私論・お正月の風物詩

 

 お正月。なんだかわからないけどめでたいめでたいと言われ、昼間から酔っぱらっててもなんとなくOKという雰囲気がただよう日々(といってもそれは三賀日くらいの話)。でも、めでたいのは世間様だけで、僕は年末の掃除疲れでなんとなくぐったりしている。で、特にすることがないときにテレビをつけてみても、お正月特有バカ騒ぎが各局で繰り広げられていて、ちっとも面白くなかったりする。年賀状を見る楽しみなんかもあるが、そんなに多くの年賀状が届くわけではないので、一時間も過ごせない。年末の、極端なまでの忙しさから、ゆったりのんびりしましょうというお正月の雰囲気に、どうもあわせ切れていないのかもしれない。やはり紋付袴なぞでビシっと決めて初もうでをし、凧上げてコマ回しましょーということができない僕(=ほか大多数)には、お正月は持て余すものなのだろうか?・・・などという、お正月からなんちゅう書き出しなんだと御心配のみなさん、御安心あれ。この先、今回はとてもマシな話題です。

 我が家では、“お正月の三賀日には家族揃って雑煮を食うべし”というオキマリがあるのだが、朝のオキマリの傍らでは、決まってテレビで箱根駅伝の中継をつけていた。箱根駅伝については、もう詳しい説明の必要はあるまい。毎年正月の2・3日に行われる、“東京箱根間往復大学駅伝競争”のことである。長時間のレースだから、さすがに最初から最後まで全部見たという人はあまりいるまいが、ついつい1時間見ちゃった、という人は多いのではないだろうか。僕は小さな頃から「ついつい惹きこまれて3時間見ちゃった」というかなり重症な部類で、駅伝を見なければ正月が来た気分になれなかったのである。ウロ覚えで申し訳ないのだが、僕が箱根駅伝を見るようになったのは、山梨学院大学が外国人留学生を擁して上位に食い込みはじめたころで、他には早稲田大・大東大・順天堂大などがトップ争いをしていたころだ。専修大・東洋大・東京農大・東海大も地味ながら中位を構成していた。最近はめっぽう強い駒沢大もまだ弱くて、これまた地味だった覚えがある。まあ、ひと昔以上も前の話だ。

 スポーツなんてまるでやらない超文科系人間の僕でも、箱根駅伝を走る選手は、とてもカッコ良く思えた。さすがに自分で箱根を走りたいとは思わなかったが、箱根駅伝に出場する大学に入学して、在校生として沿道で応援したい、なんていう野望は持っていた。だから僕は東大には入らなかったのである。と、こんなところでジョークを交えてしまうからウソっぽくなってしまうのだが、とにかく箱根駅伝を応援したかったのはホント。箱根駅伝常連校を中心に大学受験したのもホント。で、ホントに入学しちゃったのであるから、一念岩を通す、とは過言ではないかもしれない。念願かなった。これで箱根を応援できる!

 ところが、僕が入った大学は、僕が在学した4年間でちょう落の一途を辿ってしまった。例年、シードの圏内(出場15校中9位以内に入ると、翌年の予選が免除となる)くらいの順位はなんとかなっていたのが、僕の在学中はシード落ちの連続だった。あまりにモノスゴイ順位に、とても応援に行く気がしなくなってしまったのだ。行こうと思えば、すぐに応援にいけるような場所を選手は走っている(コースとなっている道路は、僕もちょいちょい車で通る道なのだ)。しかも、自分の在籍する大学が出場しているのに・・・入学した暁には現地で応援してやろうと意気込んでいたはずが、弱いのなんか見たくないとか、上位でレースを進めている大学に在籍する友人からバカにされそうだとか、なんやかやと理由をつけて。さすがに4年生のときこそは応援に行こうと思っていたのだが、あまりにふがいない成績だったので、またしてもテレビ観戦のみ。応援熱が冷めたわけではないのだが、どうしても現地に足が向かなかったのだ。

 ・・・なぜだろう?あれほど見たいと思った箱根駅伝を直接見ることへの恐れだろうか?結局応援に行かないまま卒業してしまった。同時に、僕が4年生のときを最後に、我が母校は予選落ちをくり返すこととなった。毎年、いつものように駅伝を見るのだけれど、どうしても母校の出ていない箱根駅伝には、以前のような魅力を感じなかった。そんなに僕は愛校心があっただろうか?

 2001年10月某日。何気なくテレビをつけたら、箱根駅伝予選会を中継していた。一度も見に行ったことがないクセに、そこで報じられた母校が予選を通過したというニュースは、嬉しい事態(誤算?もう出られないと思っていたのに)そのものだった。

 そして2002年1月3日・・・

 我が母校は、最後の最後の9区→10区という中継で、繰り上げスタートとなってしまった。10区のランナーが繰り上げとなったとき、9区を走る選手はあと残り200mほどだった。そこで母校のタスキは途切れた。襷をつなげず、グッタリする9区のランナー。その瞬間に、やっぱ直接応援しなきゃな、という気分になったのだ。俺が(僕が、などと言っている場合ではない)応援しないで、ビリの我が母校を誰が応援するのか!使命感にかられたわけではないのだが、1位の選手(駒大)が中継所を出発してからすでに20分、あと50分ほどでゴールしてしまう。急がねば!

 財布とケータイとカメラだけ持って、自宅からの距離と時間を考えて日比谷の交差点(ゴールまであと2km)へ。まだ1位の選手の通過までは時間があったが、すでに黒山の人だかりだ。それが見渡す限り続いているのだから、さすが箱根駅伝人気である。あまりの人出と逆光のため、カメラを取り出すのを断念。見るだけにしようといい位置を探していたら、ちょうどお堀端の柵がいい高さだったので、その上に座ることにした。車道ギリギリで応援している多くの人よりも頭2つくらい出るので、いい塩梅だ。目の前の交番から、お巡りさんが先頭はどこを走っていて最後はどこだ、と詳細に放送してくれている。これは好都合である。

 待つことしばし。はるか向うの方で、パトカーのランプが見えた。その後ろを大きな車両がくっついて走っている。あれがテレビの中継車?

 さらに待つことしばし。今度は、向うの方からウェーブのように、順に小旗がうち振られるようになった。選手の応援に小旗はつきもの、今度は間違いない!そこからはすべてが一瞬だったのだが、テレビ中継車が通過し、先導の白バイが通過し、その後ろを駒大の選手が走っていっていた。ぶっちぎりのトップだが、表情や走りが緩んでいるようなことはなかった。けっこうたんたんと走っているようだし、沿道を全力でダッシュしなくても追いつけそうな速度である。でも、それを20kmにもわたって走るというのだから、やはりモノスゴイ。僕の立っていた場所の都合で、選手の背中はすぐに見えなくなってしまったのだが、沿道の人垣は、まさに“栄光のゴールへの道筋”を示しているような気がした。

 トップから遅れること24分。もちろん、駒大の優勝はとっくに決まった後。出場15大学中14番目の大学が通過し、ただ1校、僕の目の前を通過していない残った大学が、僕の母校だった。そのとき、日比谷交差点にはほとんどの観衆が残っていた。いや、トップが通過したときよりも、確実に観衆は増えていたほどだ。そこにやっとこさ走ってきた選手はとっても疲れていて、明らかに「ペースあがんないっす。もう限界っす」という顔をしていた。でも、ゴールするまでは走らなければならない。ゴールをするなり襷を繋がなければ、記録は無効となってしまうのだ。個人成績は残ってもチームの成績がなくなるかも・・・駅伝というレースはなんて残酷なんだろう・・・箱根駅伝が好きで大学を選び、毎年欠かさず4時間以上はテレビ観戦をしていたクセに、そんなことをそのときに初めて思ったのは、母校がビリを走っていたからではない。襷にかける思いがどうのこうのなんて、テレビでは1時間に何度も聞ける言葉であろう。それを目の前で見せつけられたのである。耳学問の現実を知った、というまさにその瞬間だったのだ。モロに逆光だからとカメラを取り出していなかったが、もしカメラを構えられるポジションにいたとしても、果たして僕はシャッターを切れたであろうか?あの襷は、細い1本の糸でつながっていると言っても過言ではあるまい。ふとしたことで切れてしまう可能性が大いにあることを、再認識させられた気がした。

 最終的に、我が母校は総合13位だった。やはり残念だったし、駒大卒の友人からの歓喜のメールにはヤラレタのだが、それよりも、そこはかとない清清しさが僕の中に残った。日比谷交差点で見た選手の光景が、テレビで強引に押し付けられる清清しさとはまったく別の清清しさを、僕の中から沸き起こらせてくれたのだった。

そう、僕は帰りの電車の中で、レースの余韻にひたることができたのだから。

 

2002/01/08

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