Youth comes but once
 




 
この雑文の栄えある第一回に書いた「邂逅というほどでもないけれど」に引き続く、僕の中学生時代の部活の話。

 僕は入学した公立中学校でなんとなく吹奏楽部に入ったのだが、当時の我が母校吹奏楽部は創部2年目という部活だった。記録によれば、僕が入学するず〜〜っと前に吹奏楽部があったそうで、10年以上のブランクを経て復活したようである。もちろん10年以上昔の話なんて記録でしか残っておらず、その当時がどうだったのかまったくわからない。ともかく、創部2年目というフレッシュな部活だった。

 文化系にありがちなのだが、先輩・後輩といった区分があまりない、けっこうほんわかしていた部活だった。もっとも僕たち1年生が先輩たちにひたすら無礼をはたらくというとんでもなさで、もし今すぐタイムスリップできるなら当時の僕をひっぱたいてやりたいし、先輩方には本当に申し訳なかったと思うのだが、寛大な先輩方に囲まれてかなり好き勝手やっていた憶えがある。入部当時のホルンパートは僕だけで、音の出し方をトランペットのおだちゃん先輩に(註・金管だから関連はある)、指使いをチューバのおおはっちゃん先輩に習った(註・金管であってもまるで関連性がない。だって僕の楽器はFシングル管だ)。何をどう練習したらいいのかよくわからず、それでもとりあえず楽器を毎日いじっていた、といったところだろうか。他のパートにはそれなりに先輩がいて、パート練習などもそれなりに成立していたと思われるのだが(他のパートを気にする余裕なんてないのでまったく憶えていない)、少なくとも僕1人のホルンパートは僕だけの個人練習がメインだった。ただ、いろんな人が入れ替わり立ち替わり練習を見てくれたように思う。

 5月に運動会があり、吹奏楽部は入場行進曲としてマーチを演奏するという役目があった。2曲くらいは何をやったのか覚えているのだが、全部で何曲吹いたのか、それは覚えていない。第一、どう考えても僕は譜面の音を何一つ正確に出していなかったのだ!当時の僕の実力からすると、絶対に出ない音ばかり(ラ・シ・ド)が譜面に記されていたのだが、そんなことさえ気づかずに堂々と吹いていた僕(ミ・ファ・ソばっかり)!間違いに気づくのはなんと半年以上後の話なのだから、悠長なもんである。

 運動会が終わって、ユーフォニウムの先輩がホルンを個人持ちしていたという事情から、ホルンに移ってきた。なんでまたホルン、しかもBシングル管を個人持ち(註・この型式を個人持ちしていた人は、後にも先にもその先輩を含めて2人しか知らない)していたのか今となってはわからないが、それでもホルンはこれで2名となったわけだ。創部2年目の割には全体で30人もが在籍していたの部活の中で、とっても無口なれい先輩(註・高校生になって再会したらとっても多弁な人となっていた)と僕との、小さな小さなパートだった。和音勝負でバンドの裏方を務めることが多いホルン、これで当面の役目ができることとなったのである(註・もちろん当時はそこまでの意識はない)。

 当時の顧問は、Big mother先生(音楽科)、教頭先生(以前は音楽科)、きむちゃん先生(保健室)の3人。きむちゃん先生は滅多に部活には来ていただけなかったけれど、それでもたまに顔を出したときには特に指導することなく自分でクラリネットを吹き、レベルの違いを体で見せてくれた先生だったし、教頭先生は余計に顔を出してくださらなかったけれど、直接ご厄介になるのは3年生になってから。

 こうして中学校1年生を過ごすわけだが、いきなり大事件が勃発する。なんと指揮者である顧問のBig mother先生がご懐妊ということで産休、代わりにマッシュルーム山田先生が着任されたのだ。やっとBig mother先生のやり方に慣れたところでの顧問変更、普通はとまどうところなのに、なぜかまったく物怖じしなかったのは不思議である。それでもマッシュ山田先生はとっても厳しいところがあり、練習に妥協はさせてくれなかった。グイグイ引っ張るというような印象はないのだが、それでも余計な意見を差し挟む余地や、てきとーな言い訳で練習不足を許してもらえる環境ではない。それでも部活を嫌いにならなかったのは、先生の人徳というものだろう。「鹿児島小原節」が爆笑の曲になったのだから……

 マッシュ先生がいつまでいらして、いつからBig mother先生が戻っていらしたのか、なんかよく憶えていない。きむちゃん先生も異動され、変わらなかったのは部活に顔を出さない教頭先生だけだったから、わずか3年間でずいぶんと指揮する顧問が代わったような気がする。実際はBig mother先生→マッシュ山田先生→Big mother先生という順だからそう複雑ではないのだが、なんだか記憶が錯綜していてよくわからない。それでも、まさに「音楽が好き」という連中が集まって、勝手に練習していた憶えがある。

 中3の夏休みだ。部活は午前中のみで、3年生の僕たちはみんな午前中に夏期講習に通っていた。コンクールに出ない時代だったので、別に夏休み中に部活をガンガンやることはなかったし、すでに戻っていらしたBig mother先生だって、乳児の世話で部活どころではなかったのではなかろうか。というわけで午前中しか部活がなかったわけだが、その正規の部活時間に出席できない僕たちはどうしていたか。勝手に午後にやってきて、勝手に練習していたのだ。このときの強い味方が教頭先生である。教頭先生は夏休みでも毎日出校していらしたから、せんせー音楽室の鍵かしてーと言うには(ああ、ぶっ飛ばしてやりたい、無礼な俺!)絶好だった。Big mother先生はすでにお帰りになっていたはずだが、教頭先生だって顧問に変わりはない。ところが、3年生だけの自主部活はお世辞にもマジメではなかった。だって、配られた譜面をろくすっぽ練習せずに、当時ものすごく流行っていたゲーム「ドラゴンクエスト」のテーマを勝手に編曲し、それを勝手に練習していたのだ。なんちゅう中学生たちだったのだろうか。それでも正規の部活時間じゃないし、遊んでる割には真剣だし……という不思議な状況だった。

 僕が卒業した翌年から、我が母校はコンクールに出場するようになった。ここ数年はずっとB組(比較的人数が多いクラス)の銀賞ということになっているが、なんか隔世の感がある。コンクールという明確な目標がある今とは全く違い、夏休み明けの恒例イベントに向けた毎年変わらないマーチばかりの練習。モチベーションが上がらないままに、それをほっぽって自分たちで好き勝手に練習し、いつの間にか基礎力をつけていた不思議な日々。それが僕の過ごした中学時代の夏休みだ。

 頼まれて中学校の部活指導に行くことがたまにあるのだが、その度に僕は自問自答することになる。この生徒たちは本当に楽しんでやってるのだろうか?と。確かに、僕の中学にも講師の先生、しかも現役音大生の先生がやってきた。ものすごくプレッシャーがかかったし、さすがに無礼は働かなかったけれど、それでも楽しかった。僕が感じたその楽しさを、僕は中学生に感じさせることができているだろうか?僕はプロではないけれど、それでも僕が感じたことをなんとか伝えなければ、“僕が”指導している意味はないのかな、などと思っている。



2004/02/12


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