覚えた冬の星座は

 

 ある日のこと。年末年始の多忙が一段落し、僕は久々に千葉県内をドライブしていた。自宅を出発したのは午後9時。例によって目的地は設定しなかったつもりなのだが、気付けばお気に入りコースの房総半島を走っていたのである。久々のドライブだから、やたらと楽しい。東金から茂原に向けて南下していたときは、気合いで房総半島一周だなどと意気込むほどだった・・・のだが、なぜか道を間違えてしまい(どこかで曲がりそこねた?)、ひたすら国道を走るはずが、大いに不思議な道を走るハメとなってしまった。ずいぶん民家が少ねぇなあとは思っていたのだが、15分以上も予定のルートから外れていたことに気付かなかったのだから、ホントにマヌケな話である。気付いたときはもう遅く、国道で半島一周というルートからは大きく外れていた。時間はすでに23時半だから、道路はガラガラ。20分ちょっとも走れば国道に復帰できるだろうが、そこまで半島一周にこだわるモノもなにもない。さて、どうしよう?

 そのときの僕の現在地は、“大多喜”という町である。そこから、以前走ったことがある国道を経由して、久留里という町に抜けてみようかと走り出した。その区間は鉄道も走っているのだが、残念ながらまだ乗っていない区間である。そこを車で走ることになるとは・・・と、そこで魔が差した。以前その国道を走ったときに、“平沢ダム”という看板を見かけたことがあったのである。よ〜し、夜のダムを見に行ってやれ。ノリと勢いとは恐ろしいもので、真夜中にダム詣でという不気味な企画を思いつきで敢行することにした。

 この付近は、国道でさえ人通りはもちろん車通りさえも少なかったのに、ダム方面に向かう人なんて誰もいるわけがない。不気味な雰囲気は抜群なので、“山道に出現するユーレイ伝説”なんてのはこんな場所で生まれるのかと思ったが、残念ながら僕はカケラも霊感がないので、いざユーレイがお出ましになっても気付かないかも。周辺に民家はちょっとだけあるが、電気のついている家はない。そろそろ日が変わる頃だから、それも当然だろう。しっかし暗いよなぁ・・・などといろいろ考えているうちに、道はどんどんのぼっていく。どこまでのぼったらダムなんだ?反対側に降りちゃうんじゃねぇの?そんな勝手な心配をしていたところで、突然ヘッドライトが案内板を照らした。目の前に浮かび上がった案内板は、もちろん平沢ダム。やっと到着である。

 ダムは、僕が想像していたよりもずっと小さかった。徒歩でも15分あれば1周できるのではなかろうか。国道に看板が出ていたのに(後でロードマップを見たら、ダム名が記載されていないほどだった)?でも、ダムを周回する道路が細いながらも整備され、こぎれいな展望台(何を見るんだ?)もあった。だが、もちろん人通りも車通りも皆無だ。どこにも誰もいないダム。時間が時間だから当然なのだが、静まり返った真夜中のダムの雰囲気は、推理ドラマならば死体遺棄シーンにそのまま使えそうだ。
 (以下妄想シーン)
  (『・・・俺が・・・やす子を殺して・・・ダムに沈めたんだ・・・』
  [深夜のダムでの回想シーン]
  『それで・・・お前は満足できたのか!!』
  [やす子、湖面から沈んでゆく。息を荒げる犯人]
  『・・・刑事さん・・・俺・・・俺!・・・ウワァ〜〜!!(号泣)』)
  [犯人を見る刑事の視線が、15年前の事件を思い出す・・・なんちゃって]
 
(妄想終わり)
 そんな、不気味以外の何ものでもない場所で、僕は車のライトを消し、エンジンまで切った。

 頭上に、無数の星が輝いていたからだ。星をじっくり見たいのでライトはもちろんのこと、エンジン音さえも邪魔だと思った。再びエンジンがかからなかったらまさに怪奇ドラマだが、くだらない妄想も排除されるほどの星!無数、というのはオオゲサな数ではなく、薄っぺらな割には本当に便利な表現である。都内、しかも23区内に住んでいる僕にとって、どんなに星が見えても数えられる範囲がせいぜいだ。それが、数えるにはカウンターでもないと不可能なくらいの星が、夜空に輝いていた。もちろん、都内にいる僕の頭上でも、これだけの星が輝いているはずである。ところが、それはいろいろな原因によって見ることができない。その“いろいろな原因”がなければ、これだけの星を毎日でも見ることができるのである。そんなことに気づかされたのだ。

 星をじっくり眺めたなんて、何年ぶりのことだろうか?また、これだけの数の星を見たのは・・・?そういえば、高校生のときに、部活の合宿先でやたらと星を見た覚えがあるが、長野の山奥で見たのよりも、千葉のほうが多く見えるような気がする?ともかく、僕はけっこう星を見ることが好きだったのだが、小さい頃から星座がまるで覚えられず、辛うじてオリオン座と北斗七星とカシオペア座と北極星がわかるだけである。もちろん、僕だけでなく誰もが知っているであろうそれらの星は、クリアに見えた。それ以外にもホントに多数の星が空に散らばっていたのだ。もちろん、星は人間の都合に関係なく無秩序にちらばっているわけなのだが、先人たちはその中で取捨選択して“星座”という見方を確立していったのだ。星座が、それそのものに見えるか見えないか(例・はたしてこぐま座は小熊に見えるか)という問題ではなく、想像の翼を広げた極地が、天に光っているわけである。これをロマンと呼ばずしてなんと呼ぶ?

 まったくガラにない展開になってしまったのだが、しかたない。ホントは深夜のダム湖畔という不気味さに挫けそうになり、車から1mも離れられなかった。時折、背後の茂みからするガサガサって音には総毛立った(熊はいないよな?)し、ずっと遠くのほうで聞こえる何かの音も、僕の肝を冷やすものでしかなかった(僕はけっこう小心者である)。恐さを払拭するために大声で歌いたいところだが、そこまでの山奥というわけではないのが微妙だった(近くに管理事務所があり、人の気配は一応ないのだが、もし誰かいて聞かれたら恥ずかしかったというのもある)。それに、西の空はかなり明るかった。もちろん、東京方面の光が空に映っているからだろう。だから、西のほうの星はなんとなくボンヤリしていたわけなので、きれいに全天に星が散らばっているということもなく、きっと天文ファンには物足りない状況と思われる。そこで僕はビクビクしながら空を見上げていたのだ。

 車についている温度計は、氷点下2度を表示している。ダウンジャケットを着込んでいても、だんだんと寒さが僕の上半身に這い上がってきた。その寒さをものともしなければならないのかもしれないが、寒さを体感したことで、再びダムの不気味さをすぐそばに感じてしまった。そろそろ潮時のようだ。時間にするとわずか20分ほどだが、ここ10年分は星を見た気がした。

 たまに、本当にたまに、空を見上げて星の存在に目を奪われることがある。星なんて、雲さえなければ毎日見えるはずなのに、何も考えないままその下を歩いていることのなんと多いことだろうか。いつもあるもの、すぐそこに存在するものを見落としているからこそ、それに気付いた瞬間だったからこそ目を奪われてしまったのではないだろうか。

 僕が星を見ていたとき、僕の目線は数百光年先を見ていたわけなのだから。

 

 

2002/01/11

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