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王位戦と名人戦 05・05・3〜5

GWは(05・05・3〜5)恒例の王位戦と名人戦の開催(文京シビックセンター)。今回は三日間で250人ほどの参加で盛況だった様子。私は不参加したが。王位戦の決勝は(左)は、優勝した片上(左)と、こでぶ。
 またその下のクラスのビギナーズ王位戦は、北尾(左)が優勝。



名人戦の決勝トーナメントは、16人枠でスタートしたが、準決勝は勝者景山(右)と望月で景山が決勝に勝ちあがり、もう片方は王位戦で優勝した片上と、タイトル保持者の市川の対戦だが後日に。こちらは25pマッチで熱い対戦。
 それときんちゃんジュニアも会場にいて、生後半年少しくらいだったと思ったけど。



王位戦も10年位前は新宿でコソコソやっていたし、5年前は赤坂でこれも狭いところだったけど、この数年はシビックセンターでけっこう大掛かりになっています。ネットの普及は対戦相手を探しているゲーム人間にとっては、とても都合がよかったことになります。年代も若返ってきたし、かつての郵送会報を頼りにしていた人は、もう過去の人とばかり、世代が一回りして、メールマガジンの時代にはいってきました。最終日にほんの少しだけ見に行きましたが、二部屋に大勢の参加で驚いたほどでした。





アドミラルその2 12・31

この日はすし屋でした。マグロ人


年末年始の恒例アドミラルその1 04・12・29
 
飯は駒形どぜうで、ざっと20人くらいだったか。あそこはいつも満員だ。


どぜう屋の宴会はこんなもんだ。


飯後のシュエット                    那須おじさんと、ママ






湯沢小規模ギャモン忘年会 04・12・4

 
 湯沢忘年会は、日程をずらされてしまったために人が集まらずに6人。夕方4時からしょぼしょぼやって、夕飯挟んで11時まで。翌日は前橋の中島さんのとこに11時くらいから1時間半くらい、またやって、昼食ご馳走になってから、帰京。
 来年は6月2週に湯沢夏祭りギャモンと、11月2週に忘年会ギャモンと、すでに日程も決定したのです。




ジャパンオープン
 04年10月9日 NO1

8階の会場はこんな感じで広いです。中級戦がここ。

 
日本選手権というのは、いつも縁がないですねえ。この日も予選の一回戦中島戦負け。期待値もよくないトーナメントだし。
 夕方からのオープンも、1回戦和子負け。がっくり。
 夜のコンソレは、塩谷戦、初戦どうにかかって、2回戦は途中平井戦4−0まで。初日にすべて負けてしまうと、困るんですが、どうにかコンソレだけ残って、夜は4人で焼き鳥や。

10月10日 NO2

デモンストレーションの皆上とピーター戦。彼は今年のモナコのチャンピオンで、今回ゲスト出場。この日までは、オープンのコンソレにいます。

 朝9時に会場に入って、昨日の途中の続き。勝ちきって、その後暇につき、シュエット。
 夜コンソレ那須戦3回戦も、まあなんとか勝って、ベスト8.明日はやはり朝から、残り3試合。まづ手塚戦。3連勝など夢ですが。夜は、パーティの途中から割引きの3000円で参加して、めおと楽団、ビール、飯など。残り1日まででも、希望のトーナメント残って、どうにか安泰。
 
このトーナメントは、いつも思うのですが、昼間暇になってしまう。時間つぶしのトーナメントがなくて、普通は5pブリッツやっておくと、けっこう暇つぶしになるのだが。それに会場がうるさいのも進行が悪いしねえ。

10月11日

選手権の決勝は、優勝した西川くんと(右)と女性では初めてに決勝の神。

 
朝9時半から手塚くんとやって、これ勝利。さてマネーの前のラウンド。コンソレベスト4にきました。ここで2時間待って、1時から川添戦。ところがオープニングで4倍のギャモン負けで、0−8のクロフォード。でも5−8まで来た後に、最後相手が65で割れて、オンザバーから6と5と41をはずして負け。惜しいなあ。

オープンは、優勝のケンフィッシャー(右)と、山口。彼は準優勝二回目でした。残念。
 
そのほかオープンのコンソレ優勝は、コデブと片上の合計2位3人。

1、 知らないうちに賞金も付いていた選手権
日本選手権34回目ですが、過去にはタダのタイトルでしたが、10年位前に、海外に派遣するとなりました。現在は優勝が夏のモナコ、2位が秋のラスベガス派遣ということですが、その二人にも、さらにセミファイナルで負けた3位、4位にも、10万円の賞金が昨年から付き始めたようです。それ知ったのは昨日で、ならば大会プログラムにそのくらい予め掲載するのが当たり前の案内なのですが、それがされていません。エントリー1万5千円、リエントリー1万2千円という高額なのですから、大勢の客の上に胡坐かいた開催だと思われるのです。
2、 初級中級ラウンドロビンというのが、多分最も大勢の客を集めたイベントになって、69人の参加があったようです。これにしても「たくさん対局したい貴女にぴったりです」という案内がされているだけで、相変わらずまったく子供っぽいプログラムになっています。もうちょっと主催者が大人になって欲しいと、いつも思うばかり。しかもこういう内容ならば、三日間毎日開催されてしかるべき。
3、 昼間は選手権で、夜にオープンというのは、定着した最もスムーズな進行ですが、しかし二日目以降になると、昼間暇になる人が多くなる。そのために、8人の$200JPが開催されて、これにトロフィーがあったらしいのですが、なら正式なイベントとして、これもプログラムに案内されてしかるべき。それがない。イベントが思いつきで開催されるような気がする。というのも、5pブリッツのようなものが、連日行なわれている必要がある。というのも、中級者が最終日の昼に参加したときに、参加できるものがなくなっているのです。和子さんや順子さんが、これに出ているというのも、違和感があって、もっとそれらしいものが必要です。
4、 オープンのクラス分けがない。
 オープンに中級戦、初級戦があってもいいのですが、それがない。初級者は夕方で帰れといっているようなもんで、これはかわいそう。チーム、レディース、ミックスダブルスと他に3つのトーナメントがありますが、むしろ重要なのは、オープンのクラス分けだと思われるのだが。
5、そういえば、1pトーナメントも、プログラムにないものがいつの間にか始まっていて、賞品が何なのかも、明らかではなかった。大会のモチベーションが下がるのです。ワンデートーナメントというのも、何時にいくらで始まって、どう終わったんだ?本当にあったのでしょうか?



店でチャレンジ 六本木・フィヨルド
2004・8・28
 
このイベントは毎月やっているんですが、参加したのは初めて。フィヨルド佐藤ママは長いメンバーで7年位前に数人で香港に行ったときのメンバーでした。今では六本木ヒルズの敷地内にあって、それでもあのときに地上げには対抗して店は以前のまま。
 18人くらいのラウンドロビンでしたが、私2位で終了。




ヨーロッパサーキット 金子真一郎 NO3 04・8・26

 こんにちは、金子です。日本に帰ってきて2週間、暑さと流れる時間のスピードの違いに
戸惑い気味ではありますが、どこか落ち着いた気分でいます。やはり自分の家は良いものですね!

 王位戦の最終日にラスベガスに行ってから、丸3ヶ月トーナメントに参加し続けて、以下の通り望外の結果を得ることが出来ました。

・ラスベガス Mother's Day 400$ Special 優勝
・ロッテルダム Consolation 準優勝
・ギャモナイティス Consolation 優勝
・ベニス Consolation 優勝
・モナコ ベスト32で敗退
・カンヌ 500Euro Super Jackpot 優勝

(写真はカンヌのトロフィー)

 ここまでの好成績を残すとことが出来たのは、掲示板やチャットを中心にして、応援したり励ましてくださった皆さんのお陰だと思っています。この場を借りてお礼を言わせてください、ありがとうございました。

7月2週目 モンテカルロ(現地滞在編)

 モンテカルロは滞在費がとても高いと言う印象が強いと思います。確かに世界有数の高級リゾート地で、オテルドパリ・グランドホテル(大会会場)などの高級ホテルが名を連ねていて、一泊数万円くらい掛かります。去年の大会終了後、何人かのプレイヤーに宿泊方法を相談してみたところ、ウィークリーアパートメントを勧められました。
 1週間強の滞在で5人で10万円(1人2万円!)で2LDKのプール付、まどかさん親子、仁木さん、一馬君と楽しいルームメイトが揃ったこともあって、モンテカルロ滞在も満喫することが出来ました。

(写真はアパートのリビング、他に2部屋あります!)

 このアパートはギャモンプレイヤーには有名らしく、夜中になっても窓からダイスカップをシェイクする音が響いていました。デンマークのボンディング、イングランドのシモネッタを始め多くのプレイヤーが滞在していた様子です。
(興味のある方は、http://www.pierre-vacances.fr/をごらん下さい)

 紹介した以外にもギャモンプレイヤーが多く集まるアパートメントがビーチ沿いあって、大会中日の水曜日に滞在者限定トーナメントを開催したところ、なんと24人も参加したとか!
海外旅行を楽しむコツは素敵なホテルと楽しいルームメイト、来年もこのアパートを借りて馬鹿騒ぎ出来ればと思っています。

(写真はモンテカルロビーチ、負けて不貞腐れた僕はビーチ不参加大後悔中。)


7月3週目 カンヌ

 カンヌと言えば今年の中田英寿のバケーション先、映画祭で有名な街です。僕らが宿泊したホテルにも歴代の映画祭のポスターが貼られていました。5万ユーロと今年最大規模の賞金大会だったこともあり、世界中のプレイヤーが参加して大きな盛り上がりを見せました。

(写真は大会会場のカジノ、写真展も同時開催されていました)

 サイドイベントで行われた国別対抗戦は、チームごとに国旗を用意するオシャレな演出もあり盛り上がりました。日本はアルゼンチンに準々決勝で敗退。Mochy、Michyで敗れたのだから仕方ありません。

(写真はアルゼンチンのレオ・ベロニカペア)

 モナコ・カンヌと負け続けて、ベニスのコンソレーション優勝の賞金を使い果たし、最後の望みを賭けてのエントリーが500ユーロスーパージャックポットでした。
 16人のトーナメントで、準決勝ポールマグリエル・決勝トビアスと強豪を連破しての優勝は素晴らしい思い出となりました。ポール戦のエピソードは次号の番外編にて
 カンヌでの日本勢の戦績は、西沢さんがコンソレーション3位(インターミディエイト)、
みーさんがラストチャンス準優勝(ビギナー)。西沢さんは初のヨーロッパシリーズでトロフィー2個、素晴らしい!

(写真はカンヌ表彰式、西沢さん)

最後に 海外トーナメントを楽しむために

 今回でヨーロッパ滞在記は終了です(次回は番外編もあります!)。
 これでバックギャモンも一区切りかと考えていたのですが、今回の好成績は神様の思し召しだと都合よく解釈して、もうちょっとだけ海外をサーキットして見たいと思います。

 海外トーナメントの最大の醍醐味は、世界中から集まった多くの仲間たちと頭が痛くなるくらい濃密な時間を過ごすことだと思っています。国を代表するプレイヤーたちは、ほとんどが会場が閉まるまで残って、ポジションについて議論したり、馬鹿騒ぎをしたりして過ごします。この遠征で1つだけ心掛けていたことは、最後の瞬間まで大会会場に残って1秒でも多くの時間を彼らと共有することでした。
 ギャモンがうまい下手や勝ち負けは大きな問題ではありません。一番良い時間を過ごして、一番楽しんだ人がトーナメントの勝者だと思います。

 今回見学で参加した若者が、とあるオーストリアのプレイヤーに言われた、
「日本の若者たちは、いっつも笑っていて一緒にいるのが本当に楽しかった」
 という言葉は、トロフィーよりも何よりも嬉しいものでした。

 これからも多くのトーナメントを楽しめることを願いつつ、
今回の連載を終了させて頂きます。ご愛読ありがとうございました。




アドミラル例会 2004.8.12〜14


 12日は8人くらいの参加で、夜は恒例のシュエット。この日私はリーグ戦に2連勝して、通算2−2のようやくタイに戻りました。ミーちゃんも11月出産予定でも元気に参加。


二日目打ち上げは駒形どじょうで20人オーバーの大盛況

 13日の夜は、恒例の駒形どじょうの打ち上げで、大盛況でした。私もこの日も成績が良くて、けっきょく15日までにリーグ戦は5連勝して、通算で5勝2敗。のこり2試合になっています。
 なお14日は、やはりカラオケ夕飯シュエットという、これも大人気夜の部になって、終了が深夜の11時になりました。



11pマッチ スコア0−4 ●61

 ● 61ポジション Taka
 ギャモンの原稿など書くのは100年ぶりと、いうほどでもなくて1年ぶりでしょう。気分のいいときしか書きません。8月の盆時期に、アドミラル例会などでリーグ戦11pマッチの2セット先取という長いゲームを立て続けにおこなって、なんと5連勝しました。前代未聞のできごとです。ずーっと昔の7年ほど前の化石の時代に、同じ11pマッチのリーグ戦で、初戦から4連勝というときがありましたが、けっきょくあのときは、残り5試合に2勝3敗して合計6勝3敗でこの成績で予選敗退ということがありました。今とシステムがちょっと違っていたのです。
 さて今回の連勝の最後の5試合目に、図のようなポジションになったのです。11pの3セット目、スコア0−4と劣勢です。どういうポジションでキューブを打ったのかは忘れてしまいましたが「ギャモンが取れるだろうなあ」という希望の元のダブル2ではあったはずです。その後間もなくしてこのポジションです。というのも、このゲームの後に、ダンの家に皆でいって、花火見ながら私の対戦相手が、ダンのスノーウィでこのポジション作って解析していたのです。それで私も思い出したというわけでした。
 さてこの61のムーブですが、とにかく6と1は期待していた出目だったわけで、大歓迎であったわけです。どれも当たっているのです。
 最も嫌っていたのが、24ポイントのワンマン。相手にバーポイント取られると、これは致命傷になります。というわけで24/18ヒットをしますね。すると必然と1は、8/7で、これもヒット。期待は相手のダンスというわけです。ただインナーの2をリターンされたときには、今度はこちらから同じ条件で相手の4pボードのブロットを狙うというわけです。1枚ずつのオンザバーからの、同条件での先ぶりということになります。ところが、このムーブは、2番目でけっこうブランダーっぽいですよ。
 私、24/23ヒットは、あまり歓迎しませんでした。というのもこれをやったとしても、同じように相手にバーポイントメイクされると、やっぱりここでプライム完成させられてしまうわけで、意味ないヒットと思われたからです。仮にこの1を選択すると、6は2ポイントメイクになるのでしょうが、この欠点は1マンしかヒットできていないということと、とにかく相手に1の1ショットでインされると、こちら次で5の1ショットの自信なかったですね。自信がないということは、その次に相手にそこメイクされて、やはりプライムに捕まってしまうということになりますね。じゃ、6でも13/7で2枚目ヒットするかというと、とにかく24/23ヒットをしたくないとういことから、あまり考慮していませんね。
 しかし、この24/23ヒットと、2ポイントメイクがベストムーブだということです。さらに24/23ヒットと13/7ヒットは、さらに悪いということになっています。
 いずれにしても、相手がダンスすればギャモン勝ちは大いに期待できるわけです。問題は1ショットでインしたときなのです。ということは、2pメイクを選択しても、1でインされると、後は相手バーブロットに逃げられたとしても、あるいはステイされて自陣のバーブロットが動かれたとしても、とにかく1マンバックは脱出できないように思われたわけですよ。
 でもこうやってスノちゃんに聞いてみると、24/23ヒットがどうも点数がいいのです。仮にそれ選択しないで、バーメイクしたらどうなんでしょう。これは1マンだけのヒットということで、私は採用しなかったのですが、これは順位5番にも入らずに、期待値ほとんどゼロとスノちゃんは言うのです。ホントにそんなに悪いんですか?綺麗な5プラと前後に1枚ずつでフルプラ準備完了型ですけどね。
 とにかくこのときの相手は、出目に名前がある人で、1ショットもガンガン飛び出てくる人なのです。ならば2メン上げてギャモントライというわけでした。
 さて相手の出目は、おおやはりというか61。24/23・8/2だとしたら、「うっ」という間にプライム作られて負けていました。ですねえ、勝てません。ギャモンは能力以上のことはできませんね。自分がいいと思ったプレーしましょう。はい、その通りです。そのままギャモン勝ちできて、スコア4−4のタイになりました。





8月7日(土)第2回名古屋オープン 2004・8・7〜8

 名古屋のギャモンメンバーが昨年立ち上げたのが名古屋オープンでした。昨年に続いて私も参加して、今回はオープンに18人、ミディエイトに14人、ビギナーズに6人と、総勢38人の参加でした。


スタートのオークションの様子。

 オープンは、1回戦からの4人と、それ以外は2回戦からで、私も2回戦から。そこからのトーナメントだと4連勝で優勝になりますが、初日はベスト4まで。私久しぶりに運良くというか、2連勝して、ベスト4は確定しています。準決勝からは明日8日からですね。すでに賞金は確定していて、エントリフィーのバックは保証されました。問題はあと2連勝できるかどうか。今日は打ち上げのあとにさっさと寝て、明日に備えましょう。

オープン決勝 優勝は右のモッチー、私負けたのが左、金子。


コンソレーションファイナル。優勝は右、杉浦。準優勝は左、竹内。

 さて翌日は私はさっさと負けてしまいました。がっくし。



ヨーロッパギャモンサーキット 金子真一郎 NO2
 2004・7・24
 こんにちは金子です。今はカンヌのインターネットカフェでこの記事を書いています。
 日本を離れて3ヶ月目に突入しましたが、いよいよ遠征も最終盤でカンヌ終了後に帰国する予定です。8月7日-8日の名古屋オープンで元気な姿を皆さんにお見せできると思います。

−6月下旬 ロンドンバックギャモン事情

 6月下旬はサッカーの欧州選手権を毎日観戦しながらゆっくりと過ごしました。Mochyも言っていましたが、やはり本場の盛り上がりは物凄いものでした。
 ここではロンドンのバックギャモン事情を簡単に紹介します。ロンドンではJBLのような定期的な例会は行われておらず、プライベートにシュエットやマネーゲームを行うのが一般的な様子です。僕も帰国前に仲良しのジョンスラタリーの家に遊びに行く予定です。「クロックフォード」という会員制のエリートクラブでは毎週200ポンド(4万円)のトーナメントが行われていて、篠さんともお目にかかることが出来ました。

(写真はモンテカルロチームトーナメント準優勝のチームスラタリー)

−7月第1週 ベニスシティトーナメント

夏の3連戦の緒戦は水の都ベニスで行われる、ベニスシティートーナメント。車が一切走っていない水上都市の迫力は素晴らしかったです。生ハム、パスタ、カプレーゼほかイタリア料理も堪能できて大満足の1週間でした。

(写真はベニスの会場の様子)

別の記事にもあると思いますが、日本人が大活躍。僕自身もメジャートーナメントでは初めてコンソレーション優勝という結果を残すことが出来、とても嬉しかったです。

(写真はコンソレーション決勝の様子)

−7月第2週 モンテカルロ

 世界最大のトーナメント、モンテカルロ世界選手権。最大規模の参加者を誇り、世界中からバックギャモンプレイヤーが集結します。2000年に日本に遊びに来たライアンジョーンズ君と3年ぶりに再会しました。キャラクターは何一つ変わっていなく、最高に楽しい奴でした。
「日本の皆さん(主に女の子)たちにヨロシク!またバーブラにも遊びに行きたいです!!」
とのことでした。

(写真は2001年チェコでのライアンと筆者 ダブルス準優勝)

 モンテカルロの日本勢の戦績は、5回戦まで進出しましたが残念ながら金曜日の午前2時に力尽きました。ベスト64の時点で僕の優勝オッズが2番人気(20倍)に推されたことは誇らしいことでした。
(大会開始時はMochy、Kanekoが80倍、Michyが100倍)
 また、みーさんがビギナーのラストチャンス優勝で海外初トロフィーを獲得、和子さんも3度目のエレガンス賞を獲得しました。

(写真はラストチャンス優勝のみーさん)

 来月はモンテカルロの滞在記、カンヌ、タイ(帰国前に立ち寄ります)の様子をレポートしたいと思っています。




ヨーロッパギャモンサーキット 金子真一郎 2004・5〜

 2004・6・中旬

こんにちは、ほとんどの方とご無沙汰してしまっていますね。実は今僕はロンドンでこの原稿を書いています。仕事をインターネット経由で出来るものに絞って、3ヶ月の間は出来る限りのトーナメントに参加する長期サーキットを企画してみました。北極圏に突入したり、マンチェスターでサッカーの「日本対イングランド」戦を観戦したりとやりたい放題に過ごして20代の総決算の旅に出来ればと思っています。

世界各国のギャモンの様子を中心に、その模様を一部ご紹介していきます。

5月24日 香港へ

旅のスタートは香港へ。実は香港への航空券は今年のお正月のタイからの帰りの切符でした。日本の格安航空券は概ね短期間のフィックスチケット(日程変更不可)で、今回のように気ままに旅行するにはあまり適切ではありません。アジアならソウル、香港、バンコクで日本の格安航空券とほぼ同額で1年オープンのチケットを購入可能です。今回はバーレーン、アブダビ、マスカットに立ち寄れる「ガフル航空」の香港−ロンドン1年オープンチケット(8万円)を購入しました。

−香港バックギャモン事情

「レディスレクリエーションクラブ」の名前に反応する方はなかなかの事情通ですね

え。数年前まで香港のトーナメントが開催されていて、鷹觜さんがスーパージャックポットに優勝したり、沼沢さんが中級戦を連覇したりしたものです。(僕の海外デビュー戦でした!)

今では週に1回月曜日の夜にシュエットをしていますが、集まるのは多くて10人弱と残念ながら香港のギャモンは衰退の方向に向かっている様子です。ロビン、ドンレイ、スティーブなど懐かしい顔が暖かく迎えてくれて嬉しくも、少しだけ寂しさも感じさせる再会でした。(写真は香港シュエット)

そんな香港にも新しい風が少しづつですが吹いてきた様子で、「キークラブ」という欧米人中心の会員制高級クラブで「ドンペリニヨンカップ」というトーナメントが開催されていました。参加費3万円でディナーとドンペリニヨンのグラス付き、賞品もドンペリニヨンバックギャモンボードを始めとても豪華で魅力的なものでした。

ほとんどトーナメントに参加したことのないメンバーが大挙して参加していたので、今後香港の復権もありえるかもしれません。ここではアンドレ、バイリーン、メロディに

再会することが出来ました。(写真はキークラブ)

6月上旬 ロッテルダムへ

ロンドン到着後はサッカーばっかり見ていました。マンチェスターでの小野のゴールは感涙物でしたがここでは省略。

ロッテルダムまではユーロスターという特急列車で行ったのですが、これがロンドン

から4時間で60ドル(食事、ワイン付)と驚くような値段でした。ヨーロッパでは格安の移動手段が発達していて、飛行機でも早く予約すれば片道5000円以下の国際線なんてのもザラにあります。海外のトーナメントに参戦というと、大げさに聞こえますがこちらのプレイヤーからすれば、ちょっと大阪オープンに参加して、ついでにユニバーサルスタジオに出かけるようなものなんでしょうね。

ロッテルダムはヨーロッパ最大の貿易港を謳うとても美しい街でした。小野伸治の所属するフェイエノールトの本拠地だけあって、皆が驚くほどに親近感を持って接してくれました。(写真はロッテルダムの街並み)

トーナメントは24人参加で、参加者は主にはオランダとベルギーからで有名どころでは、ノルウェーのシャハブ(昨年のアブダビ覇者です)でしょうか。僕はメインの8で負けてしまいましたが、どうにかコンソレ準優勝でトロフィーを獲得することが出来ました。(写真はロッテルダムオープンの様子)

6月下旬 ギャモニティスのトーナメント

イングランドはヨーロッパのバックギャモンでも、どちらかというとアウトサイダーなのですが、「ビバ」と「ギャモニティス」という2つの団体がほぼ毎月30名以上を集めて大会を開催するなど、精力的に活動しています。特に後者の「ギャモニティス」はヨーロッパのメジャートーナメントにも積極的にメンバーが参加していて、会報の「マークユアポイント」もレベルの高い内容になっています。

才能のある若者の出現など、何かのきっかけがあれば一気にイングランドがヨーロッパを席巻なんてこともあるかもしれません。(写真はディレクターのリズ)

今回参加したのは「ギャモニティス」のトーナメントで、スポンサーはピーターベネット。イングランドのトーナメントでは運営は団体が、トロフィーはスポンサーパーソン(持ち回り)が用意することになっていて、毎回違ったトロフィーが用意されるという楽しみもあります。また、夜にはポーカーのイベントが用意されていたり参加者を飽きさせない努力が徹底されています。ロンドンに立ち寄る機会があれば是非参加をお勧めします。ここでもコンソレーションで優勝するなど、今年はなぜだか好調です。(写真はギャモニティス会場の様子)

−いよいよ本番 ベニス/モンテカルロ/カンヌ

この号が発売される頃にはいよいよイタリアに移動して、夏の最大の3連戦に挑みます。デンマークでも、もち君がトーナメントを優勝した様子です。

昨秋の望月矢澤のラスベガス以降、日本人の活躍はとどまることを知りません。20日連続トーナメントと言うのは狂気の沙汰としか思えないのですが、今回の3連戦では世界中に大きなインパクトを残したいものです。来月号で素敵な報告が出来るように願って、原稿を終わりにしたいと思います。



越後湯沢(新潟県)バックギャモン大会
 参加16人 2004・6・12

 湯沢の玩具組合の保養施設は、河田さんの田舎だそうです。以前には一冬にスキーなどで10回も訪れたそうな。今年もまたそこでギャモン大会です。

 大会そのものは、午後4時から2時間と、8時から2時間半で、5pラウンドロビンのJBLレーティング獲得点数で競って、石川真理子さんの優勝。そうそう夕食どきには、最近人気沸騰中の「夫婦楽団」のコンサートもあり。


 優勝したのは左の石川さん。しのぶさんと対戦中

 ところで湯沢は川端康成の「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の小説「雪国」の舞台です。保養所近くの雪国館でその展示もしていました。ヒロインの駒子という芸者はつい平成まで健在だった実在の女性で、川端がこの小説を書いたときに(現地の訪問は昭和9年で、小説発表は13年頃らしい)、手紙と掲載誌などを彼女に送ったそうですが、その後彼女は結婚した頃に、それを燃やしたと書いてあります。小説家と芸者の恋愛モドキは、複雑なものがあったのでしょう。



年末年始のアドミラル例会 2003・12・29
 
アドミラル例会が始まると「正月の気分」になりますねえ。ここ数年はそんなことが染み付いてしまいました。早速12月29日の月曜日に開催されました。名人リーグが3戦、その他通常の例会などです。

昼間はアドミラルの応接室で大会です。

 今年のアドミラル打ち上げは、やはりこれも例年通りの「駒形どじょう」。それにしても、このどじょう屋は1年中込み続けています。これから年始にかけては、はとバスも訪れて大賑わいになってしまうでしょう。

夜は駒形どじょうでした。

 参加は水戸からしのぶ、30日には富山へ帰ると言う手ズ、おなじみのきんちゃん夫婦、城所さん、永井、西川、野々村、那須オジサン、少し見学のモチ、野崎などでした。どじょうを食べないと年が越せないという気分です。
 次回の予定は、12月30日、1月2日です。



もっちーのラスベガス優勝 2003・11・23 リビエラホテル ☆☆☆☆

 
こういう出来事はなかなか広まらないけど、日本人のもっちー君という人が、バックギャモンのラスベガスオープンで優勝したね、私にクラブのメンバーです。掛け金5万円で120人。ということは総額で600万円集まって、優勝賞金はそのうちの250万円くらいと言うことですよ。

優勝したもっちー君(きんちゃん提供)

 それと彼はリミテッドJPというのにも優勝して、これは4万円で64人だそうで、これも総額250万円のうち、率がよくてこちらも150万円くらいだったようで、合計400万円の賞金ということです。ギャモンというこのゲームの世界のメジャー大会の一つでした。他にはモナコとかデンマークとか、あとラスベガスには春の大会もあります。
 さて、大人というのは何人か集まって争いごとのゲームをするときに、多少のお金を掛けるのが世界標準となっていて「適度な掛け金は合法的な行為」というのも、また各国で通説になっています。日本ではどうだかねえ? 最近は判例がないけど、半分以上の法曹関係者も、OKだしていますが。
 1、理屈は「寺銭詐欺になってはいけない」ということです。掛け金をいくらか集めてそれを成績の上位者に分配するというのは、まあ宝くじでも競艇、競馬が該当しますが、仮にこれが公的なギャンブルであっても、私的であっても、分配は集まった掛け金の90%以上は行いましょうということが、実にフェアーなことになっています(期待値90%、還元率といってもいいけど)。つまり運営費や人件費は10パーセント程度に抑えるのが常識的なこと。つまり胴元が異常に儲けないということでもあります。むしろ宝くじの70%とか、サッカーくじにいたっては50パーセントしか期待値はありません。そっちがボッタクリだね。
 2、「富くじ禁止」というのもあるけど、これは無制限にドンドン宝くじみたいに買えるということで、ギャモンのエントリーフィー(入場料)は通常1回限りで、射幸心を煽ることにはなりません。
 3、「スポンサーを見つけよう」というのは、トンネル会社みたいなもの。これは警察官が暇につき麻雀やるときと同じで、集まった同僚が会費みたいの払って、招待した所長が賞品になにかプレゼント用意しているのと同じこと。
 4、「将棋や囲碁の真剣師(お金かけてプロとアマが余興で対戦すること)が捕まったためしがない」のは本当のことです。
 5、「いつもニコニコ現金払い」というのは、実に正しいことで、問題があるのは、金のないやつに借金させて掛け金払わせることすると、負けた相手が警察に駆け込むのです。つまりこれがその筋の人がやっている賭け麻雀というものです。
 6、というわけで、大人の社交場のなかで、適度な掛け金をキャッシュで支払いながらゲームをするというのは、どこにも違法性がありません。
 7、ゴルフの2軍選手などは、スポンサーも賞金出してくれないために、一人3万円くらい集めて、10人くらいが集まって、勝った人が30万円の賞金を獲得するというささやかな2軍イベントやっています。それと同じことなのです。

 さて5日間のそういうラスベガスのイベントでもっちー君が優勝しました。世界チャンピオンといってもいいですね。快挙でした。
 なお国内でも10月に中野サンプラザでジャパンオープンが開催されます。こちらは賞金が60万円ほどです。私は99年のその大会で優勝しました。「元日本チャンピオン」という肩書きだね。

チャレンジカップ 2003・11・3 文京区シビックセンター

☆☆☆☆ 

 今月のチャレカは人気沸騰でした。盤聖戦の決勝などイベントを兼ねていたりして、その前宣伝が効果あったのでしょう。

 盤聖はその2日前の土曜日から1回戦が赤坂で始まっていましたねえ。私は名古屋の水谷くんとでしたが、1セット目はリダブル4のギャモン勝ちあってゲット。2セット目は11pマッチで6−1までいった後に、ダブル2テイクがあって、相手にオンザバーから55が出て、それでもレースで4ピップ負けている程度だったのですが、リダブル4がきてテイク。そのままゲームは取られて、それでも6−5。そこからマッチ落としました。3セット目も、序盤リードしていたのですが追いつかれて、8−7からダブル2テイクでギャモン負けしてしまったのでしょうか。この日相手は55が多かったですねえ。私落胆して帰宅。

 翌日に日曜例会は用事があったりして休みましたね。

 さて月曜日のチャレカは、昼過ぎに到着して、ちょうどオープンの16人目に滑り込みました。大盛況ですよ。溢れたオープンは別に8人枠立てていましたね。ビギナーズも20人以上でしたか? ノービスはすべて初参加の人だけで5人。キューブなしギャモンしていました。最初はそれが心臓にいいかもしれませんよ。

 さてオープンは16人参加のためにいつもより短くて9pマッチ。そう盤聖は景山―山口で決勝戦が始まっていましたね。

 16人目に滑り込んだというのは、すでに他は始まっていて最後からのスタート。

対那須戦。4−1とリードして、さてどうするか考えてリダブル4。パスポジションだと思っていたのですが、相手テイクしてノータイムでダブル8がきましたね、ラストゲームです。ベアオフで44が出て、3枚上がって割れてしまいました。3だと当たりますね。なんだかこのときに「プラス1」でと、相手から声がして、トーナメントだとこういうの確か不正だと思うんですが、JPだといいという主張もあって、でも私は過去ラスベガスでアルゼンチンのレオが負けた試合を勝ち上がって、しばらくの間トーナメントから追放になったことがありましたよ。確かに彼は最近アメリカの大会に来ていないようです。ところがヨーロッパだとJPでこういうセトルあるようですねえ、しかも1回戦だし。でも私、一切そういうこと聞き入れずというか、ちゃんと考えずにキャンセル。相手66でノーヒットでレース挽回してきて、それでも大差だったために届かずに、このマッチ勝ち上がりました。不用意なダブル4だったか?そうでもないと思うのだが。勝率85パーセントくらいなはずだったのだが。

さて少し待って、2回戦はコデブ。一月前のフェステバルのコンソレでも対戦したのですが、このときは終始劣勢で冷や冷やしどうしだったために(試合には勝ったのですが)今回はそういうことのないようにと心がけて、リード保ったまま7−2からギャモン勝ちして勝ち上がりました。


決勝 対南雲戦 提供永井さん

さて次の対戦見ると、3回戦に立川さんきていました。彼女とは、盤聖予選リーグで私負けているのです。アンカー割らずに2メンダウン。オープニング31のあとの32も2メンダウンです。プライム志向という、分かりやすいムーブ彼女は最近やりますね。うまくタイミングとってこちらアンカー割っていかないと、これはまってしまうんですよ。最近私はお互い4pボードになった後のアタック合戦の出目競争が好きになって、全パスで9試合やって負けるのならしょうがないと思ってこの試合に臨みました。でも実際はそれほどでもなくてこの試合の終始リードして、なんだか66がよく出たような気がして、やはり大差で勝てました。

次決勝戦になります。このJPはいつものように$50ドルで、分配が$550と$250と表に書いてあって、とりあえずいくらかは確保できたなあと。決勝は久しぶりに南雲さんとでした。0−1からダブル2をテイクして、これが彼には珍しいブリッツポジションなのです。そういえば南雲さんはこの前の試合で外崎とやっていて、南雲のダブル4を外崎テイクしていて、あれはパスっぽいなあと思いながら、そのゲーム南雲の4が、オープニングのゲームでした。ダブルは早かったとしても、リダブルパスというのが、最近また妙に多いなあと思っていましたね。

さてテイクして相手63なのですが、3,4のダブルショットが16p、15pにいて、ミッドを崩した3で当てられて、6はバーポイント崩してエース打たれたのにはちょっと意外でした。あとでアナライスすると、それがいいらしいのですが今でも疑問です。ただ相手のボードは6と3だけがオンされていて、外は4ブロットになっています。私エースがリターンできればいいと思っていましたが、44で外を2枚打てました。私のインナーは6p4p。5pに相手のアンカーがいます。相手63で1枚だけイン。そこでちょっと戸惑ったのですが、やはりリダブル4。追加のブロット2枚とアウター制御できます。相手テイクでした。5pにアンカーがあるということでしたが、おおよそのアナライズではグッドイナフ。そのゲームギャモンで8点ゲットして、クロフォード。勝ちました。この日は不利なスコアはなかったという幸運でした。


優勝しました。賞金$550

さて盤聖戦は、1−1セットの後、景山有利に試合が進んでいましたが、途中山口1−4のポジションで、相手の3pアンカーを5プラに2枚閉じ込めて18と12で向かい合い、相手2pボードにエースにブロット1枚というポジションになっていました。ダブルかと思っていたのですがステイのまま、1枚のエースが54でオンされた後に、クローズアウトされ、景山5プラを1枚出たところでギャモントライに入って、次にエニイ6でもう1枚も出て、ギャモン成立6−1となっていました。

出目の大差は、試合終了後の2ポジションの解説にもあったのですが、景山4pアンカーに3枚あって、山口ベアイン終了でレース99パーセント以上の山口有利から、景山55があって、山口エニイ1が3回くらいあって、最後ぞろ目で、景山のクロフォード突入がありました。こうして景山盤聖4連覇です。

なおこの三日間に、ウェルズとさくらが、京都旅行の帰りに寄って、トーナメントには参加しませんでしたが、海外遠征組みとは再開になりました。この夏のモナコではウェルズはスーパーJを取って、$50.000くらいゲットだったようです。




フェスティバル2003 (10・11〜13 中野サンプラザ)

日本選手権チャンピオンシップ   優勝 山本雅人  準優勝 島田

東京オープン  優勝 深水善道  準優勝 山本雅人

 ギャモンフェスティバルが盛大に行われましたねえ。今年はどのくらいの参加だったんでしょう?250人くらいでしょうか。このゲーム、アメリカなどではラスベガスの大会を見ても、もうお爺さん年齢の人が大半ですよ。おかしいですよねえ、ホテルのカジノには、若いカップルもたくさんいるのに、そういう人の参加が少なくなっています。アメリカ人には真面目な学習能力がないんでしょうか。ギャモンをタダの博打だと思って、しかも掛け金が妙に高くなって、若い連中から愛想をつかされてしまっているのでしょうか。それに比べれば、日本は若い学生世代の連中が多くなって、ゲスト参加したロッキーなどに言わせれば「とっても羨ましい」ということになります。日本の将来の方が圧倒的に明るいものがありますよ。欧州はちょうど日本とアメリカの間くらいでしょうかね。

大会風景(中野サンプラザ8F 会議室

 選手権の8人枠抜けというのは、毎度ながらきつい注文になります。私なども早々に敗退してしまいました。一日目に何人かと、二日目の2時間くらいのラウンドロビンと、他にあらかじめ地方予選を勝ち抜いた人たちで、二日目の午後2時から16人で決勝トーナメントが始まりました。同じように選手権の中級戦も今年は、予選と決勝トーナメントになりました。

昨年優勝の嶋田さんは、すでにシード枠で参加が決まっていて、やはり今年も毎度のことと言っていましたが「五日間の断食」を実行していたようです。食事はジュースだけというわけです。強力な念力を用意していたわけですね。私はたまにトーナメント表を見るくらいでしたが、昨夜の東京オープンの1回戦で私が負けた相手の外崎くんなどは、選手権でも3連勝して予選抜けして好調のようでしたね。でもトーナメントというのは、分からないものです。その彼もアッサリと消えてしまったようだし、アメリカから参加のジェイクも、意外にも早く負けていました。決勝は1回勝つとベスト8ということになりますが、学生予選から勝ち上がった女性が2回戦に進んだりして、いろいろな人が勝ちあがっていくものです。何も常連だけというわけではありません。ベスト4には、熊本の四鹿さんも上がっていました。名人手塚も4に勝ちあがっています。


東京オープン優勝 深水善道

さて夜の試合は一日目、二日目と東京オープンが開催されています。エントリー3万円で、47人がこれに参加した今回でした。優勝賞金が55万円。このトーナメントも毎年規模が大きくなっていきます。

一日目のこの大会が開かれている時間に、SSDの麻見ネット仲間のオフ会も近くの居酒屋で開催されました。私はオープンの大会の後に参加しましたが、都合で20人くらいになっていましたね。ヤフーネットからの参加も大勢いたということです。オープンのトーナメントはメインとコンソレーションと二つあります。2度負けてしまうとそれっきりというものですね。私はメインの1回戦で負けてコンソレに回って、これはどうにか一つ勝つことができて、翌日につなげました。コンソレ優勝は二人出るトーナメントに設定されていて、こちらはそれぞれ20万円が賞金になります。

さて二日目の夜は、スケジュールも詰まってきて遅くまで大会が続きます。選手権の決勝トーナメントに入れなかった人は大勢いるわけで、オープンのコンソレも早い時間から対戦が始まりました。トーナメントがいくつあっても、それ全部に勝ち残っていくというのは、そうできるものではありません。選手権前年優勝の嶋田さんもオープンにエントリーしていましたが、そちらは早い段階に消えていました。

私はコンソレ2回戦も勝って、3回戦でコデブと当たりました。彼は選手権では中級戦決勝トーナメントに進出していて、こちらも9pマッチのトーナメントが行われています。今年から選手権中級戦もポイント数を多くしましたが、中間層が厚くなってこの方が中級者も楽しく対戦できたようです。以前3pだったときは、とても不評でしたからね。

コンソレの3回戦も運良く勝ちあがりましたが、ここまで来てようやくベスト8ということになります。後さらに3連勝しないといけません。道のりは長いのです。


選手権決勝戦 左優勝の山本雅人 右準優勝島田誠

二日目の夜は、広尾のデプレで1万円会費のウォッカパーティになりました。ちょっと高級感出しすぎて参加費が高かったのですが、それでも60人くらいは集まったでしょうか。ミュージシャン来栖野のステージに熱狂しましたね。

最終日はわずかに準決勝など数試合残して2時頃からすべての決勝になります。ここでなんと、札幌の山本さんが選手権とオープンの両方の決勝に勝ち上がってきました。今年は素晴らしい好成績です。でもトーナメントの勝ちあがりというのは時の運で、3年位前には初日にすべてのトーナメントに敗退して「最初の日に負けるとがっくり来る」といっていたのが彼でした。いいときも悪いときもあるものです。

そのために選手権の決勝は早めに始めます。今年は17pの決勝ですが、序盤から相手の島田さんに圧倒的にリードしていきます。そのまま大差をつけて山本優勝。続いてオープンの決勝に移ります。このどちらの試合もビデオの解説付きで行い、観客も40人以上にもなりました。

さてそれ以外の人たちのために、ファイナルチャンスの5pマッチも行われ、これには60人近くがエントリー。さらにミックスダブルスとかJPもいくつか立ちました。


二日目夜の広尾カフェ・デ・プレのギャモン特注ケーキ このあと美味しく食べました。

 オープン決勝は学生の深水くんがダークホース的に進出してきて、決勝でも終始リードを保っています。ところが試合途中で夕方6時が先に来てしまって、試合は中断されて表彰式が先になりました。サイドイベントがたくさんあって、表彰式も長くなります。クイズコンテストは10問中で優勝の7問正解が4人でました。永井、永井一矢、景山、金子です。そうそう今回はクロックが切れて敗戦してしまう試合も多くありました。1p5分換算で試合は行われますが、5pマッチだと双方25分ずつ持って50分ということになります。ところが女性トーナメントでも、片方の時間が切れて勝負が付いてしまいました。1p5分というのは、意外に時間が少ないものです。欧州では1p6分だとか、米国ではさらに10分のプラスだとか、少しだけ時間に猶予があります。一言でいうと、キューブを正しく使わないと時間は切れてしまうものになります。5pマッチを1点ずつ最後まで行うとすると、9ゲームになります。それが50分で終了するかというと、これはかなり難しいでしょう。それと1ムーブずつ考えているとこれも時間がなくなります。ギャモンはおよそ次の出目でどういう方向性に動かすのかを予測しながらするゲームですから、それに慣れましょう。

さて表彰式の後にオープンの決勝は再開されましたが、やはりリードを保ったまま、深水くんが優勝しました。賞金は55万円になります。ただ噂ではエントリーに外馬の出資があったようで、多少分配されたと聞きます。それでも来月のラスベガス大会の参加資金になったようでした。また選手権の優勝の山本さんは来年のモナコ、準優勝の島田さんはラスベガス、1p128人優勝の中村順子さんもラスベガスの権利を獲得しました。コンソレは長谷川、手塚の二人が優勝しました。名古屋の水谷、札幌の皆上らは惜しいところで試合を落としました。その他私を含めて残念な人は多かったものです。私は最終日の8人の$100JPを取っただけの大会になりました。

ギャモンが輝かしかった頃 その5     (2003・8)        taka

名古屋・今池のジャズレストランEXITは今年で開店23年になる。ママは森田敬子さん。先月末に開催された名古屋オープンでも、初日の夕食会やJP開催に場所を提供していただいたり、毎月名古屋の例会会場になっている。名古屋のギャモンの母といってもいいのが、森田さんになる。コーヒーと軽食を注文しただけで、ギャモンの連中は延々とゲームに講じる。店にとって客が着てくれるのは有難いのだが、延々と居座られてもこれもまた、困ったことになる。けれどママはこんなふうにいうのだ。
「だいたいジャスファンなんていうのは、コーヒー1杯で3時間も粘る連中なんですよ。もとからお金なんて持っていません。そう思えば、ギャモンをする人がいくら店で粘ったとしても、まあ大したことはありませんよ。元々私は、江戸時代の御茶屋さんのように、店先に将棋や囲碁があったように、いろいろなゲームをすることができる店にしたかったわけなんです。ジャズ聴いたりマンガ読んだりね。人生なんてそう長いもんじゃありませんからねえ。ゲームが楽しくできる人は、それだけ有意義な人生が送れるっていうことでしょう。世間には無趣味の人が多いですから、できるだけ多くの人にギャモンなどのゲームを紹介して行きたいとおもっているんですよ。でもこれまでの教え子が強くなったなんてことは、なかったですが」
 ママは実に達観している人なのだ。こういう人がいてくれるから、ギャモンが生きながらえているとも言えるのだ。
「たまたま学生時代の知り合いのジャズミュージシャンと結婚したのが、こういう道に入ったきっかけになったんですけれど」
 とママは話すのだ。75年のことだ。新婚旅行でニューヨークに半年ほど滞在した。帰国してからは京都に新居を構える。ご主人は演奏で全国を旅回り。彼女はその手伝いをする。
 5年ほどして引っ越すことになったときに、地元の名古屋に戻ってきた。出身は徳川家康の故郷と同じ、県内の岡崎である。80年にこのEXITの開店にこぎつける。
「最初にきた団体さんが、ブリッジのメンバーだったんですよ。当時は名古屋にはまだブリッジクラブはなかったんですね。ここで例会をやってました。よく外人さんたちが4人でかたまってトランプやっているアレですね。ブリッジというのは、実によくできたゲームです。将棋や囲碁、それにギャモンと並んで、世界のゲームの王様だと思いました。それに彼らはゲームなら何でもしてました。4人のメンバーが集まる前には、いつもギャモンをやっていましたね。それで私も必然とそのゲームをやるようになったわけです。学生の久永も長谷川も当時からのメンバーだったし、篠も嶋田も東京からよく遊びにきてましたよ。店で大喧嘩したこともあったし、それに私島田には負けた記憶もないんですよ。
 ギャモンはルールは5分で覚えられるでしょ。でも作戦となるとこれは永遠に深いものがある。そういうゲームの厚みが魅力的でしたね。それに私学生結婚でしたから、まあ世間知らずで、何でも飛びついてみたかったという気持ちでもあったんですが」
 名古屋出身の長谷川が東京に就職して10年、再び名古屋に戻ったのが3年ほど前になる。そのときから名古屋例会が始まった。学生時代の馴染みの店が、まだ営業を続けていたのである。その長谷川が再度大阪に転勤になって、今は水谷が名古屋例会の担当者になった。同じようにこの頃からネットゲームが盛んになって、ネットから入ってきた人が名古屋の例会に参加するようにもなった。ゲームを理解してくれる人に回りには、大勢が集まってくるものなのだ。

ギャモンの歴史的系譜   その1       taka

 聞くところによると、70年代には黄金のギャモン時代があったそうです。利根川さんは千葉の幕張在住で、地区対抗戦などは、千葉チームの一員ですが、彼がギャモンを教わったというのは、六本木にあったゴージャスクラブ「プレーボーイクラブ」で近藤博さんからだったそうです。
 当時のプレーボーイクラブというのは、そうです、本場アメリカのプレーボーイコンツェルンとライセンス契約したクラブで、あのレースクイーンも顔負けというバニーガールがいて、しかも彼女たちは初心者にギャモンの指導でもできたのだというのです。しかもこの店は会員制で、一見のお客が入れないのはもちろん、入店するだけでもメンバーの紹介が必要だったという店ですね。そんなとこにセレブの紳士たちが入りびだって、バニー相手にマネーゲームしてたのですから、地上の楽園と言われても仕方のない時代でしたよ。
 そこに利根川さんはナント、20代歳の学生の頃から出入りしていたというのです。まさにおませな学生だったのです。で、近藤さんという人は、テンヨーの現在は副社長ですが、彼は仕事と趣味を一致させて、ここでオシャレなゲームを披露していたのですね。
 テンヨーといえば、他に加藤さん、和佐間さんの3人が日本選手権を74年から始めたように、ボードの販売を兼ねて、アメリカから洋書を取り寄せて、そして自由国民社から最初の日本語の本を出版した人たちです。近藤さんが最近出していただいた資料によれば、
「米プレイボーイ誌の73年3月号に8ページに渡って、ギャモンの特集が組まれ、それがきっかけでした」
 ということです。なおテンヨーは、73年の7月からボードの国内販売を初め、翌年の第1回選手権は、参加者も集まらずに電話勧誘するほどだったそうです。また日本語版のギャモンブックは、79年にエレック社から発売されました。後に絶版になっていこう、自由国民社から再販されています。
 利根川さんが先の店で近藤さんから習ったのは、80年10月だったそうです。
 さてその店は、現在でも六本木のロアビルの10階に「センチュリー・コート」と名前を代えて実存しているようです。しかし、90年ころですが、日本ではまもなくバブルだという時代に、逆にアメリカは不景気なときがあって、このとき本社のプレーボーイが、上品クラブの経営から撤退した時代があって、六本木のその店も撤退したそうです。それに伴って、あの響きのいいプレーボーイという店名を使うことができなくなって、店内ギャモンブームも消滅してしまったようです。残念ですねえ。
 さてその店でギャモンを覚えた利根川さんは、翌11月の第10回日本選手権とプレイボーイ杯争奪を兼ねた大会に出場します。椿山荘で開催されます。中級戦で3位だったそうです。商品のプレイボーイのタオルケットは今でも愛用しているそうです。長持ちするプランド商品だったということでしょう。当時のパンフには、「6年前に第1回選手権を開催して(当時は半年毎の開催だった)以来、年を追うごとにプレーヤーの数が増えて、昨年はとうとう定員の都合から参加をお断りする方が出るほどになりました。・・・優勝決定戦は11月3日午後8時30分頃に終了の予定。そのとき貴方がニッコリ笑っているためには、それまでにおそらく60−70ゲームをプレーしていなければならないはず。チャンピオンになるためには、戦略だけではなく、ガッツとスタミナがものをいうに違いありません」
 と書かれていたほどである。贅沢な悩みもあったものだった。
 同じ千葉では、平田さんという人がいて、この人は先の和佐間さんにギャモンを習いました。とにかく70年代は、そのテンヨーの3人がすべての発祥の元になっているようです。で、利根川さんは平田さんにギャモンを教え、平田さんは麻雀を利根川さんに教えたそうです。 さてそんななか、85年12月に大阪で「カリーナ・カップ」というのがありました。会場はホテル阪神です。この頃の大会はオシャレにいいホテルを使っていますねえ。カリーナはトヨタのあの車ですね。どうやら、カリーナEDというあの名車が発売されたときに記念大会だったようです。トヨペットがギャモン大会のスポンサーになったというのです。優勝者には車がでたそうですよ。といいたいのですが、優勝商品はワープロだと書いてあります。その大会のベスト4に利根川さんは進みました。相手は大阪のママの橋本加代子さんです。彼女もキャリアありますね。で利根川さんは勝ち上がって、決勝は大阪の島田友博さんとでした。決勝はビデオをまわして、さらに観客も大勢いて、利根川さんはそのギャラリーのプレッシャーだけに負けてしまったと、いまではいっております。ということは相手の島田さんが優勝しました。またその記事には初戦でかじ川さんが番狂わせで負けてしまったと出ています。前年は3位だったそうです。
 誰でも最初のファイナルには、けっこうプレッシャーを感じてしまうのです。でこれが利根川さんの最初だったそうです。その大会は日刊ゲンダイという新聞にも報じられ、またそこに大きな広告も載せたほどの規模の大会だったそうです。 さてプレーボーイクラブ出身のギャモンプレーヤーは、実は利根川さんの他にまだいました。中村幸四郎さんもその一人です。中村さんがその店に通っていたのは、もう少し時代は下って82年頃からでした。やはりバニーにギャモンを教わったという恵まれた環境に育ったわけです。
 バニーといっても、別に外人女性ではありません。20歳代の日本人バニーだったそうです。つまりこのクラブでは、他にダーツ、モノポリーなど、紳士のアイテムとしてオシャレな遊びを演出していたというわけでした。
 もともとテンヨーがギャモンボードの販売を始めたり、日本語のギャモンブックを書き始めたきっかけにしても、アメリカの雑誌プレーボーイがギャモンというゲームをオシャレなゲームとして演出し始めたことに、相乗りしたようなきっかけだったわけで、そのコンツェルンのクラブ経営も、一環だっわわけですね。
 中村さんは、お店の外でもバニーと合コンギャモンしたりしたこともありました。また後に、東京レストランというレストランで、元バニーがここのママさんをやっているところに出会ったりもしていました。独身貴族を謳歌していた時代のことですね。プレーボーイクラブは、他に札幌、大阪にもありました。いま札幌で例会をやっているDDクラブも、当時からの店だったようです。
 さて利根川さんは、大会でかじかわさんと知り合い、またかじかわさんの紹介で奥様とご結婚したように、ギャモンの父のかじかわさんもまたギャモン人生の長い人の一人です。
 かじかわさんはご親戚が六本木の誠志堂の書店を経営していますが、彼もまたそこでゲーム用品の仕入れをしていた時代がありました。その仕入れゲーム用品のために、高島屋でギャモンボードを購入したことが、彼のギャモン人生の始まりになりました。当時のテンヨーのボードには、ギャモンをやりたい人は、「楽しむ会」が月に1回中央区で開催されているために、それに参加しましょうという案内が添付されていて、この楽しむ会から育った人も、後の時代には多かったようです。つまりかじかわさんは、テンヨーが全国的にギャモンボードを販売し始めてからの一人目のお客さんということになります。そして興味を持ったかれは、添付されていた案内にしたがって、楽しむ会などで和佐間さんと知り合うことになります。テンヨーの3人組のなかでは、近藤さんはオシャレなアイテムとしての普及に活躍し、和佐間さんはむしろ楽しむ会などの現場での指導に当たっていたわけです。こうして現在では和佐間さんはギャモンの第一線から退いたものの、かじかわさんだけが、同時からなお継続して現役ギャモンプレーヤーとして最長不倒の活躍をしておられるということになります。
 ところでこの記念するべき第1回の選手権に開かれた74年、以前に国内でギャモンをやっていた人はいないのでしょうか? いや実は草場さんはなんとその4年前の70年からギャモンを始めていました。趣味でゲーム団体を主宰している草場さんは、この年にブリタニカ出版から発売された世界のゲームを紹介した洋書を研究していました。その中に確かにバックギャモンの紹介ページがあったというのです。どう考えても世界中には100種類を越えるゲームが存在しています。そのなかのわずかに1個のギャモンというゲームについて、彼は洋書で読んだばかりではなくて、実際に1円玉と10円玉を15枚ずつ使って、手製で紙にボードを描いて仲間とこのゲームを実践していたわけですね。何しろ本物のボードは国内ではまず入手は不可能だったからです。
 しかしただルールを読んだだけのギャモンでは、煙突状態を作り上げるだけの、面白くないゲームだったということでした。ヒット、アタック、プライムというゲーム戦略は、ゲームのやり方を覚えただけではなかなかできるものではありませんね。こうして草場さんは実際には70年からギャモンをご存知であったにも関わらず、実際にコンスタントにプレーするようになったのは、しばらく後の時代になります。70年というのは昭和45年のことです。大阪で万博が開催された年で、けっこう昔のことですね。日本の高度成長の真っ只中のことです。ギャモンというゲームも、その高度成長の波に乗って普及してきたということになるのです。(続く)


その2

 玩具店のテンヨーがギャモンボードを発売(1973年)してギャモンを普及させ始めてから10年、日本では初めてといっていいギャモンクラブが誕生した。1984年のこと。バックギャモン・プレーヤーズ・クラブ(通称BPC)という組織である。。主催は「都政新聞社」という業界紙の社長の2代目、田中一幸さん。新橋に父親の代から自社ビルを持っていて、そのワンフロアーを、ギャモンプレーヤーのために解放したものだった。
「元々彼自身も麻雀が大好きな人で、ギャモンを覚えてからは急速に腕を上げていましたね。そうすると、月に1回のテンヨーの楽しむ会だけでは足りなくなる。それに彼は“マホ逃げ”という戦略を考え出したことで、自分は誰よりも強いのだと思い込んでもいたわけですよ。それに経済的にも余裕があった。だから自分がギャモンクラブを主宰しようと思い始めたわけですね」
 と当時を知る人はいうのだ。
 マホ逃げというのは、魔法のように逃げて勝ってしまうという意味らしい。
「大体当時は、相手のゴールデンポイントの5pにアンカーを作って、しかも自分のインナーの5pもメイクしたならば、例え相手のアンカーが全部13pに逃げ切ったとしても、絶対に負けるわけがないと誰もが思い込んでいたし、それだけでダブルを打ったものでした。ギャモンというゲームは常にゴチャゴチャするもので、あっさり逃げ切って勝つなどということはあり得ないと誰もが思っていたからですよ」
 というのである。つまりそうした若干劣勢なポジションかが打たれたダブルを、田中はそれを4倍でテイクするというビーバーテイクしていたものらしい。ところが誰も田中のこのテイクを認めてはいなかったのだが、実際にはテイクしたそのポジションから、半分以上は勝ちきっていたというのだ。なるほど、ノーダブル、ビーバーのポジションであればそうなる。
「テンヨーのギャモン普及といっても、それは月に1回だけ集まって、しかもキューブは行って来ての4倍まで。それに普段は限られたメンバー同士の和気あいあいとした楽しいギャモン。それじゃいつまでたってもちゃんとしたプレーヤーにはなれない。社会人が毎日好きな時間に集まってプレーする場所がどうしても必要だと、彼は考えたわけです」
 と当時を知る人はいう。相手を選ばずに誰とでもプレーするというならば、基本はマネーゲームになるし、複数が一緒に楽しむのであれば、それはマネーシュエット。玩具店のテンヨーとしては少ないながらも掛け金が発生するゲーム方法は公然とは普及できない中で、田中はマネーやシュエットを基本としたクラブをつくったわけだ。
 こうしてBPCがスタートして、青山学院大学などの新卒者からギャモン好きなものを採用したり、なお現在でもギャモンのプレーヤーとして活躍している久永、藤田、林、表寺ら当時20代歳の彼らをスタッフに採用した。相当な出資だったようである。法政出身の田中が、青学の推理小説研究会に顔を出し、そこにギャモン好きなメンバーが集まっていたというのだ。
 ルームはカウンター式のカフェバーのようでもあり、人を集めて講習会ができるようなスペースでもあった。
 立ち上がったBPCの大きな仕事は、「バックギャモマガジン」の年に1回の発行と、八重洲の富士屋ホテルでの年に1回のトーナメントの開催だった。小佐野賢治がオーナーだったホテルである。会員も増やしていった。
「確かに平日の昼間から学生を中心にサロンのようにギャモンをしに人が集まっていましたねえ。特に席料を徴収するというわけでもなく、まあフリーの麻雀荘が昼間もずっと営業しているように、会員制ではあったものの、フリーギャモンクラブが誕生したわけですよ」
 85年8月に開催されたBPCの第1回目の大会は、優勝賞品にカローラを用意し、さらにラスベガスの大会へ派遣。賞品総額は500万円という大賑わいの大会だった。久永が大会運営をしていた。
「結局優勝したのは、その大会のために来日したカリリ・ボナーという外人さんでした。しかし彼は実はインチキサイコロの名手で、つまらない人間に優勝をさらわれたものだと今になれば思うのですが」
 当時22歳のそのアメリカから来た若者が優勝した。準優勝は嶋田誠さんだった。32人のトーナメントが組まれ、決勝は11ポイントマッチだった。
 この頃は大阪でもビックトーナメントが解されている。84年、85年暮れにそれぞれトヨタが協賛して「カリーナカップ」が阪神ホテルで開催された。84年は倉谷さんが優勝し、85年は嶋田友博さんが優勝した。特に85年の大会は夕刊紙の「日刊ゲンダイ」が協賛し、見開きで大会の様子を報じていた。また三楽オーシャンウイスキーが、高給ウイスキーのポスターに、インテリアとしてギャモンボードを使っていたのもこの頃である。また全国各地でサークルも盛んになって、札幌、帯広、山形、船橋、小岩、広島などでも大会が開催されている。また学生サークルも盛んで、82年の早稲田祭では、早稲田、中央、東大、慶応、成城の5大学でギャモンの対抗戦も行われていた。
 さてBPCの大会は、その後第3回まで開催されて、囲碁の上村さん、鈴木さんがその後には優勝している。
(参照・第一回 大会    優勝 カリリボナー 準優勝 島田誠
     第二回大会    優勝 鈴木      準優勝 モネ
     第三回大会    優勝 島田誠
     第四回大会    優勝 上村邦夫    準優勝 島田誠)
 ただいかんせん、大会にしても通常のクラブの運営にしても、それがいつも田中個人の持ち出しだったことが、このクラブが長続きしなかった理由だった。後に事務所は新橋から田町、新宿と移転し、新聞社そのものの経営が傾くと同時に、クラブも自然消滅になった。また刊行が予定されていたバックギャモマガジンも創刊号は出版されたものの、第2号は発行されなかった。会員としてはそれも期待はずれでもあった。ただ当時20歳代だった学生や卒業生は、現在40歳代になったが、このクラブ出身者は今なお現役の主力プレーヤーとしてギャモン界に残っているということは、確かなことである。箱は消えてしまったが人は残ったという意味で、田中は一つの熱い集団を作ったことは間違いのないことである。



ギャモンが輝かしかった頃  その3    
 
嶋田誠51歳。ギャモンの歴史を語る上で、欠かすことのできない現役プレーヤーである。国内のギャモントーナメントの優勝賞品で、自家用車を持って帰った男。過去の日本選手権で最多の3回優勝した男。BPCで4回開催された大会で3回決勝戦に進み、1度の優勝を記録した男。そのどれもが嶋田のことである。彼が日本選手権に優勝したのは、1980年と翌年の81年の連続優勝。その80年の第10回の記念大会の優勝賞品が、自家用車だった。プレーボーイクラブも協賛していたその記念大会は、当時スズキから発売して間もないアルトという新車が提供されていた。それを彼は持って帰った。
「確かにクルマはいただきました。でも当時の私は運転免許も持っていない頃で、けっきょく、そのクルマ(定価49万円相当)をテンヨーの方に買い取って頂いたという経緯で、30万円ほどの現金を賞金として受け取ったわけです」
 と嶋田は今になってこのからくりを笑い話のように話すのだ。
 そしてそれから20年後、2002年の日本選手権でも、彼は20年ぶりにギャモン界に復帰して見事に優勝を飾って、今年の夏のモンテカルロの世界選手権に日本代表として派遣されることになっている。20年前の連続優勝のときに
「1週間断食して出目に集中していた」
 そして20年ぶりに復帰したときに
「シーラカンスは生きていた」
 と現役プレーヤーであるにも関わらず、すでに伝説があるのも、嶋田だけといってもいい。嶋田にギャモンを教えられた後輩も何人もいる。前回紹介したBPC(バックギャモンプレーヤーズクラブ)の連中ももちろん、現在ではロンドンに在住で海外のギャモントーナメントで活躍している篠さんも、嶋田と同世代であり、嶋田の教え子だといってもいい。嶋田のギャモンスタートももちろん早かった。 


 
 ちょうど第1回の日本選手権が開催(1974年)された頃に、玩具店のテンヨーがギャモンボードを国内販売を開始した頃に、彼も「王様のアイデア」の店頭でこのゲームに出会った。
「当時は“禁断のゲーム”なんていうタイトルがついて、ギャモンボードが販売されていましたね。まあ一度覚えたら辞められないほど熱中するというわけでしょうか」
 と嶋田はいうのだ。
 彼は子供の頃から将棋好きだった。それが講じて、高校生の頃のプロの将棋指しを目指して、その登竜門の奨励会の試験を受けたことがある。一緒に受験した友人はその試験に合格して、今でもプロ棋士として現役だというのだ。しかし嶋田は残念ながら不合格になってしまった。天才棋士の羽生世代は、小学生の時にこの奨励会試験に合格していることを思えば、高校生で受験はすでに遅かったということになるのだろうか。残念なことだ。
 その後まもなく出会ったのが、バックギャモンだということになる。その面白さに取り付かれる。もちろんゲーム感覚は、普通の人よりも秀でていることに間違いはない。1台のボードを購入して、そこに添付されている案内に従って、月に1回のギャモンを楽しむ会に出席して仲間と出会うことになる。
 そこで知り合った仲間が、1976年に同じように日本選手権で優勝している白石雅文や、在日外人で日本語も流暢なデビッドフォックス(彼も1978年の日本選手権に優勝している)や、日野優だった。楽しむ会に参加してまもなく、楽しむだけではなくて、トーナメントに勝つことを目標にした。ちなみにデビッドフォックスはその後大麻取締法違反などで、国外追放となってしまったらしい。
「白石さんや、日野さんたちとは、もう連日のようにあって、マネーゲームをしたり、ポジションの研究をしたり。選手権も第1回大会の翌年からもう参加していましたねえ」
 そして80年、81年と連続優勝をする。プロとしての将棋の夢が絶たれた後に、彼はギャモンに同じ夢を見出したのである。とにかくこの驚異的な連続優勝で、嶋田は国内のギャモン会の頂点に立った。テンヨーが発行していた会報への技術的な戦略は、そのほとんどを彼が執筆している。ギャモンの技術書を出版していたテンヨーでは、加藤英夫が海外の技術書を翻訳して紹介していたのに対して、実戦から自分で研究したポジションの技術的な解釈は嶋田が担当していたようなものだった。なお加藤も1979年の選手権に優勝している。
  実は嶋田は、82年の大会でも決勝戦まで勝ち進んでいた。もしこの大会も勝ちきれば、3連覇をしたことになる。しかしギャモンの神様は普遍性を好んだのかもしれない。決勝の相手、清水栄司と記録に残るこの人が、82年には優勝した。
「この年は優勝者にラスベガスの大会に派遣するという権利が付いていました。しかし優勝した清水さんは会社を休めないといっていたのです。ならば準優勝のソニーのオーディオ賞品と、そのラスベガスへの権利を交換しようということになって、けっきょく私がラスベガスにいかせてもらうことになりました」
 このラスベガスの大会参加は、彼にとって2年連続のことになった。
<前年は4人のプレーヤーを破って賞金830ドルを獲得。しかし今年は残念ながら2ラウンド目で敗退>
 と当時のテンヨー発行の会報には書かれている。
 この頃は国内でもギャモンブームの頃だった。全国の大学のサークルでもギャモンが盛んになっていた。東大の学園祭でギャモンサークルのイベントが開かれた。その講師役に嶋田も協力した。この東大ギャモンサークルの出身者が、高橋欽也であり、表、久永、西川喜紀と続き、まさに嶋田ギャモン学校の教え子たちだといってもいい。
 そのように嶋田の次の世代がギャモンを始めた頃、彼は結婚してギャモンを離れることになった。84年のときである。先の伝説が始まったのはこのときからである。同じ頃ギャモンを始めた篠さんは、海外に仕事の拠点を移してギャモン三昧の生活が始まった。人生はそれぞれである。
 こうしてこの後15年間は、頂点を極めてしまった男の燃え尽き症候群といっていいのだろうか、彼はギャモン界から離れた。
 戻ってきたのは15年後である。
「娘が高校生になって、パソコンを接続したいとなったわけですよ。慣れない私がいろいろ操作しましたが、セッティングが終わって、さて自分でも遊んでみようかと思ったときに、インターネットにギャモンのサイトがあることを知りました。ちょうど1年前、昨年の6月の頃でしたね」
 これが復帰のきっかけになった。パソコン通信というのは、実に便利なものなのである。同じように、白石も2002年の選手権に参加した。ギャモンを離れていた人が、自宅で暇な時間を通じてギャモンに参加できる機会が作られたことで、また大会に出かけるようになったのである。それにここ数年でギャモンも著しく進歩した。また楽しむ会が主流であった過去の国内ギャモン事情も一変して、世界標準に合わせて、プレーヤーのレベルに応じたクラス分けをして大会を運営するようになった。かつて将棋のプロを目指した嶋田にとっては、15年遅れて、日本のギャモン事情がようやく彼の望むレベルに追いついてきたといってもいいくらいなのである。
 嶋田が15年ぶりに戻ってきたときに
「過去の古いギャモンではもう勝てない」
 と言い切っていた人もいた。しかし意に反して嶋田は伝統の日本選手権で優勝してみせた。決勝の相手は永井誠一で、彼もまがこの決勝を勝つことで、3度目の選手権制覇がかかっていた。勝利の女神は、少し先輩の嶋田に微笑んだということである。
 ゲームの戦略は、コンピュータの普及によって、年々少しずつは進歩していくであろう。そうしたなかでプレーヤーに必要なことは、その進化した戦略をどう理解するのかということにある。仮に嶋田が15年前の戦略しか持ち合わせていなかったとしても、わずか数ヶ月の間で、進化した戦略を理解しきれば、15年間のブランクというものは、何の意味も持たないことになる。それを彼はまさに実践して見せたのである。景山のケーススタディやきんちゃんの勉強室に参加してきた嶋田にとって、ブランクがあったのは自分ではなくて、時代の方だったといわんばかりなのだ。
 長い人生は紆余曲折である。しかし一つの趣味を持ち続けることで、時代の大きな変化が思わぬ楽しみを再び作り出してくれることもあるというわけなのだ。

ギャモンが輝かしかった頃 その4

一般的にギャモンや麻雀は知っている仲間どうして楽しむことが多いもの。ところが中には、ストリートギャモンというか、他流試合といってもいいのだが、初対面の相手とも、何も臆することなくギャモンをする場合もある。
 久永政秀。彼の場合は最も多くのストリートギャモンもこれまで行ってきた人でもある。東京在住の彼が、ある場合には六本木の外人バーで初対面の外人相手にプレーをしたり、また名古屋に数ヶ月滞在したかと思うと、その次には大阪に1年以上過ごした。もちろんいずれもギャモン三昧の生活である。そして今は東京の木曜例会の幹事になっているのだ。
 そしてもう一つの例え話。人生でギャモンにさえ出会わなければ、多分学者として業績を残せただろう人や、ある場合にはノーベル賞も取れたかも知れない人材が、実は世界のギャモン界には実に多いものだ。キットウールジーしかり、ポールマグリエルしかり。もちろん彼らは今でも優秀な数学者でもあるのだが、しかしギャモンにさえ出会わなければさらに素晴らしかったともいえるし、あるいはまた知り合ったからこそ、さらに良かったともいえる。ただ間違いないのは、有り余っている才能のこのゲームに生かしているということだ。それにまた、彼らも同じようにギャモン三昧の生活の過去もあったし、ストリートで生活していたこともあった。いいたいことは久永も彼らと同じような道を歩いてきたということである。
 彼がギャモンを始めたのは学生時代。東京大学のギャモンクラブの一員に名を連ねたように、大学1年のとき(1979年)に、学園祭のイベントに、島田誠らが講師としてギャモンを普及、指導していたときに、たまたま通りかかってこのゲームを知ることになった。
「正確な年月日をいえば、大学2年になろうとした春先に、ギャモン漬けの生活に入っていったわけですよ。実は大学1年のときに、僕は数学を極めようと思ったわけですが、そうするには自分に才能がないことがわかった。それで大学生活もつまらなくなって、覚えたてのギャモンをすることが、とても楽しく思えたわけですよね」
 と彼はいう。
 実は彼は高校時代、その創立100年にもなる進学高校の創立以来の秀才といわれていたそうなのだが、それを持ってしてもなぜだが大学生活1年にして挫折してしまうのだ。そしてギャモンを教えられた相手の島田と1000ゲームの申しあいをすることになった。
「当時嶋田さんもまだ独身で、蒲田に住んでいましたよ。そこに夜になると出かけていく。朝までギャモンやれば、まあ100ゲームくらいはできますよね。1000ゲームの申し合いといっても、まあ実際には1週間くらいの期間で終わってしまいましたが」
 彼の記憶によれば、最初の500ゲームまではイーブンだったそうだが、後半には勝ち越したように覚えている。その島田誠という人は、前回に紹介したが、80年と81年に2年連続して日本選手権を連覇し2002年に3度目の優勝をした人になる。
「当時の仲間は、斉藤、白石、道下、坂口、田中さんなどですよ。そのほか遠山さんという人が経営していた渋谷のメンバーズクラブ1999でもギャモンはできたし、六本木ではチャールストン&サン、リトルスターという外人クラブや、24時間喫茶のマジソンなどでギャモンはできました」
 70年代の中ごろに、六本木のプレーボーイクラブで始まったギャモンは、80年頃には他の多くの店にも普及していたということだ。
 彼がリトルスターでプレーしていた相手の一人に、香港在住のアンドレ・ホフマンがいた。実はこの人は現在でも香港でギャモンを続けている一人である。数年前の香港の大会では、決勝でマグリエルと対戦して優勝した人でもある。貿易関係の仕事をしていた彼は、よく東京に滞在していることもあったらしい。
「私が彼の宿泊しているホテルにいって、ギャモンをやろうというわけですよ。まあ経済的にゆとりのある人ですから、1点5000円のマネーゲームも引き受けていたわけです。あの男は相当なスチーマーで、負けが込んでくると顔が真っ赤になる。まさにゆでタコ。それに下品な4文字単語も連発する。あるとき最悪の目の54を振って、何度もプレーし直した。ところがそのうちに“何だ、フルプラができるじゃないの”と言い出す。できるわけないですよ。だから何度もやり直しているわけだ。つまり最初のポジションが分からなくなって、無意識に自分の都合のいいようにしてしまっているわけ。だから私はね“じゃ、今は認めるが、俺は二度と君とはギャモンをしない”というと、ゴメンネという。まあ本来は気の弱いいいやつなんですよ。その頃の私は、財布の中にはギャモン資金として、5万円と$500をいつも持っていましたね」
 と笑うのだ。
 仲間内では“久永理論”という定石があった時代もあったらしい。かいつまんで言えば、序盤に65など大きな目を振った時には、そのときからピップカウントを考慮に入れてプレーをしましょうという、今では当たり前の考え方になる。ところが当時は、バックゲームをするのが上手なプレーヤーだというように、勘違いもまかり通っていた時代。序盤からピップ数を計算に入れたゲーム戦略は無意味とされていたのだ。彼のプレーは、当時の強豪といわれる人に、違和感を持たれていたこともあったようだ。
 そうこうして1年程が過ぎる。彼はしばらく名古屋にいくことになる。
「まあ友人(女性)関係でちょっとトラブルがあって、東京にいたくないときがあったわけですよ。それで浜松に知り合いがいた関係で、ギャモン熱が少し高くなっていた名古屋に滞在してみようかと。で実際にいってみると、名古屋は東京よりずっと住みやすい。なんと言っても、朝まで滞在するサウナが実にきれいに整っていました。当時の東京の深夜サウナなど、酔っ払いだの筋者だのが入り乱れて、深夜営業のサウナは汚い店だということが相場になっていましたからねえ。それに名古屋のメインストリートは実に道幅が広くてゆったりしているのも気に入ったし、○○だミャーという名古屋弁も、心地言いし実に人柄もいい」
 というわけで、コーヒーショップ石橋と今でも名古屋のギャモン会場になっているEXITで、彼は東京と同じようにギャモンの生活が始まったのだ。長谷川俊介は当時からの仲間だし、他に錦見、磯部、東、安藤など学生でありながら妙に高いレートでギャモンをしていた。
 こうした生活が続いた後に、また彼は東京に戻ってくる。BPC(バックギャモン・プレやーズクラブ)の立ち上げに協力することになったのだ。このクラブが主催した85年夏の第1回大会は、彼がディレクターとなった。このクラブは当初の2年ほどは勢いがよかった。
 その後今度は大阪にいく。
「知り合いが大阪で塾を立ち上げることになって、その手伝いに大阪に呼ばれたわけですよ。そこで今度は大阪のメンバーとギャモン三昧になった」
 橋本圭一は、当時大阪にデンバーという店を持っていて、そこがギャモン連中の溜まり場になっていた。河野、倉谷、島田友博、大和、梅やん、沼沢、西沢など、当時からの大阪のメンバーも長い。
 ギャモンの生活を続けながらも、彼は自分で進学塾を始めることになった。経営は順調になった。ところがまた、東京から仕事の誘いがくる。
 東京のギャモン仲間の遠山さんが、ワイン学校を開店することになって、今度はそれに協力することになる。そしてその学校が軌道に乗ると、次はコンピュータのシステム会社でシステム作りに参加することになる。
「私が真面目にサラリーマン始めたのは、そのコンピュータのシステム会社に入ったときからですよ。27歳のときです。そこには2年ほどいましたか。実はこのときにコンピュータの初心者だった私が、一応コンピュータの基本を覚えた。それ以降現在までいろいろ仕事はしていますが、基本的にはコンピュータ関連になりますね」
 しかしそれ以降もギャンブルは続く。友人の会社の負債に名を連ねたために、1200万円の借金を負う羽目になったことがあった。その負債は結局麻雀でほとんど取り返したこともある。あるいは南米のコロンビアと取り引きのある会社を手伝っていたときには、実際に数ヶ月はコロンビアに滞在して、土産にピラニアの剥製を持ってきて、友人に“コロンビアの運び屋”と呼ばれていたときもあった。また学生時代の友人の紹介で厚生省のコンピュータシステム作りに協力していたときには、ネクタイをしめて毎朝大手町に出勤し、霞ヶ関で仕事の指示を受けていたときもあった。
 こうしてしばらくギャモンから離れていた時代もあったのだが、久しぶりに大会に参加したのは、5年ほど前である。今の赤阪の例会が始まった頃に王位戦に出場して決勝で那須に敗れるのだが、準優勝する。
「結局私は、マネーゲームなら自信があるのだが、ポイントマッチとなるとどうも苦手であったこと。それとコンピュータのシステム作りは、週末に関係なく仕事が続いて、2日間続けて休暇が取れることが少なかったことで、参加できる回数が少なかったわけなんですよ」
 というのだ。そうはいうものの、彼も18歳で始めたギャモンに、すでに25年関わってきた。そして今はやはり知り合いの紹介で、新宿の柏木マンションのフリースペースの有効活用を任された。現時点ではギャモンを中心として連日午後からゲーム会場としての使用を行っている。三度というか四度くらいして、またギャモンに深く関わることになった。常に多くの仲間がいてゲームができることが、そう簡単に一度知ったギャモンから遠ざかることができない理由のようである。

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