タクシーについて

 

 小さい頃、僕にとってタクシーは特別な存在だった。その理由は簡単で、東京に住む僕にとって、タクシーはそこらへんをいくらでも走っている存在なのだが、まずまずめったに乗るものではなかったからだ。もちろん子供が1人で乗るようなものではないから、何十台ものタクシーを毎日のように見ても、まったく遠い存在に思っていた。当時のタクシーの初乗り料金はいくらだったか覚えていないが、バスや電車に乗るには100円玉でおつりが来るという状況にいると、タクシーは高値かつ豪華(勝手な想像)で、まさに雲の上の乗り物だった。たまに親とともにタクシーに乗った日には、愚かなまでの優越感にひたったものだ。

 中学生になっても、あいかわらずタクシーには縁がない日々だったのだが、一度だけ、先輩とともに乗ったことがある。妙にそのときのことを覚えているのだが、ウチから歩いても30分ほどのところに行き(往路はバスだった)、帰りが遅くなってしまった(終バスを逃したと思われる)。その場には4人いたので、みんなでお金を合わせればタクシーに乗れるよ、ということになったのだ。メーターでたかだか1000円くらいの距離だから、一人当り250円。中学生でも楽に払える金額である。なのに、大変に緊張した。モノスゴク悪いことをしているような気がしてならなかったのは、僕だけではなかったようだ。車内では、誰も一言も発しなかったのが印象的で、その場の空気の重さを未だに覚えている。僕は中学校1年生で、先輩たちは2年生だったはずだ。

 高校生になると、たまには乗る機会があるものなのだが、それでも敷居の高さは相変わらずだった。どうしても緊張してしまうし、何よりも10分やそこら乗っただけで1000円は請求されてしまうという暴利(!)に、どうしても納得できなかったのだ。チャリンコだったらタダだぜ?という意味不明の憤りを感じていたのだから、どう考えても僕は小市民である。日本史の史料集に出ていた「成金」の図(成金がお札を燃やしている図。“暗くてお靴がわからないわ”“どうだ明るくなったらう”=わかった人だけ笑ってください)を見て、タクシーなんてのはこんな金持ちが乗るものだと、あいかわらず思っていたのである。ノドカな育ち方をしてしまったものだ。

 そして大学生になってから。学部のうちはそれほどでもなかったが、現在は“比較的近い乗り物”となりつつあるのが恐い。20分歩くのがめんどうだどうせ1000円以下だし、なんて乗り方が増えてしまったように思える。以前はなるべく公共交通機関を利用していたのに、時間を金で買うのだとか、必要経費だからとか、なんやかやとテキトーな理由を作り、タクシーに乗っている自分に気付く。別に、犯罪まがいのことをやっているわけでなく、正規の料金をキチンと払って乗っているわけだから、堂々としていてよいはずだ。言い訳しなくたって何の問題もない。でも、ついつい言い訳がましく説明したくなってしまうのは、まだまだ僕がタクシーに慣れない小市民だから?飲み会で3000円払うのに躊躇はしないが、タクシーに1500円払うのはどうしても躊躇してしまう。10分くらい歩いてからタクシーに乗ったりして(実は、2時間歩いてから乗ったこともある。3000円以上する距離のはずが、請求額は1300円ほどだった)・・・。

 こうして、僕にとってのタクシーは、今の今まで敷居の高い乗り物である。口では「最近の運転手は道を知らねぇなあ」などとナマイキなことをホザくことがあるが、相変わらず敷居の高い乗り物であることに変わりはないのだ。

 ところが、今後はどうだろう?“慣れ”とは恐ろしいもので、そのうちに2000円を躊躇しなくなり、さらには3000円を躊躇しなくなり、挙げ句には1万円札が飛び交うかもしれない。今のところはまさかと思うのだけれど、何がどう転ぶかわからないものである。生活の中で、タクシーを積極的に利用することで、何かと便利になることはあると思う。だが、その便利さを知ってしまったら、ちょっと歩くことでもわずらわしくなってしまうのではないだろうか。それが発展し、何かと不精になってしまったら?という恐れが大いにある。

 タクシーに乗る度にこんなことを考えてしまう。乗り物好きの僕をこんなにまで疲れさせる乗り物は、タクシー以外にない。

 

2001/11/30

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