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筑紫出土の獣脚硯

出典:九州考古学第79号,福岡,九州考古学会,19-43(2004)

Keywords:獣脚硯・大宰府・福岡県・工人論・百済

目次


はじめに

福岡県は,国内のほかの地域よりも多くの須恵器獣脚硯を出土することで知られている。小田富士雄〔1962〕や鏡山猛〔1962〕による紹介に始まり,すでに事例は畿内の事例数に匹敵する。横田賢次郎〔1983〕は,ほかの材質・器形の硯も含めて福岡県内の古代の硯を集成・分類し,さらに製作工程を復元して獣脚硯の変遷を捕捉しようと試みた。また,佐藤浩司〔1993〕は,硯とともに墨書土器・ヘラ書き土器・墨入れなどの出土事例を集成し,律令体制の階層構造と硯の配備が対応すると指摘した。横田や佐藤の業績は,硯を福岡県の地域史叙述に生かそうとするものであったが,一方で杉本宏〔1987〕や千田剛道〔1995〕が福岡県内出土の獣脚硯を朝鮮半島製とみなしたことは,横田や佐藤の研究方向と抵触していた。

一方,筆者は,古墳時代後期から奈良時代にかけての北部九州で,朝鮮産土器の出土分布が政治情勢を反映して変化すると考えた〔白井克也2000a〕が,福岡県内で出土する獣脚硯を朝鮮産と仮定した場合,出土傾向の評価は大きく変わることになり,獣脚硯における産地の識別は重要な検討課題であった。

このような関心から,筆者も中国・朝鮮・日本の獣脚硯を比較検討し,福岡県内出土の獣脚硯を観察する機会も得たが,その結果,獣脚硯の製作技法について若干の知見を得た。本稿では,その成果を披瀝するとともに,福岡県内出土獣脚硯の生産地と系譜について論じたい。

なお,福岡県内出土の獣脚硯は律令制における筑前国・筑後国に分布するが,豊前国や,近接する肥前国(佐賀県・長崎県)・豊後国(大分県)には報告例がなく,肥後国(熊本県)出土の獣脚硯は形態が異なる。したがって以下では,時代背景も含意しつつ,「筑紫出土の獣脚硯」の呼称を用いる。


1.資料-筑紫出土の獣脚硯-

まず,本稿で用いる用語を解説しておく。

硯の分類は基本的に楢崎彰一〔1982〕に,細部名称は杉本〔1987〕によったが,筑紫出土の獣脚硯に多くみられる,硯部下半が海から連なって水平に突出する部分を「縁台」(亀井による用語〔亀井明徳(編)1971:99〕で,横田も継承),海の下方向に筒状に伸びる部分(圏脚硯の脚部に相当)を「圏台」と呼ぶ〔横田賢次郎1983〕ほか,必要に応じて本稿独自の用語を使用する。

獣脚硯1(Fig.1-1) 福岡県久留米市・荒木西ノ原遺跡で,奈良時代の遺物を含む包含層より出土した〔鏡山猛1962:14〕。

脚1本と脚基部1か所を含む縁台・外堤1/4周程度が遺存しており,陸はまったく遺存しない。脚と脚基部の間隔からみて5脚に復元できる。器高86mm,推定外堤径145mm,推定縁台径165mm,脚間104mm。

胎土は砂粒などをほとんど含まず精良である。

陸から垂直に海に落ち,断面U字形の海をなす。陸端部の裏面に強いヨコナデが施されている。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなす。端面はケズリ整面され,断面四角形で鋭い稜をなす。断面観察によると,縁台は上下2枚に分かれる。

脚は縁台の端面から下面にかけて貼付し,脚頭上面と縁台上面は一致しない。縁台下面の脚基部に接合沈線が観察される。脚前面上半は,自然釉のため確認しにくいが,タテ方向のケズリが施されている。前面下半には紋様を押捺施紋する。紋様は2条突線で2段に分かれ,上段は狭く,三角形紋のみ,下段は広く,三角形紋の随所に短直線を加えた紋様である。脚側面・背面はケズリで整え,特に側面のケズリは基部で折れてそのまま縁台下面に連なっている。脚左側のケズリの範囲が広いため,紋様は右に偏って見える。紋様の右端は縁台直下で直線的に途切れており,これが型の端と考えられる。脚端は平坦だが斜めになっているのでしっかり接地しない。

外堤は縁台上に貼付され,高く直立し,端面は水平面をなす。縁台と外堤は中心軸が一致しない。

硬質に焼成されており,特に脚前面に自然釉が厚く掛かっている。海底にも霜降状に自然釉が掛かる。外面暗灰色で光沢があり,縁台下面灰色,断口灰白色。正置焼成と推定できる。

獣脚硯2(Fig. 1-2) 福岡県大野城市・牛頸塚原遺跡で溝04から出土した〔石木秀啓ほか(編)1995:254,257〕。遺構の時期は決めがたいが,遺跡は平安時代までの集落である。

獣脚硯1との対比から獣脚硯とみなす。脚1本のみ遺存し,陸・外堤・縁台を失っているが,左側面の上端でやや器面が屈折するので,ここから縁台の下面・端面を推測し,復元図を作成した。残存高48mm。

胎土には灰白色粒子を多く含む。

脚前面は上半のみ縦方向のケズリを施し,下半には紋様を押捺施紋する。紋様は2条突線で2段に分かれ,上段は狭く,三角形紋のみ,下段は広く,三角形紋の随所に短直線を加えた紋様である。脚側面・背面はケズリで整え,鋸歯紋の両側縁もケズリで一部消されている。脚左側のケズリの範囲が広いため,紋様は右に偏って見える。脚背面は脚端から曲線的なケズリを行い,おそらくは硯部にナデツケていたと思われる。脚端はしっかりした平坦面をなす。

硬質に焼成されているが,自然釉は認められず,若干の吸水性を残す。器面はやや紫がかった灰青色,断口は青灰色である。

獣脚硯3(Fig. 2-3) 福岡県春日市・御供田遺跡の4号住居跡床面から出土した。共伴須恵器の年代観により「円面硯の出土例では最も遡った事例」と評価された〔井上裕弘(編)1980:49〕が,須恵器の年代観に再考が迫られている現状では,7世紀という以上の限定は困難である。これについては本稿の末尾で若干触れる。

脚1本を含む1/3周程度が遺存し,3から5脚に復元できる。陸は周縁のみ遺存している。器高52mm,推定外堤径200mm,推定縁台径229mm。

胎土には白色砂粒と灰色砂粒を含む。

陸は平坦で,端部で稜をなして斜めに落ち,断面逆台形の海をなす。陸の裏面にナデ,陸端部の裏面に強いヨコナデが施されているが,全体に雑な印象を受ける。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなす。

脚は縁台下面の外端に貼付し,縁台端面を横方向にケズリ込んで脚頭を作り出す。そのため縁台端面は脚の左右で面がつながらない。端面上縁はさらに面取りされている。脚頭上面は縁台上面と同一面をなす。前面中央は縦方向のケズリで整える。前面下半には紋様を押圧施紋している。鋸歯紋の上縁に突線2条が作り出されるが,脚上半のケズリで消された部分がある。また,鋸歯紋の両側縁も脚背面のケズリのため一部消されている。脚背面はケズリで整え,そのまま脚周辺の縁台下面に一部及んでいる。

外堤は縁台上に貼付され,陸より高く,断面三角形で,端部は内傾面をなす。

硬質に焼成されているが,自然釉はみられない。外堤下半の一部から脚上半に至る外面は黒色,陸・外堤と脚下半前面は灰褐色,下面は灰色に発色しており,意図的に色調を調整したかもしれない。正置焼成と思われる。

陸は端部まで平滑であるが墨跡は確認できない。使用された可能性がある。

獣脚硯4(Fig. 2-4) 福岡市博多区・那珂遺跡群第21次調査で井戸SE-61上層から出土した。井戸からは7世紀後葉から8世紀中葉の須恵器・土師器が出土しており,報告者は獣脚硯4を埋没最終段階の8世紀中葉に比定している〔山口譲治ほか(編)1992:255-257〕。

脚1本を含む1/4周程度が遺存している。報告者は6脚と推定しているが,これは脚数を最大限に復元した場合である。脚基部周辺の整面などから考えて3から4脚が妥当であろう。器高50mm,推定外堤径153mm,推定縁台径188mm。

胎土には灰白色砂粒を含む。

陸は平坦で,端部で稜をなして斜めに落ち,断面逆台形の海をなす。陸の裏面にナデ,陸端部の裏面に強いヨコナデが施されているが,全体に雑な印象を受ける。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなす。

脚は縁台下面の外端に貼付し,縁台端面を横方向にケズリ込んで脚頭を作り出す。そのため縁台端面は脚頭の左で外傾,右で内傾している。さらに,端面上縁は面取りされている。脚頭上面は縁台上面と同一面をなす。前面中央は縦方向のケズリで整える。前面下半には紋様を押圧施紋している。鋸歯紋の上縁に突線2条が作り出されるが,脚上半のケズリのため消された部分がある。また,鋸歯紋の両側縁も脚背面のケズリで一部消されている。脚背面はケズリによって整えられ,このケズリは脚周辺の縁台下面に一部及んでいる。

外堤は縁台上に貼付され,陸より高く,断面三角形で,端部は内傾面をなす。外堤と縁台は同心円をなさない。

硬質に焼成されているが,自然釉はみられない。陸から脚上半に至る外面・上面は黒色,脚下半から下面は灰色に発色しており,意図的に色調を調整したかもしれない。正置焼成と思われる。

陸の中央はややくぼみ,極めて平滑である。墨跡と思われる黒色部もあり,使用されたと考えられる。

獣脚硯5(Fig. 2-5) 北九州市八幡西区・紅梅(A)遺跡の谷部祭祀跡6層下層から出土した。この層は7世紀から8世紀にかけて堆積したものである〔山手誠治(編)1989:49〕が,出土した須恵器には古墳時代的なものを含む。

陸の端部と外堤付近の1/5周程度が遺存している。脚は遺存しないが,縁台下面に脚周辺のケズリと思われる部分がみられ,3から6脚の獣脚硯に復元できる。残存高23mm,推定外堤径162mm。

胎土に大きめの白色粒子と若干の黒色物質を含む。同じ層から出土した須恵器のうち,古墳時代的な器種に胎土が似ている。

陸端部から稜をなして斜めに落ち,断面逆台形の海をなす。陸の裏面にナデ,陸端部の裏面に強いヨコナデが施されているが,全体に雑な印象を受ける。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなす。断面と剥離面の観察によると,陸から縁台下面に続く皿形の原形を成形し,その端部上に素地を補って厚い鍔状にしている。縁台下面はナデが行われているが,一部に外→内方向のケズリがあり,脚の接合に関わるものと考えられる。縁台端面は横方向のケズリが施されており,また,端面上縁は面取りされている。

縁台上に貼付された外堤は陸より高く,断面三角形で,端部は内傾面をなす。

硬質に焼成されている。下面には自然釉がかすかに掛かっており,倒置焼成と思われる。縁台の端面と面取り部分は黒色に,これ以外の上面は青灰色,下面は暗灰色に発色しており,意図的に色調を調整したかもしれない。断口は灰紫色である。

獣脚硯6(Fig. 2-6) 福岡市西区・元岡・桑原遺跡群第20次調査で,溜池状遺構SX044上層の7世紀後半~8世紀の層から出土した〔福岡市教育委員会(編)2003:14〕。近隣から墨書土器,木簡,帯金具,緑釉陶器,中空円面硯,転用硯など,官衙の存在を示唆する遺物が多数出土した。

陸の端部と縁台の1/3周程度が遺存する。脚は遺存しないが,脚剥離面と,脚基部とみられる器面の隆起との配置から4脚と推定できる。残存高31mm,推定縁台径168mm,推定脚間130mm。

胎土は黒色物質を含むが精良。福岡平野の硯にみられる灰白色砂粒は含まない。

陸はやや凹面をなし,端部で稜をなして垂直に落ち,断面U字形の海をなす。陸の裏面は素地を補い,丁寧なナデを行う。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなす。縁台端面は横方向のケズリが施されて上下に明確な稜をなす。脚頭両脇と脚剥離面が同一面としてつながる。

脚は縁台の端面から下面にかけて貼付していたが剥離し,形態・装飾を知りえない。縁台端面に縦方向の接合沈線8条を施して脚を貼付し,両側の縁台端面にナデつけたのであろう。また,脚の背面は縁台下面にわずかにナデつけたのみで,広範囲なケズリなどは伴わない。

外堤は縁台上に貼付されているが,折損して遺存しない。

硬質に焼成され,下面に霜降状の灰白色自然釉が掛かる。上面灰色,外堤端面灰黒色,断口青灰色である。自然釉からみて,倒置焼成と思われる。

陸は平滑であるが墨跡は確認できず,使用如何は確定できない。

獣脚硯7(Fig. 3-7) 福岡県太宰府市・大宰府史跡第7次調査(住ケ元地区)のSトレンチ第1層から出土したが,遺構に伴うものではない〔亀井明徳(編)1971:96,98-99〕。

脚1本を含む1/4周程度が遺存し,八角縁台の獣脚硯と推定されている。陸は内堤のみ遺存し,外堤は切損している。残存高65mm,推定縁台径260mm。

胎土に白色粒子を含む。

陸の端部に段差を設けて内堤とし,垂直に落ちて広く深い海をなす。裏側はナデ整面されている。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなす。縁台は上下2枚に剥離するように見受けられ,これは縁台の作出法にかかわる現象であると考えられる。

縁台の突出部に薄い三角形の脚が取り付くが,前後2枚に剥離し,脚背面は大半が剥落している。脚の前面に縄目叩きが観察できる。脚の側面から縁台端面に連なるケズリを施し,このために縁台端面は外傾面をなす。脚背面基部のケズリは周辺の縁台下面に一部及んでいる。

外堤は縁台上に貼付されたが基部のみ遺存する。内堤の高さから考えて,外堤も高く直立すると推定される。

硬質に焼成されている。海底と縁台下面のみ黄灰色,ほかは黒色で光沢を帯びる。断口の色調は復元のため観察できなかった。色調からみて,正置焼成と思われる。

獣脚硯8(Fig. 3-8) 福岡県太宰府市・大宰府史跡85次調査(不丁地区)の暗褐色土層で出土した。実見の機会を得られなかったが,報告書〔石松好雄ほか(編)1984:69,71〕と横田の記述〔1983:11-12〕により特徴を記す。

脚基部2か所を含む海・外堤・縁台破片であり,3から4脚が想定される。残存高44mm,推定外堤径156mm。

胎土には砂粒を含み粗い。

陸は遺存せず,断面U字形の海をなす。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなすが,外堤より外側は素地を補って厚くしている。

脚は縁台の端面から下面にかけて貼付し,縁台にナデツケている。

外堤は内傾気味に伸び,端部は内傾面をなす。

硬質に焼成され,淡灰色ないし黒灰色。

実見の後に改めて検討したいが,ほかの縁台獣脚硯と類似するものの,細部の違いが大きいように思われる。

獣脚硯9(Fig. 3-9) 福岡県太宰府市・大宰府史跡第105次調査で礫群を伴う溝状遺構SX3095から出土した。遺構は15~16世紀に埋没したと思われるが,同じ調査区では8世紀ごろの掘立柱建物も検出されている〔石松好雄ほか(編)1988〕。

水滴脚を有する獣脚硯である。脚1本とその周辺のみ遺存しており,脚数・径は推定しがたいが,やや大型と推定できる。残存高67mm。

ごくわずかの白色粒子を含む精選された胎土を用いている。

陸は遺存しない。断面U字形の深い海をなす。海底は水平で,2枚に分かれるように剥離する。全体にナデ整面されているが,海の下面はケズリ整面され,一部はケズリの後にナデが加えられている。

外堤はやや高い位置に受部状の段を作り出している。ほかの獣脚硯と対比するため,この部分を縁台と呼んでおく。外堤端部は遺存しない。

脚は水滴形で,縁台の外面・下面に貼付する。脚全体はナデ整面され,硯部にナデツケている。

やや軟質に焼成されており,自然釉はみられない。内外面・断口は白色である。

獣脚硯10(Fig. 3-10) 福岡市早良区・東入部遺跡群第4次調査区の遺構外で出土した。遺跡では8世紀の官衙が検出されている〔池田祐司(編)1994〕。

脚1本を含む1/10程度が遺存するのみであり,脚数・径は推定しがたい。残存高43mm。

胎土は黒色物質を含むが精良である。

陸はまったく遺存しない。海底から曲線的に巻き上げるように外堤をなし,端部は丸く仕上げたようである。

脚は海底裏面から外堤外面下半にかけて貼付し,基部の周囲がナデられている。

倒置焼成されて脚の背面は光沢を帯び,側面は灰黒色,海底は灰青色,断口は淡青灰色である。

獣脚硯11(Fig. 4-11) 福岡県小郡市・上岩田遺跡の83号掘立柱建物掘方内から出土した。7世紀の第3・4四半期ごろと考えられている。

脚1本を含む1/10周程度が遺存し,3から5脚に復元できる。陸はごく一部が遺存している。器高97mm,推定外堤径300mm。

胎土には白色粒子を含む。

陸は平坦で,稜をなして落ち,溝状の海をなす。厚ぼったい作りである。

側面は上半(外堤)と下半(圏台)が平行でない。外堤外面には刺突紋を,圏台には平行する凹線2条をめぐらす。断面観察などによると,陸から圏台まで倒置状態で碗形に一連成形したようである。

脚は圏台外面から下面にかけて貼付し,脚の両側面は圏台下面から続くケズリによって整える。脚前面の仕上げは,側面のケズリよりは遅れるが,外堤と脚前面の貼付の前後関係は決しがたい。脚端部は外に張り出し,刻線で獣足を表現する。また,足首に当たる部分に刺突紋を施す。

硬質に焼成されているが,自然釉などはみられない。上面と側面が灰青色,下面が小豆色なので,正置焼成であろう。

獣脚硯11の胎土・成形技法・紋様は,福岡県小郡市・三沢京江ケ浦5号横穴墓出土の圏脚硯〔宮田浩之(編)1989:73〕に酷似する。圏脚硯の製作技法を援用して獣脚硯の製作を試みたのであろう。

獣脚硯12(Fig. 4-12) 福岡県春日市・浦の原窯跡の第2次調査で須恵器窯灰原から出土した。窯は8世紀前半に比定され,周囲の状況からみて窯1基が孤立しているので,獣脚硯12も8世紀前半に位置づけられる〔平田定幸1999:16-17〕。

互いに接合しない圏台2片と脚2片がある。器形は同一であるが圏台の高さは微妙に異なり,あるいは同形の硯2点が存在したのかも知れない。脚はいずれも直接には圏台破片に接合しない。図は,高い方の圏台と,遺存のよい脚から復元した。

圏脚硯に脚が貼付された形態である。1/3周が遺存し,3脚程度と考えられる。陸は遺存しない。推定器高68mm,推定外堤径190mm。

胎土に白色粒子と黒色物質を含む。

陸から海を経て圏台まで一連に成形しており,圏台下端は内傾面をもつ。やや外傾する外堤をめぐらし,海は陸と外堤にはさまれて狭いV字形の断面をなすと思われる。外堤は短くのび,端部はやや面をなす。外堤直下に突帯をめぐらし,端部は丸く終わる。突帯は海底と高さがまったく一致せず,製作技法上の連繋はない。圏台内外面はナデ整面されている。

脚は下半のみ型作りし,指の間をケズリ込んで整えている。圏台の外面に接合沈線を刻み,脚を貼付の後,周辺の圏台外面にナデツケている。圏台上端の突帯は脚の貼付以前に作られている。

硬質に焼成されており,受部・圏台外面・脚前面などに霜降状に自然釉が掛かる。内外面は暗灰色ないし青灰色。断口は紫朱色である。脚端が黄灰色を帯び,砂粒が付着していることから,正置焼成と考えられる。

陸は遺存しないが,灰原の出土であるので,使用はしていないと思われる。

浦の原窯跡群は牛頸窯跡群の西端に当たる。第1次調査の成果によると,浦の原窯跡群は7世紀に始まり,8世紀に操業の中心がある〔平田定幸・丸山康晴(編)1981〕。4号窯では亀形硯が出土している。

獣脚硯13(Fig. 5-13) 福岡県中間市・中間中学校横穴群で,校舎や運動場の工事に伴って須恵器などとともに出土した。須恵器は7世紀後葉に位置づけられる〔小田富士雄1962;中間市史編纂委員会(編)1978〕。

3脚とも基部を残して折損しているが,ほかは完存している。焼成時のひずみが大きく,残存高23mm,径104~105mm。

胎土には白色粒子を多く含む。

皿形に成形し,外端はやや反り上がって丸く終わるが,明確な外堤はなさない。陸の一端を指で押し出して海とする。海底には押し出したとき生じた素地の亀裂が観察できる。海を押し出した後,陸の端に沿った上面に沈線を反時計回りにめぐらし,さらに海と相対する位置の沈線上2か所に上→下方向に穿孔している。小田の述べるとおり,蓋をくくりつけるために用いた孔であろう〔1962:54〕。

海の裏面を含む下面3か所に薄板を貼りつけて脚とする。脚は内傾しつつ始まり,おそらく外反していたであろう。脚から周辺の体部下面にかけて,ケズリ状のナデツケが行われている。

海の裏の脚には基部に数条の斜線が刻まれ,その後,3脚を囲むように沈線をめぐらし,さらに中央に沈線で大きく「×」を描く。

硬質に焼成され,上面には暗灰黒色自然釉が掛かる。上面暗灰褐色ないし灰色,下面青灰色,断口灰青色。正置焼成である。

陸中央から海にかけて,擦れて平滑になった部分があり,そのうち海寄りの一部に墨跡かと思われる黒色部分がある。硯としての使用の痕跡と考えられる。

類例が乏しく,横田は「特殊円面硯」に分類している〔1983:30〕。形態や海の作出法は愛媛県新居浜市・カメ谷窯址周辺〔真鍋修身1966〕で出土した獣脚硯3点と似た部分がある。

獣脚硯14(Fig. 5-14) 福岡市早良区・有田遺跡群の第77次調査で溝状遺構SD11から出土した。遺構の埋没は平安時代と考えられる〔井澤洋一(編)1996〕。

脚1本を含む1/5周程度が遺存し,3から5脚に復元できるが,下面にわずかに遺存する器面の隆起を脚基部とみなせば4脚に復元できよう。器高27mm,推定外堤径148mm。

胎土には白色小礫を多く含む。

平坦な皿形に成形し,周縁はややくぼむが明確な海はない。外端が短く断面三角形に立ち上がって外堤をなす。外側面の下半には横方向のケズリが加えられている。

脚は薄板状で,硯部下面の外端にナデつけ,端部が外反する。紋様などはない。

硬質に焼成され,上面外端に黒緑色自然釉が掛かっている。上面暗灰色,下面紫灰色,断口は中心部が紫灰色,器面近くが暗灰色。正置焼成である。

獣脚硯15(Fig. 6-15) 福岡県太宰府市・大宰府史跡第83次調査(不丁地区)SX2336で出土した〔石松好雄ほか(編)1984:18-20〕。実見していないが,報告書によって紹介する。

脚が2本遺存するが,全形がわからないので,報告者も獣脚硯の場合と,傾斜して用いる場合の2種の実測図を提示している。

胎土には砂粒が少ない。

硯面は平滑になっている。

獣脚硯16(Fig. 6-16) 福岡県太宰府市・大宰府史跡第84次調査(不丁地区)の灰褐色土層で出土した〔石松好雄ほか(編)1984:47-48〕。すでに横田は,これを2脚によって傾斜させて用いる「特殊円面硯」として紹介している〔1983:17-18〕。筆者は実見しておらず,反論の根拠もないが,対比のたためここで挙げる。

硯面と脚2本が遺存する。

胎土には砂粒を含む。

脚は指で整えられ,端部は外反する。

硯面中心部は平滑になっており,使用されたと考えられている。


2.縁台獣脚硯における同工品

筑紫出土の獣脚硯16点は多様な形態を示しているが,成形技法により大別できる。

遺存の悪い数点を除くと,成形技法の推定できるものはいずれも回転台上の円板から成形を開始する。成形時の下側が製品の上面になる「倒置成形」(3~9,11・12)と,上側が製品の上面になる「正置成形」(13~16)の2者があり,獣脚硯1,10は倒置成形の可能性が高い。

倒置成形されたものは,皿形に作った後,原口縁を水平に張り出させて縁台を作り出す「縁台技法」(1,3~9)と,上に積み上げて圏台を作り出す「圏台技法」(11・12)に分けられる。10はやや異例のものであるが,縁台技法に近い。正置成形された4点に,このような技法の差は生じない。

以上から,倒置成形・縁台技法による獣脚硯を「縁台獣脚硯」とする。その細別は後述する。

倒置成形・圏台技法による獣脚硯(11・12)を「圏台獣脚硯」とする。圏台技法は多くの圏脚硯に用いられている技法である。

正置成形され,縁台や圏台を持たない獣脚硯(13~16)を無台獣脚硯とする。無台獣脚硯は個体ごとの違いが大きい。

以上のうち縁台獣脚硯のいくつかは,相互に類似性があるが,日本列島のほかの地域に類例が少ない。これらは杉本や千田によって朝鮮半島製とみなされていた硯である。次節以降は,これら縁台獣脚硯を主な対象とし,その意義を論ずる。まず,(1)で筑紫出土の獣脚硯に対比しうる畿内出土例について観察所見を記し,(2)で筑紫・畿内出土の縁台獣脚硯を細別する。(3)・(4)において縁台獣脚硯に2組の同工品が存在することを指摘する。さらに,(5)において筑紫出土縁台獣脚硯の生産地を検討する。

(1) 畿内出土の縁台獣脚硯

畿内も筑紫に並び,獣脚硯のみられる地域である。筑紫出土資料と対比しうる4点を提示する。

獣脚硯17(Fig. 7-17) 大阪府富田林市・新堂廃寺における1975年の試掘調査で,SD01砂層から出土した。7世紀末から8世紀前半の須恵器・土師器と伴出している。

2/5周程度遺存し,脚は1本が端部まで遺存するほか,2か所で脚基部が確認され,8から9脚と推定できる。器高56mm,推定外堤径160mm,推定縁台径188mm。

胎土は白色粒子を多量に含むが黒色物質はみられない。

陸は平坦で,端部で稜をなして斜めに落ち,断面四角形の海をなす。陸の裏面にナデ,陸端部の裏面に特に強いヨコナデを加えている。

海底からそのまま水平に張り出して鍔状の縁台をなす。縁台上面は平坦で,外堤基部に浅い凹線がめぐる。縁台下面は横方向に非回転のケズリで整えているが,脚付近では脚背面から連なるケズリで消されている。

脚は縁台下面の外端に貼付し,縁台端面を横方向にケズリ込んで脚頭を作り出す。ケズリは脚頭側面から曲線的に始まり,何度かケズリ単位を連ねた後,次の脚頭側面で直線的に終わる。そのため縁台端面は脚頭の左で外傾,右でほぼ直立する。さらに端面の上縁は面取りする。脚頭上面は縁台上面と同一面をなす。前面中央の上半は縦方向のケズリで整える。前面下半には紋様を押圧施紋している。鋸歯紋の上縁は脚上半のケズリによって消されている。また,鋸歯紋の両側縁も脚背面のケズリで一部消されている。脚背面は脚端に始まるケズリによって曲線的に整えられ,このケズリは脚周辺の縁台下面に一部及んでいる。

外堤は縁台上に貼付され,断面長三角形で,高さが陸に近く,端部は丸みを帯びた面をなし,一部で凹線状になっている。

陸・外堤とも回転を利用して成形・整面されているが,中心軸は一致せず,遺存する範囲内でも陸外端-外堤上端の間隔が25から30mmの範囲で変動している。陸は倒置状態,外堤は正置状態で成形されたことによる結果である。

硬質に焼成されており,外堤外面の一部に灰をかぶって剥離した痕跡がある。内外面の大半が暗灰色。外堤の剥離部分や脚端接地面,断口などが紫朱色。色調や剥離部分の位置などから,正置焼成と思われる。

陸は端部まで平滑であるが墨跡は確認できない。使用された可能性がある。

獣脚硯18(Fig. 7-18) 奈良県高市郡明日香村・石神遺跡の第4次調査で,藤原宮期の整地層などから出土した〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1985:66〕。7世紀末から8世紀初頭に位置づけられる。

4片が遺存している。脚2本が遺存した破片から,8から10脚に復元できる。器高62mm,推定外堤径176mm,推定縁台径194mm。

胎土は白色粒子をごくわずか含むがきわめて精良である。

陸は平坦で,端部で稜をなして斜めに落ち,断面逆台形の海をなす。陸の裏面にナデ,陸端部の裏面に特に強いヨコナデを加えているようであるが,自然釉のため確認しにくい。

海底からそのまま水平に張り出して鐔状の縁台をなす。縁台端面には横方向の調整(ケズリか)が施されて上下に明確な稜をなす。端面は脚の左で直立気味,右で外傾気味であり,一連の面ではないが,違いはわずかである。縁台上面は平坦で,外堤基部に浅い凹線がめぐり,脚基部付近のみナデが加わっている。縁台下面は自然釉により観察しづらい。

脚は縁台の端面から下面にかけて貼付し,脚頭上面は縁台上面と同一面をなす。前面上半は縦方向のケズリで整える。脚前面下半に下向きの蓮弁紋を押捺施紋する。脚4点の紋様はすべて同一であり,笵傷の進行が認められる。木型による型作り施紋であろう。紋様は脚前面上半と脚背面のケズリで一部消されている。脚背面のケズリは必ずしも脚基部までは及ばず,縁台下部には及んでいない。

縁台上に貼付された外堤は海側が緩やか,外側が垂直にたちあがり,現状では陸よりも高く,端部は内傾凹面をなす。端部付近の外面にも沈線が巡る。外堤は一周のうちにも厚さが一定していない。また,外堤上面のなす面は陸外端のなす面に対してかなり傾斜しており,遺存部分で陸外端の高さは4~6mmと幅がある。完形であれば,陸の一部が外堤より高く突き出していたかもしれない。

硬質に焼成されており,下面と脚端に厚く濃緑色自然釉が掛かっている。上面黄灰色,外堤暗灰色。断口は紫朱色で若干の濃淡がある。倒置焼成と思われる。

陸は端部を除き平滑であるが墨跡は確認できない。使用された可能性がある。

なお,概報に「胎土の色調は新羅土器に似る」〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1985:66〕とあり,杉本がこれを「伴出した新羅土器と胎土・色調が似る」〔1987:17〕と解しているが,実際には同じ調査で出土した新羅土器細頸瓶とは色調が異なり,一般的な新羅土器の色調に似るという意味らしい。この文の解釈は獣脚硯18の位置づけに影響を及ぼしているので,付言しておく。

獣脚硯19(Fig. 7-19) 奈良県橿原市・飛鳥・藤原宮第47次調査で,藤原京左京六条三坊の東西溝AD4130の中層より出土した〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1987:20-21〕。この溝は藤原宮造営時に掘削され,下層は飛鳥IV・V,中層は平城宮II~IV,上層は9~10世紀の遺物を出土する。

陸外縁から外側の1/3周程度が遺存する。脚は2本が完存し,11脚に復元できる。残存高66mm,推定外堤径159mm,推定縁台径192mm。

胎土は精良で砂粒などを含まない。

陸から曲線的に海に落ち,断面逆台形の海をなす。裏面は回転ナデ整面されているようである。

海底から斜め下方に張り出した縁台は端面で上下に広がる。縁台端面は脚頭の左右で連続した面をなす。端面には忍冬唐草紋を線刻する。

脚は縁台端面から下面にかけて取り付き,脚頭の周囲に紋様とは様相の異なる凹線を作り出し,脚端の蓮花紋も型作りであることから,脚前面を貼花の手法で作り出したと考えられる。脚の側面,背面はケズリで整えられているが,隣接する脚の間では脚側面と縁台下面のケズリが連続しているから,本来は圏台状に連なっていたところへ,脚前面を貼花手法によって作出した後,脚間を切り抜いたと考えられる。これを「貼花・切り抜き手法」と呼ぶ。貼花・切り抜きの後に蓮花紋の上縁に2条の沈線を描いている。

外堤は縁台上に作り出し,やや外傾して延び,端部に外傾面をなす。

全体に緑釉が掛かり,陸の裏面に溜まっている。一部で緑褐色に発色している。断口は淡黄緑色で暖かみのある色調である。

獣脚硯20(Fig. 8-20) 奈良県橿原市・下ツ道東側溝から出土した〔林部均(編)1993:58;竹田政敬1994:550;齊藤明彦1996〕。

水滴脚を有する獣脚硯である。陸は遺存せず,脚もほとんど遺存しないが,外堤と脚基部は1/3周程度遺存する。脚基部が5か所確認され,14脚程度に復元できる。残存高51mm,推定外堤径244mm,推定縁台径264mm。

胎土は精良で砂粒などを含まない。

陸から曲線的に海に落ち,断面逆台形の狭い海をなす。裏面は回転ナデ整面されている。海底から斜め下方に張り出した縁台は端面で上下を広く取る。修復後に実見したため断面は観察できなかったが,修復前の写真によるといくつか接合面が認められ,まず陸から海底までを皿状に成形し,原口縁部に素地を追加して分厚くしたことがわかる。縁台端面は脚頭の左右で連続した面をなし,端面上縁の直下に沈線がめぐるが,多くは釉でつぶれている。

脚は水滴形で,縁台端面から下面にかけて取り付き,縁台端面では正面三角形状をなし,上端一点のみが縁台端面上縁近くまでおよぶ。

外堤は縁台上に作り出し,直立して端部は丸く終る。外堤の内外では海底面より縁台上面が低く,同一面ではない。

全体に施釉され,釉は黒色,灰白色の部分がある。断口は観察できなかった。やや軟質の焼成である。

(2) 縁台獣脚硯の細別分類

ここまでに掲げた筑紫・畿内出土の縁台獣脚硯を細別する。

縁台獣脚硯にも,海底裏面から縁台下面にかけて水平に近いものと,傾斜しているものがある。水平のものには,外堤の内外で海底面と縁台上面が同じ高さである「縁台1式」(1,3~7,17,18)と,縁台端面を海底より厚くして受部のように作出した「縁台2式」(8・9)がある。傾斜しているものは,水平な縁台を作出する工程がなく,脚の貼花・切り抜き手法によって結果として縁台状になっている「縁台3式」(19),海底から端面までを分厚くするが,明確な水平の縁台をなさない「縁台4式」(20)がある。

獣脚硯2は脚しか遺存しないので製作技法を確認できないが,獣脚硯1の脚と酷似するので縁台1式と推定できる。

縁台1式は,一部の圏脚硯に同様の製作技法が観察される(後述)が,筑紫では縁台2式・3式・4式に対応する圏脚硯が見当たらないようである。

縁台獣脚硯は,脚の作出技法も多様である。縁台端面から下面にかけて脚を貼付し,脚頭上面が縁台上面に一致する「脚a類」(6・18),縁台端面から下面にかけて脚を貼付し,脚頭上面が縁台上面に一致しない「脚b類」(1),縁台下面の外端に脚を貼付し,縁台端面をケズリ込んで脚頭を作り出す「脚c類」(3・4・7・17),縁台の端面から下面にかけて水滴脚を貼付し,脚頭の1点が縁台上面に達する「脚d類」(9・20),貼花・切り抜き手法によって作出された「脚e類」(19)がある。

(3) 同工品群Aの認定

筑紫と畿内で出土した縁台獣脚硯のうち,3・4・5・17の4点は互いによく似ている。これらは,同一の陶工による作品,すなわち「同工品」の可能性がある。

まず,胎土にいずれも灰白色粒子を含む。色調は個体ごとに差があるが暗灰色で,特に獣脚硯3・4・5では上面から脚上半が黒色,脚下半から下面が灰色である。これらは,製作地が近いことを示す。

縁台は水平で,端部で厚くならない。縁台1式である。脚は縁台の下面に貼付され,縁台端面をケズリ込むことによって脚頭が作り出されたと推定できる。脚c類である。このため縁台端面は脚の左右でつながらない。

さらに端面の上縁は面取りがされている。

獣脚硯では脚の横断面形に個体ごとの特徴が強く現れるが,獣脚硯3・4・17では脚の横断面形は前後につぶれた楕円形をなし,前面下半に紋様が押捺され,背面は脚端から基部に向かうケズリがそのまま縁台下面に広く及んでいる。

脚の紋様は,獣脚硯3・4では2条突線の下に鋸歯紋を配している。獣脚硯17では2条突線がみられないが,これは脚頭のケズリで消されたためである。遺存部分はまったく同一の紋様であり,同一の型を用いたことがわかる(Fig. 9)。特に獣脚硯3では4にない笵傷が進行しており,獣脚硯4よりも3が後に作られたと推定できる。紋様が脚を半周していることから考えて,平面的な型の上で棒状の素地を転がして紋様を浮き出させたと復元できる。

以上の共通性から考えて,獣脚硯3・4・17は確実に同工品であり,脚が遺存しない獣脚硯5も,同工品の可能性が極めて高い。筑紫出土例は近隣から出土する須恵器と胎土が似通っているが,畿内(河内)出土の獣脚硯17は伴出遺物と胎土が異なっている。したがって,これらの製作地は牛頸窯跡群が想定できる。これを同工品群Aとする。獣脚硯17は筑紫で作られて畿内にもたらされたことになる。

(4) 同工品群Bの認定

獣脚硯1・2も互いによく似ており,これらも同工品の可能性がある。

両者は胎土や色調などに若干の違いがあるが,形態や脚の断面形が共通している。

脚の紋様は2条突線の上下に鋸歯紋を配するもので,例数の少ない獣脚硯の中でも,特に稀な紋様である。獣脚硯1・2の紋様(Fig. 9)は一致しており,同一の型を用いたことがわかる。特に獣脚硯2では紋様の左半分で型を彫り直して補修しており,獣脚硯1より2が後に作られたと推定できる。

脚の紋様は脚背面のケズリなどで一部消されているが,脚の右側よりも左側の方で多く削られていることも共通しており,陶工の癖によるものと考えられる。

以上の共通性から考えて,獣脚硯1・2は同工品の可能性が高い。胎土などからみて,製作地はやはり牛頸窯跡群が想定できる。これを同工品群Bとする。

(5) 筑紫出土縁台獣脚硯の製作地

畿内出土の獣脚硯18と筑紫出土の獣脚硯を比較すると,獣脚硯18は同工品群Aや同工品群Bの要件を満たさない。いずれも縁台1式であるが,同工品群Aは脚c類,同工品群Bは脚b類,獣脚硯18は脚a類である。一方,筑紫で出土したものの同工品群A・同工品群Bに加わらなかった獣脚硯6は,獣脚硯18と共通点がある。両者は胎土が極めて精良であり,縁台はやや厚く,端面は脚頭の左右で連続し,脚頭上面と縁台上面が一致し(脚a類),縁台下面のナデツケ範囲が狭い。獣脚硯18と獣脚硯6は,同工品とは証明できないまでも,極めて近い製作地で作られたものであろう。胎土からみて,この2点の産地は牛頸窯跡群ではなかろうと考えられる。

獣脚硯18と同工品群A・同工品群Bとの差は,紋様にもみられる。獣脚硯18の紋様は下向き蓮弁紋で,曲線的である。これに対し同工品群A・同工品群Bでは紋様が完全に直線化して鋸歯紋となっている。これは型式学的な退化を示すと考えられ,山本孝文も同様の所見を表明している〔2003:105〕。

したがって,獣脚硯18と近い型式である獣脚硯6が外部から筑紫に持ち込まれ,その影響下で同工品群Aや同工品群Bが製作されたと考えられる。一方(18)の出土地が畿内であるから,畿内産の可能性があろう。

同工品群Aと同工品群Bを比較すると,両者の間に単純な型式学的組列を当てはめることはできないが,先に見た紋様の型式変化や,縁台上面と脚頭上面の関係,陸の高さなどから見て,同工品群Aが同工品群Bよりも古い可能性がある。いずれにせよ筑紫における近接した時期の個性的な陶工たちの作品と考えることができよう。

これらと比較すると,獣脚硯7は型押し紋様を持たないが,脚の間の縁台端面をケズリ込んでいること(脚c類)は同工品群Aに共通し,陸が高いことは同工品群Bに共通する。胎土・色調も同工品群A・同工品群Bと共通する。このことから,獣脚硯7は同工品群A・同工品群Bと共通の工房で近接した時期に製作されたものである。獣脚硯7の縁台は平面八角形に復元できるが,これも縁台をケズリ込む技法から派生したのであろう。獣脚硯7の類例は筑紫以外では見当たらないことから,翻って同工品群A・同工品群Bも含めて筑紫産であることが傍証できる。

縁台獣脚硯に筑紫産が含まれることをさらに傍証するのが,大宰府史跡でも主要な官司が所在したと思われる不丁地区で出土する縁台圏脚硯である。第98次調査SX2480出土品〔石松好雄ほか(編)1987:19〕や第84次調査SD2419出土品〔石松好雄ほか(編)1984:34,37〕が典型例であり,同工品群Aと類似する。前者は7世紀後葉(政庁I期)に位置づけられる例である。縁台1式と同じ技法であるが縁台が突出しない圏脚硯が第86次調査灰褐色土層出土品〔石松好雄ほか(編)1984:89-91〕である。これらは縁台1式が圏脚硯に応用され,型式変化する過程を示している。すでに横田は,これらが獣脚硯と同様の成形技法で作られたと指摘している〔1983:14,26-28〕。

これらに対し,獣脚硯8はやや様相を異にする。獣脚硯8は縁台端面に素地を補って端面を広くしている(縁台2式)が,この技法は筑紫や畿内では稀で,百済の縁台獣脚硯によくみられる(後述)。実見の機会を得ていないので確言しにくいが,百済からの搬入品であろう。獣脚硯8は国内出土のほかの獣脚硯に直接的な影響を与えたとは考えられない。

獣脚硯9は縁台2式で水滴脚(脚d類)を持つので,日本出土例としては稀少である。縁台4式ではあるが,水滴脚(脚d類)をもつ獣脚硯20や奈良県生駒郡斑鳩町・御坊山3号墳獣脚硯〔奈良県立橿原考古学研究所(編)1977〕は,細かい見解差はあるものの,施釉されているという理由もあって,国産とはみなされていない。獣脚硯9は,すでに指摘されているように百済に類例があり,百済からの舶載品であろう。獣脚硯9も,国産の獣脚硯に影響を与えなかった。

以上より,筑紫出土の縁台獣脚硯には,百済からの搬入品(8・9),畿内からの搬入品(6),畿内の影響下で作られた在地製品(1~5),そこからさらに型式変化した在地製品(7)が存在すると考えられる。これに加えて,畿内出土の縁台獣脚硯にも筑紫産(17)や畿内産(18)が存在すると考えられる。これは,これらの獣脚硯を朝鮮半島の百済製品と考える杉本〔1987〕や千田〔1995〕の説とは異なる。また,筆者自身もそれらを百済製品とみなしたことがあった〔白井克也2000a:106〕が,日本製と修正する。

次章では,百済の縁台獣脚硯と筑紫・畿内の縁台獣脚硯を比較し,相互間の影響関係を考察する。


3.縁台獣脚硯の系譜

朝鮮半島では百済と新羅の獣脚硯に顕著な違いがあり,縁台獣脚硯は忠清南道扶余・扶蘇山城などの百済末期の中心地にみられ,新羅の地域ではみられない。したがって,本稿で取り上げる筑紫・畿内の縁台獣脚硯は,いずれも百済の獣脚硯と対比すべきものである。本稿では,百済の硯を詳述する余裕はないので,(1)で筑紫・畿内との対比のため必要最低限の例を挙げて百済獣脚硯の製作技法に触れる。その上で,(2)で百済,筑紫・畿内の縁台獣脚硯に地域性を見出して前章の傍証とし,さらに(3)で年代を比定する。

(1) 百済獣脚硯の製作技法

百済の獣脚硯は,倒置成形した硯部に鍔状の縁台を作り出すまでは筑紫・畿内の縁台獣脚硯と同様であるが,縁台の作出技法は,獣脚硯23(扶余錦城山出土)や獣脚硯24(扶余西羅城出土)のように大半が縁台2式であり,圏脚硯22(扶余陵山里廃寺出土)のように,圏脚硯にも縁台2式がみられる。縁台1式は扶蘇山城,宮南池などで少数出土しているが,主流ではない。縁台3式も,獣脚硯25(扶余出土)や獣脚硯26(扶余扶蘇山城出土)のようにいくつか例があり,このうち獣脚硯26は緑釉製品である。縁台4式は獣脚硯21(扶余錦城山出土)や益山弥勒寺出土品のように,水滴脚(脚d類)をもつ硯にみられる。したがって,縁台1式が多数を占める筑紫・畿内の縁台獣脚硯とは好対照である。

百済の縁台獣脚硯は,脚の作出技法にも変異がある。脚a類(23,24)が多数みられるほか,水滴脚の脚d類(21,弥勒寺),貼花・切り抜き手法の脚e類(25,26)もある。脚a類には蓮花紋を型作りする場合がある。しかし,筑紫の獣脚硯にみられた脚b類,脚c類は確認できない。

このように,縁台作出技法,脚作出技法の双方において,百済出土の獣脚硯と筑紫・畿内出土獣脚硯には傾向の差がある。

(2) 製作技法と分布による産地識別

百済,筑紫・畿内を通じて,縁台の作出技法と脚の作出技法には相関関係がみられる。縁台は4式に,脚は5類に分類したにもかかわらず,両者の組み合わせは,縁台1式と脚a類,縁台1式と脚b類,縁台1式と脚c類,縁台2式と脚a類,縁台2式と脚d類,縁台3式と脚e類,縁台4式と脚d類という,7組にしか分かれない(Tab.1)。そこで,この7組それぞれに所属する個体と出土地との関係を表にまとめた(Tab.2)。

縁台2式・3式・4式の各個体は大半が百済地域で出土しており,百済製品と考えて問題ない。特に,縁台3式と縁台4式は,それぞれ脚e類,脚d類と強い相関関係を示す上,施釉された製品もある。百済獣脚硯の中でも,これら施釉製品は,中国四川省の獣脚硯と形態が類似する〔白井克也2000b〕。

一方,縁台1式に脚b類・脚c類が組み合わさるものは,百済では出土例がない。前章の分析からみても筑紫の製品である。

縁台1式と脚a類の組み合わせは各地で出土しているが,百済の出土例は脚の紋様が幾何学紋や無紋であるのに対し,畿内の出土品(18)では蓮花紋である。これは,後者が百済獣脚硯の型式変化や型式分化の流れから派生したことを示すであろう。一方で,獣脚硯18,およびこれによく似た獣脚硯6は,筑紫出土のほかの獣脚硯とは胎土や作風が異なっていた。このように,獣脚硯18・6は百済産とも筑紫産とも異なると考えられるが,前章でみたように,筑紫における同工品群A・同工品群Bの製作の前提として存在したと考えられる。獣脚硯18が畿内で出土したことも考え合わせて,獣脚硯18は畿内製品の可能性が高いといえよう。

このように,前章の仮説が傍証されたので,縁台獣脚硯をめぐる百済・筑紫・畿内の関係を図に整理した(Fig. 10)。

百済からはいくつかの獣脚硯が筑紫・畿内に搬入されたが,いずれも筑紫・畿内の獣脚硯に直接の影響は与えず,畿内にもたらされた未発見の獣脚硯(あるいは実物を伴わない製作情報)をもとに,陶邑で獣脚硯18が生産された。これとほぼ同型の獣脚硯6が筑紫にもたらされるなど,畿内からの強い影響のもとに筑紫でも獣脚硯の同工品群A・Bなど縁台獣脚硯が生産され,圏脚硯にも同じ技術が援用された。

(3) 縁台獣脚硯の年代

全体の推移が想定されたので,筑紫・畿内出土の獣脚硯の年代観を検討する。

まず,畿内出土の獣脚硯では,獣脚硯18の年代は藤原宮期(694~710年)ころと考えられている。百済獣脚硯の影響を受けていることを考えれば,百済の滅亡(660年)や百済復興運動の挫折(663年)から遠からぬ時期に置くことになり,矛盾しない。

一方,8世紀初頭ごろの大阪府堺市・陶邑TK304号窯では,獣脚硯18と同様の押型紋様を持つ蹄脚硯27が出土している〔大阪府教育委員会1979〕。蹄脚硯27は,まず獣脚硯の形態を作り,脚端に輪台を貼付しているが,この輪台には脚を受けるための脚座があり,脚端と脚座の接合面は脚端に合わせて傾斜し,自然釉が入り込んでいる。すなわち,蹄脚硯27は通常の蹄脚硯とは異なり,獣脚硯に輪台を付加して作られたものである。陶邑では7世紀中ごろ以前にはTG68号窯〔大阪府教育委員会1980:142〕などで蹄脚硯が作られており,定型化の道を進んでいるが,蹄脚硯27は蹄脚硯の型式変化からは外れている。このことから,畿内では早くから蹄脚硯が生産されており,その後,獣脚硯の生産が始まったが,蹄脚硯ほどは振るわず,ついには獣脚硯生産も蹄脚硯生産の中に解消していったと考える。蹄脚硯27を,獣脚硯生産の最後の姿と捉えるのである。平城宮・京では獣脚硯が報告されていないこと〔神野恵・川越俊一2003〕も,この想定を支持する。

以上から,獣脚硯18など,畿内における縁台獣脚硯の生産は7世紀後葉を中心とする短い期間で,生産量も少なかったと考えられる。

次に,筑紫出土の縁台獣脚硯は,共伴遺物で年代を特定できる例が少ないが,同工品の存在や,相互の類似性,縁台圏脚硯との関係から,おおむね7世紀後葉から8世紀初頭に位置づけられる。これは大宰府における政庁I期に該当し,西海道の官衙が整備される過程で畿内の影響のもとに獣脚硯の生産が始まったと考えられる。

縁台獣脚硯の下限は決めがたいが,縁台が突出しない縁台圏脚硯からさらに変容したと思われる大宰府史跡第102次調査SX2999出土品〔石松好雄ほか(編)1987:73〕が8世紀後半に位置づけられることからみて,8世紀前半までには縁台技法が衰退したのであろう。やや憶測するならば,畿内から蹄脚硯がもたらされることによって筑紫でも獣脚硯の地位が脅かされて生産が振るわなくなり,縁台技法が一部の圏脚硯生産の中に解消されていったと考えたい。また,筑紫出土の蹄脚硯には,脚から輪台まで一体に作って透窓を設ける蹄脚硯Bがみられない〔横田賢次郎1983;小田和利2003〕。蹄脚硯Bは畿内で8世紀半ばごろ登場したと考えられるので,これが筑紫に存在しないことは,筑紫への蹄脚硯の技術移転は蹄脚硯Bの登場より古い8世紀前半以前であったと考えられる。

以上より,筑紫の縁台獣脚硯は,7世紀後葉から8世紀前葉の短い期間に生産されたのであろう。


おわりに

本稿では,筑紫出土の獣脚硯を集成し,一部の資料について同工品を認定し,その意義を論じた。その結果,いくつかの問題が派生する。

まず,獣脚硯8・9のように,筑紫にも百済産の獣脚硯が存在することの意義である。これらはいずれも大宰府で出土したものであるから,百済滅亡以後,百済からの渡来人が官僚として出仕していたか,何かの経緯で百済人から譲り受けるなどしたものであろう。

次に,獣脚硯3が,伴出した須恵器を根拠に,7世紀前葉に遡る最古級の硯と考えられてきたこととの整合性である。現在,須恵器の編年や年代観について論議が多く,この問題は容易に解決できそうにもないが,獣脚硯3・4・5・17が同工品群Aとみなされることは,無視しえない。さらに,縁台獣脚硯に関する情報伝達の過程から考えても,獣脚硯3を7世紀中葉以前と考えることは困難である。獣脚硯3の出土状況に関する再解釈,あるいは須恵器編年の再検討の,いずれかが要請されるであろう。

さらに,筑紫で生産された同工品群Aのうち獣脚硯17が河内の新堂廃寺にもたらされていることが注目される。7世紀後葉ごろという時点で,筑紫産の獣脚硯が河内にもたらされた契機は何か,考古学・歴史学両面における精査が必要であろう。

もとより獣脚硯は律令制度のごく一部に関わるものであり,獣脚硯以外の硯や須恵器諸器種,あるいは律令制度の小道具となったさまざまな考古資料との対比,さらには官衙の整備過程における硯の位置の検討などが必要であろう。また,筑紫以外の地方の硯,それらと畿内の硯との関係,また地方の硯どうしの関係も,興味を惹かれる課題である。これらについては,最近優れた研究業績が各地で示されているが,言及すらできなかった。

さらに,百済・新羅の硯や中国の硯についても,充分に触れることができなかった。

論じ残した問題はあまりに多いが,本稿では結論を急ぐよりも,事実の指摘にとどめた。

導入初期の硯に関心を持って以来,元興寺文化財研究所,福岡市教育委員会,橿原市教育委員会,春日市教育委員会,財団法人北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室,九州大学考古学研究室,九州歴史資料館,中間市歴史民俗資料館,奈良文化財研究所,小郡市教育委員会,大野城市教育委員会,大阪府教育委員会,韓国国立中央博物館,国立扶余博物館,国立全州博物館,忠南大学校,赤熊浩一氏,赤司善彦氏,藤丸詔八郎氏,舟山良一氏,金圭東氏,韓辰淑氏,花谷浩氏,平田定幸氏,比佐陽一郎氏,井上美奈子氏,犬木努氏,神野恵氏,片桐孝浩氏,加藤良彦氏,小林公治氏,前田義人氏,丸山真実子氏,松永幸男氏,宮本一夫氏,宮田浩之氏,中村修身氏,中山光夫氏,西口寿生氏,西谷正氏,小田富士雄氏,大野薫氏,狭川真一氏,斎部麻耶氏,徐五善氏,菅波正人氏,杉原敏之氏,高橋照彦氏,竹田政敬氏,巽淳一郎氏,俵寛司氏,徳本洋一氏,禹在柄氏,山田隆一氏,山口譲治氏,山路直充氏,柳本照男氏,安田徳太郎氏,横田賢次郎氏,吉田恵二氏,吉留秀敏氏,さらにそのほか多くの関係者のご協力を得て,各地の資料を実見する機会を得,また多くのご教示を賜った。文中で指摘した同工品の件も何人かの方に宣伝してきた。しかし,今に至るまで徒らに時を過ごし,紙面での公表が遅れてしまったことは,まことに申し訳ないことである。漸くここに筑紫出土の獣脚硯を報告した。いずれ,ほかの諸地域の硯についても考察し,学恩に報いたい。

なお,本稿で用いた実測図は,8,10,15,16は報告書から転載し,そのほかは筆者が実測したものである。


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