京大の歩き方

◆本部構内正門

 眼前を眺めれば、京都大学のシンボルマークでもあるくすのきが青々とその葉を茂らせ、その後ろには、これもまた京都大学のシンボル的存在である時計台が天高くそびえ立つ。本部構内正門は、京都大学が所有する十個の登録有形文化財のうちの一つだ。
 当門は、一八九三年に旧第三高等中学校の表門として造立されたもの。京都大学に現存する建造物としては、第一回目に取り上げた旧第三高等中学校物理学実験場についで古いものだが、幾度か修復を経ているせいか、その古さはほとんど感じられない。
 門柱は煉瓦と石が交互に積まれ、左右の塀は煉瓦で造られており、頂部は笠石で飾られていた。一九七九年の工事で煉瓦面はモルタルで覆われたが、当時の姿は踏襲された。よく見ると、日の光を受けてわずかに石面がきらきらと輝き、美しい。
 四月、大学受験という苦難を乗り越えた者たちが、この門をくぐる日もそう遠くはない。


◆西部講堂

 屋根瓦に輝く三ツ星が印象的だ。普段から傍を通りはするけれど、実際に入ったことはない、そんな学生も少なくないだろう。
 西部構内にどっしりと居を構えた西部講堂は、一九三七年に現在の天皇の誕生を記念して建設され、一九六三年にこの地に移築されたもの。元来は、剣道部やバスケット部など運動部の練習場であったが、戦後、演劇や音楽サークルの活動場所へとかわった。
 西部講堂は、大駱駝艦の劇団公演、「MOJO WEST」の音楽イベントなど、伝説的な芸術表現の場となってきた。また、「出演すれば必ず売れる」とされる大晦日コンサートは、矢沢永吉などの大物アーティストを輩出している。
 現在でも、西部講堂は、京大生を中心とした演劇サークルや音楽サークルの恰好の舞台となっている。青色、黄色、白色、黒色と、一見統一感のないペンキの色と、その上に描かれた、歴史を感じるペイント。過去の学生たちの熱い思いが、ここには息づいているように感じられた。


◆火葬塚(京都市登録史跡)

 ここにあるのは京都大学の歴史だけではない。古代から連綿と続く人々の歴史が、ここにはある。それを実感させてくれるのが、北部構内理学研究科三号館横に残る火葬塚だ。こんもりと盛り上がった塚に、四方に枝を伸ばしながらもすらりと伸びる一本の松。
 吉田山周辺では、古代から有力者の葬礼がしばしば行われていた。その葬法の一つに、遺骨の埋葬地のほかに、遺体の火葬地を「火葬塚」として祭る方式がある。京大に残る火葬塚は、一九七八年の発掘調査で発見されたもの。調査から、一二世紀末頃の史跡と判明した。
 京大埋蔵文化財研究センターは、理学部の協力の下、全国的にも希少で学術的価値も高いこの火葬塚を、歴史的資料として復元した。塚上の松もまた、当時の記録を基に、復元的に植えられたものだ。
 この火葬塚の下で、どのような有力者が葬送の火に焼かれたのか。歴史のロマンに思いをはせるのもよい。ちなみに、この火葬塚は一九八三年、京都市登録史跡に指定されている。


◆旧第三高等学校銃器庫

 京都大学の一つの源流をなす第三高等学校。「自由の校風」を誇った三高も、太平洋戦争がもたらす波に逆らうことはできなかった。グラウンドでは軍事教練が行われ、報国団の結成、勤労動員、さらには学徒出陣へと進んでいくこととなる。
 吉田グラウンドの西側に位置する建物は、現在、サークルのBOX棟として使用されている。現代物理学研究会、映画研究会、考古学研究会などのサークル名やペイントが見てとれる。このBOX棟は、もともと第三高等学校時代に建造された鉄筋銃器庫(昭和十一年竣工)であった。
 生徒たちが軍事教練で使用した三八式歩兵銃などの銃器が、この建物の中に収められていたのだろう。この銃器庫が「三高内で最も立派な建物」と揶揄されたという逸話は、当時の時代背景を知るのに興味深い。
 太平洋戦争を境に、危機にさらされた三高の「自由の校風」。その「自由」は再びよみがえり、現在の京都大学に引き継がれているといえるのであろうか。


◆京大建築純粋階段

 「トマソン」という芸術上の概念がある。赤瀬川原平らが発見した概念で、「不動産に付着して保存される無用の長物」。今回のような純粋階段(建物に接続しない無用階段)のほかに、原爆タイプ(建物などの痕跡が壁に残ったもの)、高所ドア(二階以上の部分にあるドア)などがある。意図的に創作されたものではなく、見る側による芸術といえる。
 工学部七号館の前にある純粋階段は、京都大学意匠研究室の玄関階段だったもの。一九八四年、建物が解体撤去された際に、何らかの理由で階段だけが取り壊されず、残された。玄関階段として機能したのは、たったの十八年間だったという。機能を失った純粋階段は、どこか芸術作品と似た不思議な魅力を持つ。
 この純粋階段は、「京大建築純粋階段」と名付けられ、「建築の構造部分としての有と、全体性の無との矛盾を象徴」しているのだという。能書きの存在がいささか興をそぐが、思わぬところに、意外なものがあるものだ。京大周辺のトマソン探索というのも一興かもしれない。


◆動物実験供養之碑

 しんと静まりかえった空気が肌に沁みた。医学部構内の、幾分奥まった場所に、一つの碑が立っている。「動物実験供養之碑」(昭和四七年設置)、と刻まれているのが読み取れる。  医学部・医学研究科で研究実験のために命を奪われた、動物たちを供養しているのだろう。供えられた花はまだ色あせておらず、訪れる人のあるのが見受けられた。背後にそびえる巨木の周りには、何体ものお地蔵さまが肩を寄せ合って並んでいる。
 一人の女性と出会った。ある日の散歩中にこの場所を見つけ、それから毎日のようにお参りに来ているのだという。しめ縄の巻かれた巨木にむかって、静かに手を合わせていた。近隣の方や、京大病院の患者さんの中にも、ここへお参りに来る人は少なくないという。この場所は、実験動物供養以上の意味合いを持った信仰の地であるようだ。
 ボランティアの人々の手によって、いつも美しく整えられたこの場所に、現在の医学生や研究者が訪れることはあるのだろうか。動物実験に関して、反対の声はいまだ絶えないが、少なくとも医療の進展のためと命を奪った動物たちに対して、感謝と供養の念だけは忘れずにいたいものだ。


◆オリンピック・オーク

 農学部グラウンドの片隅に、オリンピック・オークと称される一本のドイツ柏がそびえている。今はまだ葉を落としたままだが、もう直には、グラウンドで汗を流す選手たちに休息の木陰をもたらすだろう。空高く枝を伸ばした姿は、堂々たる風格を湛える。
 第十一回オリンピックベルリン大会(一九三六年)において、京都大学出身の田島直人選手が、三段跳決勝で十六m〇〇の世界記録を樹立し、見事優勝を果たした。オリンピック・オークは、その栄誉をたたえ、金メダルとともに贈呈されたもの。また同決勝では、同じく京大出身の原田正夫選手が準優勝を果たしている。
 鉢植えのドイツ柏がこれほどの高木に育つまで、どれだけの選手がここから輩出されていったのか。オリピック・オークは、京大陸上競技部蒼穹会の栄光の象徴でもある。グラウンドで練習に励む選手たちの中から、次のオリンピック選手が、そして次のメダリストが出るのはいつのことだろう。オリンピック・オークは、静かにその歴史を見守り続ける。


◆旧第三高等中学校物理学実験場

 学生部棟を裏手にまわると、簡素な煉瓦造りの建物が目に入る。旧第三高等中学校物理学実験場(一八八九年竣工)は、学内に残る最古の建造物。第三高等中学校の本館や寄宿舎はすでに現存しないが、当実験場と同じ意匠で造られていたというから、当時の構内の様子を豊かに思い描くこともできる。
 一つひとつの煉瓦が歴史の重みを染み込ませているかのよう。ところどころに枯れた蔦が這い、わずかに苔が生したさまは、威厳をも感じさせる。
 京都帝国大学の創立後、物理学実験場は物理学及数学教室として増築。現在の学生部棟の原型をなす。旧来の物理学実験場にあたる部分は、国際交流センターとして、今もなお現役で使用されている。
 現在、旧物理学実験場の隣では、また何か新しく建てられるのだろうか、柵がはられ、工事が進められている。新旧の建造物が共存する構内の様子は、調和がとれているとは世辞にも言いがたいが、京都大学の長い歴史を雄弁に物語っているには違いない。