1996
福岡市教育委員会福岡市の西部に位置する糸島平野は,弥生時代の伊都国に属する地域ですが,近年,福岡市のベッドタウンとして,新たな住宅開発が進んでいます。
このたび,民間の開発事業にともない,周船寺遺跡群の8次目の発掘調査を行いましたが,この地域は魏志倭人伝に記されている「東南至奴国百里」の途上に当たり,当時から,伊都国と奴国とを結ぶ主要交通路の沿線であったことは想像に難くありません。
調査の結果,弥生時代の甕棺墓群や集落が確認され,遺跡の広がりを再認識するとともに,弥生時代の人々の営みを示す石器や土器が多量に出土しました。
本書は,これらの発掘調査の成果を収録したものです。本書が,埋蔵文化財に対する認識と理解,さらには学術研究上,役立つことができれば幸甚に存じます。
最後になりましたが,発掘調査から整理,報告に至るまで,東栄ホーム株式会社末松吉生様をはじめ,多くの方々のご理解とご協力を賜りましたことに対し,心より感謝の意を表する次第であります。平成8年9月30日
福岡市教育委員会
教育長 町田英俊
遺跡調査番号 | 9504 | |
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遺跡略号 | SSJ-8 | |
調査地地籍 | 西区大字千里字ミドリ441-2,441-3 | |
分布地図番号 | 132−0689 | |
開発面積 | 1976m2 | |
調査対象面積 | 230m2 | |
調査面積 | 292m2 | |
調査期間 | 1995年4月24日〜5月26日 | |
事前審査番号 | 6-2-355 ,6-2-362 |
1995年(平成7年)1月9日,東栄ホーム株式会社代表取締役末松吉生氏より西区大字千里字ミドリ441-2,441-3における開発計画事前審査願が提出された。申請地は周船寺遺跡群の範囲内であったので,埋蔵文化財の有無を確認するための試掘調査を同年2月1日に実施した。試掘は東西・南北方向のトレンチ各1本を設け,地表下0.2mの黄灰色粘質土上面で甕棺墓2基,竪穴住居跡と思われる遺構2基などを検出し,弥生時代の墓地と集落の存在が推定された。申請地で予定される宅地分譲のうち,建物部分には0.9m程度の盛土を行う由であったので,道路となる部分について,関係者と協議の結果,記録保存のための本調査を実施することとなった。
- 調査委託:
- 東栄ホーム株式会社代表取締役 末松吉生
- 調査主体:
- 福岡市教育委員会教育長 尾花 剛(前任) 町田英俊
- 調査総括:
- 文化財部長 後藤 直
埋蔵文化財課長 折尾 学(前任) 荒巻輝勝
埋蔵文化財課第一係長 横山邦継- 調査庶務:
- 埋蔵文化財課第一係 西田結香
- 調査担当:
- 埋蔵文化財課第一係 白井克也
- 試掘調査:
- 埋蔵文化財課第二係 菅波正人
- 調査作業:
- 犬童陽子,鬼塚正之,小金丸ミネ子,小林義徳,末松昭子,末松タツエ,末松信子,末松美佐子,羽岡正春,波多江喜代子,平井武夫,平野直枝,別府俊美,松永正義,真鍋キミエ,三苫ヒサノ
- 整理作業:
- 衛藤琴美,近藤美智子,永友和子
周船寺遺跡群は,糸島平野の東縁近くに当たる。福岡市中心部からみれば,市域西端のベッドタウンといえるが,前原市を中心とする弥生時代の最先進地域のひとつ,『伊都国』の東縁である。
調査地点は周船寺遺跡群の西寄り,標高約9.7m地点に位置する。周船寺川により形成された扇状地の扇端近くに当たる。縄紋時代後・晩期以降に形成された砂礫層上に,黄灰色のシルト層が形成され,さらに弱粘質の黄褐色土が載っている。シルト層は,第8次調査地点周辺では縄紋後・晩期の包含層となっている。水田耕作のため現状は平坦だが,以前は北高南低の緩斜面をなしていたという。
第8次調査地点周辺はJR筑肥線と国道202号線に挟まれる位置にあり,宅地開発が進展しているが,盛土により遺構の破壊にいたらないことが多く,今回のような道路部分の調査をのぞき,本調査自体が少なかった。これまで7次にわたる調査が行われたが,諸事情により第1次調査(7903)と第6次調査(9001)しか正式報告されていない〔渡辺編1980;塩屋ほか編1982;松村編1995〕。これらの調査によると,周船寺遺跡群は縄紋時代後期から弥生時代中期までの集落と,弥生時代前・中期の墳墓(甕棺墓)遺跡であり,いずれも同一地点に長期に継続的には営まれてはいない。
調査は4月24日に開始した。重機で水田耕作土を剥したが,調査対象地外に延びる遺構について全形を明らかにできる程度に調査区を拡張した。同月25日から人力で遺構検出を行ったが,調査区に甕棺墓ST-03が半分かかっており,人力で拡張したところ,拡張範囲内にもう1基の甕棺墓ST-02が半分だけ検出されたので,さらに人力で再拡張した。調査面積は292m2に達した。
調査中に雨量の多い日があり,調査の障害となったが,東栄ホーム株式会社のご理解と,作業員諸兄のご協力により,5月26日までに精査・実測を終えた。調査後の工事との兼ね合いで,埋め戻しは必要ない由であったので,実測終了時点で器材を撤収し,調査を終了した。
0.2mの水田耕作土下,標高約9.5mで遺構を検出した。地山は弱い粘質の黄褐色土またはその下のシルト層となるが,一部では耕作土下に薄い黄色粘質土層を挟む。西側では砂礫層が検出面に露出している。検出された遺構は,弥生時代前期の甕棺墓4基,弥生時代中期の掘立柱建物跡1棟,溝状遺構4条,土坑11基であり,南に濃く,北に薄い。土器と石器,コンテナ22箱分が出土した。
以下,遺構としてはピット以外の全遺構と,一部のピットを報告する。遺物のうち,石器は成品10点をすべて報告するが,剥片は割愛し,土器は特徴的なものや遺存のよいものを選んで報告する。甕棺は復元・実測・撮影の後に分解したので,特に詳細な記述に努めた。土器実測図の断面には,素地接合面の剥離とみなしたものを実線,断面観察で接合面とみなしたものを破線,器面観察で推定した接合面を点線で示した。
(1) 甕棺墓(ST)(PL.1(2))
甕形土器は用いられていないが,甕棺墓,上甕,下甕の用語を用いる。
ST-01(Fig.3・4,PL.2(1)・4) 調査区ほぼ中央に位置する。削平され,下甕・壺1下部のみ遺存する。最下部に穿孔がある。棺内覆土は砂粒を含む黒褐色土で,土器片をほとんど含まず,甕棺崩壊以前に浸水したとみられる。副葬品などはみられない。主軸を南東(S−61°−E)に向け,埋置角44°,甕棺最下部標高9.38mである。シルト層中の墓壙は不明確であるが,長さ0.5m,幅0.5m,深さ0.15m程度であろう。
壺1は肩部以上を欠き,内面が摩滅している。白色砂粒と黒色粒子を含む胎土を用い,焼成良好,淡赤色を呈する。最大径部外面にミガキ,内面に素地接合痕がみられる。胴部下位に穿孔がある。
ST-02(Fig.3・4,PL.2(2)・4) 調査区再拡張部分で検出された。上甕の大半が削平されている。下甕・壺3に上甕・鉢2をかぶせた甕棺墓である。棺底に穿孔がある。検出面で黄色粘質土,その下で黒色粘質土,さらに下層で灰黒色砂質土を覆土とする。棺底まで下甕口縁部片が落ち込んでおり,浸水以前に甕棺が破損したらしい。主軸を東(S−81°−E)に向け,埋置角56°,甕棺最下部標高9.16mである。シルト層中の墓壙は不明確であるが,長さ0.6m,幅0.5m,深さ0.4m程度であろう。棺底中央やや南寄りから,磨製石剣鋒10001が,棺底中央方向に鋒を向け,刃を立てた状態で出土したが,埋葬後に移動している可能性が大きい。石剣出土状況は,発掘手順のまずさから,図や写真を残すことができなかった。
上甕・鉢2は底部付近を失い,口縁部1/2周程度が遺存している。器面は幾分荒れている。白色砂粒を多く含む胎土を用い,焼成良好,暗褐色を呈する。全体にヨコナデされているが,内外面とも一部にハケメを残す。口縁部下の内外面に指頭圧痕がみられる。口縁端部上面に貼りつけられた帯状素地の下にハケメが遺存している。
下甕・壺3は口縁部半周を欠き,器面は摩滅している。白色粒子を多く含む胎土を用い,焼成良好,茶褐色を呈する。ミガキは認められず,内外面とも丁寧にナデる。頸部内外面に素地の接目を残す。頸部内面のみ上に凸のヨコハケが残っている。口縁部外端面の上下に刻みを施すが,上端の刻みは摩滅が著しい。口縁下に2条,肩部に2条の沈線をめぐらし,肩部沈線の方が細いが,沈線の描き接ぎは摩滅のため捉えられなかった。腰部に内から外への穿孔がある。
棺内より出土した磨製石剣鋒10001は切損した状況で,残存長61mm,残存幅28mmである。頁岩質砂岩を用い,灰白色を呈する。鎬が明瞭で,刃こぼれや再加工はない。
ST-03(Fig.3〜5,PL.2(3)・5) 調査区拡張部分でST-02に隣接し,上部が削平されている。下甕・壺5に上甕・鉢4をかぶせた甕棺墓である。棺底に穿孔がある。検出面で黄色土,その下で灰黒色砂質土を覆土とする。棺内に甕棺破片はほとんど落ち込んでおらず,甕棺破損前に浸水したとみられる。副葬品などはみられなかった。主軸を南東(S−37°−E)に向け,埋置角49°,甕棺最下部標高9.13mを測る。シルト層中の墓壙は不明確であるが,長さ0.75m,幅0.65m,深さ0.45m程度であろう。
上甕・鉢4は底部付近を失い,口縁部1/4周程度が遺存している。白色砂粒を多く含む胎土を用い,焼成良好,内面の黒斑のほかは茶褐色を呈する。全体にヨコナデされ,口縁直下外面に指頭圧痕がみられる。突帯上下を強くヨコナデし,突帯頂部に刻みを施す。口縁部外端面の上下にも刻みを施す。溝状遺構SD-05出土遺物中に口縁部破片があるが,遺存状態から,整理過程での混入とみなした。
下甕・壺5は最大径より上の半周を失い,器面は摩滅が著しい。白色砂粒多量と黒色粒子若干を含む胎土を用い,焼成良好,淡黄褐色を呈し,内外面に黒斑がある。底部外面は紐状素地を時計回り渦巻状に巻いたかのようにみえる。腰部たちあがりは,1周の間にも角度が大きく異なり,成形時のヘタリのためらしい。頸部内面にも帯状素地の接目がみられる。器面はナデられているようだが,摩滅により不明確である。頸部内面に指頭圧痕と思われる微妙な凹凸がある。口縁下2条,肩部2条の沈線がめぐるが,肩部沈線の方が細い。摩滅により描き接ぎは不明である。胴部下位に穿孔があるが,復元に当たってこの部分の土器片が不足しており,図化できなかった。
ST-04(Fig.3〜5,PL.2(4)・5) 溝状遺構SD-05南側に位置し,上部が削平されている。下甕・壺7に頸部以上を打ち欠いた上甕・壺6をかぶせた甕棺墓である。棺底に穿孔がある。棺内は灰黒色砂質土である。棺上面がやや沈んだ様相を示し,甕棺破損前に浸水したとみられる。副葬品などはみられなかった。主軸を南東(S−64°−E)に向け,埋置角38°,甕棺最下部標高9.07mを測る。シルト層中の墓壙は不明確であるが,長さ0.9m,幅0.7m,深さ0.45m程度であろう。
上甕・壺6は頸部以上を打ち欠いている。底部全周と胴部半周程度を失う。白色砂粒を含む胎土を用い,焼成良好,外面暗褐色,内面黄褐色を呈する。外面ミガキ,内面ナデを施すが,内面は素地接合痕を残す。
下甕・壺7は口縁部半周を失う。白色粒子と黒色粒子を少量含む胎土を用い,焼成良好,黄褐色を呈する。頸部がすぼまり,口縁下に段をなす。内外面ともミガキが施されている。外面ミガキは頸部でヨコ方向・上に凸,胴部で右下がりナナメ方向・上に凸である。内面ミガキは口縁直下でヨコ方向,やや下でヨコ方向・下に凸である。頸部内面と肩部内面に指頭圧痕があるが,頸部の指頭圧痕の目立たぬ位置には下に凸のヨコハケが遺存する。内面は素地の接目も明瞭に残る。肩部にミガキ後に沈線1条をめぐらし,成形上の胴部・頸部を意識しない。遺存部分で2カ所の描き接ぎがあり,120°の開きがあるので,1周を3回に分けて描き接いだと思われる。胴部下位に穿孔がある。
(1) 掘立柱建物跡(SB)
SB-22(Fig.6・7,PL.2(5)) 調査区西寄りに所在する。2間×1間の建物跡であり,長辺を北東−南西方向(N−48°−E)に向け,桁行3.15m,梁行2.25mを測る。柱穴はいずれも隅丸長方形で,ごく浅く遺存(底面高9.19〜9.44m)している。覆土は黒褐色粘質土である。
(2) 溝状遺構(SD)
SD-05(Fig.8〜10,PL.3(1)・6) 調査区中央近くで調査区を横切るよう検出された。同時期の建物・土坑のすべてと柱穴の大半は,SD-05の南側に位置する。集落の北を画する溝だろうか。北東−南西方向(N−61°−E)に直線的に延び,断面は緩いV字形をなす。検出面で幅1.3〜2.2m,残存する深さ0.5m(溝底標高9.06〜9.18m)を測る。覆土は茶褐色土であり,水の流れた様子はない。
覆土上位より土器・石器都合6箱分が出土した。
石斧10002は玄武岩製である。このほかにも玄武岩の剥片が出土したが,いずれも成品から打ち割られたものとみられ,製作途中の様相を示すものはなかった。石器10003は磨石である。図示はしなかったが,黒曜石の剥片に2種がある。比較的大きく,稜が平行し表面が幾分摩滅したものと,比較的小さく,剥離に規則性がなく段状剥離などもみられ,摩滅していないものである。前者は縄紋時代のものの混入,後者はSD-05の属する弥生中期後半のものと考えられる。
土器はほとんど接合しない。甕17は互いに接合しない2片がある。口縁部上面の窪みに素地を補うが,器体は灰褐色,補填素地の部分のみ赤褐色を呈する。補填素地のために器面をケズるなどの造作はみられず,補填素地の幅も一定しない。窪みに素地を補う行為はA)習慣として常に,あるいは必要に応じて行われていた,B)甕17で特別に行った,の2つの可能性がある。補填素地の色調が異なることも,X)故意,Y)偶然,の2つの可能性がある。都合,AX,AY,BX,BYの4つの可能性が考えられる。甕20口縁下突帯はナデツケ不充分で,突帯上縁が凹線状になっている。底部45は胎土が比較的精良であり,外面に赤色顔料とミガキがみられるので,壺と考えられる。底部外面は平行に数回ユビナデした後,周縁を強くユビナデしている。蓋46内面にタテ方向のスジがみられるが,これは外面タテハケによって天井部直下に加えたシボリの痕跡を,ナデで消したためとみられる。蓋48天井部下にもタテハケの始点とみられる凹線が残っている。蓋49天井部は平坦であり,板に押しつけたかのようである。器台58・59は極めて精良な泥質胎土,器台60は精良だが白色粒子を含む泥質胎土で作られており,内面が剥離している。この器種は次章で改めて触れる。紡錘車61は土器片を整形・穿孔して転用したものである。図示上面(旧・外面)はやや凸状で赤褐色,下面灰褐色を呈する。
SD-06(Fig.8・12,PL.3(2)) 調査区北端に所在する。切り合いはないが,浅く遺存している。北西−南東方向(N−40°−W)にやや湾曲しつつ延び,断面は緩いV字形をなす。溝底は南高北低の傾斜を示す。検出面での最大幅1.45m,残存する深さ0.4m(溝底標高9.08〜9.23m)を測る。覆土は茶褐色土であり,水の流れた様子はみられない。
覆土よりごく少量の石器・土器片が出土した。石鏃10004は黒曜石製で,切損がある。石鏃10004と壺64から,弥生中期の遺構と判断した。
SD-13(Fig.11・12,PL.6) 調査区中央南西寄りに所在する。北東−南西方向(N−57°−E)に直線的に延び,断面逆台形で溝底は平坦で小ピットがある。検出面での長さ3.3m,幅0.6m,残存深さ0.29m(溝底標高9.22m)を測る。水の流れた様子はない。
甕68口縁部上面に一部ハケメが残る。底部71内面の低い位置にタテ方向のスジがみられ,ハケメ工具の当たりと考えられる。器台73は極めて簡単な接合によって成形され,タテ方向のワレもある。器台74はSD-13に隣接するピットSP-021から出土したが,器台73と同一個体の可能性が高く,ここで挙げた。器台73・74は直接は接合しない。器台74も塊状素地を接合して成形したものであり,横断面から,素地を貼り合わせていったさまが窺われる。
SD-14(Fig.11〜14,PL.6) 調査区中央南西寄りに所在する。土坑SK-15,SK-09などと切り合うが,先後関係は明確でない。湾曲しつつ東西に延び,断面逆台形で溝底は平坦である。検出面で長さ6.7m,最大幅1.1m,残存する深さ0.57m(溝底標高8.95m)を測る。水の流れた様子はない。壁と底がきれいな面をなすのが特徴である。壁のシルト層は雨などで冠水すると容易に融け出して遺構の形を変えてしまう。さすれば,切り立った壁は人為的な埋没を想定させる。機能は不明である。
大量の土器と少量の石器が出土した。土器は弥生前期後半から中期後半までのものである。今回調査した中期後半の遺構には,別の時期の遺物が混入しないもの,中期初頭以降の遺物が混入するもの,前期後半以降の遺物が混入するものの3者が存在するが,前期後半以降の遺物が混入する遺構はSD-14周辺に分布する。この地点周辺に前期の集落遺構はみられず,前期の遺構覆土が流入したとも考えにくい。上述のようにSD-14が人為的に埋め戻されたとすると,前期の集落遺構を掘り返した土が,何らかの過程を経てSD-14に投入されたと考えられる。なお,土坑SK-09出土として取り上げた遺物のうち,最下層のものはSD-14に属すべきものであるし,SK-09とSD-14の切り合いも確定していない。SK-09出土遺物にSD-14に帰属すべき遺物が含まれる可能性はあるが,逆の可能性は乏しいと考えられるので,両遺構間で接合する遺物はSD-14に属するとみなした。
石鏃10005は黒曜石製,石斧10006は玄武岩製である。
甕84はSD-14と土坑SK-15の検出時に出土したが,器形から考えてSD-14に伴うと判断した。
壺85・86はいずれも白色砂粒と雲母・石英を含む胎土であり,外面黄灰色,内面橙褐色の色調であることから同一個体と考えられ,合成図を併せて掲げた。遺構に伴うとはとうてい考え難い。壺86肩部紋様は無軸羽状紋である。短斜線がa小片に6段,b小片に左側6段,右側7段施されており,b小片の6段構成と7段構成の間はタテ方向の隙間があり(X点とする),左右の短斜線各段は必ずしも対応しない。X点を無軸羽状紋施紋の始点・終点と仮定できる。短斜線群は,幾分左右入り組んでいるものの,タテの繋がりが安定しており,ヨコ方向のような齟齬はない。すなわち,全体で無軸羽状紋を構成する短斜線群は,タテ方向に分節化した構造をなしている。タテに並ぶ6ないし7個の短斜線群を施紋した後,隣のタテ列に移行するという施紋順序が復元できる。その際,おそらくX点の右側から{左→右}(左回り)順に施紋し,初めは7段の短斜線を描いていたが,第7段が窮屈で施紋できなくなり,再びX点に戻ったときは6段構成になっていたのだろう。このことから,紋様帯上下を画する上2条,下3条の沈線は,短斜線群施紋以前に描かれていたと推定できる。上に想定したタテ分節施紋は,工具と工人の手の動きからも傍証できる。短斜線群を施した工具は貝殻であり,器面に腹縁を転がすように施紋したはずであるが,この手法では,平行する短斜線を続けて描く(例えばヨコ分節の施紋)よりも,ある短斜線の終点に近いところを次の短斜線の始点としてジグザグに描く(例えばタテ分節の施紋)ほうが手の動きに無駄がない。貝殻腹縁による施紋が,タテ分節を促した可能性も考えられる。
壺87肩部にはタテ方向の細い沈線3条を鳥足状に配する。底部95下面は丁寧にナデられている。鉢98口縁部のキザミは上段が比較的疎,下段が比較的密である。器台99は白色砂粒を含み,橙褐色を呈する。今回調査のほかの筒形器台とは異なる。
(3) 土坑(SK)
SK-07(Fig.15・16,PL.3(3)) 調査区西端で半ば程度が検出された。南北(N−16°−E)長軸の長方形土坑である。長さ1.9m以上,幅1.2m以上,残存深さ0.22m(底面高9.33m)を測る。底面は平坦で,ピットがある。
遺物は0.5箱分が出土した。甕100は口縁部内面を爪で押圧して界線を明確化している。
SK-08(Fig.15・16) 調査区中央南西寄り,掘立柱建物跡SB-22の東側に所在し,北端をピットSP-020に切られる。南北(N−8°−E)長軸の長方形土坑である。長さ1.3m,幅1.0m,残存深さ0.45m(底面高9.19m)を測る。段状構造をなす。遺物は少量が出土した。
SK-09(Fig.15・16,PL.6) 調査区中央南西寄りに所在する。溝状遺構SD-14と切り合い,遺存はよくない。遺存のよい壁面を北西−南東(N−39°−W)方向に取る方形土坑である。北東−南西1.9m,北西−南東1.9m以上,残存深さ0.3m(底面高9.16m)を測る。底面はやや傾斜している。
SD-14との切り合いが不明確であり,遺物が混入している可能性がある。特に,弥生前期の遺物はSD-14に所属せしむべきかも知れない。ここではSD-14出土遺物と接合関係にない遺物を掲げた。
壺127は肩部に有軸羽状紋が施されている。遺存部分で観察される短斜線群とヨコ沈線を,上から短斜線群1,沈線2,短斜線群3,沈線4,短斜線群5,沈線群6とすると,沈線4の後に短斜線群3を(下→上)方向に,短斜線群5を(上→下)方向に施していることがわかる。また,短斜線群3も短斜線群5も上に凸の緩曲線をなし,工人の手の位置を示唆している。すなわち,この破片は工人に相対する位置ではなく,横の位置に当たることになる。完形品で工人との位置関係を確認できないことが残念である。また,先に溝状遺構SD-14出土の壺86で用いた用語によるならば,壺127短斜線群の施紋はヨコ分節である。有軸羽状紋であるからには当然であろう。
器台134・135はいずれも精良な泥質胎土で,少量の白色砂粒を含む。
SK-10(Fig.15・17) 調査区中央南西寄りに所在し,大半は調査区外となるが,長方形土坑とみられる。残存深さ0.66m(底面高8.88m)を測る。底面は平坦で,東壁は段状構造をなす。
壺140は赤色顔料を塗布し,内面はヨコ方向のミガキが観察される。外面口縁下に不明確な沈線がめぐっている。
SK-11(Fig.15・17,PL.6) SK-10東隣に所在し,一部調査区外となる円形土坑である。径1.3m,残存深さ0.15m(底面高9.36m)を測る。底面はほぼ平坦で,東端に浅いピットがある。
器台145・146は同一個体らしいが,直接には接合しない。いずれも極めて精良な泥質胎土を用い,淡黄色を呈する。断面には素地の接目が明瞭に観察され,この接目が外れるように破損している。タテ方向の接目もあり,器面にタテの亀裂が観察できる。縦孔は端部以外では径がほぼ一定である。器面調整はナデのみらしい。器台145・146のような胎土は,今回の調査ではこの器種のみにみられ,赤色顔料を施した高杯や壺でさえ,これほど精良な胎土を用いたものはない。
SK-12(Fig.15・17) SK-11東隣に所在し,半ば以上が調査区外となる。円形土坑とみられ,推定径1.6m,残存深さ0.3m(底面高9.25m)を測る。
底部154はタテハケ側縁のみが淡い稜となって遺存している。底部157は胴部外面にごくわずか赤色顔料が遺存している。
SK-15(Fig.17・18) 調査区中央南西寄りに所在する。溝状遺構SD-14と切り合うが先後不明である。北西−南東(N−40°−W)長軸の長方形土坑である。長さ1.2m,幅0.9m,残存する深さ0.48m(底面高8.99m)を測る。
遺物1箱分が出土した。甕159は口縁部外面タテハケ,内面ヨコナデであるが,胴部にハケによる紋様(?)がみられる。
SK-18(Fig.18・19) 調査区南寄りに所在する。南北(N−6°−E)長軸の長方形土坑である。長さ1.6m,幅1.3m,残存する深さ0.26m(底面高9.27m)を測る。
甕173は口縁部上面が再被熱している。
SK-19(Fig.18・19,PL.3(4)) 調査区中央やや南に所在する。北西−南東(N−36°−W)長軸の長方形土坑である。長さ2.0m,幅1.0m,残存する深さ0.77m(底面高8.73m)を測る。段状をなし,炭化物が段に寄りかかって出土した。中位に薄いシルト層を挟み,自然埋没中に冠水したとみられる。柱を抜き取った柱穴,または中期の甕棺墓の墓壙とみられるが,いずれにせよ遊離した存在となる。
遺物0.5箱分が出土した。甕178口縁下は沈線2条をめぐらす。甕181口縁下突帯は剥離している。
SK-20(Fig.18・19) 調査区中央東壁下に所在し,東端は調査区外となる。北東−南西(N−58°−E)長軸の不整形土坑であり,底は平坦でない。長さ1.9m以上,幅1.2m,残存する深さ0.57m(底面高8.94m)を測る。
土器片188は甕棺であろう。高杯193は脚基部に素地の充填されたさまが断面に観察できる。
SK-21(Fig.18・19) 調査区西端から調査区外におよぶ形状不詳の土坑である。東西1.5m以上,南北1.2m以上,最深0.54mを測り,上段は9.57m,下段は9.03mである。東側の低い部分は独立した柱穴かも知れない。
(4) ピット(SP)(Fig.20,PL.6)
すべて弥生中期後半とみなされる。掘立柱建物跡SB-22や土坑の集中地点とその周囲,および溝状遺構SD-05南側に集中している。以下,特徴的な遺物が出土したピットのみ報告する。
調査区南半(遺構集中地点)のピット 出土遺物の様相は,周辺の土坑などと共通する。
SP-020 土坑SK-08の北東で切り合う楕円形ピットである。遺構に伴わないが,縄紋土器片195を図示した。縄紋後・晩期の粗製深鉢であろう。白色粒子と細砂粒を含み,灰褐色を呈する。
SP-024 土坑SK-09の北側で切り合う長方形ピットであり,SK-09より新しい。
SP-029 土坑SK-09・溝状遺構SD-14を切る円形ピットである。器台200は白色粒子をごくわずか含む精良な泥質胎土を用い,淡赤褐色を呈する。タテに割れており,塊状素地を接合して成形している。器面はナデのみで調整されている。SK-09出土の器台134・135と胎土などが酷似するが,同一個体ではない。器台200が本来SK-09に属していた可能性も考慮すべきであろう。
SP-035 調査区南端近くで検出された方形ピットである。器台201は,ほかの同器種と類似した様相を示す。器壁は素地3枚構成であり,最も内側の素地は一部剥離している。脚端に素地の接目が観察でき,器壁にみられるタテ方向の亀裂と対応している。
SP-052 土坑SK-19付近の楕円形ピットである。甕202は3/4周が遺存し,残存器高142mmを測る。ピット出土遺物としてはかなり遺存がよい。
溝状遺構SD-05南側に集中するピット 掘立柱建物などを構成する可能性もある。土器を廃棄したものもあり,注意を要する。弥生中期の石器(成品)は,以下の溝付近のピット出土例を除くと,すべて溝状遺構の出土品であり,SD-05から黒曜石剥片が多く出土したことも考慮すべきであろう。
SP-063 長方形ピットである。石器10007は掻器状石器と仮称しよう。今回の調査では近接するSP-069出土の掻器状石器10008と合わせて2点が出土した。掻器状石器10007は黒曜石製である。原礫面を打面として剥離し,先端が尖るように主剥離面からの再調整を行っている。
SP-069 ピットSP-063に隣接する円形ピットである。上層に土器が互いに密着して出土しており,廃棄されたものと考えられるが,削平により土器は破片となっている。蓋205は外面タテハケで天井部直下を搾った後,内面をナデている。底部207胴部外面下端はタテハケの始点とみられる凹線がある。壺208口縁部内外面は赤色顔料が塗布されていたようだが,ほとんど剥離している。覆土中より出土した掻器状石器10008は黒曜石製で,やはり主剥離面からの再調整で尖った先端を得ている。SP-063出土の掻器状石器10007と比較すると,主剥離面の剥離の方向と,成品の先端の方向とは,一定の関係にはない。先端は計画的に得られたのではなく,剥離により偶然に得られた形状を利用して再調整により先端を得たものと思われる。先端が何らかの機能を有していたものと推定される。
SP-072 円形ピットである。石庖丁10009はガラス化した部分があり,変成岩製である。
(5) そのほかの遺物(Fig.20)
石斧10010は溝状遺構SD-05やや北側の検出面で採集された。玄武岩製である。今回の調査では玄武岩製の石器(成品)と成品が割れた剥片は出土したが,砥石などは全く出土していない。剥片石器が集落内で生産されたと考えられるのに対し,磨製石器は集落内で生産されなかったと考えられる。
(1) 石剣
ST-02出土磨製石剣10001は被葬者に刺さっていたという前提で以下の記述を行う。
石剣が刃こぼれなく人体に突き刺さった状況は,鋒が骨に当たらなかったことを示すのは当然であるが,乱戦や格闘する状況で刺突を試みれば,刺突以前に刃こぼれや切損を生ずるはずであるから,むしろ,被葬者が抵抗できない(しない)状態で石剣が刺されたことを示す。また,敵を殺傷するには,磨製石剣のほかにも,製作が容易で入手しやすく,確実に生命を奪える道具は多い。弥生人も,石剣を人体に刺突すれば破損することは承知していたはずである。石剣による人体刺突は,対象者の殺害自体のほかに,その行為自体に特殊な意義が負わせられていた象徴的行為の可能性もある。
(2) 甕棺
壺7(ST-04下甕)を例に,甕棺製作の成形台について考える。
甕棺製作工人は身長1.6mで,踏み台を用いず土器を製作したと仮定する。
乾燥・焼成による収縮を20%(壺7成形時器高790mm)と仮定する。
壺7の法量からみて,転倒させて器面調整したとは考えがたい。正立させて調整したと仮定する。
「高さ」は,特に断らぬ限り,地面からの高さをいう。
内面調整 内面口縁やや下のミガキ,ミガキ下方のハケメは,ともにヨコ方向・下に凸である。工人は壺7のそばに立ち,工人に近い方の内面を調整している。肘は口縁部やや上方に位置したであろう。内面調整から推定された口縁部の高さは,工人が調整のため肘をやや上げた高さ1000mmを上限とするはずである。また,ハケメ下端が700mmより低くなると,立って調整するには苦しい姿勢となるので,口縁部の高さに換算すると830mmが下限となる。したがって,内面調整から推定された口縁部の高さは830〜1000mmである。
外面調整 頸部外面ミガキはヨコ方向・上に凸である。工人は壺7に相対し,肘は対象部分下方に位置する。これに対し,胴部外面ミガキは右下がり斜め方向・上に凸である。工人は右手を使い,やや姿勢をかがめ,右肘は対象部分ナナメ下方に位置する。胴部ミガキで姿勢が苦しくなることを手がかりに,口縁部の高さを推定できそうである。工人が立っていた場合900〜1000mm,しゃがんでいた場合500〜600mmを境界に姿勢が苦しくなるが,前者の場合,立って調整しにくい高さもしゃがんで調整すれば克服できるであろうから,後者の数値を採用すべきであろう。したがって,外面調整から推定されたミガキ変換点の高さは500〜600mm,口縁部に換算すると770〜890mmとなり,工人はミガキに右手を使用し,しゃがんだ姿勢であったことになる。
沈線 ミガキ後の沈線の位置は成形上の胴部・頸部の境界と無関係である。沈線を施すべき位置に対する共通認識の範囲内で,施紋しやすい位置に施紋したと考えると,外面調整後に壺7を動かしていない限り,工人はしゃがんでヨコに移動しつつ施紋したはずである。しゃがんで施紋する適正範囲600〜900mmが沈線の高さであろう。口縁部の高さに換算すると870〜1170mmである。
内面調整,外面調整,沈線から得た数値(830〜1000mm,770〜890mm,870〜1170mm)は,互いに矛盾しない。いずれも成形行為終了後,乾燥段階直前の時間的に連続した行為であるから,壺7の置き場所や置き方を変更したとは考えがたい。したがって,3つの数値範囲をすべて満たす870〜890mmを成形段階おわり頃の口縁部の高さと考えることができる。成形時推定器高790mmを減ずると,80〜100mmという数値が得られる。これは工人の立つ位置と壺7底部高の差であるから,壺7製作における成形台の高さとみなされる。板きれ,石,土器片,木の切り株,小規模な盛土などで容易に得られる成形台である。また,870〜890mmという数値からは逸脱するが,幾分苦しい姿勢を顧みず,地面に壺7を直接置いて(地面を成形台として)製作した可能性も残る。いずれにせよ,最終調整時の成形台に,日常土器との技術的な差は見いだせない。幾分の論理の飛躍が許されるなら,成形の当初から壺7を移動させずに製作した可能性が高いといえよう。
壺7ほどの情報量には恵まれていないが,壺7よりやや時期が下る壺3(ST-02下甕)と比較しよう。胴部外面のハケメは不明確のため,口縁部内面のハケメを取り上げる。壺3成形時推定器高は660mmであるが,ハケの時点は口縁端部が存在しなかったと考え,650mmの数値を採用する。
口縁部内面ハケメはヨコ方向・上に凸であるから,工人は腋に口縁部を挟むようにし,肘は土器の中で,ハケメより低い位置だったはずである。工人が立っていた場合,肘の高さ950〜1000mm,腋の高さ1200mmとなり,ややかがめばこれより低くなる。工人がしゃがんでいた場合,肘の高さ450〜500mm,腋の高さ700mmとなる。この数値をハケメと口縁部の位置に対比し,口縁部の高さに換算すると,工人が立っていた場合1100〜1200mm(成形台の高さ450〜550mm),しゃがんでいた場合600〜700mm(同じく-50〜50mm)となる。後者は地面を成形台としたと解釈すべき数値である。
壺3の成形には,450〜550mmの成形台を用いたか,地面を成形台としたか,両解釈が可能である。日常土器製作の成形台について検討する余裕はないが,高さ450〜550mmの成形台であれば存在した可能性はあると考える。成形台の高さの差だけでは,壺7製作との本質的な差とは言い切れない。
工人の腋(1200mm)より口縁部が高ければ内面調整は困難になる。地面を成形台としても,成品法量960mmが技術的な閾値となるであろう。これ以上高い甕棺を製作するには,最終調整以前に,地面に掘った穴に甕棺を据えるか,工人が踏み台に上るなど,特別な工夫が必要となる。甕棺の大型化は,技術的な閾値を超えて日常土器と甕棺との技術的な差が決定的となる過程であったのだろうか。
(3) 無軸羽状紋
山崎純男氏は板付II式に属する壺形土器の肩部紋様について,〈有軸羽状紋→無軸羽状紋〉の変遷を示し,無軸羽状紋の分割施紋を「時期的に新しくなる」と言及した〔1980:163〕。
壺127の有軸羽状紋は,微細な施紋順序に問題を残しつつも,おおむね[ヨコ沈線→ヨコ方向に並んだ短斜線群]の順である。ヨコ分節原理といえる。しかるに,壺86の無軸羽状紋ではタテ分節原理が作用している。また,今回は出土しなかったが,山崎氏の示した如き無軸羽状紋の分割施紋は,タテ分節原理を前提とするはずである。比恵遺跡などの無軸羽状紋の例には,ヨコ並びの短斜線群が密に配されたものがあり,ヨコ分節原理の無軸羽状紋も存在することがわかる。
以上から,〈有軸羽状紋→無軸羽状紋〉の変化に,施紋原理における〈ヨコ分節→タテ分節〉の変化が関連していることがわかる。ヨコ分節原理の紋様をH型,タテ分節原理のそれをV型と仮称すると,〈H型有軸羽状紋→H型無軸羽状紋→V型無軸羽状紋→V型無軸羽状紋の分割施紋〉である。
〈ヨコ分節→タテ分節〉の変化に,貝殻腹縁の押圧施紋という工具・動作が関係していることは容易に想定できるが,これを施紋原理変化の主要因と考えるには躊躇する。主たる要因は別にあり,貝殻施紋がタテ分節原理への動きを加速したのではあるまいか。
H型有軸羽状紋やH型無軸羽状紋も,ヨコ分節原理とはいえ,短斜線群が器面を必ずしも1周しているとは限らない。むしろ,1周をいくつかに分割して短斜線の方向を変えた例がみられ,ヨコ分節原理は必ずしも貫徹していない。これは,弥生前期における回転台の不在のため,製作に当たって1周すべてを把握することが難しかったためと考えられる。すなわち,ヨコ分節原理も,土器を回転させずに一目で見える範囲内に紋様を埋めていくことで製作工程を単純・短縮化しようとするタテ分節志向を秘めていたことが考えられる(この点で,壺127の有軸羽状紋施紋における土器と工人の位置関係を土器全周にわたって確認できなかったことが残念である)。そして,ヨコ分節原理を維持する規制として機能していた軸線が失われると(〈H型有軸羽状紋→H型無軸羽状紋〉),貝殻施紋も関係してヨコ分節原理が解体し(〈H型無軸羽状紋→V型無軸羽状紋〉),さらに紋様のヨコの連続性も分断されてしまった(〈V型無軸羽状紋→V型無軸羽状紋の分割施紋〉)のであろう。
先に示した羽状紋の理論上の型式変化は,ほかの器種などに比べ,急速に進行する。これは,規制の消失によってそれまで秘められていた志向が解放され,一気に変化が起こったことを示す。
(4) 筒形器台
今回の調査では特徴的な筒形器台11点が出土した(Tab.1)。これらは精良な泥質胎土を用い,塊状素地を貼り合わせて成形し,調整がナデのみであること,中央部分で破損して完形品がみられないこと,内面が剥離したものが多いことなど共通点があるが,胎土と器形に微差がある。
胎土Aは極めて精良な泥質胎土,胎土Bはごくわずかの白色粒子を含む泥質胎土,胎土Cは少量の白色砂粒を含む泥質胎土である。胎土Bのものが多い。参考資料の器台99は砂を多く含む胎土で,器台以外の日常土器と共通し,これを胎土Dとする。胎土A・B・Cは今回出土したほかのいかなる器種より精良である。支脚ともみなしうる器形でありながら,このように精良な胎土は異例といえよう。
SK-11出土の器台145・146は直接接合しないながらも同一個体とみられ,推定復元が可能である(Fig.22)。これを手がかりに口縁部と脚部に分け,さらに細分する。
口縁部は端部があまり薄くならない口縁a類(74,134,145)と,薄くなる口縁b類(135,200)に細分する。口径が74(91mm)以外は100mm前後に集中し,口径が用途にかかわると考えられる。
脚部は端部が外に広がり,安定した平坦面を持つ脚x類(59,60,146),あまり開かないが平坦面を持つ脚y類(58,201),平坦面があまりない脚z類(73)に細分する。脚径は各類ごとにまとまらず,3つの類を通観すると,破損した59(87mm以上)以外が,76mm前後と100mm前後に集中する。
以上11点は,中央部径にあまり差がないようである。最初に筒状のものを作り,口縁部と大脚径(100mm前後)の脚部は端部を開いて仕上げ,小脚径(76mm前後)の脚部はあまり広げずに仕上げたと解釈したいが,小脚径の脚x類60,大脚径の脚y類58は解釈に苦しむことになる。
胎土Aと口径・脚径100mm前後,胎土Bと口径100mm前後・脚径76mm前後,胎土Cと口径91mm・脚径76mmと,胎土の精良さと法量が対応しており,手間のかけ方の差が現れたと考えられる。
(5) 集落
弥生中期集落遺構は調査区南寄りとSD-05南側に集中しており,SD-05により北が画されていたと考えられる。集落は長期に及ぶものではない。周船寺遺跡のほかの調査例をみても,集落が同一地点に長く続いた例はなさそうである。扇状地という立地を考えると,移動しつつ一時的な集落を営んでいたか,あるいはより安定した母村が周船寺遺跡群の内外いずれかに存在した可能性がある。