私的名馬 〜 メジロブライト

父:メジロライアン
母:レールデュタン 母父:マルゼンスキー
旧7歳まで走り25戦8勝
天皇賞(春)(G1)、阪神大賞典、AJCC、日経新春杯、ステイヤーズS、共同通信杯、ラジオたんぱ杯

 白地に緑の帯。メジロの勝負服。メジロといえば国内では数少ないオーナーブリーダー(生産馬主)で、メジロアサマ→メジロティターン→メジロマックイーンと三代で春の天皇賞を勝った、伝統を守り抜く屈指のブリーダーである。

 その牧場は北海道有珠山の麓にあり、遠くには「蝦夷富士」とも呼ばれる羊蹄山が見える場所。春、雪解けの羊蹄山。メジロ牧場にとって、春というのは格別の意味を示すものだったと思う。

 ブライトの父ライアンは、メジロ牧場全盛期にあって宝塚記念を勝った名馬だった。同時期にメジロマックイーンがおり、結局天皇賞は勝てなかったが、宝塚記念で一矢報いた形だった。その3歳(旧)時はクラシック勝利を嘱望されながら、皐月賞3着、ダービー2着、菊花賞3着と僅かに及ばなかった。

 オーナーブリーダーというのは、繁殖牝馬から自家生産で競走馬を作り、その馬主となる。しかしながらサラブレッドの血統というのは一定の偏りになると破綻の道に進むため、時に外部の血を取り入れなければならない。ライアン&マックイーンの後絶不調に陥り身売りまで考えたメジロ牧場にとって、レールデュタンの導入は一種の賭けだった。

 レールデュタン自身は当初走る子を出せなかった。条件戦で走るレベルにとどまり、名門メジロ牧場としては歯がゆい時期だったに違いない。そこにライアンが引退&種牡馬入りするのだが、ライアン自身の種牡馬評価は決して高くなかった。内国産の上に内国産(父アンバーシャダイも国内で走った馬)だから、当時外国からの血統に魅力を感じていた馬産地としては当然のことだったかもしれない。何とかメジロ牧場が買い付けてシンジケートを形成したくらいなのだから。

 メジロ牧場としては、どうしても獲れないダービー、メジロアルダンやライアンが2着に敗れ、惜敗はあってもどうしても獲れないダービーをライアンの子で、という気持ちは強かったのではないだろうか。ライアンの子がダービーを獲れば、いや走ってくれればライアンの種牡馬評価が上がるし、そのためにはメジロ牧場の配合で証明する必要があったのだと思う。

 メジロ牧場は年間の種付け牝馬頭数が20頭程度、その時ライアンにつけたのが5頭。普通は色々な種牡馬につけて走らせるものだが、5頭もライアンにつけたのは大きな博打だっただろう。その中でメジロの主流血統を持たない外部の血を持つレールデュタンも含まれていたのだ。

 生後のブライトの評価は決して高くなかった。中央入厩してもそこそこ走るだろう、程度のレベルにしか見られなかった。実際、デビュー戦は芝1800mだったにも関わらず、ブライトの勝ちタイムは2分1秒。芝2000m水準の時計だったのだから、失笑を買っただけの新馬戦。しかし、同期シーキングザパールと激突したデイリー杯3歳Sでは2着している。もっとも5馬身千切られているのだが、この頃になるとファンとしても少々掴み所の難しい馬だったように思う。

 少し休養した後、ラジオたんぱ杯に出走したブライトはクラシック候補生を後方一気で差し切り勝ち。これでブライトの実力は全国区となり、同時に実力を誇示するものとなったようだ。

 ここまで来るとファンの真理としては、名前ばかりで競走時代を知らない外国産血統よりも内国産血統の方が分かりやすく、応援しやすい。ましてライアンの息子なのだから「ダービー頼む!」という声が出ても不思議ではない。そうして人気者になっていったブライトは共同通信杯で最後方から一気に突き抜け重賞2連勝を飾る。続くスプリングSで重馬場に脚を殺されての2着も、ファンは不動の本命として疑わなかったはずだ。

 しかし、後方からの差し切りという脚質は展開に左右されやすいもの。事実、皐月賞とダービーではサニーブライアンの絶妙な逃げに屈して勝てなかった。

 振り返ると、ブライトは強力な先行馬が出走していないレースで勝ったことがない。スローペースになると脚を殺されて伸びきれずに終わってしまうレースが多かった。秋のトライアルもしかり、菊花賞もしかり。結局、父ライアンを超えるどころか少しスケールダウンしたような成績しか残せなかったのだから。

 それまで手綱をとっていたのは松永幹夫騎手だったが、菊花賞の次に選んだレースがステイヤーズSということで、ワールドスーパージョッキーシリーズに出場する松永騎手の替わりに河内騎手が乗ることになった。霧で視界不良のこのレースを、ブライトは2着以下に大差をつける圧勝を演じる。この時私のように「ライスシャワーの再来」と感じた方は少なくないと思う。ブライトは生粋の追い込みステイヤーだったということを。

 明けてアメリカJCCを快勝、阪神大賞典ではシルクジャスティスを下して重賞連勝で臨んだ春の天皇賞。時計上は3分24秒と遅いものだったが、追われてバテないブライトに抵抗するのはステイゴールドくらいしかいなかった。父ライアンが勝てなかった春の天皇賞を、ブライトは勝った。

 古馬最強の道を行くはずだったブライトだったが、好事魔多し、宝塚記念ではゲートで暴れてしまい大外枠出走となったばかりか出遅れてレースにならず、デビュー後初めて掲示板を外す失態を犯してしまう。ファンはがっかりだ。

 ちなみに同期には稀代の逃げ馬サイレンススズカ、栗毛の怪物グラスワンダーなどがいて、ブライトは後に彼らの陰に隠れてしまうことになる。

 その後のブライトはエモシオンを抑え切った日経新春杯勝ちこそあるものの、同期あるいは後輩に勝てない競走生活が続いた。タフに走りつづけた競走生活だったが、6歳にしてとうとうパンクし休養を余儀なくされる。復帰の京都大賞典では見せ場なく、再び故障を発症して現役引退となった。ちなみに最後に立ちはだかった世代が、セイウンスカイやスペシャルウィーク、エルコンドルパサーなどの世代で、これらはグラスワンダーとよく比較されることはあっても、ブライトと比較されることはないだろう。

 メジロ牧場にとって「春」だったのはブライトが天皇賞を勝っただけではない。同い年生まれのドーベルが牝馬二冠を達成、その後もエリザベス女王杯連覇などして、ライアンのファーストクロップたちは大成功を収めたのだ。お陰でその後ライアンへの種付け依頼は殺到、今でもライアンの子たちは元気にJRAのターフを走っている。名門メジロの復活に足るものだったのだ。

 ライアンの後継として幸せな種牡馬生活が待っているかも知れなかったブライト。しかし馬産地は「ステイヤー」だということや勝ち鞍がクラシックディスタンスより長めの距離にシフトしていたことから、スピード偏重の時代に受け入れてもらうのは至難なことだった。

 そして、たった四世代の産駒を残し、ブライトは急逝した。

 2004年春、種付けのあと馬房で横たわっていたブライト。既に息はなく「急性心不全」とされた。母の父マルゼンスキーも、同じ症状で24歳にして世を去った。

 時代はステイヤーの血を受け入れないかもしれない。しかしスピードを兼ね備えたステイヤーの強さを、生産者や競馬ファンは知っている。それを知らしめたのはマックイーンが距離不問の強さを見せ、ライアンが中距離でマックイーンを完封し、ブライトが早期に開花して距離不問の活躍をした、彼らを生産したメジロ牧場だということを。

 メジロの馬ほど血統の分かりやすい生産者はいない。オーナブリーダーだからこそ、サラブレッドたる生産を行えるものなのだということを改めて理解しなければいけないと感じる。

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