私的名馬 〜 サクラ三兄弟

サクラトウコウ
父:マルゼンスキー
母:サクラセダン
母父:セダン
重賞勝ち:函館3歳ステークス、七夕賞

サクラチヨノオー
重賞勝ち:朝日杯3歳ステークス(G1)、弥生賞、ダービー(G1)

サクラホクトオー
重賞勝ち:朝日杯3歳ステークス(G1)、セントライト記念、アメリカJCC

 いずれも同じ父母を持つ全兄弟で、サクラトウコウの配合に光を見出した生産者が、チヨノオー、ホクトオーを世に送り出した。
 父マルゼンスキーは、持ち込み馬。今で言う「○外」にあたり現役当時は圧倒的な強さを見せながらもクラシック競走に出走することはかなわなかった。全成績8戦8勝、2着馬につけた差の合計が61馬身だったから、同世代のクラシックホースと走らせたら…という思いは関係者にあったのも不思議じゃない。主戦の中野騎手が「ダービーに出れるなら、大外枠でもいい。賞金もいらない」とまで懇願した話もある。

 そんな父の無念は、子供たちがダービーを勝つことで少しは晴らされたはずだ。それをやってのけたのはサクラチヨノオーだったが、何とも数奇な運命にあった馬でもあった。

 兄サクラトウコウは慢性的な脚部不安に泣き、満足に才能を発揮することなく現役を退いた。とはいえ重賞を2つ勝っているのだから、潜在能力の高さを疑う余地はなかっただろう。成績を見ると一見マイラーの印象を受ける。それは弟のサクラチヨノオーがデビューする時に少なからず影響を与えていたようだ。

 同期にはサッカーボーイがいた。常に後方待機、直線猛然と追い込むスタイルながら、当時東西に分かれていた3歳王者戦の西を制覇。先行スタイルのサクラチヨノオーは東の王者になったが、その年の最優秀3歳牡馬はサッカーボーイが選出され、サクラ陣営は翌シーズンに向け奮起することになる。

 話が前後するが、サクラチヨノオーが朝日杯を迎える1週間前、主戦・小島太騎手の父危篤の報が入る。小島騎手は北海道に戻ったが、朝日杯を6日前にして父は亡くなった。小島騎手にしてみれば、父の墓前に何としてもG1勝利を捧げたかったろうし、それは現実のものとなった。父マルゼンスキーも制しているこのレースを、父子二代で勝ったわけだ。当時東の朝日杯勝ち馬の方が西の阪神3歳ステークス勝ち馬より分があると言われていたのだが、サッカーボーイの方が勝ちっぷりに溢れ印象度の点で勝っていたのだろうか。サクラチヨノオーにしてみれば不運だと言える部分ではある。

 そんなサッカーボーイとの直接対決は弥生賞。皐月賞への試金石となるこのレースで先手をとったサクラチヨノオーは、後続を術中にはめるような形で快勝。勇躍皐月賞へ駒を進めることとなった。

 ところが皐月賞当日、サクラチヨノオーは単勝4.2倍の2番人気。サッカーボーイは脚部不安で回避していたが、1番人気モガミナインは5戦4勝、直接対決では共同通信杯で先着したのみ。どの馬が勝っても不思議でない雰囲気があったのだろう。

 レースは予想以上のハイペースで流れ、先団につきすぎたサクラチヨノオーは直線伸び切れずに3着に終わった。人気どころが総崩れになった皐月賞だった。

 次はダービーだが、兄サクラトウコウがマイラーだと評価されていたために弟のチヨノオーに対しても「距離不安」が常に囁かれていた。成績で言えば、朝日杯勝ち馬で弥生賞勝ち馬、皐月賞3着なのだから世代トップレベルなのは言うまでもない。でも世間の評価はなぜかいつも冷たいものだったのだ。

 同期にはもう一頭、芦毛の怪物と呼ばれた公営のオグリキャップがいた。オグリも、マルゼンスキーと同じく「地方馬だから」ということでクラシック競走に出られなかった馬である。ダービーの時期になると、オグリが一番強い、なんて声があちこちから聞こえてきて益々チヨノオーの評価が下がっているようにも思えた。

 ダービー当日、馬主の全氏はチヨノオーがダービーを勝てるようにと、3週間前に死去したサクラスターオーのために願っていたという話がある。サクラスターオーについては後日別項で書きたいと思うが、前年の皐月賞&菊花賞を制した名馬である。しかし有馬記念のレース中、左前脚繋靭帯不全断裂という、馬として致命的な故障を発してしまったために、約4ヵ月半の闘病も甲斐なくこの世を去ったのだ。スターオーは皐月賞後に脚部不安が出たためにダービーに出走できなかった。だから三冠の夢もかなわなかった。サクラの冠名を背負った実力馬が翌年のダービーに出走すること、何かの因縁だったのだろうか。

 迎えたダービーは、アドバンスモアの猛烈な逃げで始まった。通過ラップだけ見れば、およそ短距離戦の数字並みで「自滅」「玉砕」と言えそうな逃げだったと思う。チヨノオーはその3番手あたりを追走。案の定アドバンスモアは3コーナー過ぎから失速し後続と10馬身はあった差はみるみる狭まる。通常ならここで番手に控えた馬が先頭に踊り出るのだが、小島騎手は手綱を引いて後退させた。観客や関係者からみれば「おかしい」と思うかもしれないが、速いペースを見越しての小島騎手の判断で、チヨノオーは3コーナー過ぎからゆっくり動き、先に動いた馬たちを捕えて直線馬場の真中から先頭に立った。そのタイミングにあわせて動いたのが、岡部騎手騎乗のメジロアルダン。三冠牝馬メジロラモーヌを姉に持つ、メジロの貴公子。キャリアは浅かったが、前走NHK杯を勝ったことでダービーに出走していた。また岡部騎手は常に「どうやったらチヨノオーに勝てるか」を徹底的に追求して騎乗しており、このダービーが絶好の機会だと読んだのだろう。

 今も肉体のオーバーホールを続けながら老練たる騎乗テクニックで一線級の活躍をしている岡部騎手。その、あらかじめ計算し尽くされた作戦は、このダービーで的中した、かと思われた。明らかにアルダンの脚の方が良い。ゴールまでまだ距離があるのでチヨノオーが差される光景は目に見えていたはずだ。

 負けるときは格下馬にあっさり差されるチヨノオーは「根性なしだ」としばしば言われていた。が小島騎手はそれを否定していた。

 馬体を合わせると、なんとチヨノオーが一伸びしアルダンに並ぶ。互いに鞭が飛び交う中、ゴールを通過した時、クビ差で前を駆け抜けていたのはチヨノオーだった。

 毎年ダービーの時期になると、チヨノオーの差し返し劇は「奇蹟」としてVTRが流されることがある。私も未だもって信じられない光景だったのを覚えている。

 父の無念を晴らし、スターオーの代わりにダービーを制覇したサクラチヨノオー。その後脚部不安に悩まされ、再びスポットライトを浴びることなく現役を引退。現在は中堅クラスの種牡馬として活躍している。

 そのあまりにドラマチックな兄を持ってしまったホクトオー。期待するなというのが無理というもの。こちらも主戦は小島騎手である。当時はサクラといえば小島、だった。期待通りにデビュー3連勝で兄同様朝日杯を勝ち、ファンからの支持も絶大だった。

 チヨノオーが「運」で栄光を掴んだとすれば、ホクトオーは「実力」で栄光を掴んだといえるかもしれない。言い換えればホクトオーには不運が多かった。翌年の弥生賞、兄を凌駕する圧倒的1番人気支持を得て出走したものの、雨による荒れ馬場に脚をとられほとんどパフォーマンスを発揮できずに惨敗してしまう。それでもファンは裏切らず、皐月賞でもホクトオーは1番人気に推された。兄の実績を考えれば「何かの間違い」であると。しかし皐月賞も不良馬場での施行になり、全く見せ場を作れないまま何と最下位19着に敗れてしまう。

 いつしかホクトオーは「雨に祟られる」などと言われるようになったが、そんな「不運」なイメージが強くなったホクトオーに同情のような人気がさらに集まることになった。

 心機一転、秋のセントライト記念を快勝し、良馬場の菊花賞に臨んだホクトオーだったが、何故か小島騎手は最後の直線で外埒一杯に進路をとってしまい、そのロスが響いて0.4秒差の5着に惜敗してしまった。

 ファンは思った。「小島太じゃなかったらな」

 兄に比べて今一つ運に恵まれなかったホクトオーだったが、不思議と人気の高い馬だった。競走成績を見た限りでは14戦中12戦で3番人気以内になっている。

 同じ父母を持つのに、この競走生命の違いは何なのだろう?

 サクラトウコウが走らなければ、弟たちは生まれてこなかったかもしれない。トウコウ兄のせいでマイラーじゃないの?というレッテルを貼られ、世間から冷ややかな目で見つづけられたチヨノオー。でもダービーを勝ったことは全てを歴史に変えた。その偉大なチヨノオー兄のお陰でえらく期待され、人気になりながら大一番でファンを裏切った、いや運がなかったホクトオー。

 ちなみにチヨノオーの名前は、大横綱・千代の富士に由来しているもの。

 血統云々の下馬評より、走ってみないと分からない。このままドラマ化もできそうな、そんな兄弟。その子たちは今元気にJRAのターフを走る。父たちのことを知るか知らずか…。
アクセス解析