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「講座4」の歩み 〜第5回(2003年−2006年 五十嵐宅時代)〜

   塩見鮮一郎      

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 塩見組は二〇〇三年の春に、第三十三期目をむかえた。新日本文学会とは切り離されたが、教室はまだ新日本文学会館(東中野一・四十一・五)の一室を借りていた。
 六月一日に新日本文学会の総会があった。わたしは欠席したので、裏事情をまったく知らない。どういうわけか、この総会で「日本文学学校」という名を使用することを禁じられた。会はほろんでも学校が生き証人のように残るのは慶賀すべきことなのに、愚かなことをきめたわけだ。
 教室も移転しなければならない。
 六月五日が会館での塩見組の最後の授業になった。次回、六月十九日は五十嵐与志子宅(東中野三・六・三)で行った。黒羽英二のクラスにいた画家で、家を新築したばかりだった。その「お絵かき教室」のための一室を貸してもらえた。ほかのクラスも順次、ここへ移った。この夏、塩見組は菅沼邦夫(九七年死去)の故郷である千倉で合宿した。
 七月三日、五十嵐宅の教室に黒羽英二・山田正弘・秋葉安茂、それにわたしの四人が集まり、学校名をきめた。山田提案の「文藝学校」と「東京文藝学院」との二案にしぼられた。「文藝学校」は「美學校」からの連想である。結着がなかなかつかない。わたしは授業中だったが隣室のアトリエに呼ばれて意見をもとめられた。前者に一票を投じた。
 二〇〇三年秋期、名実ともに「文藝学校」としての再出発になる。塩見組は第三十四期である。
 二〇〇四年秋期から、それまでの黒羽英二・山田正弘・秋葉安茂・長谷川龍生・塩見鮮一郎に、新たに八覚正大が加わった。
 山田正弘は二年ほどまえから入退院をくりかえし、他の講師で穴埋めをしてしのいでいたが、二〇〇五年八月十日に肺がんで亡くなられた。享年七十四。つぎの秋期から鈴木慧が入門講座をひらいた。

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 この間、秋葉安茂の努力によって学校がやっと経営体のかたちになった。つまりそれまでの、ボランティア的にして運動体であったのが、資本主義に合うようなかたちになった。いいも悪いもないので、そうしなければ生き残れなかった。むかしはタダ働きをしたが、いまではちゃんと講師に謝礼が支払われる。それが常識の半分か三分の一でもいい。謝礼や経費が安いと授業料も安くなり、他の学校との競争に有利になる。参加者が五名以上あつまらない講座はやめになった。「ケイコとマナブ」や「公募ガイド」や「文學界」に広告を出すし、税金も支払う営利の団体になった。また小田嶋睦が一新したホームページの効果がしだいにあらわれてきた。
 二〇〇六年春期は通学部門も通信部門も各六十名ほどの参加者があった。近年ではもっとも多く、値上げをしないでやっていけそうだったが、五十嵐宅のほうからそろそろ別の教室を借りてほしいといわれ、来年三月までという制限もついた。
 夏ごろから黒羽・秋葉・鈴木の三氏を中心にして教室探しがつづけられ、家賃のことを第一に勘案して内神田のへやを借りた。巴家(ともえや)という古くからのラーメン店が所有するビルの二階である。千代田区内神田一・二・十四になる。神田駅から十分ほど、神田橋のちかくである。二〇〇六年十一月十六日に東中野五十嵐宅での最後の塩見組の授業(第四十期)をもち、次回の十二月七日から内神田になった。
 講師も参加者も地図を見ながら教室にたどりついた。講義後の飲み会は「みや」(東中野駅前)にきまっていたが、新たな店をさがさなければならない。
 この間の会の事務は秋葉・鈴木が受け持っているので、全体の動きとか内実については、お二人のほうがはるかにくわしい。わたしは講義に通うだけで適任ではない。それを重々承知のうえ備忘録として、身辺のことのみをここに書きとめた。(文中敬称略)


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