川越高校・旧制中学山岳部90年史      トップへ


 記念誌の編集に当たって

 一九一九年(大正八年)に設立された旧制中学・川越高校山岳部の歴史、九十年分をまとめるというのは、壮大な記録の編集になると思われます。年月は昭和史に留まらず、大正デモクラシーの時代から、二・二六、五・一五事件の時代を経て、日中戦争、第二次大戦、戦後の復興、高度経済成長、バブル絶頂からバブル崩壊の平成の現在までを辿ることになるわけです。その間、戦争中の一時期こそは、学校も閉鎖され部活も禁止になっていますが、そのわずかな期間を挟んでも、部員在学中には大きな事故もなく、山岳部は延々と続いてきました。考えてみれば、学年四百人の中で、平均六人の部員が在籍しているとすれば、百年程度の歴史では部員がゼロになってしまう可能性はほとんどないものですが、しかし一世紀にも及ぶ時代の変化の中で、堅実にこの部活が続いてきたということは、登山という行為は永遠不滅だと言い切ることもできるわけです。
 幸いなことに、山岳部は登山の記録を報告するという習慣があって、多くの記録が鮮明に残っています。現在まで続く部報「わんだらあ」は、昭和三十年代に創刊され、それだけ見ても、この五十年間の部活の記録が手に取るように分かるというのは、他の部活動には見られない充実振りであります。
 山岳部OBの中には、その後ヒマラヤ遠征を成功させた部員もいます。国内外で多くの登攀をした者もいます。もちろん在学当時だけ登山をしていたが、それ以降は一切の登山から離れた者もいます。そのすべてを含んでも、在学中に山岳部で活動したことは、その後の人生を大きく左右し、大きなプラスになったものだと思われるのです。
 さらに言えば、山岳部OBの活動から、日本の近代登山史すべてを眺めて、解釈することもできるだろうと思われるわけです。それほどの可能性と素養を持ったものが、川高山岳部に在籍していたということになるわけです。
 できることならば、当時の記録だけに留まらず、健在でおられるOBは、現在の視点から当時を眺めて、改めてレポートを書いていただけることを望む次第です。

 さらにまた、年史編集作成において、寄付金をいただけるものならありがたい次第です。
「みずほ銀行・川越支店・普通・1041833・川越高校山岳部OB会」
 一口一万円からになっております。             2006・11

 
 旧制川越中学の登山部は、一九一九年(大正8年)に創設され、その第一回の登山は、7月23日から2泊した富士登山だった。
「このとき、校長ほか5名の引率教師のもと、生徒25名は制服制帽を着用して登山に臨んだ」
 と、1999年に旧制川越中学・高校の創立百週年記念誌「くすの木」に報告されている。大正8年の学校行事の中では、登山部の創設と、第一回の富士登山がもっとも大きなイベントだったようだ。登山の流行を追うのではなくて、「自然の美を汚さず、雄偉剛健の気を養い、学術の研究をする」という設立目的だったようだ。目的の富士山については「山と民族の清浄を代表した富士山」ということで、もちろん誰にも異論はないところ。携行品は冬シャツ、金剛杖、着ござ(雨具代わり)、ワラジなどだった。
 7月23日の朝8時に川越鉄道で国分寺に出て、中央線の猿橋で下車して、大月経由で富士吉田まで徒歩で辿り着く。山麓の宿に到着したのは夜の9時。
 翌日は3時に起床して、浅間神社に参拝の後に出発。8合目まで登って宿泊。
 3日目は、ご来光を拝んで登頂。下山は須走口へ下り、そのまま御殿場まで徒歩。川越に帰郷したのは夜の9時だった。こうして旧制中学恒例の夏の催し物が登山となっていった。

 当時旧制中学では学友会が組織されていて、現在の生徒会がそれに当たるだろう。年に1回発行される学友会「会報」は充実していて、200ページを越える冊子となった年もあった。そこに部活動の記録も詳細に掲載されている。この最初の富士登山の報告がある大正9年発行冊子を見てみると、学友会加盟の部活はもちろんすべてに渡って報告があるのだが、その数は総数で5クラブでしかない。武道部、徒歩部(陸上競技)、水泳部、文芸部、それに登山部ですべてである。それはつまり、創設されたばかりではあるが、登山部という部活は、ある意味で旧制中学中でも中心的存在で、活動も充実していたのではないかと思われる。当初は年間にわずかに1回、それも夏休み期間中だけの登山だったとは言われるが、こうした部活の実態は、恐らくどの部活でも似たり寄ったりではなかったのか。しかもこの年代には、他に野球部、庭球部、相撲部の3部活は存在していたようなのだが、それらはこの年に「めだった活躍がないため、活動報告の提出がなかった」と、この年の会報には記載されている。
登山部の創設とその後の活動は、旧制中学の野外活動の中でも実に大きな意味があったと思わざるを得ない。
 当時の報告から転載していく(旧仮名遣いなどは改めた)。

一九一九年(大正8年) 富士登山 奥田武甲(大正10年・旧制中学卒

七月二十三日 川越〜(富士)吉田
 近年、登山は心身の修養として、たいへん盛んになってきたと思われる。ところがその多くは、わが国の渓谷を汚したり、不慮の災いに遭遇する者が多くなっている。
本校登山部は、自然の美を汚さず、雄偉剛健の気を養おうという目的で新設され、また学術の研究を目的ともされている。
 その第一回目の登山として、大和民族の清浄を代表した富士山に登ることになった。一行は校長、金子、鍋島、能代、西村、渚の諸先生と生徒二十五名からの編成となり、服装は制服、制帽。携帯品は冬シャツ、金剛杖、ゴザ、草鞋、手拭、水筒、懐中用楽、案内書等である。
 七月二十三日午前八時十八分、川越駅出発し、国分寺駅で中央線に乗り換えた。車内には、すでに先達と襟に書かれた人に引き連れられた団体が、白衣を着て腰に振鈴をつけて大勢乗車していた。恐らく皆富士登山へ向かうものと思われる。彼らは登山談義に花を咲かせていた。そのうちに汽車は多摩川を渡り八王子駅を過ぎ、浅川駅では高尾山登山の大体が下車していった。さらに小仏峠を始めとして大小十あまりの隧道を通過し、猿橋駅に着いた。ここで我々は下車する。駅から十町余りの、日本三奇橋の一である猿橋を見学する。
 橋は全部木造で長さ十間、幅二間くらいで、見渡せば数十丈の断崖絶壁を切り開いて、桂川の渓流に掛けられていた。両岸の岩石は富士の溶岩で、距離が富士から実に十里に達しているのだが、火山の爆発で溶岩はここにも流れ着いたということだろう。下流には鉄道の大鉄橋が掛けられてあって気分は削がれるが、文明の橋と昔の橋とのよい対称である。橋の際の神社には猿の像が安置されてあった。
 見学が終わると大月まで徒歩で移動する。桂川の岸を通り、遠く東京市に送電する桂川発電所の大鉄管の大車輪が回転している。その大きさには驚かされる。大月に到着したのは、午後一時頃であった。
 大月には東京、関西、長野地方からの登山者が多い。誰もが富士山を目指している。私たちは混雑のために馬車に乗れず、吉田まで六里の道を歩くことになった。道の右側は奇石が多く、桂川で採取した石を庭石にするためか、石を巻き上げていた。田倉、四日市場の村家では、甲斐絹を織る音が聞こえ、また道路の両側は豊富な清流を利用して、各家で小さな水車を運転させている。二里半ほどで谷村町に着いた。谷村は郡内地方第一の都会で、戸数一千。南都留群の群衛があり、甲斐絹の集散地である。
 ここで校長先生、熊代先生と僕ら八、九人は一台の馬車に乗った。小沼辺りにくると、富士の毅然とした山容が望遠できる。時刻は夕方近くなった。暮もやの富士を眺めていると、薄藍色の天にそっと月が出たが、間もなく黒雲に被われた。稲田には無数の蛍が静かに飛んでいた。吉田に到着したのは午後八時になっていた。しかも本日の宿泊予定であった芙蓉閣には断られ、町端の小さな旅館に九時頃着いた。谷村町で別れた徒歩隊は二時間も前に到着していたとう。金剛杖、絵葉書を宿で買い、雄大な富士の裾野で十一時一同は夢を結んだ。

七月二十四日 (富士)吉田〜富士山八合目
三時起床。「六根清浄、御山快晴」という勇ましい行者の声と共に、腰にぶら下げた振鈴をチリンチリンと響かせて、大勢が通り過ぎていく。
 五時出発。先ず富士浅間神社に参詣して登山無事を祈り、金鳥居を潜って歩き始める。神社の裏には馬車の待合所があった。この吉田の北口登山口は最も古くから開けた登山道で、行者を始めとする登山客がとても多い。富士講社はこの口から登ることを正当としているようで、八合目まで四里半ある。
 神社から松林を越え広漠たる原野に出ると、富士が秀麗な容姿を現した。裾野は遠く延びて、壮大な感じがする。一里で中の茶屋につく。ここは馬返しである。古来は馬でここまできて、ここで馬を返したという場所であるが、今では五合目まで乗馬ができるように、道路の開発が進んだらしい。今は名のみとなった。そこから一合目鈴原神社、二合目御室神社に参拝し、杖室で杖印を受け、三合目、四合目を経て四合五勺御座石神社に参拝し、五合目に着いた。
 ここはいわゆる天地の境である。十時昼食をする。一合目から五合目までは森林帯で、落葉松、松、栂、樅が鬱蒼として、幾百年を経過しているか知れない。三十分の休憩の後出発した。
 森林帯を過ぎ六合目までは、落葉松がところどころにあるが、六合目以上は潅木帯、草木帯で、潅木帯には石楠花が全盛を極めていた。草木帯にはフジハタザヲ、ツカザクラオンタデ、イワヒゲ、オトコヨモギなどがある。金剛杖を頼りにして登っていくと、光景は無趣味な焼山と一変した。道路にはゴロゴロと焼石があって、小さい石塊を強く踏むと、簡単に崩れた。右側は絶壁となって、吹き落とされたら命がないという危険な場所である。
この辺りでいきなり天候が急変してきた。麓から霧が非常な勢いで上ってきた。夏服では寒い。すると間もなく大きなヒョウが急に降ってきて、気候は十二月頃となった。ようやくのことで六合五勺の石室に逃げ込んだ。
 石室を出ると雨に濡れた険しい道は滑る。鎖につかまりながら八合目に到着した。八合目には石室が三つある。一行は和光ホテルという石室に宿泊した。中は三十畳敷きくらいで、中央には一間四方のこたつが掘ってあり、出入り口は二つあって周囲は石で囲まれている。左側は畳みの縁が見えないほど布団が敷き詰められている。着のみ着のままで一枚に三人くらいが寝る。
 そのうちに食事となったが、飯、味噌汁のまずいのと、食器の不潔なのとでとても食べられない。夏期だけの郵便局に絵葉書を入れ、こたつを囲んで雑談にふけると、こたつから立ち上る濛々たる薪の炎がしきりに目を刺激して、開いていることができない。室外に逃げ出すと、天には星斗が鮮やかで、岩頭に立って俯瞰すれば、登山口の吉田の宿に点々と灯が瞬いていた。山中湖、河口湖、西湖、精進湖などは紺碧色に沈んでいる。南は相模の山脈を隔てて大島の三原山に対し、熱海、伊豆の東海岸、江ノ島が望める。近くは箱根の湖水、金時山。また東は大山、遠くは東京湾、筑波峰。北は甲信越の浅間、日光の諸山、八ヶ岳を望み、山河脈々としていた。天地は静寂である。高山は深夜の大沈黙となり、その光景は深く心に刻まれ忘れることができない。小屋に入って寝付く。

七月二十五日 富士八合目〜頂上〜須走り下山〜川越
 三時頃驚いて飛び起きた。頂上は風雨のために、四時頃まで待ってから登り始める。六根清浄の行者の声と、振鈴の音が沈々たる山上の夜気を震わせている。それは行者が四合目、五合目から頂上に登ってくる行列だ。空気は重く沈んで、冬シャツを着た肌に冷え冷えと迫ってきて、金剛杖を握る手もかじかむ。
「ご来光を拝むのは、この辺がよいのです」
 と親切に教えてくれる者があった。ござを頭から被って風を避けて、一生懸命に東の空を見つめていた。眼下の山川は綿を敷いたように、雲海で一帯は覆われている。その雲海から頂上だけを覗かせている山は、島のようである。横雲の間から、薄光が幾条となく、空天に放射された。御来光である。雲は紫色に染まり、白銀色となり、黄金色となり、真紅の美麗な現象になった。今や雲の下には日輪が六龍に乗って、世界を駆け巡ろうとする道程にあろうと想像される。
 その後、金矢が中空を射るように見えたかと思うと、一大円盤がその旭光を旋転させて、さん然と輝き出した。天の岩戸を開け、荘厳な現象に皆で喝采し、ご来光を迎えた。煌びやかで目が眩み、直視することはできない。この天地の壮観を見ることができたため、勇気百倍で九合目に着いた。ここでは二、三十人の行者が神官と共に何か唱えて太陽を拝んでいた。
 ついに頂上の久須志神社前に出た。祭神は木花夭耶姫尊である。神前に参拝して、金剛杖、扇子等に参拝印を頂く。神側には数戸の石室があって、甘酒、力餅、細工を売っていた。山頂を一周、すなわちお鉢回りには道が二本あって、噴火口の内縁に沿って回るのを内輪回りと称し、噴火口の周囲に切立つ八つの崩頂を伝わり回るのを外輪回りという。絶頂の外輪は周囲がおよそ五十町、その内輪はおよそ三十六町である。その中央部が噴火口であって、およそ十三、四町で、常に千古の雪を貯え、穴から風が吹いてくるのは富士鳴沢といっている。噴火口の周囲には、金明水、山頂第二の高さ海抜三七七三米の白山嶽、雷岩、西安河原、山頂の最高点参七七八米(約三十四町三十九間余り)の剣ヶ峰、奥宮、銀明水、熱気ある荒巻成就岳、伊豆岳、大日岳等がある。一行中十数人の者は内輪回りをやる。
 こうして一万二千四百七十尺の富士山頂に無事登山して、山の霊気に接することができた。八合目まで下って記念写真を写し、東口である須走口から下山に着く。須走口は北口八合目より分かれていって、七合目から砂走りがある。砂走りは砂礫よりなって、一足踏むと二、三間は下るという壮快なるところで、前面の山中湖の美景を眺めつつ、砂煙を立てて下り、一時間くらいで三合目に到着し、石楠花、白樺の潅木の間を下り、二合目で登山成就の焼印をもらい、さらに樹林帯の下を通過して、馬返しにつき宝永年中噴出にかかる砂礫の原野を、一里十二町の間、雨に降られ浅間神社に到着した。
 神社は県神で木花夭耶姫尊を祭り、境内は鬱蒼としている。また当社は元弘法寺浅間と称し、空海上人登山の時、大神を友に勤請したという。鳥居を出れば須走村である。村は駿東郡の北部で、籠坂峠を越え甲州吉田に通じているから、甲駿二州貨物運送の町に当たって人馬の往来が多く、戸数百余戸で市街には米山館甲州屋犬米谷等がある。
 この地は盛夏であっても、正午気温八十五、六度(注・華氏)に達するのは稀だという。ここから自動車馬車が御殿場に通じているが、我々は歩いた。村を離れると四方が開けて野花が咲いている。柴怒田、水土野の村落を過ぎ、二里半で御殿場駅に着く。一時五十九分発の列車に乗り、ついに午後十時川越駅に一行は無事について万歳を三唱して解散した。

 富士登山の所感
1 富士山は霊山であるために、高潔な心を養うことができるばかりではなく、身体を強健にし、また雄大な眺望は精神を清浄にする。
2 富士山は高山であるために、山麓から頂上に至る間で見る植物分布の状態は、熱帯地方から寒帯地方に移るに従って、緯度に準じて植物分布の模様に変化を見ると、第一森林帯、第二潅木帯、第三草木帯、第四地衣帯と明瞭で、また地層が広いため数量が極めて多く、採取し研究するのに便利である。
3 富士山は富士火山帯脈の中央に巨然として立って、その形状が円錐形で模範的な火山とされ、寄生火山が多く、また溶岩流は世界の模範であるから鉱物学研究にはよい。
4 富士山は麓まで鉄道の便があり、また登山道は大いに改修されて五合目までは乗馬ができ、登山道には困難なところがあるが、一般の人の登山に適している。
 日本はその国土の真中から生に出て、無限の大空に聳えている白雪の富士のごとく、自分の偉大な理想が衆人の眼に映ずるようにしなければならぬ。万山の上に立ち、美しいこと処女のごとく、しかも強く静かに雄大な富士、これは日本の理想であろう。(タゴール)




大正9年 木曾御嶽山 関根勇一

 大正九年七月二十二日、試験が終わって早々、登山部は日本アルプスの最高峰・御嶽山の踏破するために川越を立った。一行は生徒二十五名、先生三人・金子、久保、原口の三先生。他に中島君、都合二十九名。
 五時三十分、川越を出発して国分寺で乗り換え。汽車は富士登山の白衣達で満員。大月で富士行者が皆降りた。富士登山者の多いには驚いた。甲府盆地に入ると急に景色が広々となった。さらに韮崎の眺望は雄大で、高原気分が深くなった。やがて諏訪湖が見え、岡谷から天竜川に沿って走り、塩尻に着いた。さらに汽車は木曾谷に入り、鳥居トンネルを抜ける。(木曾)福島も近くなった。五時四五分、時計の短針が一周するまで汽車に揺られたわけだ。この晩、私たちは岩屋旅館に泊まった。裏には木曽川が流れ、隣部屋には行者が泊まっていた。宿で金剛杖、草鞋を求めて、明日の用意を整えた。ある者は街へと見物に出たりした。ちょうどお祭りで通りは賑やかだった。蚊帳も張らずに寝た。

第二日
 空には一点の雲も無かった。絶好の登山日和である。五時、チリンチリンと勇ましい同宿の行者と一緒に、宿を出た。
 木曽川に架かる橋を左へ曲がった。黒沢への道は、御影堂から王滝との道を別れて右の山の中へ入っていった。黒沢への道を入る。かなり急登りであったが、上には茶屋があった。そこから下りとなる。行者とすれ違うと「ご苦労様」「お早う」の挨拶を交換した。
 足はまだ疲れない。気持ちよく進んだ。道は合戸峠に向かう。この峠の頂上からは御嶽が見えると聞いていた。峠の茶屋の前に出ると「やあー」と叫んだきり、二の句が続けられなかった。目の前には富士に次ぐ高山、木曾の御嶽が一点の雲も帯びずに威風堂々、鎮座しているではないか。白く日光に当たって輝いているのは雪である。千古溶けない万年雪である。
「ああ、山そのものがすでに神である」
 と私は叫んだ。
 そこから黒沢へ下る。福島からここまで二里半ある。ここは王滝川の谷にある部落で、宿屋郵便局などがあった。田の間、家の前などを通っていく。橋を渡ると黒沢口御嶽神社里宮があった。神殿は高壮ではなかった。しばらく行くと道はそろそろ登り気味になり、金文字の石塔があった。松尾滝が見える。ここはもう四合目になっていた。ここまでは楽なものだったが、いきなり急勾配になった。面食らった。
 間もなく辺りは一面の草原となり、御嶽は峠で見たときよりもさらに高く迫って聳えている。その頂は白雲二、三片。悠々としている。遥か前方には五合目の小屋が見える。千本松の原がこれだった。暑い。風はかなり吹いているのにジリジリと暑い。涼しいところで一休みした。御嶽の悠然として迫る態度に、恍惚として我を忘れた。五合目の小屋で腰掛けてサイダーを飲み、この味は忘れられない。
 小屋から少し登ると、乗鞍岳と前方の硫黄岳が、群を抜いて光り輝く白雪を頂いていた。所々に「寒中登山何某」という府があった。木の階段の道を過ぎて、栂、樅の鬱蒼とした森林に入る。熊笹が一面に地を埋めて、潅木帯に入った。道は随分急になって、ときどき休んで英気を養う。行者の
「懺悔、懺悔、六根清浄」
 の声が、チリンチリンと音を交えて聞こえる。潅木帯を過ぎると、火山灰、火山礫の滑りそうな斜面。もう暑くはなかった。上着も五合目で着ていた。けれど喉はからからで、水筒はとっくに空になっている。氷砂糖ももういやだ。早く頂上に着きたい、万年雪を頬張りたい。小屋が目に入って急に元気付いた。大きな岩に行者が立っていて、雪の塊を持っている。
「一口かぶりつきなさい」
 という。その声が神の声に聞こえて、ざくりとばかりに噛み付いた。ああその味は、頭の先から足の先まで染み込んだ。
 これで元気百倍になった。頂上に達せられたのも、この雪の一口にあると思える。ここはもう八合目になっていた。六合目も七合目も気が付かなかった。小屋から少し行くと、脇に万年雪があった。汚れてはいたけど、私たちはむさぼった。
 ゴロゴロした焼石を踏みつけていくと、石碑や像が建ててある。そこに草鞋が沢山捨ててある。腰掛けて休んだが、上はまだ続いている。這松が一面に這っている。見上げる急勾配の上にも小屋がある。呼吸も苦しくなった。這松を越えると、九合目の小屋は半分雲に閉ざされていた。しかしすぐに雲は千切れた。十歩踏み出して、一休する。辛うじて上に登って行く。苦しみと言ったら一通りではない。しかし下界を見ると、私は天上界にいることも分かる。そう思うと、己の貧相な心も雄大になりかかってきた。岩の間からは桔梗も花を覗かせている。愛らしい姿だ。
 周囲の雲が私たちに襲い掛かってきた。振り返ると登ってきたところも見えなくなっている。急に寒くなった。風が吹きつける。高山の霧の恐るべきを聞いていたので、少なからず驚いた。あれが来ないうちにと急いで、やっと九合目の小屋に入った。先に入っていた友はもういなかった。
 霧の合間を見計らって小屋を出た。道は焼石、踏み外すと岩はカラカラ落ちていく。復小屋があったが、ここにも友はもういない。少し行くと平坦になる。前方は下りで、右は盛り上がっている。一団ははたと止まった。先の者はいってしまったし、後からはまだ来ない。
「山に全く経験のない私たちだ。うっかりいって間違っては大変だ」
 それでも岩に土が付いている、左が道らしい。少し行くとまた二つに別れた。気が滅入ってきた。霧は深い。風は吹く。
「よし、試しに呼笛を吹け」
 とピーッとやった。前方から返ってきたようだ。歩き出すと、霧が薄くなってきた。やれやれと思うと、前方が黒い。
「やっ、頂上だ。道を間違えないでよかった」
 黒いものは頂上にある沢山の地蔵様。頂上の祠。下の小屋が眼に入ってきた。頂上の小屋だ。私たちは呼吸の苦しいのを我慢して、もがくように急いだ。上から頑丈な土地の女が、朗らかな声で歌を歌いながら下りてきた。これには度肝を抜かれた。
 やっと頂上の小屋に飛び込んだときは、息絶え絶えになっていた。時計を見ると三時半。早いものは三時に登頂したという。しばらくして剣ヶ峰の頂上へと登った。小屋の脇の石段を登ると剣ヶ峰だった。行者は一心に祝詞を奏していたが、自分は参拝して早々に戻った。最高峰は海抜三〇六三米。一万五千尺。中央が火口丘である。絶頂の郵便局でスタンプをもらい、手紙を出し、小屋で焼印を押してもらった。寒暖計は華氏四十度を示した。福島からここまで八里半。
 下界の霧はまだ晴れていない。風は益々強いが、一旦降ろした腰は容易に立てられなかった。天候は次第に険悪となった。その中に金子先生が登ってこられた。先に来た者は原口先生と一緒に下ることになった。
 重い腰を上げる。帽子を額に縛り付ける。山賊のように頂上から逃げ出した。偉大な自然の前で人間は惨めで、哀れだった。私たちは王滝口へと下るのであった。
 相当下った。足を乗せた石が崩れたりもした。ちょうど登ってきた行者に、
「王滝はじきですか」
 と問うたが、
「まだ三里ある」
 と言われた。雨がポツリポツリと降ってきた。もう黄昏である。いくら行っても同じ野が続いている。先へ行った者は数人である。原口先生は王滝で宿の手配があると、先の後を追った。残された私たち十数人は一団となって歩いた。誰も一言もいわぬ。黙々として進む。もう語る元気はなくなった。日は正に暮れようとしている。雨は降っている。こんなところへ自分だけ残されてはたまらない。忍耐の養成もあるものか。頭の中には王滝しかない。
 そろそろ足元が暗くなった。小さい祠が見える。人里はまだか。その中に一軒の小さい家があった。が王滝まで一里五町と言われたときは、がっかりした。それからときどき出てくる家の前の水で喉を潤した。日は暮れた。雨は降りしきる。後二三町だろうと、また聞いてみるが一里だといわれて、泣きたくなった。S君の五万分の一の地図、O君の懐中電灯で辛うじて進む。時々躓くが痛さは感じない。
「ああ、まだかあ」
 という仲間の悲しい声。止まってしまったら残されるのみ。
 王滝村の上島に着いて、宿に腰を下ろしたのが夜の九時過ぎだった。頂上から五里。行者が、日帰りしたことを誉めてくれたときには嬉しかった。遅れた者も、一時間後に帰ってきた。普通人の二日の行程を一日で走破した。天候も上出来だった。天に感謝せねばならぬ。

第三日 沢辺 浩
 昨夜は雨だったが、今朝は上天気で疲労も忘れてしまった。しかしまだ山道五里が残っていると思うと、辟易した。ゆっくり支度をして七時半に出発した。三年のY君は頭痛がすると、金子先生と後からくる。御嶽に別れるのかと思うと、名残惜しい。信者の鈴の音もなんだか悲しい。
 途中二度休憩して、鞍馬橋に至った。茶屋で休んで奇景に見惚れた。橋は吊橋である。福島はなかなか見えぬ。大道にでると灼熱の暑さになった。谷川の音を聞くと、重い足も忘れて冷水をむさぼった。ようやく福島に着いたのは十二時半になっていた。今日は宿から弁当を取らずに、町の中で食うことにした。予定の二時二十分の汽車で長野に向かう。長い犀川の鉄橋を渡ると長野市に入った。午後六時五十分到着。予定の旅館白木屋で草鞋を脱いだ。
 夕食の後は町にでる。市内のファースト・インプレッションは、清潔なことだった。塵紙一つ落ちていない。有志は明朝早く善光寺を参拝する。

四日目
 午前四時、参拝する者は宿を出た。宿から三町ほど坂を上っていく。宿に戻って朝食後、車中の人になった。中島君とはここで別れた。佐渡に渡る計画らしい。汽車は上田を過ぎ、軽井沢に到着した。一同は下車して旧軽井沢方面に足を向けた。昔は中仙道の要所である。今は避暑客で活気があった。西洋人も四五百人いるという。英字の看板もある。別荘地を回って元の駅前茶屋に戻り、食事をして十二時七分の汽車に乗る。浅間山登山の帰り客で、構内は一杯になっている。客車は満員で立錐の余地もなくなった。次の列車を待つ者もいたが、先生の努力で全員が乗車し、三十分遅れで出発した。横川で少し客は減った。大宮に着いたのは午後四時十八分。川越に五時半に着き、万歳三唱で解散した。


大正10年 戸隠〜白馬岳 吉田司馬之助
 よく博物の時間に、アルプスの話で煙に撒かれて、癪に触っていた。その金子道啓先生から、今年は日本北アルプス踏破というのを聞いて、躍り上がった。参加希望者も非常に多かった。最近は登山熱も盛んになって夏になると皆山に出かける。さも山か海へ行かなければ人間らしくないような世の中となった。包みきれぬ青春の元気発散に、基づくものであろう。今後国家の中堅として活躍すべき前途ある者が、外国の地理に精通するのもいいが、その前に生まれ故郷の山河を知らなければ灯台元暗しとなる。これも青年の元気の試験の一つである。

七月二十二日 戸隠まで
 朝七時の電車で川越を出発、校長、諸先生の見送りを受けて一行四十名は大宮に向かう。八時四十一分の汽車は午後二時半長野駅着。町を上り詰めたところが善光寺。昔は「牛に引かれて善光寺」だったが、今は自動車の後から参る。本堂で休憩した後に戸隠を目指す。
 急坂を行き、湖を越え、神秘的な高原にでた。落葉樹が点在している。軽井沢のよく似ているが、成金の一攫千金に俗化されている軽井沢の比べれば、ここは極楽というべき。馬の背に荷をつけて進んでいくのが、粋だ。日夜黄金崇拝している者には、味わえないことだろう。雑草を分けていくと大鳥居に出た。そして戸隠中社に着いた頃は、日も暮れた。山の夜は静かで雄大だ。神官の家に宿る。大きく二階建てで宿屋兼業。涼しく冬シャツに着替えて寝た。

二十三日 白馬山麓へ
 六時起床だが雨。奥社までの予定を辞めた。鬼無里町へ向かう。赤土でぬかるんでいる。行き交う子供たちは、袴のようなものを着ている。「雪越え」だという。そして「お上がり」という。何かくれるのかと思うが「こんにちは」くらいの意味だ。土地の人の気質だ。
急坂を下っていくと、鬼無里町に着く。家は宮式の造りで、十数軒並んでいる程度だ。ここで食事をする。サイダー一本十八銭という破格の安価に驚く。
しばらく行くと二股にでた。道の方に行くが、数町行った後に、畑の人に間違いの宣告を受け、戻る。増水している川を渡るときに、膝くらいまで水に浸かった。これより柳沢峠に至る四ッ谷街道になった。
 柳沢峠は難所である。川を渡った罰として膝が冷たい。曇り空は雨となり霧が立ち込める。谷も深い。鳥の鳴く声も寂しい。どうにか峠に近い小屋に着き休んでいると、長谷川先生が油紙一枚で上がってこられた。そこから数町下りると、前面に日本アルプスが開けた。白馬の名のごとく白雪を抱いて悠然としている山容が目に映る。下には今夜の宿がある四ッ谷(白馬)が見える。
下りきって白馬館に入る。旅装を解く。どこかの中学生が大町に向かう自動車を待っている。下ってきた彼らは登山に成功したのだろうが、我々はこれからだ。府立第一高女の一行と同宿になった。食事を済ませると明日の注意があった。(白馬)鑓ヶ岳の小屋は二十人以上は宿れぬらしいから、その日に下山すること。強力は二人頼んだから、必需品は強力に持たせるが良いとのこと。金剛杖から金具まで、一切の準備を前の店でする。絵葉書、羊羹、登山餅、缶詰、フォーク。明日の白馬踏破を想像してみた。

二十四日 白馬岳
 今日も雨。九時頃小降りになるのを見計らって出かける。二人の強力を先頭に、ギリシャ古代の武士のような格好で、金剛杖を手に白馬岳に足を向ける。強力は随分重い荷物のようだが「今日は軽い方だ」というには驚いた。お客と一緒の時には、五貫目の荷を背負うという。少し遅くてもいいなら九貫目までは負えるという。
 濃い霧の間から雪が見えた。旅館から半里で二股。白馬の雪は千年溶けぬ。これより北股沢に入る。道幅は三尺ほど。ヒバリの声も聞こえる。山は水に乏しいというが、ここではコップ一つあれば水筒は要らぬ。いくらでも万年雪から水が流れている。
 中山沢を過ぎて猿倉に着く。その小屋で休憩する。白馬館からの弁当を食べる。小屋を出ると恩師の熊谷中学の先生が下ってこられた。生徒を引率されている。
「大雪渓は大分苦しいぞ」
 と教えられる。濃い霧の中に、大雪渓が少しずつ見えてきた。白馬尻小屋は四五十人も宿れるだろうか。ここで防寒の用意をしていく。ああ寒い。
 ついに大雪渓を踏みしめた。川越を立ってから幾度か胸に想像してみた大雪渓は、今目の前にあるではないか。心臓が鳴らずしていられるか。一歩誤れば谷底かも知れない。高低ある雪の波に足をかけていく。雪渓は平坦に見えるが、なかなか急坂である。手を伸ばせば前の雪に手がつく。足は滑る。窪んだところに足を入れて踏ん張る。
 真東を見ると、浅間山が少し低く見えた。その左には戸隠の山が同じ位置に見える。真西には杓子岳の奇岩。いくら歩いても雪渓はなかなか尽きない。足は冷たい。三十里余りの大雪渓を、三時間半もかかってようやく終えた。過ぎて見下ろせば平坦にも見える。そのうち霧も晴れてきた。天は味方してくれたか。パノラマのような大自然。しかしこれより先は一層急である。小雪渓も急で、大雪渓は怖かったがそれ以上だ。
 そこを越えるとお花畑になった。深山キンポーゲ、紀州栂桜、這松が一面にある。緑の絨毯と高山植物。水晶のように冷たい水。岩ヒバリや岩ツバメも飛んでいる。すべての生き物が大自然を棲家にしていた。
 長野県営小屋を過ぎると、頂上はすぐである。日は西に傾きだした。吹き上げてくる風も冷たい。頂上は戦の跡のようで拳大の石が散らばっていた。吹きさらしの中に高山植物が咲いている。登ってきた方角が霧に包まれた。前には朝日岳。その向こうは深い谷。即ち秘境、神秘の谷。水源は誰も極めたことのない黒部の渓谷である。その向こうに剣岳、立山連峰、遠くに槍ヶ岳が見える。遥か右には黒ずんだ能登半島。
 白馬鑓へ行く道は、赤茶けた馬ノ背の斜面で、一歩誤れば谷底だし、山も荒れてきた。鑓は中止して小屋に戻った。摂氏五度。川越の冬よりも寒い。小屋では炭を山のように起こして暖を取る。臭いのする硬い夕飯には腹が立ったが、赤い火を囲んで談笑に花が咲く。冬の長い夜のようだ。夜更けだと思ったがまだ八時。二人に一つ配布されたチクチクする毛布に包まった。
 締め切った小屋で五六貫もある炭をすっかり焚いてしまったためか、五六人の病人が出る。介抱も容易じゃない。冬のメリヤスシャツを二枚着て、その下に夏シャツ。それでも寒くて寝られない。小便で外に出てみると、遥か越中富山の電燈が見える。高山の夜は物凄く寂しい。目の前の穴倉では、巡査と小屋番が酒盛り。中は狭くて苦しいが、外は寒い。昨日は百人が泊まったとか。今夜は七十人くらいだろう。

七月二十五日 下山
 御来光を拝む予定であったが、濃霧で出来ない。早々に下山する。不味い飯で腹を肥やして出発。二度と来るか分からないこの頂上に名残を惜しんで下る。さらばよ・・・白馬山頂よ・・・。
 登りには大分苦しんだところも、下りは足も止まらぬ速さとなる。だが足をさらわれると、三間も滑る。杖を離しては大変だ。カンジキは必要だ。十数回も投げられた。富士などは足元にも及ばぬくらいに危険だ。それでも皆無事に下っていく。先着は一時間一五分で下りきった。白馬尻の先に崩壊しそうな雪渓があって、ここが最も危険だった。小雨の中を猿倉へ下る。途中第一の女学生とすれ違ったが、多分絶頂まではいけるまい。女としては少し無理だ。
 午前十一時頃、白馬を降りてしまって四ッ谷で昼食。早速自動車で大町に向かう。車窓から霧に霞んでぼんやり見える白馬の、あそこまで行ってきたのかと思うと、誇りに思う。青木湖、木崎湖を通って大町に四時に着く。ここから信濃鉄道のマッチ箱のようなボギーで、松本に向かう。六時松本の養老館に入り九時頃飯となった。松本は天神様の御祭りで賑やかだった。町を遊び回って深夜十一時に宿に引き上げる。明日は早朝二時半の汽車で立つとのことで、あわてて寝る。

七月二十六日 川越まで
 信越線経由で帰る。途中妙義にも登る予定だったが、白馬に比べれば子供だましのような気がして中止となる。新聞によれば関東は豪雨で荒川は増水しているとか。正午大宮に着いて、二時に川越。
「百聞は一見にしかず」と言われ、この登山の刺激は大きく、同輩には誇りとなった。我々年少者にも日本アルプスを踏破できる文明の利器に感謝し、北アルプスだけでは満足せず、日本世界全山を探らねばならない。


大正11年 富士山 富士吉田〜頂上〜御殿場

七月二十三日 川越から吉田 久下敏治
 富士登山隊は、一行四十名。高松、西川、間中、三先生の引率の元に、校長、諸先生の見送りを受けて朝五時三十分、川越停車場出発。国分寺からの列車は、盛夏の登山者を満載して九時三十分大月駅に到着した。
 一行はここから一里引き返して猿橋を見学する。桂川の上流の断崖上に架せられた三大奇橋の一である。橋上から水面までは百五十尺。下は深淵となり小石を落とすと、一秒、二秒、三秒・・・、しばらくして下方で僅かな音がする。
 ここから一里を戻り、大月から(富士)吉田まで五里余り。道は自動車電車が通じているが、我らはこの道を歩いた。日が照り付けて暑い。
 途中に桂川発電所がある。山の急斜面の四大鉄管は、水一滴もらさずに東京市の電車の動力を供給する。渓流沿いには稀に避暑客がいるが、大きな魚網を下げている漁夫もいる。
 谷村を通過して富士山が見えてくる。「心当てに見し白雲は、麓にて思わぬ空に遥か富士の峰」。
 近づくに従って雲はいつしか晴れた。大自然の絶景に感嘆し、吉田の宿に午後六時着。

七月二十四日 吉田から頂上まで 小山太郎
 午前四時に起きる。天気はいい。六時に出発。爽やかな朝の気に、鈴の音が響く。浅間神社の裏に馬車の待合所があって、客もいる。その森を出ると富士道。中の茶屋を経て馬返しまでの一里半は草原だった。馬返しの先は山道になる。一合目の鈴ヶ原神社、二合目の小室浅間と役行者堂、二号五勺の伏室、三合目の食堂を経て、四合目大黒天を過ぎ、五合目に達する。その上室で十時四十分昼食にする。
 五合目は「天地の境」で森林から潅木帯になる。地形は一変して開け眼下に河口湖、西湖。山中湖は三日月形をしている。六合、七合は更に険しく「六根清浄」を唱え、「頂上へ」の野心も消え、心は無心になる。八合は須走り口と合流するところで、名ばかりのホテル救護所がある。傾斜三十度の道は「胸突き八町」だ。
 難関を突破し九合目へ着いたのは四時。ここで休憩し水筒のサイダーを飲む。見れば互いに顔面蒼白となり、唇は紫色になっている。白衣の登山者は遥か下まで列をなしている。再び出発すると、頂上の久須志神社の鳥居はすぐ上に見える。しかし稲妻型の道はなかなか尽きない。少し足を早めるとようやく四時四十分、頂上に達した。
 この嬉しさは何とも言えない。日本アルプス連峰が見え、関東の山はひれ伏している。「聞きしより、思いしより、見しよりも、登りて高き宝は富士の峰」。この歌の意味が初めて分かった。頂上神社に参拝して、印をもらい、石室名物の甘酒で腹を温める。思わず二三杯続けた。一杯十銭は少し高い。
 室を出て、今夜の宿舎山口屋ホテルに行く。すぐ隣の木賃宿だ。荷物を置いて噴火口へ行く。深さ百五十米。直径約十三町。周囲に八峰が巡る。夕食後寝た者が多かったが、有志で噴火口の内輪回りに出た。大日岳の河原は静寂として、噴火口に近い石の上では、富士講者らしい夫婦が落日に向かって祈祷している。神社まで戻って金明水へ降りる。ここで西川、間中先生とも一緒になった。空は雲に覆われて星一つ見えないが、金水明も静かだ。雪を取ってかじりながらいく。西安河原から外輪道へ登る頃、夜の帳が山を覆ってきた。剣ヶ峰の背後から大日岳を経て戻ったのは八時頃だった。床に就いたがむさ苦しい。

七月二十五日 下山 浅見幹雄
 混雑して寝苦しい夜だったが、四時にもう起き出すという元気のいい連中もいる。入り口を開けると冷たい空気が入ってくる。高山の朝は静寂だ。かまどの甘酒で腹を温めた。
「日の出を拝むのだから起きないか」
 急いで小屋を出た。入り口の寒暖計は華氏六十度。強力も番人も皆起きていた。
「もう直きですよ」
 東の空が明るい。間もなく水平線が赤くなり、真紅の海と化した。火山岩の山肌が赤く照らし出された。下から行者も登ってくる。突然「ドドン、ドドン」という勇ましい太鼓が神社から鳴り響く。見よ、ご来光だ。太陽光線は雲海の上に投げられる。箱根の山は雲海の上に少しだけ顔を出していた。
 朝食後、剣ヶ峰を背景に写真を写して、お鉢周りをする。木曾の山脈から槍ヶ岳、針ノ木峠、白馬、御嶽など日本アルプスの山々は清らかだ。その昔の噴火では、一昨日の猿橋までこの溶岩は流れ出していた。溶けない万年雪を杖で突いて、喉を潤す。
 剣ヶ峰の最高点に立つ。最高点よりも、私は五尺さらに高い。快哉を叫ぶ。
 七時二十分、下山を開始する。八合目からは有名な砂走りで、草鞋を幾重にしても、切れるし、滑る。二合目辺りまで草木はない。太郎坊に着いた。ここには馬車が通っている。御殿場までは三里。正午過ぎに御殿場に着く。一時五十分の汽車で、午後七時四五分に川越に着いた。校長先生、その他の先生に迎えられて解散した。

赤城山〜榛名山
 同じ日程で下級生二十二名は三人の先生に引率されて、赤城山〜榛名山の登山にも出かけている。七月二十三日の朝に出発して、赤城大沼周辺を三里散策し、湖畔の旅館に宿泊。二十四日は徒歩で渋川まで五里の下山をして、さらに伊香保まで二里歩いてそこに二泊目。二十五日には榛名を登頂して散策し、午後渋川から帰郷し七時過ぎに川越に戻っている。この登山もロングコースとなっている>
 

大正12年 燕岳〜槍ヶ岳〜上高地〜徳本峠
 

日本北アルプス縦走記
七月二十三日 中房まで 内田静馬

 恵まれた長い夏休みを、海に山に思い思いの日々を送っては心を躍らせるのだ。今年の休暇、私は槍ヶ岳の登山隊に加わった。卒業生二人、朋文堂からご主人と岡田店員の二人、それに我ら十二人は、五名の先生に引率されて前日の七月二十二日の夕刻川越駅を出発した。中央線の国分寺から大月までは混雑して立ちっぱなしだった。
 松本に着いたのは朝の七時二十六分。市内で果実、氷砂糖、わらじなどを用意する。再び八時四十分の信濃鉄道で有明に向かう。車内は登山客ばかりで皆元気そうだ。左窓には目的の山々が見え、鍋冠山、長塀、蝶ヶ岳、常念岳であるという。有明に到着しパンを食べる。
 有明村の道はまだ普通の道だった。ただ何となく邪魔なのは肩のリュック。歩きながら流れの水で喉を潤わせ、パンをかじる。中房川を横断すると道も急になり、宮城の茶屋にでる。この茶屋で三十分の昼食を取る。ここを過ぎると山道に入る。こんな山中によくも立派な道を作ったものだと感心するほどだ。金子先生の植物の説明など聞いていると、いよいよ渓流は深く小滝の連続となった。深い谷底を見下ろし、朴峠は難なく過ぎた。途中で小暮、槙の両氏と出会ったようだが、後で聞かされた。
 信濃坂に差し掛かる。こんもりと白樺、蝦夷松が直射を覆い隠すように生い茂っている。一丈もある熊笹も物寂しい。坂を下って清流に戻り、十数町でいよいよ温泉が近くなった。硫黄の香り、地下から噴出する煙。温泉宿が見えると嬉しくなった。旅装を解いて部屋に入り、霊泉に浸る。
 中房温泉は海抜5千尺。正面に有明山が聳えて、温泉家屋も新設で立派なものだ。アルプス登山熱の勃興で、この温泉も賑やかだ。

七月二十四日 中房から燕岳まで
 谷川の音に夢を破られ、障子を開けると生憎の雨。美しいと思っていた中房の清流も、どうにも騒々しく聞こえる。しばらく天候回復を待ったが、逸る心を抑えきれずに昼の十二時出発する。
「先ずは競わずに同じ歩調で」
 先生に言われる。小雨の山道は不安だった。合戦尾根に上がると道も険しい。白樺の根、落葉松の根をまたぎながら、ようやく合戦小屋に着く。極めて簡素な小屋で中は薄暗くランプが一つあるのみ。水筒の水と氷砂糖で喉を潤す。
 もう燕岳も間もないか。左手森林の間から、大天井、東大天井の黒く汚れた雪渓が見える。富士見松を過ぎて三角点に出ると展望が開けた。雲の切れ間からぬっと富士の首を出した。さらに這松、石楠花の中を進むと燕のお花畑であった。ミヤマキンバイ、イチヂキスミレ、ハクサンチドリ。いずれも美しく愛すべきだ。思わず二三種を採って手帳に収めた。そのまま一気に燕の小屋へと焦った。到着は四時。小屋の中には大勢いたが、ここで一夜を明かすと思うと心細い。リュックを置いて山頂へと向かった。気持ちのいい小砂利をザクザク踏み鳴らして、途中一二の雪渓を越えて、岩の間を攀じるともはや頂であった。風が強くて吹き飛ばされそうである。烈風の中、野山忠幹校長先生の音頭で槍ヶ岳に向かって万歳三唱をした。
 展望は、戸隠、妙高はもちろん、針ノ木、爺、蓮華。西には烏帽子、立山、三ッ岳、槍の秀峰。野口五郎、赤岳、鷲羽、双六、大笠。日本北アルプスの大観を一望の内に秘めている。到底筆舌の及ぶところではなかった。

七月二十五日 燕小屋〜殺生小屋 横田半三
 小雨が降っている。昨日の大展望も霧で全く見えない。煙い中で朝食を済ませて、今日は強力も加わって八時半小屋を出発した。南尾根沿いに進む。高瀬の谷から吹いてくる風は強い。蛙岩にくる。だんだん青空になるが、大天井にかかるころには相当な風になった。九時四十分、槍と常念に行く別れ道にきた。一休みした後喜作新道を通って槍ヶ岳に向かう。強力の話では、少し行くと水場があるというので、そこで昼食の予定にする。歩きにくい道を下って赤岩岳に来たときに、前方に槍穂高連峰が遠く、赤岳・硫黄岳が雪を抱いて聳えている。振り返れば梓の谷を隔てて常念山脈が見える。景色に見とれてしまった。十二時半、池に出たが濁ったその水など飲む気になれないが、強力は平気で飲んでいた。ここで昼食にした。
 今度の下りは急坂である。下りきると登り。しばらくして大槍小屋に行く道を別れたが、我々は殺生小屋の方へ水平に進む。すると雨。頂上はまたしても見えなくなった。
「もうすぐ小屋だあ」
 と誰かが言う。本降りとなった頃小屋が見えた。午後四時。槍ヶ岳へ登るのは明日。この小屋は石室だった。なんと明日は秩父宮殿下がお泊りになるとかで、混雑していた。煙い中で毛布に包まり雑談をする。やがて夕食になる。昨日とは違って米もうまく炊かれたようで、空き腹に温かい飯がうまい。寝るときは敷布団もなく、板張りに毛布を掛けただけでゴロゴロと、魚屋の魚になったようだ。石の隙間からは寒い風が入ってきたが、疲れで寝付いてしまった。

七月二十六日 槍ヶ岳〜上高地
 今日も雨は止んだが霧が深い。リュックを小屋に置き八時四十分岩道を頂上へ向かった。案内記で見ると、槍は二百尺直立し、頂は二坪しかないと書かれていた。そのように、肩というところから急になった。杖も雨具も置き捨てて登る。手をかけた岩が崩れれば一命もない。一本の針金を頼りに登るところもあった。
 そしてついに九時二十分、大槍の絶頂に達した。ただ小さなお宮がある。我らの周囲はその二坪の平だけ。濃霧で何も見えないし、物音一つしない静けさである。校長先生の音頭で今度は川越に向かって、万歳を三唱した。川中登山隊は他の登山者よりも元気だった。
 こうして目的を達し小屋に戻った。十一時前。上高地へ向けて下山するとき、秩父宮様御一行がお着きになった。金子先生の号令で敬礼。宮様も帽子を取られて御答礼あそばされた。
 そこから二三町で雪渓が始まった。下の方には大槍の小屋。傾斜は急である。岡田萬雄先生が滑る。見ている間に小さくなった。高松鶴吉先生も無事に滑った。岩に当たったら大変である。私はカンジキを着けている者に道をつけてもらい、恐る恐る下る。
 大槍小屋を過ぎて清流の流れのところで昼食にした。そこを過ぎると雪にもなれて、愉快になった。板に乗って滑る者もいた。さらに下ると割れ目には六尺以上もの雪が積もっていることが分かる。その下を水が轟々と流れる。落ち込めば出ることは出来ない。
 間もなく雪渓もつきて林の中に入る。槍沢の小屋を通り二ノ俣の合流点にくる。橋を渡って左岸に出ると牧場があった。子馬や牛が白樺林の小川で遊んでいる。ここばかりはのんびりとしていた。白沢渡で右へ折れ、丸木橋を渡ると上高地もすぐだ。一里くらいで河童橋にでた。五千尺旅館がある。穂高連峰がよく見えるが、ここは氷河の跡だといわれた。我々の泊まる清水屋は六七町先にある。着いたのは五時半頃であった。ゆっくり温泉に浸かって、夕食は岩魚のご馳走で、寝室も明日は秩父宮様のお泊りになる新築の下座敷で、ゆっくり寝ることができた。

七月二十七日 上高地〜  島田武
 槍ヶ岳踏破の疲れが身に沁みて、夏の太陽がギラギラしてきても、皆休んでいる。どうやら岡田先生だけが五時起きで大正池に行かれたようだが、他の者は三時に起きるという昨夜の予定も無視している。
 同宿した神戸商業の一行は、僕らより少し前に出た。太陽がカンカンと六百山と水平になる頃宿を出た。河童橋まで戻り、徳本峠への道に差し掛かる。槍穂を振り返りながら峠の茶屋に着くが、ここから先は紆余曲折の曲がっては下り、曲がっては下る道。足に任せてドンドン走った。ここは島々谷南渓の道だ。激流を利用して流す木材は、浮き沈みしながら白い泡と一緒に流れている。岩魚止の茶屋からはトロッコのレールの上を辿って、他の登山者と競争になった。その中、荷馬車が二三台続いて、ガタゴトきた。馬子は車上に涼しい顔で納まっている。幾つもの吊橋を渡って、数知れぬ曲がりくねった道を通って、ようやく島々の村に着いた。太陽はジリジリと暑い。せみの声を聞いていると盛夏だなあと思う。
 島々駅で昼食にして、三時十分まで待つことにした。長谷川誠一先生はこの先、乗鞍の神秘を探って健脚を試されるとのこと。我々は電気鉄道で松本に向かった。右手には北アルプス連峰。ああ、あの偉大な山の奥に踏み入って、万歳を絶叫したかと思うと、何となく嘉悦の情が胸に浮かんできた。

浅間山から碓氷峠
七月二十三日 火山館まで  仲正一郎

 下級生を中心とした浅間登山隊の十一名は、西川、榎本、長谷川の三先生の引率で、朝七時の電車で川越を出発した。
 碓氷峠であの有名なアプト式隧道で通過すると、四方は再び広々し、車窓から浅間山が見えてきた。正午近く汽車は小諸駅に着いた。駅を降りて停車場通りの坂道を曲がると社にきた。そこの浅間山登山の標識がある。そこから登りが始まる。一里半で清水館という休憩所があって、婆さんが茶をくれた。
「ここから浅間館まで随分あるかね?」
「いいえ、幾何もありませんえー。もうちゅぐですよ」
 信州言葉でやり取りした。「もうちゅぐ、もうちゅぐ」と唱えて歩いて、三時に浅間館に着いた。するとお爺さんが出てくる。
「真に済みませんが、今一時間半登ると、やはり私が持っている火山館という小屋があります。今日はそこが空いていますから、どうかそこへ行ってください」
 丁寧な言葉に、私たちはまた登りだした。蛇堀川に沿って登って行く。その狭い道は川の中の石の上を登って行く。水は冷たい。火山館に着いたのは四時半だった。ここは元の標識から三里六町にある。高くて寒い。小屋は簡素だったが見晴らしはいい。小諸の町は遠くに小さく、電燈が綺麗だ。七時貧相なお膳であるが腹一杯になり、九時半就寝した。

七月二十四日 浅間山登頂
 ゴロゴロという音は何かと思っていると、大風が吹いて霧がひどい。これでは頂上は無理だろうといわれ、落胆する。しかし気の早い連中は頂上を目指したい。朝飯もそこそこに一列で登りだす。
 風が強くて帽子を飛ばされた者がいた。上にいくとさらに強くなり、呼吸も苦しい。雲の切れ間に日本アルプスが少し見えたが、山の名を指示されるばかりだ。山は青く、田は黄色い。さらに進むと頂上に出た。噴火口の周囲はどのくらいだろうと首を伸ばしてみたが、噴煙と霧と風で分からない。休憩すると噴煙の硫黄臭さで難渋した。風がやむと今度は寒い。もう小屋へ降りよう。
 下りは急いだ。小屋で荷物を受け取って、小諸まで急いだ。予定より早く着いた。先生にも、
「早くなったねえ」
 と誉められた。列車に乗り、午後三時軽井沢で下車する。停車場通りを真っ直ぐに進むが、別荘の多いことと、外国人が多いことに驚いた。草津軽便鉄道を横断していくと、旧軽井沢の要屋旅館である。要屋は三階建てで町第一の旅館だそうで皆喜んだ。二階の部屋に入って浅間の思い出を語った。

七月二十五日 碓氷峠
 今日はいよいよ帰る日だ。七時に宿を出て一ノ字山の中腹の峠町に八時に着く。そこの熊の神社に参拝し、熊ノ平停車場に続く道を辿っていった。この山道は一里くらいであったが、急なので足袋の先をすり減らした。私は先頭で下ったが、皆は続いて、十一時、碓井山中の熊ノ平駅(注・アプト式の廃止と共に昭和三十八年廃駅となった)から車中の人になり、磯部に正午前三十分に着いた。下車して磯野館で休憩した。有名な磯辺餅を土産に買い、磯部温泉を見て、午後一時二十七分の列車で大宮乗換え、川越には五時に着いた。


大正13年 白馬岳
北アルプス白馬岳の登攀  遠藤真三
 猫も杓子も登山登山と騒ぎ回る世の中に、せっかくの暑中休暇をムザムザ潰すのも惜しいと、私も一行に加わって日本アルプス登攀に出かける。付き添いは岡田、高松、久保の三先生。一行二十二名。
日程 七月二十二日夜から二十七日朝まで
費用 十八円

七月二十二日 出発
 みんなの「御機嫌よう」の言葉を後に、川越から乗り換えて、国分寺から午後十一時四分の長野行きに乗る。鮨詰めの汽車には自称大登山家も乗っていた。誰もが金剛杖を持って、「我こそは日本アルプス通で御座い」の連中が多い。
「まあ旅は道連れ、お掛けなさい」
 東京の者らしいデップリ肥えた御仁に言われた。木曾御嶽参りの白装束にも話しかけられる。

七月二十三日 四ッ谷
 松本から信濃鉄道に乗り換える。どうも信濃鉄道沿線にはチフス流行の噂があって、一切この辺では飲食物を求めないことにした。触らぬ神に祟りなし。
 車窓からは大天井、常念、燕。お江戸見物の田舎者と同じで、地図片手に大はしゃぎ。十時五十分大町下車。金剛杖に登山服は浮世離れした格好だ。大町から四ッ谷(白馬)までは景気よく自動車で突破する。木崎湖と通り四ッ谷の白馬館へ。

七月二十四日 頂上小屋
 白馬館を出て登山に入る。皆食料は大分買い込んだ。チョコレート、氷砂糖、食パン、缶詰。二股から南股入りへ。猿倉のカルピスはうまかった。白馬尻でコンビーフを切って昼食にする。温度は七十六度(華氏)。
 白馬尻を出たのが十二時。オーバーセーターに手袋、手拭を被って登り始める。ガチャ、ガチャとカンジキで大騒ぎして登る。ハーッと吐く息も白く眼鏡も曇る。大雪渓の雪はあまり硬くはない。端の方は岩が落ちてくると、強力の指導に従って真中を行く。
 これまでで二十五町の雪渓のおよそ半分。楽や冗談じゃ登れない。油断すると命がフイになる。大雪渓を渡っても小雪渓がある。傾斜がきつい。S字状の小雪渓を横断して、一列になって蟻が這うようだ。そこを過ぎるとホッ一息。ポケットのチョコレートを食べる。
 さてそれからがお待ちかねのお花畑となる。クルマムグラ、ウルツブ草、白馬タンポポ、ミミナ草。今が盛りだ。やれやれドッカリ腰を降ろして、右手には杓子岳の断崖。左手には小蓮華の尾根が続く。ここが「一目千両」だった。草鞋履きの写真屋がいた。毎日頂上から降りてきて、ここの商売も楽じゃあるまいに。記念写真を撮る。天気が危なくなってきた。

白馬大雪渓・大正13年

 霧が足元から上がってくると、一寸先も見えなくなった。霧が雨になる。頂上までは二三町なのだが。やっとのことで頂上小屋に入ったのが四時四十分。炭火で暖まる。小屋で三個十銭の白馬饅頭を頬張る。毛布を頭からスッポリ被って、暗い石油ランプで語り合う。山の夜は更けて、外の暴風は激しくなってきた。

七月二十五日 風雨の下山
 四時半に目を覚ましたが、嵐は物凄い雨の音になっている。強力は首を振って、
「こりゃ、いかん」
 と黙り込んでしまった。籠城か下山か。同宿八十人ばかりが額を一つに集めて思案する。小屋を出た二三人が、再び引き返してきた。強力から、昨日鑓岳で一人亡くなりましたよと聞かされて、なおさら怖い。八時まで待ったが天候は変わらず、意を決して下山することにする。万一を期して三組に分ける。豪雨を突いて外に出た。
 凄い唸りと風。身に着けるゴザがバタバタいうが、それでも下る。ネブカ平までに体が冷えた。休めない。小雪渓の上で濃霧のため隣の顔も見えなくなって、嵐の中をしばらく立往生した。地獄の上の釜だ。少し霧が薄くなって動き始める。大雪渓と慎重に下るが、もう一体なんど転げたか分からない。それでも十一時三十分、白馬尻に着いた。三時間半のこの苦い経験は、恐らく一生忘れないだろう。
 白馬尻で昼食にした。このとき三高の登山部四人が登ってきた。この雨の中を登ろうという、元気なことだ。食事を終えて十二時四十分に出る。増水した北股入りが凄まじい音を上げて流れている。四ッ谷の白馬館には三時に着いた。風呂へ入って早く寝る。

七月二十六日 帰郷
 山荒れで残念だったが、本日は帰郷する。しかし濡れた衣服が乾かない。朝から晴天で旅館の屋上に干すことにした。そこは一大展覧会になってしまった。服に、ズボンに、オーバーセーター。リュックも、麦藁帽もずぶ濡れ。
 ほんの二時間ほどで乾いて、九時半に自動車で四ッ谷を離れる。
「運転手くらいいい商売はありませんよ。ここ(大町〜四ッ谷)はほんの夏の登山客だけですがね、それでも月に百円は稼げます。お客さんにチップや何やかやと百五六十円は確かなところです」
 いい気持ちになって南へ走る。青木湖、木崎湖。時間があるのでここで遊ぶことにした。
 木崎湖には有名な学者村がある。湖面の対岸に九つ並ぶ玩具のような建物が、学者村。食料品はこちらのモーターボートで運ぶようだ。岸に係留されているボートに乗ることにした。先生がリーダーでスーッと小波を立てながらオールを漕ぐ。遠くアルプス連山が湖面に映る。木崎から大町までは一里。ボートから上がって新鉄の停車場へ急いだ。
 大町発零時三十五分。ちょうど神戸商業の登山隊と一緒になる。一行は立山から針ノ木峠を突破して大町へ出たのだと大分鼻が高い。松本から長野へは寝ていた。
「姨捨(おばすて)だ」
 という声に飛び起きた。窓から首を突き出すと、なるほど素晴らしい景色。篠ノ井線の姨捨は、なるほど日本三台景観の一である。
 長野に着いてから乗り換えの四時間の間に、善光寺参りをした。出発は午後十時三十一分。翌朝、七時二十分に母校に着いた。

<なお、この年も下級生は赤城山〜榛名山の山行に出かけている>


大正14年 

富士山

二泊三日の富士登山は、引率顧問が四人、生徒は二十七人参加だったと、学友会年報に記録されている。但し題名は「不二登山記」。
参加生徒は五年生が十人、四年生四人、三年生六人、二年生二人、一年生二人と全学年に及んでいる。

記録 不二登山記
昨年までは上級生、下級生の登山隊を分けていたが、今年から一組に編成することになった。今年は富士で、大変応募者が多かった。何せ、箱根よりも高い山に登ったことがない僕が行くくらいなのだから。学校は納めた旅費十円のうち、九月の新学期に一円いくらか残金があると、我らを喜ばせた。メンバーは四先生以下、二十七人となった。

吉田の夜 七月二十四日 
一日目は猿橋を見学してから大月まで徒歩で昼食。後に小さな電車に二時間揺られて吉田に三時到着。吉田は町全体が傾斜している。その一本坂道を上り詰めたところに浅間神社があった。そこから夜の名峰富士の姿を見た。星屑の光を浴びて、山の弧線を浮かび上がらせている。稜線のすぐ上にきらめく星は、乙女の瞳ではないかと思われた。私は宿に飛び込んで、金剛杖に一句書き込んだ。
「新月や 大荒れの後の 山黒き」
 実は我々が出発した前日は、富士は大荒れだったようで、女学生幾百人が何合目かに籠城せざるを得なくなり、頂上への食料が途絶えたとかで新聞が大いに騒ぎ立てていた。おかげで家の者が心配して止められそうになったものだった。
 けれど今日、吉田に着いたときには誰もこんな話はしていなかった。昼間厚い雲がまとわりついていた富士も、今は美しく晴れている。宿の夕飯に刺身がでた。「山の中で珍しいですね」というと、「皆さんがくるから、自動車で沼津から取り寄せました」と女将さんが言っていた。夜半には、坂道両側の小川が、雨の音に聞こえて不安になった。

 朝の裾野 七月二十五日
 空にまだ残り星がチラチラしていた頃、もう出発した。浅間神社にお参りする。足の弱いものはその裏の馬を雇っていた。日光杉並木のような松並木を歩く。並木を通した空き地では月見草が金色に光っていた。少し行くと薄紫の釣鐘草が咲いていた。子供の頃、この釣鐘草のつぼみを膨らませて遊んだことがあった。行者の一団も鈴の音を鳴らしながら、先を行く。後ろから乗合馬車も近づいてきた。
 間もなく朝の光が差し込んでくる。淡藍色は寝巻きを着ていたような富士の色だが、茜色に着替えたようだ。点々と見える石室を、稲妻なりに貫いて登山道は頂上に続いているのであろう。裾野の道にはまだ傾斜がない。新しい草鞋に元気な若い足が弾む。

八合目の眺望
 八合目には石室が二つあった。真中に小さな郵便局を挟んで並んでいる。吉田口から登ってきた人も、須走り御殿場口でも、ここに集まって頂上を目指す。石室の前の見晴らしに腰を降ろして遠くを望む。関東山脈は数十里も向こうであろうか。関東平野の上空は流れ雲。手前には甲州山脈がある。箱根勢は甲州と相対している。伊豆半島は雲に隠れ、眼下には山中、河口、西の湖面。一時間も遅れて登ってきた仲間が着いて、いよいよ「胸突き八丁」の剣へ行こう。
 山頂は大地が空と接するところだ。西洋の古城のごとき石壁は、暴風から石室を保護する防風壁だということだった。

頂上の一夜 
 夕飯は十分に蒸れきれない高山独特のボロボロ飯ではあったが、旺盛な食欲でお汁と、香の物と、お茶だけで、腹いっぱいになった。飯が済むとこの二十畳ばかりの石室のなかに、囲炉裏だけ残して布団が敷き詰められる。疲れた我々はすぐ床に入って休む。しかし眠れない。私は囲炉裏にいって、山男と強力の話に加わった。
「さっき八合目の室を出かけてからすぐ、婆さんと娘さんの二人を追い越したが、まだここへは着かれねえか?」
「ああ、そんな連れはまだ着てねえよ」
 と小屋番がいう。
「なにしろこのガスではなあ。女子供ではひどかんべ」
「どうだ、チョックラその辺りまで出てみてくれんかね」
 追い越してきたという強力は提灯を持って外に出た。まさかこの霧で、行き尽きてしまったわけじゃないだろうと、不安になった。男は帰ってきた。
「やっぱり室をでるとすぐに、八合目に帰ってしまったらしい。何しろこの先が悪いからなあ」
「たいがいに大丈夫だんべ」
 仲間の吉崎がおきてきた。眠れないという。(続く)
私たちは草鞋を突っかけて外に出た。霧が舞って冷え冷えしている。防風壁のところまで出たが、何も見えない。
「昼間あまりにも眺望がよかったからなあ」
 吉崎がいう。石室に戻った。皆の寝顔を踏み越えて、寝場所へ割り込んだ。まだ話をしている山男の声を聞きながら、天井の薄暗いランプを見つめているうちに、いつか眠りに落ちてしまったらしい。

 御来光と砂走り 七月二十六日
 四時半だというのに、我々は身支度を整えて石室の前に整列した。目の前の白い雲気の中にかすかに光るものがあった。それは霧を割って現れた橙色の大日輪の姿。御来光だ!
 歓喜を送った後、我々は石室のすぐ前から間道を下り始めた。眼下に見える黒い山の背は、昨日登ってきた本道だ。そこを登ってくる人は、八合目を早朝に出発した人たちであろうか。消えかかった裾野の霧の底に、キラリと光った鏡は山中湖か。八合目を過ぎて、二つの岩山の尾根に挟まれた、砂走りに入った。見事に弓形に反った火山砂の傾斜の、絶大な長距離の連続である。我々は一列になって滑った。金剛杖を突いて、漕ぎ下った。草鞋がつま先だけ残して千切れた。
 長い松林を過ぎて、須走りの宿に着いたのは、午前十時頃か。自動車四台に分乗して、裾野を二里半ドライブして御殿場着。十二時半の汽車で家へ帰った。仲良くした皆と別れて、登山の日の楽しさを懐かしんだ。(石川信雄)



大正15年 

木曾御嶽
 

記録 木曽福島まで 七月二十四日
「木曾の御嶽山は夏でも寒い」と歌われるほど、御嶽登山は有意義だと思う。僕はそう思って登山部の一行に加わった。一行は久保先生、吉村先生、相場先生および、卒業生の伊藤さんと僕ら六名の合計十名である。
 朝川越を出発して、国分寺から名古屋行きに乗り込む。車中は登山客で膨れ上がっていた。一番嫌なのは中央線のトンネルで、すし詰めの中に人の息で蒸されてしまう。福島に到着したのが午後五時四五分。旅館に入って九時就寝する。

 王滝登山口から田の原まで 七月二十五日
 山の裾野を削って通じた道を、王滝口へと五時半に出発する。福島から一里半で常盤橋を渡る。八時半に八幡滝。そのまま沢渡峠。真正面に初めて御嶽の山容を見ることができた。その右に乗鞍岳。槍の穂先はその奥に見える。いづれも残雪が多い。一旦峠を下ると、
「本多博士が天下の絶景と嘆賞せられし裏鞍馬入り口」
 とある。早速そちらへ急な階段を下っていく。そそりたつ十数丈の絶壁。枝を張る老松。紺碧の深淵。ここに架かっている鞍馬橋はかなり高い吊橋だった。十一時。橋のたもとの茶屋で昼食にした。王滝登山口についたのは十二時。強力を一人雇った。
 田の原へ向かう。途中王滝と清滝を見る。三合と四合の間で、川中の講中が下山するのに会う。お互い元気で挨拶を交わした。四合目の小屋で休憩し僕らは先生方より一足先に登る。強力の話では、ここから先がお花畑だという。黒百合、鈴蘭が咲き乱れる。五合目からは針葉樹林となる。やがて道は二つに分かれた。左は三笠山(注・標高二二六五米)を回って田の原へ、右は直に田の原へでる。右へ行く。強力が、
「もう小屋はすぐだよ」
 という。道は少し下りになって、開けると田の原小屋が見えた。午後五時。
 小屋はかなり広くて真中を登山道が通っていた。部屋は両脇だが先着で混んでいる。遅れてきた先生たちは、高山植物を採集していた。赤々とした囲炉裏に煮えたぎっているお汁を、強力がよそってくれた。ご飯の御櫃も出てくる。昼は二個の握り飯だけだったから、腹は減っている。ご飯の盛りもどんどん崩されていった。高山の飯は不味いと聞いていたが、ここは熟練の小屋番かうまい。
 小屋番や強力は田の原を公園といっているが、なるほど気持ちのいい高原だった。外は夕陽があせて、大空も澄み渡っている。小屋には寝床が敷かれていた。ランプの光は暗いが淡い。十二時頃まで寝付けずに外に出たが、沼に月影が映り、上には月明かりで白銀が輝き、星の群れも大きく近い。少し寒いが、立ち去りがたいほどだった。

 木曾御嶽山頂上 七月二十六日
 午前一時、目を覚ます者がいた。リンリンという鈴の音で白装束十人ばかりが小屋に入ってきた。少し雑談するとまた登っていった。二時、千切れるような冷たい水で顔を洗う。温かい朝食が出た。弁当をもらっていよいよ2時半、小屋を後にする。傾いた月明かりで登って行く。
 平原が終わると、這松の山道になった。七合目まで来ると田の原小屋は遥か下になった。八合目でもう一度休む。その上で月明かりの雪渓に出た。一握り口に入れると腹の底まで染み渡って冷たい。九合目からは這松も消えて、岩と短い草が生えているだけとなった。やがて目の前に小屋が見える。王滝口頂上だった。剣ヶ峰は間近に聳えている。午前四時。小屋から一時間半だった。
 小屋の傍らに御嶽神社がある。その石垣が巡らしてある内側は穏やかだが、一歩外に出ると猛烈な寒風が怒号している。頂上はいつでもこんな烈風なのだろうか。東の空は次第に紅を増してきた。西の空に残る月は輝きを失っていく。とてもじゃないが寒くて御来光まで待っていられない。小屋に入る。五時、他の人と一緒にまた外に出た。まさに夜明けだ。雲を破って目を射る金線が閃光となる。居並ぶ人は口々に祈りを上げ始めた。そしてついに金の円盤は浮かび上がった。山々も目覚めた。雲の海に光が走って、紅に、紫に、緑に、橙に変化極まりない。何たる荘厳ぞ!崇高ぞ!
 風が穏やかになってきて剣ヶ峰へいく。西の方に棚引いた雲に山の影が映っている。神秘的な映像だ。頂上の小屋では写真を買い、スタンプ、焼印をしてもらう。「海抜一萬二百十八尺」とう印だった。
 小屋の側の石段をさらに登ると、いよいよ絶頂である。祠が祭られた頂上は石垣が巡らせてあった。その突端へ出ると日本アルプスの高峰は一望だった。写真屋が説明する。
「あの一番高いのが槍ヶ岳、右が大天井、左の霞が焼岳、それに加賀の白山と、そこには乗鞍」
「ここに一日いては寒いでしょう」
「ええ、まあ。でも商売ですからねえハッハッハッハッ」
 槍の方を見て話をしていると、もうパチリと音がした。すぐ下には二ノ池、一ノ池には水がない。お鉢周りは風が強いから辞めた。
 六時、寒風の中紅顔の学生が頂上から黒沢口へ下って行った。それこそ我が川越中学校登山隊の下山姿である。二ノ池には雪渓があった。九合目に差し掛かるとまた雪渓があった。下山は早い。草鞋で岩の上を飛ぶように走る。それにしても草鞋はよく切れた。七合目からの大森林は御料林にもなっているほどだ。
「木曾のナアー ナガノリサン
木曾の銘木 ナンジャラホイ
檜にさわら ヨイヨイヨイ」
 歌いながら下る。正小屋に休憩して草鞋を履き替え、他の下山組みと競争になった。五合目をすぎ、四合目には高山植物が綺麗だ。この黒沢口からも登山客は大勢登っている。
「お早う様ごわす」
 という挨拶はいい。信者の登山者は親切だった。
 二合目の茶屋では一時間半も休んで昼食にした。頂上から四時間。予定よりも早い。一里先の黒沢村からは自動車に乗る。ところが黒沢は混んでいた。歩くことにした。木曽川沿いに、三尾、日向といくが小雨が降り出した。対岸には木曾材木の森林運搬列車が黒煙を吐きながら、トンネルを出たり入ったりしている。午後五時につたや旅館に着いた。

 見学 七月二十七日
 宿の主人に見送られて福島から汽車に乗り、上松で降りる。臨川寺という寺の下に、浦島太郎が釣をしたという景勝地「寝覚の床」がある。奇岩の景勝だ。近くで寝覚そばを食べた。
 上松からは長野に出る。善光寺を参拝して、午後十時の夜行で戻った。(村本達郎)



昭和2年 立山〜針ノ木〜大町

立山登山記
 暑い暑い夏季休暇を関東平野の片隅で過ごすのは惜しいと、登山部の一員に加わって日本アルプスに出かける。全部揃って九人。余りに少人数となった。参加は久保、原口両先生。卒業生一人、町の有志一人、在校生五人。費用は二十円となった。
七月二十四日 立山温泉
 前日の夕刻、大宮発午後七時三十一分の金沢行き急行に乗る。列車は満員。座れない。雨も降っている。
 信越線を走り、直江津で日本海に出る。波静かな日本海と、アルプスは見えたり雲に隠れたり。午前六時四十分に富山に着く。乗り換えの出発までに水の用意をするが、この辺は井戸も浅く水はろ過してやっと飲めると言っていた。二三合の水筒を一杯にするだけで手間取る。駅には多数の登山者。乗車一時間で千垣の駅に着く。我々は常願寺川に沿ってなだらかな道を行く。この辺は山といっても田あり、畑あり。しばらく行くと立山事務所があった。アルプスの銀座通り。なかなかの混雑で事務員も応接に忙しい。さて強力を雇うことができたのは九時半過ぎになった。
 道はいよいよ狭く左右は断崖絶壁になった。常願寺川の濁流は猛烈に岩を砕かんばかりに流れていた。山のことだ。一雨ごとに道は変わり、崩壊し、土砂崩れを起こす。間もなく十一時に藤橋に着いた。早速裏の清流で喉を潤し、岩の上でカメラに入る。冷や飯でも仕方がないが腹ごしらえ。
 進み出すとおぼつかない吊橋を渡る。行けども行けども、大岩の道で傾斜は増してくる。天気も不穏になってくる。ついには牛歩のごとくなった。電柱の番号が次第に減っていくのを励みに、番号が消えて長い吊橋の対岸に温泉を汲むポンプの音が聞こえた。立山温泉(注・標高一三三〇米・今は消滅)である。

七月二十五日 立山登頂  市川宗貞
 昨日の疲れでぐっすり眠っていたが寒さで目が覚めた。五時半に起床すると晴れている。寒い廊下を通って湯に行く。6時半に出発した。道はまだ常願寺川に沿っている。川の中に道が入っている。川を渡るといよいよ登りだ。
「静かに、休まず、同じ歩調で」
 モットーは守る。急坂を登っていくと眼下に美しい湖が二つ現れた。一は新湯といい熱そうな蒸気を立てている。一は刈込池といい真っ青に輝いている(注・標高一六〇〇米)。この辺は暗き森林で、道は落葉が堆積したままだ。上の道は蛇のようにくねっている。喉が渇いてどうしようもなくなったころ雪渓に到達した。その雪渓を横断するところに出た。時間は早いが昼食にする。久保先生は雪の割れ目に水筒を入れて冷やしていた。三十分で出発する。雪渓は五丁余りで、急斜面を渡る。ここでカンジキをつけた。小川君がピッケルを持っていたので、足場を切ってもらった。恐る恐る横断した。雪渓の頂上は海抜二六〇〇米あった。一気に視界は開けて、雄山、大汝、別山、浄土。空には一点の雲もない。遥か下には室堂がある。ここから小屋までは下る一方だ。十一時半に室堂に着いた。
 立山温泉から二里半と言われていたが、五時間かかった。道は近いが困難だ。途中に小屋は一軒もなかった。普通の人の通る道ではない。小屋にリュックを預けて雄山に登ることにした。
 室堂周辺は一面の雪だった。大雪渓が二十丁も続いているが、緩やかでカンジキはいらない。雪渓が終わると岩。浄土山との間(注・一ノ越)を登って途中で別れる。そして馬ノ背のようなところを登る。頂上近くは急傾斜だった。富士、御嶽山の比じゃない。一方は断崖だ。ついに五ノ越(注・雄山頂上)にきた。
「これより上、草鞋をはいて登るを禁ず。社務所」
 という立て札。頂上へ午後二時十分に着いた。室堂から一里余といわれ海抜二九九二米という標識がある。頂上は岩が積み重ねてある。午後になって少し曇ってきた。神社の前で神主がお神酒を振る舞い、祝詞を上げた。
「登山者の家内に、雄山を吹きまわす風のごとく、悪魔病魔を退け給え」
 神主は早朝登って、午後三時に下山するという。神社に錠をして賽銭箱は畳んで持っていくという。五銭、十銭、五十銭玉が沢山入っていた。雄山には登山者がいかに多いか分かる。記念撮影をした。
 頂上の石には逸話があった。昔、加賀の白山と高さを争ったのだが、草鞋一枚分立山は低かった。そこで信者は石を一つ運び上げて積み出した。ところが山頂の石を持って帰ると力石になるといわれ、また誰もが運び下げた。それでいつまでたっても山は高くはならなかったという。
 一時間いて三時に下山する。下山は早い。室堂では、
「今一度雄山に登ってくれば、千円やる、一萬円やる」
とか言っている客がいたが、本当にくれるなら五百円でもいくが、どうせくれないから行かない。地獄谷は室堂から十町のところにある。緑ヶ池、美久里池を経て、這松を縫いながらいく。美久里池は水が透き通っていて、塵一つない。御伽話にある底なしの池らしい。
小屋に戻ると大混雑していた。さっきのリュックは端の方に追いやられている。けれど強力の計らいで寝る場所は取ってあった。夕食はテーブルで食った。寝るのは雑魚寝。それでも交代で食事をする。全員で行くと寝る場所が取られてしまう。
先客に優先権はあるのだろうが、すぐに横取りされる。島国根性の籠城的な態度では駄目だ。長老ウェストンは、日本アルプスは欧州の三分の二の規模だが、幽霊な谷と、鬱蒼とした森林は、欧州にはないといっている。日本アルプスは世界の公園にしなくてはいけない。
「立山に降り置ける雪を、常夏に見れども飽かぬ。神ながらならし 大伴家持」

七月二十六日 平の小屋  小川広吉
 室堂から浄土山〜五色ヶ原〜平小屋へ。毛布一枚では寒くて四時半目が覚めた。もう出かける一団がいる。そろそろ支度をしよう。強力に朝飯だと呼び出され、食堂に入った。食事を済ませスタンプを押して六時に小屋を出た。
 浄土山は室堂に近い。四十分ほど雪渓を渡って、岩に移って登る。綺麗な高山植物に吸い寄せられそうだ。七時五分、頂上に出た。谷一つ隔てて向こうに雄山。渇ききった喉を雪で潤す。稜線沿いにいくと、鬼ヶ岳に出た。この急傾斜の下りは怖い。天に聳えている。さらに進むと獅子ヶ岳。ここの頂上でも休んだ。ここで早めの握り飯を食ったが、旨かった。水筒の水も全部飲んだ。獅子ヶ岳を下るとザラ峠。リュックを峠に残して、五色ヶ原へ登っていった。晴天の時にはいい景色だと思うが、霧が深い。小屋の裏に雪水が溜まっていて、有難い。その小屋で焼印をしてもらっている間に雨になった。峠に戻る。
 ザラ峠から下っていくと、大雪渓になった。十町くらいあるという。強力はこの雪渓を降りるのに、這松の枝を折ってその上に荷物を乗せ、枝を引いて降りていった。我々はカンジキを着けた。雪渓が消えると清流になる。その清流の脇で休憩をした。ここでしばらく先生たちの昔話を聞いた。疲れも大分抜けた。この辺りは人跡稀な密林で、寂しいところだ。稲妻型の道を、千米も下らなければならない。その先で二三の人家を見つけたときには、ほっとした。それが平の小屋だと聞いたときには嬉しくなった。午後三時二十分。リュックを降ろして小屋の前の清流で顔を洗う。汗を流し終えた頃にはもう日が暮れようとしていた。小屋の中に入って手足を伸ばす。今日の旅も無事に終えた。そして静寂な大自然は眠りについた。

七月二十七日 針ノ木峠〜大町 大附 幸定
 黒部川はどうどうという音を立てて流れている。今日の予定は針ノ木越えだけだから、ゆっくり起きる。六時に朝食。温かい飯を腹いっぱい食う。快晴だ。籠の渡しを渡る。ここは昨年までは、通り籠で渡ったというのだが、今は針金を谷に渡した吊橋になった。間隔を置いて棒が羽目板代わりになっているだけで、梯子の横倒しのようなものだ。これを渡ると対岸には長野県人が建てている小屋がある。少し行くとまた別の渓流に出会う。これが針ノ木谷だった。黒部川の支流でもある。
 今日はこれに沿って登る。難所の一つ。天候はいい。針ノ木を越そう。少し登って振り返ると、昨日征服した立山連峰が朝日を浴びて輝いている。雪が白く光って綺麗だ。稜線の景色ばかりに憧れている僕らは、この鬱蒼とした渓流沿いの道には、根負けしそうになる。所々にキャンプの焚き火跡がある。道しるべの石も所々に置いてある。ときどき強力に何処が針ノ木かと聞くが、
「まだ見えませんが、向こうの谷が左に折れると、すぐに峠です」
 と言うのには、何だか先が長そうな気がしてくる。十時頃、渓流の木陰に寄って昼食にする。冷ややかな谷川の水がお茶代わりだ。小屋で握った大きい握りを遠慮なく食べる。さていよいよ峠に登ろう。食事で元気が戻った。一歩一歩踏みしめる。
 峠が近づくにつれ、雑木が頭に覆いかぶさってきた。登るにつれて周囲の木の丈が低くなる。後ろに雲が見える。今日もまた眺望を雲が邪魔するのか。一時間ほどで峠が見えるところに出た。右が蓮華岳(二七九八米)、左が針ノ木岳(二八二〇米)。ここで休む。頂上が目の前にあると、馬鹿に足が早くなる。
 雲が頂上を巻いてきた。心配になって強力に聞くと、
「つかえませんぞ」
 聞きなおすと、「心配はいらない」ということだった。急斜面に小石が多くなった。這松にすがって登る。苦しい道もここが最後だろう。ちょうど十二時、針ノ木峠の頂上に出た。昼食の残りは、風の通らない西側で食う。この予定なら、大沢小屋に寄らずに一気に大町まで下ろう。
 ここは富山と長野の県境だし、針ノ木岳と蓮華岳の分岐でもある。いよいよ十二時四五分、下山を始める。針ノ木雪渓は急傾斜だった。四五度くらいありそうに思える。白馬よりも急だ。カンジキをしっかりくくりつけ、杖を頼りに慎重に下る。最初に岡田氏が滑る。はっと思う間に二十間も下の方で、足を踏ん張って止まった。次に中里君が足を滑らして、やはり二十間も下に落ちる。まったく懸命である。思わず汗が出る。小川君も頂上近くで滑ったと後で聞いた。始めは怖かったが、雪渓も長くなり傾斜も落ちてきた。最後には駆けるように下り始めた。一里以上もある雪渓も終わって潅木帯に入る。そのまま二時、大沢の小屋に到着した。
 針ノ木雪渓を降りきった僕らは、ここで強力と別れた。
「皆はん、どうも有難うがした。皆無事で何よりでしたなあ。またお出でなはりませ」
 僕らは大町まで後五里ばかりと聞いていて、
「強力さん、いろいろお世話様、もうここまで来れば大丈夫だから」
 と別れた。小屋で休憩して、大町へ向かった。電光型の急な小道を通過して、潅木帯に入った。そうやって樹林を抜けると、籠川の支流に出た。そこで休憩し再び川に入る。そのうち大町が一望できる地点に出た。元気百倍になった。間もなく一小村に入った。大沢の小屋から無人の辺境を五里半。二三回休憩したが、五時間四十分。人家が散在し村人が鍬仕事をしていた。乙女が桑摘みをしていた。近所の茶屋で休む。
「爺さん、町までは近いかね」
「はあ、一時間で出ます。手を上げれば乗せていってくれるでしょう」
 不思議に思った。敷設されているのは木材運搬のトロッコ。奥の村人のために、乗車もできるという。茶屋の中には獅子の皮が敷いてある。村では熊狩りも行われていて、
「熊退治も面白がすよ。見ていったらどうです」
 御伽話ではないかと思った。昭和の時代に珍しい話だ。三十分ばかり休んで町に向かう。午後六時を少し過ぎた。太陽は姿を隠し、やがて大町の灯火がはっきり見えてきた。山は夜の帳だ。午後七時、ようやく対山旅館に着いた。美味しい膳に舌鼓して、暖かい布団に横になる。

七月二十八日 帰郷
 朝は七時半に朝食を済ませ、八時宿の主人に見送られて大町駅に向かった。店先には登山具が並んでいる。九時五十分の列車で松本に向かう。そこで一旦下車し松本高校を見学した。先輩の二三が学んでいる。さらに松本城址、天守閣。
 二時五四分の列車で長野に向かう。この列車も登山客で満員だ。長野では善光寺を見る。ソバ屋で夕食を取り、いよいよ午後十時四五分上野行きで帰途に着いた。翌日の午前七時川越で解散した。



昭和3年夏 北ア・烏帽子岳・槍ヶ岳

難コースからの槍ヶ岳
 初めての登山が槍ヶ岳というのでは、およそ難しい登山になった。しかも裏銀座といわれるコースの、烏帽子岳からの縦走だった。浅海弥一郎(大正2年3月生・昭和4年度旧制中学卒)の記憶では旧制中学3年生の夏のことになる。一級上ですでに故人となった市川宗貞(昭和3年度・旧制中学卒・後に飯能市長)がいるが、彼もその山行には同行したことを覚えている。
確かな記憶としては、松本から大町まで列車に乗って、高瀬川から烏帽子岳に登りついたこと。そのまま縦走を続けて、三俣蓮華岳・双六岳を通過して、槍ヶ岳に到達したこと。そして五千尺ホテルのある、上高地に降りついたことなどである。
「とにかく私は、水泳も好きだったし、登山も好きでした。旧制中学を卒業した後のことですが、坂戸や小川町の奥の山に一人で入ったこともあったし、テントを担いで赤城の小沼のほとりで、一人でキャンプしたこともありましたよ。一人でぶらっと、そんな旅に出るようなことが好きだったのです。だから中学のときにも、久保堤多(くぼ・ていた)先生に引率されて、好きな山に登れたのだから、私は幸せ者でしたよ。
 久保先生というのは、芸術肌の寡黙な先生でしたね。でも怒ると怖かった。
 あのときの縦走では、地下足袋にワラジを持っていったのですが、けっきょく地下足袋だけでワラジは使わずに通したんじゃなかったかなあ。もちろん雪渓もたくさん残っていましたよ。
 それに朝から晩まで、毎日毎日よく歩かされたものでした。確かにへばりましたが、だからといって落伍する者はいない。最後まで歩き通せるという自信があるものだけが、参加した登山だったわけですからねえ」
 顧問の久保堤多は、槍ヶ岳が好きな先生だったようだ。

北アルプス裏銀座 葛温泉〜烏帽子岳〜三俣蓮華岳〜槍ヶ岳〜上高地 
七月二十五日 川越出発
  二十六日 大町〜葛温泉〜濁小屋
  二十七日 濁小屋〜烏帽子小屋
  二十八日 烏帽子小屋〜水晶岳〜鷲羽岳〜蓮華小屋
  二十九日 蓮華小屋〜双六岳〜槍肩小屋
  三十日  槍肩小屋〜槍ヶ岳〜上高地・清水屋
  三十一日 上高地〜徳本峠〜島々〜松本〜長野〜大宮〜川越
引率は久保先生、橋本先生。部員は卒業生二名、在校生六名

七月二十六日 川越〜大町〜濁小屋 
 当初七月二十三日出発の予定だったが、アルプス暴風雨のために出発を二十五日に変更した。前日の夕刻、校長、加瀬先生に見送られて新田町(注・本川越)から西武電車に乗る。飯田町(注・飯田橋)に着くと大勢の登山客がカーキ色の服に、大きなリュックを背負って並んでいた。午後十時発の松本行きに乗る。車内は登山客で大混雑。汽車は汽笛と共に出発した。
 大月で大分降りた。諏訪湖を通って午前七時十二分、松本に着いて大町行きの信濃電車に乗り換える。大町の対山館で昼食を取り、強力の案内でトロッコ道を進む。途中流れの水を一口飲むのだが、
「槍で別れた梓と高瀬」
 の歌を思い出し、ここは高瀬の清流に沿って進む。所々に発電所の貯水池がある。そこで水を飲むと、
「これから葛まで休みなしですだで」
 と強力。
「これから休みなしは、行軍よりひどいや」
 と、仕方なく付いていく。途中トロッコ電車にすれ違うが、四五人乗っている。小学校の生徒たちが先生に写真を撮ってもらっているのにも出会った。葛温泉に着いた。予定ではここに泊まるはずだったが、対山館の海苔巻きの大握りを二つ食ってまた歩き出す。休んでいると、空のトロッコを引いた馬車がきた。馬方と強力が話をしている。
「濁小屋泊まりか?」「うん」「御達者で」。
「あれが高瀬の首ですだね」
 と強力が指した。覗き込んでみると果たして首のようだ(注・渓谷の景勝地)。「高瀬川景勝の地・神沢の紅葉」に着いた。渓流で頭や顔を洗う。午後五時十分、神沢の釣橋を渡って工事中の道を進むと、濁小屋(注・ブナ立尾根取り付きにあった小屋)に着いた。スタンプと焼印を押す。(横山清)

七月二十七日 濁小屋〜烏帽子岳 
 小屋の中で聞く水音に雨か雨かと思っていたが、それは清流の音で天気は快晴だった。小屋は山に囲まれているから展望はない。ただ遠く南の谷間に牛首山(注・大天井岳の西二五五三m峰)が浮かび上がっているだけ。川の流れは温泉硫黄の臭いがする。
 五時半朝食ができた。向かい合って五人ずつ十人しか食事のできない食堂。大根おろしがどんぶり一杯入っていて、キャベツの味噌汁と福神漬け。六時半、早速出発する。今日は行程は短いが時間を要する。小屋前の案内杭には烏帽子岳まで一里半、七時間とある。これは身軽な達者なものの時間だそうで、我々は十二時間行動の予定を立てた。
 出発して後から来たのは、昨夜キャンプをした二人連れの会社員だった。しばらくは渓流脇の花崗岩の崩れた白砂の上を歩く。道が急な坂になると電光形の登山道がついている。五分登っては五分休み、歩く時間と休む時間が相半ばする。バナナ、キャラメル、チョコレートを食べるのは爽快だ。五六回休憩した後に、標高二二〇八米の三角点に着いた。槍ヶ岳、大天井岳、燕岳、餓鬼岳、烏帽子岳た手に取るように近い。遥か東の霞の中に大町の家並みが見られる。北側に五十米下ったところに飲料水が得られた。その冷たい水を水筒に用意する。ここで昼食。昨日買って置いた林檎もうまかった。一時間後また登りだす。
 だんだん高くなると冷たい風も吹いてきた。白樺の生えている平らなところに、雪が溜まっていた。四年の伊藤君が真っ先にほじってきた。その先、岩山の地形を這い登る様子は、まるでピラミッドを登るようだ。洞穴には光苔も生えている。二時半に烏帽子岳と烏帽子小屋の分岐に出た。そこには高山植物が咲き乱れている。イワウメ、ツガザクラ、ゴゼンタチバナ、ヨツバシオガマ。荷物は卒業生の伊藤さんの案内人、飯田君に小屋まで運んでもらって、我々は丸山君の案内で烏帽子岳に向かう。山高帽のような烏帽子岩が、のっきり突っ立っている。槍ヶ岳と間違えそうだ。悪いこととは知りながらも、高山植物を十数種採ってしまった。烏帽子岩の直下まで来ると、ピッケルや水筒は置いていく。花崗岩の裂け目に岩乗りになるが、我々は軽業師ではないから深い谷を見ると恐ろしくてならない。足に、手に、目に、すべてぎゅっと力いっぱいになって登り、ついに頂上に出た。周囲の諸山は一望の下だった。南面に数米離れて、平らな岩が出ている。そこに寝そべり思う存分高山の気分を味わった。空模様が怪しくなって戻った。小屋に四時五十分に着く。
 小屋の前には雪解け水が溜まっていた。向かいには薬師岳、赤牛岳の高峰が重なっている。左には水晶岳。昨日会った二人はキャンプをしている。小屋には同じ埼玉の浦和町の人とか、朝日新聞社員、中学生くらいの子供連れもいた。夕方六時頃に霧が出て夕陽は見られなくなった。その後キャンプの二人が先生を呼んで、ご馳走ができたと言って来た。先生は僕らのために、缶詰の豆とコンビーフを鍋に持ってきてくれた。夕食は六時半、正座して食べた。わらびの漬物に、わらびの味噌汁、海老の佃煮、さっきの豆とコンビーフ。芯のある飯だがうまい。案内人の話を聞きながら食った。七時に人夫が布団を敷く。(小川広吉)

七月二十八日 烏帽子小屋〜蓮華岳 
 夜半の雨は朝になったら晴れた。霧の中から太陽の光が小屋に差し込む。六時二十分、強力を先頭に一列で進む。赤い牛が寝ているような赤牛岳は気に入った山だ。今日はゆっくりだ。三ッ岳の中腹で休む。そこを越えたところで雷鳥に出会う。石の上で日向ぼっこをしているようにうずくまり、周りに四五羽の子供がピョンピョン跳ねている。写真を撮ろうとしても逃げる。ついに丸山君(強力)は雷鳥の子を捕まえようとして競争を始めた。五分後、彼は雷鳥を掴んで持ってきた。これで久保先生は手帳に写生ができるし、他の者は写真に撮れた。
 野口五郎岳に着いたのは十時。ここで握り飯を食べる。遥か下の五郎池に日本アルプスの倒影が映るなどは、どんな形容詞で伝えたらいいのだろう。極楽と地獄が一緒にきたようだ。腹いっぱいになって出かける。遠く見えた水晶岳も手近になる。岩の尾根をかじりついて登った先に高山植物が一面に咲いていた。久保先生と市川君は、植物の缶詰を作った。
 水晶岳は尾根から別れて三四町のところにある。荷物を置いて水晶を取りにいく。残念ながら水晶はあまりよいのが見つからなかった。話によるとこの山は国有林ではないそうだ。引き返して残りの握りも食べる。伊藤君は水晶岳には行かずに先に出かけた。これで半分の行程は終わったが、一時にここを出発することになって、今日の規制は二十分ごとに休めるのは十分となった。強力もこれが本当の登山だと賛成した。
 鷲羽岳の麓まで来ると、霧がもくもくと湧いてきた。そのときに、霧に我々の影が映った。「御光だ」と誰もが叫ぶ。回りも紅で囲まれている。昔如来が現れたと言うのも、不思議ではないと思う。この山を登って下れば、前にかすかに小屋が見えてくる。伊藤君が途中まで迎えに来てくれた。腹も減ってほうほうの体で小屋に駆け込んだ。(永島重郎)

七月二十九日 三俣蓮華岳〜槍ヶ岳肩の小屋 
 起きたときには大部分の同宿者は前の小川で顔を洗っていた。夜明け前に雨でも降ったようで、這松はしっとりと濡れている。上方の山は朝霧に包まれている。六時二十分に出発したときには、ほとんど最後になった。今日もまたアルプスの一角を征服しに行く。
 大付君、小川君、市川君と、足に覚えのある者は、案内者などそっちのけで先頭に立って歩き出す。三俣蓮華岳の中腹で、
「あそこが東京の蛙と、大阪の蛙が出会ったところですよ」
 と案内者が説明した。なるほど小学校の教科書を思い出し、妙な形の二つの岩が、峰の上で顔を合わせていた。久保先生は鉛筆一本でそれを描き、伊藤、石川氏はコダックで撮影している。東西南北すべてに山が連なっている。
 蓮華岳を走破して、双六岳を越えて、双六池の湖畔で休憩した。付近は百花繚乱のお花畑。先年秩父宮殿下がアルプス登山の際の宿泊所が、そのまま残されている。ここで昼食をして、伊藤氏ご持参のカルピスを一本平らげた。
 再び出発し目の前の峰の頂上に立つと、同宿の朝日社員の一行が休息していた。私たちも彼等に付いていく。ここから先は西鎌尾根を経て、槍の肩に到着できるわけだ。左方にある赤褐色の赤岳や硫黄岳、遠くには牛首岳や大天井岳が続く。やがて峰への向きが変わって、足元に岩が続くようになると、すでに槍ヶ岳に足を踏み入れたことになった。案内人がいう。
「先年、秩父宮様がおいでになられてから、この道はこんなに歩きやすくなったものですよ」。
 それでも砂利で滑りやすく命がけだった。この辺りで東京のテント隊二名を追い越した。先生は遅れ、生徒は早い。私は案内人の後を「エッサ、エッサ」と追っていく。この岩稜は恐らく四十五度くらいの傾斜はあるだろうか。
 午後四時十分、太陽が西に傾く頃についに肩の小屋に到着した。ここは二階建てで売店もあるような洒落た小屋だった。お客も男女とも大勢いる。久しぶりに我が家に着いたような気持ちで夜はぐっすり眠れた。(浅海弥一郎)

七月三十日 槍ヶ岳〜上高地 
 山の朝は早い。三時だというのに雑談が始まる。やがて朝食の支度が始まると、煙は容赦なく部屋に立ち込める。2階建ての小屋にはさらに煙のご馳走が充満する。
 御来光だと皆戸外に繰り出した。晴天。絶好の青空に傍観着を被ったて小屋の前に陣取る。穂高の垂壁、笠ヶ岳、東鎌の大天井岳、遠くに白山。徳本や上高地や松本平は雲海の下にある。太陽は朝焼けの雲間から現れた。
 朝食は暖かい味噌汁を何倍も流し込んだ。そして槍の頂上に行く。荷物をすべて置いて防寒着だけ身に着ける。ちょっと西鎌を覗き込んだ後は、安山岩の大石柱に攀じ登る。凍える手で体をしっかり支え、小石が落ちる度にはらはらする。一度転がり始めたら止まらない急傾斜。下る人に道を譲りながら手間取る。
 それもつかの間、いよいよ三一〇八米の三角点。奥の北の端に祠がある。僕らは眺望を楽しんだ。強力の丸山が一々指差して説明してくれた。白馬連峰、五竜、針ノ木、蓮華。今日までに征服した烏帽子、水晶、西鎌尾根。小槍が北側に張り付いている。さらに剣から立山連山、さらに薬師から三俣蓮華。北鎌の険路を下れば高瀬の渓谷、さらに下れば濁へ行ける。小槍には未練があるが、小屋に戻る。
 大半の縦走を終えて、六時半に槍肩小屋に別れて山を下る。岩のざらざら、ゴロゴロの危険な道が殺生小屋まで続いている。大槍の小屋からは雪渓となる。第一、第二の雪渓は無事に通過。中にはゴザを敷いて滑って降りた者もいた。第三の雪渓は槍沢雪渓といって、十町もあり、相当急傾斜になっている。大付君は上手に下る。橋本先生は二十米も滑ってしまった。久保先生は滑り出してからピッケルも捨てて、頭が下になったが五十米下でようやく止まった。案内人が「危なかった」とつぶやく。その案内人は誰かの杖を故意に滑らして、人に当たりそうになって本人も青ざめていた。小川君はピッケルを後ろに突いて滑り出した。永島君はカンジキを付ける。私は静かに行ったが、二三回滑った。どうにか雪渓が終わったところで、濡れたシャツとズボンを脱いで日光浴をした。
 それから先は、道も広く木立があって歩きやすい。二ノ俣で昼食にする。食事をしながらこの山行の原稿を少し書いた。槍見河原で槍を見て、これが最後の別れかと思うと寂しくもあった。
「槍よ槍、また来るときを待っていてくれ」
 十一時半に牧場に出た。一方が山で一方が川に遮られて、親馬と子馬が仲睦まじく遊んでいる。ここで一生を送りたいような気がするが、冬の寒さを考えると嫌になる。徳本峠への別れ道まで来て、道を右に細い道に入り明神池に着く。池の前には穂高神社があり、岩魚が沢山泳いでいる。先年秩父宮様が穂高、槍を縦走されたとき、この池に糸を垂れたそうだ。足が疲れたのに案内人はどんどん行ってしまう。後ろの方では、
「何処へ連れて行く気か」
 と怒鳴っている。上高地へ近づくにつれて、気の合間にテントが見えてくる。新聞社主催のキャンピングだ。そのうち河童橋に着いて、清水屋に四時に着いた。予定では大正池まで行くことになっていたが、もう歩けない。曇天になり風も吹いてきた。焼岳にも登れそうにない。
 今日は初めての旅館宿泊で、田舎者が東京に行ったように、見るものが皆珍しい。障子、床の間、座布団、畳、電燈、浴場が珍しい。風呂に入ったのは六日振りだった。日焼けで体が痛い。お膳での夕食も初めて。梓川の清流の向こうは学生のキャンプが多いようだ。それでも雨が降ってきたようで、雨具を被りながら旅館に逃げ込んできた。テントでは雨が一番恐ろしいらしい。(大付幸定・市川宗貞)

七月三十一日 上高地〜徳本峠〜下山 
 北アルプスの縦走の疲れが出たのか、体中がいやに重苦しい。ふっくらした布団からなかなか抜け出せない。今日は雨だ。がっかりしたが今まで降らずに、今日だけの雨は幸いだった。焼岳は辞めにして大正池だけいく。六時頃、雨具に身支度して大正年間に生まれた大正池に出た。雨の中の池は、写真のように美しくはなく、古戦場のような白けた木立が空を指しているだけにしか見えない。いよいよ引き返して徳本を越える。
 河童橋から五千尺旅館を通って、徳本に差し掛かる手前で休憩した。強力は今日は一回しか休まずに、峠まで登り詰める。これには少なからず参った。頂上の茶屋で弁当を食う。強力は一つにしろとは言ったが、腹が減って握りを二つ食った。雨では展望もない。穂高の頂上が霞んで見えただけだった。
 ここからは九十九折の下りが待っていた。やがて岩魚止めへ出て、そこからは相当な木材が切り出され、積んである。トロッコのレースが敷かれていて、これを辿っていく。ゴザの雫が襟元に落ちて、いやに冷たいのが気になる。その先はもう夢中で、話をする元気もなく、ようやくの思いで午後四時に島々に着く。こうして六日間の山生活も終わって、今は車中の人になった。山の生活は暑中休暇の一事ではあったが、人生哲学とでも言おうか、高山の偉大なる教えを学んだような気がする。汽車の音を聞きながら、翌朝午前七時に川越に着いた。
「槍で別れた高瀬と梓 巡り合うのは恋の崎 有明節」(伊藤省蔵)




昭和4年 富士山

富士山には大勢が参加した
 浅海弥一郎(大正2年3月生・昭和4年度旧制中学卒)の記憶では、彼が旧制中学2年(大正15年の山行)夏にも、旧制中学は大人数での富士登山を行った。夏に千葉の岩井海岸での水泳教練に参加した者は、水泳部。登山に参加した者は登山部といわれた。水泳教室では、旧制浦和中学が赤ふんどしを着用していたため、川越中学は対抗して白いふんどしで、遠泳教練を行なっていたそうである。大正から昭和にかけての旧制中学の課題として「体育は国家の最大の急務たり」という政策があった。当時の卒業アルバムでも、水泳部と登山部は記念写真が並べて掲示されている。浅海は、昭和3年と昭和4年の夏には、水泳にも登山にも参加している。
「体の丈夫なものは、できるだけ参加するようにというようなことでした。同級生は100人ほどでしたが、その半数は水泳にも登山にも参加していたんじゃないでしょうか。この年の富士登山にも、大勢で登りましたよ」
 と浅海は遠い過去の思い出を話した。

七月二十四日 川越〜吉田 浅海弥一郎
 川中登山部四十二名、暑中休暇の第一日目を日本一の富士山征服の名誉を勝ち取らんと、金剛杖を持って集結する。新田町から西武線を乗り継いで、立川で汽車に乗り換える。猿橋で下車。断崖と断崖の間に、支柱なしで掛けられた黒木造りの橋。その奇橋を鑑賞してここで昼食。そこから自動車で吉田の旅館へ午後二時四五分到着。休憩の後に富士五湖へ車で向かう。湖畔には富士を背にして梨本宮の別荘もあった。船で遊覧する。旅館に戻った後には、明日の食料のパン、力餅を買い込み、就寝する。

七月二十五日 富士山七合目 宇田川明正
 午前三時半過ぎ、月明かりの中で出発の用意をする。宿を出たのは四時半。夏の朝の薄霧の中を進む。富士には一点の曇りもない。浅間神社に詣で、松林の一本道を進む。馬返しの茶屋から振り返れば、河口湖が遥か下に光っている。
「六根清浄、懺悔懺悔」
 という白装束の行者も脚絆、草鞋、金剛杖で強力の後から一団となって登っていく。二合、三合と進んでいけば汗が流れてくるが、一休みすれば冷風にひんやりとする。五合に十一時頃に着き、昼食にする。仰げば紺碧の中に絶頂が見えるが、まだまだ高い。雪渓も近くなった。ちょっと歩いては休む。道は一列で進む程度の幅になると六合に着く。殺風景な溶岩は赤く、小砂利は踏みつけると崩れる。七合目の小屋には赤い旗が翻っている。
 ついに杖を持つ手が冷たくなった。今日中に頂上まで進むつもりだったのだが、一行の疲労で七合目に小屋に泊まることにした。午後三時半、脚絆を解く。ずっと下の方から白い線がうねうねと続いてくるとは、登山者たちが引きも切らずに登ってくる様子だ。我々の小屋の前をどんどん通り過ぎていく。異常な人数だと思える。小屋の中で不味い夕食を食べて、薄い布団に横になる。夜になっても月明かりで薄明るい。夜通し登る登山者の鈴の音は、清い音として響いてくる。

七月二十六日 富士山頂上
 寝られぬまま小屋の外に出てみると、真冬のような冷たい風が毛糸のジャケットを通してくる。月明かりとギラギラと光る星。頂上が墨絵のように見えている。午前二時半だというのに、我々は登り始めた。間もなく手探りで鎖を掴んで、急坂を登るようになってきた。辺りが薄明るくなってくると登山者も増えてきた。
 遥か下に雲が明るく見えてきた。我々は八合の小屋で御来光を拝むことにした。眼下は壮大な雲海となっている。苦しそうに登ってくる後続を見ると、我々も同じように苦しんできたのかと愉快になった。
「校歌をやろう」「賛成、賛成」
 橋本先生の音頭で、四十数名は声の限り武蔵野の歌を歌った。薄桃色だった雲は、黄金色に染まってきた。誰もが偉大な自然の誕生を待ちわびる。
「おお、御来光だ」
 雲間に輝かしい一点が現れたかと思うと、ぐんぐん大きくなって、ほんの数秒間の間に雲を離れて勢いよく太陽は昇った。
「我らに、躍動するその生命を与えよ」
 思わず驚嘆の叫びを挙げる。我々はまた杖を突き始めた。頂上はすぐそこに見えるのだが、しかし遠い。やがて頂上の鳥居が見えてきた。そこをくぐると、やっと辿り着いた山頂。浅間神社の拝殿は大勢の人で賑わっている。石室で甘酒やぼた餅で腹を満たす。ゴザの上を草鞋で構わず入っていくので、変に思って足を返してみると、土は少しも着いていない。土産物を買った後、最高点の剣ヶ峰へ登る。大きな噴火口の端では、一心に御経を読んでいる二三人がいる。その頃には雲が湧いてきて、下界の様子は見えなくなった。惜しいようだがすぐに下山にかかる。
 案内人が岩のゴロゴロしたところで、皆を休ませた。腰の辺りが妙に暖かい。溶岩で暖まっている岩だった。砂漠の中のオアシスか。
「富士山の雪が一番早く溶けるのは、ここです」
 と案内人が話す。御殿場の下り口で案内人と別れた。「お大事に」に声を後に、どんどん下る。登っている人に会うと可愛そうに思う。右に雪渓が見えたところで、頬張る。富士の万年雪を食べたということだ。砂走りに入ると、ガスで一寸先が見えなくなった。下っても下っても砂ばかり。四方一面に擦り切れた草鞋が捨ててある。懸命に駆け下って四時間ほどで太郎坊へ出た。そこから馬車で御殿場に行く。日本人として、富士山へ登ったという安心感で満足する。




昭和5年 白馬岳〜白馬鑓〜宇奈月 (7月23日〜28日)
 
鐘釣温泉への下山は長かった 田中進(昭和7年旧制中学卒)
 旧制川越中学4年(昭和5年)のときの登山が、白馬岳。5年(昭和6年)のときが槍ヶ岳だった。
 大正3年生まれの私たちは、昭和2年の春、12歳で川越中学1年生に入学した。夏休みにどういう催しものに参加するのかというのが、部活だったような気がする。中学2年、3年のときには、千葉の岩井海岸で行われた水泳教室に参加した。2週間近くの合宿で、アルバムにある集合写真を見ると、櫓に登って全員がふんどし姿で勇ましい。総勢で40人も参加しただろうか。遠泳ができるということは、軍事教練の一環だったのかも知れないが、青年には必要なことだった。
 そして中学4年の夏、6月生まれの私は16歳になっていた。山岳部の顧問に久保先生がおられて、喜多院の裏手にある日枝神社の神主さんでもあったと思う。
「この夏は白馬岳に登るぞ」
 という計画を聞いて、それじゃ私も参加してみようかということになった。
 今となっては登ったことだけしか覚えていない。何しろ今年で92歳だ。ただ雪渓で少し滑って、おっかない思いをしたことは、どうにか思い出す(翌年の登山のときだったのかも知れない)。ず〜っと下までつながっている雪渓の、もし滑って止まらなかったとしたら、私は雪の中に潜ってしまうのかもしれないという、そういう怖い思いがした。私にとっては初めての登山がこの白馬岳だったのだから。
 こうして苦労して、白馬岳の頂上に間違いなく到達したのだろう。多分頂上の付近の小屋で宿泊して、黒部川の鐘釣温泉に下山したことだけは確かなことだ。延々と眼下に見える黒部川の渓谷に向かって下り続けると、その温泉があった。ひなびた温泉に宿泊して、翌日は電源開発のトロッコ軌道に沿って、富山の滑川の方に降りて、戻った。
 山岳部という部活が、どのように旧制中学のなかで存在していたのかは、正直あまり定かではない。しかし私は、その年の学校で出版した年次報告のようなものに、山岳部の活動として、この白馬岳登山のことを記録した。もはやその本は手元にもないのだが、しかし夏休みのこの唯一の催し物が、部活動だったということになる。その記録を書くときに、実は前年の年次報告も参考にしたのだが、それは前年にも久保先生はやはり生徒を引率されて、どこかの登山を行っていたことになる。部活は私の前の時代からも、延々と継続していたことだけは確かなことだ。

白馬岳登山記 
<白馬大雪渓からの白馬岳登頂・・・、それなら話は分かる。しかし下山は黒部川の祖母谷温泉から欅平へ。さらにそこから宇奈月まで歩き通している。それはまるで冠松次郎の時代の黒部峡谷のようなものだった。日本電気が電源開発で施設したトロッコ電車は、まだ人を乗せない作業用の軌道に過ぎなかった時代の登山である>

予定 
一行 十三名(久保、桜井両先生。卒業生一人、生徒十人)
旅費 十七円十八銭
行程
七月二十三日 川越〜池袋〜飯田町
七月二十四日 松本〜大町〜四谷〜白馬尻
七月二十五日 白馬尻〜白馬大雪渓〜白馬岳頂上
七月二十六日 白馬岳山頂〜杓子鑓ヶ岳〜祖母谷〜猿飛〜鐘釣温泉
七月二十七日 鐘釣〜新鐘釣〜宇奈月〜三日市〜直江津〜長野
七月二十八日 大宮〜川越

七月二十四日 川越〜白馬尻
(夜行列車を乗り継いで、翌朝大町に着く)
 アルプス連峰を前に、快く電車に揺られることしばらく「大町」に着く。案内者が駅に迎えに来ていた。いかにも快活そうな人だ。ここで少し休憩し弁当その他の準備を整え、自動車二台に分乗。折からやってきた小雨の中を全速力で四谷(白馬)へと進んだ。
 雨は間もなく止んだが相変わらず危険な空模様だ。人跡稀な高原を北へ北へと進み、急なカーブを幾つか曲がり、次第に左手に崖が迫って木立の中へ入る。
「湖水だ」
 反射的に左方へ目を転ずる。蒼然たる湖面がちらりと目に入ってすぐ視界から消えた。カーブの多い険路を行くことしばらくしてまた見えた。今のは「木崎湖」だろう。この辺から広くなった湖水は、北へ長く延びている。鏡のように穏やかな水面には小波さえ立たず、濃い壁玉の面には鬱蒼たる対岸の樹木を浮かべている。しばらくするとまた湖水だ。地図を見たら「中綱湖」だ。崖を走り「青木湖」も後にして、間もなく平坦な地に出た。もう四谷だろう。間もなく左方に街道をそれた。「白馬登山路」の標識がちらっと見えた。もう道はかなり険しくカーブも多い。所々で荷馬車にあった。
 やがて「二俣」に着いた。小屋が二、三軒ある。ここで車を捨てる。意外にも太陽がでた。暑いほどじりじり照り付けていた。目を転ずればすぐ前方に白馬連峰の雄姿。雲の間に白雪が谷を彩っている。我々はこの山を征服するのだ。こみ上げる歓喜の情、燃え立つ意気。茶屋のベンチで案内者から受け取った大きな握り飯をぶかじりついた。うまくない。絵葉書を買って盛んにスタンプを押した。家や友へ手紙を出す者もある。僕も、
「天気がよい、元気で登山の途につく」
 と書いた。時に正午。一同支度を整えて登山の一歩を踏みしめた。
 案内者らしい人が一人下りてきた。下り足は速い。すぐすれ違って見えなくなった。少し遅れて女学生が下りてきた。元気なものだ。もう休もうかといったが、案内者が水のところまでと言ったので、そのまま歩き続けた。道は羊腸のごとくうねりだした。幅も狭くぬかってきた。
「こちらは昨日大夕立がありましただよ。一時は随分ひどうがした」
 快活な案内者が後ろの方で口をきいた。ひどい、もう泥海のようだ。所々にある石や横木を頼りに、滑りそうな足を踏みしめながら進んだ。
「さあ、休もう」
 しばらく休憩。もう一時間近く歩いたろう。大分喉が渇いた。
「この水は飲めますよ」
 案内者が真っ先に小川の水を飲んだ。リュックサックはベンチの上に置いて、コップで二三杯飲む。
 道が急になった。電光形の道が続くと、やがて山の峰らしいところへ出る「猿倉」だろう。小屋と二、三人の登山者が見えた。そこを通り越すとキャンプ指定地と標柱が立っていた。水の音が近づいてくると「長走沢」だ。先刻から危ないと思っていたらついに雨がぱらついてきた。それとばかりにゴザを取って身に着けた。雨は益々激しくなってきた。幾度か転びながら急いだ。雨避けになる木は一本もない。仕方なく急ぐ。
「早くこーい」
 何時の間にか自分一人になってしまった。幾度か止まって下の方へ、
「早くこーい」
 と怒鳴ってやった。少し止まっていると桜井先生が見えてきた。急に前が開けて川に出た。一面の大石だ。雨でもうかなり焦っているので、危ない橋も夢中で渡った。針金に危うく足を取られるところだった。石が転がっているばかりで、どっちへ行ってよいか見当もつかない。気が付くと広い標柱に「白馬尻」と書いてある。
 トタン屋根の小さな小屋で、下にテントが一つあった。入り口に入ってほっとした。中がごった返している。多分この雨に追い込まれたのだろう。自分も濡れねずみ。ほっとしたら寒くなってきた。手もつけられないほど濡れたゲートルや足袋を取ってとにかく座敷へ上がった。小屋の人がきて釘を打つ。そこへ荷物を吊るす。シャツを着替える。炭火を土間に起こす。火の上へ濡れたものを吊るす。杖を片付ける。そんなことが終わってようやく小屋の中が落ち着いてきた。夕食は先刻のテントの中で食べるのだそうで、二回目にこちらの番になった。ライスカレーはちょっと気が利いている。白樺のベンチに腰を下ろして渓の樹海を見ながら食事をするのも、全く山でなくては味わえない。夕飯を食べれば寝るばかりとなった。(矢沢修次)

七月二十五日 白馬尻より白馬頂上小屋へ
 ひやりとした寒さに目を開いた。まだ寝ている者もあったがやがて皆起きた。雨はまだ降っている。心配して案内者に聞いたら、
「大丈夫でがす」
 と平気な顔。山の朝食は不味いと聞いたが、今朝もかなりうまかった。但し塩辛い味噌汁には閉口した。水もゴミが浮いていて飲めなかった。あわただしい出発だ。
 小屋のすぐ裏から、雑木の茂みの中の細道を辿って黙々と進む。次第に水の音が高くなってくる。しばらくで昨日の川上らしい所にでた。谷間に出たので木立は無く、冷たい風は容赦なく雨を吹き付ける。前面は全くの霧の海。そこが「大雪渓」なのだ。白雪は渓谷を埋め、その末は霧に及んで海面のごとく小波打って続いている。すぐ前に雪渓の末端が口を開いている。
 足がもう冷たくなった。雪の上を滑りそうな足を踏みしめ登った。亀裂を避けて左方を進んだ。雨は止んだが霧は四方を包んで全く視界を遮っている。傾斜が増して危険になってきたので、左側の岩の上でカンジキを着けた。小屋で一緒になった女学生の連中が滑っている。カンジキを付けたものまで滑っている。こちらも危ないので力を入れてカンジキを氷に踏みつけ、杖を頼りに一歩一歩登った。先に行った見目らが、行き悩んでいる近くまでいくと、あっという間に二、三人滑った。腹ばいになってやっと止まったようだ。急いで近くへ行くことも出来ず、見ているとまた滑った。
「左の方へ出ろ」
 と怒鳴ってやった。やっと岩に辿り着いたようだ。人事ながらほっとした。あのまま滑って亀裂に入れば、人間の氷漬けになってしまう。カンジキをつけないのだから無理はない。皆休んでその者もカンジキを着けた。
 約二十町の大雪渓を、カンジキと杖を頼りに登って「ネブカビラ」に着く。ここで一休みしてカンジキを取った。さらに電光形の道が続く。高山植物の一帯が続き、その後這松が斑に地面を覆っている。
「小雪渓は何処だろう?」
 案内者が首を傾け始めた。しばらくで先頭に追いつき、小雪渓らしいところに出た。案内者の言うがままに右の雪の無い方を細い流れに沿って登った。そこが小雪渓のところになる。いつの間にやら辺りは全くの高山植物帯、お花畑だ。先ず黄色いのが目に付く。「御山きんばい」と言うのだそうだ。お花畑は正に春だ。
 約一時間登っていくと、県営小屋の前に出た。後二、三町で頂上小屋だと言う。幾度も腰を下ろしてようやく辿り着いたのは十一時。小屋に駆け込んでほっとした。温かい昼食に蘇生の思いがした。ここで手紙を書いて出した。小屋は幾棟もあった。
 霧が深いが頂上までは行くことにして、杖だけ持って登った。所々に這松と高山植物があるだけで、崩壊した岩石ばかりゴロゴロしている。「すぐ」と言ったが、なかなかである。やっと頂上らしいところに着いた。三角点があった。確かに頂上だ。しかし何も見えない。寒くてたまらないので、見目と二人で先に引き返した。半日を小屋の中で、案内者の経験談、それに明日下る黒部の話に花を咲かせた。


七月二十六日 白馬岳頂上から白馬鑓〜鐘釣温泉  
 午前五時猛烈な寒さのため、山頂の夢は早くも破られた。密閉された小屋の中に大勢寝たためか、頭がづきづき痛んで実に不愉快だ。冷え切った濡れ足袋を履いて洗面に行く。
 六時十分、せっかくの期待を裏切られて少なからず落胆した僕ら一行は、それでも望みを抱いて小屋を出発した。今日は杓子、鑓ヶ岳を経て黒部の秘境を踏破するのだ。僕らの意気は当たるべからざるものがある。強力を先頭にして昨日登った道を引き返す。県営小屋の下で右にそれた。間もなく雄雌の雷鳥を見つけた。道はこの辺から山の背を走っている。しかし霧は相変わらず深く立ちこめ、その上雨さえ降ってくる。
 周囲は一帯に赤褐色をした径五、六寸大の石で、杖の金具がこれに当たるたび毎に「カチーン」と高く響いて静寂を破る。約四十分も歩いたかと思われる頃、また雷鳥に出会った。今度は親鳥一羽にヒナ七羽。母親に連れられたヒナの姿は、どう見てもヒヨコそっくりだ。早々にカメラに納める。やがて「杓子岳」にかかった。電光形の坂道をあえぎ登っていくと、間もなく頂上に着いた。但し眺望は全然利かない。
 小憩の後出発し、岩石の間を上下すること約三十分にして「鑓ヶ岳」に着いた。道は頂上より五十米下の山腹にあるのだ。そこでリュックを下ろし、有志の者のみ頂上を極めることにした。頂上から戻るとき、霧が次第に晴れて右手の山が僅かながらも見えてきた。「この分では・・・」と大いに喜んでいると、また濃霧がやってきた。しばらくして一寸した山の頂近くにきた。ここで白馬尻小屋以来、常に僕らと前後してきた二人連れの女の人と別れた。彼女たちはこれから白馬(鑓)温泉へ行くのだ。僕らもここで白馬山脈に別れを告げ「中背」道と通って、第二の目的地黒部峡谷へと向かうのである。
 道は下り一方なので、足は自然に進む。やがて草原に出た。連日に雨で土も草もすっかり湿っているため、実によく滑る。お花畑を過ぎると雪渓の麓に出た。強力の話によれば、これが最後の雪渓で、ここから祖母谷まで三里の間は水が全く無いとのこと。昨日以来雪渓には度々出会っていたので別段珍しくは感じないが「これが最後だ」と言われると、やはり何となく懐かしい。
 下るに従って道は悪くなったが、雨も止み霧も晴れてきた。見れば左手には中ノ谷が深く入り込み、その向こう側の山は一帯に樹林で被われ真っ白な岩壁を露出している。一時間で中背山を過ぎる頃にはすっかり腹が減り、元気が出なくなってしまった。早速昼食を取る。十一時。十一時半に出発。
 さらに下っていくと、梯子渡りの難所も現れてきた。強力に尋ねれば、この道は四年前に開いて以来未だ一度も修繕していないと言う(注・現在は廃道)。一時頃、右手頂の丸い大岩石は坊主岩が見えた。非常に喉が渇いてきたが、水筒の水は昼食のときに飲み干してしまって、一滴も残っていない。足の疲労も増してきた。
「祖母谷までどのくらいありますか」
 と強力に聞いても、ただ笑っているばかりで返事をしてくれない。
「まあ、言わんでおきましょう。皆の衆ががっかりするによって」
 と心細い。猛烈な渇きと疲労に悩まされながら下ると、何時の間にか先に行った強力が、水を持って迎えに来てくれた。「有難い」。我を忘れて水筒に飛びつき、続けざまに四、五杯飲む。実にうまい。こんなにうまい水を飲んだのは生まれて初めてだ。そこからしっかりした足取りで下り、二時祖母谷へ着いた。
 おお、何という美しさだ。両岸には真っ白な花崗岩が滑らかな肌を現し、その間を青緑色に澄み切った水が、矢のように流れている。黒部を暗い陰深な谷と信じていた僕らにとっては、それは全く予想外な光景であった。ここで最初の吊橋を渡った。数本の針金に二尺間隔で棒を結びつけたもので、縄梯子を張っただけのようなものだ。数分して温泉跡に着いた。ここは明治四十四年の出水までは温泉宿もあったそうだが、今は荒れ果てて小屋が二棟と野風呂があるに過ぎない。前の川に入って思う存分水を飲む。熱い番茶をすすり、焼印を押して二時半に出発した。
 下るに従って谷は深くなり、両側の断崖はその高度を増していく。吊橋を渡り、梯子を下って難行を続けること一時間で、欅平吊橋〜祖母谷、宇奈月間で第一の難所に着いた。橋の長さは四、五十間もあろうか。その遥か十数丈の絶壁の下で、黒部の激流が雪波を蹴り立てている様は実にものすごい。勇気を出して一人一人渡り始める。祖母谷以来すでに三つ四つの吊橋に出会ったが、こんなに恐ろしいのは初めてだ。皆夢中で渡ってしまう。
 本流になると「猿飛びの奇岩」に着いた。ここで強力が足を止めて、
「さあ、皆の衆、これが猿飛びでがす。よく見ておきなはれ」
 覗きこむと、十間もあった川幅が、いきなり二間ほどに縮められ、清流は渦を巻いてこの間に吸い込まれていく。
「どうでがす、皆の衆。畜生の猿でさえやる、あの岩を跳んでみては」
 臆病な僕らは驚かされた。
 だらだら坂を下っていくと、立山道との分岐に出た。目の前に大きな吊橋が見える。小黒部の吊橋だ。これは傾いていたので随分危険だった。さらに下り対岸の絶壁を眺めると、日本電力会社の高圧線に出会った。道はこの辺りから断崖の中段を走っている。この道はダイナマイトを爆破させて作ったそうだが、随分危険なところだ。十分歩くと道下の窪地に鉄道工事用の小屋があり、そこから道に沿ってレールが敷いてあった。強力が、
「日電の専用軌道でがす」
 と教えてくれた。やがて「ウド谷」に着いた。鉄橋を渡って休憩する。皆がゲートルを外して足の疲れを抜く。
「さあ皆の衆、後四、五町で鐘釣でがすぞ。元気を出して歩きなはれ」
 かなり歩いた後、道の屈曲点にくると、目の前に数軒の人家が見えた。強力が、
「あれでがす。あれが鐘釣でがす」
 ようやく鐘釣へ来たのだ。そう思うと今までの疲れも何処へやら消えてしまった。誰かが、
「何だい、馬鹿にあっけないじゃないか」
 といって笑わせた。ここには相当な宿屋もあって、小屋はあれど人はあらずという案内書、これは五、六年前のものだが、を読んできた僕らを面食らわせた。
 直ちに指定された宿屋へ行く。六時二十分。二階に案内され旅装を解いたときには、蘇った気がした。間もなく夕立の豪雨で、小降りになるのを待って風呂に行く。恐ろしく長い電光形の道を下って、黒部川の河原に出ると天然の一大浴槽があり、温泉が沸きだしていた。思う存分手足を伸ばし、雨に霞む夕景色を眺めてた。宿屋に戻って夕食と登山話に花を咲かせる。九時に布団に入った。(吉沢源一郎)

七月二十七日、二十八日 鐘釣温泉より故郷へ
 午前五時、平和な鐘釣の一夜は明けた。澄み切った青空だ。それでも上流地方には昨夜かなり雨が降ったとみえ、あれほど澄んでいた黒部川の水も、今朝は黄褐色に濁っている。水量も随分増したようだ。六時出発した。
 気が付いてみれば、杖には「猿飛び」「黒部鐘釣温泉」の焼印が押してある。対岸の絶壁が相変わらず凄い。
 西鐘釣山の東麓を迂回すると道は急に下って、新鐘釣温泉の対岸に出た。長い吊橋がある。ところが中ほどまで渡ったところ破損していて、戻ってきた。仕方なく先程の道を登り返して、線路沿いの鉄橋を渡る。対岸の強大な東鐘釣山と、絶壁の中段に建てられた新鐘釣の温泉の絶景は、図画のようだ。右岸に着くと今度は東鐘釣山の西麓を迂回して、対岸の「似合谷」を眺めながら進む。線路に沿って十町も下ると「猫又谷」の堰堤に着いた。黒部川の水はここで二本の大鉄管に吸い込まれ、十町ほど川下の猫又発電所に送られる。
 しばらく行くと先頭の者が、
「汽車だ、汽車だ」
 と叫ぶ。あわてて線路から飛び出すと、玩具のような機関車がトロッコ客車を三両引っ張っている。それは午前五時宇奈月発、午後五時宇奈月着。一日一往復というのだから、随分のん気だ。
 猫又からサンナビキ谷の落ち口までが「七谷越え」の仙境で、川が幾重となく屈曲している。一足ごとに変わる川景色を眺めながら歩いていると、やがてサンナビキ谷の正面にきた。ここで休憩するが、七、八人の人夫が登ってきた。捜索隊だ。聞くと数日前に黒部峡谷を探検に来た京大生が、鐘釣以来消息を絶っているという。
 八時半頃、雄大な黒薙川の鉄橋を渡って、黒薙温泉へ出る。今朝はあれほど晴れていた空も、大分怪しくなってきたので歩を速める。「嘉々堂」「野坊瀬」「尾沼」の谷を対岸に見ながら進み、九時半頃「柳河原」の発電所に着いた。トンネル番号が少なくなって、さらに三十分で「宇奈月」の鉄橋に出た。宇奈月の町はすぐ目の前に見える。ようやく帰りの汽車に乗れる。
(以降、黒部電気で三日市へ。北陸本線で直江津から、信越線で長野。善光寺を参拝して夜行で大宮経由で川越に戻った。なお捜索隊が出た京大生の遭難は、翌日の新聞に「京大生の死骸が発見される」と報じられていたそうだ)



一九三一年(昭和六年) 燕岳〜槍ヶ岳 (8月1日〜6日)

岩稜帯の山が好きになった 浅野四郎(昭和七年旧制中学卒



 昭和6年夏の槍ヶ岳登山の、右から2番目に写っているのが私ですね。立ち姿の左から3人目は、先年亡くなった6歳年上の私の兄の誠一(大正14年度川越中学卒)で、当時は慶応大学の医学部に進んでいました。在学中の兄は剣道部だったと思いますが、登山が好きで、あちこち登っていたように思います。だから久保先生とも親しかったのでしょう。
 その画家の久保先生も、銀行勤務をしていた私の父親が、小仙波にある光西寺を立ち上げるときに、檀家世話人として私も寄付を集める家の手伝いをやらされたことで、先生にはお世話になりました。お堂に唐紙を貼り付けるときに、久保先生に絵柄をお願いしたものでした。家の手伝いを通じて、私も先生のことは存じていました。
 その兄に、この年の槍ヶ岳の登山の話を聞いて、私は連れて行ってもらったというような登山でした。覚えているのはわずかなことだけです。槍の穂先までは、疲れ切ってどうしようもなかったのですが、頂上近くの鎖場になったと思ったら、急に元気が出てきて、私は先頭で登っていったのではなかったでしょうか。元々運動では鉄棒が好きだったものですから、鎖を鷲づかみにして、身軽にぐいぐい登っていったことだけ、それだけを覚えているだけです。それと、下山中に大正池を通ったことですね。
 いったい私たちは、どの道を通って、この槍ヶ岳にたどり着いたのでしょう。あれが常念岳、向こうが燕岳と途中で説明を聞いたような気がしますが、槍の他の頂上に登っていませんから、その麓でも通っていったのだと思います。
 この槍ヶ岳は実は私の2回目の登山で、最初は富士山でした。これも兄に連れられていったものでした。
 槍ヶ岳の印象というのは、痛烈に私の記憶の中に残っていたのかも知れません。中学を卒業して以降は登山の機会もなくて、就職して、徴兵されて、復員して、仕事に忙しくて、相当長い期間登山はできませんでした。しかし樹林帯の山よりも、その上の潅木帯や、這い松帯や、岩場の山が好きなったのは、間違いなくこの登山の影響だったのかと思っています。
 仕事も家庭も落ち着いて、槍ヶ岳の次の登山のチャンスは、もう六十歳を過ぎてからのことになりました。足腰が弱っても登れる山を探して、妻と一緒に新穂高ロープウェーから、お花畑まで進んで、新穂高温泉に戻ったこと。その六十一歳の年には大町から室堂に入って、弥陀ヶ原に泊まって富山方面にも下りました。
さらに十年後の七十一歳のときにも再び同じ場所を訪れて、そのときは西穂山荘から独標まで到達できました。岩稜帯や這い松の感触は、50年以上も前の槍ヶ岳とまったく同じでした。稜線から見下ろす上高地の眺めというのも、素晴らしかった。ただ上高地に行ったときに、以前に見た大正池は立ち枯れが池の中に何本も残っていたのですが、それは少なくなっていました。焼岳の噴火でできたというこの自然湖も、堰堤で補強されていて、昔とは変わりました。
その年にはまた室堂に入って、一ノ越山荘に宿泊してついに念願の雄山頂上まで達することができました。夜明け前にご来光を見ようと登山したのです。それもまた這い松と岩稜の山に登ってみたかったからです。昭和六年の槍ヶ岳というのは、少年の心に大きな残像を宿しました。

 

卒業後にも毎月登山をしていた 田中進(昭和7年旧制中学卒)

「その翌年、旧制中学5年の最上級生になったときの夏の登山が、槍ヶ岳だった。手元のアルバムに、当時の山登りの唯一の写真が残っているが、それが槍ヶ岳の登山のときのものだ。晴天の槍ヶ岳を背景に、「昭和6年8月4日・朝・殺生小屋で撮影」と当時の注釈が付いている。殺生小屋で宿泊して、翌朝の出発のときの撮影だと思われる。近影で映っているのは、総勢で10人。指導していた久保先生のほかに、桜井先生、橋本先生と3人の先生がいる。桜井先生はロングコート姿だ。いいや、私たち生徒も、通学の服装で槍ヶ岳に登っていた。詰襟の上着、学生帽をかぶって、ゲートルを巻いていた。なんだか下界の町にいるときの写真のようだ。


生徒は、右端に私。隣の浅野は兄と二人で参加した。その隣が鈴木で、彼は広島で今でも健在である。そのほかに鹿島、丸木とあるが、1年下の者だったかもしれない。生徒は総勢6人。この年の山岳部は6人いたはずなのに、名簿にそれだけの人数がそろっていないのは不思議だ。そして「大町山案内者・日本アルプス」という半被を着て、煙草をくゆらせているのが、強力の町田さんだった。山の案内人を連れなければ、槍ヶ岳などには登れなかった。
それにしても、どうして遠景と近影が上手に映っている写真があるのだろう。中学の先生にしても、カメラなどは持っていなかったと思う。多分、殺生小屋には写真屋が待機していて、記念に撮影させたのだと思われる。
槍ヶ岳という山には、それ以前に、秩父宮様が登山されたということだけは聞かされていた。誕生日が私と同じ6月25日という偶然のめぐり合わせだ。崇高な山だったのだろうか。登山客も多かったのだろうか。
この撮影した日は、殺生小屋から槍沢の長い道を下って、上高地の大正池のほとりに出た。下った日は、そこに泊まった。



そして翌日には、徳本峠を登り返して島々に下山した。当時の上高地は牧場だったようだ。そうして列車に乗って大宮に戻る。川越へは、大宮駅の西口から出ていた路面電車に乗って戻った。川越の久保町が終点となって、今の中央公民館のところにその駅があった。
気の毒な話があった。この路面電車は、荒川の河川敷のところで複線となって、上り下りが行き違っていたのだが、そこでその頃に事故があった。車両が横転して、デッキに乗っていた野球部の5年生が事故に巻き込まれて亡くなった。野球部はその日、栃木の方で試合があって、その帰りだったらしい。気の毒な事故だった。
槍ヶ岳の登山で覚えているのは、それだけだ。どこから登ったのか、その肝心なことを忘れてしまった。下りと同じ道を登ったのではない。なんとか高原というところだと思うが、別の登山道から登っている。それに今思い返すと、食料などはいったいどうしたのだろう。小屋に泊まりながらの登山だったから、山小屋で食事をして、弁当も持たせてくれたのだろうか。他にどのくらいの登山客がいたのかも、分からない。
私はこの年に川越中学を卒業して、鉄道省の専門学校に進んだ。実はそこでも登山をやる仲間に出会った。富士山には、都合3回の登山を行った。昭和11年の夏、昭和14年の夏。当時はもちろん富士吉田から歩いて頂上まで登った。その3回目の登山の予定は、今でも覚えているが昭和16年7月18日の日曜日の予定だった。なぜなら、その日私は赤紙で召集されて、津田沼の部隊に入隊することになって、3度目の富士登山の計画は実行できなかったからである。
ちなみに私は、鉄道部隊として召集され、しばらく国内にいた後、部隊は満州に移る。今の北朝鮮と中国国境の鴨緑江に鉄道の橋を掛ける作業などに付いた。終戦後ロシアに抑留されて、森林伐採をさせられて、舞鶴港に復員したのは昭和23年になってからだった。そして不実行だった3度目の富士登山は、55歳になってから、子供連れでようやく達成できた。それが生涯最後の私の登山になっている。
実は、兵隊に行く前には、鉄道学校の仲間と、谷川岳、妙義山、尾瀬と毎月のように登山も行っていたものだった。
私が川越中学時代にこうした登山をした影響だったか、1歳年下の弟も影響されて、木曾の御嶽山に登ったこともあった。中学の裏山に御岳山があるが、あそこは富士見櫓と呼ばれ、御岳山神社がある。そこの神主の伊藤さんという人は、毎年夏に本山の岐阜の御嶽山に登山するとかで、私の弟が希望するなら連れて行ってあげようというような話になったらしい。伊藤さんの兄弟は、私が復員したときには川越市の市長をしていた。地元の名士である。当時の若者は、軍隊教育の一環として、水泳、登山は推奨されていたような気がする。
なんだかこんな話をしていると、昔のことを思い出して本当に楽しいなあと思う。
山小屋に何泊もして、山の案内人を雇って、山岳部は贅沢な部活だったのだろうか。まったく不確かな記憶なのだが、川越中学の月謝は、当時3円50銭だった。あの頃は、年齢と同じだけの給料があれば、20歳なら20円の給料で、夫婦が借家で生活できるといわれていた。今で言えば20万円くらいなのだろうか。それだとすればあまりにも月謝が高い。現在50円の葉書は、1銭5厘だった。
ちなみに同じアルバムの中に、昭和17年発行の10円の戦時国債もある。7円でそれを購入して、10年後に償還されると書いてある。勤務先の賞与の一部が、このような戦時国債で支払われていたということだ。昭和18年の20円国債は、14円の賞与が当てられていた。その頃、私は満州に召集されていたが、鉄道部隊の士官として、少尉から中尉に昇格して、70円くらいの給料をもらっていた。
白馬岳も槍ヶ岳も、その後は一度として登ったことはない。写真で見かけるだけとなっていた。しかしそこへ自分が旧制中学の時代に本当に登ったのかと思い出すと、なんだか愉快だった。大正池の辺りに車で行けるようになって久しいが、やはり自然は残していかなければならないと思う」

槍ヶ岳
<当時の北ア・表銀座のコースへは、有明温泉から登山口の中房温泉まで四時間程度の徒歩が強いられた。登山道への取り付きはそれからである。初日登山部はこのアプローチで雨にたたられて、散々な思いで中房温泉に到着している。そこで宿泊したメンバーは、翌日一気に槍ヶ岳まで足を伸ばそうとしていた>
 予定 九名 久保、橋本、桜井三先生。卒業生一名。生徒五名。
 旅費 金十七円二十五銭也。
 行程 
第一日(八月一日)川越−池袋−飯田町
第二日(八月二日)松本−有明−中房温泉
第三日(八月三日)中房温泉−燕岳−大天井岳−喜作新道−殺生小屋
第四日(八月四日)槍岳−一ノ俣−徳沢−明神池−上高地−大正池
第五日(八月五日)上高地−徳本峠−島々−松本−長野
第六日(八月六日)大宮−川越

八月三日 中房温泉〜燕岳〜槍ヶ岳殺生小屋  
 硝子戸を通して、薄い霧に包まれた山肌が見えている。北アルプスの懐、中房温泉に夜が明けた。谷川の水が小雨のような音を立てている。そうだ、今日はいよいよ燕岳を越えて一気に槍ヶ岳までゆくのだ。山の冷気と共に心は一層引き締まった。
 朝飯を済ませて直ちに準備、昨日の雨で濡れた脚絆は、まだ半乾きのところもあるが、昨日ゆっくり温泉に浸って休んだのですっかり新しい力があふれた。五時二十分中房に別れを告げる。
 宿のすぐ前から今日の第一行程、燕を目指して熊笹の生い茂った合戦沢林道を登ってゆく。天気にも恵まれ一行は元気で張り切っている。最初の道連れは穂高小学校の子供たち。燕岳一泊遠足の一群で、何やら盛んに喋りながら小さな体を身軽に動かしては、熊笹の中の近道に潜り込む。有明山は後に段々低くなってゆく。
 やがて森林帯に入ると、樹の根、岩の陰には高山植物が珍しい花を咲かせている。橋本先生の実地教授に与るが、なかなか覚えられるものではない。ただ可憐な寂しいつつましい美の存在である。一気に急な坂を登る詰めると白樺が明るく並び立って、その林の中から絶え間なく鶯の声が聞こえてくる。我々には珍しい鶯の谷渡りを聞きながら、ここで先ず休んだ。三人の先生の写真を誰かが撮った。倒木には苔が生え、白い霧がときどき押し寄せてくる。森林はよほど続いた頃、少し低くなったところに合戦小屋があった(六時二十分)。水桶に一寸触って音を立てると、小屋の中から小屋番が飛び出してきた。
 森林を抜け出ると潅木を交えた草原の尾根で、東は谷が深く、山腹にはシナノキンバイの黄色い花が静かな朝の光を受けて、繚乱と咲いている。お花畑の続いている傾斜を今まで汗を流したことも忘れて、恍惚として横切った。
 やがて草原も過ぎるとそこに燕山荘がある。八時四十分、中房から三時間余りで着いた。小屋はまだ新しく、岩に囲まれて暖かそうである。「ヒュッテ・燕」とローマ字で書かれていて、設備も整っているらしい。小屋からは正面に燕岳の頂上が見えている。
 頂上まではなお十町の尾根を行くのである。リュックサックを小屋の前に置いて、岩と白砂を踏んで、軽快に登っていく。北アルプスの連脈は大きな展開を見せているが、今日の目的槍岳は、ちょうど雲に隠れて見えなかった。
 九時一五分、二七六三米の燕の頂上の白い岩に腰を下ろした。不断に湧いては峰を包んで動く雲の壮観、高瀬の深い渓からは疾風が寒々と吹き上げてきた。アルプス征服の第一歩を燕に印して、壮快を叫ばざるを得なかった。
 再び燕山荘の前に戻り一休みする。小屋から遠くない斜面にただ白く雪が残っている。厚い雪を掘って指の感覚が無くなるまで水筒に詰め込んだ。これから槍岳までの大圏コースにおける、唯一の飲料となることと思って。
 燕山荘から大天井への道は、這松、石楠花の生い茂った尾根のすぐ下を帯を連ねたように、延々と続くアルプス銀座の立派な道である。燕山を後にし、野口五郎、黒岳、鷲羽岳、(三俣)蓮華岳等の一連の眺望を欲しいままにしつつ、黒い岩を踏んで進む。五時に朝食を食べた腹は十時だというのに、ほとんど空になった。衆議一決、蛙岩で昼食。中房で作ってくれた饅頭型の大きなむすびは、外観は粗末であったが、霧と一緒に頬張るとその味は決して侮ることはできなかった。どこからは蝿がきて缶詰の周りをうろうろしている。しかし不思議にも蝿が汚く見えないのも山の功徳だろう。
 再びアルプス銀座を行く。ちょうど尾根の北側からは強い風が吹きつけ、南側からは真白な雲が押し寄せ、それが尾根を境にして沈黙の中に激しい衝突をしている。渦巻く雲は千切れ飛んでは押し寄せる下を行くのである。
 正午、大天井への道と大槍小屋へとの分岐点にきた。我々のコース大天井への道は、目の前にひどい傾斜の岩山に稲妻型に登っている。ここを登るために我々は随分汗を出してしまった。大天井を越して岩と砂の急な坂を、杖を頼りに怪しげに下りきったところに雪が深く残っていた。手を凍えさせ、雪を掘って渇きを癒した。
 それから幾つの峰を越えたことか。一峰越すと峰が連なり、黒い岩山を過ぎると潅木の原である。途中にわか雨に襲われたり、開けた高山植物のスロープを横切ったり、這松の崖の岩角を攀じ登ったりして、三時五分、西岳の小屋に着いた。かなり大きな小屋だった。霧雨が少し降っていた。ここで一休みして、ゆで小豆とサイダーを賞味した。後槍までは一踏ん張りである。
 ここからが喜作新道の険しい道で、こちらの山脈と槍岳の山脈をつなぐ唯一の新道であると、強力が話してくれた。雪崩で哀れな最期を遂げた喜作に、新たに敬意を表さねばならない。
 小屋の裏から止めないほどの下りである。稲妻型に深く下って、十日ばかり前に雨で崩れた跡は修理されている。この間大学生の遭難したという雪渓も、まだ残っている。前で、案内から死亡捜索の話を聞くのは、余り気持ちが良くなかった。
 一旦下りきると再び槍への急な登りである。針葉樹林を抜けて潅木帯を過ぎると、また岩ばかりで足に硬く堪えてきた。左側に恐ろしく尖った前穂高、奥穂高が斑に雪渓を帯び、厳然と聳えている。岩角に腰を下ろして水筒の雪解け水を飲んでいると、右はさらに壮観である。目の前には大山脈がうねうねとして、夕日に映えた山ひだがはっきりと浮き出ている。今日の行程も手に取るように見える。西岳の小屋も小さな屋根をかすかに見せている。槍、北鎌、西鎌尾根の大きな影が、遠く西岳、大天井の山腹にそのまま黒く印している。今日の足跡に夕陽は赤い。そして今日の行程も終わろうとしている。和やかな気持ちにならざるを得ない。
 アルプスの宵闇が来ようとする少し前、六時十分ついに殺生小屋に着いた。槍の鋭鋒をすぐ後ろに仰ぎ、槍沢を眼下に見下ろして立っている。一行は続々と到着し今晩はここに一泊することに決まった。
 この殺生小屋は大正十二年に我が山岳部が、秩父の宮様にお目にかかることの出来た懐かしい小屋である。小屋の主人が野山先生をまだ覚えていたことも言い知れぬ親しさを感じた。
 早速脚絆をとり足袋を脱いで、熱くなった足を冷たい風に当てる。小屋の前の空き地に長いテーブルが横たえてあり、大勢で夕食を済ませる。温かい味噌汁と生煮えの飯だったが、体がすっかり暖まった。
 次第に黒ずんでいく山の姿、冷気は肌を刺すほどになった。遠くの山は見えなくなり槍岳だけが真上に真黒に空に向かう。間もなく星が現れ始めた。
 小屋の中は薄暗い。満員の登山客で実に騒々しい。ランタンにアセチレン・ランプが幾つか灯っているが、何れも怪しげな光である。簡単な二階建てができているが、何処もぎっしり詰まっている。どのグループも明日の計算やら何やら勝手に喋っている。我々の一塊は割合におとなしく、先生方はときどき「気付け」というものを飲んでおられる。さあ、これで明日は下りさえすれば上高地の温泉に伸び伸びと寝られるのだ。足らない布団をかぶって静かになったのは八時頃だった。
 雲の上、槍ヶ岳のユートピアへ眠りは安らかに八月三日を消していった。(浅野四郎)


八月四日 槍ヶ岳〜上高地   
槍ヶ岳殺生小屋 午前三時四五分
槍ヶ岳頂上     五時二十分
殺生小屋発     七時
一ノ俣小屋     九時五十分
上高地温泉着  午後二時四十分

 午前三時半、殺生小屋の一夜も猛烈な寒気のため早くも破られた。四方は未だ暗いが、月や星は煌々と黎明の空に輝いている。防寒着に身を固め一行は槍ヶ岳の頂上を目指して出発した。
 小屋から続いているゴツゴツした岩石の平坦面を足場として、登っていくのである。狭い小屋に寿司詰めにされたためか、激しい頭痛を感ずる。三十分くらい登れば初めて小道となる。しかし一歩ごとに石が崩れ落ちて危険だ。何時の間にか薄明かりとなり、槍の輪郭もはっきり現れてきた。四時四十分、槍肩に到着。ここにも小屋がある。予定ではこの槍肩の小屋に泊まるはずであったのだが、天候に災いされて殺生の小屋に泊まったのである。僕らはその付近で御来光を待つことにした。下から吹き上げる寒風に身は凍えるが、五十人近くの人がいた。
 やがて曙光は益々広がり、四方の山々、東の空は白ばんできた。一瞬一瞬急に金光射出し、見る見る真紅の一端いずる。真紅の一端は出現と見る間もなく、一片の孤となり金光射出してまばゆく早や見ることは能はず。
 直ちに最後の目標槍ヶ岳頂上へ。ここからは一層険しくなる。両手で岩につかまり全身を託して掴むようにして登るのである。一歩でも踏み違えようものなら、それこそ一命を捧げねばならぬ絶壁である。午前五時二十分、僕らは海抜三一八〇米の頂上の人となった。北隅の一端には小さな祠がある。幸いにも好天に恵まれ展望を欲しいままにすることができた。見渡せば関東山脈、東方遥かに続き、それに続いて南アルプス連峰長蛇のごとく、富士の幽峰その間に起立する。目前には昨日走破した、燕、大天井など互いに雄姿を競っている。さらに南方の眼下には槍沢の雪渓を隔てて穂高の峻峰、涸沢、奥穂高何れも三千米以上の高峰絶壁を持って、その緑や黒の岩肌を遠慮なく現している。それが延びて白煙棚引く焼岳に至り、木曾の御嶽は雲表に頂上を現している。後方即ち西方は雲海となり、神秘の潜在しているかのように見える。その雄大な雲海のため、付近の視野はほとんど妨げられ、わずかに薬師、立山等の連峰が現れている。北方には独り白馬岳が群を抜いて立っている。
 小憩して下山した。途中未練がましく小槍の真下まで行ってみた。下りは大分早い。それでも傾斜が急で走ると危険だ。浅野君は断然トップを切って真っ先に下ってしまった。途中下駄履きにどてらで登って行くのや、一人で穂高の縦走に出かけた豪傑に出会った。六時頃殺生小屋に戻る。そこで初めて顔を洗う。この水の冷たいのには驚かされる。
 人数が多かったため交代で朝食を取らなければならなかった。朝食は飯に味噌汁、海苔、漬物と持参したパイナップルである。空きっ腹に味噌汁とパイナップルは好適で出来るだけ詰め込んだ。それから槍の山頂をバックに記念写真撮影。
 午前七時コースの大半を終えた僕ら一行は、悠々最後の宿泊地の上高地温泉に向かった。大槍の小屋を右手に見て少し行くと、第一の雪渓がある。田中と案内人が最初に滑り出した。僕ら初心者は一番最後から、しかもゆったりと滑らなければどうにも出来ない。時々滑り転ぶと、ついに面倒になり尻を付いて滑り出した。
 第二の雪渓で、先輩の浅野さんが先ず杖を折った。そして第三の雪渓だ。これは槍沢の雪渓といって非常に大きくて有名なものだ。ここで鹿島が杖を折り、余儀なく岩伝いに下りなければならなくなった。皆水泳で急ピッチを上げるように、雪を跳ね飛ばして滑っていく。その中、足袋はぐしょぐしょになり、足は引き連れるように痛くなる。
 所々に大きな岩石があり、その下には大きな口が開いている。その中に落ち込もうものなら、それこそ一大事である。これは翌朝一緒に下っていた東松山中学校の先生に聞いた話だが、彼らが休んでいたとき、ある人がこの中に落ちたが幸い彼等に助けられ、上高地にある東京慈恵医科大学の上高地出張所に収容されたということだ。
 槍沢の小屋を過ぎると、木橋も多くなり水量も次第に増して、平地の川は比較にならぬほど清く、底の分からぬところは無いほど浅くなった。
 十時十分前、一ノ俣小屋に到着。ここで記念スタンプを押し、昼食のうどんを食べる。この小屋は普通の山小屋とは思われぬ立派なものである。ほとんど全部白樺を材料として作った二階建てで、壁は一切使用してなく、暗室、食堂、売店、寝室など相当の施設が施されている。五十分間休憩して再び渓流に沿って出発した。幾度か白樺の桟道を越えていくと全くの平地のようになった。やがて「槍見ヶ原」という立て札がある。即ちこれより先では槍は見ることができぬのである。間もなく黒沢の牧場に入る。ここへくると登山道も三間道路となり、これがずっと上高地まで続いているのである。牧場といっても普通のものとは趣が異なる。自然の大林中に放牧されているのである。公園の芝生のような広い草原がある。牧場を横切ること一時間で始めて子馬に会う。それからは牛や馬があちこちに散らばっている。僕らも牛や馬のように、こんな閑静な刺激の少ないところにおったら、あるいは天寿を全うすることも出来るであろう。
「この山の奥には、数百の牛、馬がいるのだが、草が少ないのであまり出てこないのだ」
 と案内人がいった。
 牧場が過ぎれば間もなく徳本峠への別れ道にくる。そこには吉城屋という大きな茶屋がある。所持品は全部そこに置いて明神池へ行く。吉城屋で名物の力餅を一皿頬張る。
 一里の道も何時の間にか過ぎると、白樺林の中に「キャンプ指定地」とうい立て札があり、間もなく河童橋だ。雨も降り出し疲労していたが、大正池行きを決行する。水晶のような川を渡り、熊笹の生い茂る白樺の林を抜けると大正池がある。この地は大正四年、焼岳噴火の際流れ出した溶岩流が、梓川の流路を遮って出来た堰止湖である。再び道を引き返し清水屋ホテルに戻る。最後に上高地は一般に温泉として知られているが、事実は温泉ではないのである。しかしこの一帯が国立公園第一候補地に選定されたが、その真価は充分に認めることが出来るのである。(鈴木正将)

深田久弥の「日本百名山」によれば、江戸年間に播隆が開いた槍ヶ岳は、明治25年にウェストンに登られ、日本人として最初に小島烏水が登ったのは明治35年とある。深田自身が登ったのは大正11年で、それは東鎌尾根(喜作新道)が開かれる前年のことで、燕岳から常念岳に縦走して、一ノ俣谷を下降して中山峠に登り返して二ノ俣谷から槍沢に下り、その槍沢を詰めて頂上に至るというのが、徳本峠以外の唯一の登山道だとされている。当時頂上付近にあったのは殺生小屋だけでもあった。


 大正から昭和への槍ヶ岳
「富士山が古い時代の登山の対象であったとすれば、近代登山のそれは槍ヶ岳である」
 と名言を残したのは「日本百名山」の深田久弥だった。富士は万葉の時代にも詠まれた。槍は江戸末期の播隆から、明治のウェストン、小島烏水へと受け継がれていく。大正時代に入って、芥川龍之介が登り、秩父宮が登った。もちろん上高地に入るだけでも、徳本峠を越えなければ入れない。
 その頃、今ではちょっと信じられないが、槍ヶ岳に登るには徳本越えよりも、中房温泉からの登山道の方が、大勢に登られていたという話がある。
 中房温泉は、江戸の頃からの温泉だった。一帯は百瀬一族の地所だったという。百瀬は、松本から大町までの鉄道や、有明発電所のオーナーだった。その頃の登山基地は、大糸線穂高町の牧という集落。中房へは、この牧から大峠を越えて到達した。深い谷の中房川沿いの道は、まだ開けていない。
 その百瀬は登山ブームに目をつけて、大正6年に大町案内人組合を作り、仲間には大正10年に、燕岳の稜線に燕山荘を建てさせた。そこからなだらかな稜線を大天井岳〜東大天井岳と歩かせて、二ノ俣に下降して槍沢に合流し、そこを登り返して登頂するのがもっとも近道とされていた。労力は徳本越えと同等だったとしても、稜線登山の魅力は明らかに勝った。
 同じ頃、大正8年に常念乗越に、常念小屋ができる。そうなると、麓の牧からは中房を経由しなくてもいきなり常念乗越で稜線を越えて、槍沢に下れることになった。一ノ俣に下って、中山峠を登り返して、二ノ俣を下って槍沢に出られる。その槍沢出合にも、一ノ俣の小屋ができた。こうなると、圧倒的に徳本越えは不利になる。
 すると百瀬は、同じ牧出身の小林喜作に、大天井から槍ヶ岳まで、稜線通しの東鎌尾根に登山道を作るように依頼したという話がある。料金は3千円。これが有名な喜作新道の開通ということになる。大正11年のことだ。この道が開通するともはや最短距離は決定的なことになる。槍ヶ岳へは、槍沢に下らなくても稜線通しに到達することができる。そうして同年、その喜作新道の終点に殺生小屋(殺生ヒュッテ)を作って喜作が小屋番に入る。当時でもこの辺りにいくつかの小屋はあったらしいのだが、もっとも上部(2600m)で、最も繁盛していたのは、殺生小屋だということになる。昭和6年に旧制中学登山部が利用したのもまさにこの小屋で、百瀬ならばお客サービスに、写真屋をそこに待機させていたのではないかと想像できるのだ。こうして表銀座の登山道がここに開通した。何も戦後の話ではない。
 槍ヶ岳への登頂には表銀座から。下山は上高地(明神)から徳本へという道筋が、一般ルートだったのではないかと思われる。さらに上高地周辺では、河童橋よりも明らかに大正池に人気があった。焼岳の大爆発が大正4年。そこに忽然と自然湖が生まれる。徳本へ登る明神からだと、往復で4時間もかかるのだが、それさえもいとわないほど、梓川に忽然と出現した大正池は魅力的だったのだろう。
 その梓川沿いに、釜トンネルが掘られて、ここに林道が開通するのが昭和8年。そこを歩いたり、しばらくして馬車や車が通行できるようになるのだが、こちらからの槍ヶ岳が一般化してしまうのは、その後の話。実質的には戦後のことになる。
 旧制中学の登山部は、いい時代のクラシカル・ルートから槍ヶ岳に登山していたことになる。(「北アルプスこの百年」参照)



昭和7年以降
 昭和7年から終戦頃までも、登山部は北アルプス方面に出かけていた。各学年の卒業時のアルバムに、撮影場所は記載されていないのだが、明らかに上高地や、残雪の尾根で撮影された写真が掲載されている。夏のアルプス登山は、旧制中学夏休みの恒例イベントだった。


昭和7年 乗鞍岳〜上高地
 初雁の城跡の単調な生活を捨てて、白骨の湯に浸り、北アルプスの南端・乗鞍岳を踏破し、さらに梓川の上流へと神秘を探っていく六日間の旅にでかける。
 一行は九名(久保、桜井、川田、三先生。卒業生一名、生徒五名)旅費は十八円
七月二十一日 川越〜飯田町
七月二十二日 松本〜島々〜沢渡〜白骨温泉
七月二十三日 白骨温泉〜乗鞍岳小屋
七月二十四日 乗鞍岳〜平湯〜中之湯〜上高地
七月二十五日 上高地〜徳本峠〜松本〜長野
七月二十六日 大宮〜川越



七月二十二日 川越〜白骨温泉 鹿島鷯
 前日夕刻、川越を出発した。池袋で川田先生、市川さんと一緒になって直ちに飯田町(注・飯田橋)へ向かう。登山者の雑踏は予想外のことで、ここから中央線で松本に向かう。
 松本で強力の丸山さんが出迎えてくれた。昨日白馬から下ってきたばかりだといい、元気なものだ。ここから筑摩電鉄に乗車して島々へ向かう。
 島々で朝食。ここで主人の説教を一くさりやられる。親爺もこれでいい加減煙草を減らしたろう。九時松本から来た乗合自動車で奈川渡に向かう。この車は梓の断崖絶壁をどんどん進んでいく。車掌の声で右手を見れば、ヘットナーの石。奈川渡の終点に九時四十分。ここから歩くのかと思っていると、タクシーに乗り換えさせられた。二台に分乗する。崖っぷちのこんなところを自動車が通れるのかという道を走っていく。遥か右下の梓の流れは急峻だ。運転手の話では、彼が大阪の道頓堀でタクシーをやっていたときよりも、こちらが気楽だという。しかし、狭い崖の道で危うく対向車と衝突しそうになって、肝を冷やした。十時十分、沢渡に着く。強力もいう。
「自動車は危ないですね。全く冷や冷やする。二三年寿命が縮まった」
 歩いた方が早いという口ぶりだった。
 ここから徒歩。梓の流れともお別れだ。昨日川越を出発してから、一切土を踏んでいない我らは、こうして大地を踏みしめて登れることが楽しい。ここでは聞こえるものは渓流の音のみ。しばらく行くと木材小屋があった。付近に道案内の地図がある。「大岩屋旅館」は島々の親爺が紹介した宿屋だが、果たしてどんなところかしらん。渓流沿いに見えるのは、旅館の露天風呂。湯の香りがする。家並みの中へ入っていくと、その古ぼけた看板の大岩屋があった。ちょっと憂鬱にも感じるがここに決めた。主人は七十歳を越えたかと思われる爺さん。
「よく来た、入れ」
 という無愛想な挨拶に度肝を抜かれる。島々の親爺との関係を聞くと、
「島々の深沢とは兄弟以上の親密な関係だ」
「でも、おっかない小父さんです」
 と答える。あのクワエ煙草では怖い。ここの主人も変わった爺さんだ。泊まることにしてしまったが、まだ正午。天気もいい。それでも風呂に入ったが、他の客は誰もいない。湯から出て昼飯を食べたが、何もすることがない。どうして世間はこうも「白骨」と誉めちぎるのだろうか。家で見た十年前の絵葉書と何も違ってはいない。中里介山氏の「大菩薩峠」で有名になったとも言われる。
散歩をした後に、先の露天風呂へ行ってみた。材木小屋まで引返し、木につかまりながら川へ下る。四人くらいが入っている。平岡さんや金子さんと一緒に入ったが、出る頃になると暗くなった。景色がだんだん恐ろしくなる。谷を包んでいたあの穏やかな風景は、夜になると魔の山かと思われてくる。
 帰りがけ白樺の中にテニスコートや喫茶店らしきものがあった。

七月二十三日 白骨温泉〜乗鞍小屋
 今日も山は朝日に映えている。七時五分に出発する。主人の配慮でゆで卵をポケットに入れる。金剛杖には初めて焼印が押された。材木小屋まで引き返し、ここから登りになる。少し登ると、
「ああ、雪が見える」
 と立ち止まる。朝日に残雪がくっきりと白い。思えば随分高く登って来たものだ。草鞋が朝露に濡れて冷たいのだが、それが気持ちがいい。白樺の林で一休みする。ここで東京のタイプライター屋と一緒に道連れ。目指すは冷泉小屋。
 昼飯は樹林の影で食った。あの宿屋の主人はなかなかの経験者らしかった。握り飯が焼いてあってとても食べやすい。ハエがブンブン飛んで来てうるさいのだが、
「例年なら土用に入った今頃は、もういなくなるのですが」
 と強力が言う。しばらくして冷泉小屋に着いた。とてもしっかりした建物だった。それもそのはずで、冬専門のスキー小屋だそうだ。スキー場はここから上へ登った乗鞍山腹。本当にこんな高いところまで登ってきてスキーをする人がいるのだろうか。眺望は素晴らしかった。
 ここには冷泉があった。飲むと頭が痛くなるそうだ。何枚か写真を撮ってさらに進む。関西方面から来たという一人の青年と言葉を交わす。山は人と人との隔たりをなくすようだ。間もなく雪渓を飛び石伝いに登る。上から降りてくる一人に、先のタイプライター屋がいた。
「早いですねえ」
「いやー」
「明日は何処に泊まるのですか?」
「上高地ですよ」
「じゃ同じですね。また上高地で」
 その先に、乗鞍開山という碑があった。角心という人が乗鞍登山の草分けらしい。這松の美観は日本一だそうだ。その這松帯を進んでいくと、不意に山小屋の前に出た。ここが今日の宿泊予定の肩小屋であった。「筒木小屋」とも言うそうだ。白骨を出てから六時間半。午後一時半に到着した。主人に聞けば客は女連れ三人だけ。リュックを置いて頂上を極めることにした。
 リュックのない身は軽い。這松の間の石の道を上がっていく。肩の小屋の屋根は小さくなった。いよいよ頂上が見えてきた。御宮がある。手前の小屋を通り過ぎると、頂上付近にもう一軒の小屋があった。そこからすぐに頂上。午後二時四十分。これで今度の旅行の目的は半ば達せられた。帽子を脱いで汗を拭えば、山の風が気持ちいい。
 後ろから頂上小屋の主人が登ってきた。
「槍はこの方角です」
 と教えてくれる。群峰の中に一際目立って天に突き上げている。その右に穂高と、左手遠くに見えるのは立山らしい。他にも野口五郎、笠ヶ岳。浅間山。一大パノラマになっている。秀峰御嶽はほんの指呼の間で、紫色の山麓を長く引いて悠然と聳える。その向こうに点々と光るのは飛騨高山の町だった。頂上の西側に権現池があるが、反対側の同じ目の高さに高天原とう丸い山があって、そこは天然記念物になっているそうだ。その平原の砂の並びが、大きい粒と小さい粒が並列して自然に並んでしまうという。人為的にいくらかき混ぜても、翌年の雪解けの頃になるとやはり綺麗に並んでいるらしい。珍しい現象だ。
 帰りに平岡さんと頂上小屋に寄って、焼印を押した。
「この乗鞍頂上の印は百二十円かけて登録してあるものだから、確かなものだ」
 この話は信じてよいのかどうか、それは分からないが。下りは駆けるように早かった。日も傾いてきた。小屋の夕飯は想像以上に美味しかった。数人の登山客が後から来たが、今日は二畳に三人寝られるから広い。

七月二十四日 乗鞍小屋〜上高地 平岡重郎
 四時に起きて御来光を見に、雪渓を登った。まだ残月が青白く輝いている。乾ききっていない足袋で、足の指がピリピリしてくる。小屋の人の話では、御来光は浅間山の方から昇ってくるということで、そちらを見つめている。しばらくすると、浅間の左側が真っ赤に輝いて、次第にその濃さを増してきて、お日様の顔が現れた。二三分すると、真ん丸い鏡餅のようなお日様になった。四時四五分である。
 我々は思わず頭を下げてしまった。今日も雲一つない恵まれた快晴だ。愉快な気持ちになる。思い切り山の空気を吸い込んだ。
 小屋に戻ると、五時半に朝飯になった。昨夜の飯もうまかったが、朝食もうまい。六時肩の小屋を出発する。
 三十分ほどで鶴ヶ池に出る。三つの小高い丘に囲まれている小さな池で、上から見下ろすと鶴が首を伸ばしているような格好に見える。この火山湖周辺にも天然亀甲状砂礫があって、世界にたった二つという珍しい現象だ。池のほとりの古い立て札にそれが指摘されていて、そこを探すと、あったあった亀甲状が幾つも並んでいる。これも雪解けの際に自然にできるものだ。
 さらに稜線を歩けば、桔梗原に出る。穂高・焼岳が朝日に輝く。高山植物が咲いているその草原で寝転がった。そこから一時間ほどで四ッ岳の麓で休憩。這松の上を横断するのは、バネの上を歩いているようで楽しい。失敗すると胸まで没してしまうが。さらに姫ヶ原を通過して雪渓の残る沢に入っていく。そこで握り飯を食う。平湯はこの下らしい。
 そこから平湯まではまだ二三時間あるが、脇に流れている冷泉はサイダーのような味がした。中には「毒水」と注意札が立っているものもあった。どんどん下ると平湯大滝の上に出た。途中幾つも横断した小川は赤茶けた水が流れていて、川底の石も真っ赤になっていた。大滝には、
「垂直七十米あり、轟き打ちしぶく水煙。岩燕の飛翔する筆舌のごとく」
 と立て札にあった。遠くに飛んでいる岩燕はかげろうのように小さく見えた。カメラに収める。
 間もなく県道に出て平湯に着いた。六七軒も温泉宿があり、自動車が行きかう部落で、水田も青々としていた。稲だと思っていたら、ヒエだった。
 まだ昼前の十時20分だったが、平湯の舟津屋旅館で休憩する。草鞋を脱いで上がりこんで、名物の粟ちまきを食べ、先生方は宿の湯に浸かった。生徒は町を見物して共同浴場で汗を流す。昼食後十二時に出発した。目的は難物の安房峠だ。
 出発すると、増田君が杖を忘れてきたというから、強力のオジサンだけ残して、皆は先に行った。なだらかな勾配が続く。四五十分登ると「篠原無然水遭難」の碑がある。氏は安房峠から平湯道開発の恩人である。広いところで休んでいると、五六名のお爺さんたちが登ってきた。地元の人だろうが声高に話をしていて、そろそろ腰が曲がる年だというのに、下駄履きで疲れた顔もしていない。
「この先、二三町行くと休むに格好の場所があるよ」
 と教えてくれる。その通りにいくと、小川が流れていて実に美味しい水が飲める。強力のオジサンが追いついてきた。少し下に兎が死んでいるというと、
「ナーニ、水は三寸流れれば、神様が自然に清めて下さるのだ」
 と面白いことを言った。平湯から二時間で安房峠の頂上に出た。目の前に焼岳が噴煙を上げているが、自分たちの立っているところが焼岳よりも高く見える。ここから下ってしまうのは惜しい。尾根でもつながっていれば焼まで征服するのだが。
 急勾配を下っていくと、自動車の警笛の音が聞こえた。梓川の南岸をマッチ箱のような車が走っている。そこに中ノ湯があるのだが、道がらせん状でなかなか着かない。
 三時にようやく中ノ湯に着く。すぐ下には梓川が轟々と流れ、風呂場は新築したばかりの温泉だ。一風呂浴びたいという希望者だけ風呂に入った。
 三時四五分、また出発する。ここから梓川に沿って登る。少し行けばトンネルにかかる。真っ暗の中に幾つか電燈が点いていて、天上から雨のように雫が落ちてくる。そこを抜けるとようやく上高地の入り口になった。大正池があり、焼岳が大きくなる。今日一日は焼岳を見続けた日になった。大正池は大正四年の噴火で出来上がった。国立公園の第一候補として、最近はよく新聞に紹介されている。風雨にさらされた無数の木立は、奇観である。池を回っていくと、船を浮かべて岩魚釣をしている人がいた。少し上流に出れば、テント村もある。目的の清水屋は満員で断られ、上高地ホテルに入る。ここでもやっと狭い一室が借りられただけで、上高地の繁盛は驚くばかりだ。五時半に到着した。煙を吐いている焼と隣に穂高。梓川の反対側には六百山。温泉に浸かって汗を流して夕飯を食べる。この上高地温泉ホテルは、隣の清水屋と六ヶ敷事件が起きているようで、清水屋のみ電燈が点いていて、そこから先には送電されていないという変なことになっていた。暗いランプの下で九時半に寝た。

七月二十五日 上高地〜徳本峠
 今日一日で今年の登山も終わってしまうのかと思うと、哀愁が湧いてくる。朝の霧も晴れて穂高がよく見える。六時四十分に出発した。梓川の林道を行き、河童橋を渡る。この辺りの鉄道省指定のキャンプ場は、あらゆるものが完備して日本一のキャンプ場ではないかと思われる。林道を抜けると明神に着く。強力の小父さんの案内で明神池を見る。ここだけは岩魚の禁漁らしい。嘉門次の小屋を見る。ここから徳本峠までは四千四百米。二百米ごとに杭が打ってあるという。茶屋で休む。
 清流で休憩を取りながら徳本へ向かう。付かれきった頃徳本に着く、九時三十五分。我が登山部は過去に二回この峠を踏破して、今回は三度目。過去は何れも雨天で見晴らしが利かなかったようだが、今回は穂高の素晴らしい展望に恵まれた。峠の茶屋に関西方面の女学生がいたが、出発して席が空いたからそこに休む。少し休憩して十時に出る。
 下りでは「宝水」「力水」の泉が湧いていて、その度に一休みした。少し行くと先刻の女学生が二列でのろのろ歩いていて、追い越すのもできなくて牛よりも始末が悪い。十一時、岩魚留小屋で休んで、女学生が着たから出た。十二時十分「涼滝」の丸太のベンチで昼食。その先は島々谷を下っていくトロッコの道となる。単調な枕木の配列は、過去三日の山行に比べれば惨めだ。一時四十分に「長命水」に着く。そして二時半にようやく島々の部落に出た。足のマメも痛み出し、駅までの車の道は長い。
 三時五十一分の電車に乗る。ほとんどが登山客。松本から長野に向かう。六時五十八分、長野に着き駅前の食堂で夕飯。それから善光寺。長野は川越の町とは少し違っていた。午後九時四十分の信越線で大宮に向かった。始発で川越に向かうと、駅には校長先生が迎いに御出で下さった。後輩たちに思う。「行け山へ!」そして質実剛健の徳を養え。


昭和9年 富士登山
第一日 吉田まで
 朝八時に川越市駅に二十七名が集合して出発する。中央線に乗り換えてからは八王子で買った弁当を車内で食べる。猿橋で下車して猿橋見学。溶岩流の上に橋を掛けたものだ。橋の脇の大黒屋で休憩して、ぼろ車で吉田へ向かうが、途中パンクしたため、換えの車に乗り換える。午後三時に吉田の旅館に着いたが、また車で河口湖へ向かった。船で湖を一周する。旅館に戻って夕食。九時半に就寝。(水村八郎)


河口湖畔での記念写真(水泳部の切り込み写真は別)


第二日 八合五勺の小屋
 東の空が白んできたが、まだ四時前である。五時の出発に少し遅れた。外は霧が深くて、少し立つと雨になってきた。ここから頂上まで十三粁くらいだそうだ。一行は中ノ茶屋、大石ノ茶屋、馬返しへと急ぐ。馬返しから道は急になった。三合目から五合目まで宮田先生は馬に乗られた。五合目の昼食は実にうまい。
 六合目、七合目は長く感じられたが、十四町くらいだそうだ。そこから八合目までには、経ヶ岩、屏風岩、鎌岩、雷岩、烏帽子岩の溶岩壁がある。八合から上は胸突き八丁。予定した八合からさらに登って、午後五時に八合五勺に着いた。(加藤)

第三日 雨の頂上
 今日もまた雨。六時の朝食を済ませて雨の中を出発した。頂上付近の鳥居は小さくぼんやり見えるだけ。城襦袢に美濃笠をつけた登山者が鈴を鳴らしながら、電光形の道を登っている。我々も負けずに続く。右には雨にかすんだ雪渓が見える。七時三十分、ようやく頂上に出た。皆の吐く息が白い。
 頂上の東京館という小屋に入った。天井が低くて皆頭をぶつける。ここで甘酒を飲んで噴火口を見に行く。雨と濃霧で僅か先しか見えない。七時五十五分、頂上を後にして下山する。
 八合目から砂走りにでる。強力の見送りを受けて桜井先生、平野先生を先頭にして一列で下る。下るにつれてだんだん霧が晴れてきた。
「晴れた」
 ど誰かが下のほうから叫んだ。太陽が一面を照らす。眼下の山々、太陽に光る湖、遥か彼方には海も見える。着ゴザも脱いで身軽になる。そのまま元気に十一時頃に太郎坊に着いた。そこから自動車に乗って御殿場に出で、帰った。(吉田敬一)





川高・旧制中学の卒業アルバムは、古くから西暦が表紙に刻み込まれてきた。ところが、昭和15年以降になると、年号が「皇紀」もしくは「神武暦」といわれるものになっていた。神武天皇の即位年は、日本書紀などから遡ると、紀元前660年と計算され、西暦よりも660年大きな値となった。つまり昭和15年は、西暦1940年であり、皇紀2600年となる。天皇主権の軍国主義の色彩が濃くなっていた。



昭和10年 乗鞍岳・上高地 (7月20日〜24日)

乗鞍岳登山記 加藤煕(昭和11年・旧制中学卒)
元気はつらつたる登山部員一行は、橋本先生、蔦宗先生、宮田先生に引率され、二十日午後七時頃諸先生に送られて、乗鞍岳登山の途についた。次第に暮れ色に包まれていく川越の街の灯りも、送ってくれるように見えた。やがて池袋に着いた。省線に乗り換えて新宿へ赴く。
 新宿の駅は、すでに山に憧れている人にて一杯だった。大きなリュックを背負い、たくましい登山靴に身を装したアルピニストもいれば、富士山へでも登るのだろうか、無数の印の付いた白衣に金剛杖と鈴を持った信仰的な老婦人団体もいる。僕ら登山部一行も混じって、十時の汽車へ乗る。汽車中は十二両も付いているのに皆一杯である。僕らは最後の車室へ乗った。幸いばらばらではあるが腰掛けることができた。あまり列車が長いので最後の方はホームへ入らず、僕らは夕食を食べることができない。甲府辺りで前の車室の方へ乗り換えた。トンネルでも通ったのか、開いていた窓から入ってきた煙が、車内をぼーとさせている。大分眠くなってきた。車内のそこここで眠る者が多くなってきた。

七月二十一日
 ふと目が覚めた。電燈がぼーっとしている。車内にはもう数人、起き出した者がいる。誰も赤い目をしている。眠いのだろう。外の方はまだ薄暗い。汽車は灰白色の煙を出しながら高いところを走っている。所々山の上の方に白樺が幾本か見えてきた。大分進んだらしく、やがて諏訪湖が見え出す。
 今日も天気が悪いかも知れない。お昼ごろ松本駅に着く。ガイドの太田さんと一緒になって駅前で昼食を取り、一気に島々に赴く。島々から上高地行きの自動車で白骨温泉へ向かう。ヘットナー石を右に見ながら、数百尺も高い断崖の上を通る。冷や冷やしてきた。道は非常に曲がっていて良くない。そのうちに前川渡に着く。自動車より降りて、いよいよ歩き出した。道は次第に坂道となって深い谷から轟々という、水の音が響いてくる。
 一時頃白骨温泉へ着く。所々に露天風呂などあって非常に良い。温泉は硫黄泉なので変だ。悪臭がむっと鼻をつく。夜は非常に静かだ。明日を前にして皆良く眠る。

七月二十二日
 皆が目を覚ます頃、宿もざわついてきた。まだ五時だ。今日こそいよいよ乗鞍の頂上だ。出発のとき女医さんが一行に加わって、十二名となり六時頃出発した。
 かなり進んで白骨温泉が遥か谷底の方に小さく見えるようなところに畑があって、作物を作っている。誰が作っておくのかしらと思う。橋本先生がここで高山植物を教えて下さる。やがて冷泉小屋に着く。
 良い見晴らしである。この辺は乗鞍の良いスキー場だそうだ。良いスロープだ。スキー場を通って少しいくと大きな木が無くなってくる。この辺から道がジグザグになってくる。所々に雪渓が見えてくる。雪渓の下で昼食を取って元気をつける。大きな蝿が沢山飛んできて気持ちが悪い。一つの大きな雪渓を越えて肩の小屋に着く。一時頃だ。女医さんはここから一行と別れて白骨へと降りて行った。一行は小屋の中にリュックを降ろして、頂上へ登る。ひどい雲が出てきて一寸先も見えなくなる。
 頂上には、五米四方の広いところがあって、神が祭ってある。頂上で約三十分くらい休む。肩の小屋で宿る予定だったのを、一気に平湯の温泉まで下ることに決めて、元気に出発した。
 大きなお花畑を通った。幸い黒百合などという珍しい高山植物を見ることができた。桔梗ヶ原、鶴ヶ池を通って進んでいくうちに、雲はいよいよひどくなって、ついに雨さえ交えてきた。しばらくジグザグの道を降りて、ちょうど元鉱山だったところくらいまで来ると、雨も止んだ。所々に毒水というのがあって気味が悪い。少し下ると大きな滝がある。平湯の大滝というのだそうだ。
 いよいよ平湯の町へ入る。十二時間も歩き続けたために、皆非常に参っている。ここからは自動車で飛騨の高山に行くことができるのだそうだ。明日こそ上高地だ。

七月二十三日
 実に良い天気だ。六時頃出発する。露を分けて安房峠を登る。峠は割合に低いが今上高地から平湯を抜けるドライブウェイを作っているので歩きにくい。九時半頃頂上へ着く。少し下ればすぐ中の湯温泉だ。中の湯温泉では梓川の轟々と音のする流れが見える。川を渡ってトンネルを抜けたところで昼食を取る。左に焼岳を見ながら宮田先生と五年生の二、三人が大正池までマラソンをやる。非常な元気だ。
 大正池の穂高、いつ見てもよい風景だ。帝国ホテルの庭を通って温泉ホテルに赴く。今度の宿はここだ。大部分の者は案内さんに連れられて明神池へ行く。温泉の水は実に清らかだ。これで三日間とも温泉に入ることができた。



七月二十四日
 昨日ゆっくり休んだので今日は皆元気に出発する。所々川の中に岩魚がいる。徳本は思ったより楽に頂上へ着いた。明神、穂高の雄大な景色を眺めて、いよいよ魚止めの茶屋へ下る。非常にジグザクな道だ。皆元気を少し失ってきた。でも頑張って二時半頃島々へ着いた。一寸した買い物などして太田さんと別れ、電車が事故のため、自動車で松本に赴く。そのために長野へ着く時間が一列車遅れてしまった。長野で夕食を済まし、善光寺へ参拝して、十二時五十分頃長野を出発して、川越久保町へ翌朝七時三十分頃着いた。僕ら一行十数名は諸先生にお礼を述べ、元気に帰宅した。




昭和11年 木曾御嶽 (7月23日〜26日

木曾御嶽登山記 駒野良樹 矢島俊良
 第一日(七月二十三日)
 足袋ゲートルに身を固め、背中のリュックサックも軽やかに新田町駅に集まる。空は晴やらず、その上ラジオの予報では御嶽は荒れているといわれてすっかり憂鬱になった。午前七時十九分、校長先生、岡田先生のお見送りに深く感謝しつつ、橋本先生、蔦宗先生、宮田先生に引率されて生徒十一名元気に川越を後にした。
 七時四十七分東村山着。直ぐに自動車で国分寺に行く。そこから立川に向かい、同地にて汽車に乗り換え、立川八時三十四分発、川口市の団体の御嶽登山の信者もいて汽車は非常に混んでいた。小仏トンネルをくぐり、猿橋を右手に見て益々速力を出して行った。何時の間にか葡萄畑も過ぎて、一時二十五分塩尻着。その頃からポツポツと残念なことに雨が降り出していた。蔦屋支店で小憩し、途中まで自動車で行く。幸い雨もひどくなく、足も軽やかに歩を運ぶ。山沿いの清流の瀬音を聞きながら、また川中の鉱泉とかに道草を食いつつ進む。鞍馬の奇景を探勝し、平家の落武者の住家とも考えたいような村落を通って、夕暮れて松原館に着く。

第二日(七月二十四日
「おいもう起きろ」「もうかい」
 と誰かが言ったので皆笑いこけた。南アルプスの夜明け、五十灯の電燈が平地の二灯くらいの淡い怪しげな光を放っている。五時頃だ。窓の隙間から寒いアルプスの冷気が流れ込む。
「おお、寒い」
 思わず身震いした。昨日の雨で冷たい服のことを思うと閉口したが、僕らは元気だ。急いで食事を済まし張り切って宿を出発した。一陣の寒風がどんよりした朝の空気を震わせて去った。残念だ! 僕らの目指す御嶽山の頂上は天候険悪のため、さっぱり見えない。登山にかかると憎らしい霧雨が降り出した。四合目で疲れたので一寸休んだ。
「さあ、行こうぜ」
 一同元気を入れ替えて頂上へと向かう。足が少々痛み出した。途中で一寸太陽が顔を出した。その一瞬! どんなに我々が待ち焦がれていたであろうか。下界は一面の雲海だ。僕らの足元を一団の雲が、さっと過ぎ去った。
 この瞬間の光景は実に雄大そのものである。やがて疲れた足を引きずって六合目に着き、ここで昼食を済ませた。時に気温は十六度(摂氏)を示し、出発する頃より霧雨が降り出し風も伴ってきた。これより這松あるいは岩石のいわゆる潅木帯を攀じ登るのであるが、雨のために地面が滑って危険この上なしだ。一度足を滑らせたらもう命がないのは当然だ。八合目辺りより雨は下方より吹き上げられて、油紙は破かれ、雨具は用いられず、全く身に着けるものはなくなった。今は夢中だ。足は無意識的に一歩一歩頂上へと運んだ。
 ここで人が墜落して死んだという案内人の話を聞いてぞっとした。見るとなるほど人の落ちそうなところだった。次第に一隊が分かれ分かれになってきた。我々はその中間に属していたが、中途で道を間違えついに道無きところを、頂上に通じていると思われる唯一の電柱を頼りに進んだが、ともすればそれも見失いがちであった。霧深く一寸先も見えず、かつあまりに疲れたので岩陰に休んだが、体がぞくぞくして寒さ身に応え自由が利かなくなりそうだ。これは遺憾というので早速歩き出した。すると頂上が霧の間に朦朧として現れだした。僕らの足は頂上に近づくに従って元気を取り戻し、次第に早まっていった。
 頂上だ! このとき、この感じ、この愉快さはさらに登山する者にのみ許された味わいであろう。山小屋に入って暖かい炭火を囲んで雑談に浸った。しばらくして地獄谷とも呼ばれる最難コースもつつがなく終えて寝についた。山小屋の外では荒れが、まだ治まらぬらしい。(細淵記)

第三日(七月二十五日
 四時半に起きる。薄暗い小屋のガス灯の下で、御来光を見る支度をする。寒気に曇った窓ガラスを手で拭って外を見る。暗い中に真白に立ち込めた霧は、窓ガラスをすぐまた白くする。うまく晴れるだろうかと心配をしながらも、皆厚着をして外へ出る用意をした。いくらか外が明るくなる。ミルク色の霧が風に烈しく動いていく。すーっと目の前の霧が動くと、その後にオレンジ色にほんのり染まった霧が現れた。
「そらッ」
 と皆が窓から離れて外へ飛び出す。寒気が烈しく身にしみる。風が強い。小屋を後に岩陰を三十米ばかり進む。風、風、霧、霧が飛ぶ合間に紅の点が現れる。時に四時五十分。辺りが「サーッ」と明るくなる。霧はどんどん消えていく。青空が現れる。紫の山の背が見える。紅の光は広がって行く。東の空に輝く雲、少し目を下げるとそのところには大きな雲海の広がり。白雲を羊の背のように連ねて、山々の頂をその上に浮かべている。東から北に南アルプス、北アルプスの山々が連なり、少し南寄りには富士が頭をもたげている。真紅の月輪は連山の頂から離れていく。しばし皆惚と我を忘れてこれに見入った。
 やがて小屋に戻って朝食をし、六時に頂上を出発した。そして登りとは反対の道を下る急な岩の坂を下った。行くと左手には乗鞍が青空の下、すぐ手前に横たわり、雪渓が緑の山肌に真白に遠く、雲の上には浅間山が煙をたなびかせている。
 一行十四人の一列に続いた下りからは、白衣の登山者の群れが「六根清浄」を唱えながら登ってきる。やがて潅木帯、針葉樹林帯を降って九時頃百間滝の小屋に着く。遥かな山腹に白く一条かかっている大きな滝が百間滝である。少し休んで滝の近くまで行かずにまた下る。
 二時間ばかり下ると素晴らしい檜の原始林に入る。御料林だそうだ。皆一抱えは充分ある。ここを通りしばらくすると道がだんだん良くなる。ここで昼食をし、木曽川の上流である王滝川を右手に見て山狭を辿る。目の前には木曾駒ケ岳が雄姿を見せている。この川沿いの六里はかなり長く、福島に着いたのは午後五時半。宿に着いたときは皆へとへとに疲れていた。(渡邊記)

<山岳部のことを「旅行部」といっていた大学もあったのだが、登山と山麓の旅行は、実は同類であったのかもしれない。旧制中学登山部は、合宿の帰りには実に遠回りをしてまでも、山麓の旅を行っていたようだ。しかもかなり散財している。前半が登山であるならば、後半は旅行だといってもいいほど。御嶽山の帰りの旅行も、かなりハードスケジュールである>

 第四日(七月二十六日)日曜日
 昨日隣での騒ぎが少しは影響したのであろう。六時十分の汽車に乗るというのに、五時一五分頃起きる。大急ぎで支度をし六時十分前頃、それでもすっかり終わる。もう下の通りでは自分らが起きる前頃から登山の人たちが通る。昨日の強行軍がすっかりたたって、足がとても痛い。階段の上り下りが大変である。宿屋の者に送られて宿を出、駅に行く。御嶽山などへは古めかしい金剛杖を持っていくのが大体であるので、川中のようにピッケル、リュックサック持っていたのがかなり珍しいと見えて、道を歩いている人など振り向いて見ている。
 駅に着くと汽車はもう着いていた。これは大変とばかり大急ぎで汽車に乗り、今日の見学の第一番目の寝覚の床(注・「ねざめのとこ」木曾八景の一つ)のある上松へと向かう。昨日今日と同じように良い天気である。汽車の中から御嶽山の頂上辺りを見ると、すっかり頂上の辺りだけ雲で覆われている。この分だと今日と昨日と同様素晴らしい雲海が見られたことだろう。約十分して上松駅に着く。そこから徒歩で寝覚の床に向かう。約一五分で着く。思ったよりも良くない。これが有名な寝覚の床かと、ちょっと当てが外れた感があった。自動車で駅に帰る。上松駅を八時十六分の汽車で第二番目の見学地である恵那峡に向かう。
 九時五分、所在地の大井駅に着く。今度は集合自動車で行く。案内説明付きである。しかしせっかくの名文句もその説明の終わりにこの地方の方言である「なも」で随分台無しにしてしまう。かなり高い丘を登っていく。
「この下にずっと見えますのが、有名な恵那峡ですなも」
 っていう調子である。登り切ると急に眼界が開けて、満々と水を湛えた恵那峡が展開する。ちょっと景色の良いところである。今度は下りである。下りきると、そこは売店の四五軒ある恵那峡遊覧船の発着所で、そこで自動車が止まる。皆降りて約四十分くらいの予定で自由行動が許される。ある者はボートに乗り、ある者は水辺にいったり、ある者は売店にある土産物など色々にと冷やかしている。そうこうしているうちに時間が来たので先刻の自動車に乗り駅に帰る。
 大井駅から十一時三十一分の汽車で待ちに待った日本ライン見学へと向かう。多治見駅でガソリンカーに乗り換えて、日本ラインの遊覧船の発着所のある美濃太田駅に着く。そこで駅の人に遊覧船の具合を聞くと、乗り合いであると犬山城まで一人前六十銭で、貸切は十二人で五円であるという。総勢はあいにく十四人。二人くらいは大丈夫だろうと聞くと、駄目でしょうと予言をいう。まあ何でも行ってみようとハイヤーに分乗して遊覧船発着所に行く。そこで集合などの都合を聞いてみると、どうも悪いらしい。ついに貸し切りに乗ることにする。皆切符売り場のところでサイダーを買い込み、そして河原の石の上を一丁くらい、船のあるところに行く。足の豆が石に当たってかなり堪える。もうここら辺りにくると川幅は随分広く、河原を入れると三丁くらいある。七人ずつ、細長い天幕で日除けした船に潜り込む。
 普通の船とは異なっていて、ずっと板も薄く船椽もずっと長く座ると首辺りまでくる。船頭は前と後ろに一人ずつ二人で漕ぐのである。前の者は進む方に背を向けてただ漕いでいるだけで、後ろの者が舵を取っている。相当の激流を乗るのは皆初めてらしく、黙って見ているだけである。水はあまり綺麗でなく濁っている。船もだんだん早くなっていく。両岸は今まで何も無かったのだが岩が段々増えていく。その岩には皆夫婦名が付いていて、船頭が一々教えてくれる。もう昼過ぎなので弁当を食おうとしたが、少し石油のような臭いがするので皆食べるのはよした。しかし他の船に乗っている者は食べたらしい。
 段々進んでいくと、進む方向に向かって左岸に何時の間にか切立つ断崖が聳えている。物凄く渦巻いているところがある。こいつは危ないと思っていると、それを巧みに避けて進む。遥か向こうに犬山橋が見えてくる。こちらの船は貸切なので二人で漕いでいるので、乗り合いなどの一人で漕ぐよりずっと早く、先に見えた二三艘の船も抜く。左を見ると断崖の中途に桃太郎誕生の地とか、桃太郎公園とかいう看板が見える。この大きな木曽川なら御伽話にあるような大きな桃は流れてきたかも知れない。乗船してより約一時間くらいにして、目的の地、犬山に着く。遥か高く山の上に犬山城が青空の中に聳えている。相当に暑い。船より降りてモダンな犬山橋を渡って、岸辺の涼しいところで岐阜行きの汽車に乗る。
 午後五時8分岐阜着。一同皆元気で川田先生の御兄さんに案内され、岐阜見物をする。町は長良川岸の御祭りで賑やかで、道はすべて舗装されてあり、駅前より長良川まで大道路があって市内電車、即チンチン電車が通っていて、ギイギイ、ゴーゴー大変忙しかった。昨日の登山で疲れているのでまた歩きかと思うと辛かったが、電車に乗り一足飛びで川まで来たので、街中の様子はよく分からなかったのが残念であった。
 先ず公園に休んで食事を取り、皆で一昨日と昨日との登山の話をしている中に日も暮れて、花火が美しくなり川の船も提灯で美しくなって、御祭り気分が出てきた。何しろここは皆登山姿であるので、祭りの町中には体裁も良くなかったが「関東武士、何織田勢に負けるものか」と金華山城を右手に川見物に出かけた。
 川は屋形船で一杯であり、方々から舟歌が聞こえてくる。歌が始まったかと思うと、あちこちの船から花火が上がり、その光景はここでは東京の隅田川の川開きの他、あまり見られないであろう。そのうち船中の客人の酒も程よくなってきたと見えて「もしもし亀よ、亀さんよ」の歌が聞こえてきて自分たちを一笑させた。また音楽隊がやってきては演奏を始めた。そのうち珍しい鵜飼の船も段々に近づいてきたので見に行った。その中目の前に来たのでよく見ると、なるほど一人の漁師が多くの鵜を操っていて、鵜の首は絵や写真に見られるように凄く太くなっている。
 時間も十時近くなったので、長良川に別れを告げた。再び金華山城を見上げれば、ちょうど城に月がかかっていて、城の白壁が青白く照らされていて、それこそ「荒城の月」であった。金華山城にも永の別れを告げて自動車にて一気に駅に向かった。町の混乱は祭りの帰りの自動車で大変であった。川田さんの御親切に御礼をいい、十一時十一分の夜行で岐阜駅を立ち帰路につく。僕ら一同の夢は辛苦を共にして、征服した御嶽山の頂上に走った。(北田、佐々木)




昭和12年 白馬岳〜祖母谷(7月23日〜26日)
白馬岳登山記 
七月二十三日 川越〜信濃四ッ谷

 今日は川越は薄曇であるが、地下足袋、巻きゲートルにリュックサックで身を固めた元気はつらつたる登山部員一行は、午前六時四十分、新田町駅に集まる。やがて橋本、蔦宗、三上の三先生に引率され、午前七時待望の北アルプス連峰の盟主、白馬岳踏破に出発したのである。
 新田町駅より村山駅へ。そこから自動車で国分寺へ行く。そこから立川に向かい、同地から松本行きの電車に乗り換えた。車中は確かに御嶽山にでも行くのであろう、白装束の登山客で身動きもできないほどの超満員であった。我らは車中で昼食を取りながら、数時間乗り続けている中に松本に着いた。そこから一行は大町行きの車に換え、さらに四ッ谷行きの汽車で四ッ谷(注・白馬)まで乗った。その間車窓から我らの憧れの山々が、山ひだを近く、遠方に現している。中には雪渓のある高山が雲に中腹を包まれて、山頂が見えるのもある。
 北アルプスの午後の太陽はさんさんと照っている。やがて四ッ谷駅に着く。駅前で明日の雪渓登りに用いる「カンジキ」を買う。またある者は油紙を買い、明日の用意を整えて、第一日目の宿場、二股の白馬館へと歩を早めた。
 約一里半の小石のゴロゴロした道を行く。夕暮れは次第に濃くなってきた。やがて白馬館に着いたが、宿はもう下山した者や、明日我らと行程を同じくする登山客達の元気な笑い声で一杯である。我ら一行は今日の疲れを渋茶で癒しつつ、十時半頃明日の予想を語りながら床に入った。(三重記)

七月二十四日 信濃四ッ谷〜白馬岳
 四時半に目が覚めた。昨夜の山には珍しい蚊の襲撃に一晩中悩まされていたので、布団の上に起き上がった誰もが眠そうだ。
 宿の者が、
「今日は上天気だ」
 という。外は霧が白くまだ薄暗い。外へ出て小川で顔を洗う。しばらくすると霧が消え始めた。うすく見てきた白馬連峰は刻一刻とその山容を明らかにしていく。下界はまだ薄闇が残っているのに、山はもう朝日を浴びて輝いている。樺色の山肌、真白に輝く大雪渓、何と素晴らしい色だ。形だ。あの山を今日征服するのだと思うと我々の胸は躍る。六時半、身作りも厳重に一行十名、目の前遥かにそそり立つ白馬の頂上目指して二股の宿を出発する。
 素晴らしいブナの原始林を辿ること三時間、満ちた水の音に歩みを早める。昼なお暗い森林地帯が尽きて、日の光がかっと目を射る。足元には大石がごろごろしている沢に、急流が真白い飛沫を上げている。氷のように冷たい大雪渓の雪解け水だ。眉を上げれば大いなる山のひだを縫って、大雪渓は白布のごとく続いている。この沢で小憩を取りつつ、今朝宿で頼んできた案内人を待つ。やがて案内人の丸山君が追いついてきて一緒になる。丸木橋を渡って対岸へ登ると白馬尻の小屋へ着いた。午前九時半だ。ここで弁当のむすびを半分食べる。十時出発。一町ばかり登るといよいよ大雪渓へかかる。
 しっかりとカンジキを足へ付け、第一歩をザクッと硬い雪の上に踏み出す。この万年雪の表面は風雨で波状の紋を描いている。長さ二十数町の雪渓は二十度または三十度の傾斜を保って、真っ直ぐに上に延びている。ともすれば滑りがちで歩きにくい。ピッケルの足をザクッザクッと叩き込んで、カンジキの三本の爪を叩き込むように踏みしめて登る。雪渓の途中まで登ったとき霧が出てきた。太陽は隠れ枝のように分かれている。小雪渓の方から暖かい風と冷風が交互に吹いてくる。霧は煙のように雪の面を這ってくる。我々は喉が渇くとピッケルの頭で雪を削って口に入れる。
 左手に雪渓を根に下ろしてそそり立った数百米の岩山がある。杓子岳だ。そのそそり立つ大絶壁からはときどきガラガラと岩の欠片らが崩れてきて雪渓の縁に止まる。幅二百米を越える雪渓の中央にもときどき大岩が転がってくる。やはりあの崖から転がり落ちてきたものだろう。
 十二時に大雪渓を登りきる。実に二時間を一回も休まずに登ったので相当答えた。下を振り返ると遥か下まで続いた真白な雪の上を、ポツリポツリと蟻のように人が登ってくるのが見える。一息入れてまた登る。
 今度は小雪渓にかかる。幅約三十米ばかりの雪渓を横切るのだが、傾斜は四十度近く両縁にはクレバスが口を開いている。雪が緩んでいてカンジキの効きが悪い。滑れば百米下まで一気に落ちてしまうだろう。
 案内人の足跡を一つ一つ踏みしめ、ピッケルを用い、やっと横断する。ここを過ぎるともうお花畑だ。赤、黄、白、紫とりどりに、その鮮やかな色を競っている。高山植物の美しさは下界の花の比ではない。これこそ天上の花園である。この花の中で残りのむすびを食う。後は頂上まで比較的なだらかな道だ。一気に小屋まで重いリュックを運び上げて登る。霧がまた辺りを包み始めた。しかしもう頂上の小屋は向こうに見える。自然に元気が出て足が早くなる。
 小屋へ着いたのは二時。ここでリュックサックを下ろして身軽になり、頂上を極めに行く。頂上まで約二百米。なだらかな石ころと這松の多い斜面だ。霧は益々深くなる。ふと前方の這松の間をひょこひょこと歩いていく褐色の鳥を見つける。雷鳥だ。追いかけても羽が弱いのであまり飛べない。頂上へ行ったが霧が深くて何も見えない。小屋へ戻って疲れた足を伸ばしたのは三時だった。四時頃夕立がきたが、夜はすっかり晴れて山の満月が美しかった。(渡辺記)

七月二十五日 白馬岳〜祖母谷温泉〜宇奈月
「おい、起きるんだってよ」
 という声に目を覚ましてみると、もう仲間の者は皆起きている。時計を見ると三時半少し過ぎ。薄暗い中で支度をして靴を見つけて履く。外へ出ると寒くて思わず身が引き締まってくる。さすがは二九三三米、群がるアルプス連峰だ。まだ早かったので辺りは見えなかった。私たち一同は顔を洗いに行った。しかし一人一人小さなヒシャクに一杯の雨水で洗うのだ。だから顔もそこそこに洗い飯を食べて支度を終えた。四時一五分いよいよ頂上出発だ。皆一夜で元気を回復したらしい。案内人を先頭に一同一列になって岩石の道を下り始めた。見上げればうっすらと明るい空に未だに眠る崇高なる山ひだ。何という荘厳な姿だろう。何という気品高い大自然の沈黙だろう。山、山こそ確かに美しいところだ。彼の都会の埃の中に住む人たちには、実に味あわせてみたいところだ。朝の山は特によいのだ。その落ち着いた偉大な美。今やまさに明けんとする山の崇厳さに対していると本当に何ともいえない気持ちがする。
 下りは実にスバラシク早いスピードだ。四五十分も下ったであろう。もう足の関節が痛くなってきた。もう辺りはいつの間にか明るくなり、前方には悠然と横たわっているのは北アルプスの代表格、槍の雄姿だ。尾根が平らに連なっているその中に、一人群を抜いて立っている雄姿の槍。今や開け放たれた今日の運命の前に、紫色濃く浮かび出されてきた。また雲海を隔てた向こうには、立山連峰、怒涛のごとく重なる日本北アルプス、南アルプスの山々の雄姿。ここで一同はこれをカメラに納めて後一休み、この辺一帯は可憐な高山植物の黄、赤、紫色とりどりの草花が今を盛りと咲き誇っている。
 やがて白樺や熊笹の小道を約一時間半にして七時半清水小屋に着き、三十分休む。祖母谷温泉に向かう途中、黄い煙りを吐く噴口を見ながら道を急ぐ。この辺から道は実に危険を極め筆舌に記し難い。足元を削るような渓流の響き、その上に架した吊橋。ちょっとでも足を滑らせたら千剣の谷底。この辺一帯の谷は泉の出るところと聞く。水量も次第に増し、清い水が玉と砕け落ちる様は、実に壮観だ。一人一人順次に渡るあの吊橋。これがこの登山最大の苦手だ。谷君を先頭に、細淵君と自分と順次に渡った。間もなく小屋に着く。一同はここで昼食。電車の都合上昼食後直ちに出発。鐘釣へと強行軍。途中より日本電力軌道に沿って通っている鉄道に乗った。約二時間半にして宇奈月駅に着き、宿へと急ぐ。(大河原記)

七月二十六日 宇奈月〜帰郷
 私たちは隣の女中さんの帯びの音で目を覚ます。時計を見ると七時半頃だ。前日四時頃眠い目をこすりこすり起きたのと比べると、非常な差である。そのためか前日の疲れがすっかり取れたようだ。
 しかし今日私たちは帰途につかねばならぬと思うと、何となく物足りなかった。9時半頃我々はこの町のはずれにある鱒の養殖場を三十分に渡り見学する。十時頃この町にもさよならして電車で三日市に向かう。ここで我々は直江津行きの汽車に乗り込み、途中車中から親不知の断崖を見、昔日の面影を偲ぶ。
 直江津着が十一時半頃であった。長野行きに乗り換えるには三、四十分時間があった。その間に先生や一行の二三の者は、構内で売っている美味しそうな名物そばを見るや、直ちにパクつく。先生たるや四五杯は悠々である。我々は先生の健食振りに驚嘆した。
 その中に長野行きの列車はホームに入った。我々はこれに乗り込み、長野に着いたのが四時頃。直ちにタクシーを使って善光寺に参詣する。やがて駅前の食堂で夕食を済ませ九時半ここを出発して川越に向かう。車中の一夜は皆あの晴れ渡った中の名山を偲ぶ夢であったろう。大宮に着いたのが四時半頃。ここから自動車で川越久保町に向かう。久保町着が六時頃であった。私たち一行諸先生に深くお礼を述べて元気よく解散した。(喜多記)




昭和13年 燕岳〜槍ヶ岳(7月22日〜27日)

槍沢の雪渓の命拾い 徳田一郎 (昭和15年旧制中学卒)
「私は旧制三年(昭和十二年)、四年(昭和十三年)、五年(昭和十四年)と、三回も登山部の山行に参加しました。白馬の大雪渓を登ったとき、槍ヶ岳へ登ったとき、針ノ木峠から立山に登った帰りには下呂温泉にも回りました。私は山登りが大好きでした。二級上の先輩に飯能の寺院の萩野さんという人がいて、この人に連れて行ってもらったようなものでした。このような夏の山行の他にも、萩野さんとは一泊で近くの山登りにも行きました。
 それにしても、川中の登山部というのは、若い世代の集団だということもあって、無茶な登山をやっていたものだと思いますよ。
 槍ヶ岳の雪渓から滑り落ちたことが、今になっては思い出すことです。あの雪渓の下りはどうにも難しかった。そのため途中でゴザを敷いて腰を降ろして休もうとしたのです。そのとたんに私の体は雪渓を滑り降りてしまって、全く止まることができない。体の左側には大きな岩があって、そこに雪渓がパックリ口を開けていました。そこに滑り込んでは大変なことになる。私は必死になって、滑り落ちながらももんどりうって、反対側に転がったことだけを思い出すのです。そして雪渓が切れて岩になったところで、私の体は大きくジャンプしました。そしてそこで見守っていた強力に抱きかかえられるようにして、ようやく止まったものでした。あれからしばらくは、そのことを思い出すたびに身震いがしたほどでした。
 旧制中学を卒業してから大学に入って、富士山にも何度か登りましたが、怖い思いをしたということでは、あのときの槍ヶ岳を越えるものはありません。よくぞ事故もなく、皆が無事で三度もの夏の長期の山登りを成功させたものだと、感心いたします。
 私の記憶の中では、体育の秋山亨先生も一緒に登山に行かれたと思うのですが、勘違いでしょうか。普段の私は陸上部に所属していました。短距離の二百米走では、私は埼玉県の代表になって、神宮大会に出場しています。あの頃は二十三秒くらいで走れたでしょうか。陸上競技にしても登山にしても、私はそういうことが大好きでした。
 大学は早稲田に進みましたが、その三年秋に、六大学のリーグ戦を見に行こうと、講義を午前中だけでサボって、近所の食堂で早い昼食を取って野球場に向かったことがありました。ところがそこに着くと空襲警報がなって試合は中止、私はまた大学に戻りましたが、なんと昼飯を食べた食堂が、空襲で焼けてしまっていたのです。東京に最初の空襲があったときでした。このときも、もし早弁をしなければ私はあの空襲で命を落としていたことでしょう。槍ヶ岳の時といい、私は悪運が強く恵まれていたのだと思っています。兵隊に召集されたときも、九段の近衛第二連隊では、皇居の北門から宮中を護衛するのが任務で、外地へ召集されることもなかったし、終戦から数日間は、貯えていた残りの食糧や衣類を持ち出して、悠々と川越に戻れたものでした。旧制中学では、陸上競技と登山と、楽しい思いでばかりでした」

燕槍登山記 
七月二十二日

 午後一時我ら一行は久保町駅に集合し、蔦宗先生、川田先生、三上先生に引率され、橋本先生の力強い御見送りに感激しつつ、臨時バスで久保町駅を出発し、約三十分にして大宮駅に着き、高崎線で一路アルプスに向かった。(深田記)

七月二十三日 有明〜中房温泉
 横川・・・、横川という声で目が覚めた。外は未だ薄暗い。冷やりした風が頬に当たる。高原地方へ掛かったのだろう。汽車の速力は非常に遅い。7時半頃小海に着き町を見物した。
 小海を出ると汽車は高原地方を進むので、非常に気持ちがいい。菖蒲のような花が咲いている。高原一面に青い草が生えている。汽車は限りなく続く草木の間を、自分と自分の夢想とを乗せて走る。落葉松と矮小の白樺が沢山ある。中央線に入ると間もなく諏訪湖が見え出した。二時頃松本に着き先輩荻野さんと一緒になった。二時四十四分有明に着く。
 山のガイドと一緒になる。窓ガラスの少しもない小さい自動車に乗り、凹凸な狭い山道を行き、四十分くらいで北アルプスの登山口に出た。登山路は山腹を崩して作ったので、登山に相応しい景色を展開する。所々に水が湧き出している。
 一時間くらい登ると村落が見えた。そこから路は非常に狭くなった。少し行くと煙が見え出した。五六町行くと中房に着いた。皆家や友達に手紙を書いた。夜は非常に寒い。明日はいよいよ待望の槍燕だなと思って安らかに寝に就いた。

七月二十四日 中房温泉〜殺生小屋
 未明四時半に起きる。外は暗く山の朝とはいえ室内の温度は七度である。中房から燕まで約六粁路は急坂で、一同大変苦しんで登った。雑木が生い茂って木の葉の間を美しく日光が透かしている。梢の間に遠く霊峰富士が隠見し、ときどき山鶯の鳴く音が我らの疲れを癒す。
 合戦小屋に着いた時は8時半で、雑木はなくなり這松が姿を見せていた。間近に雄峰燕の姿が眺められ、四方の展望が開けてきた。九時半に燕山荘に着いた。頂上からの展望は非常に雄大である。東には浅間の噴煙が見え、南には南アルプスの銀嶺が連なり、西には北アルプスの主峰槍岳が天に向かっている。山荘を出発しいよいよアルプス銀座に入った。
 尾根伝いだから歩くに楽だ。一同元気で正午十二時に大天井に着き、ここで昼食をした。彼方に燕が見え、今きた道が隠れたり見えたりしている。昼食後直ちに出発し、再び雑木の中へ入った。午後の太陽はいやが上にも照り、水は少しもない。高山植物を踏みつつやっと西岳小屋へきた。ここで水を求め、少し休んで今日の最後の難コース殺生小屋へと猛進した。少し下って槍へ登った。道は難所の連続で、所々鉄鎖を伝って登った。足元に白雲が広がり、寒くなってきた。日が暮れかかったので、急いで登った。岩の間を抜けて、やっと六時殺生小屋に着いた。フィルンも暗くなり、ただ日本のマッターホーン槍岳のみが聳えている。明日の頂上登攀に備えて早く床に入った。(野村記)

七月二十五日 槍ヶ岳〜上高地〜中ノ湯
 午前三時半起床。支度を整え、四時槍岳征服に出発。外は実に寒い。頂上まで二粁外は真っ暗だ。ガイドを先頭に登る。道は急傾斜だ。五十米登ると一休み。健脚揃いに一同、昨日の疲れが癒らぬらしい。やがて大槍の真下にある肩の小屋の近くまで来た。ここにも二、三の客がいた。大槍征服の用意をしているらしい。岩にへばり付いて登る。または鎖に一命を託して登る。早や東天は紅色だ。頂上は間近になった。岩の間を通って終に頂上に辿り着いた。嗚呼偉なるや、槍の尖端!ついに征服せり。広々とした山上の蒼海真黒の重層を貫いて、天高く躍り上る紅の閃光。がぜん雲はどよめき乱舞する空。我らはただ自然の魅力に酔った。指呼の間にある焼・穂高・立山の雄姿、四方の呼応する山々、荘厳無比な御来光。山頂に名残を惜しみつつ、元気に小屋へ帰った。
 朝食を取り、七時上高地へと下った。途中雪渓滑りの壮快さを味わいつつ下った。付近の山々にこだまするクレバスの雄叫びを聞きつつ、益々元気に歩いた。休むたびにクレバスの流れを汲んで飲んだ。自然の味、女神からの賜物だ。槍沢小屋を通過し一路小屋へと進んだ。ここからは平地と変わらない平坦な道で、右手に流れる清流の雄叫びに歩調を合わせながら歩いた。
 正午上高地の入り口とも言える徳沢小屋で昼食して、1時半ここを出発し、明神池で一休みした。とても美しい風景だ。やっと河童橋に着き、ここでガイドと別れた。三時頃最後のコース中の湯へと進んだ。途中大正池、焼岳の美しさを称えつつ進んだ。山を切り開いた道、またはトンネルを通って中の湯温泉に五時半頃着き、温泉で疲れを癒し、愉快に夕食を取り、十一時頃床に入った。(三重記)


槍沢での記念写真

七月二十六日 中ノ湯〜島々〜長野
 六時頃全員起床。梓川の流れが耳に入る。流れの音は山の温泉情緒を多分に含んでいる。
 朝は寒い。今朝は珍しく雨が降っている。起きて直ぐ湯船に浸り、朝食を軽く取って、八時頃外被や油紙を着て出発した。懐かしの上高地を後に、梓川の流れに沿って、大馬力で沢渡まで行くのだ。我らはときどき未練がましく後を振り返った。そこは雨に煙って、ぼんやりと穂高・焼の山々が名残惜しそうに見えた。清水山吹のトンネルを通り、九字五十五分に辛うじて沢渡に着いた。ここからバスで四里、先の島々に向かった。バスガールの説明する屏風岩、親子滝を車窓より眺めつつ、島々へと向かった。バスガールが地方訛りのある言葉で、
「ここにありますのは、世界学会に一大センセーショナルを起こしましたヘットナー博士の発見しましたヘットナー石で、氷河研究に重要な資料で御座います」
 と説明した。車が一寸停車したので、十分見学することができた。
 やっと島々に着いて土産を買い、松本行きの電車に乗り、十二時近く松本に着いた。食堂で昼食をした後、松本城址深志公園を見学した。ここで先輩萩野氏に別れた。
 午後三時三十四分長野へ行った。五時半駅前食堂にリュックサックを預け、バスで善光寺に向かった。善光寺に参拝し、駅前食堂に戻り夕食をして、八時四十分までの自由行動で土産を求めた。午後九時二十七分長野を立ち、一路大宮に向かった。長野にて蔦宗先生と別れた。(横関記)

七月二十七日 帰郷
 車中が急に騒々しくなった。汽車はひた走りに走る。車窓から早朝の冷気が入ってきて気持ちがいい。横川の駅で我々は、名物のそばを食べた、実に美味しい。また車上の人となって大宮へと進む。三十分くらいして大宮に着いた。大宮の町はまだ深い霧の中にある。我々は顔を洗って川越行きの自動車を待った。一時間ほど待つと自動車がきた。それに乗って久保町へ向かった。夜は全く明けた。やがて懐かしの川越が見えてきた。七時頃無事に久保町駅に着き、我らは川田、三上両先生及び先輩の染谷氏に例を述べて、元気に解散した。(塩川記)
 
 以上を以って本年度山岳部の記事を終わりますが、本年度山岳部は前年の倍する参加者を得たことは、最上級生の我々として非常に嬉しかった。また登山そのものも豪壮雄大にして、終始我々をして仙境に入るの感を抱かせ、楽しく六日間に渡る行動を終えたことは、我々の非常な喜びとするところである。今後とも益々川中山岳部の発展を祈って止まない次第である。先輩染谷・萩野両氏の御参加を賜ったことを紙上より厚く御礼申し上げます。


昭和14年 立山登山記 針ノ木谷〜五色ヶ原〜立山(7月22日〜28日)



昭和15年度旧制中学卒・山岳部(当時のアルバムから) 表紙には皇紀で2601年とある。

「卒業アルバムのこの集合写真に写っているのは、同期の仲間ですね。前列右が松本保君、左が坂西登君です。二列目の先生の真中が蔦宗先生で、一番山に登っていた先生でした。そして後列の右から二番目が、私、牛窪友次郎です。その右が佐藤幸男君だったかな。
 私は、旧制四年(昭和十四年)のときに針ノ木峠から立山へ登って、旧制5年(昭和十五年)では槍ヶ岳に登りました。立山に行ったときは、素晴らしい天気だった。針ノ木峠から黒部川に下って、また立山の方に向かって登りだす。そうだ、あの黒部川にかかっていた崩れそうな吊り橋を渡るときは、あれは本当に怖かった。橋の敷板が細い丸太を結わえてあるだけでね。足元を見ていると板の間から、遥か下を流れる黒部の激流が覗けてしまうわけですよ。しかも風でゆらゆら揺れるしね。あれは猟師のためのつり橋で決して登山者のためのものじゃないなあ。
 立山・雄山からの下りは、もちろん今で言う室堂を通って、称名の滝を見ながらの下りだった。当時はそのさらに下まで歩かないと乗り物はなかったねえ。
 当時は、山に行く夜行列車はけっこう満員で込んでいましたが、いざ山に入ってしまうと、一日歩いてもすれ違う人というのは、二、三パーティくらいでしたよ。「こんにちは,ご苦労様」なんて声かけあっていましたよ。
 旧制中学は夏に千葉の岩井で行われる水泳教練に参加することが義務みたいなものでしたが、私は旧制二年(昭和十二年)の時に参加しただけで辞めました。カナヅチだったもので、水泳は苦手だし参加しても楽しくなかったものですよ。
 その頃登山部は毎年富士山に登っていたと思ったけど、私が旧制四年になったときには、その針ノ木雪渓から立山に行くことになった。海に行っても楽しくないから、今度は登山に参加しようと思ったんですね。参加費は海でも山でもかかりましたが、登山の方が少し高かったなあ。
 立山は確かに登っているときには苦しい登山でしたよ。でも終わってみるといい思い出ばっかりでね。だから翌年の槍ヶ岳にも参加したんだと思いますよ」(牛窪友二郎 大正十二年生・昭和十五年度旧制中学卒)


七月二十二日 
 
 指折り数えて今日のこの日を待っていた我々一行十名は、いざとばかりに地下足袋、巻きゲートルにリュックサックで身を固め、張り切って午後七時二十分新田町(注・本川越)駅に集合した。
 やがて蔦宗先生、三上先生に引率せられ、吉村先生、小松先生を始め諸先生の力強い御見送りに感激しつつ、午後七時五十分川越駅を後に勇敢に出発した。
 新田駅より高田馬場、そこから引き返して新宿に行った。新宿に着いた頃はもはや時計は九時を指していた。同四十分我々は臨時の準急列車で一路アルプスに向かったのである。我らは明日からの登山を空想に抱きつつ、あれやこれやと雑談にひたっていたが、何時しか眠りについてしまった。(小峰三郎)

七月二十三日 針ノ木小屋へ  
 朝四時大町駅に着く。町の旅館で朝飯を取りカンジキ、ゴザ等を買っている中に、桜井さんという強力が来たので、いよいよ出発である。今日即ち第二日の予定は、大沢小屋までである。もうすっかり日が照り、大町を囲む雪を頂いた山々が朝日にくっきりと浮かび出し、とても美しい。
 約一時間半歩いて登山口に達す。傍らの社で休む。綺麗な清水が沸いている。非常に冷たく、氷のようである。小憩の後出発。まただらだら坂である。我々は前途多難なるを思い黙々として歩む。
 一時間、二時間と歩いては休み、冷たい清水を飲んでは進む。次第にリュックサックが重くなる。腹がすいてくる。十一時半河岸で昼食を食う。全くうまい。零時半頃出発。次第に道が険しくなる。我々の位置が高くなる。皆次第に疲れてきて、小屋はまだかまだかと強力さんに聞くようになる。
 背が汗でびっしょりになる。二時頃ついに大沢小屋に達す。小屋で番茶をもらう、また別格の味である。一時間くらい休み、また眠る。
 すると途中で追い越した天王寺中学の一行が来る。始めはこの小屋で泊まる予定であったが、まだ時間もあり、疲れも治ったので、我々は大いに張り切って針木小屋まで行くことにした。小屋は峠の上にあるのである。二三十分進むと大雪渓に出た。ここを上り詰めれば峠である。皆カンジキを付け、武装よろしく雪の上を進む。三上先生が傾斜を測ると、二十三度であった。二十三度といえば緩いようだが、どうしてなかなか登るには骨が折れる。しばらく登ると上から霧が下りてきた。のどが渇くと雪をほじっくっては食べながら進む。次第に霧が深くなる。先が見えなくなり、疲れて息苦しくなる。トンボがばたばた落ちる。寒くなる。眼鏡が曇る。難行軍だ。
 下の方からオーイ、オーイと呼ぶ声がする。道が分からなくなって呼んでいるのであろう。ここからオーイ、オーイと呼び返す。霧が益々深くなり、傾斜が強くなりつるつる滑って全くの難行軍だ。
 約二時間後、目の前がパット明るくなって霧が晴れると、すぐ目の前が峠だ。万歳。ついに到着したのだ。我々は疲れも忘れて、雪中を滑って遊ぶ。それから小屋に入って毛糸等を着て夜に備える。八時頃に着く。(谷進)


七月二十四日 針ノ木峠より五色小屋まで
 
 午前四時起床。スエターを着込んで外に出てみる。夏とはいえ海抜二五四一米の針ノ木峠では、まだ冬と同じで思わず身が引き締まる。まだ太陽は出ず、雲海を隔てて彼方には白馬岳、南方には日本のマッターホルン槍ヶ岳が鋭い穂先を見せ、続いて常念、燕、水晶、赤牛とそれぞれ三千米級の山々が連なっている。御来光は山の影で思うように拝めなかった。
 5時小屋出発。ガイドを先頭に一列になって急坂を下っていく。下りは実に物凄いスピードで、四五十分も下ると足が痛くなる。やがて沢に出た。これを針ノ木谷といい、雪渓から流れ出た水は次第に水嵩を増し、川幅も広くなり、川の中の散石伝いに右岸から左岸へ、左岸から右岸へと十数回も徒渉する。
 途中にて岩魚釣に興じている人に会う。やがて黒部川の本流に出て、有名な平の籠渡しに着く。名は昔のままであるが、今は吊橋となっている。吊橋を一歩一歩渡るとき、足場の板は揺れ、脚下の激流は青黒く矢のような速さでうねりつつ流れる。実際足はおののき、心臓は口まで躍り上がってくるようである。
 やっと橋を渡れば、右に平ノ小屋に出る。針ノ木峠より四時間。そこにて一時間休んで昼食をする。平ノ小屋に別れを告げ、西を指して電光形に森林の中を登る。谷川の響きは左下の方から和かに聞こえ、銀鈴を振るような駒鳥のさえずりは登山者の心を慰めてくれる。
 一時間近くの登りで刈安峠に出た。ここまで来て初めて北方に立山本峰の雄姿を仰ぐことができた。なおも一時間半ばかり森林帯を行くと、雪の間に這松が点在している緩傾斜の高原に出た。ここが天上の楽園といわれる五色ヶ原で可憐な高山植物が美しくも風に震えている。
 高原を漫歩すること三十分、やがて二階建てのなかなか立派な小屋が見え始めた。我々より先客が大分来ていて、我々は二階の薄暗い部屋に陣取った。
 窓から外を見ればテントが散在していて、夕飯の煙が立ち上っている。その中に雨が降り出し、山々は雨にすっかり煙って霞んで見える。我々は明日の天気を心配しつつ床に入った。(松本勝輔)

<注・長野から富山への大クラシックルートの針ノ木越えは、立山黒部アルペンルートを観光すると、戦国大名・佐々成政の冬の針ノ木越えの逸話として今でも紹介されている。明治になると、このルートは馬車で通行できるように拡張され、日本最初の有料通行道路として整備されたようが、数年で雪崩れと共に崩壊する。今では扇沢バスターミナルの一時間ほど奥に、その大沢小屋があるが、当時は大繁栄したのは交通の要所にあったからだ。その時代に旧制中学山岳部は、白馬の駅からここまで歩いて、一日で針ノ木峠まで登りついている。地元でカンジキを購入したというのは、軽アイゼンのことだと思われるが、あの針ノ木雪渓は傾斜23度だそうで、今でも夏の午前中にはこれがないと確かに登れない。大沢小屋で500円でレンタルされている時代になった。
 登山者にとって「黒部を越える」というのは、大きな登行意欲を掻き立てられる。最も簡便なクラシックルートのこの針ノ木越えであっても、今の時代にこのような登山をする人はいなくなった。当時、長野側から立山へのこのロングルートは、戦国武将の時代と全く同じ条件だったと思われる。しかも下山から帰郷までさらに3日かかっているというのも、古き時代を感じさせるものだ>

七月二十五日 五色ヶ原〜立山・雄山〜富山 
 本日のコースは五色ヶ原〜富山。
 フト目が覚めると赤いランプはこの古臭い小屋に、ポーッと鈍い光を放っている。窓を開き、本日の天気はと空を覗くと、目の前に立山は中腹を雲に覆われながらも、天空高く槍のごとき頂上を現している。昨夜から心配の天気はどうやら心配には至らないようである。窓より進入する寒気に思わず身震いする。朝だけは下界が恋しくなる。
 間もなく食事を済ませ、午前六時にはリュックサック、ピッケルに身を固めいよいよ本年度登山の本望たる立山頂上に向かって足を早めた。竜王山より浄土山に向かう途中、我々が願っても見られなかった雷鳥が、真っ白き雪の上に飛び歩いているのが見られたことは、我々にとって忘れられぬものとなった。
 後、雪中あるいは岩の間などの難路を征服し、十時には立山直下に到着。荷物を置き最後の登りに向かった。三日間の苦節報いられて、一時間後には全員無事に頂上に到着。神社を参拝及び、川越中学校万歳を声の出る限り叫び、三十分休んだ。その間に我々はピッケルの柄に「立山頂上」等の焼印を押した。
 間もなくして後ろ髪を引かれる思いで頂上を後に、一路富山に向かった。途中道を間違えた。しかし蔦宗先生の御判断の下に、我々は登山中最大の難路を征服して、ついに午後七時富山に到着。十時頃まで散歩市内見物した。そして十時半には立山を征服した喜びに、また明日の希望に満ち満ちて、各自思い思いの夢路を辿った。(徳田一郎)

七月二十六日 富山〜下呂温泉 
 六時起床。支度を整えて我々一行は富山の町を後に、十時四十四分発の汽車で一路下呂温泉に向かった。我々を乗せた汽車は海抜一千米もある高地をあえぎあえぎ進んだ。途中数十もの大小トンネルを通った。この辺は山といっても大した山はなく、雪を頂いた山などは一つも見当たらなかった。午後の三時頃辛うじて下呂駅に着いた。
 生徒を停車場に待たせて、蔦宗、三上の両先生は旅館を見つけに行った。間もなく我々は水明館という大きな旅館に案内された。直ちに温泉へ入って疲れを癒し、館内にある売店で各自思い思いの土産を買い、愉快に夕食を取った。
 夕食のとき雷雨があったが、直ぐに止んでしまった。女中の話によると、この地方では毎日雷が鳴るのだそうだ。十一時頃安らかに眠りに就いた。(牛窪友次郎)

七月二十七日 下呂〜多治見〜伊那渓谷 
 午前五時全員起床。直ちに湯槽に浸る。泡まで澄み切った湯、肌に壮快の気分を浸透させる湯、及び窓越しに清流に対峙した。対岸の岸から山腹にかけて発達している温泉町からは、数条の白い湯気が立ち上っているのが見渡せる。それは山間僻地の温泉情緒を多分に含んでいる。軽く朝食を取り、最後のコース下呂〜中津に向かうべく停車場へ行く。昨夜の夕立後における夜景が余りにも美しかったので、すっかり心を奪われてしまったのか、後ろ髪を引かれる思いがする。
 しかし明日は一週間ぶりに故郷に帰れるかと思うと、足の軽いのを覚える。七時発の列車に乗り込む。御嶽山から下山した人々か白装束の人々で車中は一杯だ。やがて汽車は谷川を右に左に阻まれた山間を切り開きつつひた走りに走る。
 車窓からの風景は実に気持ちがよい。川幅も大分広くなってきて、真っ青に淀んだところさえ見せている。これを山水の美というのかしら。走ること三時間にして美濃太田に着く。さらにガソリンカーに乗り換えて多治見へ一時間、何処にもありがちな平凡な景色。
 多治見はさすがに陶磁器の都だけあって、近代的大工場のあるのが目に付く。ここより中央線に乗ること約二時間、車中では皆予定コースが大部分終わったので熟眠した。中津駅に着く。すぐさま駅前食堂にてえ腹を作り、最後の見学地たる伊那渓に向かう。
 だらだら坂を下り、やがて待望の伊那渓に着く。しかし風景も天下の絶景伊那渓というが、一向に変わりがない。聞けば場所を間違えたとのこと。皆残念がったが時間が足らぬので行くのは止めて、涙を飲んで引き上げ駅前にて自由行動を取った。
 夜七時発にて塩尻に向かう。思えば以前から期待していた一週間の登山も、瞬く間に過ぎてしまい、少し物足らぬ気さえもするが、何しろあの高峻な立山へ若輩の未経験の者がよく登れたものだと驚き、非常に嬉しかった。塩尻にて東京行きに乗り換え、一路東京へと汽車は驀進を続けた。(木下謙二)

七月二十八日 帰郷
 一週間にわたる立山登山の最後の日で、我らにとっては感慨深いものがあった。それは即ちあの北アルプスに雄姿を輝かす立山を征服したことである。また高山を征服した人でなければ味わえぬ気持ちなのである。それを深くしみじみと味わってきたことも、未だ耳目の影に思い巡らしている。
 我ら一行は前日高山線の下呂温泉で一泊休養し、充分と旅の疲れを休めた。翌日夕方下呂駅を出発し、また高山線に乗って塩尻まで行き、それから往きながら通った思い出深い中央線にて一路東京へと向かった。
 塩尻を出発したのは夜更けであった。駅の近所の工場みたいなところで濛々と白煙が立ち上り、物凄い光が空を照らしていた。三上先生があれは塩尻ガラス工場だとお教え下さった。汽車は中央線を東京へ走進していた。車中にて幾多の神仰団体に会った。彼らは立山あるいは御嶽などと信仰深い山を回ってきた方々が多かったようだ。我らはあちこちと散らばって座った。それから後のことは夢の中で過ぎてしまった。
 翌朝目を覚ましたときは、確かもう東京に近いところだと感じた。すると三上先生が国分寺駅で降りるのだからと、御指導になった。汽車はやがて国分寺駅に着き、そこで小憩の後自動車で西武鉄道の東村山駅へ行った。
 朝の電車の中には夏の勤労作業に出かける川中生もいた。間もなく我ら一行、懐かしの川越に着いた。そこで蔦宗先生から語訓話があり解散した。



昭和15年 北アルプス 槍ヶ岳〜穂高岳縦走 (7月25日〜30日)

<この年の旧制中学登山部は、槍ヶ岳から奥穂高までの縦走を試みた。ところが槍ヶ岳では悪天候に襲われて、ガスの中を槍の穂先まで登頂したものの、下山組みとパーティを別けた。それがどういう理由だったのかと、健在の牛窪友次郎(昭和十五年度・旧制中学卒)に聞いてみたのだが、六十年前のこの一件のことなどもう覚えていなかった。けっきょく牛窪にとっては、上高地から槍を往復した二日間で、ガスが晴れたのは下山のほんの一瞬だけのことだったそうだ。カメラを持っていた彼は、急いでその瞬間を逃さないようにと、撮影に励んだという。視界が聞かない山に向かって、「霞に煙っているのが槍穂の稜線」と恨み節を呟いていたとか。
 下山組みは、雨天の中上高地へと下って行ったが、その日は学校で使用する運動会用の大型テントを持ってきていたようでそこに宿泊したそうだ。過去河童橋前の五千尺ホテルに二回彼は宿泊したことがあったそうだが、一度は二日前の入山のとき。もう一回はほかのとき。中学の合宿中に、テントに泊まることは珍しかったらしい。そして翌日は報告にはないが、このメンバーで焼岳に登って、縦走組みと合流するまでに時間を潰していたようだ。牛窪が縦走組みの松本保に当時聞いた話では、槍穂を縦走した後、ジャンダルムを越えて、向こうのコルから下山してきたというから、天狗沢から岳沢〜上高地という予定通りのルートだったのだろう。
 余談ではあるのだが、当時登山をするというのは、旧制中学生のなかでも経済的に恵まれた生徒たちであったことは間違いのないことだった。旧制一年に入学した生徒は、毎月の授業料の中から、およそ五十銭を修学旅行用に学内で積み立てが行われた。一年間でそれは六円。四年間で二十円相当になる。「当時の一円が今の一万円」と話していた先輩もいたが、その半分だとしても相当金額になる。ところが実際には、旧制四年で行われたその修学旅行に参加しない生徒が三分の一くらいはいたそうだ。不参加の者には、その積立金が返還になるのが理由だ。当時の二十円という金額は、相当なお金であったことに違いはない。
 多彩な職業の師弟が旧制中学には集まっていたが、養蚕農家の師弟もいた。ところが同じ農家の中でも養蚕とうのは、年によってカイコに当たり外れがあった。カイコが繭を作る寸前に、絶滅してしまえば養蚕農家は大打撃を被る事になる。それが理由で修学旅行に参加できない友人がいたことも、牛窪は覚えていた。>

七月二十五日 上高地へ 
 指折り数えて待っていた今日この日がついにやってきた。先輩山崎さんを合わせ、我々一行十名は羽賀先生、岡田先生に引率されて午後六時発の川越線で飯能に行き、八高線に乗り換えて八王子にいった。この駅で代永先生と一緒になった。七時四十七分の下り列車までまだ時間があるので、八王子の町を見物してきた。やがて汽車がきた。どの車両も皆超満員だった。世に言う鉄道地獄とはこの事か、隅から隅までぎっしりとすし詰めだ。暑中休暇で郷里へ帰る者もあるが、大部分は登山者である。僕は車と車の間に腰を下ろして外の景色を眺めていた。
 松本から島々まで電車に乗り、島々から上高地までバスに乗ったが、このバスがまた物凄く込み合い、車のときの荷物掛けへ乗っている者もあった。途中故障、故障、パンクで二時間も遅れ宿に着いたのは八時頃だった。(牛窪友次郎)

七月二十六日 槍ヶ岳 
 曇っている。前穂、明神、奥穂、西穂に連なる一万余尺の威圧的な岩稜は、黒く濃く峠だち、誠に荘厳で神秘的である。六時半出発、目的地は肩の小屋である。
 上高地から徳本峠の路を一時間近く辿ると、白沢の追分に出る。右すれば徳本峠、左すれば槍ヶ岳の分かれ路である。路は梓川の左岸をどこまでも北に向かっている。少し行くと丸太のベンチが置いてある。ここは梓川の河原より高いところで脚下に光る白砂の河原、対岸に緑したたる化粧柳の林、そしてその上に毅然として衝立ちそぎ落ちたような明神岳の山稜が渾然として一つの芸術品をなしている。
 しばらく歩くとまたベンチがある。案内人がいう。
「ここを俗に槍見といい上高地から登ってきて初めて槍ヶ岳の山容が見えるところです」
 と。あいにく霧で、槍ヶ岳の英姿は見えなかった。間もなく一ノ俣小屋に着いた。十時二十分だ。お茶をもらって飲む。綺麗な大きい小屋である。立つ頃三人の外人が入ってきた。男女とも凄い体で、派手な姿をしていた。顔から推してスラブ系ロシア人だと先生はいう。二ノ俣からグット斜面が急となり、流れも狭く滝の連続である。路端に赤沢岩小屋がある。昔の槍ヶ岳登山者にとっては思い出深いところだという。森林帯を抜けると槍沢小屋に着いた。この小屋は槍ヶ岳では一番古い歴史を持った小屋だそうだ。
 ここで昼食を食う。十一時半だ。大きなむすびを頬張っていると寒くなった。風が強くなった。日向ぼっこをしながら写真を撮る。一時間休憩してまた歩き出す。路は段々急になり、足も重くリュックサックも邪魔になってきた。誰も無口になった。急カーブすると突然、
「槍だ」
 と前で叫んだ。足元に注意していた眼をほとんど反射的に上げる。おお待望の槍が初めてその全山容を天高く現している。
「おお」
 と思わず快哉を叫ぶ。また槍の肩から、大槍・中ノ岳にかけての壮麗なカールも眼を喜ばせた。皆急に元気になってはしゃいだ。この頃から先生たちが遅れ始めた。景色のよい岩の上で待っていると、案内人が静かに小唄を歌う。町のレコードと違って実に情緒の深いものである。梓川の冷水に喉を潤し、キャラメルに元気付けられながら、あくまで雄々しくしかも静寂なあたりの景色に溶けて行くこの小唄を聞くときは、羽化登仙とでもいった気持ちだ。段々岩が多くなってくる。雪渓もある。槍はすぐ目の前に聳え、大槍小屋、殺生小屋も見える。その中簡に坊主岩といって暗い深そうな岩穴があり、そぞろに昔を思わせる。歴史によればこの穴は文政九年八月、播龍上人が松本から小倉村を経て上高地に入り、この坊主岩小屋で行をなし、再三槍ヶ岳の頂上を極めて飛騨方面に下ったということである。だから槍ヶ岳の初登攀は播龍上人によってなされたわけである。この坊主岩辺りから肩の小屋までは相当な急斜面のため、約一時間ほど路を電光形にとる。風は益々強く、寒くなってきたので皆ジャケットを着る。実に登りにくい路だ。しゃくにさわる。二進一退というところだ。
 小屋の人が迎えに来てくれた。四時頃までに肩の小屋に到着した。皆ホット安心する。もうその頃は暴風霧でやがて雨も混じり荒れ狂っていた。小屋は大した混雑で二百人も宿っているという。六時頃床に入ったが隣の人とは肩が重なり合い、向こう側の人とは頭がぶつかるほどである。関西人が多く盛んに関西弁でたわいもないことを喋っている。爆笑が方々に起こる実に賑やかで眠るところではない。いつか自分も隣の人と親しくなって話し合っていた。先生たちは案内人と四人で窓越しに嵐を眺めては弱ったように、明日のプランについて話し合っていた。(坂西登)

七月二十七日 停滞下山組み
 ピューピュー風雨の音に目を覚ます。昨夜来の風雨はまだ止まない。小屋は一杯で足の踏み場もない。今日の予定は槍穂高縦走であるが、この天候では危険なので一日ここに泊まって天気の晴れるのを待って、明日出発することにした。そのためこの縦走は希望者だけにしたので、生徒は四人、先生、先輩、ガイドは合わせて七人だけになってしまった。我々は下山の者に荷物を渡し必要品だけを持って行くように仕度して下山の者を送った。残った者は小屋の一部を席をとって便りを書いたり書物を読んだりしていた。一時は減ったが、また一組二組ついに一杯になった。夕方から天候はよくなってきた。一同は一日の退屈を払いに外に出た。夕日は赤々と輝いている。「明日天気か、夕日が紅い」。幼児の歌を思い出して、まだ見ぬ予定のことを想像する。昨日登った槍ヶ岳がはっきり見える。皆嬉しそうに小屋に入り、床をとって明日の夢路の辿りについた。(田中昌次郎)

<注・昭和十五年に槍穂の大キレットを通過する縦走を行ったというのは、なかなか力の入った合宿だった。新宿からの夜行列車が登山客で満員だったというのも、気が付かなかった時代背景になるのだろう。しかもガイドを雇った小屋泊まり山行であり、部員がカメラを携行していたというのも、豊かな旧制時代のエピソードでもある。
 上高地からの道は、徳本に向かう明神辺りは報告に触れられているが、その先の徳沢・横尾は飛ばされて、ベンチがあるというのは今の槍見河原のことだ。その先、一ノ俣の小屋のことは触れられているが、当時は横尾・得沢には小屋もなく、中継地点はこの一ノ俣だったようだ。またこの小屋を起点にして、二ノ俣を遡り、中山峠から一ノ俣に入り、常念乗越を越えて穂高町に出るというコースは大正年間から、徳本峠越えとは別の大クラシックルートでもあった。その一ノ俣出合いには、ヨーロッパ風の小屋が建っていたそうである。ところがこの小屋は間もなく失火によって全焼して再築はされずに、新たに横尾で営業権は受け継がれた。
 さてこの合宿の報告では、風雨を突いて二日目に上高地から槍ヶ岳山荘に入っているが、どうもその日、悪天候だったにもかかわらず頂上を往復しているようだ。翌日は停滞で、多分その日のうちに下山組みパーティは行動したのだろうが、どうしてだかその下山の様子が飛ばされてしまっている。下山報告は上高地に宿泊した翌日のものである。また縦走組みの最終日は、穂高山荘から奥穂・ジャンダルムと西穂の稜線に入って、天狗沢から岳沢を上高地に下山するという予定の、これもなかなかのハードルートなのだが、その報告も残念ながら掲載はない。どうやら日にちごとに部員に分けてレポートさせていたようで、その中での行き違いだったのだろうか。当時のこれらの記録を読みたかったと思うのは私だけでもないだろう。
 しかし、ガイドにザイルで確保されながらも、キレットを通過するという旧制中学の登山部の合宿は、実に頼もしい山行だったとこの記録を読むだけで伝わってくるものである。それにしても当時の学生は、山行に対する事前の予備知識が相当なものだった。>

七月二十九日 槍ヶ岳〜大キレット 
 四時半に目が覚めた。天気を心配しながら窓から外を眺めれば、今日は昨日とは打って変わって良い天気である。体の疲労も抜け、一行七人は元気一杯である。まだ太陽は出ず、あたりは薄暗く三千米の高所にあるので実に寒い。外に出ると強力らしい人が、
「今日ええ天気ですぜ。ひょっとすると午後夕立がくるかも知れねえが」
 などと話している。我々四名(坂西、間々田、田中、松本)は槍の頂上(三一八〇米)でご来光を仰ぐ。殺生小屋からはまるで蟻のごとく一列になってジグザグを登ってくる、ああ何たる荘厳な眺めぞ。我々一同は思わず驚嘆の声を発した。一昨日登ったときは風・雨・霧で視界は全くきかなかった。太陽は今まさに戸隠山から紅燃ゆるがごとく輝きだした。我々のシャッターは盛んに活躍する。太陽の先端が雲上に顔を出すと、今まで薄暗かった辺りはたちまち明け放たれ、雲海は波のごとく輝き、この光景は正に山を愛し山を登ったもののみに味わえられるのである。展望はまさに百八十度で南方には本日行く穂高連峰が連なっている。展望を欲しいままにし、辺りの風景をカメラに収め下りは二十分で小屋に帰った。ちょうど朝食ができているので急いで食べ、六時には各自用意万端整って、いよいよガイド奥原さんを先頭に肩の小屋を後に、アルピニスト憧れの的穂高縦走に出発した。
 今日は尾根を上下するのでそれほどアルバイトを要することはないが、危険なところが多いので神経を使うと奥原さんはいう。大喰岳(三一〇〇米)はほとんど登りらしい登りを感ぜず岩石に這松や高山植物の生えている間のよく踏まれた道をいく。約一時間ほどで中岳(三一〇〇米)の頂に出た。有名な穂高のジャンダルムも少し肩の辺りが見え始め、一同益々元気旺盛である。雪渓の水を水筒に詰め一休みしていると、昨日肩の小屋で我々のすぐ隣にいた姫路高校生が先から我々の後を付いてきて、今やっと追いついた。十分ばかり休んで一同ピッケルをリュックに差し込み戦闘準備は整った。南岳の頂上(三〇三三米)までは高山植物の咲き乱れた風の強い尾根を行く。南岳の頂上から見たキレットは実に物凄い。南岳の下りからいよいよ穂高らしく、山勢一変し直立数十仭の鋭鋒は、鋸の歯のごとく目前に展開した。直下の岩石を奥原さんにアンザイレンしてもらってやっと下り、ほっと一息入れる。
 四年ほど前まではザイルを使用したとのこと。代永先生ならでも一同冷汗をかく。これより縦走中屈指の難所として知られた「大キレット」に掛かるのだ。時まさに午前九時。右の方は直下数千尺の断崖で滝谷に通じ、左は横尾谷の本谷に落ちて、その間利刃のごとき痩せ尾根を伝うのである。時には土蜘蛛のごとく、時には蜥蜴のごとくに。かくして平地ならわずか三十分ほどの距離を三時間近く要することから考えても、いかにその岩壁登攀降の連続たるやを察するに余りあるであろう。
 途中一つのパーティに会い互いに挨拶を交わす。十一時五〇分北穂高岳の頂上(三一〇〇米)に立った。頂上には五名のパーティが昼食中である。我々も「今日は」と挨拶して昼食にする。脚下涸沢雪渓の下部には各大学のベースキャンプが散在している。所々で昼の煙が立ち上っている。あまりに壮大な展望に思わず快哉を絶叫する。西方に見える笠岳の秀麗なる展望はアルプス中この地が随一とのこと。ここに東京高校生遭難の碑があり。先程から昼食中の若きアルピニスト?は涸沢でキャンプをしているらしく、関西訛りの言葉で、昨日は雨で薪が煙って困ったと話し合っている。約四十分休んで出発。これより涸沢岳の鞍部へは一時間ほどの下りである。岩石が崩壊し易く細心の注意を払いながら下った。今日は天気がよいので涸沢でキャンプを張っている連中も各岩場岩場へ出かけ、所々でピトンを打つハーケンの響きがする。涸沢岳の西尾根でも今五人の人々によってロッククライミングが行われている。我々はしばらく休んで観戦した。ハーケンの響きは滝谷一杯に響き渡り見ている。我々の方も手に汗を握る。涸沢岳の登りは縦走中の悪場ではあるが、今は三ヶ所に鎖が設けられ、可憐に咲く高山植物を踏みしめながら登る。しかし落石が多く冷々する。涸沢岳頂上(三一〇三米)近くは、鉄線を頼りに背の突っ張りを利用して辛うじて攀じ登る。頂上から奥穂・前穂・ジャン・西穂の眺めは実に素晴らしい。中でも両肩を怒らした巨人の胸像のような格好をしたジャンダルムの峻峰は、我々若人の登攀欲をそそる。
 この頃よりややガスが出てきて、西側(飛騨側)はもはやガスで視界はほとんど利かない。穂高小屋はかすかに見え、人の動くのさえ見える。我々が「ヤッホー」と送ると、小屋の人々も盛んに「ヤッホー」と返す。落石を踏んで二十分で簡単に下ることができた。時に一時半。まだあまり客もなく我々は直に部屋の良さそうなところに陣取る。リュックを下ろし小屋の前の雪渓でグリセードの練習を行う。傾斜約三十度はあると思われる。小屋に入り布団に潜り込み明日のプランを練る。その結果明日は前案を変更してジャンから天狗沢を経て、上高地へ下るということに決定する。五時半頃ガスが晴れるようになり、ちょうど太陽は西の山影に入らんとし、雲海ができ実に素晴らしい。珍しくも真丸の虹が出た。傑作写真を撮らんものと盛んにシャッターを切る。夜は月が出る。下界の寒月のように冴えている。(松本保)

七月三十日 上高地〜帰郷
 下山組みは、上高地で午前二時頃余りの寒さで目が覚めた。岡田先生と佐藤さんが焚き火をなさって、大部分のものは未だ昨日までの疲労で寒い中にぐっすり寝込んでいる。ただ一枚の雨で湿った教練用天幕を掛け、板の上に寝転んで寝るのでる。寒いことはもちろんである。間もなく皆起きてしまった。直ぐ近くに同じく「キャンプ」を持っていった大阪商大生と共に焚き火を取り巻き団欒にふけった。話によると彼らは霧峰飛行場に行き「グライダー」の練習を行うのだそうだ。
 空には半月が枝間から我々の頭上に煌々と照り輝き、寒い大気が漂っている。
 火の上に手製の網で餅を並べて皆で食べ、昨夜炊いておいた米を炊きながら夜の明けるのを待っていた。時々どこからともなく朗らかに歌声が闇の中から聞こえてくる。 しばらくして淡々と明け始め、餅と米と豊富な缶詰で朝食を取った。
 六時頃我々と一夜を仲良く語り合った商大生は、天幕まで「リュックサック」の押し込み、我々の元を去った。
 我々も次後帰る支度を整え、始め日光に照らされた森林中で新鮮な山の大気を吸い、着々と進んだ。天幕を除く他は大体終え、十時頃まで自由行動を許され、河童橋付近で土産を買い集め、梓川の清き流れ、氷のように冷たい水が雪崩れのごとく流れ、一生ここで住みたい気持ちがした。
 十一時半頃徐々に穂高周りの一行と一緒になるため出発。「河童橋」近く来ると代永先生始め一行に会い、和気あいあいのうちに上高地島々行きバス乗り場に到達した。が長蛇までならないが二列の行列であったので、我ら一行整然と尻に着いた。
 三時半頃かろうじて半分乗車し人間箱詰めの感じで梓川沿岸あるいは谷間の道を、揺られもまれて島々に着いた。残りの者を待ったが次のでこなかった。上高地島々間二時間の山道である。故障は持ち前である。
 我々は松本で待つことにした。電車で五時半頃松本駅に着き待合室で待った。
 約三十分して残りの者も着き、駅近くの食堂で夕食を取り、各自名物の「リンゴ」を土産に買い七時四十分発にて一路長野に向かった。
 十時数分前に長野に着き、駅に荷物を預け善光寺に向かった。
 町は非常に坂で階段のところもある。商店街が十一時閉店なので未だ店は開いている。
 謹みて参拝終わり十二時まで自由行動、我らは仕方なく駅で時間の過ぎるのを待った。零時四十分長野出発。
 車中で一行はしばらく穂高の話などを続けた。寝ようとしても直ぐ目が覚める。しばらくしている間に二時三時と過ぎ、夜は明け始め汽車は軽井沢付近を走り、車窓は早朝の薄暗い寒気で曇り、山間桑園の間を通っていよいよ関東平野の一角より、高崎に着いた。駅弁で朝食を済ませ熊谷を通って大宮へと向かった。
 大宮に七時半に着き、そこで松本さんと別れ新しい川越の将来に役立つ川越線に乗り、我々は懐かしい郷里に村々を通り川越駅に着いた。時すでに八時、日本の名山槍ヶ岳・穂高岳・焼岳の三山の自然の美しさに接した我らの喜びのうちに解散した。(山崎)



<旧制中学を卒業した牛窪は、その後大学に進学し、大学三年(昭和十八年)九月に海軍に召集されることになった。専門は商科だったのだが、海軍飛行兵として召集される。大学にはわずかに二年半通っただけで、繰上げ卒業となった。
 その召集される直前の八月に、彼は生涯三度目を登山を仲間と行う。
「いよいよ大学も卒業だからと、これが生涯最期の登山だと思っていましたよ。召集されたら、生きて帰れないくらいの覚悟は誰もがしていましたからねえ。卒業する仲間六、七人と白馬に行くことにしたのだけれど、経験者は私一人でねえ。四ッ谷(白馬駅)から入りましたが、あの大雪渓は地下足袋にカンジキ、そしてピッケルを持って登ったわけです。しかし雪渓というのは、午後になったら登ってはいけないものらしいですね。白馬尻の小屋番に止められたことを思い出します。それでもグループの中に生きのいいのがいて、いいや登っちゃえと、それは嫌だと泣き出した物もいたのですが。途中で雪渓は二手に分かれるけど、左へ行くんだぞと言い聞かされて、昼過ぎに登り始めてそれでも夕方には稜線の小屋に到着できました」
 召集以降の彼は、わずかに四ヶ月の特訓教育の後に、戦闘機のパイロットになった。同期の中には、特攻兵で戦死したものもいる。終戦間際には南方の台湾からフィリピン方面に、ゼロ戦の相棒機の彗星で爆撃を繰り返して、玉音放送は静岡の焼津の基地で聞いたという。>




昭和16年夏 富士山 川村正雄(昭和18年旧制中学卒)

 アルバムを振り返る旧制中学の記憶は、旧制3年(昭和15年)の修学旅行と、旧制4年(昭和16年)の富士登山だったでしょうか。
 修学旅行は伊勢から京都、奈良でしたが、横浜港から船で行きました。軍備を動員した支那事変が盛んになって、修学旅行などに輸送力を使えないという時代になっていたようです。戦前では最後の修学旅行だったようです。旧制5年(昭和17年)の6月には軽井沢での軍事演習もあって、整列した私たちは陸軍を払い下げになった三十八式小銃を各人が持たされ、整列した写真も残っています。その銃口に銃剣を差して演習したわけです。戦時色が強くなっていました。

昭和17年6月15日 軽井沢野外演習にて

 部活動での私は剣道部と登山部に所属していました。登山部は同級が6人。登った山はたった一つ昭和16年夏の富士山でした。何の気なしに、富士へ登ることになったのです。といってもあの頃は、男子は18歳までに一度は富士山に登っておくものだというような、世の中の風潮があったと思います。日本を象徴する山だからでしょうか。
 総勢で15人ほどでしたか。先生の呼びかけもあったのでしょう。汽車に乗って八王子の方を回ったわけですから、富士吉田からの登山だったと思います。八合目の小屋で1泊する予定でしたから、食料にコメ、雨合羽の変わりに軍事演習に使った綿の外套、そんなものを持っていきました。麓から登り始めるのですから、八合目の小屋に着く頃にはもう真っ暗になっていたと思います。上を見上げると、列を成している登山者の明かりだけが、暗黒の山容にキラキラ輝いて綺麗だったことを思い出しますよ。夏のシーズンですから大勢が登っていたものです。私たちは電燈すら持っていなかったと思いますが「あの登山者の明かりに導かれていけば、八合目には到達するんだ」というように、思っていました。
 小屋に着くと、持ってきたコメを出して、翌日には握り飯を持たされました。暗いうちに小屋を出てご来光を拝みました。お天気はとてもよかった。頂上に登り付くと御釜にまだ雪が残っていて、それをすくって少し食べてみた。下界にはどこまでも平野が広がっています。景色は雄大で大満足するものでした。帰路は砂走りを下りました。

同級6人の山岳部員と 昭和17年撮影

 そういえばこの登山の途中で、下級生が一人いなくなってしまい、けっこう心配したことを覚えています。「先に帰ってしまったんじゃないか」ということになり、戻った後に自宅に行ってみると、やはり彼はすでに帰っていました。おかしな記憶です。
 実は旧制中学1年の遠足は、入学して間もない頃の高尾山でした。まだ桜が咲き残っていました。あの時代は家族で旅行するなどということは一切ありません。中学に入っての遠足、そんなことがとても楽しみだったのです。とても気持ちがよくて、見晴らしがよかった。もしかして、そんな思い出があったから、この富士登山にも参加したのかも知れません。川越を離れて何処か遠方に行くなど、こういう機会しかなかったものでした。
 中学を卒業して師範学校に進学した私は、学徒動員は1年免除されました。工学部の学生と、師範学校の学生には猶予があったのです。それでも昭和20年4月には千葉の陸軍教導学校に動員され、5月には前橋の士官学校に異動しました。
 その後数ヶ月で終戦の後、「山の講へのお参り」で戸隠神社に行くことになりました。私の集落周辺では、年に1度は戸隠へいってお札を頂いてくる習慣があります。榛名山神社や、丹沢大山にいく集落もあります。近所住民を代表して、皆の分の札を授かってくるわけです。当時はもう20歳を過ぎていましたが、これも18歳までには一度経験した方がいいとも言われていました。あの時は6人くらいで行ったのかも知れませんね。善光寺に出れば、戸隠神社へという標識もありますが、神社へは山の中腹まで登っていかなければなりません。この時は、富士山とは違って大雨に降られて辛い思いをしたことが思い出されます。途中中腹の講元(宿坊)に泊まりましたが、そこでは衣類を乾かしたことだけしか覚えていません。確か富士山のときは、夏休みに入ってすぐの7月なら天気がよいが、8月になると雨に降られるといわれ、7月中の登山だったことだけは覚えているのです。ところが戸隠に行ったのは8月。やはり山は8月にもなると天気も悪くなってくると、そのときも改めて思いました。
 我が家は、父親が旅好きだったのです。結婚して孫が生まれると、父は孫を連れてよく伊香保の温泉旅行に出かけていました。同じように、正月の初詣に高尾山神社にお参りすることも慣例になっていて、それは戦後間もない頃から続いています。私自身が出かけられるようになったのは定年後のことですが、ケーブルカーを降りてさらに30分、奥社にお参りすることはできるのですが、さらに30分歩いて山頂まで行くことは、もう難しくなりました。そこは旧制1年のときに遠足で登った山なのです。



昭和17年度旧制中学卒・山岳部(当時のアルバムから)




一九四六年(昭和21年)
 
春の中津川渓谷
雲取山
武甲山

顧問 佐藤徳四郎

武甲山への弔い登山  斉藤金作(昭和22年・旧制中学卒業)
 
 新制高校になって、部活も復活してきた。この登山は学校行事として、そして過去に旧制中学の部員が、武甲山で遭難死した事故があって、その弔い登山をするという計画になった。十数人くらいのメンバーを募って、出かけたのだと思う。私の兄は旧制中学で陸上部に所属していたが、私は決まった運動をやっていなくて、気軽な気持ちで参加した。
 前日に横瀬村の小学校に宿泊させてもらった。ところが真夏の暑苦しいときで、私は寝付けずに、学校のグランドに出て夜風に吹かれていた。そのとき声をかけられたのが引率された美術の白井正先生だった。「こんな時間にどうしたんだ」と、声を掛けられたことだけを覚えている。
 翌日は、朽ちかけた鳥居をくぐって、無事に全員で武甲の山頂を往復できた。
 遭難というのは、大正時代のことだと思う。行事として武甲山に登ったのだが、道に迷ったのだろう夜間になってしまった。そのときに樹林の間から秩父の夜景が見えたらしい。あっちの方向に下れば降りられると、踏み出した数人が、その崖から転落死したという気の毒な事故だったようだ。後に私は入間市の、ある酒造屋さんの御大に知り合った。「私もあの登山では命を落とすところでした」と、そのご主人も、当時の登山メンバーの一人だったようだ。旧制中学の遭難の、弔いを無事に成し遂げられた。

旧制中学時代の武甲山遭難
 旧制中学で登山部(当時)が創設されたのが、大正8年。武甲山の遭難というのはその2年前、大正6年のことだった。3人が死亡した大惨事となった。
 100年事業で発行された「くすの木」によれば、その年の7月、博物の授業で使う鉱物の採取に、当時の3年5人が生徒だけで武甲山の登山に出かけた。まったくの有志の集まりで、引率教員もなかった。夕方下山中に、険峻な屏風岩に差しかかって、その絶壁から転落し、3名は頭を打って死亡、2名は苦痛に耐えていた同日の夜9時に、村人に発見されたとある。後に学校で合同葬儀が行われ、墓は、川越市藤間の東光寺に建てられているそうだ。事故は当時の新聞にも大きく報道された。



昭和21年春・奥秩父 中津川渓谷
 滝沢茂樹(昭和22年・旧制中学卒)

 昭和18年に旧制中学に入学した私たちは、終戦後復活した山岳部で山登りを再開することになった。しかし入学したこの年すでに、戦局はかなり逼迫していたと思う。
 旧制中学は毎年夏に、海洋訓練(水泳教室)を行っていた。この昭和18年は、西伊豆の戸田で行うことになった。ここには東京帝大の水泳訓練所があって、旧制中学の当時の教頭はこの帝大出身で、母校の訓練所での教室を望んでいたようだった。ところが、鉄道省(JR)は、学校の水泳訓練だというのに、生徒の乗車を拒否してきた。戦局が逼迫しているこの時期に、物見遊山的な水泳訓練はけしからんということらしい。それでも学校のこの催し物は実行された。
 仕方なく小田急線で箱根へ向かう。強羅で1泊した私たちは箱根の峠から、なんと旧東海道の石畳の道を三島まで徒歩で下山し始めたのである。しかも少人数のグループごとにどんどん下って行った。大きな隊列を組む余裕など全くなかった。石畳の旧東海道は、草鞋の時代には歩きやすかったのかも知れないが、鋲靴では滑って実に歩きづらかった。今でも覚えているのは、三島広小路には地元の電鉄が沼津へ通じていて、それに乗って沼津へ出た。さらに波止場まで歩いてそこから船でようやく戸田に着いた。ここで1週間もの遠泳訓練の実施となった。
 さて帰りもまた同じコースで川越に戻るのかとなると、相当な難儀が予想される。この時代には、学校に将校が配属されていた。大野騎兵中尉という人が引率された中にいて、この人の配慮で、帰りにはようやく東海道線に乗車できて、帰路はどうにか無事だった。昭和18年は、すでにこんな国内情勢になっていた。
翌、昭和19年になると、学校はすでに閉鎖状態に追い込まれた。授業ももちろんない。私たちは中学2年、昭和19年の冬から勤労奉仕に行かされていた。奉仕の最初の日、雪が降ったことを覚えている。私は、高萩にあった航空学校の航空機の、粗末な格納壕を掘らされた。後には同じ場所に航空工廠(陸軍の航空機部門)が移転してきて、最新型の戦闘機工場で、ジュラルミン製の尾翼の製作に当たった。工具で穴を開けては、リベットで止める。被服工場に行った者もいたし、カーリットの工場では地雷の信管を作らされた者もいた。下級生は農業奉仕で、米作りの農家に手伝いにいったり、畑ではジャガイモや麦を作っていた。そして昭和20年の夏、終戦とともにすべてが終わって、学校に戻る。つまり昭和19年の冬から、20年の夏までは、学校は閉鎖状態だといってもよかった。
 翌、昭和21年から学校は始まる。部活も戦前のように復活されたが、柔・剣道のクラブはなくなった。それに覚えているのは男子にもバレーボールのクラブが発足したものだった。戦前は女子の運動だとされていたものだ。その発足した男子のバレーボールは本当に弱くて、川越女子高校と対戦する機会があって大勢で応援に行ったのだが、女子に簡単に負けて、情けなかったのを覚えている。
 復活した山岳部に佐藤徳四郎という漢文の先生が当たった。生徒からは「徳さん」といわれて慕われた先生だった。その頃から昭和38年まで長年勤務したそうだ。
 どういういきさつだったか、春に秩父の中津川渓谷に行くことになった。三峰口だったか、大輪だったか、長時間歩いたのだが大雨に降られて、中双里集落の小学校に泊めてもらった。翌日も雨で山に登ることもできずに、また戻った。残念な山行だった。個人山行でどこかに行った者もいたのだろうが、行事として行われたのは、この山登りだけだった。


一九四七年(昭和22年)

夏山合宿 北ア・燕岳〜槍ヶ岳・焼岳

山岳部員 滝沢茂樹 斉藤金作 若月洋三
顧問 佐藤徳四郎


 滝沢茂樹(昭和5年生まれ・昭和22年旧制中学卒)

 昭和18年旧制中学に入学した私は、実は4年のときに歯科大学の予科に合格して、22年春から通うはずだったのだが、予科がまだ再開されずに、この年も1学期間だけ旧制のままだった川越中学に通った。そのため書類上は22年度卒となって入るが、実際には前年に旧制中学4年終了として卒業したつもりだ。旧制中学が新制高校に移行したのは、翌23年になる。当時の大学は旧制で予科が3年、本科が4年だった。


河童橋から穂高吊り尾根を背景に 昭和22年夏

 この22年の夏、北アルプスに行くことになった。実質卒業していた私は、OB参加のようなことになった。集団は総勢で30ほど。よくいまだにそのときの写真を保存していたものだと、自分でも驚く。これほど大勢が参加したのも、徳さんの人徳によるものだと思う。北アの表銀座に行ったのだが、私としては5万分の1の地形図だけを持っていたに過ぎず、どういう場所なのかは現地に行ってからのお楽しみとなった。
 大糸線の有明で列車を降りて、総勢は歩いて中房温泉に向かって宿泊する。翌日は燕山荘から大天井岳を越えて、一気に槍ヶ岳まで到達して殺生小屋に入った。当時の若者は歩きには強かった。晴天に恵まれた。北は剣岳・立山から、南は乗鞍岳・八ヶ岳まで見渡せた。それよりも驚いたのは、槍ヶ岳に雪渓が残っていて、その上を歩いて降りてくることだった。夏に山で雪を見たというのも、もちろん初めてのことだった。翌日は上高地に下って、西糸屋で宿泊して、焼岳往復。下山は徳本峠を越えて帰った。もちろん上高地までは林道も開通していたのだが、バス代というのは鉄道に比べてどうも料金が高い。しかも学割というのがない。それに当時は、歩くというのはごく普通の日常行為で、その歩行時間がたまたま長時間に及ぶというだけのことで、さほど苦痛ではないと、誰もが思っていたのだろう。どうせ上高地から徳本越えで島々まで下っても、1日でしかない。
 バス運賃に比べれば、山小屋で宿泊するというのは、それほど高いものではなかった。あの頃は小屋に宿泊するためには、米の持参が必要だった。宿泊代というのは、小屋番の炊事の手間賃と、梅干とたくあんの代金のことで、布団や毛布や部屋代というのは、無料に近かったのではないだろうか。それに上高地には写真屋が待機していて、記念写真の撮影も行っていた。今でも残っている3枚の写真は、河童橋から穂高の吊り尾根を背景にしたものと、焼岳を背景にしたものと、ウェストンのレリーフの前で撮影したものだ。
実はこの山行は、私に強烈な印象を与えた。翌年大学の予科に入ってからは、夏の涸沢にいくことが日課のようになった。やはり徳本を越えていく。昭和20年代の後半から30年代にかけては、ハイキングもブームになった。夏には大勢のキャンパーが上高地に入った。お金のない私たち学生は、撤収して下山するテントを見つけると、彼らが離れた後の残飯を物色して、海苔、ワカメ、玉ねぎ、ニンジンなど、多量の余り食料を見つけ出した。そういうものを持ってきては自分たちで料理して、夏山に持参の食料など要らないと思っていたほどでもあった。それに下山ハイカーは、小屋で持たせてくれたオニギリなどは、なぜか残して帰ってしまった。持参したお菓子の方がうまかったのであろう。私たちはそういうのも見つけて、ちょっと臭いは嗅いだがおいしく食べた。小屋の圧力釜で炊いたオニギリは、私たちの飯盒すいさんよりも圧倒的にうまかったものだった。大学は飯田橋にあったが、山に登らない学生が週末に銀座や新宿で遊んでいるよりも、山に入った方が金がかからないとも思っていた。
こうして以降、私は槍ヶ岳とその雪渓に見せられて、国内では静岡以北の山は、ほとんど登った。さらに世界の山を見に行くことになった。昭和39年に海外渡航が自由化されたその年には、メキシコまで行った。これは登山ではなく、外国音楽に渇望していた昭和1桁生まれにとって、ワルツ、タンゴ、マンボと覚えた洋楽の、フォルクローレのマリアッチというメキシコ音楽に触れるためだったのだが。しかしその後南米には30年通ったが、アンデス山脈は何度となく通った。ヒマラヤはエベレストベースキャンプ5500mまで。タスマニア、ニュージーランド、チベット、ノールウェー。樹木の生えている山ではなくて、雪と岩壁の山ばかりである。エベレストBCは2000年に行ったが、すでにラサまで空路で入れる同地には、わずかに4日のトレッキングで到達できる。05年には中国雲南省の山にも登った。
今は四国88箇所1200キロの巡礼の途中でもある。1ドル360円の時代に海外に出れば、マイカー1台購入できるくらいのお金がかかった。それを何度も繰り返して、とうとう私はマイカーやゴルフとは縁のない生活となった。しかし振り返れば、それこそが健康の秘訣であると思い返せる。歩くことと登ることこそが健康だと思える。歯科医として立ち仕事の毎日から、体をリハビリさせるのは、下半身の運動をして血液循環を図ること以外に、健康を保つ方法はないと思っている。
 

小島金作 
 実は私はこの登山の前年に旧制中学を卒業していた。しかし山岳部は、北アの縦走に出かけるという。そのときに「徳さん」から声がかかった。「若い子供たちの面倒を見てくれよ」。
 食料も何もない時代だった。荷物は、コメを1人3升だったか、4升持たされた。それを宿泊の小屋に預けて、炊いてもらったわけである。それと大豆を少しゆでてもらって、水と一緒に食べるのが、間食だった。兵糧食みたいなものだ。
 装備にしても何もない。東京に出ていた兄が「登山に行くならピッケルが必要だろう」と、いくつかの運動具店を回って、ピッケルを買ってきてくれた。上高地で写した写真の中でも、ピッケルを持っていたのは私を含めてほんの数人。他は、枝の切れ端を、杖の代わりにしていた。
 中房温泉は町から遠く離れた温泉で、流れている川の中に自然温泉が沸いていて、その周囲にはサルの糞がたくさん転がっていた。サルでも温泉に入るものなのかと、おかしく思ったものだ。
 そこから延々槍ヶ岳まで縦走した。さてその雪渓の下りなのだが、当時は誰もが滑り台で遊ぶように尻餅をついて、雪の上を滑っていた。こんなときこそ、兄が買ってくれたピッケルが役に立つのだろうと、確かに刃の部分でブレーキを掛けながら滑ると、加速をしないで安全に降りられたものだった。兄貴の教えもまんざらではないなあと、感心したことを覚えている。
 その後上高地まで下山した。山では誰も他人には会わなかったと記憶しているのだが、河童橋まで来ると、そこには女性のハイカーもいた。もう人里も近くなったのかなあと思う。ところが、大半の下級生はここまで降りてくるのがやっとで、この先徳本峠を越えられないと言い出した。困った先生は、けっきょくトラックを1台借り上げて、そこに荷物と在校生たちを乗せて、林道経由で下山させることにしたものだった。ところがその運賃というのが、1人確か200円だと思ったが、べらぼうな高値だった。それでも在校生の健康には換えられない。半数以上の者が、そうやって下山したと思う。残った元気なものは、当然のように徳本を越えて、島々に下った。しかし、あの徳本越えというのは、聞きしに勝る長い道のりだった。沢沿いの滑りやすい石ころ道が続き、果ては細々とした道になり、歩いても歩いても到達しなかった。ようやく集落が見えて、鉄道の駅になった。
 それでもこの登山は、8月の遅い頃になると、雷が来るし天気も安定しないからと、7月の末だったか、8月の始めだったか、なんだか引率の先生たちと、どの時期に行ったらいいものか、事前の打ち合わせが難しかったようにも記憶している。
 


佐藤徳四郎先生
岩堀弘明(昭和31年卒・)


 その先生は「徳さん」と呼ばれている先生だった。
私たちは、昭和二十八年の春入学した。講堂も体育館もあるのに、入学式は何故かクスノキの広場で行われた。式が済むと、クラスごとに校庭の一隅に集められ、私たちのB組は、講堂の南に集まるよう指示があった。
 そこには、カーキ色の軍服、坊主頭、下駄履き姿の人がいて、クラス全員の点呼をとり始めた。私はその人が何かの都合で教師の代わりを務めていると思っていた。ところがである。
「私が担任の佐藤徳四郎だ。みんな佐藤先生などとはいわない、徳さんだ」
 これには驚いた。高校の教師は、学識豊かな教養人の姿だと思っていたのに。だれもが同じ思いだったようだ。途中で笑い出した川田明美君は、
「出てこい!」
と命じられ、なんと鼻をつままれた。この「鼻つまみ」はそのあと日常茶飯事となり、生徒の間で随分恐ろしがられた。
 国語の教師であった先生は、生徒に無理やり古文を大量に読ませた。西下經一編『詳注古典選書万葉集』、内田泉之助編『唐詩新選』、安藤秀方著『新注方丈記』、いずれも明治書院の発行だ。『平家物語』など、ほかにも苦労したのがたくさんあるのに、なぜかこの三冊だけが今も手元に残っている。『方丈記』の「一、ゆく川のながれ」は、鼻つまみが恐ろしくて、夢中で暗記したため、今でもそらんじている。
 その『新注方丈記』は、昭和二十八年三月五日修正六版で、定価金四十五円とある。一年生三百人が買うわけで、徳さんは、明治書院が割引した金額を生徒に見せ、端数のつく値段で生徒に買わせた。
「おれは手数料を取らない代わりに、本を送ってきた木の梱包材は、風呂の焚きつけにもらうぜ」
 この焚きつけを自転車で先生のお宅に運ぶ役をしたことがある。先生のお嬢さんは川越女子高の同学年だ。修学旅行で歩いた御堂筋の感想を「二人で歩きたい通り」と表現した感性の持ち主で、徳さんに似ていなければ、と不謹慎な期待を持って勇んで出かけた。
 お宅に着き玄関の格子戸を開けると、廊下も和室も床から天井まで、びっしりと書棚が並んでいた。体を横にしなければ、本を取りに入れないほどだ。こんなに勉強しておられたのか! 感銘を受け、棒立ちになって眺めていた。先生がおっしゃるには、すでにどうしようもなくなって、川越高校の明治文庫に相当数の書籍を寄贈されていたのだそうだ。
「本校の図書館には、たいした価値のあるものはない」
 在学中にはそんな思い出がある。それから半世紀近くが過ぎた・・・。
縁があって川高OB会で六十歳を過ぎたメンバーで登山をすることになった。後輩の高野君は山岳部顧問でおられた松崎先生に見込まれて、月に一回は山にご一緒しているという。それも滅多に人に会わない、ガイドブックにも登場しない山に、だ。「いいなあ」と思っていたところ、私にもチャンスが巡ってきた。鹿教湯温泉に泊って三人して歩いた二日間は、確かに山中人っ子一人会わない静かな山路だった。
 ところで、ハンドルは安全運転の高野君の腕の見せ場だったが、上信越道の帰り、彼はさすがに眠くなったようなので私が交代した。
「助手席では居眠りしないようつとめています。それが運転者に対する礼儀だし、話しかけて相手が眠くならないようにすることが、結局は自分のためにもなると思いますから」
松崎先生は笑われた。
 トンネルを幾つも抜けるころ、私の会社の山荘がある八風山とその近くの神津牧場や初谷鉱泉に話が及ぶと、先生はおっしゃった。
「そういえば、わが国近代登山の先駆者大島亮吉の遺著である『山 研究と随想』に、「荒船山と神津牧場付近」と題する有名な一遍がありますね。いわば私の山のバイブルですが、川高の図書館で表紙の傷んだこれを見つけたときは驚きました。昭和の初期、岩波で出したこの難しい山の本を書棚に備えるとはさすが伝統校と、感銘しました。と同時に一体だれがこの本を購入したのか興味がわきました」
 私は、直感した。
「徳さんに違いない。明治文庫にたくさんの蔵書を寄贈された徳さんだ!」
 半世紀も前の、あの徳さんのお宅の光景を即座に思いうかべたのであった。
 徳さんは、昭和二十年から何年間か山岳部の顧問として、北アルプスに生徒を連れていったようだ。何をするにもすぐ「ハラッペラシ」という言葉が口に出た敗戦直後、なぜ生徒に山を歩かせる気になられたのだろうか。東北のご出身であったが、先生だけ米を食べておられたとも思えない。
 二年生の時も徳さんが担任だった。その年、C組全員が、日帰り無銭旅行に行かされた。正丸峠でバスを降り、子の神戸、刈場坂峠、高山と回って、吾野駅までのハイキングだ。
「電車賃以外は持つな」
とのお達しで、今アルバムを開いてみると、みんな学生服、学帽姿。徳さんはいつもの下駄履きで写真に納まっている。このハイキングの計画段階で、
「岩堀は山に行っているのだから、時間の配分を考えろ」
とのご下命があった。口にはされなかったが、山岳部の行動には関心をお持ちだったのかもしれない。
「 Hunger is the best sauce」(空腹は最大の調味料だ)。これが出ると必ず、
「頭は聖人のごとく、体は獣の如く」
と付け加えられた。「学生は等しく貧しくあるべし」というのが先生の一貫した教えであった。
「今後君たちが膨大な戦争賠償をしてゆくにためには、指導者が清貧に生きる姿が欠かせない」
といつもおっしゃっていた。そのお気持ちを、自らの軍服、下駄履き姿で、率先垂範されていたのかもしれない。
 佐藤徳四郎先生について、こんなことを車中で松崎先生にお話しした。
「ああ、そうだったんですか、これでやっと溜飲が下がりました。半世紀もずっと気になっていたのです。あれっ、もう東松山に来ちゃったんですか。プリウスは速い!」
 わが顧問のさも感慨深そうなお顔に、三人の信州二日間の山旅の幸せが描かれていた。



一九四八年(昭和23年)

夏山合宿 北ア・白馬〜唐松岳
二年部員 赤星諧 佐久間春男 小黒健次郎 菊池好太郎
顧問 木村信寿

山で出会った山師たち  佐久間春男(昭和25年卒)
 私たちの年代は昭和十九年に旧制中学に入学しています。その旧制一年の冬(昭和二十年二月)から早くも勤労動員に出動しました。今では上福岡の団地になっていますが、そこに陸軍の造兵省があって、鉄砲の弾とか、導火線の工場がありました。機械から出てくる導火線を決められた長さに切断したり、それを決められたように梱包したり、それを半年続けて昭和二十年八月を迎えたわけです。上級生はやはり朝霞にあった被服省で、軍服や作業着の縫製工場に動員されていたと思います。終戦で勤労も解除になったわけです。
 終戦の翌年、中学三年になっていましたが、この年の武甲山が私にとっての初めての登山だったと思います。「徳さん」という国語の先生が戦後から学校に教えに来ていましたが、この先生は俳句では相当な先生でした。東京に獺祭(だっさい)という俳句の同人組織があったようで、先生はそこにも参加していたような芸達者な人でした。校内で俳句の会があって、私はそこに参加していた関係から、徳さんに登山に誘われました。武甲山の記憶は、今となっては簡単な日帰り山行でいける山ですが、当時は横瀬に宿泊しての大掛かりな登山だったように思います。こうして私は山岳部に在籍したのです。どこにも所属しないルンペン部員はいけないとも言われていたし、かといって毎日練習しなくても良かったわけです。
 そして翌年には、燕岳から槍ヶ岳への縦走。この年は旧制の四年生でした。燕岳から延々と槍ヶ岳まで縦走しましたが、確か翌日は風雨がひどくて、けっきょく槍の穂先には登頂できないまま上高地へ下山してきたのです。そこで五千尺か清水屋に宿泊して翌日は徳本峠を越えて島々へ下りました。しっかりしている集合写真が残っているのは、川越在住の加藤さんという写真屋さんが、この登山には同行していたからだと思います。翌年、昭和二十三年の春に、旧制中学は閉校になって新制高校になりました。私たちは旧制の四年から新制高校の二年になって、都合六年間を母校で過ごしたことになります。
そして不確かな記憶では、昭和二十三年の新制高校になって、戦争で数年間途絶えていた登山部は正式に山岳部となって、北アルプスの白馬岳から唐松岳の縦走を行いました。この山行にはもう徳さんは引率されませんでした。代わって化学の木村信寿先生がきました。海軍省出身の二十五歳くらいの若い先生でした。何故だか木村先生は「きんたさん」と言われていて、戦時中には青森県の大湊にいたそうで、その頃には下北半島の恐山に登っているのです。恐山にいる巫女さんのいたこ(祈祷師)は、お願い事をすると霊を呼んできて、願いを叶えてくれるとか、そういう話はどうにも怖いのですが、しかし先生に聞かされているとこれが面白い。そういう風変わりな先生でした。川高での在職は短いようでしたが(昭和二十六年十一月まで)、後に民間の化学工場に技術者として転職したようです。
 この年の夏の合宿では、白馬岳から不帰のキレットを越えて、唐松岳から八方尾根を下山したのですが、この木村先生と一緒に話しながら下山したことが思い出されます。この昭和二十三年から正式な山岳部となったと思われるのは、引率する顧問の交通費がいくらか学校から支給されていたようなのです。それ以前の山行では、引率顧問の交通費は自費だったとかで、先生も大変だなあと思ったものでした。
 年代は不確かなのですが、この頃には奥秩父の雲取山から雁坂峠までの縦走も行いました。雲取山で宿泊した次には、笠取小屋で泊まります。無人の小屋での宿泊なのですが、当時は燃料の薪を切り出したりするために、山行には鉈を持っていきました。もう亡くなりましたが一級下に宮崎君という部員がいて、彼は新しい鉈を購入したとかで、それで枝の伐採をしたのですが、使い方に慣れていなかったのか、自分の足を鉈で傷つけてしまったのです。下山路はいずれにしても雁坂峠から秩父に下る道しかないのですが、そこでパーティを二つに分けて、先発隊を先に縦走させて応援を呼ぶような手はずにしました。先発隊は栃本に下山して医者を呼んだり、学校に連絡して同級生の応援を頼んだりしたようです。後発隊は一日遅れで、彼の怪我も小康状態になったことを確認して、縦走を始めました。それでも歩き始めてみると、彼もどうにか自力で歩行できるようでした。そんなことで、せっかく応援を頼んでみたものの、応援隊と私たち後発隊はどこかですれ違ってしまって、せっかくの応援が無駄になってしまうというおかしなこともありました。
 あるいは同じ頃には日光にも登山に出かけています。このときは陸軍の払い下げテントを担いで湯元でキャンプをしました。二日目に日光白根山へ登る日は物凄い悪天候になってしまって、けっきょくこの山も頂上への登頂はできないままに、ずぶ濡れのテントで翌日も泊まることになりました。ただあまりにも惨めだからと、湯元の温泉だけには入れてもらったりした記憶があります。ただこの頃から山行へ行くにも学割が利用できるようになって、正規の運賃からいくらか割引になったために、差額が小遣いになって、それで風雨の山行でしたが、何故だか覚えているのです。
 そうして昭和二十四年の最終学年のときに、亡くなった赤星が記録に残した甲武信岳の登山となりました。あの時も地元の梓山に予め手紙を出して、十文字峠の小屋は番人がいないけれど上手に使えるとか、栃本へ下る真ノ沢林道は難しい道だとか、事前に紹介は受けていたはずなのでした。戦前の古い地図には、真ノ沢の下山は八時間程度の歩行だと記されていたような気がしますが、朝五時に出発して栃本に下山できたのが夜の八時。栃本は信州へ越える江戸時代の裏街道ですから、旅館がありました。宿泊した栃本屋は今でもあると思いますよ。なにしろ谷筋の下山ですから、何の景色が見えたというわけではなくて、ただただ長い下山に苦労したという記憶です。
 当時秩父の山は戦後の伐採の最盛期で、登山中にはよく地元の山師に会いました。「登山とは贅沢だね」とは言われましたが、彼らはよく話しかけてくれるものでした。山歩きのコツを教わったりしました。
 早朝に山に入るとき、山師たちは大きなお結びを弁当にするのですが、「昼飯にそれを全部食べてはいけない」と彼らは言うのです。いざ山で天候が急変して戻れなくなったときでも、結びが一個でもあれば、翌日くらいは無事で過ごせると。だから私たちの登山でも、持っている食料は全部食べてはいけないというわけです。
 あるいは飲み水にしても、山師は空っぽのやかんにお茶葉だけいれて、山に入る。秩父は水が豊富ですから、休憩時には水を入れて沸かして、茶にして飲むのだと。冷たい水だけゴクゴク飲むのは、いくらでも飲めるがすぐにバテるし、水腹になってしまう。お茶ならが少しで喉を潤して、体力の回復ができるというわけです。朝の十時、昼、午後三時と、一回の茶で三回分の茶を出すそうですが、それが山師の知恵だといっていました。私はそういう話が何故かとても面白かったのです。それと仲間とワイワイと登山やキャンプすることが楽しみでした。
 大学へ進学して数年経った頃に、一級上の若月さんが大学山岳部で登山を続けていて、冬の富士山で遭難してしまったという報が入りました。私は出動しませんでしたが、彼の近所の所沢に在住していた先輩や同期が救援に向かったようです。ただ遺体が発見されたのは初夏になってからだったようです。ちょうど学年末試験が迫っていた頃で、思わず動揺してしまいました。そのように大学山岳部というところは厳しい部活だと思っていましたから、山登りをしたのは高校時代だけでした。ただ就職して少し経った頃に、山岳部同期の菊池好太郎君と三人で、北岳を登山したことが一回だけあります。戦時中から六年間母校に在学しましたが、登山は楽しい記憶となっています。



一九四九年(昭和24年)
  
甲武信岳山行 六月二十四日〜二十六日

 顧問他生徒十七人という大パーティの山行となった。小海線の信濃川上から甲武信岳に登り、秩父に下山するとうい、当時としては冒険的な登山になっている。
二年部員 粕谷熊 柳下満 宮崎義宣 金子勇二 市村栄一 内沼一雄 加藤健 君塚功 小林洋左 畑喜千松 

顧問 木村信寿


ヒマラヤへの夢 金子勇二 (昭和26年卒)

 自宅は川越市街から離れて、のどかな鶴ヶ島にありましたが、父親は趣味で猟をする人でした。鉄砲を持って野鳥を追いかけるという、子供の私もよく猟には付き合いました。私自身も大人になって同じような趣味を持ちましたが、野山で遊び回るというのは、その頃から好きだったものです。
 終戦の年(昭和二十年)の春、旧制中学に入学しましたが、最初に憧れの山に連れて行ってもらったのは、旧制二年(昭和二十一年)の雲取山でした。勤労動員から戻ってきた怖い上級生たちと一緒に、「徳さん」先生が山岳部を指導し、戦後の学校で部の再建をさせようとしていたのだと思います。
 当時雲取山に登るというのは、二泊必要でした。朝、川越を出ても三峰山に登りつく頃には夕方になってしまう。ゲーブルカーはありましたが、あんなものには乗らずにバスを降りてから二時間歩いたものです。三峰神社には宿坊のような施設があって、毛布くらいは貸してくれましたから、それに包まって板の間で寝る。同じように宿泊している信者達が大鍋で煮込みを作ってくれて、それを自分の皿に分けてもらってそれが夕食でした。翌日は雲取山山頂に到達して、ここには小屋がありましたが大抵は素泊まりで、自分で鍋、釜を持って上がりましたから、自炊して泊めてもらったりしたものです。
その最初の山行は、何だかとても苦しいものでした。疲れて休みたいと思うのですが、なかなか休憩させてくれません。
「登山とはこんな厳しいものなのだろうか」
 それでも帰宅してみると、また行きたくなった。武甲山にも、両神山にも連れて行ってもらいました。
 旧制中学を三年まで進んで、四年になるときに学校は新制高校に変わりました。私はその年(昭和二十三年)高校一年になります。つまり旧制で入学した私や一級下に学年は、六年間旧制中学や高校に通ったという不思議な経験になったのです。旧制中学では、上級生はいつも怖かったものです。通学途中ですれ違っても、先に敬礼するのは下級生の方から。応じて上級生が返礼して、でもその礼が終わるのと見届けないと下級生は敬礼した手を下げられないものでした。学徒動員が終わって戻ってきた上級生に対しても同じ様なものです。これは相当に緊張する。旧制中学とはそういうものでした。そして新制高校になると、今度はそんな敬礼はいらない時代になって、いくらか自由な時代になってくる。私たちは何だか厳しい時代だけ通過してきたという気がしますね。
 「徳さん」という山では優しい先生も、普段は始業にわずかに一分遅れるだけでも、相当怒られました。けれど登山については、やはりこの先生が恩師のようなものです。秩父の山に行って、「田部重治を読みなさい」と言われ、「笛吹川を遡る」というような紀行文に、魅力を感じていました。
 高校二年(昭和二十四年)になると、部活も充実してきて部員では甲武信岳に登頂している記録があります。でも私は、その頃一度退部しているのです。
 確かその直前、日光に登山に行ったときだを思います。二泊テントに泊まって男体山に登り、日光白根に登りました。とても楽しかったのです。でも「皆で仲良く山登りをしよう」という山行に違和感を覚えてしまいました。どうも私は、山で苦しい登りに耐えるというのは僧侶が座禅を組むようなもので、山では楽しさの他にも求めるものがあるはずだと、思い込んでいたのかも知れません。部員が二泊で甲武信岳の登頂を楽しむのなら、私は五泊して雲取山から金峰山まで全山を登るべきだと、その年の夏に大川解君と二人でその計画を実現しました。  そして高校三年(昭和二十五年)最後の合宿は南アルプスの甲斐駒から仙丈ヶ岳を通って、北岳、鳳凰山を周回するもので、仲の良かった同級の粕谷がチーフリーダーとなったことで、これには参加しました。当時南アルプスなどというところへは、登山者は行きません。一週間の合宿で他人に出会ったのは、北沢峠と北岳山頂くらいで、毎日毎日誰にも会わずに、仲間とだけで探検していたような山行でした。
 登山を職業にすることはできないだろうかと、在学中から考えていたのですが、それには農学部に進学して国有林の管理をやることだと思い込んでいました。山の中で営林署の職員に何度か遭遇したことがあって、その職業に就くには、
「地質を勉強して、植物も、鉱物も・・・」
 そんなことを言われた記憶があったのです。
 大学はその通りに農学部林業科に進学して、学部の山岳部に入りました。キャンパスが藤沢にありましたから、地元丹沢の岩や谷はホームゲレンデになりました。さらに社会人のクラブに参加したこともありました。かなり規律があるピラミッドの組織であったことは確かです。
 昭和二十九年の十一月、冬山訓練の富士山で、雪崩遭難が起こって大量遭難が発生しました(十一月二十八日、南岸低気圧の影響で、吉田大沢で大規模な雪崩による大量遭難が発生し、日大、東大、慶大山岳部の四十人が訓練中に雪崩に巻き込まれ、十五人が死亡した)。私もその合宿に参加していて、実は半日前に下山して救われました。後輩が亡くなりました。
 そんな慌しかった頃、先輩に紹介されて第二次マナスル登山隊(昭和三十年)にサポート隊員として参加することになったのです。槙有恒さんを隊長としたヒマラヤの登山隊は、けっきょく翌年(昭和三十一年)の第三次隊でマナスルの初登頂に成功するのですが、これはその前年の遠征のことです。ベースキャンプは五七〇〇mで、頂上は八一〇〇m。ベースキャンプの上へルート工作をして前進するのは、皆有名な選抜メンバーばかりで、キャンプは五つも前進させなければならない。私はサポート要員ですから、ベースまでの荷揚げの係りと、ベースでの荷物の仕分けなどが仕事でした。毎日新聞社が後援となって、ドル持ち出しに制限があった時代に、外貨の割り当てを獲得しました。まだまだ海外旅行が自由化される前の難しい時代の遠征でした。個人負担金もかなりのものであったと記憶します。
 この遠征は、実質二ヶ月間くらいかかりました。インドに入国してからは四十日くらいだったでしょうか。私自身もちろんこの遠征に期待はしていたのですが、しかしヒマラヤのベースキャンプまできたのに、どうにも意気消沈したというか、チャンスがあったらあの頂に自分も登ってみたいというような、登行意欲というのが湧いてこなかったのです。「自分には到底無理だ」と少し挫折したような気分がしました。そんなことも理由になって、ヒマラヤというのは、これ一度だけの経験で終わりました。
現地にももちろん山岳民族は大勢います。ヒマラヤの峠を越えてインドからチベットへと、民族の交流はいくらでもあったのです。しかし現地の民族というのは、峠から決して山頂へは目指さない。頂上は侵してはいけないという、聖なる場所だったのでしょう。ところが日本では富山から見上げる剣岳にしても、同じように三千mの標高差を誇って聳え立っています。麓までいってもやはり相当な岩壁が聳えているのです。しかし日本ではその頂上に自分も到達してこそが、聖なる場所に近づけたことを喜びとする。私の登山観は、国内のそれに終結してしまったということかも知れません。
 しかし何と言っても時代が厳しかった。当時の社会情勢は「なべ底景気」の不況と言われ、鳩山一郎総理大臣も政権を投げ出してしまったくらいですから、大学を卒業した者であっても、縁故採用意外は大した会社に就職できないものでした。私自身その渦中にあって、どうにか教職の道に採用されて、自分が育った川越市の中学校の教員になりました。公務員の初任給が八千円の時代に、私立大学の授業料が千円。これで優雅に登山に行けと言われても、それどころではなかったのです。
 それでも教職に進んだ私は、中学校の子供たちと年に一回の登山をすることが、それ以降の楽しみになってきました。昭和三十年代は、夏休みの教員の私的な山登りの企画に、大勢が賛成してくれました。武甲山、大岳山などにはよく行きました。しかも一泊して、雲取山とか蓼科山。南アの甘利山、八ヶ岳・赤岳などに中学生を連れて行くというものに、親も子供も大賛成してくれて、毎年そこそこの登山を中学生連れで行ってきたものです。学校組織の中で管理職になるまで、それは昭和五十二年まで続けました。最近では、孫を連れての登山もしています。今の時代なら、中学生登山など危険で無理でしょうけれど。
 その富士見中学の教頭時代にたまたま岩堀さん(昭和三十年度卒)と出合って、
「君も川高山岳部だったのか。私は今でもときどき山登りをするよ」
 と知り合うことになったのです。岩堀さんは私の五年下級だったようですが、当時はすでに登山から引退しているようでした。
 教職を退職してもう大分立ちますが、何が一番楽しいかと言われれば、その頃の教え子たちがたまに集まってくれて、日帰りの山行をすることです。私が七十才代、教え子が六十歳代になりますが、子供にとって担任をした教師よりも、一緒に登山をした教師を慕ってくれるというのが、教師冥利に尽きます。私は登山に出会ったおかげで、楽しい人生を送れたのだと思っている次第です。

 甲武信岳登山紀  赤星諧(生徒会会報から
 6月24日
 かねてからの念願であった、甲武信岳登山が、今日実現するのだと思うと我々一行は、あいにく低く垂れ下った雨雲も、何のそのと大いに頑張って川越市から新宿に向かった。一行は木村先生以下17名であった(特に部外者が5名参加した)。新宿発23時45分―――。幸いにも皆座ることができた。電気機関車の汽笛が深夜に鳴り響いた頃には、低く垂れ下がった雲から霧のような小雨がひっきりなしに降っていて、我々の心を暗くした。しかし皆元気であった。
 
6月25日
 夜が明けると、皆は腫れぼったい目をしていた。汽車の中なのでよく眠れなかったに違いない。5時45分、小淵沢に着く。一行は小海線に乗り換えて、左手に八ヶ岳を望みながら信濃川上に8時20分に着き、そこからすぐバスに乗って、千曲川の清流を望みながら、次第に坂道にさしかかり、大きな岩があって車がひどく揺れる。あえぎあえぎ実に苦しそうにゆっくりと登っていく。約1時間半、10時に梓山につき下車した。ちょうど雲が切れて日が差してきたので、我々は小躍りして喜んだ。昨夜の雨で湿った落葉の道を行くと、松林の中にちらほらと白樺の木が混じってき始めた。段々と闊葉樹から針葉樹に変わり、その鬱蒼と生い茂る中を、我々は歩き続けた。新鮮な山の空気を胸一杯に吸って、落葉で埋もれたつま先登りの道を、頂上に向かってなおも歩き続けた。だんだんリュックは重くなり、足も疲れてくる。十文字峠を経てしばらく行くと尾根に出た。尾根をいくつか越えていくと夕霧が立ち込めて、せっかくの美しい景色は灰色と化してしまった。残念でたまらない。やっとの思い出三宝山にたどり着いた。下級生や部外者は、相当へばったようであった。三宝山からは熊笹が覆いかぶさって、歩きにくく、外被はびしょ濡れである。下級生および部外者がまったく歩く気力を失って、少しいっては休むので困ってしまった。しかし皆大いに頑張って、ついに目的地甲武信岳の頂上に着いた。予定よりだいぶ遅れて7時半頃であった。辺りはもう薄暗く、霧のために何も見えず雲の上に立っているようであった。頂上から小屋までは下りで約5分くらいであった。水のあるところまでは、2,3分急なところを重い足を引きずって行かねばならなかったのは実に辛かった。しかしその水の味は何といって表現してよいか分からないほど、本当の仙水のようであった。恐らく山に登った人でもこれだけの水を味わった人は、そんなに沢山はいないだろうと思う。夜のうちに翌日の分を炊いておく。寒気が身にしみて、よく眠れなかった。不寝番が、火を燃し続けているので、あたっていると疲れているからすぐ横になってしまう。しかし又さめる。そうこうしているうちに朝がやってきてしまった。

6月26日
 5時、昨日の疲れでよく寝ているものもあったが、今日の予定があるので皆たたき起こす。皆は腫れぼったい目をして今日の行動が思いやられる。しかし小屋を後にして再び頂上に立つ。ちょうど日が昇るところだ。どこまでも新鮮なすがすがしい山の朝の空気。美しいご来光。皆疲れも何もすっかり忘れて、美しさに酔ってしまったようだ。写真機のシャッターの音が盛んに聞こえる。雲の上に浮き上がった山々、遠くの山々も実にはっきりと美しく描き出されている。頂上を後にして下り始める。道はずっと下っているが非常に険しく、道は荒れ放題に荒れ、大木は道に横たわり、苔むした道は実に滑る、ここのところ1年くらい人の通ったような跡は全くない。尻餅をついたり、足を滑らしたり、橋は腐っていてうっかり登れば落ちてしまう有様だ。
 しばらく行くと割合に大きな沢にぶつかった。橋がない。仕方がないので木を切り倒し、倒木を持ってきて渡す。そのときの苦労と不安は今筆を持って表すことは到底できない。また丸木の二本橋を渡り、スリルは満喫である。ここのところのコースには道標がない。道が行き詰って山の中腹でどうすることもできない。地図と磁石によれば間違いないはずなのであるが、尾根に出てみようというので、取り付いた。間もなく尾根に出た。偶然というか、奇跡というか、道にぶつかった。しかしこの道がどこへ行く道やらさっぱり分からない。しかし磁石と地図を頼りに行った。幸いにも東大の演習林に出て、ついで軌道に出た。我々一行は重い足を引きずりながら軌道に沿ってずっと下り予定より5時間も余計に歩き、くたくたになって栃本に着いたのは7時半であった。最終の電車についに間に合わないので栃本に一泊した。聞くところによれば我々が通ってきたところは、普通の登山者はもちろん猟師でなければ通らない道を通ってきたのである。登山道は雁坂峠を回れば立派な道で道標もついていて5時間は早く帰れたそうだ。しかしながら我々は数々の思い出を残して(一つ一つ細かく書くことができないのが残念であるが)、無事に川越に着いたのである。


一九五〇年(昭和25年)

両神山 二月
新入生歓迎山行 赤城山
奥秩父縦走 笠取山〜三峰 五月
夏山合宿 南アルプス・甲斐駒岳〜仙丈ヶ岳〜北岳
浅間高原 八月
送別山行 大岳山
二年部員 駒井昭 菅間博 栗原惇 原富啓 水村和雄 内田忠仁
顧問 木村信寿

 この年の秋に入部した一年部員の八木一郎は、翌年部長になったが、卒業までに十七回の登山を行ったと当時の部報に報告している。およそ平均的な部員像だっただろうか。彼の記録から、この年秋から翌年夏にかけての当時の山行の様子を紹介してみよう。
 当時毎年秋に行われていた三年生の送別登山は、この年、奥多摩の海沢を遡行して大岳山に登った。金曜の夕方に奥多摩キャンプ場で幕営し、曇り空の中を海沢から大岳山に登り、御岳神社まで下ってそこで二日目の幕営をし、下山。
 同じ紅葉シーズンに、六名ほどで丹沢の大倉尾根に登って、塔ノ岳の小屋で宿泊。翌日はヤビツ峠へ下った。
冬のシーズンはスキー山行に数回でかけていたようだが、スキーをしない冬山で仲間と出かけられる山行に行こうと、二月に奥武蔵の二子山に行く。ズックの登山靴は、赤土の上では滑るし、雪の中に入ると悪戦苦闘だと書かれている。
 三月の春山合宿は奥武蔵の名郷の小学校の校舎をベースキャンプに開催。有馬谷の逆川を登ったり、鳥首峠から大持山を縦走した。
 四月の新入生歓迎山行は雲取山で、秩父から雲取山に登って一泊。翌日氷川(奥多摩)に下山している。そして夏休みの北アルプス合宿を迎えることになる。



山岳部初めての南アルプス 糟谷熊(昭和26年卒)
 上高地で写した三十人あまりの集合写真(昭和二十二年)の中に、当時旧制中学三年の私も写っています。燕岳から槍ヶ岳を縦走して上高地に下山したときの写真です。参加した生徒の中でも、私などは何だか幼い顔をしていますよね。多分私たちがその中では最下級生だったのではないかと思うのです。先輩たちは三級上まで参加していたようです。
 私の山行は、二級上の滝沢さんや一級上の佐久間さん、菊池さんに、在学中も卒業してからも、山に連れて行ってもらったことが多いものでした。最初の山行は旧制中学時代の雲取山だったと思いますし、そのときも先輩たちや、顧問の徳さんに指導を受けました。
 中学三年を卒業すると、昭和二十三年から新制高校に移行して、そこでまた三年間学んだわけです。
 すでにうろ覚えの記憶の中では、最上級生になったときに私がリーダーとなって、山岳部の記録としては初めて南アルプスに出かけたことが、やはり今でも鮮明に覚えていることに一つになっています。甲斐駒ケ岳に登るにしても、中央線の駅(日野春)を降りるとそこから重い荷物を背負って、歩きだなさなければならなかった。駅から登山口までの交通機関などはまだなかった時代です。先ず前山を越えて向こうの集落に降りて、そこからが登山口になるわけです。
 黒戸尾根から甲斐駒に登って仙丈ヶ岳に登って、その仙丈から長く続いている馬ノ背の稜線などは実に美しいものでした。一旦谷に下った後に北岳に登り返すのですが、このときに道を間違えてしまったことは本当に辛かった。沢沿いの登山道だからと水筒に全く水を持たずに出発して、道を間違えたことに気が付いた途端にやぶ漕ぎに入って、そのまま稜線に登り付いたときに、水筒が空っぽだということに気が付いたわけです。カラカラに喉が渇いているのに、水の一滴もない。ひどい登山をしました。
 そして北岳を登り、広河原に下った後にまた鳳凰山に登り返して、下山したときにはたまたま森林伐採のトラックの荷台に乗せてもらえることになったのですが、「荷台で居眠りするな、振り落とされるぞ」と先生に言われたことを覚えていますよ。ほんの七、八人の登山でしたが、よくぞ計画通りに実行できたものだと思いだします。
 その他にも、私は先生に引率された山行や、あるいはすでに卒業した先輩の滝沢さんや佐久間さんに誘われて、在学中にも多くの山に登りました。
 先の上高地での集合写真のときの槍ヶ岳というのは、どうも自分なりによく覚えていないものだったのです。まだ中学生が先輩に付いて行っただけの登山だったのでしょう。卒業した滝沢さんが日本歯科大山岳部に入られて、その合宿に付いて上高地にその後また行きました。そのある一日で、「僕はまだちゃんと槍ヶ岳に登ったことがありません」といって、一人で上高地から槍ヶ岳まで往復したことがありました。そのときこそしっかりと登頂できたと思うのです。
 その他、山岳部の皆で白馬から唐松岳への縦走もしましたが、その他にも数回北アルプスには通いました。やはり日歯大山岳部の合宿に付いて行ったときだと思います。南アルプスにもまた佐久間さんたちと個人山行をしました。当時は脚力に自信があって、大抵のところなら登れると思っていたのでしょう。
 川高山岳部の夏合宿は、いつも夏休みに入ってすぐの七月二十三日頃からスタートするのですが、下山して所沢の自宅に戻るといつも八月に入っていました。私の住む所沢の山口は旧盆が八月一、二、三日になっていて、必ず親から「旧盆くらいは自宅にいろ」と言われていたわけですから、毎年夏休みになるとすぐに、長期の夏山に出かけていたということになりますね。同級生の宮崎君が怪我をしてしまった雲取山からの縦走。佐久間さんたちといった秩父の山。多くの山に登りました。私がリーダーだったときの山行で下山が遅れて、徳さんに怒られたこともありましたね。それくらい山に登っていたということです。
 川高山岳部で一級先輩の若月さんは、同じ所沢の近所に住んでいました。卒業した先輩がある冬に、富士山に登るといって、冬靴とアイゼンとピッケルを借りにきたことがありました。当時冬の装備は高価なものでした。先輩は単独だったか友人とのパーティだったか、二月の富士山で無念にも遭難し、連絡を受けたものの最初の救助はほとんど不可能で、三月に一回行って、その後五月になった頃に発見されたという事故でした。私が貸し出したアイゼンやピッケルを回収したときには、どうにもやりきれない気持ちになりました。
 大学を卒業すると自営だった私は自宅に戻ってきたのですが、その頃また滝沢さんに誘われて、南米へ行くことになりました。けっきょくあれは一ヶ月近くもの旅だったのですが、南米大陸の最南端の島にまで到達したのです。簡素なホテルにも宿泊しましたが、しかし毎日毎日かなりの距離を一緒に歩いたと思います。今となっては優雅な旅をしたものだと思います。滝沢さんは今でも元気ですね。私は少し足腰が弱ってきました。


記録
南アルプス北部縦走 7月28日〜8月3日

糟谷熊(昭和25年度卒業・生徒会会報から)参加者 顧問木村 3年柳下 宮崎 金子 市村 2年菅間 栗原

 我々が南アルプスに登ろうと言い出したのは、今年の4月末でありました。それから約4ヶ月の間計画を進め、夏休み中の7月28日より8月3日に至る7日間に北部縦走を決行しました。
 南アとは私の直感的に感じた印象で言いますと、峻厳な北アルプスと重厚な奥秩父とを足して2で割ったようなところであります。平均の高さ3千米、深い森林と谷を有し、山が独立峰的であるのが特徴です。
 7月27日(雨)新宿発(午後11時45分)
 7月28日(雨)中央線日野春駅着5時45分)−(途中2名頭痛のため2時間休む)−駒ケ岳神社(昼食11時20分―12時5分)−黒戸山(午後6時35分)−五合目小屋(午後7時40分)
 前日からの雨は、益々烈しくなる一方である。
 日野春駅を出た私たちの顔は暗い。汽車の中で眠れなかったためと雨のためである。第一日目は無事に済みそうもない。20分後の大きな橋の下で休み。焚き火をして部員の頭痛の回復を待った。雨は小止みなく降り続いていたが、強引に出発した。今日は何としても五合目小屋まで行きたい。駒ケ岳神社を過ぎると、いよいよ急勾配の本格的な登山道に差し掛かった。下山する人達にしばしば会う。それらの人にここは何合目ですかと聞くと、その返事が我々の予想していたのと大分食い違っていたので再三意外な思いをした。平均6,7貫のリュックの重さでピッチは上がらないのである。ついに私は参った。ただ私の除くパーティの者が元気であるため心強い。雨は雷雨まで強くないが、全身ずぶ濡れで非常に体に毒である。黒戸山の前には梯子が多かった。その頂上に着いた頃は雨がさして強い刺激とはならなかった。ここから小屋は近かった。入山第一日、こうして私たちは予定より2時間遅れ、7時40分に小屋に辿り着いた。

 7月29日(雨)五合目小屋発(10時15分)−七合目(11時45分―12時15分)−駒ケ岳(午後4時15分―4時35分)―駒津岳(午後6時)−仙水峠(午後6時55分―7時)−北沢小屋(午後7時55分)
 今日も雨。我々の顔も晴々としない。小屋の人に元気付けられ、10時過ぎに出発する。昨日に疲れが抜けないので、こんなに遅くなってしまったのである。鎖場の難所を幾つか越して七合目の小屋に着く。ここから幸い緩傾斜が続いている。這松の展開しているところも天気がよければ眺めも素晴らしかったろうに、雨中では何も見えない。八合目までは順調に来たが九合目の三本の剣が仰げるようになると、這って登るような斜面となったのでピッチががくりと落ちた。全然人と会わぬ。この雨で皆敬遠したのだろう。九合目に差し掛かったとき左側に物凄い岩壁が何千丈もあるかのように天界に削立している。頂上は近くだと分かっても、足は少しも速くならない。雨が小降りになった4時15分にようやく三角点に到着できた。駒ケ岳の展望の広範なことは有名であるが、今は20米先も見えない。祠の前で写真を撮ってせめてもの気休めにした。待望の展望も空しく、時刻も迫ってきたので皆名残惜しげに六方石へ下った。鋭い刃物のような感じを受ける六方石の尾根に、ここで不慮の死を遂げた大学生の遭難碑が建てられてある。この雨に何か物語っているようだ。このようなことを又何処かで繰り返すことだろう。私は思わず唾を飲み込んだ。
 駒津岳より仙水峠への下りは実に急で、この辺りから雨は土砂降りとなった。誰も何回となくスリップした。高さにして約7百米下るのであるが、なかなか峠に出ない。皆疲れも忘れてピッチを上げた。
 仙水峠から北沢小屋までは緩やかな、楽な道なので、ずいぶん飛ばした。峠の付近は湧出岩の礫場で歩きにくかったが、すぐ白樺が何本か混じっている薄暗い林の中に入った。小屋に二組のパーティがいて、のんびりと衣服を干していた。我々は二日とも雨にやられたので、その夜は座ることが大儀なくらい体が弱った。昨晩と同様に二年生の二人が炊事をして疲労の甚だしい三年部員を助けてくれた。ビタミン注射でコンディションの回復を図る。

 7月30日(晴・ときどき曇り)北沢小屋発(9時15分)−北沢峠(9時30分)−大滝頭(11時35分)−途中燃料取り30分要す−千丈小屋(午後3時20分)
 5時起床。星が幾つか見える。今日の天気は期待できそうだ。だが雲の切れ目からときどき青空が見える程度である。誰の顔にも喜びの色が見えた。何しろ今度山に入って初めてなので、その上今日のコースは問題にならないほど短くもあり、易しくもある。全員のコンディションはよくなったが、歩行は実にゆっくりである。晴れ間が見えたとはいえ、ときどき雨雲が出て皆を不安がらせた。
 4時間もたったであろうか。綺麗なお花畑の展開されている緩やかな斜面に着いた。皆リュックを降ろし、童心に返ったように嬉々として散策する。いつの間にか雲が消えている。二日間の疲れもいっぺんに吹っ飛んだようだ。馬の背を通りここから這松地帯に入る。樹齢三百年位の私の腕の太さの這松もある。その頃霧の間から千丈岳の頂上が見えた。ついで全貌が明らかになる。雄大なカール、これは南アルプスに於いて、駒ケ岳のピラミッドに対称して言われるものである。駒のピラミッドは男性的であり、これは女性的である。ここから小屋までは緩い登りである。雷鳥が親と子で三匹、這松の脇を危ない足取りで歩いている。すでに羽に白いところが見えていた。3時半懐の仙丈小屋に着く。
 その夜2時頃であったろうか。ヒュウヒュウと唸る冷たい隙間風に目を覚ましてしまう。目が冴えてくるに従って今日のことが頭に浮かんでくる。千丈のカールに落ちる夕日の色。真っ赤な真綿のような雲の上に浮かぶ駒ケ岳、八ヶ岳、遠くは北アルプス等々、しかしいつの間にかまた夢の国の人となった。

 7月31日(晴)仙丈小屋発(7時15分)−千丈岳(7時45分−8時)−大千丈岳(8時30分)−ふき平(11時45分)−荒倉岳三角点通過(12時40分)−弘法の池(12時50分−1時)−横川岳ピーク(午後2時10分)−両俣小屋(午後4時33分)
 5時起床。今日こそ快晴だ。小屋を飛び出る。寒い。夏とはいえ一万尺になんなんとするところでは仕方がない。千丈岳の朝、何て良いのであろう。まず第一に朝日に遠い北アルプス連峰が輝き始まる。その残雪を渾然と融合せしめて紺碧の天にそびえる早朝の山々に、槍ヶ岳の尖峰が鋭く天に沖している。八ヶ岳、駒ケ岳、北岳、赤石、聖と一望の中に見渡される。周りの谷は一面に濃緑色の闊葉樹で充たされていく。
 今日は馬鹿尾根下り。「よい天気だ」の声が連発。皆この快晴によほど嬉しいと見える。大千丈の絶壁に岩燕が飛んでいる。北アの不帰の剣を思い出させるキレットを過ぎれば、いよいよ本腰の馬鹿尾根である。鉈目のため道はどうやら分かる。道は潅木に覆われていて眺望は零。高低なき尾根が延々と南へ続く。弘法の池には水がなかった。横川岳を巻く頃千丈の辺りで鳴るあの恐ろしい雷鳴に肝をつぶす。両俣小屋の手前十分のところで道が切れている。増水のため橋が流れたらしい。草の中の小屋、床は半分しかない。小屋の周囲には一面の山苺ビタミンCの欠乏を防ぐ、岩魚を取る用意はしてきたがついに一匹も取れなかった。

 8月1日(晴)両俣小屋発(7時20分)−左俣沢の入り口を逃す。右俣沢歩き、及び道の捜査に3時間半を要す)−中白根尾根取り付き(11時10分)−ブッシュ(午後2時)−岩場(午後3時30分)−中白根(午後6時15分)−北岳小屋(午後7時35分)
 今日は今までの行程と異なり、沢づめである。昨日は山苺の満腹に気をよくした我々一行は、まだ何か小屋に心残りがするらしい。後を振り向き最後の苺を食べながら北岳を目指す。途中苔むした二つのケルンに木を許し2時間ほど野呂川を遡った。しかし何時になっても右俣沢と左俣沢の出合に着かない。右俣沢に入り込んだのかも知れない。私と他の二人は一同を残して右側の斜面を登り地形を見極める。北岳、中白根、間ノ岳が手近に望まれる。出合からの北岳は南に当たるのだが、ここから見るとずっと東に偏っている。確かに右俣沢に迷い込んだのだ。小屋をたってから、しばらく沢から離れたので、その間に出合を通り過ぎてしまったのである。正面に大きな尾根があり、その東側が左俣沢であると分かったので、それを越すことになった。もちろん今まで来た沢を元へ引き返そうという案も出たが沢下りは時間を多くとり、厄介なことが起こりがちなのでそれは止めにしたのである。30分後に尾根の上に出た。しかし左俣沢に降りる斜面は非常な急傾斜で、ブッシュが密生していて人間には手も足も出ない。獣道らしい、尾根の上を下ると出合辺りへ出そうなので、これも時間をとりそうである。結局尾根の上昇をして中白根へ出ることになった。猟師も幾年か前にここを通ったらしく邪魔になるような木が切ってあり、朽ちかけている。針葉樹と潅木の中の道を約3時間で突破。そのときすでに目の前に、中白根、北岳が見えたがなかなか遠い。這松地帯を2時間、この時は全員ズボンとシャツは松脂だらけである。しかも鉤裂きは場所を選ばない。実に長い2時間であった。次は岩場である。非常に脆い巨岩がガラガラ不気味にこだましながら崩れる。これを約1時間。中白根着6時15分。処女ルートを登攀した今までの苦心は夢のようである。そこに2,3枚の雷鳥の羽が露に濡れてあった。

8月2日(晴)発(6時10分)−北岳頂上(8時−8時50分)−小太郎尾根(9時)−白根大池(10時50分−11時10分)−広河原小屋(午後1時−2時)−白鳳峠(午後7時15分−7時45分)−高嶺(8時5分)−北御室小屋(10時10分)
 誰か小屋の戸を開けた。月の光が入ってきた。一緒に泊まった飯田の二人の高校生がもう出かけるのだ。今日の天気も素晴らしい。是非とも今日は北御室小屋まで行きたい。朝飯を頂上で取ることにしてすぐ出発する。薄い雲が山の間を流れていく。南に富士が荘重な姿で浮かんでいる。尾根に出ると昨日の中白根尾根(我々はいも尾根と呼んだ)が長々と見える。冷たい風がほてる体に心地よい。
 頂上は風が強いが四方の山々の眺めは素晴らしい。例の二人の登山者はまだここにいた。今日越そうとする白鳳峠の屋根が野呂川を隔てて対立している。
 小太郎尾根までは平易な道であったが、ここからは有難くない南アの名物「草つき」が急勾配で落ちている。雨後を狙ってやってきた人達に盛んに会う。赤土、小石、オニアザミに悩まされること2時間。白根大池に着いたときには、膝のバネが取れそうになった。ここから見た北岳の岩壁は如何にもすごい。スイスの山の感じを受ける。20分ほど休んで今度は針葉樹の間のジグザグした道を下る。2時間で広河原小屋に到着する。足が馬鹿になってしまったので、昼食後30分横になった。
 広河原を渡渉するとき釣のうまい小屋番から岩魚をわけて頂いた。このときここで合計2時間浪費したことは日没後の危険な行軍を生ぜしめたので、返す返すも残念なことであった。今後の山行に大いに反省させられることである。
 白鳳峠までの4時間の急上昇は苦しく、ファイトがあったと言うより壮烈であった。峠に辿り着いたときが7時をちょっと過ぎていたので残っている飯で食事をする。もう夜の行軍は覚悟していた。高嶺まで緩い登りが1時間続いていた。雷鳥が二羽出てきて、のそりのそりと前を歩いていく。残照で赤みを帯びた霧が首を絞めていくようである。各自の間を狭め電燈の光に頼るように暗くなった。両側の鋭く落ちている尾根を30分ほど進むと道が突然不明瞭になったので立ち止まった。東の方に道がついているようであるが、これもはっきりしない。あれこれとためらっていると先生が何を感じたかヤホーと叫んだ。すると下の方から答えがあった。人がいるのだ。我々が、もしこの下にキャンプしている人たち(韮崎高校の三人パーティ)に遭遇しなかったならば、小屋まではもちろん着けなかったろう。そして何処かへテントを張って不安の一夜を過ごしたに違いない。我々は道の安全な賽河原の終わりまで導いて頂くことができた。名前も明かさない彼らのつつましい態度にはただ感謝の念より何ものもなかった。
 その夜、小屋に着いたのは10時を過ぎていた。小屋番には大変迷惑をかけてしまった。この夜の岩名料理のうまかったことは忘れられない。それより道を教えてくれた人たちの親切、私はこれを心に深く刻み付けた。

8月3日(曇のち時々雨)発(7時)−御座石湯(10時40分−12時5分)−韮崎着(午後1時30分)
 今日は最後の日である。5時頃、同じ小屋に泊まった地元の若い人たちが地蔵岳をさして出て行ったのを、うつらうつら覚えている。6時起床。気が緩んだためか、飛び起きることができない。私たちもすぐ出発した。リュックは3,4貫。しかも下りなのでピッチは上がる。出るとすぐに小雨にあったが間もなく止んだ。道の両側にある木の三米くらいのところに鉈目がある。冬期ここは相当登山者があるからだ。この中にはこの四月私が付けたものもあろう。千五百米ほどの標高になるとさるおがせは次第に少なくなる。
 御座石湯で湯に入り一週間の垢を流す。ここで材木運びのトラックを見つけ。気持ちよい雨に叩かれ、居眠りの中に韮崎に着いた。



一九五一年(昭和26年) 


春山合宿 奥武蔵名郷
新入生歓迎山行 雲取山
夏山合宿 北アルプス裏銀座
夏山合宿 東北・朝日連峰 八月十日〜十七日 参加三人
八丈島旅行
八ヶ岳 九月二十二日〜二十四日 参加九人
送別登山 正丸峠〜伊豆ヶ岳 十月二十七〜二十八日 参加三人
二年部員 八木一郎 川口泰 柿沼隆 傘松祐三 岩崎昭九郎 島崎正夫 染谷潔 中根甚一郎
顧問 木村信寿 内田一正

 この年度の山行は、当時の部報「秩父嶺(ちちぶね)」(昭和二十七年四月発行・第十三号)に詳しく報告されている。
 数パーティに分かれて行われた夏合宿のうち、北アルプス・裏銀座は長期間の合宿になった。部員の報告によれば、
〈合宿では烏帽子小屋までの登りの苦しかったことが思い出される。重い足を引きずりながら、冷たく濁った雪解け水で飯をとぎ、真っ暗なところで夕食を取ったのを記憶している。そうして星を仰ぎながら、これからの行動に胸を膨らませた。
 烏帽子小屋から少し出たところで、遥か後方に見た立山の姿が目に残る。牧場的な岩山という感じがした。そして目の前には天の一点を突き刺しているような槍ヶ岳が聳えていた。
 三俣蓮華の小屋での星空は、我々をロマンチックな、センチな気持ちへと引きずり込んでいった。このときほど星の美しさをしみじみと身に感じたことはない。夕食の味噌汁のうまかったことも思い出される。翌朝は晴々した気分で、K君にしてもらったビタミン注射のことも思い出す。槍ヶ岳を目前に控えながら、這松を切り飯を焚き、スケッチをしながら下から吹き上げてくる爽やかな風にしばしうっとりしていた。
 槍の小屋では「毎日新聞社の者ですが」と言って、部屋を良い方に変えたり、小屋のうまそうな飯を食っている奴らにむしゃくしゃした。そして先に着いたK君と、ドロップをたくさん食べ後で腹が変になった。この先の行程を考えて、注射を多分に射ち早めに寝た。
 槍から穂高までは体が衰弱していたせいか、特に感じたこともない。ただ岩場の連続と下から吹き上げるガスと風、そして一歩踏み外せば千刃の谷! こうして難コースといわれたところも無事に終わり穂高小屋へ着いた。そこで「死の断崖」のロケに来ていた俳優の上原謙や島崎雪子に会ったのも一興であった。
 翌朝は穂高小屋から御来光を拝んだ。行く手には前穂、西穂、そしてジャンダルムとその絶壁雄大な姿が聳え、目を右に転ずれば雲の波がずっと地平の彼方まで広がり、目下には涸沢が白く光っている。
 涸沢へ下山し、横尾小屋付近の風景はこの世のものではない美しさだった。沢の青く澄んだ水、真っ白な砂、周りの木々は潤っていた〉(中根甚一郎)
 と記されている。他に朝日連峰の合宿も行われた。
 この時代は部員も多く、山行回数もかなりの数に登っている。一年の三学期から途中入部した部員は、
〈最初の登山はホームマウンテン秩父の三峰である。歩く時間より乗り物の方が長かったかも知れない。続いて富士山(物理部の主催による)へ行き、次がK先生との最初であり思い出の奥日光の登山。さらに東沢(第一回目)、雲取山。それ以来山への憧れが日一日と増し、ついに本校の山岳部への入部である。
 部との最初の行動は、冬期両神登山である。足に出来た豆は、見えない山岳精神の教えである。この感無量の思いは、時が経つにつれて楽しみに変わる思いである。あの足豆の一件がなかったら山岳部は辞めていたかもしれない。続いて赤城山への歓迎登山。
 四月上旬にはK・S君と十文字峠へ出かけた。これは登山具不備のため十文字峠から栃本までの北面の雪に悩まされて、突破できなかったのは残念だったし、よい経験になった。
 夏期休暇の東沢(二度目)は、三年生もいたが二年のK君と私がリーダー格であった。沢は台風直後で増水し、沢の逆光はあまり気が進まなかったが、強引なK先生の断で成功した。
 その前(七月下旬)に、友達と二度目の富士山に行った。その後ハイカー式で二子山、奥武蔵の登山、十二月下旬の武甲山。武甲山は尾根を歩くのと(妻坂峠から鳥首峠〜大持〜小持〜武甲山)、一旦下って登る(下山の妻坂峠から生川〜武甲山)違いがよく分かった。このような経験は、遭難とか非常のときに役に立つと思う。
 年が変わって、最初のスキーを水上の大穴でやった。四月は新型式の合宿。その後単独で奥武蔵の一人旅。これも歩くより乗り物の時間の方が長かった。しかし独力で何事も処理するというのは、一度くらいは経験する必要がある。
 最後の学校生活では、憧れの北アの縦走であった。結果から見れば事故もなく終わったが、行動中の各自の団結によって得られた力の結晶であった。学年最後は八ヶ岳だった。ここはセミアルプス(秩父とアルプスの中間)の感じがする。是非勧めたい山の一つである〉(内田忠仁)
 毎月のように登山を行っている。
 さてこの部報では、翌年一九五二年の年間計画が掲載されているのだが、春休みには合宿形態が三方面(志賀高原などの山スキーツアーと、川越から大阪までのサイクリングツアーと、秩父方面の合宿)。夏休みには四方面(涸沢合宿と、南アルプス縦走と、北アの剣〜後立山縦走と、奥秩父縦走)など、時代は登山のブームになっていたようだ。
夏山合宿 東北・朝日連峰


岩魚の手づかみ    駒井 昭(一九五二年卒)

 高校三年の夏山縦走は思い出に残る山行で、北アの烏帽子岳から槍穂縦走でした。木村信寿先生が引率されましたが、小屋に泊まると先生はランプの下で、何だか原稿を書いていたものでした。それを、槍ヶ岳山荘の郵便ポストから投函して、宛先は朝日新聞の埼玉支局だったのですよ。当時の朝日新聞埼玉版の「夏山通信」でしたかなあ、そういうコラムに私たちの合宿が三回くらい連載掲載されたものです。下山して新聞の見返すとなるほど登山の様子が写真付きで描かれていて「この夏山報告の山登りは、私たち川高の合宿なんだよ」と、何だか鼻高々だったことを思い出しますねえ。
 もちろん夏山合宿などは、小屋の粗末な食事だけで、いつも腹を減らしていたものです。持参したコメを焚いてもらって、出されるおかずといっても、福神漬け、たくわん、佃煮ですからねえ。豪華にもいくつか持参した缶詰は、鯨の大和煮、赤貝の味付け、最高のものでコンビーフでしょ。みかんの缶詰も持って行きましたが、最高のものは白桃でした。けれどどれも重いんですよ。まあコメさえあれば、味噌とスルメと鰹節だけで、十日間くらいは食いつなげという時代でしたから。
 父親が医者だったもので、私は秘密にオリザニン・レッドというビタミン注射を山に持っていったわけです。アンプルと注射器セットを持っていけば、あんなものは皮下注射ですから誰でもできますよ。アルコールで腕を拭いて打ってあげると、疲労困憊していた友人もやはり元気を取り戻すものでした。いまなら、医師法違反もはなはだしいものですがね。それだけ食い物が不足していた時代だったということです。
 当時顧問の木村信寿先生は、今でいう城南中学の近くに下宿していました。東大の化学出身の先生で、人気がありましたねえ。「金太さん」と呼ばれていたのは、若いのに頭が薄くて、大柄で豪快で、金太郎をもじったものだと思いますよ。
山岳部はよく先生の下宿に集まって、酒盛りしながら、一高、三高、北大などの寮歌を歌うんですよ。すき焼きだとか鍋料理を食べながら、山の話や人生論、先生の恋愛論などを聞かせてもらいました。先生はやはり優秀な化学者だったわけですから、私が三年の秋に、日本化薬の山口厚狭の工場に就職が決まって退職されました。戦後復興の日本に、こういう優秀な化学者の需要は多かったのでしょう。
 奥秩父の「半縦走」という山行もよく覚えています。全部縦走するのは雲取山から金峰山までですが、週末の二日で登れるのは笠取山まで。半分だから半縦走と言っていました。当時は今と同じ週休二日で、金曜の夜に新宿発二十三時五十五分の夜行列車に乗る。明け方塩山で下車して、土曜、日曜で笠取山から雲取山を通って三峰へ戻るわけです。昭和二十五年の五月にもこの縦走をして、三峰のロープウェーがちょうど翌日からロープの架け替えをするという日で「動いていてよかったなあ」と騒いだことを覚えていますね。そして下山すれば、朝鮮戦争が始まったその日でした。
 その少し前の新人歓迎会も思い出に残る登山で、赤城山に行きました。なんと私は旧軍隊の二十五人用の天幕を背負わされて、あのズック生地の大型テントは重くて仕方ありませんでした。前橋からバスに乗って種富牧場まで行くのですが、その後の延々とした平坦道をテントを担いで登って、何だかあほらしく疲れたことがあります。
 卒業して写真大学では山岳部に入りました。やはり大学の山岳部にはしごきがありましたよ。先輩は空身でピッケルだけを持って、下級生の尻を引っぱたくわけです。軍国主義の生き残りですねえ。それでも辞めなかったのは、また辛いことに耐えるのが必要だと思い込んでいたからでしょうか。
 私たちの年代は、旧制中学で入学して新制高校を卒業し、都合六年間在学していました。入学した昭和二十一年には、五年生という上級生がいて、彼らはサイパン爆撃行の生き残りだとか、予科練帰りの学徒動員で、軍隊経験があった人たちですね。昼休みになると、下級生は講堂に集まれと、それは今の体育館のあの場所です。青竹や竹刀を持った上級生が「うさぎ跳び始め」の号令で、私たちはその周囲を何度も回らせられる。ちょっとでも止ると「精神魂入棒」というその竹刀でひっぱたかれて、それが精神を叩き込むという説教だったわけです。教職員は、上級生がしっかり指導しているなあと、そういう解釈です。何しろ教員は生徒に汚点があれば、拳骨でぶん殴ることがいいとされていたわけだから、これも軍国教育そのものでした。
 でも川高山岳部の良さといえば、部内や山行ではそんなことはまったくなかった。むしろそれは山に登るということは、こうした非合理から飛び立つという意志もあったのかも知れません。しかし大学では未だ根強く残っていたということです。
 それでも大学時代は、四月の遠見・五龍、立山縦走、涸沢合宿などいい思い出です。夏は雲ノ平から薬師沢に降りて、それこそ岩魚を手づかみで取るなどという時間を過ごしましたね。遠くから見ると水面近くを相当数の岩魚が泳いでいるわけです。彼らは、ヘビやカエルでも飲み込むという獰猛性がありますからねえ。水面近くに獲物が寄ってくると、大きく口を開けて一飲みでしょう。そこへ私たちがジャブジャブ入っていくと、サーッと岩陰に隠れる。それでも水中に両手を入れてゆっくり近づけて、そしていきなり掴み取ると、これが本当に素手で掴み取れました。半日で十五匹くらい捕まえると、その日の行動予定は変更、夕食は岩魚パーティで、すべて塩焼きで食い尽くしたものでした。当時の黒部川など、それこそ冠松次郎の紀行文しか資料がない時代で、道も不明だし一日中這松漕ぎ。登山者はほとんどいません。薬師沢から少し源流を登って、黒部五郎平へ出たものでした。のどかで楽しい時代だったのです。
 普段の夏合宿は涸沢で定着して、岩登りをしていました。合宿が終わると、私はそのまま燕岳に移動して、二シーズン渡って、燕山荘でアルバイトをして過ごしました。相当山が好きだったのでしょう。燕山荘の主人の赤沼さんは地元の財閥で、小屋の経営にも熱心だったのです。夏の間には毎日三百人が宿泊しました。毎朝三時に起きて朝飯の用意。といっても肉も入っていないカレーライスだったのですが。それが終わると、蒲団の上げ下ろしはかなりの重労働でしたが、たまにお客のポケットの小銭が落ちたままで、余禄だなどともらってしまいましたね。その後は夕飯の仕込みです。たまに下山して、中房温泉の手前に露天風呂があるのですが、そこに行くのだけが楽しみみたいなものでした。労働条件は悪いものでした。学生は私ともう一人だけ、後は地元の人夫の夏期の出稼ぎみたいなものでしたよ。朝鮮戦争が終わると世間は急に物凄い不景気に襲われて、仕事口はあまりなかったわけです。私が大学を卒業した昭和三十一年などは最悪の不景気で、就職先は一社だけは大学で紹介するが、そこがダメだと後は自分で探すしかないわけです。戦争特需だけが取り得だったという時代だったわけですね。
 戦後の世相話はいくらでもあるのですが、例えば川高在学中には、野球部の応援にと、大宮まで汽車で何度か通ったことがありました。しかし当時の川越線というのは、汽車に連結されているのは貨物車だけで客車はありません。来るときには海産物のイワシの油を絞った残りかす、魚粉を畑の肥やしとして運んできたのでしょうね。それが帰るときには空になるから、そこに人を乗せる。あの魚の腐ったような異臭は、本当に嫌なものでした。でも他に交通手段はない時代でしたからねえ。
 そんな時代から私たちは登山をしていたのですから、とても恵まれた青春時代だったと思い返しますねえ。

 


満喫している別荘生活 川口泰 (昭和28年度卒)
 八ヶ岳の山麓、甲斐大泉の標高九二五mのところに、十歳上の亡くなった兄が残した六百坪の別荘があります。南側の開けた斜面の向こうに、甲斐駒ケ岳、北岳、さらに富士山が見え、背後の唐松林の向こうには八ヶ岳が望めます。昭和四十年代頃でしょうか、兄が定年後の別荘生活をするのだと買い求めて、鉄骨にパネル工法の平屋を建てました。ところが大して使わずに放っぽりぱなしで、6年ほど前から私が使うようになった頃には、植林した落葉松も檜も伸び放題でした。雪はほとんど降らないのですが、冬の寒さに参ったのでしょう。この冬にも外気温がマイナス12度。室内ですらマイナス7度まで下がるのです。
 電気や下水道や井戸を整備しなおして、プロパンや固定電話を辞めて、テレビアンテナを設置して、使えるようにしました。わずか二十年足らずの間に、二十mもの背丈になってしまった落葉松を間伐してそれを薪にしたり、小さな菜園にはリンゴ、スモモ、プルーン、アンズ、カボチャを作り、春先にはタラの芽もフキノトウもコゴミも出てきます。リスにヒマワリの種やクルミを与えて餌付けをしたり、それをハトや野鼠が邪魔して喧嘩しているのを、じっと見たりしています。いやいや、ご近所の別荘仲間の頼まれ仕事で、薪を運んだり、松の間伐を頼まれたり。けっきょく毎月のようにここへやってきますが、山仕事や野良仕事をしに来ているようなものになっています。松崎先生も、長島さんも来たことがあります。
 私の入間の実家は農家でした。当時は養蚕やサツマイモの畑をやっていました。子供の頃の食糧難の時代には、自宅で取れたサツマイモだとはいえ、食糧庁に供出しなくてはならないことも多くて、農家は忙しいだけの家業のようなものでした。もちろん手伝わされたことも多かったものです。だからさほど苦労とは思わないのかも知れません。
 上に兄が多くて、影響を受けたことも多かったものです。私が子供の頃に勤労動員された兄は、どこから手に入れたのか手作りラジオの部品を集めて、戦時中だというのに自分でラジオを作っていました。あるときに「秘密だけどな」と聞かされた雑音交じりの放送は、米軍の日本語放送で、日本軍が太平洋各地で米軍に反撃されているというものだったのです。当時の短波放送は公には受信できる製品が国内では手に入らないものでした。「新聞に書いてあることとは違うぞ」と思うのですが、口にすることはできない。兄が作ったものはとても物騒なものなのですが、とても面白いものでした。そして私もアマチュアの無線に凝るようになったのです。後年、自家用車に無線を装備して、知り合いになったロスアンゼルスの日系人とよく交信したのですが、この八ヶ岳界隈を走っていると、クリアに地球の裏側まで電波は届いたものでした。
 兄の影響でその無線について私は早熟で、あるとき私の発信した電波がかなり強力だったもので、国が管理している電波が妨害されたと、私は警察の厄介になったことがありました。ある新聞は私のことを「ソ連のスパイだ」とひどい報じ方をしたものです。それでも未成年者につききつい咎めは受けることはなかったのですが。
 ラジオに興味があった者は、ダイオードから半導体産業へと、時代と共に移り変わっていきました。就職したのはまさにその業界で、それは爆発的な産業へと代わっていったのです。大きな図面に何枚も半導体の設計図を描いて、それをナノの単位で、数ミリ四方に焼き付けて製品化するという、ラジオやアマチュア無線の当時からは考えられないほど進化した時代になってきました。今は紫外線で焼き付けていますが、今後さらに進化していくでしょう。
ところが会社から私が与えられた仕事というのは、そうした企業の中でも子会社の整理やら統合という会社運営の仕事で、群馬の渋川に七年、同じ八ヶ岳山麓の臼田に二年と、単身赴任の生活が長いものでした。数年前にようやく退職して、仕事ではむしろ嘱託となってから好きな設計の仕事ができるようになり、また別荘での生活が満喫できるようになってきたというわけです。
 川越高校に入学した私は、母方の遠い親戚に二年先輩に粕谷熊さんがいたことが理由で、山岳部に誘われたのが最初でした。入部して間もなく赤城山に皆でいきました。前橋から大胡に出てそこから一日歩いて、頂上間近の沼のほとりに、大きなテントを張りました。まだ一面雪が残っていて、そこにシートを一枚敷いただけで毛布に包まって寒い思いをしたことだけを覚えているのです。「あの水で飯を炊こう」といわれたのが沼の水で、手を切るように冷たい氷水でした。翌日はただ下山するだけで、やはり山麓の牧場まで延々と歩いてバスで前橋にでました。それだけの登山だったのですが、楽しかったのでしょう。
 高校二年の夏には、木村先生と同級の柿沼隆のわずかに三人で東北の朝日連峰にいったのが夏山合宿になりました。先生のその計画に参加したのが、わずかに生徒二人だったというわけです。八月に入ってからでした。汽車と私鉄を乗り継いで辿り着いたのが山形の鮎貝(あゆかい)。麓の朝日鉱泉に入るにはそこから頭殿山を越えて一日がかりでした。夕刻にその鉱泉に着いたときに妙に体中が不快になって上着を脱いだところ、宿の人に「裸になっちゃいかん」と大声で注意されてビックリしました。ハエよりも大きなアブの大群がいるわけです。刺すわけじゃなく、服の上から止まって血を吸うというのです。それが痒くてどうしようもない。綺麗で冷たい水が流れているところにアブの大群が発生するということでした。
 翌日鳥原山間近の湿原まで登ったのですが、メンバーの柿沼の体調が悪くなって、再び朝日鉱泉に戻ってもう一泊。その翌日には予定通り、鳥原山から大朝日岳まで登りつきました。湿原で食虫植物のモウセンゴケを初めて見ました。頂上付近には無人の小屋がありました。コンクリート作りの簡素な建物で、内部に這い松の枝が一面に敷いてあったのです。前の人がマットの代わりにでもしたのでしょう。そこに毛布に包まって寝るだけでした。あとは持参したコメを飯盒で炊くのですが、うまく炊けないのはいつものことです。このときは長い縦走だからと軍靴を履いていました。
 次の日には北へ向かって以東岳まで縦走しました。途中に「この辺りで遭難が発生し注意してください」とか立て札があったり、どうにも緊張の連続だったように思います。あの頃の朝日連峰などはまだまだ登山者は少なかったものです。途中で一度だけ地元の高校生グループに出会っただけでした。そして以東岳を越えて大鳥池の小屋にこの日は宿泊しました。ここももちろん無人の小屋でしたね。そして次の日、この下山がまた長いものでした。川沿いに延々と進んで、途中何度も川を横断して、どこで泊まったかは忘れましたが村まで辿り着いてそこの民宿に入りました。
 先生が民宿の人と話をしたのでしょうが、近くに亜鉛の採掘場があると聞き出して、もう夜の八時頃だったと思いますが「いまから見学に行こう」と。当時の鉱山はそれこそ昼夜で採掘していたのです。木村先生は化学の先生ですから興味があったのでしょう。
 そして最終日は少し歩いてバスに乗って、鶴岡にでました。夕方の夜行列車までには時間があるといって、路面電車に乗って海沿いの湯野浜温泉辺りをブラブラして時間つぶしをしました。
 実はこの年の夏、七月末頃に先生は別パーティの北アルプスの合宿にも参加しているかも知れません。私は実家の農作業で参加していませんが、どうにも元気な顧問だったのです。この年の秋に先生は川高を離れました。
 普段の山岳部は名栗によくいっていました。あの頃は名栗の小学校が山岳部をよく泊めてくれて、そこを基地にして武甲山や伊豆ヶ岳など奥武蔵の山によく登ったものです。それと一級下に桑田君という入間で家業が林業の部員がいて、彼の屋敷に大勢で泊めてもらったことも多かったものです。丹波の小学校にも泊まって、大菩薩を登ったこともありました。
 昭和二十七年の高校三年の合宿は、三峰から金峰山まで縦走して信濃川上に下るという長期合宿をしましたが、私個人はその名栗から都県境の尾根を通って、雲取山まで二泊かけて歩くとか、雪のあるときに氷川(奥多摩)から雲取山を越えて雁坂峠くらいまでを歩くとかそういう登山をしていました。今思うと、反発していたところもありましたね。真っ暗なところで野宿をするというのは、キツネとかタヌキがガサガサして嫌なときもありますが、当時の入間の実家付近はどこでも夜間は真っ暗で、家の用事を言いつけられて、星明りだけで砂利道を歩いたりとか、そんなことは誰でもやっていた時代だったものです。
 二級下に市川章弘君がいましたが、彼らと夏にマチガ沢から谷川岳に登って谷川温泉に下り、私はそのまま上越線から信越線に乗り継いで、八ヶ岳山麓の松原湖から小淵沢まで縦走したことがありました。稲子湯から黒百合平の小屋に行くと、山岳部の後輩が夏のアルバイトをしていましたよ。そういう人もいたのです。市川君はその後大学山岳部に入って大活躍したようですが、彼にアイゼンを借りて、三月の甲武信岳に登ったこともありました。
 卒業してからは一度だけ兄も登山に参加して、南アルプスの三伏峠から赤石岳まで縦走したこともありました。あの頃の私は健脚だったのです。赤石岳には戦時中に軍の輸送機が墜落したことがあると有名な話があって、確かに縦走途中の南側の斜面に、墜落機のキラキラしたジュラルミンが見えたものでした。それにこのときは、悪沢岳の下りである親子が背中に背負って降ろしていた物が、実は遭難した息子だという生々しいところに遭遇しました。冬の遭難を夏になって降ろすという、嫌なものでした。下山は赤石岳から小渋川でしたが、ここも相当道が悪かったものです。
 川高を卒業して4,5年経っていた頃でしょうか。夏の合宿が北アルプスの横尾で行われ、OBの私にも力を貸してくれと言われたこともあったのです。横尾にベースを張った翌日には、蝶ヶ岳から常念岳、槍ヶ岳まで周回してこようという計画で皆で登り始めました。ところが常念岳に泊まった翌日に台風がきてしまい、計画途中で横尾に戻ることになったのです。ルートは忘れました。当時少し道が付いていた一ノ俣を下ったのでしょうか。沢沿いの道は恐ろしく増水していて、それでも稜線の小屋では「気をつけなさいよ」と出発させたのでしょう。誰かがザイルの代わりに鉛筆くらいの太さの作業用の鉄線を借りていました。一箇所だけ腹まで没する沢の流れを横断しなくてはならないときがあったのです。片方を脇の木の幹に縛り付けて、もう片方を私のズボンのベルト穴に通します。生徒を連れているのですから、私が先頭で横断しなくてはなりません。「このまま流されても仕方がないか」と思っていました。無謀なのです、あの頃の登山というのは。運よく無事に通過できたことが何よりです。横尾に戻ると誰が設営したか、我々のテントは流れの中州に張ってあって、寝袋もラジウスも水びだしで流されなかったことが救いでした。干した寝袋からは水がダラダラ滴り落ちていたのです。
 あの頃テント設営用にロープを持っていったようですが、それも横尾の小屋に、増水で渡した板が流れるからと貸し出したようだったし、上高地からの釜トンネルも土砂崩れで通行止めになって、徳本峠を越えて島々に下ったのです。そこの村では消防団が降りてくる登山客に炊き出しをして援助していました。有名な名前の付いた台風がそのとき通過していたのです。
 これまでたくさんの山に登り、自家用車で林道から転落して一ヶ月入院したり、だからこそこうして山の生活が好きなのかも知れません。今は八ヶ岳の麓で、山仕事、野良仕事なのですが、好きでなければできることではないと言われれば、その通りなのかも知れませんね。



禅寺の山歩き   傘松祐三(一九五三年・昭和二八年卒)

 入学当初、私は柔道部に所属していた。ところがある大会で、他校の三年生を逆十字の締め技で落としてしまい、勝った喜びよりも、相手はどうなってしまうのか心配になった。四段の資格を持つある接骨医の先生が喝を入れて、相手は息を吹き返し安心した。家に帰って父に相談すると、宗教家であった父親は、
「人を危めてはどうかな」
 と言い、山岳部に入部することになった。二年生在学の頃である。
 山岳部に入ってからは、「そこに山があるから登るんだ」という哲学を胸に、登山に励んだ思い出がある。歩行の仕方も教わった。紺碧の山型のバッチも懐かしく思い出す。もう一度自分で作ってみたいような気にもなる。
 当時は二十四人用テントがあり、四、五人で担いで河原にテントを張って、二十四人用の大なべでカレーライスを作って食べた。あれは海沢の沢登りをしたときだったかも知れない。いつも同級の八木君が、登り足の速さでは勝っていて、羨ましく思った。山岳部らしい先輩もいた。部報に書かれた山の記録・文章も、格好良く優れた文章が多くて、感慨を新たにした思いもあった。
 私たち新制高校の五回卒業生は、新旧の接点でもある。新制中学校は先輩のいない校庭前の地続きの武徳殿が教室で、初雁中学(当時の川越二中)の第一期卒業生となった。川高の校庭にはお城があって、ここが江戸時代の門だと言った人がいた。私は越境の学生で、鶴ヶ島から通っていたが、通算すると五年八ヶ月も通学したことになる。
「東上線の上りの通学者は、講堂に集まれ」
 そんな指示があって、部活の説教会は行われた。野球部が中心だった。一m間隔で隊形を取り、会場は一杯になった。
「足を開いて」「両手を挙げ」「かかとを上げ」「膝を曲げ」
 傲慢な罵声を浴びながら、体罰的な説教会であった。山岳部は生物の先生が顧問であったと思う。山の頂点を制覇して、メチールアルコールをなめるように飲んでいた先生が、何だか実に悲しかった。
 私自身は、美術の時間が好きだった。デッサンしながらコンテの修正をする。ついでにパン。コッペパンの半分は食事以外に食べられる。これが唯一の楽しみで、楽しくてたまらなかった。戦後の我々の時代は、食べ物に飢えていた。
 壊された階段教室の残材の上から、校門に向かって川高名物のくすの木を写生していた。イーゼルペイントの葛藤は、このときに始まった。描けど描けど、出てこない鮮明な「青」の色彩。発狂的にも求め続けて、時間一杯費やされた。六十歳の祝賀会の席で、筑波大の名誉教授になった平君も、同じ思いを告白していた。大沢寛先生は、色彩の天性について説諭された。先生が職場を退官された折、立派な丸いカートンに入れられ、作品が贈られてきた。思わず合掌に近い動作でお受けした。
 私は今、鶴ヶ島駅から南の霞ヶ関寄り一キロにある、萬久院という寺の住職である。百軒足らずの檀家がある小さな庵である。当時は芸大進学を理想としていたのだが、自分にそれほどのデータは蓄積できなかった。中学の同級女子の久場さんが、川越女子高から芸大入学とのニュースが伝わってきた。浪人生活の中で聞く他人の噂は、自立と進路の間で真剣に考えさせられた。
〈浮世を離れて、修行僧に転身することである〉
 太陽の昇る午前四時半を、一日の始まりとするのが禅宗道場の慣わしである。即ち、朝の座禅の始まりである。朝のお勤めはいつもの通り。毎日の行事、儀式に続いて、お客様の数だけ経を上げる。年間毎日、つつがなく行事をこなす。それが終わると、清掃とお粥の朝食。この間五十名もの僧侶が、すべて鳴物の音によって行動が制約される。黙々としてお喋りは一つとして聞こえない。さすがに禅宗の修行。畳一枚が、個々の生活の場になる。
 卒業した十九歳の私に、座禅作法の足を組む作業は、苦痛となった。膝に軟骨が飛び出して、オーグストシュラッテル氏病という厄介な病になった。しかし修行は座禅三昧。一年間が過ぎ、黙ってそのまま座っていれば治る。体得した本義である宗学を学問的裏づけとして求めるために、東隆眞君と大乗寺(金沢市)住職の花岡大舜老師の三人で、駒沢大学に入った。
 禅とは「山を登ること」である。天子の御霊に会うために登る。それが禅になる。学校を終えて教員生活に入った。体育の研究やら人権教育に二十数年。箱根を越えて第三十回の大会は東京と埼玉で同時に受け、同和推進教員として埼玉の広報担当をした。ところが後年大動脈瘤を患って、山を歩く禅堂生活が少なくなってしまった。
 僧侶の身分で七十一歳。川高山岳部は体の中心の背筋を保ったのかも知れない。名細中学では学年キャンプを創設し、五年ほど続けられたのも川高時代に体得したものだ。



顧問報告 山の一観 
 私は昭和23年5月に川高に転勤してから、現在まで約3年半の間に25回の登山と、4回のスキーを経験しました。これは3ヶ月に2回の割りで自然に親しんだことになり、その中で単独行は6回で3千米級の山登りは、5回となっております。山には各々個性があり、歩力と時間をかければ、もっともっと深く山の奥を示してくれます。山は自分が一つの物語を創生させる一つの素材となるのです。
 山には巨山、剣山、美山、幽山あり、また碧谷、秘谷、清谷、深谷があって、単純の中にも少しずつの変幻性に富んでいます。映画や芝居は我々に一つの物語を紹示してくれるのですが、その物語を我々は変更させることはできません。山ではある程度自分で思うように物語を構成させることができます。それには1日ないし数日間かかるのが普通です。それは山に於いては我々は観客であり、演技者であるからです。そこで次のような登山物語を産んだのであります。
「山岳部員の団結の素晴らしかった南アルプスの記録的長期縦走」
「勇猛壮絶なる北アルプスの岩壁登攀」
「東北の朝日岳、出羽三山、鳥海山等の広大なる天然植園の詩的鑑賞の登山」
「丹沢の癖のある妖しき天候に苦しんだ半死の吹雪下の単独行」
「渺茫たる視界に恵まれ、圧巻的パノラマを満喫させてくれた八ヶ岳」
「スカイラインやスロープの美しかった富士、三ツ峠、金時山の変則的単独行」
「山の墓場へと寂しく訪れた細雨下の谷川岳」
 など、これらの山はそれぞれ1,2時間では語りきれない物語を含んでおります。
 山においては、色を主とした景色の粋美は「山で澄んだ目をしている生徒の若い心」と共に、想像もできないほど私の身近にあった。それよりも山が土台となってパーティの一人一人がよき「心の演奏」をしてくれるのが音楽堂の音楽よりも素晴らしいことがあった。
 ある頂上で一人が遠くの奇峰に対して双眼鏡から目を離さず、他の一人は貸し残った双眼鏡のケースを小脇に抱えて磁石と地図で付近の山々を合わせ、ある者はビスケットを皆に配り終わり、腰に手をあてがって歩き越してきた縦走路を懐かしげに眺め、そこの隣の者はこれから挑戦する第二岩峰を指し疲れた者を激励し、伸ばしかけの髪は風に揺れている。これら各人のポーズが自然に終わるのを待って、リーダーがやおらに立ち上がって出発の合図をする。山の一角を凝視し拱手していた私はその光景に微笑みながらも、山岳関係の芸術的直感をまとめるため深い思索をするのだが、それを助けるため2,3歩軽く歩き出した直後に、
「先生もういいでしょう、この頂上はこのくらいで」
 と声を掛けられる。皆は今までの汗登に、何事も無かったように清清しい顔をしている。そうして右に森を見に、左に谷を見て、隊伍を整えて多少弾んだ気持ちで降りてゆく。もう二度と訪れることはないと思ってか、軽い惜別の山愁をこの頂上に残して去っていく。はっと我に返ったときは生徒たちはリーダーを先頭にして綺麗な一線となって、山の稜線をガッチリと同一間隔で進んでいた。頂上で各人が勝手なポーズを取っていたようでも「気心の調和」が我の心を何ものかになって激動させた。これは正に心の演奏ではないか! 「心の演奏場」は山頂だけではなかった。幽林に碧流に岩場に緑丘にと、憩いの場所では彼らはどんな小さな缶詰でも残飯でも何でも分け合った。どんな新人もこのシーンを見ては溶け合うような親しさを起きさしめる。また疲れた者の荷は他の者が自発的に背負うことを申し出るのが常だった。この自発性が彼等に延び延びとした気持ちを持たせやがて彼らは自分で物を考え、よい意見を言うようになった。私は山で喧嘩や意見の対立、気まずい雰囲気など一度も見たことはなく、部員たちはリーダーをよく助けていた。またリーダーも幹部も下級生をよくかばっていた。
 私は山による物語構成の見地から山の味を紹介しただけであって、皆さんに山をお勧めするわけではないのです。2,3回の登山で簡単にこのような山の味は解らないし、現実離れもしていますし、功利的処世観からは割り切れないものがかなりあるからです。「心境開拓の登山」のよさは登山をスポーツや運動や遊楽とせず、人生の縮図を行動で縮験し行動と思索の総合体を作るところにあると思っています。(山岳部顧問 木村信寿 昭和26年生徒会会報から)