プチ北海道ノート(後編)

9月3日(月) 曇り

JAS151 羽田(0805)→帯広(0920) A300
 朝の羽田空港は、かなり混んでいた。朝の出発ラッシュなのだろう、手荷物検査は長蛇の列だったし、団体客の数もかなり多い。それが、出発ロビーの目一杯に並んでいるのだから、普通に歩くのにも難儀するほどだ。僕が乗る便も空席ありと表示されてはいたが、ほとんどの席が埋まっていたのである。失礼かつよけいなお世話ながら、みなさん帯広に何しに行くんだろう?という気がする。
 関東上空は辛うじて晴れていたのだが、すぐに雲の上になってしまった。東北上空では気流が悪いとかでちょっとだけ揺れ、機内サーヴィスが一時中断されたほどである。ブータン旅行の際のインド洋上空の方がもっと揺れたけど、サーヴィスは続いたぞ・・・?まあ、ここは日本である。そのうちに高度が下がってきたところ、すぐ下の方に襟裳岬が見えた(頭の中で森進一が熱唱している。♪えぇ〜りぃもぉのぉぉ〜〜はぁるぅぅがぁ〜〜)。日高山脈は雲の中なのだが、岬のさきっぽはよく見えた。そこで、はじめてよーし北海道だという気分になってきた。再び雲の上になってしまい、着陸直前に雲を割って降りてゆくと、空港の周辺は大規模な牧場だらけ。一方、帯広空港はちっちゃな空港だったが、さすがに涼しい。Tシャツいっちょだとなかなか厳しいものである。

帯広空港(0935)→帯広駅前(1013) 十勝バス
 迷うことなく帯広駅方面へのバス乗り場を発見し、料金を先に払う。飛行機に接続しているバスだから、待つほどなく出発してくれたのだが、車内は空いていた。座席には、十勝バスがやっているツアーの案内があって、7コースくらいの紹介がいろいろ書いてある。だが、どれもタレントの田中義剛氏の牧場をコースに組み込んでいる。帯広空港から近いそうだが、なんだかね・・・

帯広市内
 駅に着いたのは、「できれば乗りたいな」と思っていた列車が発車した5分後だった。もともと時間的に厳しかったので残念さはないが、そのぶん2時間強の待ちをしなければならなくなったので、けっこう厳しいものがある。だが、実は長時間の待ちを織り込み済みだったので、慌てず騒がず駅をいったん後にする。目指すは・・・またしても六花亭本店だ。なにか買って、即食ってやろうという勢いである。
 駅から歩くこと数分、本店はあいかわらず混んでいた。オイオイ、今まだ朝の10時半だぜ!?と思うのだが、即食いコーナーはもっと混んでいた。ケーキを前にいざかぶりつかん、という人がとても多い。僕もどれを食べようか、ショーケースの中に並んだ商品を見た目で吟味していた。すると、ふと目にとまったものがあった「さくさくパイ 賞味期限→製造から3時間」。3時間!?これだ。ホントにさくさくなのがすばらしい。賞味期限が期限だから、東京まで送ってもらえないのが残念である。で、いくらお菓子をモリモリ食べたところで、そんなに時間はつぶれない。11時半には駅に戻ってしまった。
 さて、昼飯どきである。帯広といったら、もちろん有名なのが豚丼だ。値段が良心的なのに、東京でお目にかかったことはない。けっこう売れると思うのに?それはさておき、てっとりばやく駅ビルの中へ。豚丼とそばのセット、なんてのをやっている店もあるのだが、数件あるレストランのどの店にも豚丼はある。すると、そのうちの1軒(チェーン店ぽいのだが)が炭火で豚を焼いていることにきづいた。ここに入ろう。

帯広(1234)―池田(1310) 2525D 帯広→釧路
 だんだん天気が良くなってきた午後、しかも満腹での乗車である(奇跡的にビールは控えたのだ)。昼寝にはもってこいの条件なのだが、30分ほどで降りるので、寝るわけにはいかない。車内はまずまず空いていて、睡魔はいたるところで活動中なのに、である。ちょっとだけウトウトするが、それでも池田到着10分前には目覚めた。なんせ、乗り過ごしたらこれからの予定が完全にパーになってしまうのだ。列車がろくに走ってないから、容易には戻ってこられないから。

池田
 次に乗る列車を考えると、帯広出発は13:49の列車でもよかったのだが、1本前の列車に乗ったことで80分ほどの時間を作った。待ち時間を利用して、池田ワイン城を見学しようという目論見である。要するにワイン工場で、販売や試飲もやっているワイン城は、駅から手の届きそうな位置に見えるのだが、徒歩だとちょっと回り込まないと行けない。5分くらいで着けそうな気がするが、10分ほど歩く。
 けっこう暑く、大した距離でないのに一汗かいたところで、丘の上にそびえるのがワイン城である。まずはワイン工場を見学・・・生産ラインが止まっていた。今日は作らない日とのことだが、けっこう残念だ(鎮座している樽を見てもねぇ・・・)。最上階にはレストランがあって、池田牛の料理も堪能できるとのことだが、僕は食事後だったので、ワインの試飲をした。ホントはグラスワインくらい買おうと思っていたのだが、試飲に専念してしまう。ゴメンナサイ。

池田(1442)―北見(1701) 701D 快速銀河 北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線
 今回の旅の、最大の目的がやってきた。実は、この「ふるさと銀河線」に乗ることが、唯一最大と言っていい目的なのである。旧国鉄時代の「池北線」が第3セクターに転換された路線なのだが、これに乗ることで、道内の地上を走る鉄道にすべて乗った、ということになる。厳密なことを言うとちょっとだけ違うし、いろいろくどくどと注釈をつけなければならなくなるのだが、それを言い出すとキリがなくなってしまうのでやめ、ともかく「北海道最後の路線」と僕が考えていたのが、この「銀河線」なのだ。

銀河線の気動車(北見駅にて撮影)=今回はすべて僕が撮影したものです。

 

 列車はたった1両だが、乗客はそこそこ多かった。さすがに北見まで乗り通しそうな人はいないだろうが、ある程度、地域に密着しているのがわかる。だが、線路と線路の間からは草が生えてしまっている。経営の苦しい第3セクターであるので、改革を進めてギリギリのところで営業しているからだろうか・・・?もっとも、沿線は冬に氷点下30度くらいまで下がる極寒の地だ。ペンペン草なんかほっといたって、どうってことはないけれど。
 この快速列車は、銀河線最速の列車である。速さにはまるで期待してなかったのだが、思ったよりもなかなかの快速で、単線をかっとばしてゆく。周囲は見事なまでの大自然で、広大な農地やちょっとした集落、牧場などが順番に現れては消えてゆく。天気は薄曇りだが、車内は暑くもなく寒くもなく、しかも基本的に単調な車窓なので、まったく居眠りに向いているのだが、なぜか睡魔はやってこない。途中、小さな駅で停車したとき(乗降客なし)に、運転士が突然立ち上がった。どこに行くのか目で追うと、おもむろにトイレの中へ。待つことしばし、列車は1分遅れで発車したのである。
 置戸で乗客の大半が入れ代わったのだが、銀河線の旅は残すところあと30分。すでに2時間近くも乗車しているのだが、不思議と飽きるということがなかった。僕が単に鉄道好きだから?それとも、僕の中での目標だった北海道の地上線完乗(地下鉄はどうでもいい)がかなうから?でも、列車が終点の北見駅に滑り込んでも、特にどうという感情は湧いてこなかった。それこそ、どうして?
 一応、これで目標は達成されたわけではあるけれど、僕の中でなにかがはじけるということがなかったのだ。だって、これでもう二度と鉄道に乗らないわけではないのだから。JRの全線を乗りとおしたときの稚内駅でも、その後の名寄駅でも、僕は乗り足りないと思っていた。結局、その感情が再び(ちょっとだけ)蘇ってきた程度であって、線路はどこまでも続いているんだな、ということをふと思っただけだったのひとときだったのだ。結局、一つの目標を設定してはいたけれど、それはまったくの通過点でしかなかったのである。だから、特に何の感情も抱かなかったと言っても、差しつかえがないかもしれない。

オレンジカード風鈴。北見駅にて。

 

 「銀河線」はワンマン列車なので、料金は後払いである。だが、僕は池田駅で先にきっぷを購入していたから、財布からじゃらじゃらとお金を取り出す必要はない。そのきっぷを運転士に渡したときに、精算済み証をくれた。キチンとしたもので、お持ち帰り可能部分もついている。その瞬間に、おっ、全線完乗の記念品がもらえた、とかなりの嬉しさにひたれた。その程度で?とお思いかもしれないが、戦利品としては十分すぎるものだったのだ。

これが精算済証明書。ホントは右側を切り取るのだが、駅員さんがどうぞお持ちくださいと言ってくれた。

 

北見(1714)―網走(1815) 4669D 金華→網走
 通学の高校生がどっと降りて、別の大量の高校生と乗り込んだ車両は、たばこのけむりで煙っていた。そのへんにもたっぷりたばこが落ちていた。ワンマン列車には、こういうのを注意できる車掌が乗っていないからしかたないのかねと思うものの、けっこうヒドい。ホントに腹が立つ。ちゃんとゴミ箱に捨てなさい!!
 だんだん日が暮れてきた。高校生は降りる一方になっていて、ぐっすり寝ている子なんかは“寝過ごしちゃったんじゃないかな”と心配になるような雰囲気だ。夕暮れの網走湖畔を通り過ぎ、まもなく網走である。なんとなく窓の外を見ていたら、ちょっとした空き地を見たそのとき、天啓のようにひらめいた。まったく偶然、というか僕も全く意図していなかったのだが、旧湧網線跡を見つけたのである。線路脇には、何度か通ったことがある道路があるのだが、その脇に空き地はぽつんとあったのである。いままで気づかなかったことに対して、ふと笑いが込み上げてきそうになった。な〜んだ、とはこういう気分のことなのだ。

網走
 いったんホテルにチェック・イン。駅前のホテルの僕の部屋は網走川に面していて、川を渡る風(というほどでもないけれど)が心地よい。そんなに冷え込んでいるということはないのだが、この涼しさは、東京にはまだ当分やってこないだろう。そのうちに、仕事が終わったTs君から電話がかかってきた。よし、夜の町に出陣だ!・・・誤解しないように。要するに、夕食名義の飲んだくれに出かけただけなのだから。

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9月4日(火) 晴天!→曇り
 目覚ましをかけた15分前にぱくっと起きた。カーテンを開けると、真っ青な空が視界に飛び込んでくる。部屋が北向きなので直射日光は差さないのだが、文句なしの晴天だ。これはいいぞ、と思った。
 今日は、Ts君との二人旅・・・ではない。今日も僕一人なのだ。彼は今日も仕事なので出勤を待って車を借り、僕が1人であちこち行こうという寸法なのである。とっとと朝食を済ませ、約束の時間よりもちょっと早くにTs家に行ったら、上半身はYシャツ・下半身はパジャマという出で立ちで、歯ブラシをくわえた寝ぼけ眼の彼が出てきた。
 車で10分ほど走り、彼をオフィスに送ったのは8:40。それでもう彼とはお別れである。再会は昨日の19:00だったけれど、行動を共にしたのは5時間以内ではなかろうか。いくらちょいちょい北海道に行っているからといって、俺もアッサリしたもんだな、と殊勝にも反省する。そういえば、おみやげさえ持っていかなかった・・・

 と、反省したのは彼のオフィスから最初の信号に引っ掛かるまで(=職場のウラ手まで)。
たまには、という反省をまったく忘れさせるほどの、見事な天気だったからだ。自分の心を見つめなおすには明るすぎる(?)日光が、オホーツク海に輝いていたのである。あまりに天気がいいので、とりあえず撮影してみたくなった。7月に引き続いて北浜駅に立ち寄り、7月に僕が乗った列車とオホーツク海、という“もうちょっと変化をつけたらどうだ”的写真を撮影した。

 お次は、これまた先の北海道旅行で行った“越川の橋梁”である。フィルムの不調で撮影できなかった(実はカメラ本体の不調で、撮影できたのは奇跡だったのだ。今回も多くの写真が消えていった・・・)ので、早く再びフィルムにおさめておきたかったのだ。快適なドライブで50分ほど、アッサリと到着。前回とまったく同じ構図で撮影する。しかし、雑草の類いがけっこう伸びてしまい、まるきり前回と同じようにはいかない。分け入っても分け入っても青い草をかきわけ(言い過ぎ)、めでたく撮影を終了する。

お待たせしました。これが越川橋梁の廃虚です。一度も列車が通らなかったなんて・・・

 

 ずいぶん早いのだが、10:00をちょっと回ったこの時点で、一応の“やろうと思っていたこと”は終了した。ここから先は完全なフリータイム、という気分がして爽快だ。とりあえず自販機でコーヒーを買って祝杯をあげた(3分しかつぶれない)。それからこれまた前回に探した旧根北線跡を探すが、前回にあれだけやっきになって探したものの新発見は、残念ながらなし。それをもって、斜里町から離れることにした。お次の目的は・・・北見相生!
 またしてもマニアックな地名を登場させてしまったが、そこは、石北本線の美幌駅から伸びていた、旧相生線の終着地である。オタク鉄道廃線跡巡りも筋金が入ってきたかとひとり感心するのだが、それに終始するのもさすがにどうかと思うので、そこまでの道中に行ってみたかったところを組み込んでみた。それは“美幌峠”という峠である。Tsが、絶景だ俺は好きだみんなを連れていきたいと、以前からのたまっていた場所なのである。何があるのかがわからないのだが、峠のてっぺんからの眺望がすばらしいらしい。“そこに何があるのか”をなんの脈略もなく探すのが、僕の“旅”なのだから、行ってみることにした。何が見えるのだろう?
 なぜか財布の中がカラになりつつあった(支払い予想金額を間違えていたため、持参したお金が根本的に少なかったのだ)ので、郵便局を探しつつ、R334を美幌町に向けて進む。車内にあったロードマップには、斜里町内の国道沿いに郵便局のマークが示されているのだが、なぜか見つけられない。郵便局なんてそのうちにあるだろうけど、お金がないのはちょっと心細い・・・そのうちに、東藻琴村内で簡易郵便局を発見。とてもありがたく思ったのだが、お金をおろすだけなら、クレジットカードを使用してコンビニのCD機でもいいのだ、ということに気づいたのはこの直後の話。

 斜里町を出発して90分、美幌町から登りに入り、峠までもうちょっとだ。どんどんと標高があがってくるのがわかり、車もあんまり加速してくれない。背後の方(美幌町方面)がどーんと開けているのが見えてきて、きっと峠の上からはもっと遠くまで見えるのだろうか。どんな絶景なんだろう?
 峠の頂上直前にある駐車場に車を止めた。たかが峠のてっぺんなのに、お土産屋もあるキチンとした場所だ。とりあえず美幌町方面を数枚撮影するが、遠くの方はややもやっていて見づらいか。でも、かなり遠くの方まで見渡せてよい。ふむふむ、悪くないところだ。では、峠の反対側に何が見えるのか。もう一段上にある、反対側を展望できる広場にに行ってみた。・・・屈斜路湖だ。すぐ目の前の、すぐそこには屈斜路湖が広がっていた。Tsが見せたかったのはこれなのだろう。そうは思うのだが、とにかくまったく遮るものが目の前にない状態で、無防備にも湖が広がっている。展望台は観光スポットになっているようで、ひっきりなしに団体がやってくるのだが、それもごく当然のことか。今まで観光スポットは比較的避ける方向で、僕は“旅”をしてきたが、やはり観光スポットにはそれなりの価値があるということを再認識させられる。写真を撮ればきっと絵葉書か何かと同じ構図になってしまうのだろうが、それでもベタな構図を脳裏に焼きつけたい、と思うものだ。とにかく、何があるのかわからなかったところで、出し抜けに湖だったのだ。完全に圧倒されてしまった。

美幌峠より、美幌町側を望む。屈斜路湖の写真はカメラ故障につきパー(号泣)。

 

 一気に峠をかけ下り、返す刀で今度は“津別峠”を駆け上がる。屈斜路湖畔から津別町に抜ける峠なのだが、美幌峠よりもはるかに道が狭く、はるかに坂が急だ。攻めようにもブラインド・コーナーが連続し、ちっとも速度をあげられない。山に沿ってクネクネ走り、津別峠のてっぺんの展望台に着いた・・・のだが、眺めは美幌峠の方が、遠くを見渡せてよかった。津別峠のてっぺんは目前に木が多いせいで、屈斜路湖までの眺望がちょっとじゃまされているように思えた。

 峠をかけ降りて津別町に入った。そこから目指すのが、お目当ての“相生”という集落である。美幌から北見相生の間、36.8kmを結んでいた“相生線”が廃止されたのは1985年3月31日だから、すでに16年もの時間が過ぎている。もちろん僕は乗ったことがない路線なのだが、いくらバスに転換されたとはいえ、車でないとなかなか立ちよれないところだ。だからよけいに行ってやろうという気がするのだろうか?
 妙に虫だらけの道道を快走し、相生の集落に入った。昔の駅舎はどうなっているだろう?どこにあるのだろう?第一、現存しているのか・・・?キョロキョロしながら、集落のメインストリート(と勝手に想定した道)を、タラタラとよそ見をしつつ(通行者どころか人影さえもないのでできる仕業)探した。
 路地の向うに、“あれは駅だ!”と目に止まった建物があった。間違いない、旧北見相生駅の跡である。建物はキチンと整備され、転換バスの待合所になっていた。それどころか、建物の裏はちょっとした交通資料館の様相を呈していて、ラッセル車や気動車などがピカピカになって並んでいる。懐古趣味の人にとっては厚化粧に思えてしまうのだが、なんにせよキチンと手入れされているのはうれしい。もう永久に走れない線路の上で、現役時代の姿をちょっとだけ残しながら、老兵は静かにたたずんでいた。

旧北見相生駅ホームのはじっこより。手前はラッセル車で、貨物・気動車・客車などが並んでいる。

 

 相生からは、旧相生線沿線を国道を利用して美幌町まで戻る。道中、ちょくちょく車を止めて線路跡を探してみるのだが、ほんの少しだけ残った面影をみつけるのはけっこう楽しい。普段は不注意なクセに、僕はこういうときには目ざといんだよなぁ・・・などとくだらないことを考えているうちに、美幌の町中へ。美幌駅付近はきれいになってしまい、旧相生線の面影はカケラも見当たらない。キョロキョロしているうちに、美幌町の町外れまで来てしまった。

津別町内にて、写真中央が線路の跡。わかりますか?

 

 時間はまだ午後2時すぎである。せっかくなので網走市内に戻る道すがら、もとい市内の観光スポットもさらにひとつ回ってみることにした。網走にはいろんな博物館・資料館の類いがあるのだが、そのなかでも有名度にかけてはピカ一の“網走刑務所”の見学だ。・・・念のため。網走刑務所そのものの内部は見学できない。しかし、十数年前までホントに刑務所で使われていた建物などが、そっくりそのまま「網走監獄」という博物館に移築されているのである。実は、妹尾河童『河童が覗いたニッポン』(昭和59年・新潮文庫)という本に、刑務所の詳細な図が掲載されていたのを見たときに、これは見学してみたいと思ったのだ。
 天都山の中腹に、博物館「網走監獄」はある。ここには行刑の歴史を学べる資料館もあるので、勉強気分でマジメに見学すると、かなりの時間を食うこと請け合いである。特に、行刑なんてのは“普通の人にとっては縁のないところ”であるため、何がどうなっているのか、知らないことばかりであるはず。“人が人に法の名のもとに罰を与える”ということがどんなことなのか、それを考えるだけで大きな意義があるのではないだろうか。また、実際に使われていた建物が移築されているのだから、迫力が違う。建物の一部が移築されているのではない。そっくりそのまま、全部移築されているのだ。放射状の房舎の中の空気に、外とまったく違う風を僕は感じた。

カメラ故障につき、監獄内で撮った写真がすべてパー(号泣)。ですので入場券を。

 

 タイムリミットである。これで全部の予定が終わった。今夜も飲みがあるTs君のために、車は職場でなくアパートに戻す。空港までは路線バスを利用するので、市内のバスターミナルまでは徒歩ということになるが、今回の旅行のお礼を直接口頭では誰にも伝えられない、というこの事実!夕日の中をひとりトボトボ歩く僕の姿は、“哀愁”ということばがよく似合ったのではないだろうか(と自分で勝手に思っているのだがけっこう書いていたら恥ずかしくなってしまったものの書いちゃった以上は公開した方がいいんじゃねーかとも思ってどーしよー)。

網走バスターミナル(1805)―女満別空港(1835) 網走バス
 乗客はわずかに5人だった。駅前でさらに数人が乗ったものの、空港までノンストップというわけではない路線バスなので、乗客は次々と降りていってしまい、結局空港まで乗ったのは僕を含めてわずかに3人。薄暗い車内が、とってももの悲しい。まあ、旅の終わりだから何ごとも“寂しさ”につなげて考えてしまいがちになるのだが・・・

女満別空港
 うって変わって、空港内は大にぎわいだった。 羽田から大勢のお客さんを乗せた便が到着し、その折り返しの便で、僕は大勢のお客さんと共に帰る。つまり、飛行機2機ぶん(最大で600名ほど)が空港にいたわけである。その中、ちょっとした待ち時間を利用して、待合室の片隅にある売店でビールを飲んだ。ついつい2杯も飲んでしまった。北海道内ではそんじょそこら(のコンビニでも)で入手できる「サッポロクラシック」というビールなのだが、都内では滅多にお目にかかれないのが残念。実は、僕がもっとも好きなビール(第2位がヱビスで第3位がハイネケン)なのである。

JAS188 女満別(1935)→羽田(2055) A300
 到着便が遅れたせいで、20分ほど遅れて離陸した。すでに外は真っ暗、上空にはかすかに明るさが残っているものの、地上の光りがどこの町なのか、まるでわからない。そのうちに雲の上となってしまい、気付いたら僕は機内でワインを飲んでいた。



あとがき

 このように、今年3回目と4回目の北海道旅行は、どちらも1泊2日という乱暴な日程だった。なんでもっとゆっくりしてこないのさ?という指摘は当然であるし、何しに行ったの?と言われたら言葉を返しづらい。だが、僕の旅行は“そこに何があるか”を見に行く旅だから、日程の長短は問題にはならない。いかに自分が興味を持てる箇所を直接見ることができるか・・・?それができれば、どんな小さな旅であろうとも成功なのだ。だから、北海道への旅が失敗に終わるわけはないのである。不思議な論理かもしれないが、本人がこうだと思い込んでいるのだから、救いようがない。
 ここで、ひとつ考察しておきたいことがある。言ってみれば自己分析に他ならないのだが、なんで僕は廃線跡めぐりが好きなのだろうか、という問題だ。

 鉄道好きにもいろんなジャンルがあって、通常なら中学生程度の内に熱がさめ、ごく普通の人になってゆくのだが、そういった例は残念ながら少数例で、だいたいは成長すればするほどディープさを増してゆくのが鉄道好きの世界だ。そこで、写真や模型や部品蒐集に精を出す人々も多いのだろうが、僕は旅と廃線跡めぐりが好き、ということになる。
 これらは、どちらも“温故知新”を地でいくものと言えるのではないだろうか。日本という国は地球規模でみたらちっぽけだけれども、JRだけで2万kmもの線路がひかれ、そこに数万もの列車が抜きつ抜かれつ走り回っている。さらに、北は北海道から南は九州まで、春夏秋冬四季折々の1コマが、どの列車からも間違いなく見られるのだ。ひとくちに47都道府県と言っても、47通りの色があり、そこから派生した天文学的数字通りの色がばらまかれているのが、車窓なのだ。しかも、列車が走っていないところ・すでになくなってしまった区間にも、間違いなく“車窓”は存在する。その姿を見たいがために、僕は旅に出るのである。じゃあ車でもいいではないかという声があってもおかしくはないのだが、好きだった鉄道・乗った上で見たかった車窓を考えてしまうと、やはり僕は、鉄道の空気がただよう線路の周辺から離れられないのかもしれない。

 さて、今年は4回もの渡道を行ってしまった。いくら好きでも、これは驚嘆すべき事態ではなかろうか。もちろん、JASのありがたい割引さまさまであり、オツなところに(本人が望んだかに関わらず)居を構えてくれたTs君さまさまでもある。というわけで、今回はウルトラ特割なんてことをやってくれたJASと、いつもさんざんお世話になるはぢめ君に謝辞を述べることで、旅を完結させていただきたい。感謝しています。

 

 

プチ北海道ノート・完

 

2001/11/07

 

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