朗文堂 新刊書籍『書字法・装飾法・文字造形』
2月8日発売

エドワード・ジョンストン/その人となり

デザイン評論家/ロンドン中央美術工芸学校装飾技術学科第一期卒業生
ノエル・ルーク(Noel Rooke)
 エドワード・ジョンストン(Edward Johnston 1872─1944)はもともと探究心がつよいたちだったが病弱であった。そのために学校で学ぶかわりに家で独学してきたこともかれの人格形成に影響している。かれは自然と物事を深く考えるようになったのである。また自分の結論が真実であることに厳格で、そのためには再三の修整にも時間を惜しまなかった。
 まずかれが興味をもったのは物理学、電気工学、数学で、のちには文学にも関心をもった。だがそれ以上につよい関心を抱いたのは、自分の興味の対象、そして自分がやっていることとは一体なんなのか、そしてそれがいかなる意味をもつのかという形而上的な関心であった。その好奇心はかれを真実の探究へと駆り立て、追求の人生へとみちびいた。
 初期の志はエジンバラ大学で学んだ薬学であったが、それは健康上の理由から断念した。ジョンストンは幼少のころから文字を書くことを好み、書物を書き写して彩色していた。一六歳のころからは装飾写本に関心を示したが、手ほどきを受けたり相談できる相手は周囲にいなかった。
 それも当時では無理からぬことで、一般的に書字法はすたれ、ふるい文字の書きかたはおろかペンの使いかたを知る者すらいなかったのである。そのころのペンはマッピングペンのように先端がふたつにわかれた、筆圧を加えると太い線が書けるような金属製の細ペンだけで、教本によれば細ペンの先端の太さ以上の線幅の文字を書くには、まず輪郭を細ペンで書いてから筆で内側を塗りつぶすということであった。ジョンストンはこのスフィンクスの謎を解くべく立ち上がった。
 ウィリアム・モリス(William Morris 1834─96)、ついでハリー・コウリショウ(Harry Cowlishaw)はいっとき中世の書字法を見直すための実験的な制作を行ったが、当時はまだその詳細は明らかにされていなかった。したがってこれを知らなかったジョンストンはたったひとりでゼロからはじめ、失われた書字法の手法を再確認し、これをふたたび使用可能な体系としてつくりあげた。コウリショウがジョンストンをロンドン中央美術工芸学校の校長ウィリアム・R・レザビー(William Richard Lethaby 1857─1931)に紹介した時、
「世界でただひとり、わたしの片腕となり得る者」
 と感じたとレザビーはのちに述懐している。
 これがかれの人生における転機となった。レザビーはひとの能力を見抜く才に長けており、ジョンストンとは初対面であったにもかかわらず、開設予定だったロンドン中央美術工芸学校の装飾技術コースの責任者としてこののち抜擢した。そして大英図書館で古写本を学ぶようにすすめ、とくに見るべき写本についてはシドニー・カーライル・コッカレル(Sydney Carlyle Cockerell 1867─1962)から指導を受けられるように手はずを整えた。
 コッカレルは10─11世紀の「カロリンガ体 caroline hand」と「ウィンチェスター体 winchester hand」を重点的に学ぶようにすすめ、ジョンストンはのちにその書体をベースに「ファウンデーショナル・ハンド foundational hand」を考案することになる。
 ジョンストンはもち前の才能を遺憾なく発揮して精緻に写本を研究し、七年間の試行ののちに本書の図版としてむっつの図版例(巻末図版E、G、H、I、J 、K)を選びだした。ここからもコッカレルの見識の高さがうかがえる。巻末図版M、S、T、Uはコッカレル自身が所有していた写本で、かれに研究を許可したものである。ジョンストンは最後までコッカレルの真摯な批評を大切にしていた。
 1899年に27歳となったジョンストンは、レザビーの要請を受けて「ロンドン中央美術工芸学校 Central School of Arts and Crafts」でその研究成果を講義することになった。その第1期生には、若き日のエリック・ギル(Arthur Eric Rowton Gill 1882─1940)と、ジョンストンより年長のグレイリー・ヒューイット (Graily Hewitt)がいて、両者は共に本書の執筆にあたっても貢献している。またすでに印刷家としても著名だったコブデン ・サンダースン(Thomas James Cobden Sanderson 1840─1922)も第1期生として名をつらねた。
 この授業は週に2時間半の夜間授業であったが、ジョンストンはその10倍ほどの時間を準備にあてていた。わたし(ノエル・ルーク)自身もその受講生のひとりであったが、エリック・ギルやコブデン・サンダースンらの活発で旺盛な好奇心を目のあたりにして、自分も必死でついていかなければと煽られたものだ。授業の内容はおもに演習をふくむ個人指導と板書講義だった。本書はまさに当時の夜間授業の結晶でもある。
 その2年後、29歳になったばかりのジョンストンはやはりレザビーの勧めで「王立美術学校 Royal Cllege of Art」でも教鞭をとることになった。こちらは前述の教室と比較すると受講生は六倍近くもおり、平均的な学生が多かった。そのために全体のレベルも低くて個人指導も大幅に限られた。それでもジョンストンはこの間も板書講義の腕を着実にあげていった。
 2年後に(ジョンストンは)結婚した。それ以後は夫人の存在がどれだけ大きな支えとなったか測り知れない。ほぼ同じころにジョンストンはロンドン中央美術工芸学校の講師陣によるテキスト・シリーズ「THE ARTISTIC CRAFTS SERIES OF TECHNICAL HANDBOOKS」の一 冊として、レザビーに本書『WRITING, ILLUMIINATING, AND LETTERING』の執筆を依頼された。
 それ以後の3年ほどはジョンストンは教壇に立つというわずかな時間を除いてこの仕事に没頭した。2年で執筆を終え、3年目はその修整と要約にあてた。この際に原稿は当初の半分まで削りこまれた。いかに機能性を重視したためとはいえ、ここまでの要約と割愛は残念至極であった。
 ここまでのジョンストンの業績は大きくみっつに区別される。すなわち、
 (一)技術の発見
 (二)教育法の研究
 (三)本書の執筆
 である。本書刊行後のジョンストンはそれまでになく解放され、続く六ヵ月間はそれ以前の六年間に匹敵するほどの充実ぶりで、もっぱら「正書法 formal penmanship」を研究した。その内容はのちに著作集『写本と碑文の文字 Manuscript & Inscription Letters』として出版された。同書は本書の執筆中に閃いたが収容しきれなかった記述を収録したものであり、いわば本書の別冊ともいえる書物といえよう。本書の読者には是非一読していただきたい好著である。
 ジョンストンはそれ以降に蓄積したカリグラフィの知識をまとめようと一九二九年にあらたに筆をとったが、それは未完のまま世を去った。この記録はかれの没後にへザー・チャイルド(Heather Child)が編集を加えて、 1956年にニューヨークのペンタリック社(Pentalic Corporation)とロンドンのランド・ハンフリーズ社(Lund Humphries)から『Formal Penmanship』として出版された。
 1906年以降、ジョンストンの影響力は広くというよりはむしろ深く浸透した。かれは書家としての立場から、あえてタイプ・デザインには手を出さなかった。せいぜい金属活字父型彫刻師(パンチ・カッター)に文字の品質についての助言をする程度だったとおもわれる。ところが真っ先にあった反響は意外にも印刷活字のデザインとその鋳造界からであった。
 それはジョンストン自身がおもむいて指導することはなかったドイツで起きた。当時は「ゴシック・ブラック・レター体 gothic black letter」を公式の文書で使用することを廃止する気運が高まっており、「ルネサンス様式のローマン体 renaissance roman form」へ移行するための牽引力となるべき手本を求めていた。当時のドイツでおこなわれていた活字鋳造法は、書法家が簡単なスケッチをパンチ・カッターに渡して依頼したり、簡単な指示書をもとにつくるといったいい加減なものだったので、確かに改善すべき点は多々あったのである。
 ひとりの有能なるドイツ人学生の アンナ・ジモンズ(Anna Simons)はすでにロンドンでジョンストンのクラスを受講してから帰国しており、ジョンストンの手法を踏襲して教鞭をとっていたし、またのちには本書を独語訳刊行した。
 ジョンストンのためらいをよそに、ジモンズの学生のなかにはタイプ・デザインに手を染めた者がいた。しかしこうした活字書体の改善という動向は社会の関心を引き、ジョンストンの著作が強力な原動力となって、まずドイツの活字書体が改善され、ついでアメリカ、ついにはフランス、イギリスへと飛び火していった。
 このように早い段階でドイツとの関係を確立したジョンストンは、この国で生涯の友に巡り会うこととなった。クラナッハ・プレス(Cranach Press)のオーナー、ハリー・ケスラー(Harry Count Kessler 1866─1937)であり、のちにパンチ・カッターのエドワード・プリンス(Edward Philip Prince 1846─1923)らと共に「クラナッハ・ジェンソン・アップライト cranach-jenson uprighit」「クラナッハ・ジェンソン・イタリック cranach-jenson italic」の二種類の活字を共同開発することになった。
 またロンドン交通局の前身であった企業からの依頼で、ジョンストンはリトグラフ(石版印刷)で仕上げるポスターの原稿用のアルファベットを手書きで制作した。1916年に発表されたこの「アンダーグラウンド・サン・セリフ、ロンドン地下鉄道書体 London Underground Type」は使用範囲が限られてはいたものの大きな評判になった。
 これに触発されてドイツで三種類のグロテスク(サン・セリフ)書体の「カーベル Cable、エルバー Erbar、フツーラ Futura」が制作されて多方面で使用された。アメリカでカーベル以上に多用されたディスプレイ書体はおそらくほかにはないだろう。
 また1928年にはエリック・ギルが、もう少し繊細なサンセリフ体の「ギル・サン Gill Sans」を一般向けに発表した。これは原点をジョンストンによる「アンダーグラウンド・サン・セリフ」に求めたいわば追随書体であったが、イギリスではもっとも使用頻度の高いディスプレイ書体となった。
 ジョンストンのもともとのねらいではなかったが、本書はひとびとの日常の筆跡にも確実に影響をあたえたし、変化をもたらした。本書の一五章で取り上げられているかれの「準正書体 semi-formal writing」が着実に世界的な広まりを見せているのだ。かれの本分は印刷活字のデザインでも日常の筆跡の向上でもなかったが、もとをたどればどちらも「正書法 formal penmanship」に突き当たる。
 かれは「手書きの書字 handwriting」と「正書法 formal penmanship」の違いにこだわり続けた。その結果今までのどの書きかたともちがう、ほかならぬ正書法の重要性にまずかれ自身が気づき、ついでそれをひとびとに問うための教義を打ち立て、そしてひろく社会に受容されたのだった。
 ジョンストンはカリグラファとしての人生のおよそ半分を「ラウンド・ハンド体 round-hand」とやや字幅の狭い書体を書いていた。それは数百年間だれもなし得なかった明快で率直な書きぶりだった。最後の20年間はかなり字幅の狭まった書体を数種類書いていた。それはゴシック・ブラック・レター体のように、1行に多くの文字を書き込める特性と、「o・e」に見られるような曲線の滑らかさを兼ね備えた書体だった。
 これらは日々の読書には明らかに不向きな書体だったが、文章から微妙なニュアンスをつかみ取るために故意にゆっくり読む場合などには効果を発揮した。したがってこれらの書体は専門家の間からは支持されたものの、使い勝手の点からいうとたしかにラウンド・ハンドに劣っていた。
 ジョンストンは本物をつくることに本来の学習の意味はあると考えていたから、学生が「練習のため」に文字を書くのを嫌った。したがって自分自身の制作過程でも試し書きや下書きをほとんどしなかった。代わりに数日ないしはときには数週間にもおよぶ熟考と、準備のための綿密な計算ののち、いきなり制作に取りかかり、かなり手早く書きあげた。
 そして納得できるまで何度でもやり直して、その都度それが最終作品のつもりでのぞんだのだ。仕上がりに満足がいかないことはあっても、計画に欠陥はなかった。このようにジョンストンの制作姿勢とは慎重かつ迅速であり、両者の絶妙なバランスであった。そして速度が増すほど慎重さも増していた。
 本書にはかれの制作方法と規則、そして標準的な手本が示されているので、真似ることは一見簡単なように見えるかもしれない。しかし表面的に似せることはできてもそれ以上の段階になると難儀するだろう。すなわち本書におけるジョンストンの姿勢は並ならぬ情熱と思想にもとづき、社会全般への洞察力が作用しているからである。しかしこのような内面的な部分の手がかりを表面上に求めることは容易ではなく、むしろかれが心の奥深い部分でどのように感じ、それをどう具現化していったかのプロセスに目を向けるべきであろう。
 ジョンストンの人生における宗教の特別な意味合いについて、これまではあまり重要視されなかった──と振り返るのは娘のブリジット・ジョンストン(Bridget Johnston)である。
 ジョンストンにとっての作品の意義とは神への祈りと讃美であった。できの悪い作品を見ると気分を害した。つまり真理を汚したり軽視するような作品を見た時には、かれの信奉するふたつの戒律、すなわち神への愛と人類愛の重要性を問いただした。
 かれが真理へ通じると信じた道はみっつあった。すなわち宗教、科学、そして芸術である。芸術家と工匠にとって創造は不可欠である。まさに創造こそ芸術家と工匠の本分であり、またジョンストンを科学者や宗教家と区別するポイントなのだ。
 工匠の仕事は「形象化し、生命をあたえ、心に訴える」というみっつの段階から成る。工匠の創造とは「工匠たち自身を啓蒙し、想像物を具現化させ、物質に生命を吹き込む」ことである。ものの本にはこの手順は創世記二章七節のごとくとある。
「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
神がなされたように、工匠とはおのれの仕事の結果を見届けるべきで、保証印を押すまでは完成といえない、とジョンストンは考えたのである。カリグラフィをはじめたころから「正式なペン formal pen」によって「生きた文字を書く」といっていた。
 ジョンストンはまた作品は常に真理を追求すべきであり、それを達成した作品には美という最高の栄誉が授けられると考えた。幸福そのものを追い求めるのと同様に、美そのものを追い求め獲得しようとする試みは空しいものである。真理を受容した結果美が生まれる。仕事を通した神への讃美と真理の追求、それがジョンストンの人生だった。その強靱な信仰は求心力となり、かれに成果をもたらしたのである。
 フランシス・メイネル(Francis Meynell 1891─1975)のことばどおり、エドワード・ジョンストンは、
「われわれの時代の類い稀なる偉人のひとり」
 であったといえよう。

原注\最終部の記述はブリジット・ジョンストンが1945年11月10日のソサイエティ・オブ・スクライブ(Society of Scribes)の会に寄稿した「エドワード・ジョンストン讃 Maidston College of Art, 1948」より転載 した。
訳注\本書は1906年刊行のPitan Publishing Ltdの初版を中心とし、また同社のリプリント版や各社のペーパーバック版も比較しながら翻訳したが、本項はエドワード・ジョンストンの活動の全貌をつたえる資料としてA & C Black Publishers Limited版より訳出したものである。


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