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福岡市・博多遺跡群第17次調査SK175

−日本出土高句麗土器の再報告−

出典:東アジア古代史・考古学研究会第8回(1996)

当日の発表用原稿を採録した。1998年に発表した「博多出土高句麗土器と7世紀の北部九州」のもとになったものであるが,ここでは遺跡の調査経過や,調査者の認識の変化といった問題を主に取り上げており,「裁判劇か推理ドラマのようだ」と評された。(18/Apr/2002)

[本文目次]

[挿図・写真目次]

*遺構実測図・写真は,福岡市埋蔵文化財センターにおいて閲覧・借用した。
*遺物実測図は,福岡市埋蔵文化財センターで収蔵・管理・公開されている遺物を実測し,作成した。


1.はじめに

日本で出土した朝鮮三国時代土器としては,新羅土器や加耶土器が多く取り上げられ,それらに数量的には劣るものの,百済土器も扱われることがありますが,それらにくらべますと,日本出土の高句麗土器はあまり注目されていないように見受けられます。貴重な出土例について,出土状況などが充分知られていないことに,理由の一端があるようです。

博多遺跡群の第17次調査は,今から15年前,1981年から1982年にかけて福岡市教育委員会が実施し,1985年に『博多III』という概報が刊行されました。古墳時代前期の方形周溝墓や道路遺構が発見された調査ですが,この調査で高句麗土器が出土しております。概報には,高句麗土器の図と記述はあるのですが,それが出土した遺構や共伴遺物については,ほとんど記載がありません。

幸い,実測図や写真など発掘調査の記録類は,出土遺物とともに福岡市埋蔵文化財センターで収蔵・管理そして公開されておりますので,私は今年(1996年)の8月と11月に資料調査を行い,概報に記載のない情報も得ることができました。その成果をここで公開し,特に高句麗土器の所属時期について述べさせていただき,多くの専門家のみなさんのご意見を伺いたいと考えています。

なお,今回の再報告について,元の調査担当者であられ,現在宮崎大学におられる柳沢一男助教授から,ご承諾とご教示を賜りました。また,資料調査ならびに記録類の使用については,福岡市埋蔵文化財センターの吉留秀敏文化財主事より全面的なご協力を賜りました。


2.弥生・古墳時代の博多遺跡群(挿図2)

博多遺跡群は,博多湾に注ぐ御笠川と那珂川の河口に形成された砂丘に立地しています。1977年の地下鉄建設に伴う調査以来,公共や民間の開発事業に伴う発掘調査が相次ぎまして,これまで100次を越える調査が実施されています。その結果,大まかな遺跡の推移は把握されてきました。

博多遺跡群は中世都市として知られており,弥生や古墳時代の遺跡というイメージはあまり強くないかも知れませんが,当時の博多遺跡群は北部九州において重要な位置を占めていました。

遺跡の初現は弥生時代前期にまで遡りますが,特に,弥生時代後期から古墳時代前期にかけては,方形周溝墓・玉造工房・道路遺構などの重要遺構や,畿内系・山陰系・東海系・朝鮮半島系などの多量の搬入土器などが知られています。古墳時代中期には,埴輪を伴う全長56m以上の前方後円墳・博多1号墳も造営されました。古墳時代後期以降,特に6世紀後半から奈良時代までは,再び集落が営まれ,対外貿易の一端を担っていたものと考えられています。


3.土坑SK175(挿図3〜5)

高句麗土器を出土した土坑SK175の報告に移ります。

遺構配置図(挿図3)の真ん中のあたりに,第17次調査と第20次調査の調査区にまたがって,古墳時代の方形周溝墓SX200があります。これが呼ばれておりまして,溝はSD109と呼ばれています。SD109に黒く塗りつぶされた部分がありますが,これが土坑SK175です。写真1は北から見たSK175です。土柱の上に土器が残されているのが見えますが,ここがSK175で,手前はSB177です。

SK175の周辺を拡大したのが挿図4です。

SK175は,方形周溝墓の周溝SD109と重複しているわけですが,SD109は覆土の途中の遺構をすべて調査した後に,はじめて方形周溝墓の周溝と認識されておりまして,SK175の掘方はSD109の覆土中で確認されたはずですから,当然SD109よりもSK175が新しい遺構ということになります。写真2は北東から見たところですが,この時点のSD109は,SK175より南西側では掘り下げられていますが,北東側(写真2手前)では,覆土が黒く残されています。

また,SK175は竪穴住居跡SB173と完全に重複しております。遺構図の原図によりますと,SB173の床面検出以前にSK175を認識したとみえて,SK175のまわりにベルトを残して調査しています。したがって,竪穴住居跡SB173より土坑SK175が新しいという認識を持っていたことになります。

これらの切り合いについては,後ほど改めて整理したいと思います。

土坑SK175は,東の端をピットに切られ,北の端を中世の遺構に切られていますが,長さ1.6メートル,幅1.3メートル,深さ0.2メートルほどの楕円形の土坑のようです(挿図5)。遺構のなかに,2点の遺物の出土状況が描き込まれていますが,このうち1点は甑869,もう1点は高句麗土器23です。この番号は遺物の登録番号です。なお,遺構図の原図では,甑869にカタカナで「ハニワ」と書き込まれておりまして,調査中は円筒埴輪と思いこんでいたもようです。

現場写真の撮影順序は記録されていませんが,もっとも出土直後に近そうなのが写真3です。右が高句麗土器,左が甑です。破片が原位置を保っており,土柱の直立面が斜めで,下の方に土器片が突き刺さったままです。甑にはハケメと黒斑があり,円筒埴輪のようにも見えます。

反対側(東)から見た写真4では,甑の小破片が原位置を失っています。

写真5(当日はカラースライド)では,高句麗土器が白い色調なのがわかります。少し時間が経過した後なので,高句麗土器の小破片も原位置を失っています。土柱は直立するように整形されており,写真3で高句麗土器の下の方に写っていた土器片は取り除かれています。

写真6は横から見ています。甑よりも高句麗土器の方が幾分高い位置で出土しているようです。甑869番の把手のはがれた跡がわかります。また,後に述べますように,甑は口縁部が3分の2周も遺存しておりますし,高句麗土器も大きな破片で,しかも割れ口が水平面をなすように出土しています。どうやら,どちらも初めは完形に近い状態だったのに,削平で失われてしまったということだと思います。写真6の時点で,住居址などのほかの遺構は掘り上げられています。土柱はいくつかの層に分かれますが,上の方は土坑SK175の覆土,下の方は周溝SD109の覆土です。

写真7は完掘後の方形周溝墓です。SK175の下の周溝SD109も掘り上げられ,ほかの出土遺物はすべて取り上げられたのに,SK175の出土遺物2点だけ,SD109の真ん中に土柱を残して出土地点を維持しております。この2点は発掘調査中から特別な扱いを受けていたということでしょう。


4.出土遺物

出土遺物としては,この会の主旨からいっても,高句麗土器が最も興味深いのですが,今のところ高句麗土器について充分に考察する準備はありませんし,また,今回は土坑SK175の時期を推定することが当面の目標でありますので,高句麗土器については簡単に済ませて,ほかの出土遺物に目を向けていこうと思います。

また,遺構が複雑に絡み合っておりますので,SK175の周辺の遺構から出土したと登録されている遺物とも対照する必要があります。そこで,SK175の出土遺物のほか,方形周溝墓周溝の出土遺物の一部や,竪穴住居跡SB173の出土遺物も報告いたします。

なお,遺物の番号は福岡市埋蔵文化財センターの登録番号をそのまま用いておりますが,9桁のうち最初の4桁は調査番号で,すべて「8132」で共通なので,適宜省略いたします。同一の番号で複数個体が登録されている場合は,A,B,Cなどの記号を添えて区別しております。

1) SK175出土遺物(挿図6)

まず,SK175の出土遺物として登録されているものを見ていきます。

(1)高句麗土器(813200023)

高句麗土器23については,ほぼ概報の所見通りですので,まずそれを読み上げます。

SK175出土。口頸部を欠く。体部に2個の環状把手がつくと思われるが,現存部位には認められない。底部の遺存が少ないため,器形の傾きが若干変るかも知れない。復原底径18.2cm,現高32.8cm。体部の内外面はロクロナデだが,内面に成形時の指頭圧痕が残る。外面下位に回転ヘラケズリを加える。外面上位に図のようなヘラ記号を描く。胎土は精良だが小砂粒をわずかに含む。硬質の焼成とはいえ瓦質に近い。黄みをおびた灰白色。」〔柳沢ほか1985:15〕(挿図6上段)

この記述はほぼ追認できますが,付け加える点としましては,器面がタテ方向にかすかな面をなしておりまして,タタキ技法が用いられた可能性があることと,ヘラ記号が焼成後に描かれたものであることが挙げられるでしょう。

この土器の位置づけについて,概報は高句麗土器と断定しておりませんが,ソウルの九宜洞遺跡の土器に似ていることには言及しております。このころは,まだ夢村土城での高句麗土器の出土が知られておらず,九宜洞遺跡の土器も,高句麗土器か百済土器か結論が出ていなかったので,概報もそうした学史的状況を反映した書き方をしています。

高句麗土器23は,白っぽく,器面がつるつるしています。かなり硬質ですが,吸水性は高く,恥ずかしながら,ヘラ記号の拓本をとるのに失敗してしまいました。これまでに見た百済や新羅,加耶の土器とは異質の印象があります。夢村土城の報告書などで描写されている高句麗土器と似ているのではと感じたので,高句麗土器ということにしています。「大」の字形ヘラ記号も高句麗土器にいくつか例があるようなので,これも根拠になると考えます。しかし一方で,たとえば百済にこのような土器が,絶対ないとは言い切れませんし,今のところ何ともいえません。

(2)土師器(813200481)

次は481番で登録された土師器一括です。図示に耐えない小さな破片が多いのですが,今回は1点だけ報告します(挿図6中段)。図の左端に「土器」と書いてありますが,これは福岡市埋蔵文化財センターで与えられた登録名称です。この土師器481Aは,実は,遺構図や写真に示された甑869と同一個体です。図や写真では結構大きな甑なのですが,これは小破片です。

(3)須恵器(813200482)

次に482番で登録された須恵器一括です。これもすべて小破片です(挿図6下段)。

482Bは灰色がかった赤褐色の色調です。底部のケズリは,遺存部分まではおよんでおらず,ケズリの範囲が狭いだろうと考えられます。

図示した3点の須恵器は,九州編年のIV期に当たるようです。

このほかに図示しなかった破片がいくつかありまして,その中に,高台のついた須恵器の杯身の小破片もありました。高台は九州編年のVI期以降に現れるものです。

以上が,土坑SK175で登録された遺物です。

2) 方形周溝墓周溝出土遺物

遺構図(挿図5)に描かれた高句麗土器と甑のうち,高句麗土器23は先ほど報告しましたが,甑は小片しかありませんでした。というよりも,481番で登録された破片は,遺構図に表現された部分ではなく,覆土からバラバラにでてきた土器片の中に混じっていたものです。甑869の,遺構図に示された部分は,「SK175」という名目では登録されていませんでした。

私は,写真を手がかりに,第17次調査の出土遺物を片っ端から調べまして,やっとこの甑を見つけました。これは「SX200(方形周溝墓周溝)」という遺構名で869番に登録されていました。

ところで,先ほども述べましたように,方形周溝墓SX200の周溝にはSD109という名称がついています。しかし,SX200というのは本来,埋葬主体である木棺墓を指しておりまして,それとは別個にSD109など複数の溝状遺構が認識されていました。その後,古墳時代後期の集落遺構などをすべて掘り上げて,木棺墓と溝が全体で一つの方形周溝墓を構成するとわかると,方形周溝墓全体をもSX200と呼ぶようになったという経過が,残された記録から推定できます。ですから,この周溝からの出土品は,あるものは「SD109」出土,あるものは「SX200(方形周溝墓周溝)」出土と,2種類の登録がなされていまして,おそらく,「SD109」とした方が早い時点に取り上げられ,「SX200(方形周溝墓周溝)」とした方が遅い時点に取り上げられたと推定できます。

ここで,完掘時に撮られた写真7をもう一度ご覧ください。先ほども述べましたように,高句麗土器23と甑869は完掘のときまで出土地点に残されていました。この土器を取り上げたとき,「SX200(方形周溝墓周溝)」の出土遺物と登録されたことは,充分に納得のいくことです。

そうしますと,甑869の次の番号である須恵器870も,やはり「SX200(方形周溝墓周溝)」で登録されていますが,おそらく甑869と同じ時に出ただろうと推定できます。その出所は,写真で遺構の覆土が残っている部分ということになりますから,つまり高句麗土器23と甑869のために残した土柱以外には考えられません。

発掘の最終段階に,方形周溝墓の周溝の真ん中に残った2つの土器と土柱を取り外し,遺物を取り上げたとき,なぜか高句麗土器以外は周溝出土として取り上げたということのようです。

この土柱は,遺構図や写真などによりますと,上の方が土坑SK175の覆土で,下の方が周溝SD109の覆土と,いうことになります。方形周溝墓は古墳時代前期と報告されていますから,それより新しい時期の遺物は,土坑SK175の覆土の中の遺物と考えて差し支えありません。

理屈が長くなりましたので,具体的に出土遺物を見ていくことにいたします。

(1)土師器(813200869)

869番は土器一括として登録されていますが,実際は甑869だけしかありません(挿図7上段)。これが遺構図や写真に示されていた甑でして,さきほどの481Aと接合します。869と481Aとを合わせると口縁部がほぼ3分の2周します。図をとっている部位が違うので,869と481Aは口縁端部やハケメなど,少し違った感じがします。かなりいい加減な作りで,外面のハケメにはタテの部分とナナメの部分がありますし,内面のケズリにもタテの部分とナナメの部分があります。把手はほぼ根元から切損しています。

口縁部が3分の2周も残っていますから,口縁部の傾きや口径の復元はほぼ正確です。実際にこのような直立した口縁部をもった甑ということになります。遺構の写真と比べますと,口縁部を下にして,逆さまに出土しています。直立して,外面はハケメで,しかも黒斑がありますので,出土してすぐは円筒埴輪の底部と考えられていたというのも,何となくわかる気がします。

この甑は,7世紀くらいに考えてよさそうです。そうしますと,方形周溝墓とは全く違う時期なので,本来は土坑SK175の覆土の中にあった土器と考えられます。

(2)須恵器(813200870)

次に,870番は須恵器一括として登録されています。3点がありまして,いずれも実測に耐える土器でしたのですべて実測し,図示しました(挿図7下段)。

870Aは,つまみとかえりのついた蓋です。最大径15センチぐらいに復元できます。つまみが基部で折れて,基部の太さからボタン形つまみと推定できます。かえりは口縁端部と同じ高さか,それより少し退化したぐらいか,微妙なところです。九州編年でVI期辺りに考えていいと思います。

870Bは,九州編年のIIIB期ごろに当たります 註)

註)この蓋杯について,質疑応答の際,会場の小田富士雄先生からIV期でよいとの指摘があった。

870Cは,無蓋高杯の杯部に足が生えたような形をしています。破片ではありますが,足の痕跡の配置からみて,足は4本あったと推定しています。下からみた図のうち,左側の足は焼成の後に根元から外れていますが,右側の足は焼成の前に切損しているか,あるいは最初からこのような短い足だったようです。周囲をナデておりますので,粘土がたまたま貼り付いているのではなく,確かに足があったといえます。類例を探している余裕がなかったのですが,聞いたところでは,6世紀後半ごろに,いくつか見られるようです。やはりIIIB期ごろでしょう。

したがいまして,870番の須恵器は九州編年のVI期とIIIB期との2時期のものがあるわけですが,どちらも方形周溝墓とは全く違う時期なので,本来は,やはり土坑SK175の覆土の中にあった土器,ということになります。

3) SB173出土遺物

このように,「SX200(方形周溝墓周溝)」で登録された遺物も土坑SK175の覆土に含まれたものと考えられるのですが,内容には100年ぐらいの時期幅があるようです。原則からいけば,新しい方の遺物を選んでSK175の時期とみなせよいのですが,念のため,SK175と切り合いのある竪穴住居跡SB173の出土遺物を紹介します。

既に申しましたように,SK175とSB173は重複しておりまして,調査中はSK175の方が新しいとみなしていたようです。その辺りも頭の片隅において,図をご覧ください。

(1)須恵器(813200741)

741番は須恵器を一括して登録しております。7点を図示しました(挿図8)。蓋杯を見ますと,九州編年のIV期でよさそうです。

このほか甕の胴部破片などがありますが,特に時期差を示すようには見受けられません。

(2)土師器(813200744)

744番は土師器を一括で登録しています。観察の機会はありましたが実測の暇がなかったため,今回は図を載せませんでした。6世紀のものが主体をなすようです。これについても調査と公表を予定しています。

以上より,竪穴住居跡SB173は須恵器のIV期ぐらいと考えてよさそうです。


5.SK175の時期比定

さて,ここまでで材料は揃いましたので,SK175の時期比定に取りかかります。時期はここまでも用いているように,九州の須恵器編年で表現することにします。

まず,土坑SK175と切り合う竪穴住居跡SB173は,IV期の遺物が主体をなしておりましたので,この時期に比定して問題ないようです。

つぎに,土坑SK175から出土したと解釈された土器は大体2時期に分かれまして,古い方はIIIB期ないしIV期,新しい方はVI期に当たります。このうちIIIB期ないしIV期のものは,先ほどの竪穴住居跡SB173の時期と矛盾しませんので,そちらからの混入と考えて一括遺物の引き算をしますと,VI期の遺物が残ることになります。

このことは,先ほど遺構図などから読みとった切り合い関係と矛盾しませんから,SK175に本来属すべき遺物はVI期の遺物ということになります。

以上をまとめて整理しますと次のようになります(挿図9)。

すなわち,方形周溝墓の周溝SD109(4世紀)の埋没の後,IV期(6世紀末ころ)に竪穴住居跡SB173が作られます。さらに,SB173の埋没の後,VI期(7世紀後半ころ)になると,竪穴住居跡の覆土を切って土坑SK175が掘り込まれ,高句麗土器や甑などが廃棄されますが,埋没の過程で竪穴住居跡の覆土の中の遺物が土坑の中に混入したと考えられます。

前にも述べましたが,高句麗土器23と甑869は破片も大きく,特に高句麗土器23は割れ口が水平をなして出土しておりますので,削平以前はもっと大きな破片,または完形品だったと考えられます。そうしますと,これらの土器は何らかの廃棄行為の結果であったということになるでしょう。


6.おわりに

ここまで,煩雑な作業の過程をお話しして参りましたが,このような資料操作の結果,SK175は7世紀後半の遺構であるということになりました。

7世紀の後半といいますと,北部九州にとって,また朝鮮半島にとっても,かなり特殊な時期といえます。

660年に百済が滅亡しますと,斉明天皇は北部九州の岩瀬宮(改称して長津宮)に遷都しまして,跡を引き継いだ天智天皇が667年に近江大津宮に移るまで,百済滅亡後の朝鮮半島情勢に対処しております。また,668年には高句麗も滅亡してしまい,このころには高句麗からの渡来人も日本列島にやってきています。日本書紀の伝説的な記事を除けば,おそらく,日本と高句麗がさかんに交渉した,ほとんど唯一の機会であったと考えられます。この時期に博多遺跡群の高句麗土器が位置づけられるとしますと,示唆するところは非常に大きい,といえるのではないでしょうか。

今回の報告は資料調査の途中経過でありまして,もう少し補足的な資料調査を行った後に,改めて成果を公表したいと考えております。

また,私は6年前(1990年),ソウル大学校博物館を訪問した際,暗がりの中で,九宜洞遺跡の高句麗土器を少し見ただけで,高句麗土器の勉強をさぼっておりまして,土器そのものの考察が不充分です。これも今後の課題といたします。この会場には,本場の高句麗土器を観察された経験をおもちの先生がたも何人かいらっしゃいますので,ぜひ,ご見解をお教えいただければと思います。

不勉強のついで,と申しますと語弊がありますが,私はこの時期の須恵器や土師器も苦手としており,何かひどい間違いをしているかも知れません。その点もご指摘いただけたらと思います。

以上です。

(補註)当日の録音テープを紛失したことにより,本稿は,当日の発表用原稿を補足・整理して作成した。実際の発表とは一部表現が異なるかもしれない。写真は発表の趣旨に抵触しない範囲で一部入れ換えた。また,質疑応答は省略させていただいた。会場での重要なご指摘を生かし切れていない点をお詫びいたします。


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