携帯電話の功罪

 今月の中旬で、僕がケータイを持ってから、丸4年がたつ。丸4年といえば、ちょっとした数字だ。なんせ4年前の7月には、まだPHSの営業が始まっていなかったし、ケータイをあちこちで売っていたわりには、いざケータイを使ってみると、友人に「ケータイなんか持ってるの!?」と仰天されたノドカな時代でもあった。僕が買ったタイミングは、今の「誰でもケータイを持ってるぞ」という風潮の、ちょうどはしりの頃だったのだ。

 僕がケータイを持った理由は、けっこう普通ではない。当時、僕は母校の吹奏楽部OB会の幹部をやっていた。僕も、他のメンバーもみんな大学生。全員がバイトやサークルなどで飛び回る日々だから、連絡を取り合う時間も往々にして遅くなる。そこに問題があったのだ。「誰も一人暮らしではない」。

 連絡を取り合うのが22時半を過ぎると、さすがに躊躇することになる。フロに入っているのではないか?家族は寝ちゃったかも・・・電話かける時には、気を使うのだ。さらに、受ける側も大変だ。なんせ、ウチは「寺」である。ヘンな時間に鳴る電話・・・「すわ!!」という事態か!?というふーに、慌ててしまうのだ。う〜む、それは困る。そこで一念発起して買っちゃったという、常軌を逸した理由なのである。

 それよりも今回は、「携帯電話の功罪」という、ちょっと社会派の文章なのである。

 僕の友人に「ケータイは絶対に持たない!」と、頑強に言い張っているヤツがいる。曰く、「ケータイごときに縛られたくない」と。なるほど。確かに、「ケータイ持ってるなら、いつでも気軽に連絡がとれる」と思ってしまう。裏返せば、ケータイを持っているだけで、いつどこで誰にどのように縛られるのか分からないのだ。それだけを見れば、ケータイの罪は重い。

 でも、いつでも連絡がとれなきゃマズい人もいるのだから、そう簡単に言いきるわけにはいかない。特に、外回りの会社員の方には重宝していることだろう。なんせ、公衆電話を探したり、公衆電話の順番を待ったりする必要がないのだ。ずいぶん前だけれど、新聞に「NTTの収支・携帯電話絶好調、公衆電話絶不調」という記事が出ていたことを覚えている。そりゃーそーだよな。便利だもの。公衆電話を追いやった普及率は、無視できまい。やはり、功罪両方の性格があるのだ。

 ところで、その友人だが、僕に電話をかけてくることはしょっちゅうある。自分が縛られるのは嫌なのに、他人を縛るのはいいのだろうか?(僕は別にいいけど)しかも、便利だからと他人のケータイを借りることも多々ある。他人のケータイで他人を縛るのはアリなんだろうか?

 なんてことを考えながら、今日も僕はケータイを使った。

1999/07/22

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