ザ・スニーカー誌2000年12月号
第二特集「押井守:映像と小説の狭間」

G20に続き、大塚ギチさんからのつてでいただいた仕事です。
特集全体のデザインワークは大塚さんが担当されています。
私は各コーナーのアイディア段階から参加させていただきました。

文章を書いたのは

「押井守を読み解くキーワード」全部
「押井守映像作品解説」全部
「押井守プロフィール」の下書き(笑)
「押井守 原作/活字作品群」
「〈犬〉を探す男の話」

です。

ここではその一部を御紹介します。

「押井守を読み解くキーワード」


押井守の犬好きは夙に有名であるが、自らを「犬主義者」と公言するようになったのは「紅い眼鏡」の頃からである。以来「ケルベロス」「犬狼伝説」「人狼」の「架空戦後シリーズ」では「犬(である男)」が作品の重要なモチーフになっており、それはすでに一種の思想、犬主義と言えるほどである。最近では「人間にとって本当の他者とは、神と犬だけである」(本人談)とまで言い切っている。作品中でよく用いられる映像モチーフとして「犬・魚・鳥」と1セットで語られることも多いが、テーマ的な重要度は他の二つよりも断然上。作品以外の部分でも「犬フリーク」であり、人前に出るときは必ず犬の柄のTシャツを着用し、作品中に頻繁に犬を登場させ、犬を飼うために熱海に移住し、愛犬家雑誌に連載したり、とその熱狂ぶりは枚挙に暇無し。愛犬の名前はガブとダニー(大天使ガブリエルとダニエルから取ったらしいがよく噛みつくからガブ、体中ダニだらけでダニーという説も)

立喰い
立喰いそば以外にも牛丼やハンバーガーなどのファストフードやコンビニエンスストアのジャンクフードなども含めて、登場人物や世界観に奇妙な存在感を与える重要な小道具として、押井作品にはしばしば登場する。食べるという本能的行為や身近な食物のリアリティと、基本的に「絵空事」であるアニメ作品世界とのミスマッチが生み出す異化効果を計算しての意図的な演出ではあるが、単に本人が好きだからという理由もある。ネタとしては犬よりも古く、「うる星やつら」19・20話「ときめきの聖夜」のデパート屋上シーンが有名だが、それ以前に絵コンテで参加した「ヤットデタマン」にも立喰いネタが見られる。「架空戦後シリーズ」や「御先祖様万々歳!」には立喰師なる架空の職業も登場しており、その設定を拡大したものが本誌に掲載されている「立喰師列伝」である。押井自身、かつて1年間牛丼を食べ続けたという伝説もあるが真偽のほどは定かでない。

学生運動
押井守にとって、学生運動は重要なバックボーンとなっている。とはいえ作品中にそうした設定が見られるということは少なく、「架空戦後シリーズ」や「西武新宿戦線異状なし」に見られる程度である。むしろ社会を自分たちの力で変革しようと戦い、そして挫折したという強烈な時代の記憶こそが作家としての血肉になっているのではないだろうか。帆場瑛一や柘植行人など社会を混乱に陥れようとした犯罪者でありながら、どこか孤高さを感じさせながら敗北していった人物像はそれを強く感じさせる。実際には大学入学の時点では70年安保闘争は終結しており、運動のメインは高校時代ということになる。本人曰く「今から思えば僕が学生運動に参加したのも、そこに大層な問題意識や主義主張があったというわけではなく、目の前の現実から逃避できる場所であればどこでもよかったのかもしれない。(中略)僕が参加していたような、いわゆる「無党派/ノンセクト」と呼ばれる集団は、昼頃からのそのそと起き出して、夜は酒を飲んでといった自堕落な生活をしていたので、真剣に運動をしていた「セクト」の人間からはけっこう白い目で見られていたように思う(いや、確かにそうだった)。」(※1)
※1:押井守公式ホームページhttp://www.oshiimamoru.com

東京
東京生まれの東京育ち(大田区大森)である押井守にとって、東京の風景はいわゆる「原風景」である。そしてある時期までほぼ全ての作品が東京を舞台にしていた。「ビューティフル・ドリーマー」での友引町(武蔵友引という駅名表示が秀逸!)。「迷宮物件」のボロアパート。「パトレイバー」の埋立地の特車二課。「御先祖様」の高層マンション。あの「天使のたまご」も企画当初は東京の片隅のコンビニが舞台であった。そうした〈東京〉は単なる思いつきで舞台として選ばれたのではない。東京の廃墟と遥かに見える高層ビルという「パトレイバー1」で切り取って見せた二極対立の構図は、実は押井作品で繰り返し描かれている構図であり、明らかに押井守は〈東京〉を根拠にしてモノを創っていたのである。だが「パトレイバー2」を最後に〈東京〉というモチーフは描かれなくなる。ロケハンの時に「壊すしかない」と決意し、実際に作品中で東京を徹底的に破壊することで、ある種憑き物が落ちてしまったかのように、押井作品は「東京」から離れてしまう。期を同じくして押井守自身も熱海へと居を移してしまったのは、果たして偶然か、どうか。

廃墟
かつてあったもの。時間が止まった場所。失われた風景。前項の〈東京〉と共に、廃墟も押井作品に頻繁に登場する舞台である。〈東京(都市)〉と〈廃墟〉、一見対立するものでありながら、その実は表裏一体の関係であることは「パトレイバー1」の帆場瑛一が松井や後藤に示して見せた通りである。「ある本で読んだんだけど、廃墟には3つの時間が流れている。廃墟としての現在と未来はこうなるであろうという意味合いと、過去のものであるという3つの時間が同じ場所で漂う、究極の場所っていうか」(「PERSONA押井守の世界」)未来と過去が同時に現在に封じ込められている空間、それが押井作品の廃墟である。「御先祖様」のエンディングで犬丸が走り抜ける、それまでの劇の舞台が廃墟と化した雪原は、過去の記憶だけが朽ち果てる物語の墓場であり、「天使のたまご」の少女が徘徊する廃墟は、「これから」の予感だけが充満した物語の子宮=たまごだったのか。

キリスト教
押井守の作品中にはキリスト教世界のモチーフがしばしば見られる。「パトレイバー」の主役が野明(のあ)であったのは偶然だが、そこから「パトレイバー1」の方舟と帆場瑛一=エホバを発想したのは良く知られた話。アルフォンスと零式をカインとアベルに見立てたこともあった。「天使のたまご」では廃墟の方舟が舞台で、少年の背負った巨大な銃は十字架であった。未完の「セラフィム」も天使病という奇病を巡る物語だったし、オクラになった「ルパン三世」も天使の話だった。そういえばぴえろ時代に作ったパイロットフィルム「インドラ」だけが仏教的モチーフなのはどうして?
ちなみに「天使のたまご」「パトレイバー1・2」「TOKYO WAR」では「世界古典文学全集5『聖書』」(筑摩書房刊)が使われている。ノアの方舟やバベルの塔のエピソードは「旧約聖書」の冒頭に配された「創世記」の中にある。新約聖書からのネタでは「パトレイバー1」の帆場のID番号666(「ヨハネの黙示録」の獣の名を示す数字)、「攻殻機動隊」で草薙が海上で聞いた声とバトーとの別れに際して草薙が告げた言葉(「コリント人への前の書」13章の後半部分)などがある。


少女というモチーフが押井作品に多く登場するのはよく指摘されるが、女性キャラが性愛の対象として描かれることは実は殆どない。「天使のたまご」の少女、「迷宮物件」の少女、「紅い眼鏡」の紅い少女、「ケルベロス」の唐蜜など少女のモチーフは男と対になる性の「女」ではなく、「神の視点」の持つ超越性・神秘性、手の届かなさ(!)を表現するための意匠であり、だから年端も行かない少女として描くことで肉体性を剥ぎ取っているのである。宮崎駿の作品にラナ、クラリス、ナウシカ、シータと恋愛対象としての女性キャラクターが多く登場するのとは対照的である。その宮崎を「血(自分のシュミ=カワイイ女の子が好き)でモノを作ってもしようがない」と批判している押井守が、自ら「男と女の情念の物語」と呼ぶのが「パトレイバー2」なのだが、柘植と南雲の恋の道行きはわずかにラストの逮捕シーンでつながれた二人の手だけであった。嗚呼ストイック!聞けば新作「Avalon」の主役は女性らしいが、果たして・・・。

戦車・銃
かなり以前からミリタリ好きだったらしく、タツノコ時代の自宅は「TANK」(戦車雑誌)と戦車のプラモとモデルガンだらけだっとか、昔のごついミラージュ(乗用車)を買った理由が「戦車みたいだったから」など伝説も多い。作品中にも隙あらば出そうと狙っているようで、バイトでコンテを切った「名犬ジョリィ」ではやたら細かくカットを割ったライフルのシーンがある。その他にも「ケルベロス」で実弾を使いたくて銃撃シーンだけ香港でロケをしたとか、「パトレイバー2」のロケハン時に自衛隊の戦車に乗せてもらったとか、「攻殻機動隊」の時にアニメーターを連れて香港に実弾を打ちに行った等、武勇伝は浜の真砂ほど。ちなみに登場する銃はモーゼルが多く、プロテクトギアのモチーフもドイツ軍、「ビューティフル・ドリーマー」に登場する戦車(レオパルド)、軍用車(キューベル・ワーゲン)、サクラのバイク(BMW)も全てドイツ製、メガネの模擬店が「喫茶・第三帝国」だから、押井守はかなりのドイツ軍贔屓の様である。


一時〈押井守=夢オチ〉みたいに語る口さがないしたり顔のアニメファンがいたのは事実。しかしいわゆる「胡蝶の夢」、つまり夢と現実の等価性みたいなテーマが正面切って語られたのは「ビューティフル・ドリーマー」「とどのつまり・・・」「紅い眼鏡」「御先祖様」くらいである。その後はそうしたテーマが夢オチではない形で描かれ続けているとも言える。「パトレイバー1」の帆場瑛一や「パトレイバー2」の柘植行人は、現実という名の手前勝手な夢を見続けている連中の目を覚まそうとしたのだと考えれば、彼らの演出しようとした虚構とは、むしろそれこそが現実と呼ぶにふさわしいものである。その点で彼らは、同じく虚構を「演出」した「ビューティフル・ドリーマー」の夢邪鬼とは決定的に異なっているのである。そしてその差異こそが演出家・押井守の歩んできた道のりなのだろう。

(文/野田真外 初出・株式会社角川書店『ザ・スニーカー』2000年12月号)

「〈犬〉を探す男の話」(ほんの一部改訂)

 押井守は、自分の過去の経験や生理とはちがうところで映像作品を作り続けてきた作家なんである。自分の内側にあるものよりも、自分と周りにあるものの関係性の方をモノを作る根拠としている。そしてそういう「血(自分の内側にあるもの)でモノを作る」タイプの監督である宮崎駿や庵野秀明を、かなり正面切って否定している。そりゃあもう、きっぱりと。

 本特集の活字作品リストからは残念ながら外してしまったのだが『紅い眼鏡』のサウンドトラックのライナーに「〈犬〉だった男の話」という、押井守が寄せた文章がある。

「今から20年程前の事になる。当時高校生だった彼は、自分が犬であるなどとは夢にも思っていなかった。だが実は犬だったのだ。」

 という一文から始まる、このごく短い小説のような文章は、最初に目にした当時は何の気なしに読み飛ばして終わっていた。自分の作品のサウンドトラックのライナーに寄せる文章としては、確かにちょっと異質ではあるが(普通だったら作曲家の人となりとか、BGMに対する感想とか、そんな感じ?)、現在のように自他共に認める犬主義者・押井守へと変貌する以前の話なので、そう考えるのも無理からぬ時代だったんである(ホントに)。だが数年後ふと読み返してみて、これは明らかに押井守自身の若き日の回想であることに気づいてしまった。これは押井守が自分の学生時代をベースに描いた創作に他なるまいと。

 当時、押井守の〈内側にあるもの〉を知る機会は殆ど無かった。最近でこそトシのせいか(失礼!)過去の自分のことを良く話すようになってきた押井守であるが、新進気鋭の当時にあっては殆ど唯一と言っていい〈回想〉である。これに気づいた私は、得した気分になってひとりほくそ笑んだ。うひひひひ。というのもこのサウンドトラックは出回っている数がかなり少なく、目に出来る人間は限られていたからだ。調子に乗って、自分の書いた本に一部を引用したりしたこともあった。やはり好きになればその内側を知りたいと思うのは人の常なのであった。

 今回こうやって、映像以外の部分の押井守を俯瞰してみて思ったのは、映像に比べて文章やコミック原作の方が、押井守個人の過去の体験や記憶と思しき表現が多いということである。『とどのつまり…』の〈私〉は駆け出し時代の押井守を彷彿とさせるし(押井守が描いた鳥海さんの似顔絵が、時計堂の〈演出家〉にクリソツ!)、『西武新宿戦線異状なし』の丸輪零も高校時代の押井守を想起させる(「丸輪零」は押井守のペンネームのひとつでもある)。『パトレイバー2』のノベライズ『TOKYO WAR』はさすがに元々が借り物のキャラクターなので、若干押井色は薄いが、それでも小説の方で膨らませた部分である食べ物の描写や蘊蓄の部分は、明らかに押井守なんである。そして新作『獣たちの夜〜BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、まだ未読なのだが自身の体験に基づいた「自伝的小説」とのこと。

 恐らく絵描きでない押井守がアニメーションを作るときには、どうしても人の表現に任せてしまう部分がかなり出てきてしまうため、押井守の個人的な部分というのは出てきにくいのだろう。逆に宮崎や庵野はアニメーター出身、即ち絵描きであるからこそ、自分の生理が映像作品に反映しやすいのである。
 そしてそれと同じ理屈で、押井守も文章をベースにしたときはそうした生理に頼らざるを得ないのかもしれんなぁ、と思うのである。本人も本特集のインタビューでそう語っているので、多分間違いない。
 押井守の内側と外側――。そうした映像作品と文章作品とのアティテュードや温度の違いについて考えながら、押井守が挑む新たな表現を堪能してみるのもまた一興。ぜひお試しあれ。

(文/野田真外 初出・株式会社角川書店『ザ・スニーカー』2000年12月号)

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