宿命のライバル ミケランジェロ


 

 イタリア・ルネッサンス後期、レオナルドと時を同じくして、もう一人の天才が存在した。25歳年下の彫刻家ミケランジェロである。冷徹な知性を持つ「画聖レオナルド」と男性的な激情を持つ「神ミケランジェロ」は、1501年から1505年の間ともにフィレンツェにいた以外は、同じ街に住むことはなかったが、二つの才能は、常に激しくぶつかり合った。

 彫刻を重視するミケランジェロを意識して、レオナルドは「絵画論」を記し、絵画は詩や音楽や彫刻などいっさいの芸術や学問に勝る最高の芸術だと主張した。これに対し、ミケランジェロは、レオナルドの絵画について、「あのくらいのものなら私の下男でももっとうまく描いたでしょう」と述べたという。

 1504年、ミケランジェロのダヴィデ像を置く場所を決定する委員会が開かれた。委員の一人として参加したダヴィンチは、ロッジア・ディ・ランツィに置くという意見に賛同したが、結局はミケランジェロの希望どおりシニョーリア広場のヴェッキオ宮前に置かれた。(現在この場所にはレプリカが置かれ、本物はアカデミア美術館にある。)

 同じ頃、二人はヴェッキオ宮の大会議室で、相対する壁に絵を描くことになった。ダヴィンチは1440年フィレンツェ軍がミラノ軍を打ち破った「アンギアリの戦い」、ミケランジェロはピサ軍に勝利した「カッシーナの戦い」が画題であった。二人はしのぎを削って争ったが、ミケランジェロは未完のうちに法王ユリウス二世の招きに応じてローマへ移り、レオナルドは独自に調合した油性の絵の具で彩色を始めたが流れ落ち、断念した。「アンギアリの戦い」は素描や模写が残されている。(その後、この場所には、「アンギアリの戦い」の上に「ピサ攻略」、「カッシーナの戦い」の上に「シエナ攻略」の図をヴァザーリが描いた。)

 また、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を描き上げた後、正面の祭壇画「最後の審判」を注文されたが、彫刻に専念するため辞退していた。ダヴィンチは晩年に近い1513年からローマに住み、密かに最後の審判の構想を練っていたが、ジュリアーノ・ディ・メディチが死亡したため、「メディチは予を育て、予を滅ぼした」という言葉を残してローマを去った。結局祭壇画は、ミケランジェロが描き、彼の最高傑作と言われている。