には、しばしば人間の無残な状況、敗北しきったような状態が、描かれます。それは大江さん自身を投影した人物だったり、そうでなかったりしますが、いずれにしてもそういう描写に触れたとき、自分はなぜか慰めを感じます。自分自身もそういう気持ちになることがあって、それが体内にたまった毒素のようになっているのだが、それが大江文学によって少し解毒される。そんな感じでしょうか。それが大江文学の魅力の一つになっているように思うのです。とりあえず、いまのところは、そんな気がしています。(1999.12.16)

三回目のオススメ

 自分にとっては大江作品の文章表現がとても魅力的に感じられるということを書いてませんでした。このことについては最初は気付いていなかったと思います。いろいろな作品を読んでいくにつれて、いつも自分が大江さんの文章自体を楽しんでいるということに気付きました。メーリングリストや掲示板で知り合った皆さんとの会話の中で、それがいっそうはっきり自覚できるようになったとも思います。

 それはどういうふうに魅力的なのか。たとえていうと、望遠鏡なり顕微鏡なりでぼやけて見えているものが、ピントがぴったりと合ってはっきりと見えたときのような気持ちのよさを感じます。ぼんやりとしか認識していなかった物事について、その本質とか性質とかを明確に表現してもらう気持ちのよさとでもいいましょうか。それが大江作品には随所にあると思うのです。

 それは100%ただしい、というものではないかもしれません。しかし説得力があり、小説家の観察力、洞察力、直感的な把握力、そういったものの力を思い知らされるような気がします。

 自分の感じ方に比べて、ちょっと大げさな言い方になってしまったかもしれませんので、具体例を示しておきます。たとえば『取り替え子』の10ページから11ページにかけてこういう文章があります。「この前までは、音楽を聴いている若い連中で充ちみちていた車内で、かれらはいま誰もが携帯電話に話しかけ、あるいはその表示板を見つめてこまかな指の操作をしていた。」 なんということのない一節なのかもしれませんが、自分などは気持ちよい感じがします。特に「こまかな指の操作」という部分など。この表現で、誰しも電車内でおなじみのあの光景を思い浮かべるのではないでしょうか。その段落の終わりはこうです。「そのような自分を、時代遅れの孤独な旧世代と感じるほかなかった。」この部分も僕は気持ちいい。変でしょうか? 一言で主人公のその時点の気分が言い表され、それが明確に伝わってきて、気持ちよくないでしょうか?

 自分は大江作品を読むことに、こういう喜びも感じているのでした。(2001.3.13)


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