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第5回 2000/1/20
  • 始皇帝の影響

    広大な中国を征服するという野望を成し遂げた始皇帝。果たしてその影響力はどれくらいのものだったか?

    始皇帝の征服は、封建制度で置かれるような「地方領主」を使わず、直接首都から地方を支配していた。
    これは驚異的なことである。なにしろ交通手段や情報通信の発達していない古代において、広大な領土を直接支配することの難しさは容易に想像できることと思う。馬で歩いて一ヶ月も二ヶ月もかかるような場所で、いざ反乱が起こったときに、中央から迅速に軍隊を派遣できるだろうか? ゆえに、現地の問題は現地で解決させるために、地方領主が置かれ、軍隊も中央とは別な地方軍が置かれるものなのだ。
    始皇帝はそうしなかった。あくまで強力な中央集権態勢を作り上げ、全ての権力を都に、ひいては皇帝に集中させたのだ。

    また、中華のグローバルスタンダードを作りなおしたのも始皇帝だった。当時の中国は、単一の文化を持っておらず、西方と東方、北方と南方とでは、しゃべる言葉も書く言葉も違う有様だった。そんな「文化のるつぼ」的な様相を一新し、秦の基準に合わせて改造を試みたのが始皇帝だったわけである。 たとえば、次のようなことをした。

    1.文字と言語の統一
    当時は、漢字ひとつとっても、秦なら秦の文字、斉なら斉の文字と、似通ってはいるが全く別の文字を使っていた。これでは中央から発する命令書を現地の言葉に翻訳するという手間がかかるため、円滑な統治が行えない。
    そこで始皇帝はすべての文字をひとつに統一し、言語の再統一を図った。
    今でも中国語は北京語・広東語・四川語などに分かれているが、それでも「中国語」というひとつの大きなベースを作ったのは秦だった。

    2.通貨と度量衡の統一

    当時の中国では、ものの値段を図るお金の単位と、大きさや重さを量る単位である度量衡は、各国が独自のものを採用していた。始皇帝はこれを統一させることにより、中国をひとつの巨大な経済圏に統合することに成功した。
    EUの統合通貨単位エキュの導入と、メートル法の導入を一気に成功させたと言えば判り易いだろうか。

    3.交通網の統一

    当時の交通手段は、主に馬車である。
    馬車は道を走ると、轍(わだち)という溝を残し、それがまるでレールのような役目を果たすようになる。
    戦国時代では、国防上の問題から、他国の馬車(戦車)が自国の道を通りにくくするために、馬車の車軸の幅を各国ともにバラバラにしていた。秦はこれを統一させ、交通網を整備した。
    また、「馳道(ちどう)」と呼ばれる軍用の高速道路を張り巡らせ、地方の反乱に秦軍がすばやく対応できるようにもした。

    4.民族意識の統一

    実はこれが一番大きかったのではないか、と思う。
    それまでは「外国同士」として長く分裂していた中国は、始皇帝の手によって、初めて統一国家としてスタートを切った。つまり、中国人の意識に「中国はひとつ、それが当たり前、分裂したら統一しなければならない」という強力な概念をすりこんだのだ。
    曹操、劉備、孫権、その他もろもろの英雄たち…彼らはなぜ中国を「統一」しようとしたのか? その原点は始皇帝にあると言えよう。
    なお、中国を意味するChinaという英語は、「秦(チン)」の名称がローマ帝国に伝わってChinとなり、それが変化したものである。

    だが、これだけの大改革を成し遂げた始皇帝の業績は、表立って称えられることはなかった。
    その理由は、過酷な秦の法制による圧政であり、焚書坑儒によって儒家から不倶戴天の敵とみなされたことであった。

    始皇帝の死去と共に、強力な君主を欠いた秦は崩壊していく。
    そして時代は、漢の劉邦と楚の項羽が争う漢楚の戦いへと突入する。
  • 第4回 2000/1/10
  • 最初の皇帝

    戦国時代に覇を競った列強、すなわち秦・韓・魏・趙・斉・燕・楚の七国にあって、西方の大国は法家思想に基づいた富国強兵政策を推し進めた。

    法家とは…「国家は法律によって治められるべきである」と唱える思想であり、厳然たる信賞必罰の思想のことだ。
    人は放っておけば間違いを犯すのだから、罰則を定めた厳格な法律で統治すべきだ…というのが法家の考え方である。いわば人間性悪説に基づいた思想だった。

    これに対し、徳の高い為政者が行いを正しくしていれば、下の者も礼を守り、理想的な政治が行えるだろう…という考えのもと、「国家は徳の高い人物によって治められるべきである」と唱えていたのが儒家だ。これは人間性善説に基づいた思想である。

    極端に言えば、法律を用いて良く統率された国であるならば、その為政者の徳は問わない、というのが法家の主張だった。今でこそ、そのように「人格よりも、その業績を評価する」という考えかたに違和感は無い。不倫疑惑でさんざんスキャンダルを弾劾されたクリントン大統領も、その経済政策の成功によって大統領の座を追われなかったのが、最も良い例だろう。

    ところが、当時のような儒教社会において、これは異端思想であった。国益になることならなりふり構わず何でもやった秦は、他の国から「虎狼の国」と呼ばれ、蔑まされる結果となる。
    しかしその政策のおかげで、秦は代を重ねるごとに実力を蓄えていった。これが後にファーストエンペラーを生み出す下地となっていく。

    ファーストエンペラー、すなわち春秋戦国時代末期に登場した秦王・政。中国史上最大の重要人物であり、後に始皇帝と呼ばれる人物である。

    彼は非凡なリーダーシップと政治力を駆使し、過酷な法律で強力に統制された秦をフル回転させて、中国全土の国を全て併呑するという今まで誰も考えもしなかった計画を実行に移した。そして本当に統一を成し遂げてしまった。

    秦王・政は、広大な中国の支配者たるもの、それにふさわしい称号が必要であると考えた。今までとは比較にならないほど広大な土地を直接支配するのだから、「王」という称号では不充分であると考えたのだ。

    そこで考案されたのが、神性を表す「皇」の字と、支配者を表す「帝」の字を組み合わせた「皇帝」という称号である。ここに最初の皇帝、始皇帝が誕生した。

    次回は、この始皇帝が中国に及ぼした影響を考えてみよう。
  • 第3回 1999/11/25
  • 聖王の時代を経て

    三皇五帝の時代は、神話と伝説の時代だった。

    その後に成立した夏王朝から、ヒトの歴史が始まる。

    さて、この夏王朝を倒して、商王朝を創設したのが湯王だ。これは紀元前1700年ごろのことといわれている。夏の最後の王、桀王は、その暴虐のために湯王に倒されたというが、ど〜も勝ったモンがアトで自己正当化を図るために負けたモンを悪く言っているような雰囲気がないでもない。

    湯王の立てたこの王朝こそが、現在発掘されている中で最古の王朝と言われている、またの名を殷王朝という王朝である。

    さらに歴史は流れて紀元前1000年ごろ、暴虐な商の紂王を倒して周王朝を開いたのが武王だ。…また暴虐ネタだな。この頃のストーリーが脚色されて、「封神演義」なる講談が生まれた。
    ちなみに、紂王の時代の遺跡を発掘すると、青銅器のおびただしいこと、また祭祀が活発に行われていたことなど、とても紂王が暴虐をもって国を疲弊させたとは思えないそうだ。つまり、湯王が桀王を倒したケースよりも、さらに暴虐の濡れ衣を着せて権力交代を正当化した疑いが濃厚なのである(笑)。

    周以前の王朝は、黄河流域しかその支配が及ばなかったため、一人の支配者で治めきれていた。が、周の時代になると、長江(揚子江)流域までその支配が及んだので、コントロールに限界が見えた。
    そこで周王朝は、紂王を倒すために功のあった者をそれらの領土に封じ、諸侯の位を与えた。封建制度というやつだ。

    しかし、各地の諸侯は、封じられた領土の君主として自由に政治を行い、力をつけていった。やがて諸侯の実力は周王朝を上回るようになり、周王朝は天子という権威のみの存在となった。これが春秋戦国時代の始まりである。
    諸侯は自治権をタテに、他の諸侯と外交し、戦をし、国を盗ったり盗られたりの戦乱の世を過ごした。やがて諸侯は王位を名乗るようになり、周王朝はますます天子という権威だけの存在となった。

    また儒教の祖である孔子、道教の祖である老子・荘子、儒家と対をなす法家の韓非子などの思想家をも生んだ。数多くの戦乱が起こり、あまたの国が興っては滅んだ。戦争の技術は洗練され、孫子といったような現代にも通じる兵書も生まれた。とにかく、いろいろ起こった時代なのである。

    そして、春秋戦国時代の最末期、ついにアイツがやってくる。

  • 第2回 1999/11/24
  • 前・三国時代

    前回は古代中国人の世界観を紹介した。
    今回は、三国時代に至るまでの中国の歴史を、必要なところだけをかいつまんで紹介しよう。例によって乱暴な解説をするが、三国志に対する新鮮なものの見方をしてもらうために、あえて詳細をはぶいていると考えていただきたい。

    中国の歴史は、世界の中でも極めて特異な部類に入る。

    なにせ、記録がむちゃくちゃ残っているのだ。

    記録が残っていることの、どこが特異なのか?
    それは、ほかの文明ならば、せいぜい遺跡の壁画や青銅器の側面に描かれている文字から読み取るくらいしかできないような古い歴史が、きちんとした史書として残っていることである。

    普通の古代文明では、出土する文献に描かれた年代よりも、そのまま残っている遺跡のほうが古いのが当たり前だ。たとえば日本で一番古い史書「古事記」が成立したのは西暦712年だが、日本はそのころ生まれたわけではない。それからさかのぼること数百年、すでに大和朝廷は存在していたと考えられるし、国家形態の誕生まで数えるならば、縄文・弥生時代までさかのぼって遺跡を発掘することができる。

    ところが、中国の場合、残っている遺跡より、文献の記録のほうが古い。
    文献を頼りに地面を掘ってみたら、その文献に記されていた古代国家の遺跡が出てくるというありさまだ。
    司馬遷の「史記」にそって地面を掘ったら殷の遺跡が出てきたし、最近では「華陽国志」に記されていた揚子江文明が発掘された事例などがある。
    他の文明なら、土器の破片とかにしか記されておらず、断片的な記録を集めて調べるしかない歴史が、チャンと文書として残っているのだ。

    このように中国の文献はおそろしく古く、そして克明である。

    そのおかげで、我々は千年以上も前の歴史である「三国志」を、こうやって遊びのネタにしていられるわけなのだ。

    さて、司馬遷の「史記」によると、天地開闢から「三皇五帝」という神話の時代が続いたとされる。三人の神人と、五人の聖王が地上を治めていた時代だ。
    三人の神人が何を指し示すかは緒論があるものの、ふつうは伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・女カ(じょか)であるようだ。これら半獣半人の神的存在が人類を生んだり、農業や交易の基礎を作ったという。

    その次に、ようやくまともな人間の支配者が即位する。黄帝である。
    この黄帝は史上初の「天子」ということもあり、よく文献にも名が出てくる。「黄帝の世から…」と言えば、そりゃもうとても古い時代からという意味だと考えよう。
    この黄帝の後をついで、センギョク帝・コク帝・堯帝・舜帝が次々に即位する。この時代はなにもかもが巧く行われていた時代と言われ、美化されて、古きを尊ぶ儒教の基本となった。

    彼ら五人の聖王は、自分の息子に後を継がせるのではなく、自らが見込んだ優れた人物に位を譲る…「禅譲」を行った。自発的権力委譲であるところの「禅譲」は、これ以後、王朝交代の理想となった。

    五帝の最後の聖王、舜帝が見込んで位を譲ったは、自分の息子に位を継がせて夏王朝を開いたため、舜に続いて聖王に数えられることはなかった。

    ところで、中国の古典を見てみると、討論や演説(例:赤壁前に孔明が呉の幕僚と討論したときなど)で、しきりに「昔、ナントカのナントカ王はこうなさいました…」と、過去の事例を挙げることで論拠を強めようとしている場面がクドいほど出てくることと思う。
    これは、上のような「五帝の時代→理想化→昔は良かった→昔の事例は良い」という儒教独特の思考方法に基づいた論じ方だと言えよう。

    もうひとつ、魏の曹丕やその延臣が、嫌味なくらい漢の献帝にプレッシャーをかけ、真綿で首を締めるように囲い込んで禅譲を行うシーンがあるが、なぜそんな回りくどい方法を用いているかというと…五帝時代の禅譲を再現して、徳を高く演出するためだったのである。

    前漢・後漢あわせて400年も命脈を保った漢王朝から権威を引き継ぐには、どうしても理想的な形式で帝位を継承するしかなかったのだ。

  • 第1回 1999/11/23
  • 中国人の世界。

    やはり三国志のページなら、三国志のことを書かなくてはならんだろう。とりあえず中国っぽいことだけでも書かなくてはならない。語尾に「アルヨ」とかつけてりゃ良いのかもしれないが、とりあえずなんか書くことにする。

    一般的に、三国志と呼ばれる物語とは、西暦180年ごろから280年ごろまでの中国の歴史(後漢末から三国時代)を脚色してまとめたものである。晋代に陳寿が歴史書「正史三国志」を編纂し、これに六朝宋の裴松之が異聞の採録や検証から成る「注」を付け加え、さらにそれらを元にして羅漢中が講談「三国志演義」を書いた…と、ここらへんの話は星の数ほどある三国志サイトにも書かれていると思うので、止めておく。

    当然、これらの原書を読むと、日本人には理解しがたいエピソードや概念が出てくることだろう。その中には、古代中国に関する基礎的な知識を持っていなければ、とうてい理解できないものもある。
    もちろん、吉川英治の小説「三国志」や、王欣太による話題のマンガ「蒼天航路」などを読むのであれば、これらの知識は要らない。優れた作家がアレンジを加えて、日本人にも理解できる物語に再構築してくれているからだ。

    だが、中国に関する基礎的な歴史や思想を把握しておけば、三国志のみならず、中国の古典を理解する一助となるだろう。一般教養としても面白いのものなので、ここから先は三国志をもっと深く理解するための知識を紹介していこうと思う。三国志という物語を読む上での豆知識にでもなってくれれば幸いである。

    まずは中国の「世界観」から考えてみよう。

    日本人が自分の国のことを日本というように、中国人は自分の国のことを中華と呼ぶ。これは自分の国は世界の中央にあって、華やかだという意味だ。
    じゃあ中華以外の国はどうなのか? …というと、「東夷」「西戎」「北狄」「南蛮」という言葉が使われている。
    「夷」「戎」「狄」「蛮」とは、どれも差別的な意味合いを持っている言葉で、中国人がみずからの国を取り巻く外国を、東西南北でおおざっぱに分類し、十把ひとからげに扱っていたことがわかる。

    ちなみに、日本でも「征夷大将軍」という言葉があるが、これは夷(外国人)をブチ倒す総司令官という意味だ。
    また西洋人のことを南蛮人と呼んでいた時期があるが、このころ(戦国時代)ポルトガル人やスペイン人は日本から見て南に位置するフィリピンやルソンから来航してきていたので、「南蛮人」という呼ばれ方をされていたものと思われる。

    話を中国に戻す。
    このような「オレたち中心、ほか野蛮だから眼中に無し」的思考を「中華思想」と呼ぶ。 こういった意識は大国にはつきものなので、しょうがないといえばしょうがない。最近ではアメリカなどがこれに陥っているようだ。中国の場合、文化的にも国力的にも他国を圧倒していた期間が千年以上も続いたため、民族意識に深く根付いている。

    中華にはキリスト教のゴッド、イスラム教のアッラーに相当する「人格を与えられた神」は居ない。…こういうと語弊があるかもしれないが、少なくとも中華にはヒトの姿をしてヒトの前に降り立ち、ヒトの言葉で啓示を行う存在はない。

    神に相当するものはというと、それは「天」である。
    この「天」の意思を受けて、全地上の統治を任されているのが「天子」。天子はフツーの王様よりエライ。なぜなら、天の意思…つまり天子の命令によって、地上を治める王侯貴族が任命されるからである。

    三国志を読んでいて疑問に思うのが、「皇帝」と「王」が混在していることだろう。皇帝がいるのに王様もいる。いったいどっちがエラいのか?

    これは、前述した「天」の概念を含む、中国人の世界観に絡んでいる。

    「天」がある。
    「天」の下に地上が広がり、これが「天下」である。
    地上はいくつかの国に分かれる。そのひとつひとつの国を治めているのが「王」で、地上全体を治めているのが「天子」なのだ。いわば天子とは大統領で、王とは州知事みたいなもんだと思うとよい。

    つまり…皇帝や王が同時に存在している場合は、どちらが天子であるか? ということを考えればよい。天子は全地上を治めるために天から特別に命を受けた子(子供という意味ではなく、人に対する尊称としての「子」)であり、一人しか存在してはならない。

    というわけで、天子の許可が無いと王は国を治められない。この「国」とは中華の国のみを指すものではないことに注意していただきたい。ヨーロッパの王だろうが日本の天皇だろうが、中国の天子に許可を得ないと国を治めちゃイカンのである(!)

    近隣の諸国は、中国の天子に貢物をささげ、「ウチんとこ治めていいっすか〜」と許可を求め、金印とかを貰う。これを朝貢という。卑弥呼が「魏志倭人伝」で倭王の位を魏の皇帝・曹丕から貰っているが、つまりこれが朝貢なのだ。
    朝貢をした国は、中国の天子の権威が与えられる。しない国は征伐されたりしちゃう。

    この体制を「冊封(さくほう)」という。

    天子の許可が無ければ、いかなる王も権威を持たないのである。

    三国志で漢の皇帝(献帝)が殺されないのは、ひとえにこのような体制のもと、天子に絶大な権威が存在していたからだ。中国の天子は、ヨーロッパの王よりも、むしろ法王に近い存在といえよう。

    さて、古代中国人の世界観をだいたい把握したところで、次回は三国時代に至る中国の歴史の概略を見てみよう。
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