始皇帝の影響
広大な中国を征服するという野望を成し遂げた始皇帝。果たしてその影響力はどれくらいのものだったか?
始皇帝の征服は、封建制度で置かれるような「地方領主」を使わず、直接首都から地方を支配していた。
これは驚異的なことである。なにしろ交通手段や情報通信の発達していない古代において、広大な領土を直接支配することの難しさは容易に想像できることと思う。馬で歩いて一ヶ月も二ヶ月もかかるような場所で、いざ反乱が起こったときに、中央から迅速に軍隊を派遣できるだろうか? ゆえに、現地の問題は現地で解決させるために、地方領主が置かれ、軍隊も中央とは別な地方軍が置かれるものなのだ。
始皇帝はそうしなかった。あくまで強力な中央集権態勢を作り上げ、全ての権力を都に、ひいては皇帝に集中させたのだ。
また、中華のグローバルスタンダードを作りなおしたのも始皇帝だった。当時の中国は、単一の文化を持っておらず、西方と東方、北方と南方とでは、しゃべる言葉も書く言葉も違う有様だった。そんな「文化のるつぼ」的な様相を一新し、秦の基準に合わせて改造を試みたのが始皇帝だったわけである。
たとえば、次のようなことをした。
1.文字と言語の統一
当時は、漢字ひとつとっても、秦なら秦の文字、斉なら斉の文字と、似通ってはいるが全く別の文字を使っていた。これでは中央から発する命令書を現地の言葉に翻訳するという手間がかかるため、円滑な統治が行えない。
そこで始皇帝はすべての文字をひとつに統一し、言語の再統一を図った。
今でも中国語は北京語・広東語・四川語などに分かれているが、それでも「中国語」というひとつの大きなベースを作ったのは秦だった。
2.通貨と度量衡の統一
当時の中国では、ものの値段を図るお金の単位と、大きさや重さを量る単位である度量衡は、各国が独自のものを採用していた。始皇帝はこれを統一させることにより、中国をひとつの巨大な経済圏に統合することに成功した。
EUの統合通貨単位エキュの導入と、メートル法の導入を一気に成功させたと言えば判り易いだろうか。
3.交通網の統一
当時の交通手段は、主に馬車である。
馬車は道を走ると、轍(わだち)という溝を残し、それがまるでレールのような役目を果たすようになる。
戦国時代では、国防上の問題から、他国の馬車(戦車)が自国の道を通りにくくするために、馬車の車軸の幅を各国ともにバラバラにしていた。秦はこれを統一させ、交通網を整備した。
また、「馳道(ちどう)」と呼ばれる軍用の高速道路を張り巡らせ、地方の反乱に秦軍がすばやく対応できるようにもした。
4.民族意識の統一
実はこれが一番大きかったのではないか、と思う。
それまでは「外国同士」として長く分裂していた中国は、始皇帝の手によって、初めて統一国家としてスタートを切った。つまり、中国人の意識に「中国はひとつ、それが当たり前、分裂したら統一しなければならない」という強力な概念をすりこんだのだ。
曹操、劉備、孫権、その他もろもろの英雄たち…彼らはなぜ中国を「統一」しようとしたのか? その原点は始皇帝にあると言えよう。
なお、中国を意味するChinaという英語は、「秦(チン)」の名称がローマ帝国に伝わってChinとなり、それが変化したものである。
だが、これだけの大改革を成し遂げた始皇帝の業績は、表立って称えられることはなかった。
その理由は、過酷な秦の法制による圧政であり、焚書坑儒によって儒家から不倶戴天の敵とみなされたことであった。
始皇帝の死去と共に、強力な君主を欠いた秦は崩壊していく。
そして時代は、漢の劉邦と楚の項羽が争う漢楚の戦いへと突入する。
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