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孫策伝〜孫破虜討逆伝 第一
天下無双の小覇王。乱世を駆け抜けた新しき疾風の姿を見よ。
孫策伝には孫策自身の事跡だけでなく、呉の紀伝として、呉の建国説話が語られている。
 孫策は、字を伯符という。孫堅が義兵を挙げると、孫策は母親を連れて舒に移り住んだ。そこで周瑜と友情を結び、士大夫たちを糾合したところ、長江から淮水流域にかけての人々は、みな彼に心を寄せた[一]。孫堅が逝去すると、遺骸を奉じて曲阿に帰り、そこに葬った。葬儀を終えたあと、長江を渡って江都に居を定めた[ニ]

[一]
『江表伝』にいう。孫堅は、朱儁の上表によって佐軍の官に任ぜられて出仕すると、家族は寿春に住まわせておいた。孫策は十あまりの歳で、すでに名のある人物と交わりを結び、彼の評判は広く伝わっていた。周瑜という人物がいて、孫策と同い年であったが、彼にも若いうちから英邁闊達の気風があった。孫策の評判を聞いた周瑜は、舒からやってきて孫策を訪れ、たちまち二人は相手を認めあって友情を結び、二人の友情の堅さは金属をも断ち切るばかりであった。周瑜は孫策に舒へ家を移すようにと勧め、孫策はそれに従った。
[ニ]
『魏書』にいう。孫策は父親の爵位を嗣いで侯となるはずであったが、爵位を弟の孫匡にゆずった。
 徐州の牧(長官)の陶謙は、孫策をひどく忌み嫌っていた。孫策のおじ(母親の兄弟)の呉景がこのころ丹楊(丹陽)太守となっていたので、孫策は母親を車に乗せ[陶謙を避けて]家を移して曲阿に住まわせると、自分は呂範や孫河とともに呉景のもとに身を寄せた。手づるを得て兵士を募ったところ、数百人が集まった。
 興平元年(194年)、孫策は袁術のもとに身を寄せた。袁術は、孫策の[父親のあとをついで自分の配下に入ってきたという]行動をまことに奇特なことだとして、もとの孫堅の部下たちを孫策にかえした[一]
 太傅の馬日テイは、符節(朝廷の使者のしるし)をたずさえて関東の地(中原地帯)を巡って安撫にあたっていたが、寿春にあったとき、鄭重な礼によって孫策を召し寄せ、上表して懐義校尉の官を授けた。袁術配下の大将の喬スイや張勳らも共に心から孫策を尊敬していた。袁術はつねづね嘆息していうのであった、「もし私に孫郎(孫の若君)ほどの息子がおれば、思い残すことなく死ねるのだが」と。
 孫策の騎兵で、罪を犯して袁術の軍営に逃げこみ、奥の厩にかくれた者がいた。孫策は指図をし人を遣って袁術の軍営に入ってこれを斬らせた。終わるとすぐに袁術のもとに行き[勝手に軍営に入ったことを]謝罪した。袁術がいった、「兵士たちはともすれば命令に違反しがちであって、われわれは、それをにくまねばならぬ。どうして謝罪などされることがあろう。」このことがあってからは、軍を挙げてますます孫策を畏敬するようになった。
 もともと袁術は孫策に約束して九江太守に任じてやろうといっていたのであるが、のちに約束を違えて丹楊の陳紀をその任につけた。そののち袁術が徐州の攻略をもくろむと、廬江太守の陸康に米三万石を供出するようにと要求した。陸康は米を出さず、袁術はそれにひどく腹を立てた。孫策はかつて陸康のもとを訪れたことがあったが、そのとき陸康は孫策と会おうとはせず、主簿の役の者に応対をさせた。孫策はつねづねこれを遺恨に思っていた。袁術は孫策を陸康の攻撃にさしむけるとともに、いった、「さきに間違って陳紀を任用したが、[君を太守にするという]本来の意図が実現できず、残念に思ってきた。今度もし陸康を取り鎮めることができれば、廬江は本当に君のものだ。」孫策は陸康を攻めてその城を抜いたが、袁術はまたしても自分の故吏(子飼いの部下)の劉勲を廬江太守に任じた。孫策はますます袁術に失望した。
 これより以前のこと、劉ヨウが揚州刺史の任にあり、揚州の役所は古くから寿春に置かれていた。その寿春を袁術が占領して本拠とすると、劉ヨウは長江を渡って曲阿に役所を定めた。当時、呉景はなお丹楊にあり、孫策の従兄の孫賁も丹楊の都尉の官にあったのであるが、劉ヨウは江南にやってくると、圧力を加えてこの二人をともに追い出した。呉景と孫賁とは、劉ヨウを避けて歴陽に身をおちつけた。劉ヨウは、樊能と于糜とを遣って東方の横江津に駐屯させ、張英を当利口に駐屯させて、袁術の勢力拡大を阻止しようとした。袁術は勝手に故吏の琅邪出身の恵クを揚州刺史に任じ、また呉景を督軍中郎将となして、孫賁と協同して兵をひきいて張英らを攻撃させたが、幾年たっても打ち破ることができなかった。孫策は、そこで袁術に説き、呉景らに加勢して江東の平定にあたりたいと申し出た[ニ]。袁術は上表して折衝校尉の官を授け、殄寇将軍を兼任させた。その兵士はわずかに千余人、馬は数十匹、幕僚として孫策と行を共にしたいと願う者は数百人にすぎなかった。しかし歴陽に到着するころには、その軍勢は五、六千人になっていた。孫策の母親は、これよりさき、局阿から歴陽に移って来ていたのであるが、孫策はさらに阜陵に移り住まわせると、長江を渡って各地を転戦し、軍を進めるところ、必ず相手を打ち破り、その矛先をさえぎろうとする者はなかった。しかも軍令が厳しくゆきとどいていたため、民衆たちは孫策に心を寄せた[三]

[一]
『呉歴』にいう。孫策が江都にいたころのこと、張紘は母親の喪に服していた。孫策は、しばしば張紘のもとを訪れ、時世の急務について尋ねていった、「いま漢王朝の命運は中だるみの状態にあって、天下は乱れ争い、英雄俊傑たちがおのおの軍勢を集めて自己の利益を計っており、この危機を救い混乱をしずめることのできる者がおりません。亡父は袁氏と力をあわせて董卓を打ち破りましたが、功業の成らぬうち、突然に黄祖に殺害されてしまいました。私は物事に通ぜぬ青二才ではありますが、いささか志すところもございます。袁揚州どののもとより、残っている亡父の兵士たちを請い受け、丹楊のおじのもとに身を寄せつつ、離散した兵士たちをひとつにまとめ、東の呉会(呉郡会稽一帯)の地に足場を定めて、仇を報じ恥をすすいで、朝廷の外の守りに当たりたいと願っております。あなたのご意見はいかがでしょう。」張紘が答えた、「もともと私には何の才略もないうえに、ただいま、服喪中であって、あなたのご盛図に何のお力ぞえもできません。」孫策がいった、「ご高名は広く聞こえ、遠近の者みなが心をお寄せいたすところです。いま私がいかなる道を取るべきかは、あなたのご意見ひとつにかかっております。なぜ周到なご意見を告げ知らせ、つねづねあなたを仰ぎ見ておりますわれわれの期待に副うてはくださらぬのでしょう。もし私のささやかな志が遂げられ、生かしておけぬあだに仇を報ずることができたとすれば、それは何よりもあなたのお力によるのであり、それが私の心からの願いなのであります。」そういうと涙をしとど流したが、顔の表情は変わることがなかった。張紘は、孫策の誠心と盛んな意気とが内心より発し、きっぱりとした言葉を用いるのを見て、その心意気と言葉に感動し、答えていった、「昔、周の王朝の命運が傾いたとき、斉の桓公と晋の文公とが立って[周王朝の建て直しを計り]、王室が安定すると、諸侯たちももとどおり貢納を行ってその務めに励むようになりました。いまあなたはご先父の功業を継がれ、勇武の名声がおありになる。もし丹楊に身を寄せ、呉会の地で兵を募られれば、荊州・揚州をひとつにまとめられ、仇敵にあだを報ぜられることができましょう。長江流域に根拠地を置いて武威と恩徳とを盛んにし、穢らわしい連中を根こそぎにして、漢の王室を建て直されれば、そのご功績は桓公や文公にひけはとらず、どうして王朝の外の守りにあたられるだけにとどまりましょう。ただいま、世は乱れて多難な時期にあります。功業の成られたあかつきには、志を同じくする者たちと江南へ渡って配下に参じたく思います。」孫策がいった、「あなたと思いがまったく符合しましたうえは、永く変わらぬ交わりを結びたく思います。いまただちに出発いたしますが、老母と幼い弟をあなたにおあずけすれば、私は何の後顧も憂いもないのです。」
『江表伝』にいう。孫策はまっすぐ寿春に行くと袁術に会い、涙を流していった、「亡父がむかし長沙より中原に兵を進めて董卓の討伐に向かいましたとき、あなたさまは南陽でお目にかかり、盟約と好を結ばせていただきました。不幸にして不運にみまわれ、勲業は完成せぬままとなりました。私は先父にお与えくださったご恩顧に感じ、ご配下に身を寄せたく思っております。どうかあなたさまには私の誠心をご推察くださいますように。」袁術ははなはだ奇特なことだと思ったが、すぐに父親の兵士を孫策に返してやろうとはしなかった。袁術が孫策にいった、「私はかねてあなたの叔父御(呉景)を丹楊太守に任じ、従兄の伯陽(孫賁)どのをその都尉に任じてある。かしこは精兵を出す土地柄だ。もどって叔父御のもとで兵を募られるのがよい。」孫策はそこで丹楊に行って叔父をたより、数百人の部下を集めたが、県の大師(一揆の頭目?)の祖郎の襲撃を受け、全滅に近い損害を受けた。そこでもう一度、袁術のもとを訪れて面会すると、袁術は、もとの孫堅の兵士一千余人を孫策に返した。
[ニ]
『江表伝』にいう。孫策は袁術に説いていった、「私の家とかねて恩義を結んでいる者たちが東方におります。どうかおじを加勢して横江津を討たせてくださいますように。横江が奪取できれば、そこから故郷にもどって軍勢をつのり、三万の兵士を得ることができましょう。その軍勢でもってあなたさまが漢の王室を建て直されるのをご援助いたします。」袁術は孫策が自分に遺恨を持っているのを知ってはいたが、劉ヨウが曲阿に根をはっており、王朗が会稽にいるのであるから、孫策が江東の地を平定できるとは限るまいと考えて、孫策の要求を認めた。
[三]
『江表伝』にいう。孫策は長江を渡ると、劉ヨウを牛渚の軍営に攻め、邸閣(食料貯蔵庫)にあった兵糧と武器とをすべて奪い取った。興平二年(195年)の歳のことである。当時、彭城国の相の薛礼と下ヒ国のサク融とは、劉ヨウを盟主としてたより、薛礼は秣陵城に本拠を置き、サク融はその県の南部に軍営を置いていた。孫策がまずサク融を攻めると、サク融は兵を出して戦いを交えてきた。孫策軍が五百余の首級を斬ると、サク融はすぐさま軍営の門を閉じまったく動きを見せなくなった。そこで長江を渡って薛礼を攻めると、薛礼は包囲を破って逃走した。一方、樊能や于糜たちは軍勢を集めなおして牛渚のとりでを襲い、それを奪い取った。孫策は、このことを聞くと、兵を還して樊能らを打ち破り、男女一万余人を生け捕りにした。ふたたび長江を渡ってサク融を攻めたが、流れ矢に当たって股に傷を負い、馬に乗れなくなった。そのため輿でかつがれて牛渚の軍営にもどった。逃亡者がいてサク融に告げた、「孫郎(孫の若君)は矢に当たって死んでしまいました」と。サク融は多いに喜び、すぐさま武将の于茲を遣って孫策の軍に討ち入らせた。孫策は歩兵と騎兵数百を出して戦いに挑ませるとともに、背後に伏兵を設けた。敵軍が打って出てくると、刃もあわせぬうちにわざと敗走し、敵がそれを追って伏兵の中に入ったところで、徹底的に打ち破り、首級一千をあげた。孫策はそのあとでサク融の軍営のすぐそばまで行き、左右の者に「孫郎のお手並みはどうだ」と叫ばせた。敵兵はこれを見て恐れおののき、夜中に逃走した。サク融は孫策が生きていると聞き、さらに溝を深くし塁を高くして、防御の態勢を固めた。孫策は、サク融が軍営を置いている場所が地勢険固であることから、これをそのままにして去り、劉ヨウの別将(別働隊の部将)を海陵で破り、矛先を転じて湖孰や江乗を攻めて、みな降伏させた。
 孫策の人となりは、秀でた容姿をそなえて、談笑を好み、性格は闊達で他人の意見をよく聴き入れ、適材適所に人を用いた。そのため士人たちも民衆たちも、彼に会ったことのある者は、すべて誠心誠意、命をかけて彼のために働きたいと願った。
 劉ヨウは[孫策の攻撃がきびしくなったため]その軍勢を棄てて逃亡し、郡守たちもみな城郭を棄てて他所に奔った [一]
 呉人の厳白虎らは、それぞれに一万余の人数を集め、処々にたむろしていた。呉景らは、まず厳白虎らを打ち破り、それから会稽に軍を進めようとくわだてた。孫策がいった、「厳白虎らは、群盗にすぎず、大きな野望があるわけではありません。いつでも虜にできるのです。」そう主張すると、兵を率いて浙江を渡り、会稽に本拠地を置いて、東冶城を落とし、そのあとで厳白虎たちを打ち破った[ニ]
[占拠した地方では]郡や県のおもだった役人をみな入れ替え、孫策はみずから会稽太守を兼任し、呉景を丹楊太守に戻し、孫賁を豫章太守に任じた。丹楊の朱治を呉郡太守に任じた。彭城の張昭、広陵の張紘・秦松・陳端らが、孫策の参謀となった[三]
 このころ、袁術が皇帝を僭称したので、孫策は手紙を送ってそれを非難し、袁術との関係を断った[四]。曹公(曹操)が上表して孫策を討逆将軍に任じ、呉侯に封じた[五]
 のちに袁術が死ぬと、その長史であった楊弘や大将の張勳たちは、その部下をひきつれて孫策のもとに身を寄せようとしたが、廬江太守の劉勲がまちぶせして攻撃をかけ、みなこれを捕虜とし、珍宝を奪い取って引き上げた。孫策はこのことを聞くと、本心を隠して劉勲と同盟関係を結んだ。劉勲は、新たにもとの袁術の配下を手に入れて[意気上がっており]、ちょうどそのころ、豫章の上繚の宗民(宗教結社に属する人々)たち一万余戸が江東の地にいたところから、孫策は劉勲にそれらの者も武力によって手に入れてしまうようにと勧めた。劉勲が宗民の攻撃に出発したあと、孫策は、軽装備の兵士たちを率い昼夜兼行で軍を進めて、廬江を攻め落とした。劉勲の配下はみな降伏し、張勳は、配下の数百人だけを引き連れて、曹公のもとに身を寄せた[六]
 このころ袁紹の勢いが最も盛んな時期に当たり、しかも孫策が江東の地を統合してしまっていたので、曹公も存分に力を発揮することができず、ひとまずは孫策を手なずけようと計った[七]。そこで自分の弟の娘を孫策の末弟の孫匡に縁付け、また息子の曹章のために孫賁の娘を娶り、孫策の弟の孫権と孫翊とをそれぞれ手厚い礼で自分のもとに招いて官職につけ、一方、揚州刺史の厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた。
[一]
『江表伝』にいう。孫策は当時まだ年が若かったので、すでに官位や称号を持っていはいたが、士人や民衆たちはみな彼を孫郎(孫の若君)と呼んでいた。人々は孫郎がやってくると聞くと、みな肝をつぶし、おもだった役人たちは城郭を棄てて、山野にひそみかくれた。[しかし実際に孫策が]やってきてみると、兵士たちは命令を守って略奪などしようとはせず、家畜や作物にも指一本触れることがなかった。民衆たちはこれを知っておおいに喜び、競って牛酒をもって軍営にやってきて[ねぎらった]。劉ヨウが逃亡すると、孫策は曲阿の城に入って部将や士卒たちに恩賞を与えてねぎらい、また部将の陳宝を阜陵にまで遣って母親と弟とを迎えて曲阿に移住させた。寛大な命令を出し、配下の諸県に告げ知らせた、「劉ヨウ・サク融らの子飼いの部下でも、降伏してきた者は、罪を一切問うてはならない。その中に従軍を願う者がおるなら、一人が軍役に出たとき、その家全体の賦役を免除するように。従軍を願わぬ者に対しては、強制をしてはならない」と。十日ほどの間に、四方から雲の沸くように人が集まり、二万余人の現役兵と千余匹の馬とが手に入った。孫策の威望は江東に振るい、勢力はますます盛んとなった。
[ニ]
『呉録』にいう。この当時、烏程の雛多や銭銅、それに前の合浦太守であった嘉興の王晟たちが、それぞれに一万余、あるいは数千の軍勢を集めていた。孫策は兵を率いて[こうした地方勢力の]討伐を行い、これらをみな打ち破った。孫策の母の呉氏がいった、「王晟は、おまえの父上とは奥座敷に通り妻と挨拶するような親しい関係でありました。いまその子弟兄弟たちはみな斬首誅滅されて、老人一人が残っておるだけです。何のおそれることがありましょう。」母の言葉に従って王晟だけは見逃し、他はすべて一家皆殺しにした。
 孫策はみずから厳白虎の討伐に向かった。厳白虎は塁を高くし守りを固めたまま、その弟の厳與を使者として和睦を請わせた。孫策は和睦に同意した。厳與は孫策と一対一で会って和睦を結びたいと望んだ。二人が会見した席上で、孫策はぬき身の刃で席に切りつけた。厳與は身じろぎをした。孫策は笑っていった、「あなたが即座に立ち上がり、非常にすばやい立ちまわりができると聞きましたので、少しふざけたまでです。」厳與がいった、「刃物を見るとそんなふうにできるのです。」孫策は厳與にそんなことができぬことを見てとって、手戟(片手であやつる小さい戟)を投げつけてその場で殺した。厳與は勇猛で武力があったことから、厳白虎の一味は彼が死んだと聞いて、ひどくおじけづいた。孫策は軍を進めてこれを打ち破った。厳白虎は余杭へ奔り、許昭のもとに身を寄せた。程普が許昭を討ちたいと願ったが、孫策は「許昭はもとの主君への忠義を忘れず、古い友人にも誠を尽くしておる。これは大丈夫たる者が心がけるべきところだ」といい、攻撃はさしひかえた。
 臣(わたくし)裴松之が考えるに、許昭がもとの主君へ忠義を忘れなかったというのは、盛憲を救ったことをいう。そのことは後の注(孫韶伝の注)に見える。古い友達に誠を尽くしたというのは、厳白虎を受け入れたことをさすのである。
[三]
『江表伝』にいう。孫策は奉正都尉の劉由と五官掾の高承を使者にたて、上章文をたずさえて許(当時、献帝は曹操の庇護のもとに潁川郡の許にあった)にゆき、つつしんで土地の産物を献上させた。
[四]
『呉録』は、孫策が張紘に命じて書かせた手紙を載せている。それには次のようにいう。
「そもそも上天が[人々の過ちを見守る]司過の星を天に懸け、聖王が[諫言をしたいとき打ち鳴らす]敢諫の太鼓を設けて、悪事やあやまちへの備えとなし、みずからの欠点を指摘する言葉を求めるのに急であるのは、なぜでありましょう。それは、長所のあるところには、必ず短所もともなうからなのです。昨年の冬、あなたに大それた意図があるとのうわさが伝わり、恐れおののかぬ者はございませんでした。しかしまもなく、朝廷に献上物を捧げられたと知って、すべての者が疑惑を解いたのでございました。近ごろ取りざたされているところを聞き及べば、かつての目論みをふたたび実行に移そうとされ、事をおこす期日は、もう何月にするかまで定められているとのこと。ますますもってわれわれを驚きあやしませますが、これはでたらめな流言なのでありましょう。もしそれが本当であるとすれば、民衆のあなたへの期待はすべて裏切られます。昔、義兵を挙げられたとき、天下の人士たちが声に応ずる響きのようにすばやく反応したのは、董卓が官吏の任免権をほしいままにし、太后と弘農王とを殺し、宮女たちを奪い、御陵を暴くなど、暴虐がかくもつのっていたからこそ、天下の渚州郡の英雄豪傑たちが、呼びかけを聞き義挙に心を寄せたのでありました。人智を越えた武威が州郡の間に発揮されるや、董卓は都で自滅いたしました。悪のもとじめが亡びると、幼いご主君は東方にもどられ、保傅(守り役)を通じて命令を出されて、義兵を挙げた諸軍に引き上げるようにと命じられました。しかるに河北の袁紹は黒山の賊と通謀し、曹操は東方の徐州で悪逆をなし、劉表は南方の荊州で乱をおこし、公孫サンは北方の幽州で勝手気ままなことをなし、劉ヨウは長江流域を力でおさえ、劉備は淮水のほとりで盟主にならんと争い、こうした状況のもとで、私もご主君の命令に従って弓をしまい矛を収めることができずにおるのです。いま劉備と劉ヨウとはすでに敗れ、曹操たちは食料の欠乏に苦しんでいます。思いますに今こそ広く天下の者たちと謀事を通じ、悪人どもを除き去るべきなのであります。それを捨ておいて実行せず、みずからが天下を取ろうとのくわだてを懐くのは、天下の人々の期待を裏切るものであること、これが第一点です。昔、殷の湯王が夏の桀王を伐たんとしたとき、夏の王朝は罪が多い、と宣言し、周の武王が殷の紂王を伐ったときには、殷には重い罪と罰とがあるのだ、と言挙げいたしました。この二人の王者は、聖徳をそなえて主君として世を治めるべき人物でありましたが、もしそうした時代にめぐり合わさなかったならば、事をおこす理由もなかったのです。[いま]幼いご主君は、天下に対し悪事をはたらかれたわけではありません。ただまだ年若くあられるために、権臣たちの圧力に抗し切れないだけなのです。過ちもないのにその権力を奪われたならば、湯王や武王のやられたこととは合致せぬのではないかと心配します。これが第二点です。董卓は道理に背いてめちゃくちゃをやりましたが、主君を廃してみずからが取って代わろうとまではいたしませんでした。それでも天下の人々は、彼の強暴残虐を伝え聞いて、切歯扼腕し心をあわせて彼を憎み、戦いになれておらぬ中原の兵士でもって、[董卓のひきいる]辺境の勇猛精悍な賊軍に当たって[勝利をえ]、かくしてまもなく董卓は殺されてその魂は中有に迷うこととなったのです。[こうした中で]勝利を得ることができるのは、敵が乱れていて味方が治まっている場合と、敵が道理にそむき味方に道理がある場合とであります。今の世の乱れを見て、強力な武力だけでこれを支配しようとしても、それは禍いの中に足をふみ入れるだけのことです。これが第三点です。天下は神秘な器であって、なんの基礎もなく手に入れようとしていても、それはかないません。必ず天のたすけと人々の協力とが必要なのです。殷の湯王には白い鳩の吉祥があり、周の武王には赤い烏の嘉瑞があり、漢の高祖には星が集まるという符瑞があり、後漢の光武帝には神秘な光が輝くという吉徴がありました。それぞれに民衆たちが桀王や紂王の政治に困憊し、秦や王莽の賦役に苦しんでおればこそ、無道の支配者を除き去って、各自の志を達成することができたのです。しかしいま天下が幼いご主君の政治に苦しめられているわけでもなく、新しい王者が天命を受けたことを示す応験もあらわれてはおりません。それなのにある日突然に帝位に登ろうとなされるのは、これまでにも例のないことです。これが第四点です。天子という最高の位にのぼり、天下の富を所有するということを、誰がのぞまぬでありましょう。しかしそれは道義の上からも許されぬことであり、情勢もそれを許しません。陳勝・項籍・王莽・公孫述といった連中は、みないったんは南面して皇帝を名乗りながら、誰もその最後をまっとうできませんでした。帝王の位というものは、むやみと望んではならないのであります。これが第五点です。幼いご主君は優れた器量をお持ちになり、もし権力者の圧迫を除き、頑迷な側近を追い出されれば、必ずや漢王朝の中興を成しとげられましょう。ご主君を補佐して周の成王と同様の盛んな御世を招来し、みずからは周公旦や召公セキのごときほまれを受けられる―これがあなたにやっていただきたいと心より望んでおるところなのです。もし幼いご主君は、ほかに位を譲られるべき理由があったとしても、[その場合には]王室の系譜を調べ、血縁の近い賢明な人物を選んで[帝位につけ]、劉氏の血統を嗣ぎ、漢の王室のもといを固めるよう計られんことを望みます。[このようにされることは]すべてあなたの功績が金石に刻され、肖像が絵に画かれ、めでたさを無窮の子孫にまで伝え、管絃の楽器でほめうたが唱われるようになる、そのための道なのであります。これを捨ておかれたまま、わざわざ困難の多い道を選ばれることなど、あなたの明察に富んだご資質からも、けっしてなさったりはすまいと考えます。これが第六点です。五代にわたって宰相をつとめられ、その権威の重さ、勢力の盛んさでは、天下にならぶものもないお家柄です。[こうしたお家から出た]忠節の者は、必ずや次のように申すでありましょう、『昼夜を問わず思いをめぐらせて、いかにすれば、国家のつまずきを助けおこし、社稷の危機を救う方法を考え出して、父祖の志を大切に受け継ぎ、漢の王室から賜ったご恩に報ずることができようか、と念じなければならない』と。[また逆に]ふみおこなうべき道をないがしろにしてみずからの野望を逞しくしている者は、次のように申すでありましょう、『天下の者はおれの家のめしつかいでなければ書生だ。誰がおれのいうことに従わぬだろう。四方の敵対者も、おれの同輩でなければおれの部下だ。誰がおれに反対できよう。代々の権威をかりて、事をおこし天下を奪ってなんの悪いことがあろう』と。この両者の根本的な差異について、十分に熟慮されるべきであります。これが第七点です。聖人や哲人たちが貴ばれるのは、彼らがそれぞれの情況の中でなすべきことをはっきりと把握し、それを慎重に行動に移すからであります。実現困難なことをくわだて、あてにならない情勢を利用しようとして、むらがる敵対者たちを刺激し、人々の心に不安を呼びおこすことは、公の道義の点でもとより許されないだけでなく、個人的な立場を考えても何の利益もございません。聖人哲人はそうした身の処し方はいたしません。これが第八点です。世の人々は多く図緯(政治的予言)に惑わされ関係のないことまでこじつけて、文字を組み合わせて自分がつかえている者[に天子となる徴があるなどといって]悦ばせております。かりそめの気持ちから上の人物におもねり人を惑わして、結局は後悔せねばならなくなったものは、古今を通じて、絶えることがありません。このことをよくわきまえ熟考されねばなりません。これが第九点です。以上の九点は、すでにあなたのよくご存知のところを繰り返したにすぎませんが、どうかご参考くださり、失念された点の補いとしてくださいますように。忠言は耳に逆らうと申しますが、お耳にお留めいただければ幸いでございます。」
『典略』は、この手紙を張昭が書いたものとしている。臣(わたくし)裴松之が考えるに、張昭は名声は高かったが、張紘ほどの文章は書けなかった。この手紙は張紘が書いたものであるにちがいない。
[五]
『江表伝』にいう。建安ニ年(197年)の夏、漢の朝廷は議郎の王ヲを使者として遣わし、戊辰の日に出された詔書を孫策に伝えさせた。それには次のようにあった。「董卓が逆乱をなし、国に災いを与え民をそこなったとき、今はなき将軍孫堅は、董卓を伐ち平らげんと志、その平生の意図は遂げられなかったとはいえ、ほまれは世に知れわたった。なんじ孫策もまた、正しき道に従い、世の中の福利をはかってひとすじに努力をしている。ここに孫策を騎都尉に任じ、烏程侯の爵位を嗣ぎ、会稽太守を兼任させる。」加えて次のような詔勅があった。「もとの左将軍の袁術は、朝恩をないがしろにし、ほしいままに悪逆をなし、虚偽をでっち上げ、兵乱に乗じ、万民をたばかって[帝号を僭称せんと]くわだてた。はじめそうしたことについて聞いたときには、真実であるまいと考えた。しかし思いがけなくも、使持節・平東将軍・領徐州牧・温侯の呂布より、袁術が民衆を惑わしてけしからぬことをなしているとする上言があって、袁術が腹黒い生まれつきで、無道ぶりを発揮し、勝手に王宮を建て、公卿を任命し、天地の祭を行い、人民や万物をそこない、ひどい災禍を流していることを知った。呂布は幾度も上言し、孫策が心をわが王朝に傾け、軍をめぐらせて袁術を討伐し、国家のために忠節の働きを示したいと願っておるゆえ、特別の恩顧を加えられるようにといってきている。恩賞を約束して功績の挙がらんことを待つのは、忠勤をはげむ者にそれを授けんとしてだ。さればここに篤い賜りものを降し、父親の爵邑を嗣がしめ、加えて大群の太守に任ずる。栄耀がいっときにその身に加えられた。いまこそおまえ孫策が、力を尽くし命を投げ出すべきときなのだ。すみやかに呂布および行呉郡太守・安東将軍の陳ウと力を合わせ心を一にし、時を同じくして袁術の討伐にむかうように。」孫策が[このとき]考えるには、自分は兵馬を指揮してきたのであるが、騎都尉のままで郡の太守を兼ねるのでは官が軽すぎるので、将軍の称号を得たいものだ、と。そこで人を介して王ヲにそれとなく希望を伝えさせると、王ヲはすぐさまその権限で孫策を仮の明漢将軍に任じた。このとき、陳ウは海西に軍を置いていた。孫策は詔を奉じて軍を整えると、呂布や陳ウと共同作戦を行おうとした。軍を進めて銭塘まで来たが、陳ウはひそかに孫策を襲撃しようとくわだて、都尉の万演らを遣わして秘密裏に長江を渡り、[官位を約束する]印章三十余個を持っていって、敵対している丹楊・宣城・・陵陽・始安・イ・歙など情勢不安定な諸県の大師の祖郎や焦已、それに呉郡烏程の厳白虎らにばらまき、内応を約束させて、孫策が郡を動かしたすきをねらって、孫策の支配下にある諸郡を奪い取らせようとくわだてた。孫策はこのたくらみに気づき、呂範と徐逸とを遣って陳ウを海西に攻め、大いに陳ウを破って、その軍吏や士卒、彼らの妻子など四千人を捕虜にした。
『山陽公載記』にいう。陳ウは単騎、冀州へ逃げると、袁紹のもとに身を寄せた。袁紹は彼を故安の都尉に任じた。
『呉録』は、孫策の[詔書に対する]感謝の上表文を記録する。その上表文にいう、「臣(わたくし)は、取り立てて才能もないまま、一人辺陲の地の守りに当たってまいりました。陛下には、立派なご恩沢を広く敷きひろげられ、ちっぽけな忠節もお見逃しなく、臣めに父の爵位を継がせ、兼ねて立派な郡の統治をお命じくださいました。たまわりました栄誉とご恩寵とは、臣などのよく任えるところではございません。興平二年十二月二十日のこと、呉郡の曲阿において、袁術がたてまつった上表により、臣は殄寇将軍を兼任することになったと知らされましたが、いまこの詔書を降され、それが勝手な任命であったことを知りました。[その称号は]すぐ棄てたのでありますが、それでも[一度はにせの称号を用いたことに対し]心はふるえおののきます。臣は年十七にしてたのむべき父親を失いました。父の事業を受け継ぐことのできるだけの才能もなく、そのことで子は父の遺志を守皖らねばならぬという戒めをはずかしめるのではないかと畏れるばかりで、霍去病が年十八で功を建て、光武帝配下の諸将たちが二十そこそこで王朝復興の功臣となったことなどには、およびもつかぬことでございます。臣がはじめて兵をひきいましたときは、まだ年は二十に及ばず、いくじなしで武事に通じてもおりませんでしたが、この微命を投げうたんとの決心だけは持っておりました。思いみますに、袁術めは心に正道をなみし、その悪事は重く積み重なっております。臣は、陛下のご威霊をおかりし、正義の旗のもとに悪人を懲罰し、必ずや勝利の知らせをお伝えして、このたびのご授任にお報えする所存でございます。」
 臣裴松之が考えるに、『三国志』の本伝には、孫堅が初平三年に死去し、孫策は建安五年に死去したとあり、また孫策は年二十六で死んだといっているから、計算してみるに、孫堅が死んだとき、孫策は十八であったはずである。しかるにこの上表文に年十七であったといっているのは、それと矛盾する。張ハンの『漢紀』と『呉歴』とが共に、孫堅は初平二年に死んだとしている。こちらのほうが正しく、本伝は間違っているのである。
『江表伝』にいう。建安三年、孫策は再び使者を遣わして土地の産物を天子に献上した。その内容は元年の献上物に倍するものであった。この年、制書が降され、孫策は討逆将軍に転じ、呉侯に改封された。
[六]
『江表伝』にいう。孫策は詔勅を受けると、司空の曹公(曹操)、衛将軍の董承、益州牧の劉璋らとともに共同して袁術と劉表との討伐にあたることになった。ちょうど軍勢を整えて出発しようとしているときに、袁術が死んだ。袁術のいとこの袁胤、娘婿の黄猗らは、曹公を畏れて、寿春を守り通そうとはせずに、袁術の柩をかつぎ、その妻子や配下の男女をひきつれて、皖城の劉勲のもとに身を寄せた。劉勲のもとでは食料が不足していて、彼らに十分な援助が与えられなかった。そこで従弟の劉偕を遣って、豫章太守の華キンに食料買い入れを申しこませた。華キンの郡役所でもかねて穀物が不足しており、役人をつけて劉偕とともに海昏と上繚に行って、その地の宗帥(地方の独立権力のボス)たちから合わせて三万石の米を供出させて、それを劉偕にあたえようとした。劉偕が現地におもむいて一ヶ月余りにもなったが、わずかに数千石を手に入れただけであった。劉偕はそこで劉勲に報告を送り、現在の情勢を詳しく述べて、軍を進めてここを襲い食料をぶん取るようにと告げた。劉勲は、劉偕の手紙を受け取ると、こっそりと軍を海昏の邑のすぐそばまで進めた。宗師はこのことを知ると、邑の中をからっぽにして逃げかくれ、劉勲は何一つ手に入れられなかった。このとき、孫策は西方の黄祖の討伐に向かっていたのであるが、石城まで来たところで、劉勲が小人数の軍勢でみずから海昏に向かったと聞くと、すぐさま軍を分け、従兄の孫賁と孫輔とには八千人を率いて彭沢で劉勲を待ち伏せさせ、自分自身は周瑜とともに二万人を率いて皖城を襲って、即座に降伏させ、袁術の配下の工芸者や楽隊など三万余人、それに袁術や劉勲の妻子を手に入れた。上表して汝南の李術を廬江太守に任じ、兵三千をあたえて皖を守らせると、捕虜にした者はみな東方の呉の街まで護送した。孫賁と孫輔のほうでも彭沢で劉勲を打ち破った。劉勲は逃げて楚江に入り、尋陽から徒歩で置馬亭までさかのぼったが、孫策たちがすでに皖城を降したと聞き、西塞山中に身をひそめた。劉勲は山中の流沂城に入り、塁を築いて守りを固めるとともに、劉表に急を告げ、黄祖に救援を求めた。黄祖は、太子の黄射と水軍五千人とを派遣して劉勲を救援させた。孫策はさらに西塞山まで軍を進めて攻撃をかけ、劉勲を大いに打ち破った。劉勲は劉偕とともに北に走り、曹公のもとに身を寄せた。黄射もあわてて逃亡した。孫策は、劉勲の兵二千余人と船千艘を手に入れると、そのまま夏口まで軍を進めて黄祖に攻撃をかけた。当時、劉表は、従子の劉虎と南陽の韓晞とが指揮する長矛で装備した部隊五千を黄祖のもとに派遣し、この部隊が黄祖の先鋒となっていた。孫策はこれと戦い、大いに打ち破った。
『呉録』は孫策の上表文を載せる。それは次のようにいう、「臣(わたくし)は、黄祖の討伐にあたり、十二月八日の日には黄祖が陣をしく沙羨県まで軍を進めました。劉表が部将を遣って黄祖の援助をさせ、ともども臣に向かって兵を進めてまいりました。臣は、十一日の夜明け方、部下の江夏太守・行建威中郎将の周瑜、領桂陽太守・行征虜中郎将の呂範、領零陵太守・行蕩寇中郎将の程普、行奉業校尉の孫権、行先登校尉の韓当、行武鋒校尉の黄蓋らを指揮し、時を同じくしていっせいに攻撃をかけさせました。みずからは馬に跨って敵陣を蹴散らし、手に急調子の戦鼓を打って、攻撃の勢いを整えたのであります。軍吏も兵士も奮い立ち、勇気百倍して踊り上がり、細心かつ果敢に、おのおの競いあって命令を遂行いたしました。幾重もの塹壕を乗り越え、その速さは飛ぶがごとくでありました。風上に火を放ち、兵士たちはその煙をかいくぐって踊りこみ、弓や弩がいっせいに発射されて、降りそそぐ矢は雨のようでございました。辰の時(午前九時ごろ)になるころには、黄祖の軍は壊滅したのでございます。鋭い刃の斬るところ、風に乗った炎が焚くところ、その前には生命を全うする敵兵もなく、ただ黄祖だけが走り逃れました。彼の妻や息子たち男女七人を捕虜とし、劉虎や韓晞をはじめ、二万余の首級を斬りました。水にはまって溺死した者が一万余名、船六千艘と山と積まれた財宝とが残されました。劉表はまだとりことなってはおりませんが、黄祖がかねて悪知恵を働かせたのは、劉表の腹心となり手先となって、悪事を行ってきたのであり、劉表が悪逆をなしたのも、黄祖がそれを吹きこみ助長していたからです。しかるにいま、黄祖の一族と配下とは完全に烏有に帰しました。劉表は孤立無援の囚人、すでに亡者であり生けるしかばねにすぎぬのです。こうしたことはすべて神聖なる漢王朝のご神威が遠く辺境の地に振るわれた結果であり、臣も罪人を討伐し、いささかの忠勤をあらわすことができたのでございます。」
[七]
『呉歴』にいう。曹公は、孫策が江南を平定したと聞き、心中やっかいなことになったと考え、つねづね「狂犬野郎とは喧嘩するわけにはゆかぬのだ」と大声でいったりしていた。
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