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福岡市・金武古墳群吉武L群出土新羅土器の再検討

−古墳時代早良平野における朝鮮産土器とその背景−

出典:福岡考古第20号:福岡考古懇話会,31-38頁(2002)

以前資料調査した内容を公表した。

第1章で示した新事実としては,一部に印花紋土器と誤解されていた蓋をコンパス紋と証明した部分がある。

第3章では,2001年以来の交易論に沿って記述しているが,特に「百済土器・馬韓土器と倭」での6世紀以降の記述を補う意味もある。(25/Nov/2002)

目次


はじめに

古墳時代の日本列島と朝鮮半島との間には,小地域単位の複雑な交渉関係が認められる。北部九州沿岸部のみにおいても,少なくとも糸島,早良,福岡,粕屋,宗像などといった小地域に分けて考える必要があり,それらを混同して「(北部)九州」などとまとめてしまっては,背景の人間集団が捨象され,「地理的に近いから朝鮮の遺物が多い」といった非歴史的な常識論にしかなり得まい。

したがって,朝鮮産土器から日本列島と朝鮮半島の交流を究明するには,個別事例において出自や時期を細別し,これを地域史の中で再構成する必要がある。

本稿では,福岡市の西区・早良区・城南区にまたがる早良平野を取り上げ,朝鮮産土器の出土傾向とその背景を論ずる。早良平野の中でも西区・金武古墳群吉武L群(吉武塚原古墳群)では,古墳群から複数の新羅土器が出土しており,従来から着目されていた。筆者も同古墳群出土の新羅土器を観察する機会を得たので,その成果を報告するとともに,これを早良平野と朝鮮半島とのかかわりの中で位置づけようと試みる。

なお,この古墳群は従来「吉武塚原古墳群」として知られているが,本文中では正式の遺跡名である「金武古墳群吉武L群」を用いる。土器の個体名は器種名に福岡市埋蔵文化財センターでの登録番号を添えて呼ぶ。また,土器に設けられるスカシのうち,切り開けられたものを透窓,刺突により開けられたものを透孔とする用語法〔趙栄済1988:255〕に従う。


1.資料

(1) 金武古墳群吉武L群

早良平野は博多湾に注ぐ室見川によって形成された扇状地である。その縁辺の丘陵では,古墳時代の古墳群が数多く造営されている。金武古墳群は室見川左岸にあり,谷をさかのぼれば日向峠を経て糸島平野にも連絡しているという立地である。古墳群は乙石支群と吉武支群にわかれ,両者はさらにいくつかずつの小支群に細分されている。中でも吉武L群は金武古墳群でも最もさかのぼる6世紀前葉から始まり,7世紀まで造営・追葬が見られる。また,緩やかな傾斜を持つ平坦面に造営されているという点でも,金武古墳群の中では特殊な小支群といえよう。

金武古墳群吉武L群は,1979年に8基が調査され,翌年報告された。新羅土器を出土した1号墳・8号墳は横穴式石室を持つ円墳で,周溝をめぐらせていた〔二宮忠司・渡辺和子(編)1980〕。

(2) 1号墳出土の新羅土器(第1図)

台付壺790601004 底部と脚部のみ遺存している。残存高128mm,胴径219mm,脚径176mm。

胎土は精良で,黒色粒子をごく少量含む。

叩き出しによる丸底で,最大径付近の胴部外面に縦方向の平行叩き目がかすかに残り,底部内面に当て具痕が多数残る。胴部外面・底部外面は回転ナデ整面されており,肩部に沈線1条をめぐらす。

脚部は基部内外面を底部外面にナデツケる。直線的に開き,端部で若干外反する。脚部全体も回転ナデ整面されている。突帯は沈線のみで表現されており,沈線区画を無視して1段3方向長方形透窓が開けられている。

硬質に焼成され,吸水性を残さない。自然釉は観察できない。内外面暗灰色,断口黒褐色。

(3) 8号墳出土の新羅土器(第2図・第3図・第4図)

いずれも追葬時に捨てられた須恵器とともに周溝より出土した〔二宮忠司・渡辺和子1980〕。

蓋790608052 口縁部が一部欠損するがほぼ完形である。器高42mm,口径65mm,稜径70mm,つまみ径17mm。

胎土はわずかな黒色粒子を含むが精良である。

天井部は半球形であり,ミズビキ成形されている。突帯の下に沈線をめぐらし,その下はわずかに折り込んで直立気味の口縁部をなす。突帯下の沈線をめぐらすために内面に当てた指の爪痕が遺存している。全体に外面ナデ整面。天井部外面には全面に捩拗弧点紋を施紋する。捩拗弧点紋は先の丸い双歯具によって下開き左回りにひねって施紋されており(第2図A),施紋途中に軸点がずれたために弧線が変形した場合がある(第2図B,第3図)。この紋様がスタンプではないことを示している。捩拗弧点紋どうしでは,下のものが上のものを切る。

宝珠形つまみは頂部がほとんど突出しない。天井部中央に接合後,基部をヘラオシしている。

硬質に焼成され,吸水性を残さない。天井部外面に濃緑色の自然釉がかかる。外面濃緑色〜青灰色,内面青灰色,断口は紫灰色。自然釉から正置焼成とわかる。

高杯790608031 口縁部の多くを欠くが復元完形である。器高82mm,口径116mm,脚径69mm。

胎土には黒色粒子を含むが精良である。

杯部はミズビキ成形されて丸くたちあがり,口縁部は外反気味に直立する。全体に回転ナデ整面されている。外面には5条の沈線をまばらに配する。外面の2方向に,把手が退化したものと思われる紐状素地をタテ方向に貼付し,上下にナデツケている。

脚部は,倒置した杯部の外底面で巻上成形しており,低い。突帯による2段構成であるが,下段は退化し狭い。端部はやや膨らみ外反する玉縁状をなす。全体に回転ナデ整面されている。脚部上段には,3等分の方向で2方向のみ,断面長方形工具で刺突して透孔を設けており,脚内面に刺突で押し出された素地が付着している(第4図)。

硬質に焼成され,吸水性を残さない。内面中央が黝黒色で光沢をもつ。底部内面中央と脚端にワラが付着している。外面は灰白色で口縁部と脚端のみ黒色,内面は暗灰色で底部中央が黝黒色,断口紫朱色である。ワラの付着部分で器面が黝黒色となっているのは,窯詰めの状況を物語っており,ワラを介して高杯どうし重ね,正置焼成したと思われる。


2.各遺物の時期比定

金武古墳群吉武L群で出土した陶質土器は,いずれも新羅土器である。ここでは,筆者の新羅土器変遷観〔白井克也2000〕に従い,各遺物の時期を論ずる。なお九州の須恵器編年は小田富士雄により,新羅の印花紋の編年は宮川禎一による。

台付壺790601004 台付壺は丸底から平底へと移行し,それに伴って各部の器形が変化する。

台付壺790601004は丸底であるが,脚が短くなって突帯が退化し,また,小型化した透窓が突帯を意識せずに穿たれている。このような器形は新羅IIIB期からIIIC期に主に見られ,下限は新羅IV期ごろと考えられる。6世紀後半から7世紀初頭ごろであろう。

台付壺790601004を出土した1号墳では,出土遺物が多くないが,須恵器は九州のIV期以降のものであり,腰石に巨大な割石を用いることからも古墳群内で新しく位置づけられるので,築造の上限を九州IV期・7世紀前葉ごろに求めることができる。台付壺790601004の年代観と1号墳の年代観はほぼ矛盾がない。台付壺790601004は1号墳の初葬時に副葬されたものであろう。

蓋790608052 蓋は,新羅III期以降高杯と成形時の形態を異にするようになり,口縁部は稜と沈線で区分され,あまり内傾しない。新羅III期のうちIIIA期までは双歯具による捩拗弧点紋が施されるが,IIIB期からは印花の手法で押捺弧点紋が施されるようになる。

蓋790608052は新羅III期の口縁部形態を持ちながら,いまだ印花手法が用いられていないので,新羅IIIA期に位置づけられる。

このような下開き捩拗弧点紋は,上開き捩拗弧点紋と違って三角形紋+円弧紋構成をとらず,大量施紋の場合がある。したがって,後の印花紋1式にみる単体スタンプの大量押捺も,三角形紋+円弧紋構成の退化ではなく,別系譜の施紋原理として印花紋以前から引き継がれたのかもしれない。

それはさておき,蓋790608052を出土した8号墳の須恵器は九州IIIA期にさかのぼるものもあるので,蓋790608052は8号墳の初葬時に副葬されたと考えられる。

高杯790608031 高杯の脚部は,新羅IIIB期から基部が太く短いものが多くなり,突帯は脚の区画としてよりも装飾的なものとなり,透窓や透孔は突帯の位置を意識しなくなる。高杯790608031の上限も新羅IIIB期に求められよう。

また,高杯790608031にみられる透孔の手法にも着目したい。古新羅・加耶土器では透窓の手法が多く,特に針状工具による“一筆描き”の手法が大半である〔定森秀夫・白井克也1999〕。IIIB期以降の短脚化した高杯でも,例えば小郡市・津古内畑1号墳出土の無蓋高杯〔柳田康雄(編)1971〕では小さな透窓ながら“一筆描き”の手法が堅持されている。一方,高杯790608031と対比されることの多い慶州市・西岳洞古墳〔尹武炳・朴日薫1968〕の出土品のうち,筆者が観察しえた台付長頸壺では,透孔の手法,すなわち方形工具による刺突が確認できた。西岳洞古墳は新羅VA期に比定され,紋様は印花紋1b式古段階であり,7世紀前葉ごろに比定される。

8号墳の須恵器は九州IIIB期を中心に,九州IV期におよぶ。高杯790608031は追葬時,7世紀前葉ごろに副葬されたのであろう。


3.考察−古墳時代早良平野における朝鮮産土器

金武古墳群吉武L群より出土した新羅土器は,早良平野と朝鮮半島との関係を示す遺物として取り上げられてきた。確かに早良平野と朝鮮半島とのかかわりは深い。しかし,それは他地域での朝鮮産土器出土傾向に対比して,どのような地域的特性を示すのであろうか。

本節では,古墳時代早良平野の朝鮮産土器出土傾向について簡単にまとめてみた(第5図)。

(1) 古墳前期

弥生終末(庄内式並行期)には北部九州から瀬戸内にかけて多くの交易拠点が築かれ,朝鮮産土器もそれらの遺跡に分布していたが,古墳前期に朝鮮産土器の出土はほぼ北部九州に限られ,特に博多湾岸に集中する。これは西日本全体を背景とした交易拠点が博多湾に集約されたためと考えられる(博多湾貿易)〔白井克也2001a〕。

早良区・西新町遺跡(第5図1)〔池崎譲二ほか(編)1982;柳田康雄(編)1985;松村道博(編)1989;長家伸(編)1994;重藤輝行(編)2000;森井啓次(編)2001〕では,朝鮮半島産土器とともに,カマドを設置した竪穴住居跡も検出されている。朝鮮半島南岸の人々が,交易のため一時的に滞在した交易拠点であったろう。土器から見ると加耶のほか馬韓の土器もみられる。

そして,極めて特殊な西新町遺跡のほか,早良区・原遺跡(第5図2)〔飛高憲雄・力武卓治(編)1981・1982〕では百済に由来する軟質土器が出土している〔武末純一2000〕。

これらを除けば,古墳前期の早良平野に朝鮮産土器を出土する遺跡はほとんどない。また,早良平野に搬入された朝鮮産土器に百済や馬韓由来とされるものがあることは注目すべきであろう。

(2) 古墳中期前葉(初期須恵器出現以前)

このころ,特に初期須恵器直前段階に,西日本各地で朝鮮産土器の出土が知られるようになる。しかし,西新町遺跡での朝鮮産土器の出土は古墳前期のうちに衰退しており,したがって,中期前葉に朝鮮産土器の分布が拡大した原因は,日本列島の内部事情には求めがたい。

日本列島における朝鮮産土器の分布が薄い古墳中期初頭ごろ,逆に金海大成洞古墳群などに朝鮮半島南部と日本列島の各地から遺物が搬入されており,この時期,洛東江河口付近に存在した交易拠点がより集約的なものとなったのであろう。日本列島の古墳中期前葉における朝鮮産土器の流入は,このような金海地域の貿易の集約性が喪失されたためであろうと考えられる〔白井克也2001b〕。

早良平野では西区・生の松原遺跡(第5図3)〔池田祐司・久住猛雄(編)2000〕,早良区・次郎丸遺跡(第5図4)〔中村啓太郎(編)1996〕などの集落で朝鮮産土器の出土が知られている。

(3) 古墳中期中葉(初期須恵器段階)

この時期は須恵器に代表されるように,各地で朝鮮半島からの移住により技術移転が見られる。

早良平野においては早良区・有田遺跡群(第5図5)〔山崎純男1979;山崎純男・井沢洋一(編)1994:46-47〕や西区・吉武遺跡群(第5図6)〔横山邦継・下村智(編)1988;濱石哲也(編)1989〕で朝鮮産土器の出土が知られるようになり,特に前代よりも内陸の集落で確認されている。土器の故地としては加耶を中心に,馬韓や百済が想定されている。

古墳では,早良区・クエゾノ1号墳(第5図7)に陶質土器が供献されている〔常松幹雄(編)1995〕。

(4) 古墳中期後葉(定型化した須恵器が登場した段階)

西日本各地で新たな移住がほぼ収まり,各地の政治集団によって渡来人集団が再編されていく。

早良平野の集落でも,朝鮮産土器の目立った出土はほぼなくなる。

墳墓では早良区・梅林古墳(第5図8)〔濱石哲也ほか(編)1991〕やクエゾノ2号墳(第5図7)〔常松幹雄(編)1995〕のような室見川右岸の古墳に陶質土器の副葬が確認されている。

早良平野では加耶や馬韓の土器が見られるが,一方,この時期に本州日本海岸や東日本にみられる新羅土器,また,この時期に属する須恵器TK23型式期に佐賀平野・筑後平野・大和盆地東南部で一時的に見られる百済土器も,早良平野では例が知られていない。早良平野は新羅土器の流入経路から外れており,また,この時期の百済土器は従来朝鮮産土器の少なかった地域に搬入される傾向がある。彼我の小地域間で複雑な交渉関係が存在したことがわかる。

(5) 古墳後期

全国的に朝鮮産土器が少ないが,早良平野では6世紀中葉以後の古墳から新羅土器が出土する。

本稿で取り上げた金武古墳群吉武L群のほか,早良区・山崎古墳群C-1号墳(第5図9)〔濱石哲也(編)1994〕が挙げられる。前時期まで新羅土器がほとんど出土していなかった土地であるのに,一転して新羅土器を副葬するようになる背景には,交易路をめぐる朝鮮半島南部の政治変動より,日本列島でも各地の集団間で関係が再編され,その結果,早良平野の集団が新たな交易関係に重要な役割を果たしたことを示していよう。

このほか,高霊地域の大加耶土器も吉武遺跡群で出土していることや,集落での陶質土器の出土に乏しいことからすれば,蟾津江河口地域の,『日本書紀』にいう「多沙津」あたりに交易拠点が存在し,早良平野の集団もそこでの交易に参加していたのではないだろうか(多沙津貿易)。

(6) 古墳終末期

北部九州と畿内に新たに新羅土器が搬入される時期である。

北部九州では博多区・博多遺跡群(第5図13)が交易拠点として再び活況を呈したようであり,日本書紀にいう「那津」に相当する(那津貿易)。この時期も早良平野では朝鮮半島との交流が続き,西区・金武古墳群吉武G-4号墳(第5図12)〔荒牧宏行(編)1998〕や早良区・三郎丸B-3号墳(第5図10)〔小田富士雄1988;二宮忠司・大庭友子(編)1996〕で新羅印花紋土器が,また,西区・広石古墳群I−1号墳(第5図11)〔山崎純男ほか(編)1977〕で百済土器が,それぞれ出土している。対外交渉権がいまだ在地集団の手に留保されていたのであろう。

しかし,そうした状況は7世紀中葉には早くも不明確となり,むしろそれまで新羅土器の乏しかった福岡平野の大野城市・王城山C古墳群〔酒井仁夫(編)1977;白井克也1999〕や宗像平野の宗像市・相原2号墳〔酒井仁夫(編)1979〕などで7世紀前・中葉に新羅土器が副葬されている。那津貿易の活況の背景に,交易の担い手の微妙な変動が読み取れるかもしれない。


おわりに

本稿では早良平野と朝鮮半島諸地域との交流過程の中で金武古墳群吉武L群出土新羅土器を再認識しようと試みた。いまだ調査中や未報告の遺跡もあり,やや時期尚早であったかもしれず,今後も新資料に即して検討を加えていきたい。

なお,本稿で観察所見を記した遺物は,荒牧宏行,濱石哲也,速水信也,李漢祥,加藤良彦,久住猛雄,中村啓太郎,中島達也,重藤輝行,常松幹雄,横山邦継,吉留秀敏の各氏のご教示とご協力により実見の機会を得た。末尾ながら記して謝意を表したい。(2001.10.18.)


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