土井香苗氏

プロフィール

土井香苗(どいかなえ)
弁護士。一九七五年神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。九六年、大学三年次在学中に、最年少で司法試験に合格。翌年一年間、独立間もないアフリカの新興国エリトリアに渡り、同国の法律改正委員会に調査員としてボランティア参加。主に刑法に関するリサーチ作業に携わる。二〇〇〇年に弁護士登録。

 

本編(前編)

――法学部に進学されたのはどういう理由からでしょうか?

 はじめから法律家志望だったというわけではありません。ただ、国際的な貧困問題であるとか人権であるとか、そういった社会的な活動をしたいとは希望していました。特に国際協力の分野に興味があったので、国際関係学科なども考えていました。法学部進学は、本当のところ、親の希望と自分の希望との間の妥協の結果です。親は、国際関係学科に進むことを、すごく嫌がっていました。本当にその分野に進みたいのであれば、法学部に入ってから、転部するという方法もあるではないかといわれました。周囲に弁護士とか法律家とか、そういった人がいない家庭環境だったので、高校時代から、この分野に進むことを人生設計として具体的に考えていたということは、全くなかったです。率直に言って、入学してからも、法学部の講義自体は、あまり面白くはなかったです。
 私が法曹になることを考え始めたのは、実際に弁護士と出会ったことがきっかけです。私が働いているこの法律事務所(駿河台法律事務所)に所属することにしたのも、弁護士との出会いがきっかけです。  この東京駿河台法律事務所は、五年ほど前に、当時東大の近くにあった文京総合法律事務所というところから分かれ出たところで、そちらの方には、過労死の問題などで有名な川人博弁護士が所属されていました。川人先生は東大でもゼミ(法と社会と人権ゼミ)を開講されていて、私もそこに登録していました。この事務所に所属している弁護士の一人とそのゼミを介して出会いました。川人ゼミは非常にフィールドワークを重視するゼミで、現場を訪ねたり、一線で活動している人を招んで話を聞いたり・・・ 今でも学生がこの事務所にやってくることもあります。
 この川人ゼミのフィールドワークのひとつに、国際弁護士に会いに行くことを内容とするものがありました。当時からカンボジアへの司法支援に関わっていた当事務所の上柳敏郎弁護士(数ヶ月前まで、日弁連の国際室の室長もやっていました)が、カンボジアの法制整備に実際に関わった話や、その他、こういった法整備支援を行っている他の弁護士のはなしをしてくださいました。当時、大学一二年の頃の私は、法律の世界に興味がありつつ、国際的なことにも興味がありましたので、その双方の世界をコンビネートできるロールモデルでいらっしゃるということで、大変刺激を受けました。私がこの事務所に入ったのも、その上柳弁護士に憧れていたためです。
 国際化といっても色がない話です。でも、ただ広がっていけばいいというものではない。グローバリゼーションにも多面的な部分があり、様々な批判もあります。その中で、特に第三世界の人たちの権利を重視していけるような国際化を方向付けていくのが望ましい。


――法律というのはローカルなもので、国際的な連携などは難しいと思うのですが。

 法律そのものは、確かにその国固有のものです。例えば日本の法体系をインドにもっていってそれをそのまま適用できるというものではありません。ただ、私が興味を持っているような、人権の分野では必ずしもそうではない。グローバルであり、ユニバーサルなものです。世界人権宣言は、universal declaration of human rights でしょう?人間以上に、全世界で平等であり、同価値であるべきもはないと思うんですね。その人間が人間らしく生きるための保障というのは、まさに法律がやることです。今の世界においてこそ、そのことは希求されていると思います。ある国で一番上にいる人が、その国の人を殺してしまえといえば、実際に人々が殺されてしまうような悲惨も、現にあるわけです。そういった現状に対して、人権という普遍的な価値を導入していくことが、国際法の大きなうねりだと思います。難しいけれど、可能性のある分野だと私は思っています。

――ゼミでのフィールドワークの一方で、司法試験の勉強も平行してされていたわけですが、その間はどういった生活だったんでしょうか?私の周りにも司法受験生いっぱいいるんですけど、みんな朝から晩まで図書館で勉強を…

 朝から晩までやりましたよー!今だったら思い出すのもいやですよー(泣)。本当にかわいそうだったなー、私(笑)。一年間くらいはとにかく勉強ばかりでした。フィールドワーク重視というのは、逆に言えば、机の上での勉強が苦手ということでもあります。できもあまりよくなかったし。私すごく試験度胸があるんですよ。実力以上のものを試験で出せるタイプなんだけど、平時は成績悪かったしね。みなさんといっしょで、大変でしたよ。早くやめたいっていう気持ちが、モチベーションになっていました。あの試験は、早くやめたいっていう気持ちがないと、なかなかすぐには受からないと思うんです。  その試験勉強の息抜きに、ピースボート(注2)でのボランティア活動もはじめました。そんな体験もあって、早くこんな仕事に没頭したいなと思っていました。
 ピースボートの事業に関わり始めたのは、二年の終わりから三年の初めにかけての時期です。択一試験(司法試験の一次試験)の前ですね。図書館で勉強していて、それがいやになると、本を読んだりして気を紛らわしたりしていたんですが、そのとき辻本清美さんの本を読みました。ああ、いいな、と思いました。試験本番が始まる前の時期ですが、そのとき考えていたのは、試験に受かっても落ちても、とにかくピースボートに乗ろうということです。世界を巡って目を見開くと同時に、ストレス解消!いろんな意味でリフレッシュしたかったですし、もちろん第三世界を訪ねてみたいという気持ちも前々からあったのですが。

――第三世界に興味をもたれたきっかけは?

 第三世界に興味を持ったのは、中学生のころに読んだ、犬養道子さの「人間の大地」という本との出会いがきっかけです。難民キャンプでの実見を、南北問題という切り口から論じるという性質の本でしたが、まずその現実に衝撃を受けました。内戦が原因で、家族全員と生き別れになった子供が、まったく食料を口にすることができない。それは精神的なショックのためですが、ボランティアの学生が、一晩中その子を抱いていたという、そんなエピソードが書かれていました記憶です。そういった精神的なケアによって、子どもが再び食料を口にすることができたという話です。とりわけ南北の格差の問題に興味を惹かれました。様々なデータをもとに、数量的にそれが分析されていたのですが、中学生にもとても分かりやすかったです。いわばこの南北格差の悲惨が、人間に集約されていたのが、難民の問題だったわけです。  私の周囲の友達(桜蔭高校)はみんな優秀だったので、こんな友達とずっと競争を続けていても疲れるだけだ。スマップの歌ではないけど、ナンバーワンではなくてオンリーワンになりたい、そんな気持ちも持っていました。国際的な仕事をしてみたい、という思いは、当時から漠然とはあったのですが、その本に出会うまでは、国際的な仕事といえば外交官かなぁ、などと短絡的に考えていました。でもその本と出会ったことにより、第三世界の問題に目が向きました。

――話を元に戻します。三年生で司法試験に合格されましたが。そのときにはどんな気持ちでしたか?

 いやぁ、驚きましたね(笑)。私は司法試験に対する根気がなかったので、あと一年やれといわれたら本当にいやだったと思うんですね。だから、助かったというのが、本当のところです。とにかくボランティア活動がしたいということで、そのときは法律ボランティアのことまで考えてはいなかったのですが、司法の分野で活動できるのがベストだと思ったので、当事務所の上柳弁護士にアドバイスを受けました。「昔、お話を聞いた学生ですけど…」といった感じで。

――大して面識もない弁護士に直接電話する度胸もすごいと思うのですが、そこからエリトリアというのもすごい飛躍ですね。

 まずピースボートの方にもコンタクトを取りました。当時ピースボートはできたばかりのエリトリアのサポートをしていました。アトランタオリンピックの参加資格などの問題に関して、継続的な支援関係があったので、すごくこの国のことをよく知っていました。最初にエリトリアに渡航したのは、九七年の三月のことです。自分のボランティア活動の希望の趣旨を明らかにして、ピースボートに当時のエリトリアの法務大臣を紹介してもらいました。
 学生の私にはなんの交渉術もなかったのですが、とにかく、自分が日本の司法試験に合格したことと、この国のために少しでもボランティアをさせてほしいということ、それからエリトリアのエチオピアからの独立闘争について、事前に勉強していったので、その歴史的な経緯について感銘したということを伝えました。あとは勉強したいということですね。自分は法律家としてはまだまだ未熟だけれども、この国の法制整備に携わることで成長できることを期待していると。

――当時の法務大臣は女性だったそうですが、どんな回答が?

 「いいわよ」っていわれました(笑)。通訳を介していたわけでもなく、英語で練習して行ったのですが。向こうも英語で、“OK、OK”っていう感じだったのでしょうか。なんでこんなにすっきりいっちゃうんだろう、と思いましたね。 ――ためらいとかはなかったんですか、行ってみてとんでもないところだったらとか…。
 一年間の約束だったので、それくらいだったらなんとかなるか、と考えていました。とんでもないところにも見えなかったですし。ただ、私自身アフリカについて、あまり知識がなかったので、向こうでは、土の上にわらを敷いて寝るのだろうかといった程度の認識でした。実際に行ってみれば、首都の様子は、こざっぱりしていて、きれいでした。ビルも建っていて、安心した覚えがあります。行く前に、友達に話したら、やはり驚いていました。遊びに来てね、っていっていたんだけど、誰も来なかったですね(笑)。

―前編終了。続きが読みたい方は京大新聞にご連絡ください。