98/04/22


note



忘れていた背中が、
薄くぼんやりとしていたのが、

再び、明瞭な色彩を帯びてきてしまった。

そのことが、自分自身で、
認識することができるかどうか。

怖さをうち消すためには、
そのことから目をそらすのではなく、

そのこと自体を、自分の中に
取り込んでしまうことであるというのは、

受験を続けてきた長い期間で身につけたことであり、
そして、受験を終えてからの短い期間で、
もう一度確認することができたことである。

身に付いたことを、自分自身で
プラスとして評価することは、
なかなか難しいことだけれど、

それを自分の一部分としていかないことには、
いつまでたっても、何も変わることがない。

どうにも変わることができないままになってしまう。

そのことの危惧を感じるのは、
敏感な人間が先になることは、
ある程度、必然として把握できるけれども、

鈍感な人間を自認している人間が、
あらゆる点で及ばないことがあったとしても、

何かをつかんで、かたちにしていかなければならない。

それを決心という心のレベルから、
もう一歩進めることが、

できなければならない。

それを進めたことがあると、
そう評価して、
自信として自分の基盤にしなくてはならない。



調子の悪いときには、
自分の表面に、

とても薄いけれども、
内側からは、そう簡単に破ることの出来ない
膜が張ってしまうものである。

その膜は、他人に直接の迷惑をかけるものではなく、
もっぱら自分自身だけを拘束するものに、
すぎないけれども、

厳然として存在し、

圧倒的な粘着力と、
網羅的な窒息力を有している。

それによって、
個人は自分としてのパフォーマンスを失い、

視野が著しく狭められ、
一定の方向しか向くことができなくなる。

何らかのゆがみを持った
フィルターを通してしか、

外の対象をみることができなくなるようだ。

それは、

誰かだけに発生する、
個人の資質に由来するものと言うよりも、

一定の状況に置いて、
必ず、誰もに発生する不可避なもの。

それを乗り越えるときに、
どのようにして乗り越えるのか、
それが、実は、重きをしめることになる。

実際には、その性質からは、
納得しにくいことであるが、

懇願し、先送りすることが、
可能なコトなのかも知れない。

しかし、先送りすると、
その分のツケは必ずや、
自分の背負った荷として、

その存在感を高めて、
否応なしに、降りかかってくる。

そして、習慣性と同じように、
その周期はやがて短くなり、

その次の周期がやってくるのが、
前の周期が終わる前にすらなるものである。

そのときには、
人は暗い絶望に陥ることとなり、

その先に何が見えるのかわからない。

一つの周期を、正しき方法にて、
終わらせることができたとしても、

次の周期がそれにかぶさって、
すでに発生していることから、

解決したコトによるカタルシスをえることなく、
次に立ち向かわなければならなくなり、

一つの絶望を構成する重要な要件となる。

されど、一つの膜をうち破ったことは、

必ずや、その膜自体に記憶され、
その膜自体に、さらなる変調を要求する。

その膜自体は滅びることはなく、
もう一度となく、
より強くなって戻ってきてしまうものではある。

しかし、それこそが、
およそ人が絶望と戦うための唯一の道である。

それ以外の途は、
決して解決をしているわけではない。

外形上からは、
逃避により、より重い負担を受けることになるのと、

積極的に乗り越えて、
より重い負担を相手にすることになるのは、

全く同じに見えるかも知れない。

しかし、正直に内実は異なる。

否定したくても、それを許さない差異がある。

より強き、自分に対する制約原理としての、
膜と戦う立場に身を置くことが、

最大限、その膜から身を守ることになる。

決して競争主義、敵発見主義ではなく、

その対極にあるものとしての、
積極的に肯定されるべき、

自己防衛行為、
他者防衛行為、


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