山岳部90年史NO2    トップページへ


一九五二年(昭和27年)

新入生歓迎山行 神津牧場〜荒船山 五月三日〜五日
夏山合宿 八丈島 七月二十八日〜八月五日
夏山合宿 南アルプス 甲斐駒〜仙丈岳
夏山合宿 奥秩父・雲取山〜金峰山
二年部員 桑田脩三 当麻泰雄 
顧問 内田一正
 
 東京の南方三百キロ。小笠原諸島が米軍に接収されている時代には、伊豆諸島南端の八丈島が、部員にとっては熱帯地方への憧れだったのだろうか。顧問内田一正先生に引率されて、生徒は約十名。前年に引き続いて、この島への旅行が夏山合宿の一つとして行われた。
 順調に航海できたとして、東京月島桟橋から十八時間。前年には島内で七泊したようだが、この年は五泊に短縮された。というのも、五日に一回の定期航路は天候に左右される。わずかに二百トンの「藤丸」は、出港予定を一日遅らせ、しかも遠洋に出られずに、千葉館山でさらに一泊。現地への到着は最初から二日遅れてしまった。現地では島内の最高峰・八丈富士八五四mの登山などを行っている。


   山といくつかの出来事    可児一男(一九五五年卒)

 山に行くと何かしら感動を覚えるものです。小さな頂に立ったとき、立ち止まって見た遠くの山、壮大な日の出や日の入り、朝のぴりぴりした空気、物憂い夕暮れ時、大自然との出会などは枚挙にいとまはないでしょう。登山をしたのは高校から大学の頃です。どんな山でも話があれば手当りしだい登ったものでした。社会人となってからは、何かあった時、特に精神的にまいった時、仕事の上で壁に当たった時などに出かけたような気がします。現在古希ともなると、出かけられるだけで幸せだと思うばかりです。OB会も「麓会」などを設けて、山には登らず麓で絵を描いていたいなあと考えています。今迄の山行の中から断片的に思い出した事を取り上げました。

暑中見舞い
 高校二年の夏休みに南アルプスに行った時のことです。内田先生、馬場、新井と、私のメンバーでした。日野春の小学校に泊めていただき、甲斐駒から奥仙丈、両俣に降りて北岳に登り、広河原に降りて帰る途中、甲府の駅で列車を待つ時間がありました。誰かが、
「夏休みの国語の宿題で、暑中見舞いを出すのがあった」
 と言いだしました。
「そうだ、ここから出せば丁度いい」
「だけど、ハガキも切手も無いよ」
「絵ハガキがあるぜ」
 先生を除く三人がそれぞれ文を書き込みました。
「宛先はどうしよう」
「川越市郭町の川越高校、田中先生宛てでいいじゃないか」
「そうだ」
「夜だし、切手はどうしよう」
「いい考えがある。絵ハガキにお金をつけてポストに入れよう」
 三枚の絵ハガキとお金(確かその頃のハガキは五円位と記憶しています)を輪ゴムでしっかり留め、
〈郵便局のお兄さん、山の途中で切手がありませんが、よろしくお願いします〉
 と書いたメモを挟み込みました。届くかどうか心配でしたが、無事に着いたものです。二学期の始めに教室で皆に披露され、
「南アルプスの冷風とともに、暑中お見舞い申し上げます」
 という表現が良いと褒められました。郵便局のお兄さん有難うございました。

ドラムカンの風呂
 最近の明神池の混みようは大変なものです。人、人、人、で水辺に近づくことさえできない程です。高校三年の時、燕から槍、奥穂と縦走した折、上高地でバスを待つ間に一人で明神池に寄ったことがありました。池はシーンと静まりかえり、人っ子一人おらず、その神秘的な雰囲気にしばらくは動けず感動したものです。
大学二年の時、表銀座を下りてきて、ふと明神池の近くの鱒の養魚場でも泊めてくれると聞いたのを思い出して、訪ねました。気持ちよく迎えてくれました。そして夕食後、
「よろしかったら、ドラムカンですがお風呂がありますから入りませんか」
 と誘われました。初めての経験ですが喜んでトライしました。ドラムカンのお風呂は底がさぞかし熱いと思いきや、円く伐った板の上に乗るので、熱くはありません。五右衛門風呂と同じ方法なのです。夕闇せまる屋外で、爽やかなとても気持ちの良いものでした。昨年と今年と行く機会があり、山や池はそのものですが、養魚場も今は無く、明神池も有料でした。

水汲み
 赤岳から硫黄岳、天狗岳と来て黒百合の小屋に着いたのは午後二時頃でした。少し早いけど、ここに泊まろうと弟と二人の気楽な山行なので決めました。声をかけても、返事もなく、人影もありません。ずっと奥の方まで入っていくと台所のわきに中年の小屋の方と思われる人が丸くなって寝ているではありませんか。
「こんにちは」
「……」
「どうかしましたか」
「……」
「大丈夫ですか」
「はい」
 やっと小さい声で返事があり、急にお腹が痛くなって薬を飲んで横になっているのだとのことです。
「大変ですね。何か私に出来ることがありましたらいたしましょう」
「たいしたことはないので、少し休んでいれば大丈夫だと思いますが、できれば水汲みをお願いしたいのですが」
「水場を教えていただければ、やってみましょう」
 ということになりました。約二十分位下った所に小さな池があり、背負子についた缶に水を汲みました。これが以外に重くて歩き難く、返りは倍近い時間がかかり参りました。夕方、弟とトランプをしていると呼ばれました。
「先程は有難うございました。お蔭様でいくらか元気になりました」
「よかったですね」
「一寸こちらへ」
「はい」
 と台所の方へ行くと、
「夕飯にカレーを作りましたので、どうぞ」
 というわけでご馳走になりました。翌朝、出立の時にもお礼を言われ宿泊代も受け取ってくれませんでした。何か気持ちの良い山行でした。

五丈岩
 金峰の五丈岩はどなたもご存知でしょう。高校一年と、大学四年の時と二回、岩に登りました。夢中でよじ登ったので、そんなに大変だったとは思いませんでした。岩の上はわりと広かったのですが、反対側は切り立っていてとても怖かったのを覚えています。誰かが度胸試しで、縮んで出ないだろうけど小便しようとけしかけ、それでは祠の無い方でと並んで一斉にしたものです。みんな堂々というわけでなく、へっぴり腰で一寸だけというものでした。最近、金峰は日帰りで行かれるというので行ってみました。年をとってから見る五丈岩はとても大きくトライする気はまったく起こらず、ただただ、山頂の日向ぼっこを楽しむばかりでした。

中間試験
 高校二年の十一月末、連休を使っての奥秩父です。その頃に将監峠にあった将監小屋は無人小屋でした。学生にとって無人小屋は最高の天国です。夕方早目に着いて、後で泊まる人の為にと小屋の付近で薪拾いをして小屋に帰りました。丁度、若い二十〜三十歳代の三人が小屋に着いたところでした。薪拾いとは偉いねと褒められ、私たちは奥の方に五人、若い人達は入口付近に三人と陣取りました。結局、その日の泊まりはその八人でした。夕飯にはまだ時間的に早く、皆ごろりと一休みです。仲間のWがザックからデパートの包装紙で表紙を被っている本を、五冊出して配りました。
「ここまで来て勉強かよ」
 と渡された本を見ると何とピンク系の月刊雑誌でした。もちろん熱心に読んだものです。薄暗くなり字が読めなくなるまで、静かにです。若い三人組みが夕飯の支度を始めたので、やっと私達も夕飯にしました。会話は挨拶程度で、そのまま三人組みの事は忘れてしまっておりました。ところが、一週間が過ぎた頃、全校の朝礼で壇上の校長先生が一枚のハガキを読み上げました。曰く貴校の学生、
「山岳部の生徒は立派です。無人の山小屋で薪拾いをした上に、中間試験だと言って勉強をしていた」
 というものでした。なんと、あの三人組は立川高校の先生達だったのです。私はびっくり、朝礼後、みんなから突っつかれました。白状しろと。

ブロッケン
 知識としては持っていても実際に体験しないと解らない自然現象だと思います。近所のおじさん達が講(神社の檀家)を作って毎年木曽の御嶽山へ行っているのは知っていました。急に一人キャンセルがあったので代参として行くことになりました。最近は田の原までバスで行けるそうですが、当時は木曽福島駅前に泊まり早朝出発という長丁場でした。田の原で昼食を済ませてからが本格的な登りです。途中から森林限界を過ぎ這松と岩の多い山容となり、登山コースとしても素晴らしい山です。
 途中のぞき岩の方へ寄り道をしたのですが、おじさん達よりかなり早く着いてしまいました。神社に参拝してから宿坊に入らず、ちょっと奥の方へ時間つぶしに行ってみました。頭上は日が当たっていましたが、急に雲が下の方から湧き上がり小高い処に立った時にブロッケンの現象が体験できました。自分の影が雲に映り、頭を中心に光の輪が輝きなんとも云えない不思議な気分になりました。自分が自分でなく神仏の世界に誘われたようで、しばらく神秘的な現象にひたっていたものです。この現象が起きやすい環境がこの山にあるとしたら、確かに信仰の山としてうなずけます。自然に対する畏敬の念は忘れてはいけないものと思うものです。

記録 八丈島雑感
 七月二十八日午後四時出港予定の藤丸(二三〇トン)は、一日遅れて月島を出港する予定である。その間、二十八日は月島から宮城まで歩きで行ってきた。翌二十九日午前中は、築地の魚市場へ行ってきた。一日の売り上げが5千万円くらいだそうだ。勝鬨橋は、午前九時、正午、午後三時の三回開く。橋の重量は二千トンと示されている通り、巨大な橋である。
 八丈行きの船は、午後五時半月島を出港した。左には千葉の房総半島、右には横浜横須賀の都市が見える。波も荒くなり日も暮れてきた。東京湾を三時間半くらいで乗り切り、太平洋へ出ると波が荒く、二三〇トンの船では航海できず、館山まで引き返した。
 翌日午前中、館山で釣り道具を買ってきて魚釣りをした。海で釣るのはこれが五年目である。しかし魚は一匹釣れただけである。
 船は三十日、午後六時八分に館山を出港した。波は昨日に比べると静かである。翌朝どこかの人が日の出を見ろと全員を起こしたが、太陽は雲の陰で見えない。自分はまた寝てしまった。
 八丈島の大賀郷に着いたのが八時十分頃。ここも波が荒く浮き船が出られないため、三根村に引き返した。そしてようやく午前十時、人口一万二千人の待望の八丈島に上陸したのである。
 三根からバスで、樫立小学校に向かった。途中樫立村役場でお茶をご馳走になった。小学校に着いてからは、付近を散歩した。そのとき気がついたが、島には井戸がなくてすべて水道水になっていた。しかも道端や各家庭に来ている。ただ井戸水のように冷たい水が飲めないのが残念だ。山には草木が密生していた。熱帯植物は、ソテツ、ムラサキオモト、リュウゼツラン、バナナ、サボテンなどが栽培されていた。内地では見ることができない。椿の木は、庭先や裏に何本も植えてあって、直径二、三センチの実を結んでいた。残っていた者は、村の子供と野球をしていた。
 八月一日は南部一周である。朝食後全員で出発。途中、末吉村の洞輪沢部落を絶壁の上から見ると、人家が小さく見えた。崖が二、三百mくらいあった。そこで休憩すると、泳ぐ者や寝てしまう者など様々であった。ここは天草がよく取れる。一日働いて三千円程度。バナナもよく取れるそうで、十二センチくらいある。午後その部落を出発して末吉灯台に出て、三根村に戻った。村にはパチンコ屋もあった。こんなところにもパチンコが普及している。道の両側には商人の家が並んでいるが、村で安いのは牛乳と肉くらいである。樫立へ戻る途中には森永のミルク会社があった。
 樫立小学校にはスクールバスがある。島の学生の送り迎えをしている。荷物は牛の背中に乗せて運んでいる人がいた。二百貫まで運べる牛がいるそうだ。リヤカーは一台見ただけで、荷運びは牛か自動車だった。
 八月二日は午前中に硫黄山(三原山・七〇一m)に登った。この山は岩のように大きな石がゴロゴロ転がっていた。雨が多いせいでもあろうか。八丈島の雨は、二、三分スコールのようにザーッと強く降って、止んでしまう。山には年中霧が発生している。この硫黄山も霧でよく見えないときがあった。頂上に近くなると崖が多くなって、それ以上は登れない。過去には硫黄鉱山が発達したらしく、ツルハシの錆びたものが二本残っていた。穴の中は涼しく、水が貯まっていた。その鉱山跡から引き返した。
 午後からは三根村に戻ることになって、荷物をまとめて出発。昨日通った道を歩き、途中八丈支所、罪人が島流しされた歴史書を読んだが、字が難しくて読めないのもあった。その後測候所にも寄り、施設の説明を受けた。その後三根の農協へ行ったが泊まれず、寺に泊まった。開善院善光寺である。けっきょくこの寺に三泊した。この日私は食当で夕食の支度をした。
 八月三日は北部半島の一周をした。けれど私にとっては最悪の日になった。体の調子が悪いのに皆と一緒に出発した。森永ミルク工場を見学し、太陽がカンカンに照り付けるなか、腹痛になって遅れた。左には八丈小島が見えて景色はいいのに、調子が悪く、けっきょく私一人自転車を借りて戻ることになった。
 八月四日、私は元気になったがまだ山に登るほど元気がなく、他の者は八丈富士へ登った。船の出港予定は翌日の午前二時。散歩をして過ごし、夜は早めに寝た。
 翌日真夜中午前一時に寺を出て、港に向かった。今度の船は淡路丸。大島で伊豆七島の運動会があるとかで、選手たちも船出を待っていた。船は遅れて午前五時に出港した。大島まで十四時間かかって、七時半頃到着。伊豆半島方面の夕陽が綺麗だった。大島を出港して東京の月島に着いたのが夜の十一時。船内で一泊して翌朝家に帰った。(和田喜一郎)


一九五三年(昭和二十八年)

夏山合宿 南アルプス 甲斐駒岳〜北岳
二年部員 可児一男 水野涓司 藤野文夫 馬場佳一 萩野谷生郎 和田喜一郎 新井真司 市川章弘 井上誠一郎 奥村順一
顧問 内田一正

 前年の夏に八丈島を探索した顧問の内田一正先生は、この年の夏山合宿に南アルプスの仙丈岳から北岳への縦走を引率した。筆まめだった顧問は、仙丈岳から両俣小屋に下り、北岳に登り返すときの苦労を、翌年の部報に報告している。


ヒマラヤ・ジャヌー7700mの頂上  市川章弘(一九五五年・昭和三十年卒)

 市川章弘さん、名はゆきひろさんと読む。面会したのは、飯能市内の観光会社のオフィスでのことだった。旧制中学山岳部員だった市川宗貞さん(昭和四年卒)は、実父に当たる人で、埼玉の県会議員から飯能市長まで勤めた、学級肌の方だった。それは昭和二年の「立山から針ノ木谷」への詳細な記録からも分かるように、細かい字で丁寧な自筆の登山手帳が、今でも保存されていた。その大先輩の息子さんに当たる人が章弘さんである。
ちょうど私(編集者・鷹觜)が在学中に「山岳部のOBの市川さんという人が、ヒマラヤのジャヌーを登ったよ」という話を同級の成田から聞かされて「先輩には凄い人がいるもんだなあ」と、漠然と憧れていたことを思い出す。それから三十年。当時埼玉銀行に勤めていた先輩は、退職後にはいくつかの会社を起こして、今は観光会社を経営していた。南米のアコンカグアと、二度のヒマラヤを陥れた人なのだから、屈強な山男を想像していたのだが、小柄で温厚な人だった。川高山岳部から成城大山岳部を経て、そのOB会でヒマラヤ遠征を行っていた。「大学山岳部に入ると命を落とす」と言われていた時代の、まさにその渦中で登山をしていた先輩になる。その理由を訊ねると、やはり答えは「困難への挑戦」という的確な理由であった。
 日本の登山史の中でも、鹿島槍ヶ岳北壁の直接尾根の登攀(一九五九年三月)や、北穂高滝谷のグレポンの登攀(一九五九年十二月)は、積雪期の初登攀として大学時代の市川さんの記録が今でもさん然と輝いている。今では絶版となっているが「現代登山全集」(東京創元社)には、雑誌「岳人」からの転載として「厳冬期グレポン登攀」が紹介されていた。その年の暮れ、一ビバーク二十時間、ザイル十三ピッチを費やした登攀は、積雪期の滝谷登攀の最後の時代の難関を落としたものとして高く評価されている。市川さんに数日遅れて、第二登に吉野満彦、第三登に名古屋山岳会という、積雪期の登攀争いが行われていた時代の記録でもある。
 その市川さんに、川高在学中に養われた困難への挑戦とは、どういうことだったのだろうかと尋ねてみた。
「私の父親は実に几帳面な人で、昭和二年の登山だというのに、自分のメモに細かに記録を残していました。当時の強力の日当が二円四十銭だったなどということまで、ちゃんとメモにしているほどですからねえ。私が子供の頃の父親といえば、食事か風呂の時に顔を合わせるだけで、他は書斎に篭りっきりで書類の整理をしていたり、仕事の報告や日記を書いていたりしていたものでした。しかも山登りが趣味でしたから、自宅の蔵の中には、何だかたくさんの登山の道具や書籍が入っていたものです。
 私は父親と登山をしたことはありません。それでも川高に入学したときに、父親と同じ経験をしてみたいと思ったのでしょう。在学中は奥秩父や南アルプス、八ヶ岳に登りました。冬はスキーをした程度ですが。
 大学に進学して、さらに困難な登山への挑戦をしてみたいと思ったわけです。当時国内では夏の登攀はすべて登られて、残っているのは積雪期の登攀だけになっていました。ですから仲間は当然のよぅに積雪期を狙っていました。大学山岳部の同級に橋村一豊というパートナーを得て、彼と二人で率先していったわけです。その橋村が名古屋の出身で、高田光政さんたちと親しかった理由から、卒業後のOB会では日本山岳会の東海支部として遠征したことが多く、私もそこに参加したということになりました。
 私の父親は自分も登山をしていた理由からだったのか、「出て行った者を心配してもしょうがないだろう」という考えの持ち主だったのです。山岳部員として登山に向かった者、日本を出て海外の登山に向かった者を、残った者が心配してもどうにもなるものではないということでしょうか。今風に理解すれば自己責任で登れということだったのかと思います。
 大学時代には北穂滝谷や鹿島槍ヶ岳の他にも、剣岳の三ノ窓やら北岳バットレスの積雪期に足しげく通って登攀を繰り返していました。しかし登った山の標高の問題で、国内の登山には限界があると思っていたのです。例えば私は、富士山へは十五回くらい登ったと思いますが、何れも積雪期の訓練登山として登りました。吉田大沢の右側に屏風尾根というルートがあるのですが、そこですね。晴れた日にはこの飯能から富士山がよく見えて、吉田大沢の屏風尾根が正面に見えるのですよ。しかし標高は三七〇〇mでしかない。あの頃は社会人の山岳会は岩壁登攀をよくやっていましたが、大学山岳部というのは体力勝負の積雪期の標高の高い困難な登山を熱心にやっていたものです。しかも目標はさらに高いところへ置いていました。
 大学を卒業してからほんの二、三年は登山を続けていました。しかし五月の連休にようやく休暇を都合して、春の北穂高の小屋に遊びにいっても、「誰それが遭難したから救助をしてくれ」だとか、シーズン中の北アルプスはいい加減に事故が多くて、私自身やりきれない気持ちにもなっていたのです。たまたま山で知り合った隣にいたパーティでさえ、転落事故を起こしたことがありました。そうして国内の登山からは離れていきました。
 海外への夢はもちろん成城大OBの中にもありました。当時の政府には年間わずかに一万ドルの外貨スポーツ予算があるだけで、ほとんど有名大学山岳部にそれは使われて、なかなか私たちに回ってこなかったものです。私たちも昭和三十年代当時から、ヒマラヤ登山の計画を具体化させ、ある名峰に登山申請したのですが、それを争っていた早大山岳部に取って代わられ、最初のチャンスは失われてしまいました。代わってヒマラヤを除いた高峰ということで、南米のアコンカグア山六九〇〇mの南壁登攀の計画が実現したのが一九六六年(昭和四十一年)のことでした。日本山岳会の東海支部での遠征です。
 私たちは横浜から貨物船に乗り込んで、北海道から北アメリカを経由して南米に行きました。現地では軍隊が協力してくれて、将校の宿舎を提供してくれ、物資の輸送を配慮してくれたものです」
 アコンカグアの最終アタックは、四人のメンバーが一ビバークの末登頂を成功させた。困難な南壁からの積雪期の登頂で、この登攀はフランス隊に続いて、第二登と記録された。遠征期間は八ヶ月の長期にも及んでいる。
 当時の海外遠征は、登山の記録が一冊の豪華本となって報告されるほど、名誉であり国家的な事業でもあった。政府が保証する海外登山隊の許可は、南極越冬隊と同規模であるとさえ言われた。
その政府保証を取り付けたのが四年後。一九七〇年に、いよいよヒマラヤ遠征が具体化してきた。日本山岳会東海支部に与えられた登山許可は、八千m峰の一つマカルー八四〇〇mの未踏の東南稜であった。市川さんは十六人の登山隊の登攀隊長(隊長は原真)であり、C六という最終キャンプまで登り、アタック隊員を総指揮するという重責をになった。そして登攀の最終日に、二人の隊員を送り出し、その二人はついにマカルーの頂上を陥れ、記念のピッケルに日の丸を巻き付けて埋め込んできたのである。遠征を後援していた朝日新聞はもちろん大ニュースとして取り上げたほどだった。マカルー東南稜の初登攀。過去エベレスト初登頂のエドモンド・ヒラリー卿でさえ、敗退したといわれたルートである。
ところがこの年は、同じヒマラヤで植村直己が日本人としてエベレストを初登頂した年と偶然重なった。ヒマラヤの登山時期は、どの登山隊でもプレモンスーンといわれる最も天候が安定する五月に登頂を設定する。つまり世間の関心は、同じヒマラヤの中でも有名なエベレストであり、日本人初登頂というニュースに沸いていた年だった。しかもエベレストの頂上で、二人のアタック隊員が日の丸を掲げているあの写真がマスコミを賑わせた。登攀価値としては、明らかに優れていた市川さんのマカルー東南稜だったが、機材の不都合から頂上での「登頂証拠」となる写真が撮影されなかった。そんなことに疑いが湧くような、ヒマラヤ登頂ラッシュの時代でもあった。
 不思議な巡り合わせは一年後に起こった。世界の趨勢はエベレストの世界最高点よりも、より困難なルートへと移っていた。世界的な登山家でもあったフランス人のヤニック・セニョールが、同じマカルーの西稜から初登頂したのは、翌一九七一年の快挙だった。くしくも五月二十三日という登頂日は、一年前の東南稜と同日でもあった。彼は、単行本「マカルー西稜」を出版し、それは翻訳されて日本でもベストセラーになった。その中に、「頂上に残されていたピッケルには、日本の国旗と日本人の名が記されていた」という件が表記されていた。それは、エベレスト熱にうなされているだけの日本人登山家たちへの警鐘でもあり、市川さんらの登山隊の再評価でもあった。さらに言えば、疑いを掛けられた登頂がようやく公明正大になったときでもあった。なお言えば、この二隊の逸話は当時の小学校の国語の教科書にも採用され「昨年の同じ日に、ここに二人の日本人が立っていたのだ。私はこの旗を日本へ送り返したいと思う。しかしこの旗は、日本隊の登頂を証明するものであると同時に、私たちがあの山頂に立った、一番確かな証拠でもある」というセニョールの手記も紹介されていた。一年前に残したピッケルは、有名登山家に刺激を与えて、再評価されたということだった。しかも市川さんは、同年に単行本の出版宣伝に来日したセニョールに出会って、お互いにサインの交換をしたりもしていた。


8千mからのマカルー頂上

「ヒマラヤの登山というのは、現地政府からの登山許可を取り付ける下交渉のようなことから始まるわけです。そこで当たりを付けた後に、今度は文部省の推薦を取り付ける。なかなか政治的なものがありました。もちろん当時私は埼玉銀行の行員であり、過去にはスポーツ選手の海外遠征で一ヶ月半ほどの長期休暇の前例があったようですが、アコンカグアで八ヵ月、マカルーで半年の休暇が欲しいというわけですから、政府の推薦状を掲げながら、会社と駆け引きをしたというのが、正直なところなのです。結果、無給休暇のような長期休暇を取り付けて、帰国後に復職できるかもしれないという程度の約束のなかで、綱渡りしてきたようなものでした。それでもヒマラヤというチャンスは人生の中でそう何度も訪れるものではありません。機会は逃したくないと思っていました。
 登攀隊長という立場のマカルーは、ベースキャンプの上部に出てからは総指揮のような立場になりました。C六の最終キャンプで、アタック隊員二人を送り出して、登攀の最終日を迎えました。午前二時に出発した二人は、登頂に成功した後に、再び帰還したのは二十四時間後でした。その翌日、私を含めた二人が第二次アタック隊員として準備はしていたのですが、わずか数時間の仮眠で再び今度は自分が登頂に出発することを思うと、けっきょく私は断念して、この二人の登頂だけで登山隊は成功したとして、終わりにしようと思ったのです。
 七千mを越えた高度では下界では分からないことが起こるものです。ちょっと胃が悪い者は簡単に胃が悪くなる。歯痛の者はやはり歯痛になる。高度順化に適応できる者と、そうでない者。私は、アコンカグアから四年後にマカルーにいって、さらに四年後にジャヌーに行くのですが、「登山靴を履くのは、その四年に一回限り」だと、うそぶいていたほどでした。埼玉に戻ってきたときには、ほとんど何もしていません。ハイキングすらまず行きませんでした。ただ高度障害がほとんどなかったことだけが恵まれていたことだったのです。
 マカルーの成功はありましたが、自分で満たされなかったのは最終キャンプからの登頂を逃したことだけでした。もう一度チャンスがあるならば、次こそヒマラヤの頂上に立ってみたい。それに今度は日本山岳会ではなくて、成城大学OBたちと、気心の知れたメンバーで行こうと、それもちょうど四年後の一九七四年にそのチャンスが訪れました。その四年間に私は結婚して、二人の子供の父親になっていましたが」
 市川さんの登山は、フランス人の登山につくづく縁があった。アコンカグアはフランス隊の初登に続いての二登。マカルーは一九五五年にフランス隊が初登頂している八千m峰だったし、ジャヌーはやはりフランス隊のリオネル・テレイが陥れたヒマラヤの怪峰といわれた困難な山の第二登になった。
 ジャヌーも登頂後に、NHKで特番が組まれた。当時放送されたビデオを見せてもらうと、やはりC六の最終キャンプからも延々と最後の難関が待ち構えていた。テレイが「レースのカーテン」と言っていたヒマラヤひだの発達した最後の雪壁は六十度を越える傾斜を大きく迂回するものであったし、稜線に出てからは「馬乗りになって雪稜を跨ぎながら進んでいく」というナイフエッジをやはり同じように前進していた。そもそも一九六二年の初登頂は、フランス隊の遠征そのものが、二度の失敗の後の三度目の正直だったようで、当時ドゴール大統領が国の威信を掛けた登山隊として遠征させたようだった。以来、ジャヌーは入山禁止区域であり、十年以上も空白が続いた怪峰だった。
「この時代になるとコンパクトな八ミリ映写機が普及して、テレビ用にと秒間二十四コマまで撮影できる装置に代えて、山での撮影も楽になったものでした。私は登攀隊長であり、撮影班でもあったわけです。
 七千mを越える高度での酸素というのは、睡眠中こそ不可欠なものでした。酸素がなければ寝付けない。そして行動中は無酸素のようなものでした。当時ボンベは一本七、五キロの重量があって、行動中には二本を背負わなければ意味がないと言われましたが、実際十五キロもの負担は無理で、非常用に一本背負うのがやっとでした。つまり実質は無酸素行動になるわけです。しかも高所ではほとんど食事を受け付けなくなって、ベビーフードを流し込んでいる状態ですから、満足に行動できる者は知れています。その朦朧とした状態で私はパートナーと頂上に出たわけです。最後だけは、若い相棒が、彼だけが九人のメンバーの中で現役学生だったのですが、カメラを回してくれて、私が人一人ようやく立てる頂上に出られたわけです。当時ヒマラヤの頂上の映像は、フィルムカメラのワンカットだけしかなかった時代に、八ミリ映写機を持ち込んで、番組を作り上げたということは時代の進歩でもありましたね。
 そしてこれが私の最後のヒマラヤであり、最後の登山にもなりました。困難を求めるのはもう無理なことで、それが私の登山であったのですから、登山も終焉したという思いなのです」
 ほとんど馬乗り状態になって前進する雪稜の一番向こう側の切れ落ちる寸前のところが、どうやらジャヌーの頂上らしかった。トップで前進する市川さんが引いているザイルは、風に煽られて大きく弓なりを描いていた。右手にピッケル、左手にアイスバイル。それぞれのシャフトを雪面に突き刺しながら、およそスローモーションのようにトップは前進していた。ザイルのもう片方は、パートナーが確保しているのだろうが、途中に支点はなく、ザイルが四十m一杯に伸びて止まったそこが、頂上のようだった。そして振り返った登頂者は両手を大きく掲げて、影像の最後に収まっていた。ヒマラヤを登頂するという信念を持った者だけに与えられた栄誉であろう。


記録 両俣の朝
 前日も登山者が訪ねたらしい両俣の無人小屋には、今日帰るとの様子の荷物が少し置いてあって、書置きも残されていた。
 私たちは足を休める暇もなく、明日朝の計画のため左俣の谷を探す。見晴らしが利かないため地図と比べることも困難。聞くべき人もいない。渓流に沿って上下に数百m。やっと探したのが二本の丸太で数日前に倒したらしく、流れに直角に渡してあった。これを渡れば何とか道が開けるかと思って進む。
 苔の生えたジメジメした足跡を二十分。やっと少し見通しのよいところにでた。谷の清流に沿ってケルンが積んであった。地図と地形図を比べて確かに北岳へ通じる様子が見えた。やっと探し当てた北岳への道。両俣に着いてから二時間。その後間もなく地元高校山岳部の一行に会う。
 書置きした者に違いない卒業生、顧問ら計八人が小屋に来た。一行は十貫に近い荷を背負っていた。早速北岳への道を聞いた。何回聞いても聞きすぎることはない。これで四回目。頂上まではここから五時間。途中に滝があり、以降は何々という風に話してくれた。大体知っている振りをして聞かねばならぬ。知らぬ振りをしていると、勝手な嘘をいう人も世にはいる。そして念を押して何回も聞く。
 前日までの三箇所の小屋番や案内人の言葉。明日の天気によっては南アルプス最大のホープは成功の様子が見えた。しかし北岳は三二〇〇m、両俣は二〇〇〇m。その差一二〇〇mの登行に五時間とは、いや三時間半で登れるだろう。
 翌朝無人小屋の朝三時。渓流とは思えぬ雨の音を聞くと、急に憂鬱になった。望みは絶たれてしまったのか。四時、積雲が重く垂れ込めるが、時々晴れ間が出るようになった。あまり希望せずに出発して、天気が回復すれば山頂に向かい、然らずんば引き返すということにした。地元高校の一行に別れて出発。
 次第に天気は回復してきた。午前七時、山頂が望める地点では前日にも勝る快晴。八時には北アの奥穂高まで見える。一両日前の仙丈、駒ケ岳も手に取るようであった。標高二九〇〇mに着いたのが、出発して四時間。さらに一時間でようやく頂上に出た。二度と登りたくない難路の五時間であった。
 私たちは二日後には人里に降りる。一行の氏名を書いて祠に納めた。山の思い出は過ぎた後がよい。密林に険路探る心地、後世の貴重な資料となろう。(顧問 内田一正)



一九五四年(昭和二十九年)

夏山合宿 甲斐駒岳〜仙丈岳 七月二十四日〜二十九日 参加八人
夏山合宿 奥秩父縦走・雲取山〜金峰山 八月十二日〜十六日 参加十四人
送別登山 顔振峠〜子の権現 十月三十日〜三十一日
二年部員 大木達夫 岩堀弘明 三上秀夫 櫛笥亮介 水村博美 斉藤金衛 神田裕 川上康夫
顧問 内田一正 岩上
 この年の夏山合宿も、前年同様の南アルプス・甲斐駒ヶ岳からの縦走になった。


旅と私     川上康夫(一九五六年卒)

 私が川高生だった時から既に五十有余年の時が流れた。
 確か三年生の夏、一学期の期末試験が終わり、まだ夏休みにならないのに、岩堀君、神田君の三人で南アルプス縦走の旅に出たのがはっきりと思い出される。当時の南アルプスはまだ登山道なども未整備な所が多く、地図上には登山道があっても這松などに覆われて道を探すのに一苦労だった。地図には小屋の印があっても、行ってみると屋根も無く、柱だけ建っていたというような事もあった。
 印象深かったのは、北岳の草スベリで、シナノキンバエやミヤマキンポウゲが、斜面いっぱいに咲き乱れ、長い登りの疲れも忘れさせるほどだった。何時間もの直登のすえ、小太郎尾根に出たときは嬉しさのあまり、思わず三人で抱き合ったことを覚えている。
 勤務先で私が若かった頃、まだ我国にコンピュータが何台も無いそんなとき、ある日突然コンピュータの部署に異動になった。コンピュータの知識は全くなく、研修を受けさせられた。初めは五十人くらいいた受講者がだんだん減って、ついに三人になってしまった。上司に、
「難しく、よくわからないから辞めさせて欲しい」
 とお願いしたが、上司は、
「わからなくてもいいから、座って聞いていろ」
 と辞めさせてくれなかった。システムエンジニアになり、徹夜に継ぐ徹夜の作業に追われ、体を壊してしまう結果になった。
 いくらか運動しなくてはいうことで、ジョギングを始めた。
 青梅マラソンや河口湖マラソンにも出られるようになり、体力が回復してきた。忙しい職場から、病院の事務長に赴任し、定時に帰宅できるようになった。
 体力があり、休暇が取れるようになると、長年諦めていた「山」に行けるようになり、そのころ山岳部のOB会が活動を始めた。登山が何十年ぶりかで復活できた。
 毎年、八月お盆が終わってから、一人で上高地に行き涸沢まで頑張り、翌日は北穂高に向かう。この登りはきつく鎖場やハシゴまであり、やっと山頂に着いた。眼下には難所の大キレットが見える、一休みして槍ヶ岳に向かう。山を離れて何十年か経っている。大キレットはきつく、千mくらいは有ると思われる絶壁をトラバースしなければならない、足が短い為次の足場になかなか届かず、死ぬような思いをした。思わず新聞の見出しが見えた。
「中高年無謀登山、滑落死」
 何でこんな所に来てしまったのだろうと後悔しても遅すぎる。幸い後ろからは誰も来ないのでゆっくりゆっくり進んだ。やっと南岳についた時はほっとして、もう山には二度と来るかと思ったほどだ。
 ところが、翌年も同じ時期に北穂の山頂に立っていた。大キレットから中年のご婦人の団体さんが上がった。
「大キレットは大変だったでしょう」
 と聞くと、なんと、
「私たちはこんな所何でもないですよ」
 と軽くイナされ、もうこれは黙るきりないと引いてしまった。お陰でやる気を無くし、大キレットの再挑戦はやめて奥穂高に予定を変えた。奥穂の眺めは素晴らしく、翌日は北アルプス尾根歩き難易度の一番高いと言われる、西穂高を目指した。
 穂高山荘から出て幾らも経たないうちに、もの凄いヤセ尾根、「馬の背」に出た。目の前にはジャンダルムの岩峰が聳えている。ナイフのエッジみたいなやせ尾根が延々と続いている。浮き石も多く、風も強く私の力では如何ともしがたい。どんなにスローでもともかくジャンダルムまでは行きたいと願ったが、無理をして遭難でもすれば、あちこちに大迷惑がかかる。残念だが諦めて引き返した。
そのうち、また忙しい職場に戻されてしまい、朝のジョギングさえ出来なくなり、体力が再び落ちてしまった。
 フリーになってから、趣味はバックパッカー、毎年二回一人で海外に出かける。一回の旅は、大体一ヶ月くらいで各国をのんびり回っている。もうそんな事を五年もやっているので海外滞在が、トータルでおおよそ十ヶ月位にはなる。
 二〇〇六年六月はトルコに、十月にはブラジルに行き、イグアスの滝、パンタナール大湿原、アマゾン川などを四十日かけて回ってきた。
 毎年出かける海外で一番居心地の良いのはトルコだ。半端でない親日家揃いで、カメラを担いで五百m歩けば、お店の人に呼び込まれ、お腹がガボガボになるほどチャイ(紅茶)を次々とご馳走してくれる。
 それにトルコ語は、文法が日本語ととてもよく似ていて「て・に・を・は」の位置が同じ事が多く、一ヶ月もいれば簡単な会話が出来るようになるほどだ。今までに、トルコはトータル四ヶ月くらい滞在している。知り合いも出来て、昨年はその人の豪邸に泊めて貰った。今年は何処の国にしようかと考えている時が一番楽しい。
 方向音痴の私も、地図と磁石が有れば何処に行っても迷う事はない、これは山岳部のお陰だろう。そのうちネパールで、ヒマラヤを眺めるトレッキングをしようと考えている。
 家族から、一人で長期間旅行して歩くのを危ぶまれているが、高校生の時の山行が基礎にあるのではないかと思う。未知の物、大自然への憧れは青春時代に培われたものだろう。表面上は行き当たりバッタリ的旅行でも、安全面は充分すぎるほど考えている。その為、今まで危ない目にあった事はない。外務省の危険情報、ホテルでの情報交換など参考になるものはすべて使って安全を確保しているつもりだ。山岳部時代、気象情報や先輩の話などを充分参考にして、安全な山行に心がけた名残だろう。
 今年で七十歳になるが、気分的には三十歳代のつもりでいる。まだ行きたい所が沢山あり、とても老け込んではいられない。


私の南アルプス     岩堀弘明(一九五六年・昭和31年卒)

 旧制中学四十四回(昭和二十年)卒の兄は、戦後建設省の同僚と北アルプスに行っていた。九歳年下の私は、兄の影響で入学してすぐ山岳部に入った。都合のいいことに高校の授業は当初五日制だったため、かなり山に行けた(高三になってからは六日制)。ところが、指導者もおらず上級生とは部活で決められた山に一緒に行くだけだった。
 一、二年生のときの担任であった佐藤徳四郎先生は、昭和二十年から何年間か山岳部の顧問を務め、毎年北アルプスに生徒を連れて行かれたようだ。毎日の食べ物にも事欠く時代に、強い使命感があって生徒を指導しておられたのだろう。すでに顧問はおやめになっていたからか、二年間も担任だったにも関わらず、「徳さん」に山の話をしてもらったことがない。
 山岳部員の私にとって、昭和三十年の三年生夏休みは高校最後のチャンスだった。夏の部活では南アルプスの予定がないので、休暇前の自由研修のとき、神田裕、川上康夫の三人で二度目の南アルプス縦走を実行した。
 新宿を夜行でたって、韮崎から朝一番のバスで麓まで行き、甘利山、千頭星山から当時建設中の南御室小屋まで気の遠くなるほど歩いた。
 翌日は鳳凰三山を快適に歩いたが、部活でなくこっそりやって来た私たちは、これから挑む白根三山の威容に圧倒される思いがした。広河原小屋に下り、小屋番に挨拶して付近にキャンプした。小屋に泊まらないのが、いつの間にか決まりごとになっていた。山を下りたときのラーメン代を浮かすためだ。
 三日目になってようやく憧れの白根山へ。白根御池から草すべりの急登をへて、小太郎尾根に。ここで初めてのブロッケンに遭遇した。尾根は快晴で心が躍った。昨年の仙丈岳、甲斐駒ヶ岳。昨日の鳳凰三山。明日からの北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳まで手に取るようだ。これほどの眺望は経験がない。しかもあたりに誰もいない。三千メートルわれらが天下。勇んで北岳肩ノ小屋についた。無人小屋のはずが、半纏姿の男たちがいる。見ると去年、甲斐駒ケ岳で一緒になった横須賀山岳会のパーティだ。こちらは学生帽に黒ズボン、着古したワイシャツに古い軍靴で、かわいい高校生だった。
「元気だなー」
 ほめられたのか、無謀だといわれたのか分からないが、とにかく白線の帽子をかぶっていれば、怖いものがなかった。まだ早いので荷物を置いて山頂まで往復し、達成感を味わった。
 四日目の朝は、三時に震えながら起床。薄明るくなるのを待って歩き、北岳、間ノ岳、農鳥岳の三山を瞬く間に過ぎてしまった。しばらくは雷鳥と遊んだが、広河内岳からは這松などのやぶこぎをして、急坂を下降して倒木の折り重なる池に出た。原生林に囲まれた池の辺りは踏み跡もなく、あまりの静寂さにしばし呆然とたたずんでいた。すぐ下の池ノ沢小屋へ下ってキャンプ。夕食は毎日、拾い集めた薪で飯盒に各自一日分の米を炊き、おかずは鰹の缶詰がお決まり。でも良く食べた。
 五日目。直登三時間で、塩見岳の頂上に到着した。だれもいない岩の上でケルンを独占、一時間の展望を満喫した。去り難い気持ちで歩くうち、横須賀のグループに追いつかれた。三伏峠からは一緒に下った。彼らは鹿塩温泉に泊まるというが、おれたちに温泉はいらないと強がりいって彼らと別れ、塩川の轟音を聞きながらシュラフにくるまり夢路についた。
 六日目の朝は、残りの食料で豪勢な朝食。鹿塩温泉を左に睨んで通過し、そのまま伊奈谷へ下った。折り返しのバス停までたどりついたら、山中夢に見通しの、ラーメンが食える雑貨屋が待っていた。早速頼んだところ、なんとバスが来てしまった。店のおばさんは、
「待たせておくからゆっくり食べなさい」
と、はるばる川越からきた高校生には親切だった。バスを乗り継ぎ、伊那大島駅から豊橋に出て、憧れの東海道線に乗車した。黒ズボン、ワイシャツ、白線の学帽を被り修学旅行と服装は変わらないが、着たきりすずめの汗臭い高校生だ、乗客は迷惑したことだろう。深夜七日ぶりに川越に帰着した。
 翌日登校したら様子がおかしい。部活ではないので無届けであったが、顧問の先生にはひどく気に障ったようで、その後気まずい思いをしてしまった。どこかの高校山岳部が遭難した新聞記事が、廊下に張り出されていた。やはり迷惑な行為であったのだろう。
 あの頃は何でも自分達が独自に計画を立て、山を歩くことが良いことだと思いつめていた。従って自由山行が多く、せっかく多くの先輩や友人たちに出会いながら、その縁を生かし切れていなかったことは、今になって残念でならない。
 仲間の川上康夫君はその後県職員だった頃も、一人北アルプスに単独行を続けていた。今になってバックパッカーの世界一人旅を繰り返しているのも、あの頃の志向が今も続いているような気がする。


記録 山行(南ア北部)
 視界はなくなってきた。山道をとぼとぼと行く。トップとラストがだんだんと離れていく。体の疲労も増してくる。道も急になった。トップはもう完全に見えない。小さい荷物の何名かが、俺たちに追いついてくる。その人々が羨ましい。歩け歩けと、励ましあった。
 十一時過ぎ、道端の大木の幹に「水場近し」の道標を見つけた。「水」と聞くと元気が出る。少し行くとあった。水は十分に流れている。大休止をした。お茶を沸かして昼飯にした。飯はうまい。しかし視界はない。
 出発すると、体の調子が悪くなってきた。眠さを催し足元はふらふらする。休んでいると下ってきた人が「高山病じゃないか」と注意してくれた。しかし下山するにも時間がかかるし、荷物を減らして登行を続けた。予定を変更して五合目小屋に泊まることにした。
 黒戸山の山腹を巻いて、赤土の道を下る。少し行くと小屋が見えた。上の小屋は込んでいるから、下の小屋に泊まることになった。
 翌日は三時に起床。飯は昨日焚いてあって、味噌汁を作り缶詰を開けて朝食にした。出発は五時を少し過ぎていた。小屋からはすぐに梯子になり、七合目小屋まではクサリと梯子の連続だった。昨夜の七合小屋は満員であったらしい。今日は天気がいい。七合からは北アルプス、八ヶ岳、秩父の連山が、雲に浮いていた。雲海が美しい。写真を撮りすぐに出発。
 登りはいよいよ険しくなった。日はぐんぐんと照り始めた。水筒に入れた水はもう残り少なくなっていた。八合目の鳥居の辺りで、朝早く登った人たちが下山してくる。「頂上はすぐそこだ」という。クサリを登ると頂上である。砂と岩だけで草木は一本もない。ゆえに日陰もない。水筒の水はとっくになく、密柑の缶詰一つを八人で食べた。あんまり食欲はない。
 頂上を去って、落石の多い砂の道は通れそうもなくて巻いて、刀の刃のような道をいく。前方の六方石に大勢の人が集まっていたのだが、そこには雪の氷があるとのことだった。E君が氷のかけらをほうばっていたが、あまりうまくはなかった。登行を繰り返して駒津峰にきた。そこから仙水峠へ下る。途中は膝が笑い出すほどの下りだった。峠から十分下ってようやく谷川の水にありつけた。冷たくまったくうまい水だった。さらに下って県営の北沢小屋に泊まる。混雑していてやっとのことで土間に入れてもらった。
 三日目、先生と僕は、戸台口へ下山する。他の六名は仙丈岳に登る。七時に出発して六時間歩き続けて、バスに乗った。東京に着いたのは午後八時。但し他の六名も、強風のために登行できなかったということである。(櫛笥亮介)

 仙丈小屋付近
 ルートの選択は微妙でした。山行の予定が少しずつ遅れていて、北沢峠からそのまま両俣に下っていれば、北岳に登れたのかも知れません。しかし出発の日にはよい天気とは思えない雲行きで、今日は疲れ休めということで仙丈小屋まで登るだけにすると決めました。戸台に下る先生と別れ、二年六名は仙丈岳へ向かいました。
 馬ノ背辺りで視界はゼロ。ガスがかなり厚くなってきました。向こうから降りてくる人に「小屋はすぐですか」と聞くと「ああ、すぐだ」とすぐに小屋の屋根が見える場所でした。午前九時に到着。
 中は真っ暗でランタンの下で客が荷物の整理をしていました。天井に大きな丸太が渡してあって、立ち上がれない小屋はすごく息苦しい感じです。雨が上がって少し視界も利くようになりましたが、頂上はまったくどこだか分かりません。雪渓が少し見えるだけ。小屋の客が下山した後、私たちも小屋に入って寝てしまいました。
 疲れた体を横にすることくらい気持ちのいいことはありません。土間で焚き火をしていた他の客もいて、目を開けると人の顔がやたらと赤い。
 翌朝、やはり天気は悪い。今日は何も見えない。それでも頂上までは行こうと、地を這うような霧と、叩きつける雨のなかを、十五分ばかりで頂上に出た。何も見えない。立っているだけでもふらふらするほどの強風。下りでたった一人で北沢峠から登ってきた人がいて、これから両俣へ行くという。僕らは何か心の中にあるものに触れたみたいで「気をつけて」という言葉の中には、複雑な気持ちがあった。
 小屋に戻ると何もすることがなく、最大の楽しみの汁粉を作ろうということになった。そして明日の朝飯も作ろうということになった。今日は僕ら六人と、某高校の三名と、地元の高校で気象観測をやっている数人だけである。夕方高校生同士で雑談になった。先生の授業の物まねをする者がいて、笑い出した。
 焚き火がなくなると交替で取りに出かけた。僕は鉈を引っさげて外にでた。少し登ると、よく整っていない這松がある。手ごろなのを見つけて鉈で叩き切る。植物といえば、この這松と高山植物だけ。寄りかかっても倒れないほどの這松の中に入った。そして適当に集まった焚き火を抱えて小屋に戻る。中では相変わらす雑談が続いていた。待ち遠しかった小豆は、半煮えのままコリコリ食べた。観測している人の話では、夏でも最大風速三十mになったそうだ。僕は何か大きな不安に襲われた。標高三〇〇〇mの山奥で学生ばかり。何だか恐怖の気持ちから抜け出るために、眠ってしまったようなものだった。
 翌日も天気は思わしくない。どうしてこんなにも不運なのだろう。風は弱まって梅雨のようにしとしと降る雨。僕らは先に進めない残念さよりも、家に帰れる嬉しさを持って、この思い出の二日間過ごした無人小屋に別れを告げなければならなかった。(大木達夫)

一九五五年(昭和30年)

夏山合宿 奥秩父縦走・雲取山〜金峰山 八月二十一日〜二十六日 参加八人

二年部員 小久保哲夫 米山知行 岩崎清彦 島田良治 友常峰雄 吉沢勇 

 

青春時代の山登り 昭和二十九年から三十五年頃まで 岩崎清彦(一九五七年卒)

○プロローグ
 子供時代の大半を過ごした埼玉県北部にある行田は山とは縁のない土地であった。小学校の映画会で見た北アルプスや奥秩父登山の記録映画や、山並みが望める赤城、榛名に日光連山や秩父の峰々を遠くに眺めながら、山への憧憬を深くしていったように思う。平野の真っただ中に住んでいたせいか、ちょっとした坂道ひとつにもいいなあという感動を覚えたものだ。また中学時代にはエヴェレストの初登頂が英国隊によってなされたこともあり、登山に関する本を読み漁ったりしていた。その当時に読んだ山の遭難記を書いた本の中で大正時代に川越中学の生徒による武甲山での墜落死があったことを知ったのもこの頃であった。登山は危ないものだとの先入観も得ていたように思う。

○山岳部へ入部(昭和二十九年四月)
 昭和二十九年、川越高校に入ると直ぐに先輩による強引な部員勧誘の洗礼受ける。運動部に入らなければならないのなら山岳部と決めていたがその前に他の部に無理やり入らされそうな雰囲気であった。入部が決まると山岳部の放課後の部活はランニングや兎跳び(まったく昔はこの他にもバテるからと行動中はなるべく水を飲ませないようなことなど今考えると無知なことがまかり通っていたものだ)と喜多院東照宮階段で人を負ぶっての上り下りやら空堀の斜面の駆け上りだったようだが、そのうちにあまりやらなくなったように記憶している。
 歓迎登山は両神だった。入部したての一年部員が「明日、雨でも行くのでしょうか?」というようなことを訊いたら、先輩から「ばかやろう! 幼稚園の遠足じゃーねえんだ」といわれ、雨が降ろうが雪が降ろうが天候に関係なく出かけるのが山岳部かと、そのとき得心した覚えがある。入部はしたものの山の道具といったものは何も無い。親から唯一買ってもらったのはキスリング型のザックのみであった。これも当時の値段は相当したようでわざわざ東京の運動具店まで買いに行った。

○初めての夏の奥秩父縦走(昭和二十九年八月十二日〜十六日、同行者;和田、新井(三年)水村(二年)小久保、島田、田村、吉沢、田中、吉川、高野、岩崎(一年)、岩上先生、駒井、松岡OB、初日だけと記録にある)
 初めての本格的な登山はこの山行だった。当時は夏の奥秩父縦走が恒例だったようで、二年次の時も同じコースで行っている。最初の日だけ先生とOBが加わり一列縦隊になって後方から叱咤されながらの登山は想像以上に過酷ですっかりバテでしまい、このまま一週間の縦走に耐えられるのかと大いに危惧した初日であった。その日は雲取小屋付近で幕営。食事は伝統的に一年生が担がされてきたザックが隠れるほどの大鍋で作ったカレーだったように記憶している。翌朝、眠い中をたたき起こされテントを撤収、味噌汁に焼いた棒鱈をおのおのに回して急いで朝食を済ませ、夜明け前に雲取山頂を目指すが日の出を見ることは叶わなかった。
 ここでOBと岩上先生が別れて三条の湯へと下山していった。この日は笠取小屋までで、OBが居なくなると全員急に気持ちが楽になり、景色を見る余裕も出て山歩きも少し楽しめるようになってきた。
 次の日の朝は雁坂峠で日の出を迎えたが、このときの光景が忘れられない。見晴らしの良い峠の埼玉県側は未だ暗く静寂だったが、谷筋へ朝の光が差し込んだ瞬間、それまで何事も無かった山々から一斉に鳥が鳴き始め大合唱となったのには大いに感動した。その後このような経験は無いので今でも鮮明にそのときの情景が思い出される。その日は途中で夕立に伴う雷に遭遇するアクシデントもあり甲武信小屋で幕営となったが、このままだと予定を二日ほど遅れて下山することになるらしい。どうしても予定通りに帰らなければならない事情があった自分にとっては重大事と思ったのか予定日に帰れるようにと一行から別れて独りで十文字峠を経て栃本へ降りることを願い出た。ちょうど翌日同じコースで下山する大滝村の先生一行と一緒に行くことでリーダーの許可をもらい、翌朝みんなと別れて下山。
 途中、新しく発見されたという鍾乳洞の開口部や当時の十文字小屋の主が深く底知れない鍾乳洞で凄い発見だと調査した大学の先生が言っていたとのことだったが、その後どうなったのか公開されたという話は聞かない。白泰山の岩場でロープに身を託して岩茸を取るところを見せてもらったりしてその日の内に上中尾の部落までたどり着いた。皆は甲武信を発って国師から金峰、信州峠へと向かい予定通りに下山したと聞いている。

○その後の山行
 その後サークルでの山行にはあまり参加することが少なくなっていった。当時話題になったサークルでのしごきで命を落とす事件もあり、また十一月の富士における雪中訓練では大勢のパーティが雪崩に遭遇し亡くなったのを目のあたりにした。いくら自分で注意し危ないと思っても団体で行動するとなれば避けがたい。それにせいぜい二つ三つの年長で経験もそれほど深いとは思えない先輩について行動することに危なっかしさを感じていたので、ほとんど気心の合った友人か単独で出かけることが多くなった。

○装備のことなど
 今の時代では想像することもできないかも知れないが当初の個人装備はというと服装は綿のシャツと親父の古くなった背広のズボン、ついでに三つ揃えのチョッキが重宝した。寝袋は無く毛布を封筒状に縫って持っていったし、靴はバスケットシューズで、旧日本軍の軍靴を履いて来る者は上々の部類だった。飯盒や乗馬ズボン、軍足(軍隊靴下のこと、これに米を詰めると枕にもなり何かと便利だった)等、軍隊で使われたものが多く利用された。ヤッケを着て来る者もそろそろ見かけたが出始めたビニール? の合羽は必需品だったように思う。また軍隊で使った雑嚢をサブザックに改造して使ってもみたが落下傘を背負っているみたいだとからかわれ止めてしまった。
 当時まず一番欲しいものは山靴だった。昭和三十一年頃にアルバイトで貯めた金で秋葉原の日本用品という店だったかで中古品の登山靴を購入した。いわゆるナーゲルといわれた鋲靴である。これを履いて駅のプラットホームなどをチャッチャッと鋲の音を鳴らして歩くと、ちょっとした優越感に近い気分に浸れたものだ。その後に出てきたビムラム底のものは音がしない分、なんだか空疎な感じがして物足りなかったが、性能的には特に雪山では、靴底に雪が付いて固まり直ぐにごろごろして歩けなくなるので、絶えずピッケルで叩き落とさねばならないナーゲルに比べて実に有効であった。耐寒性も鋲を通して来る寒気が伝わらないし、鋲一本で岩場にスタンスを確保するなどといわれていたナーゲルもそのうちに廃れてしまった。
 私のナーゲルの最後は悲惨だった。入山中に寿命が尽きたのかトリコニーが付いたままの革底が部分ごとにちぎれてしまい残念ながら中途で下山せざるをえなかった(昭和三十五年七月の北アルプス裏銀座コース縦走の川越高校山岳部パーティにOBとして同行した時の涸沢定着での出来事だった)。
また寝袋(朝鮮動乱で戦死した兵士をこれに入れて本国へ送ったやつの放出品だとの噂もあった)も欲しいもののひとつだったがお金の無い頃なので苦心談がある。高校時代に初めて冬の雲取へ単独行する時にこれまでの筒状の毛布だけでは心もとないので、家にあった未使用のセメント袋に注目した。昔から紙の断熱性はよいと聞いているのでこれを何枚か糊でつなぎ合わせて大きな封筒状にし、これに毛布を入れて持って行くと多少かさばるが軽い。雲取小屋の鎌仙人といわれた口うるさい小屋番からは大いに感心された。しかしこれで寝てみると保温性は確かに良いが少し身体を動かすだけでガサガサと音がし、中に入っていてはかなりうるさくて失敗だった。周りも迷惑したかもしれないがその後これでビバークをした時には有効だった。
 この頃はお金のある人はいざ知らず米軍放出品を山道具に転用したものを持つのが一般的であったようで一部ではこれを秋葉原スタイルと揶揄していたそうだ。ピッケルは国産でも札幌の門田、仙台の山之内などが優秀で何とか欲しいものだと思っていたが当時は手が届かず今でも残念に思う。

○山での食料
 現在のようなレトルト食品の氾濫からは想像もつかないくらいこの頃の山へ持って行く食品には苦労した。米は持参で軍足に小分けして持っていったが今のように無洗米はないし糠が多く研ぎ方がいいかげんなので冷や飯になると独特の臭いがしたし、飯盒炊飯は高所では芯のある飯しか食べられない。隣の大学のパ−ティが圧力釜で炊くのを羨ましく思ったことだ。また飯の炊き方のまずさには閉口した。水加減がいいかげんだからうまく炊けるはずもない。山ではだいたい粗食なのだからせめて飯くらいは美味いのを食べようと、米の量と水の量の割合を調べておき、何合だろうとどこでも失敗なく炊けるようになった。おかげで後に大学の山岳会に入った時、今年の新人は飯炊きが上手いと褒められたものだ。
 そんなわけである山行では食料係として素麺を持って行き雪渓の冷たい水に冷やして食べさせたときはみんなから感謝された。缶詰はあったが重いし高いからおのずと制限して持って行った。またカルピスを持っていったこともある。わたなべのジュースの素や即席ラーメンはまだ少し後の話だがこれが出たときは早速とびついて持って行ったものだ。われわれ以前の世代はそれこそ配給の食糧から乾燥芋やらするめに棒鱈などを日ごろから蓄えて山に持っていったと先輩から聞いている。
 山での食事では初めての奥秩父縦走で食料が不足気味になり全員の飯盒飯の食べ残りを出させ、コッヘルに盛って全員で均等に分けて他人のたべかけを一緒にして食べさせられたのには閉口した。

○山での人情
 当時は山村の人情も特に厚く、山行途中で何度か人々の情けを受けた想い出がある。前述の初めての奥秩父縦走で甲武信から十文字峠を経て栃本へ下ったとき、帰りのバスも無くなり、麓の小学校の分教場へ泊めてもらった。最初は教室に蒲団を敷いてくれたが、夜になるとなんだか不気味だ。用務員さんが気を回してよかったら一緒の蚊帳にどうぞと言ってくれ、言葉に甘えて家族とご一緒させてもらった。
 また十二月の奥武蔵ではうっかり道を間違え名栗の方へ降りてしまった。冬至に近い日なので暗くなるのも早い。間違いに気づき途中の農家にたずねると親切にも吾野へ抜ける間道へ夜なのにわざわざ道案内をしてくれたことや、谷川岳の帰路に雨でずぶ濡れになり谷川温泉の共同風呂に浸かっていたら一緒に入っていた人が濡れた服を家で乾かせという。言われるとおり伺うと炬燵に入れてくれて山菜などをふるまってくれた。
 また春先に常念岳から燕岳へ単独で行った際は予定の山小屋まで行けずに途中の森林を伐採する人たちの飯場があったので頼んで泊めてもらったこと、など今では考えられないくらいの親切さにあふれていた。

○山での悲劇
 初めて山の遭難の捜索に参加したのは大学のスキー合宿のときであった。千葉大生が女性を三人ほど連れて冬の谷川岳から土樽へ下山する際にザイルで繋がったまま沢に転落しての全員死亡だった。山の経験者ということで土樽の山小屋の人たちと一緒に捜索に向かい発見、収容したが途中まで迎えに来た家族の嘆きを身近に聞いて身につまされたことを鮮明に覚えている。遺体をスノーボートに乗せて降ろす際、岩に当たって怪我しないようにと顔の周りにクッションを置く気遣いをする母親、父親の嘆き、まったく沈痛な思いでいたたまれないが地元の人は慣れたものだ。こちらは初めての経験なので決して山で死んではならないと心に誓った。
 その後、北アルプスなどでも何回か遺体収容に出くわしたがその都度軽はずみな行動を慎むように肝に命じていた。十一月の槍ヶ岳単独行の時でも頂上直下十メートルで強風のため登頂を断念した事や、同じ十一月の富士でせっかく買った八本爪のアイゼンとピッケルがあるものの尾根筋に上がったとたんの強風に恐れて退却したことなど今でもよい判断だと思っているが、単独行だから出来たのかも知れない。グループだと誰かが強く行くことを主張するとなかなか退却するのは難しくなるから。

○おわりに
 山に行きはじめてからもう五十年以上がたってしまった。途中年間で一度も山らしい山へ行かなかったこともあるが、細々と続けられたのも山歩きがもともと好きだったからにほかならない。一時は単独行を好みもっぱら独りで出かけることが多かったが、この歳になると家内からも独りで行くことだけはやめてと云われるし自分でも不安になる。
 OB会が発足したおかげで一緒に行く仲間もできてまた時々の山行を楽しめるのは嬉しいことだ。最近の山の道具、衣類、携行食料などの発達や自家用車で行く登山で里道を延々と歩くことも少なくなり昔に比べ登山の形態がだいぶ変わり、歳をとっても比較的楽に登れることが多くなった。これからも体力が続く限り山登りは続けたいと思う。今回、昔を振り返ってみて経験したことなどを書き留めて、まとめることの意義は大きいと思う。我々が明治、大正時代や戦前の話を親から聞かされたように後世の人が我々世代の登山をどう感じるか興味あるところです。



一九五六年(昭和三十一年)

夏山合宿 奥秩父・雲取山〜金峰山
八ヶ岳 稲子湯〜小淵沢 九月二十八日〜三十日 参加八人
送別登山 武甲山〜伊豆ヶ岳 十一月

二年部員 三ツ木政雄 福田昭男 持木英一 木村良次 仲博之 小林信行 新井昭次 山口達夫 矢沢敬三 戸田成史 山崎有康
顧問 石川正明 内田正一

 三年を追い出す送別山行(武甲山〜伊豆ヶ岳)は、この頃恒例となっていた。土曜午後に学校を出発して、東上線寄居で秩父鉄道に乗り換えて現地着(西武線は吾野までしか通じていなかった)。夕方から武甲山に登り、頂上の社務所で一泊。翌日は伊豆ヶ岳まで縦走して、小屋の有名な婆さんに世話になって下山するというコースが定番だった。しかしこの年には肝心の三年が誰も参加せず、慣例となっていた送別山行は、この年が最後になったかも知れない。最も三年は夏山合宿に参加することも稀で、一年の面倒は二年がみるというようになっていて、一年のときに、三年と一緒に登山をした記憶はほとんどない。(関口)


夏山合宿・奥秩父縦走 国師岳山頂 1956・7・26
(後列左から)斎藤先生・三ツ木・新井
(前列左から)関口・高橋・矢沢・仲・神崎・山口 (関口提供)


半世紀振りに妻と登った武甲山   木村良次(一九五八年卒)

「ふるさとの山に向かいて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
 と、石川啄木が詠んでいるように、狭山市入間川に生まれ育った私にとって、富士見橋から見た富士山はもとより、奥多摩、奥武蔵、秩父の山々の眺めはありがたい人生の原風景です。
 昭和三十年に川越高校に入り山岳部に入部して半年後、送別登山の意を込めた先輩との合同登山が秩父の盟主として君臨している武甲山でした。いつまでも忘れられない山の思い出の一つですが、早くも半世紀たち「歳月流るる如し」と感じております。
 在学中に登った山は全部思い出せませんが、天城山、八ヶ岳、木曽駒ケ岳、磐梯山、丹沢山、燧ケ岳、雲取山などと数えると、十指に余りあると思います。その後大学時代に、友人と北海道利尻岳、北鎮岳、昭和新山から八甲田山、谷川岳、赤城山、榛名山、妙義山、浅間山、槍ヶ岳、奥穂高岳、阿蘇中岳などもっぱら夏休みを利用して登りました。
 社会人となってからは、パーティを組んで登った経験はありませんが、十年目の三十三歳のときに、米国西部に駐在事務所を開設して家族を呼び寄せ、休暇を利用してヨセミテやグランドキャニオンなどの国立公園に出掛け、その壮大さに驚きました。
 帰国後、末っ子が小学校に入学したときの夏休みに、家族六人で富士山に登りましたが、下山の途中で御殿場の自衛隊が訓練で登ってきた一行に会い、リーダーから、
「坊や強いな、皆も頑張れ」
 と部下に発破を掛けていたのが今でも印象に残っています。
 五十歳を過ぎた頃にOB会に誘われ、先輩後輩と一緒に、春秋の山行に参加しておりますが、昨年の秋の山行を前に半世紀振りに妻を誘って武甲山に登ってみました。
 十月二十日の朝、飯能の自宅から車で横瀬町生川の表参道入口に向かいました。正丸峠のトンネルを抜けて芦ヶ久保の道の駅を過ぎると、左手に武甲山が迫るように姿を見せますが、石灰岩の採掘で横縞模様の山肌は異様で不気味さを感じます。その山容の変貌振りは遠くからでも観察できますが、北側の斜面が大きく削られ、長年親しんだ丸い兜の形から尖がり帽子のような形になってしまい、一抹の空しさを覚えます。
 セメント工場の見える生川の交差点を左折してしばらく行くと、両側に石灰工場が軒を連ね、構内に迷い込んだようで昔の風景は一変しています。程なく川沿いに緩やかに登る道に入り、道端にある名水は帰りに飲むことにして、参道の入口に着きました。一丁目の丁目石のある鳥居をくぐり駐車場に車を置き、五十年振りに訪ねた感慨と仰ぎ見る小持山の稜線の上空が晴れているので安心し、頂上まで二時間の予定で登り始めました。平日のためか人影もなく、木漏れ日に秋の風情を感じながらスタートしました。
 釣堀や養魚場を過ぎて、登山届けを記入して、勾配の急なコンクリートの林道を登っていきます。十五丁目で北側の山道に入り本格的な登りでした。さらに十八丁目で右に折れ御嶽神社の石柱を過ぎ、まだ三分の一を過ぎたばかりなのに早くも息切れを感じ「六根清浄」と心で唱えながら、二十五丁目で休憩。どっと腰を降ろし深呼吸しながら、後半分だから頑張ろうと互いに励ましあいました。
 南向きの山腹は植林され鬱蒼としていますが、心地よい冷気の中で森林浴をしている気分は別格で、間もなく尾根の背に沿って登り、三十五丁目の大杉の広場に着きました。三本目の大杉は見事でしたが、近くに落雷で痛々しく裂けた大木が倒れていて、自然の猛威の恐ろしさを改めて感じました。あと三分の一で頂上だと話していると、その日初めての人影が近づいてくるのに気付き、挨拶すると若い女性の単独登山者でした。都内から電車で来て、横瀬駅から一路歩き続けてきたと聞き、高校のときを思い出しました。当時はお花畑駅から根古屋の参道入口に入り、鎖場もある道から頂上を目指しました。
 若い女性は高級カメラを手に秋の草花を撮りながら歩を進め、頂上を極めた後は浦山口駅に向かって下山の予定とのことで、軽快な足取りで先を急いで行きました。四十二丁目で参道は分岐していて、新たに作られた木段を最後の力で踏ん張りながら登ると、先行した妻が小持山方面との十字路に立ち、もう一息で頂上よと声を掛けてきました。その十字路で左へ下山していく私たちと同年代の夫婦を見かけたのは、その日出会った三人目でした。程なく懐かしい御嶽神社の一画につき、半世紀振りに参拝しました。
 思えばあの時も秋の中頃で日が暮れるのも早く、一三三六mの頂上から見下ろす秩父盆地は灯が一面に広がり、その素晴らしさに感動しました。炉のある小屋にひとまず落ち着くと、間もなく二年の小久保さんから、
「三年の岩堀さんらが後から合流する前に、火を焚いて夕食の準備にかかれ」
 との指示を受けました。一年の私たちは薪を集め、付近の水場まで水汲みに行き、一汗かきました。当時の小屋は形を変え、風除けの板壁とベンチだけになっていましたが、水場は昔のままで、トイレは綺麗な水洗式に整備されていました。
 社殿も立派な姿に建て替えられていて、地元の銘酒「武甲正宗」が一本軒下に供えられています。神社の左手から第一展望台に行くと、石灰岩の採掘で露出した広大なテラスの先に秩父盆地を見下ろす光景は、今昔の感があります。一三三六mの石柱はそのままですが、最近の測量では一三〇四mと改められています。昼食後は日の暮れないうちに帰宅しようと駆け足で降りて、来るときに見かけた名水の「延命水」はペットボトルに入れました。
 啄木の故郷の山の歌は、他にも、
「汽車の窓はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも」
 などがあります。武甲山こそ私のふるさとの山だとの思いで登り、
「秋晴れに妻を誘いてふるさとの山に登りて頂上極め」
 ました。



一九五七(昭和三十二)年

春山合宿 安達太良山
夏山合宿 中央アルプス
夏山合宿NO2 剣岳 美女平〜別山乗越〜剣岳(往復) 七月二十二日〜二十七日 参加九人
秋山山行 両神山
 
 夏合宿の中央アルプスは、顧問・岡田先生の出身地(伊那)に近いという理由で、山行が組まれた。
 また秋山山行の両神山は連休中にぶつかり、清滝小屋が超満員となり足の踏み場もなく大勢の人が土間にまで寝ていた。また岡田先生の関係で前日、学校の教室で雑魚寝をした記憶があります。(大橋)


二年部員 井上雅弘 山戸衛 関口洋介 国田順也 高橋純一 繁田昌利 岩沢龍男 清水正己 千野利一 神崎俊宏 栗原功 吉原哲夫 
顧問 石川正明 内田正一 岡田潔




春の安達太良山 夏の中央アルプス  関口洋介(一九五九・昭和三十四年卒)


一、入部の勧誘
昭和三十一年四月、川越高校入学直後の私は、将来への期待と不安が入り混じった心境でした。昼休みには毎日のように上級生が教室を封鎖し、各クラブの勧誘を行いました。特に運動部の先輩たちの脅しとも思える勧誘には、恐怖さえ覚えました。事実一年生にバケツを持たせ、傷害を与えたとして新聞沙汰にもなりました。
 こんなとき勧誘に見えられた三年生の小久保哲夫先輩に出会ったのは幸いでした。当時山岳部のキャプテンをしていた彼は、かなり大人に見えたものでした。
「今までどんな山に登った?」
 と聞かれ、
「去年、中学校の行事で雲取山に登りました」
 と答えました。
「すごいなあ、それなら大丈夫だ」
 と言われたので、即入部の意志を伝えました。実は他のクラブから毎日のように、
「入れ、入れ」
 と言われていて、
「山岳部に入りました」
 といえば、逃れられるとの打算もありました。
 この年、夏の合宿は三年生だけで北アルプスに出かけてしまい、頼みの小久保先輩とはその後一度も山行を共にすることはなく、今でも残念に思っています。小久保先輩に再びお会いしたのはそれから四十年後のOB会山行のときで、彼は当時のことを覚えていてくれ、とても嬉しく懐かしい思いがしたものです。
 
二、夏山合宿(歓迎山行)
 入部の年の夏合宿を兼ねた新入生歓迎山行は、奥秩父全山縦走に決まりました。引率はロクさんこと内田一正先生と、石川正明先生。二年生は三ツ木政雄、山口達夫、仲博之、木村良次、矢沢敬三各先輩。我々一年生は高橋純一、神崎俊宏、吉原哲夫各君と私。それに同年二学期から都立石神井高校へ転向した浅野忠太君が参加しました。その浅野君は体調を崩し、三峰神社を少し過ぎた辺りでリタイアし、帰宅しました。その後三ツ木先輩の、
「一年生は帰すなよ!」
 の掛け声は耳に残りました。
雲取、笠取を経て甲武信岳に至り、小屋のすぐ近くに天幕を張りました。甲武信岳の水場は小屋から九十九折に百m程下ったところにあり、布製のバケツに水を汲んで登るのですが、途中重みで手が千切れてしまいそうでした。大弛では昼食の後、疲れてぐっすり寝込んでしまいました。目を覚ますと石川先生から、
「寝顔が可愛かったよ」
 と言われ、少々恥ずかしかったのを覚えています。
 金峰山を下った増富では小学校の分教場を借りて泊まりました。夜近くのラジウム鉱泉へもらい湯にいったのも懐かしい思い出です。

三、送別登山
 送別登山とは三年生を送る登山で、武甲山から大持山、武川岳、伊豆ヶ岳を辿るコースで行われました。しかし送別登山とは名ばかりで、三年生が一人も参加しない登山でもありました。十一月の祝日、前日武甲山頂で一泊し、伊豆ヶ岳へ向かうものでした。
 授業終了後、川越市駅から寄居乗換えで、秩父鉄道のお花畑で下車。徒歩で武甲山頂を目指しました。武甲山は送別登山以外でも部活動で登る機会が多く、いわゆる大宮口と言われる裏参道を登り、西尾根から頂上に至るルートが多く使われました。しかし時々は、途中の丸山からウノ岩尾根コースを辿ることもありました。このコースは岩稜で、多少の危険はありましたが、展望はよく風に乗って遥か下から運動会のアナウンスが聞こえてきたこともありました。武甲山頂には御嶽神社が鎮座し、社殿脇には小さな小屋がありました。焚き火を囲みながら先輩の命令でウィスキーのポケットビンが回し飲みされ、三ツ木、山口、仲、木村、青木、肥沼先輩等を経て、いよいよ一年生にも回ってきました。三ツ木さんは、
「ダメダメ、飲まなくちゃダメだ」
 と煽ります。宴も終わり就寝のため社殿に歩きかけたのですが、腰が抜けて歩けなかったのを覚えています。十六歳の私にはかなり堪えました。その山頂もやがて石灰採掘のため切り崩され、社殿も新築移転されて今は面影もありません。
 翌日は一度シラジクボへ下り、子持山、大持山、妻坂峠、武川岳、山伏峠を経て正午には伊豆ヶ岳に至りました。山頂には茶店があり、婆さんが店を切り盛りしており、三ツ木先輩から、
「可児一男先輩の祖母さんだ」
 と教えられました。つい最近までそれを信じていたのですが、可児先輩は否定しています。
 伊豆ヶ岳では、毎回訪れるたびに部員は水汲みを手伝うのが慣例でした。水汲みのご褒美としてか、お茶と菓子を頂き、その美味しかったことが今でも思い出されます。この伊豆ヶ岳のお婆さんについては後述します。
 さて当時の西武鉄道は吾野駅が終点で、我々は正丸峠まで歩き、さらにバスに乗って吾野駅に向かいました。

四、春山合宿、安達太良山
 石川先生の故郷は福島県二本松市で、その友人が「くろがね小屋」の管理人であったことから、昭和三十二年三月の春山合宿は、安達太良山に決まりました。参加メンバーは、四月から三年に進級する三ツ木、仲、山口さん達と、二年になる高橋、山戸、神崎君等、私を含めての二学年だけでした。
 岳温泉から木製の湯管に沿った道をスキーを担いだりしながら登るのですが、積雪が数mもある雪道を歩くのはかなり骨が折れました。目標のくろがね小屋は、二階建ての小さな小屋で、積雪期は二階の玄関から出入りしました。無人の冬の山小屋は、戸の隙間から吹雪いた雪が入り込み、山のように積もっていました。小屋には手回しの電話機があり、何回廻したかで何処が受話器を取るかが決められているようでした。


安達太良山・鉄山に挑む 1957・3・30

 二日目は勢至(せし)平を経て皆は安達太良山頂を目指しましたが、私は体調不良のため留守番となりました。
 晴天の三日目は雪の急斜面を鉄山に向かいました。鉄山の岩壁は強風によると見られるエビのシッポ状の氷雪が張り付き、彼方には磐梯山が望まれて実に美しい光景でした。
 四日目には岳温泉に下り、小学校を借りて合宿となりました。夕食の席で某先輩はコンロに石油を入れようとして、誤って周囲に石油をばら撒いてしまいました。そのため我々は石油臭い飯を食べるはめになってしまい、今でもその味を思い出すだけでぞっとします。

五、夏山合宿、中央アルプス縦走
 昭和三十二年七月の夏山合宿には、三年生の三ツ木、木村先輩と、二年生の高橋、神崎、私と、一年生の大橋朋伊、金井毅夫、清水文昭、仲功、長沼友兄、沢田英敏君等が参加されたように覚えています。引率はこの年新たに赴任された岡田潔先生と、石川正明先生の二人でした。


夏山合宿・中央アルプス・千畳敷 1957・8・4
(後列左から)金井・清水・関口・和田
(前列左から)高橋・岡田先生・木村 (撮影は石川先生)


 国鉄飯田線を赤穂(現・駒ヶ根)駅で下車、徒歩で登山口へ向かう途中の砂利道は、今のロープウェーまでのバス道路で、道の脇に天幕を張り泊まりました。さらに登山道を一日掛け千畳敷に着きました。辺り一面手付かずのお花畑で、その中の花を踏みにじるがごとく、天幕を張りました。一大観光地と化した今ではとても考えられないことです。天幕はこの年部費で新たに購入したテトロン製の新品で、以前のものに比べてとても軽いものでした。
 翌日には中岳を経て中央アルプス・木曽山脈の最高峰の木曽駒ケ岳まで歩きました。山頂の石の祠前では白装束行者姿の人々が一心に経を挙げていて、その姿を写真に収めようとしたら木村良次先輩に、
「やめとけ、やめとけ」
 と言われ、写すのを辞めた記憶があります。
 その後千畳敷に戻って一泊。翌々日は空木岳を目指し出発。空木岳から鞍部の木曽殿越の粗末な避難小屋(現・木曽殿山荘)に戻り一泊し、木曽側の上松へ下山しました。
 ちなみにこの我々の中央アルプス縦走と相前後して、後から入部した井上雅弘、山戸衛君等は、二学年上の岩崎清彦先輩と剣岳方面に行かれています。

六、伊豆ヶ岳の婆さん後日談
 当時からすでに岳人の間では有名な婆さんとして知られていた方で、一般には「島田婆(ばあ)」と呼ばれていたらしいのです。仕事の合間にはキセルで煙草を蒸かし、気丈は明確でハイヒールなどの軽装で登ってくる客や山のモラルを守らない者を、遠慮なく叱り飛ばしていたそうです。
 私自身、最近まで可児一男先輩の伯母と信じて疑わなかったのですが、かつて近くの小高山で茶店を営んでいた鈴木はつ乃さんにお会いして、親交のあった島田婆の消息を知ることができました。それによると、彼女は本名を塚本勝子といい、茨城県石岡の生まれで、九歳までは歩くこともままならなかったと言います。十一歳から歩けるようになり、上京後夫君の島田さんと知り合い、戦時中に結婚。島田さんは再婚で亡くなった先妻との間に五人の子供がいたそうです。その後、舅から伊豆ヶ岳の茶店を任され、毎日麓の自宅から徒歩で山頂を往復。多忙なときには正丸峠ガーデンハウスに泊まり、愛犬を連れて登ったといいます。この頃すでに彼女は日本山岳会会員であったとか。
 今から三十五年ほど前に彼女が六十五歳で亡くなった後は、夫の島田さんが他人を雇って茶店を続けていましたが、二十五年ほど前に店を閉め、建物はすべて解体したといいます。現在吾野地区には、島田婆の縁者も住まいもありません。蕨市の「こぐま山岳会」が伊豆ヶ岳山頂の茶店跡に、彼女を顕彰したレリーフを建てています。今思えば、私たちが当時会っていたのは五十歳前後の彼女ではなかったかと思われます。
 その昔伊豆ヶ岳で背負子にくくり付けられた半円形のブリキ製の一斗缶を背負い、水場と山頂を往復した記憶を持つ方も多いかと思います。重い上にジャブジャブと音を立て、左右に重心が取られ歩行もままならなかった記憶は、今も脳裏に焼きついています。

七、卒業後と人生
 早いもので卒後五十年近くの歳月が流れようとしています。中でも残念であったのは、小学校以来の同級生で、高校でも同じ山岳部で過ごした高橋純一君の訃報でした。川高卒業後も槍ヶ岳を始めとして幾つかの山行に一緒しましたが、四十歳の若さで逝かれてしまいました。本当に悔やまれます。
 私自身は、一九六七年(昭和四十二年)に大学の教員として派遣されたパリの学会の帰途、初めてヨーロッパアルプスというものを見ました。その感動は今でも忘れ難いものの一つです。幸運にも一九七四年に当時の西ドイツのバイエルン州のブュルツブルグ大学へ留学の機会を得ることができ、夏期等の長期休暇にババリアルプスやベルナーオーバーラント等、スイスのトレッキングによく出かけました。バスで日本人観光客が行かないような奥地まで参りました。若さだけが頼りの怖いもの知らずの行動で、今ではとてもできません。
 結婚後は勤務の関係で、府中市、調布市に居住しました。大学の講師を続けながら近くの丹沢や道志の山々に健康のために登っていました。
 父親の病気をきっかけに、五十歳代で故郷の川越に戻ってからは、近くの奥武蔵や秩父方面の山を歩いています。但し生来体力に自信がないために、現在は一日一山五時間以内を心がけています。特に奥武蔵では日本二百名山である武甲山に年間三十回ほど登っており、今では武甲山御嶽神社(守屋憲太郎宮司)の氏子末席に加えて頂いております。また武甲山には良質の湧き水があり、行く度ごとにタンクに水を入れ持ち帰っています。私自身は日本百名水の日本水(やまとみず)と比較しても、こっちが絶対美味しいと信じています。我が家では米を炊くのもお茶を入れるのも、すべて武甲山の湧き水を使っていて、まさに命の水です。
 若き日に高校の仲間と共に登った武甲山は、石灰石採取のため北面は全く姿を変えてしまいましたが、南面には未だ昔の自然が息づいています。数年前、偶然撮影した日本カモシカの写真が、朝の読売新聞の紙面を飾りました。
 その武甲山が縁で、現在は故清水武甲氏も会員であった「奥武蔵研究会」に所属しております。会誌「奥武蔵」は国会図書館にも収蔵されていて、同誌に武甲山に関する拙文を寄稿しています。また同会は昭文社エリアマップ「山と高原地図――秩父・奥武蔵」を監修していて、そのお手伝いもしています。登山道は毎年歩きませんと、崩壊により廃道になっていたり、新しく林道ができたりしています。さらに観光トイレの新設や廃止もあり、登山地図は毎年更新しなくてはなりません。会員数名で調査エリアを決めて山行を行い、ハイカーや登山者の安全を図っています。
 さらに先日は埼玉県警山岳救助隊の招きで、横瀬町丸山で遭難防止研修が開催されました。ちなみに昨年は同町の双子山が会場でした。この研修には始めから終わりまで数々の仕掛けが用意されていて、大変勉強になりました。例えば突然悲鳴と共に人が谷に転げ落ち、はっとさせる場面がありましたが、これは続いて行われるロープワーク救助のためでした。また突然大きな石(実は紙製)が幾つも上から転げて頭上を越えて行きました。本物かと思い一斉に悲鳴が上がりました。もう心臓が止まるかと思ったほどです。鎖を使って登る訓練では、雨などで濡れていると軍手は非常に危険で、皮手袋が有効だと知りました。
 稜線上で負傷者が出たという想定では、連絡後わずか十分で県警のヘリが実際に入間基地から上空に飛来。事故現場を示すには発炎筒が最も有効でした。救助隊員は高い樹木があってもその間を擦り抜け、空から救助を行います。また続いて芦ヶ久保では室内研修も行われました。
 他に私にとっては、十二歳の頃から親しんだ写真の趣味があります。個人山行では撮影のみが目的で山に入ります。早朝の日の出、夕方の日の入りこそが撮影タイムで、一晩中起きていて星を取り続けることもあります。団体山行ではこのスケジュールでは無理があります。あるとき「全日本山岳写真展」の公募に応募したところ、入選してついに山岳写真協会に入会しました。写真展は毎年九月第一週に、池袋の東京芸術劇場で開催されます。私はアンナプルナやタムセルクのヒマラヤの写真を出品してきました。毎年四五〇点を越す作品と、会期中には数万人の観客を迎える日本最大の山岳写真展です。入選した数多い展示作品で二十点ほどが各スポンサー賞に輝くのですが「晩秋の平ヶ岳」という作品で、私も今年「ラムダ賞」を頂戴しました。この写真展は、文化庁、環境省、朝日新聞社等の後援を受けた権威ある写真展です。
 私の登山人生を振り返ると、もし川高山岳部時代がなかったとしたら、今の生活は考えられなかったと思います。山は人生の潤いであり、生きる力を与えてくれます。今後も自分の体力に合わせた山歩きを続けて生きたいと思っています。





一九五八年(昭和三十三年)

わんだらあ 創刊号 一九五八年十一月発行 四九ページ

 奥多摩 御前山 一月
 川苔山 二月
 春山合宿 丹波 三月二九日〜四月三日
 谷川岳 四月
 新人歓迎合宿・南ア鳳凰山 五月三日〜五日
 夏山合宿 北ア・槍ヶ岳・常念岳 七月 
 他に夏休みの個人山行には、八ヶ岳、雲取山、金峰山、尾瀬、白馬、県体登山大会などがある。

二年部員 大橋朋伊 長沼友兄 和田英教 金井毅夫 仲功 清水文昭 
顧問 石川正明 内田正一 岡田潔

 待望の「わんだらあ」創刊号は昭和三十三年に発行されている。「山男の歌」が山岳部部歌として巻頭に掲載され、山行報告も同年一月から八月まで豊富に並んでいる。
 新入生歓迎山行の鳳凰三山は、春山合宿を兼ねていたような山行だった。
 頂上直下の雪渓でグリセード、滑落防止訓練したのが印象的。(大橋)
 夏山合宿は石川、岡田顧問の他、OBも含めて十六人参加で北アルプスの横尾をベースキャンプとして行われたが、台風の通過によって横尾のキャンプ場そのものが増水で流される被害を受け、他パーティには渡渉で流された遭難事故が発生したほどだった。川高山岳部は、日帰りの槍ヶ岳登頂パーティはかなり上部まで登れたようだったが、蝶ヶ岳から常念岳を縦走したパーティは、当時の登山道の一ノ俣の下山、増水して危険な山行になった。
 石川先生に引率された大菩薩峠の山行では、丹波の登山口の食堂で昼食をとったが、そこで出された沢庵が美味しかったので、賞賛し新聞紙に一本くるんでくれたところが、帰りにそのままテーブルの下に置き忘れてしまったのが、未だに悔やまれて残念。(仲)
 合宿の他個人山行も盛んで、大半は夏休みに集中していたが、残雪の六月の北ア・穂高岳の単独山行なども行われている。
 山岳部部報は、過去に「秩父路」とうい題名で数冊発行されていたようだが、当時の部員もそれを知らずに、新しく「わんだらあ」の題名で創刊されることになった。


遭難死したOBと恩師小沢俊郎先生

 旧制中学の最終年(昭和二十三、二十四年卒)に部員若月洋三さんがいた。滝沢茂樹さんと同年代の部員である。この年代は、昭和二十二年夏に、表銀座から槍ヶ岳という戦後初めての大掛かりな夏山合宿を行った年代になる。
 若月さんは旧制中学卒業後も、実家の所沢で醸造店を継ぎながら登山を続けていた。ところが昭和二十七年二月に、冬の富士山を単独で登行中に、滑落遭難死してしまう。
 前年秋から計画されていた富士登行は、友人に冬山装備を借りた登山だった。前日に自宅を発ち富士吉田を経て、正午頃から登山開始。夕方には五合目の冬季小屋(中央ホテル)に着いている。事故があった二月十日は、同宿したスキー登山のパーティより早めに出発して、快晴強風のなか七合目まで登ったが、そこから数百mを滑落したと思われる。直後の捜索では六合五勺付近で、帽子、櫛などの遺品を発見したのみ。山仲間等による遺体発見収容は、初夏の六月になってからだった。
若月さんは丹念に山日記を付けていた。田部重治、小暮理太郎、浦松佐美太郎を愛読し、知人にも多くの手紙を出していた。同学年の部員や先輩とも交流が深かった。
亡くなって間もなく、山仲間が「若月洋三遺文集―木魂(こだま)―」を編纂した。その編集に当たって、彼の山日記をめくっていくと「山男の歌」という詩が記されていた。「小沢俊郎氏作り我にくれたるの詩」と注意書きが付されている。
その小沢俊郎先生とは、若月さんの旧制中学時代の恩師であり、自身旧制中学のOB(昭和十四年卒業)だった。東大の国文科を出られ、教員当時は英語の教鞭をとられていた。しかも二人とも所沢の同郷で、地元では宮沢賢治研究会の師弟でもあったと思われる。先生が山好きの彼のために作詞作曲して贈った歌が「山男の歌」だった。若月さんは日記に書き付けて、登山中に一人口ずさんでいたこともあったと、遺文集には記されている。
後に川越高校を退職した先生は、京都教育大学の教授に就かれた。賢治の研究では、研究誌「四次元」に多くの論文を寄稿され、他に「薄明穹を行く」「宮沢賢治研究叢書」全八巻の編集著作がある。研究を通じて山や地名についても言及され「録した山々の名―賢治地理『山岳』−」(四次元百三十三号)や「母なる準平原―賢治地理『種山ヶ原』−」(四次元百五十五号)がある。
先生と山の関わりはどんなものだったのだろう。「岩手山の野宿」(薄明穹を行く)にはこんなふうに記されている。
「山が好きとは言っても、体力のない私はあまり威張れるような山歴は持っていない。野宿というのも一度限り。十月の奥日光で道を失った時の経験があるばかりだ。その時私は三人のパーティだったから、夜になって雪になったけれども、交替で火を焚いてやっと凌ぐことができた」
 賢治の詩「春谷暁臥」に通じるものを感じる。一九八二年三月一四日、六十一歳で亡くなられた。
遺文集の編集は、三歳年下で同じく旧制中学OBの小沢郁郎さん(昭和十七年卒業)が中心になって進められた。郁郎さんは清水高等商船航海科から東京大学西洋学科に進まれ、軍事研究者として有名になった。書籍「つらい真実―虚構の特攻隊神話」は、復員将兵の輸送に関した書籍である。郁郎さんも一九八四年八月、五九歳で早世された。
後年の巡り合わせは不思議な縁だった。若月洋三さんと十歳ほど離れた弟さんは、山岳部の井上雅弘さんと同級生になった。弟さんは山岳部ではなかったが、在学中に彼は井上さんに、亡くなった兄のことを紹介した。井上さんは渡された遺文集を丹念に読む。そして書き付けられた「山男の歌」に注目する。在籍する山岳部の先輩に、こんなに真摯で直向きな登山家がいたことを知ったのである。




若月洋三遭難捜索と富士山七合目の供養塔 昭和27年6月

 
部歌「山男の歌」制定と部報「わんだらあ」の発行、
                井上雅弘 一九五九(昭和三十四)年卒

 山男の歌  作詞作曲 小沢俊郎   編曲 牧野統
世の偽りを 知りしより
我が魂の 故郷を
求めさ迷う ワンダラー
われらは永久の 山男

霧こめきたり 霧流れ
尾根に一本 花浄き
八汐つつじの ぬるるとき
もののあわれを 知るわれぞ

風に紛るる せせらぎや
谷間の空の せまければ
いよいよ蒼き 星辰は
深き黙示を もたらすか

ああ畳々と たたなわる
翠巒越えて よくぞ来し
ベルクハイルを 叫ぶとき
極まる若き 生命かな

若き心の 憧れは
山に来りて 山に生き
里に帰りて 山を恋う
われらは永久の 山男

 半世紀の昔、クラスメートの若月から彼のお兄さんの遺文集「木魂」を渡されました。
 登山をするにもさほど豊かな時代でなく、家業を継ぎながら登山の時間を作り、ひたむきな青春の生き様に共感しました。友人や先輩、女友達に宛てた手紙には、登山への葛藤が綴られていて、まさに登山ブームを迎える走りの時代の典型的な登山者だったと思われます。世の中の様々な出来事に疑念や不条理を感じ始めた年頃の自分にとっては、新鮮な感動に浸ったのを今も鮮明に記憶しております。
 遺文集の中には、味わい深い「魂の故郷を求めさ迷う」の詩句と楽譜も挿入されておりました。同級の部員に千野利一がいて、彼はグリークラブの部員でもあり、二人でこれを歌おうとしたのですが、キーが高くて歌いにくい。そこでクラブ顧問の牧野統先生にお願いして、歌い易く編曲して頂いたのが今の部歌になっているわけです。
 同じ頃、山岳部の部報の発行も手掛けていました。過去に「秩父路」という部報が数刊発行されていたことは後年知りました。部報名「わんだらあ」と命名したのも「山男の歌」の詞によるものです。
 ガリ版編集印刷の「わんだらあ」創刊号は、部費逼迫で、部員には広告掲載の交渉に奔走してもらいました。運動部として初めて文化祭に参加し、写真部の暗室を借りて、現像引き伸ばしした山行写真や記録展示を行ったのも良き思い出です。
 当時の忘れられない山行は、成功した合宿よりも、苦汁を舐めた山行でした。いずれも豪雨の被害を受けた大惨敗の夏山合宿です。
 昭和三十二(一九五七)年は剣岳から槍ヶ岳まで計画しました。ところが別山乗越から剣沢に降りただけで豪雨に遭遇して撤退。夜中にテントの中を水が流れ、支柱を抱えて夜明かししたものです。翌日、登ってきた道を室堂から美女平〜立山集落までまた下山しただけで終わりました。
 翌年は横尾をベースにして、放射状登山を計画しましたが、やはり豪雨で三日目の撤退となりました。同級の岩澤龍男が蝶ヶ岳から常念岳を縦走し、増水した一ノ俣を下る苦汁談を部報に寄せていました。どうにか横尾に戻った後は、下級生は下山。しかしバス不通のため上高地から林道歩きとなりました。数名の上級生は残った装備を背負い、徳本峠を越えて島々まで十二時間の徒歩を余儀なくされました。
 当時の私の羨望は、同学年の神崎俊宏に触発された、山口耀久氏主宰の独標登行会の先鋭的登山にありました。体力・技術・精神面や様々な環境条件から、放棄せねばならない状況でした。
 後年、一九九七年七月、四十年振りに剣岳から槍ヶ岳への縦走を試みました。一人の小屋泊まり、気ままな山行で天候にも恵まれ、過去の記憶が断片的に想い起こされました。
「足なえて座して仰げる黒岳の 我がうつしみか峰の白雲」
「年を経てたま訪ねきしスゴ峠 薬師の偉容我にはだかる」
「窮まりて喉を潤す黒部渓谷 我が求道心定まらずとも」
「密?峰の羽音澄みけり鷲羽池 静寂のきわみ息吹をも飲む」
「行き暮れて訪ね至らん双六の 小屋の灯火ただに僅かに」
「這い松の匂い流れて霧はれぬ 朽ちし鉈目に昔日想う」
「ひとすじに険し果て無き道なれど 眼そむくとも我が道なりき」
 翌年春、連休前の四月、小屋を掘り起こす時期に、例年のように槍穂連峰を訪ねた。
 蒲田川を遡行して槍ヶ岳から穂高岳へ。連日の氷雨で志衰えて、早々に横尾に下った。翌日は快晴、四十年振りに残雪の徳本峠を越えて島々へ。根深い雪ルートの探索に手間取り、島々まで十時間を要した。大滝の分岐二股からは舗装された林道で、昔日のトロッコ軌道は人造湖の対岸に消えていた。四十年前の面影は、瞼の裏にしか残っていないのです。これが高校時代に苦汁を舐めたふた夏の合宿の総括でした。
 私の山行は、山口耀久氏から大きな影響を受けました。氏が信濃富士見の療養所時代、当時分水荘に疎開しておられた詩人の尾崎喜八氏より、薫陶を受けたとの間接的影響から「アルプ」等から静観的山行に一人傾注し、高橋達郎氏、串田孫一氏、三宅修氏等との交流を通じて、多大な影響や薫陶を受け継いできたように感じています。
 国内各地の多くの山、欧州の山にも足を延ばしましたが、私は八ヶ岳が好きで、十五歳の初登山から五十年を経た今、山行は四十回を超えました。串田孫一氏が徳本峠を夜中に越えて、また鳥甲山でお寒したとか。山口耀久氏が厳冬期八ヶ岳縦走中、夜中に赤岳と行者小屋を往復したとか。私も何度か同じことを経験しました。赤岳から白駒池まで夜中吹雪の中を歩いたことがありました。それはアリアドネーの糸玉の導きに似ていよう。いや高校時代の部活動やこれまでの山行も、また自分の人生そのものが、糸玉の導きによるラビュリントスの迷宮からの脱出とも想われます。しかし私をそのように仕向けたのは、侠気に他なりません。
 山岳部の歴史は九十年になりました。およそ半世紀の私たちの年代から、部報「わんだらあ」や部歌「山男の歌」が現在まで継承されていると聞き及び、大変喜ばしいと思っております。長い歴史の中に一つのエポックとして残るのも幸いであり、いま改めて感慨に浸っております。




正月の奥多摩・御前山山頂 1958・1・19
(左から)吉原・国田・和田・金井・清水・高橋・仲 (関口提供)



 

報告
夏山合宿・槍ヶ岳 
七月二十三日
 目が覚めた。雨の音はないようだ。シュラフのチャックを開けテントの外へでた。曇りである。
 昨日は朝八時に松本着。九時にバスで上高地へ。十二時に上高地を出発して、テント、食料、コッフェル、ラジウス、着替えなどの入ったリックは皆はちきれんばかりである。河童橋付近の、ワンピース、アロハの間を大きな荷を背負って歩くのも気持ちがよい。二時間ほど森林地帯の奥へ進むと、急に開けてニレの大木が点々と残された原に出た。テントが幾十と並びキャンパーで賑わっている中に、二階建ての徳沢園がある。「氷壁」にも出てくる有名な小屋である。また一時間くらい歩いてガレを過ぎ次第に狭まった梓川の河原に出ると、横尾山荘に着いた。
 昨日に炊いておいた飯と、出来たての味噌汁の湯気の臭いを嗅ぎながら、頬張った。三組のパーティに別れ、C班は蝶、常念、大天井から槍への二日間行程。B班は自分たちの槍。そしてA班はベースキャンプに残る。C班は行程が長いために朝早く出発した。我らもサブザックで、ベース守連中の羨ましそうな顔に手を振って、
「今晩のご馳走作っておけよ」
 と言いながらテントを後に出発した。
 道は広く立派で傾斜も緩やかで登り易い。梓川を左方に見て登る。時々雲の間から屏風岩の絶壁が垂直に切立って聳えているのが見える。周りの山は、昨日から君には見せられないとでも言っているように顔を出さない。やがて一時間も森林の中を歩くと槍見平という原に出る。上高地からここまで来て初めて目的の槍ヶ岳が見えるところである。さらに行くと一ノ俣に着く。右へ行けば一ノ俣谷を通って常念へ、左は槍沢を通って槍である。シラビソ、トウヒなどの林の中を進む。赤沢山が時々岩肌を見せてくれる。やがて周りを石垣で囲まれた小じんまりした槍沢小屋が目の前に姿を現す。
 小屋の前の河原で一休みしていると、ボッカが醤油樽や米など十五貫はあると思われるほどの荷を担いでゆっくり登っていく。我らもその後出発した。立って休んでいるボッカを追い越すと、広い谷に残雪が長々とのさばっているのが見えてきた。南岳・中岳の岩肌の雪解け水が白く流れ落ちているのが見える。やがて大きな雪渓にかかる。涼しい風がひんやり肌を刺す。緩やかな傾斜だが凍ったところが時々滑る。徐々に急になった雪の上に顔を出している岩の上にデンと腰を降ろし、アイゼンをつけて一歩一歩登った。雪渓の下を雪解け水がさらさらと音を立てて流れている。途中で常念のピラミッド型の山稜が頂上の方に雲を乗せて現れたが、すぐに隠れてしまった。一・五キロくらい間の雪渓で、相当急傾斜になり一時間以上もかかった。
 苦しい雪渓が終わると、水筒の水で喉を潤し、チョコレートを頬張った。ゴロゴロした岩の間からは高山植物が可憐な花をつけて迎えてくれる。急なジグザグ道を登っていくうち、ガスが舞いてきてほとんど回りは見えなくなってしまった。突然目の前でひげのおじさんが道標を立てていた。大槍ヒュッテの主人である。
「この小屋は昨日から人を泊めているんです」
 と言っていた。
「今頂上が見えたんだが、気の毒になあ」
 とボソッと話した。小屋のそばで昼食にした。みな寒い寒いといってヤッケを引っ張り出して着た。おかずはうまそうなものがなかったが、皆腹が減ってたくさん食った。
 そのうち雨が下から吹き上げてきた。肩ノ小屋までもう一息である。皆急いだ。雨はだんだん大粒になり、雨具などあっても濡れ鼠になってしまった。ズボンは下まで通ってしまい、顔は汗と雨で雫が伝っている。小屋に入ると濡れた連中で一杯だ。雨具など整えてすぐ出発した。目指すは槍の穂先である。全然見えない頂へと急な岩肌を伝って登った。風は大粒の雨を顔に叩きつけ、ヤッケやズボンをすっかり通して、胸や足までずぶ濡れにしていく。登りは急でところどころに鎖がある。岩はつるつる滑るし、手や顔が寒くて利かなくなり、足がガタガタ震えてしまった。頂上はもうすぐそこにあったが、寒さと風が強く少しも留まっていられない。またもと来た道を下った。
 肩ノ小屋に着くと、熱いお茶を飲んだ。熱が体中にしみわたる。乾いた手拭を出し身体を拭きシャツを絞った。まだ雨が降り続いている。小屋の中に入っていると、雨の中を出て行くのが嫌になった。濡れたシャツを思い切って着て雨の中へと出発した。
 岩の間は滝のように水が流れ、道は小さな川となってしまっている。雪渓では皆慎重に下っていると、ボッカが下ってきた。まるで駆け足である。
「そんないい靴履いて遅いぞ」
 と言われてしまった。皆ボッカの後を駆け下った。槍沢小屋で別れて皆その調子で駆け下りた。
 梓川もだいぶ水嵩を増した。ベースに残った連中が手を振って迎えてくれ、温かい飯とナスの味噌煮を頬張り食った。タイ味噌の缶詰を開けたが、作っておいてくれたナスの味噌煮の方がうまかった。(仲功)

蝶・常念岳  七月二十四日 C班 OB川口・井上・栗原・和田・岩沢
 午前六時半、AB班に見送られ、横尾ベースを出発。昨夜の雨はどうにか上がったが、雲は相変わらず低迷している。濁った梓川を渡り、横尾山荘を右に折れて、薄暗い森林に入る。名も知らぬ小鳥たちが朝の合唱で迎える。木々に包まれた朝の冷気は真夏を忘れさせる。我々は梓川の水音を背にして閃光型の急な登りに取り付く。道の両側に生い茂る熊笹がしきりに膝下を濡らす。頭上を覆う樹木は全く視界を妨げるが、高度が稼げるから気持ちがいい。今朝流し込んできたばかりの味噌汁が、腹の中でなかなか落ち着かない。梓川の水音がやっと消えた所で五分間の休憩。汗はかかないが、とても喉が渇く。たちまち私の出した水筒が空になる。七時五分出発。
 和田君の配給してくれた氷砂糖を口にして、黙々と登り続ける。この頃から次第に調子が出始め、背中もじっとり汗ばむ。井上君がお得意の「ファイト」が静かな森林に響き渡る。
 午前八時、薄暗い鬱蒼とした木々もだいぶまばらになり、雲も高くなる。雨の心配はほとんどないが風が出始める。ここで落雷で倒れたらしい大木に腰を降ろし、二十分間の大休止。やはり喉が渇き、水の売れ行きが激しい。しばらくすると遥か下の方から、女性を交えた八人パーティが元気よく登ってくる。我々はわずかな流れを見つけて、空になった水筒を満たし、頂上間近い蝶ヶ岳を目指す。
 全員快調、歌も飛び出す。三十分で樹木はすっかりなくなり、ガレに出る。やや行く分岐点に出る。ここを左に折れると蝶の頂上である。風が非常に強く、雲行きが激しくなった。海抜二六四四mのこのおわん型の頂上はいたって平凡ではあるが、その景色といったら、あらゆる手段を尽くしても表現できないほどでもある。内側に水滴を付けてしまった腕時計は、ちょうど九時を指している。かなりゆっくりしたペースで歩いたような気もしたが、予定通りである。先ほどから穂高連峰を覆っていた雲は次第に切れて、北穂、奥穂、前穂と次々にその姿を現し、我々を歓迎する。横尾から神経系のごとく這い上がっている涸沢やこれらの山肌には、まだかなりの残雪が張り付いている。その涸沢を包んで、黒褐色の岩肌をした壮大無比の屏風岩がそそり立ち、その登攀者を拒んでいる。
 十分ほどして全員が揃った。相変わらずの強風は我々の会話を吹きちぎる。さっきのパーティも姿を見せ、我々と共にこの絶景に酔う。我々は強風を避け、蝶を下って三十分の大休止を取る。みかんの缶詰を開けるが喧嘩になる。キャラメル、カンパンを口にする。九時半、ヤッケと手袋をつけて、常念岳に向かう。さっきのパーティは反対に大滝山へ下る。
 穂高方面から吹き付けてくる風は益々強いが、尾根歩きの気分は満点。橙色をしたニッコウキスゲに似た美しい花を時々見かける。道は同じような山を幾つも越えるが、大した登りもなく、首を振り振り辺りの景色を楽しむ。三つ目の山を過ぎる頃、突然左手に飛び去るような雲間を縫って、あのエッフェル塔のような槍ヶ岳が姿を見せる。初めて見る槍ヶ岳。慌ててザックから写真機を取り出し、シャッターを切る。十一時に五つ目の山を通過。
 目の前に聳え立つ常念岳はだいぶ近づいたが、二時間の歩き通しにやや足の重さを感じる。常念岳の一つ手前の丸坊主の山に差し掛かったとき、先に歩いている川口さんと井上さんの姿を見つける。「ヤッホー」と叫んでみたが、風のために全然届かない。十一時半、岩陰で全員が揃ったが、頂上で昼食を約束して空腹だが登り続けた。頂上はガスが流れ、背後の蝶ヶ岳は全く見えない。天候を気にしながらルンゼを頼って登る。下から見るほどきつくはないが、十二時を少し回った頃、最後のガレ場を登り詰めて頂上に出る。視界は全然利かないが、さすがに高いという感じはする。銅版に彫り付けた山案内図を取り囲んで、見えない山を適当に想像する。やっと一息、記念写真を済ませて、昼食にしようとしたとき、突然ガスが水滴に変わり雨が降り始める。慌ててカメラをザックにしまい込み、常念小屋まで下ることにして、我先にと出発。
 くの字型のすごい下り。もう遥か下方を和田と井上が脱兎のごとく駆け下っていく。私も後を追う。雨は次第に激しさを増し、あるいは顔面から、あるいは背中からと、容赦なく吹き付ける。上半身はヤッケで防げるが、腰から下はずぶ濡れ。ナーゲルの中へどんどん流れ込む。後方の二人は全く諦めて、のろのろ降りてくる。常念小屋から登ってきたパーティも慌てて逆戻り。雨で曇った眼鏡をぬぐって見ると、真下に白いトタンを光らせた常念小屋がうずくまっている。至る大天井岳と書かれた道標を左に折れて、常念小屋に飛び込む。びしょびしょのヤッケを脱ぎながら、ガタガタ震える。みんな鼻水と水滴を流して、いい格好である。小屋に上がろうと靴ヒモを解くが、手がかじかんで解けない。そのうち後の二人も飛び込んできた。我々は小屋の一隅に陣取ってしばらく様子を見る。昼食を取り、囲炉裏でズボンを乾かしながら、三時まで待つが全くやむ気配がない。おまけに小屋の携帯ラジオが、三陸沖に抜けたと思われた台風十一号は、相模湾に上陸と放送。小屋の人々も顔を強張らせた。
 大天井岳へは、明朝早く出発することにして、常念小屋泊まりを余儀なくされた。この頃から小屋も次第に混み始め、我々五人だけ特別に、新設中のドーム型テントに移る。五十人用くらいの大きなもので、布団も何十枚と積んである。夕方まで合唱や冗談話にふける。午後六時、上下二枚ずつ布団を敷いて、これに潜り込む。テントを打つ風雨のためになかなか寝付かれない。おまけに話が弾み、静寂を保つこと十時。午前一時に常念小屋付近に幕営していた男女五人パーティが、テントを吹き飛ばされ、このドーム型テントに避難。
翌朝五時起床、風雨は依然静まらない。大天井岳を断念し、一ノ俣を下ることにして朝食を取る。隣のパーティは昨夜の恐怖でまだ目を開けない。七時、びしょ濡れの靴に足を縛りつけ雨具を着て、
「足を滑らせないように気をつけて行って下さい」
 という常念小屋の主人の声を後に、一ノ俣谷を下る。道という道は雨水に隠され、足首まで水に浸かる。雨は昨日にも増し、深々と続く一ノ俣谷を曇らせる。二十分下ったところで一ノ俣源流に出る。いつもは水も涸れ上がった沢であろうが、雨が降ると一気に水を集めて駆け下る。この沢を左に見てしばらく下る。誰も口を利かない。
 ちょうど一時間くらい下ったとき、トップに立っていた井上が道を見失う。全く道のないところに入ってしまったのである。一ノ俣沢を五十mくらい下に見る位置である。谷はだいぶ深い。しんがりにいた川口さんが戻ってみるが前進するべき道は見つからない。すごい傾斜と地盤の緩みで自由に動けない。五人は全身を目にして必死の道探し。
「見つかったのかー」「そっちはどうだー」
 思い切り怒鳴りあうが、雨と風と沢の水音で全く連絡が取れない。焦りが出る。
「おーい、見つかったぞ」
 遥か下の方で川口さんが叫ぶ。近くにいる和田が連絡を取る。突然の増水のために、その道は小さな沢となっている。時間の損失三十分。ほっと一息。ガムを口に入れて再び谷を下る。赤いエナメルで岩に塗りつけた道しるべは着実に我々を案内する。九時をやや回った頃、ごうごうたる濁流がピタリと足を止める。丸木橋が流されて無くなっている。対岸まで十m。ザイルを持たない。例えザイルを張っても、到底渡れる水量ではない。だからといって常念まで戻る気にもなれない。地図を取り出してみると、もう半分以上は来ている。全員一致、左手にそそり立つ絶壁を巻く。川口さん一人独立ルートを取り、我々四人は互いに足場を作り手を貸し合って約五十m攀じ登る。三十分間の苦悶の末、ようやく道のところにたどり着く。ここで太い丸太二本並べた丸木橋を渡り、谷川を右に見て進む。雨は全く止む気配はなく、もう雨具の下もびっしょり。しかし寒さを感じない。
 ここでまた大難所にぶつかる。道がすっかり谷川の水に埋まり、おまけに左手はほとんど垂直に近い絶壁。無言のまましばらく呆然とする。目の下で渦巻く濁流は我々を引きずり込もうかとするごとく、数メートル跳ね上がる。まるで地獄の底にでも突き落とされたようで、生きた心地は全くない。しかしながら前方がやや明るくなり、一ノ俣に近づくことを示している。これのみを一つの望みとして、この絶壁に取り付く。一歩間違えば濁流に吸い込まれお陀仏である。慎重に慎重を極める。先に行く井上が足場や手の捕まり場所などを指示。私も後から来る者を導く。全員無事に元の道に出るまで一時間を費やす。十一時である。ほっとして緊張感から解き放たれると、寒さも感じる。考えてみると常念小屋を出発して以来、四時間一度も休まず何も食べていない。わずかな岩陰で雨を避け、ザックの中から常念小屋で結んでもらった三個五十円のむすびを取り出してかじる。ソーセージも丸かじり。私の持ち合わせていたセーターを取り出し、栗原に着せて出発。このとき慌てて谷川に帽子を落としてしまった。
 谷はだいぶ浅くなり、しばらく行くと右手に階段状に駆け下り七段の滝を見る。晴天ならどれほど美しい滝であろうか。今はまるで魔物の爪のように見える。七段の滝を十分くらい下ったところで、とうとう四度目の危機に出合う。またまた丸木橋が流されて無い。谷川の幅十mくらい。その中央までは残っているが半分から向こう側が切れている。対岸に人知れぬ遭難碑を見て足がすくむ。しかしこのようなことを予期して、途中七段の滝の岩場に丸めて置いてあった針金を拾って来たのだ。川口さんの経験豊かな手によってこれをザイルの代わりにして、危なげながらもどうにか渡り切る。川口さんはビニールのズボンを破き、井上は首まで水に浸かり誰もが見るも無残な姿。そこから下ること三十分。ついにすっかり谷が開け槍沢との合流点一ノ俣に出る。ちょうど十二時。常念を立ってから五時間。普通なら二時間で下れるところである。
 一ノ俣小屋に入り、小屋の主人が出してくれたお茶にがぶりつく。風雨は相変わらず激しく、槍ヶ岳に登った人たちも続々と下ってくる。一ノ俣谷と槍沢を合流してなる梓川は昨日のそれとはおよそ想像もつかないほど増水し、益々横尾のベースキャンプが心配になる。全財産を残してきた者もいる。昼食を取り、一時一ノ俣小屋を出発。一時半横尾に到着。しかし案の定、梓川の中洲に張ったベースキャンプは跡形も無くなくなっている。一、二年の報告により全員無事に横尾山荘に避難したことを知り一安心。
台風一過の好天気を当て込んで来た数千人の登山者は、この突然の大災害にどれほどショックを受けただろうか。我々は互いに自分たちの無事であることを喜び合いながら、横尾山荘に入る。(岩沢龍男)

隣の遭難者 
その日、北アルプスの横尾で、私はほんの不注意から命を無くした高校生の遭難現場にいた。目撃したのではないが、山小屋の人から聞いた話を付け足すとこうなる。
朝から雨が降っていた前日、槍ヶ岳登頂にあと七mということろで失敗していた僕たちは、雨の音にも目を開けず、心地いい眠りに就いていた。
午前四時頃、足の辺が冷たいのを感じたが、第二夜目にも経験していたし、さほど気にしなかった。しかし五時頃になると、今度は腰の辺が冷たくなってきた。慌てて飛び上がりシートを押してみると、プカプカするではないか。シートの下まで水が来ているのであった。窓から外を見ると真っ暗で何も見えない。仕方なしに飯盒に腰掛けて寒さをしのいでいた。だが水は増える一方で減る見込みがない。そこでもう一度今度は懐中電気をつけて外を見ると、川がテントの両側に流れていた。梓川の源である小川が増水し、テントの方向に流れ込んでいるのであった。慌てて友人のテントに逃げ込み外が明るむのを待った。
外が明るくなると、テントを出て食糧テントを片付け始めた。雨は無情にも降り続けている。足はガタガタ震える。食糧テントが片付くと、再びテントを張り、チャーハンで朝食の足しにした。雨は全然止まず川は増える一方。しばらくすると山小屋から避難命令が出た。急いでテントをたたみ、向こう岸まで三本の丸木橋を渡る(これが遭難した丸木橋である)。三本の丸木橋といってもかなりガッチリしている。そこを渡り山小屋に入って、濡れているものを脱ぎ、パンツ一枚で乾燥室でスボンを乾かしていた。このときである。一緒にズボンを乾かしていた山小屋の一人が、遭難があったことを話していた。
その人は、
「あの丸木橋から落っこちて、ずっと下流まで流されてしまったんだから、すごい流れだなあ」
 と周囲の人に話しかけていた。僕は一生懸命耳を傾けていた。
「それで死体は発見されたのかい」
「うん、かなり下流まで流されていたんだ。木にシャツが引っかかっていたんで分かったんだが、引き上げてみると口から真っ赤な血を吐いていたんだ。頭を打ったらしい。それで人工呼吸をしたんだが気がつかなかったよ」
「どこの人だい」
「松本の高校生らしい」
「何故落ちたのだろう」
「誰もいないのに、丸木橋を渡ったらしい。背負っていたリュックは重いし、助けを叫んでも誰もいなかった。でも死体が見つかってよかったよ」
 これで話は終わりである。僕は自分が渡った橋での遭難のため、かなりショックを受けた。
(戸田正和)





六甲山アラカルト 吉原哲夫 一九五九年卒
 六甲山、ご存知ですね。須磨あたりを起点として東へ延び、神戸市と芦屋市を通過して西宮市へ入ると北上し宝塚市あたりで終点となる、最高点の標高が九三一メートル、長さ約五〇キメートル、幅約一〇キロメートルの山地の総称です。阪神間の景観を特徴付け、そこに住む人達の生活に良きにつけ悪しきにつけ影響を与え続けているこの山を断片的・独断的に紹介してみます。……それにしても、この山の名を勝手に織り込んだ応援歌を作り、ところかまわずわめき散らす関西人気球団ファン、これ何とかなりませんか。

【名前の由来】
 六甲山という名前はどこから来たのでしょう。昔、大阪の堺とか岸和田から見て大阪湾を隔てて向こうに連なって見えるので「向こうの山」と呼ばれ、「六甲山」になった。あるいは、近くを流れる武庫川の奥にあるので「武庫の山」と呼ばれていたものが「六甲山」になったと説明しているものを読んだことがあります。「向こうの山」説はちょっと引っかかりますね。いつのことかは知りませんが、堺や岸和田が文化先進地域としても、六甲山の麓の人たちが背後の山々を呼ぶのに「向こうの山」ってねえ、そんな呼び方するかなあ。

【幼年期の山】
 ところで、六甲山の年齢は約五〇万才ということです。世界的に見ても火山以外では異例とも言える若さで、いわば幼年期の山ということになります。日本列島が乗っている大陸系のプレートの下に太平洋系のプレートが潜り込もうとしており、そのため大陸系プレートは巨大なストレスを受け、「もう、辛抱たまらん」とプチンとヒビ割れして断層が発生し、ピョコンと飛び出して山ができる、六甲山もそうしてできた山だというのです。今でもストレスを受け続けているわけですから五〇〇年から一〇〇〇年に一回プチンが発生し、その結果五〇センチから一メートル高くなっているそうです。余談ですが、この断層が繰り返し発生するところは活断層と呼ばれ、直下型地震の原因になっていることはよく知られているところですね。因みに、淡路島北部の野島断層は阪神・淡路大震災の震源地ですが、そこには約二〇〇〇年前に同規模の断層が発生したことを示す地層の断面が保存されています。日本中活断層だらけですが、硬くて脆い岩盤がストレスを受け続けていればプチンプチンとひび割れが発生するのは当たり前ですよね。まっ、地震の脅威と引き換えに変化に富んだ景観を手に入れているわけですから差し引き得か損かどちらでしょう。

【準平原と急峻な谷】
 隆起した六甲山は早速侵食を受け急峻な谷を形成します。しかしまだ上部には準平原と呼ばれる平らなところが残っています。この準平原の部分にゴルフ場とか遊園地とかホテルがあり市民の憩いの場となっております。特にゴルフ場は何人かの英国人が言い募って造った日本最初のものです。そういえば随分前のことですが、ここで一度プレイしてひどい目にあったことがあります。コースはショートホールが主体でフェアーウェイとグリーンはよく整備されていますが、問題はラフ。「本場のラフってコンナン?」と思わせる深いラフに打ち込み、「キャデイーさあーん、ピッチングと鎌!」でした。現在でも関西屈指の名門コースであるとのことです。
 六甲山周辺の谷はスケールはともかくとして急峻なものが多いといわれていました。山全体は花崗岩でできており、源流地帯には多くの滝が形成され周辺の岩壁とともにロッククライミングのゲレンデとして多くのクライマーを育てました。大正年間に芦屋のロックガーデン周辺をベースに藤木九三氏等がRCCを創立した話はご存知かもしれません。
 この谷は急峻であるため、ひとたび大雨が降ると大量の砂を押し流し下流の人家を襲って土砂崩れ災害を起こします。神戸における自然災害の大部分は洪水とそれに伴う土砂崩れでした。その災害を防ぐため、神戸、芦屋、西宮の各谷には数多く(一〇〇個余りとか)の砂防ダムがあります。そのため「沢登りというか砂防ダム登りというか」という状態だそうですが、それも仕方がないかと思います。何しろ信じられないくらい急な斜面に人家があるのですから。

【宮水】
 急流が平地に流れ着くと運んでいた大量の砂を堆積させて、所謂扇状地を形成します。扇状地では地中に滲みこんだ谷川の水は伏流水となります。この伏流水は海岸近くで汲み上げられ「灘の宮水」と呼ばれています。従って、灘の酒造会社は伊丹を除いて殆どが海岸沿いにあります。倉庫と工場の中に蔵造りの酒造会社が混在しているという景色は想像しにくいかもしれません。
この「宮水」を用いた「六甲の水」も深い山奥の清水ではなくて製鉄所等工場群の傍らから汲み上げた水です(消毒と壜詰めはまた別のところですると聞いたことがありますが。)。だからといって汚い水と言う訳ではありませんよ。きれいなおいしい水です、念のため。

【ハゲヤマ】
 少なくとも明治時代の中期までは六甲山はハゲヤマだったということをご存知ですか。植物学者の牧野富太郎博士が、若い頃、六甲山を見て雪山と見間違ったということです。樹木がなくて、白っぽい花崗岩の山肌が露出していたからです。これを緑の山に変えるきっかけをつくったのは、英国人グルームを始めとする外国人の貿易商たちです。彼等は貿易のために来日し、最初は現在「旧外国人居留地」と呼ばれる海岸通付近に住んだのですが、やがて成功者は山手のほうに屋敷を構えるようになりました。そこは現在「異人館通り」と呼ばれる観光スポットになっています。さて余裕ができますと、背後に連なるハゲヤマが気になりますし、故郷で楽しんだゴルフやハイキングもしたいということになります。彼等が提唱し、植樹を行ったことがきっかけになって緑化が進み現在の緑の山になったということです。彼等は多くの登山道を拓き、六甲山における近代スポーツ登山の基礎を築きました。そういうこともあって、ハイキングコースにはカタカナの地名が結構残っています。例えば、ドントリッジ、トウエンテイクロス、シュールロード、シュラインロード、ダイアモンドポイント等々です。何しろ当時ハイキングなどをしているのは外国人が殆どだったのでしょうから、「カタカナ名をつけられちゃった。」というのが真相かもしれません。

【グルーム】
 現在、年間数万の人々が訪れ、ハイキング、ドライブ、ゴルフ等を楽しんでいます。そういう楽しみ方を、教えてくれたのは英国人グルームといわれています。周囲の外国人を説いて、毎年洪水を繰り返すハゲヤマに植林をはじめ、ハイキングコースを拓き、ゴルフ場を造ることを提唱し、実践しました。その功績を顕彰して一九一二年記念碑が作られたのですが、残念ながら、戦時中、彼が敵国人であるという理由で破壊されてしまいました。戦後、有志の寄付で再建され、毎年山開きの日には観光客の無事を祈願する祝詞が奉げられています。「英国人の銅像と神主さん」、このゴチャマゼが六甲山らしいね。

【最難関】
 ところで、この山地の登山で一番難しいのは何でしょう。よく冗談で言われることですが「取り付き見つける。」ことだそうです。ここには山の雰囲気を醸し出す山里の小集落や林道はなく、山の近くまでというより山の中腹まで住宅地です。市バスを降り、住宅地の道を暫く行って、谷に下りるあるいは尾根に取り付くということになります。勿論、取り付き点には道標があるのですが、そこまでの普通の道(これが半端でない急な勾配のところが多く、ゴチャゴチャしている。)を迷わず行くのが難しいというわけです。
 六甲山は四季を通じて登れる山で多くの老若男女に親しまれてきましたが、昨今では、老人(一応我々の年代も含めて)と遠足の学童ばかりが歩いて登り、若い人は車で登るという状態になっています。折角近くにある山ですからたまにはゆっくりと歩いて登りたいものす。……そういう私も子供が大きくなってからは登ったことはないのですがね。

【あとがき】
 山岳部に属した期間は実質一年半くらいしかない私ですが、家の近くの山ということで六甲山の独断的紹介をさせていただきました。尚、ここに使いましたネタは大部分「六甲・麻耶」(ゼンリン)および「神戸雑学」(神戸新聞出版センター)を参考にさせて頂きました。


消えた武甲山の岩壁・思い出の人
            長沼友兄 (一九六〇年・昭和三十五年卒)
 

 昭和29年の春、私は中学生となった。この年は思い出してみると、私が山に目覚めた年であり、前年にハント隊長の下でイギリス隊が初登頂したときの記録映画「エヴェレスト征服」を所沢から川越の映画館まで行って観た年であった。また初めて山らしい山に登った年でもある。このときは谷川岳を西黒尾根から登り、国境稜線を経て蓬峠から土樽まで下った。当時の上越線は土合駅がまだ地上駅だったことが今でも懐かしく、その後幾度となく通った谷川岳登山では、上越線の線路が地中深くなって、ホームから長い階段を昇ってやっと地上に出る形に変わってしまった。
 通っていた中学校は校舎が東西に長く伸びた一棟だけの木造二階建てであり、高台に建っていた。冬は秩父颪が校舎に吹き当たり二階北側の教室はとても寒かった。あの頃学校には教壇脇にブリキ板を被せただけの炭火鉢があっただけだった。
 でもこの二階北側の教室から眺める景色は絶品で、授業中に目を遠くに飛ばすと、遥か彼方に県境の山々が青く光り、特に2月末頃には雪を被った山の連なりを追う楽しみがあった。左の方から丹沢とその向こうに富士山が見え、右に行けば背もたれのある椅子のような御岳山。さらに奥武蔵の山が並んで、その最後にやや独立して際立っている武甲山まで一列に連なっていた。さらに右奥に白く光る長野の山が時々見えた。授業中つまらなくなると、窓の外に目を向けては、隣の友人に、
「山は綺麗だね」「いつか登りたいね」
 とささやき合っていた。
 そのうちに高校受験の時期になった。さすがに担任教師には言えなかったが、家では、
「山岳部のある高校に進むんだ」
 と言っては、呆れられていた。当時のノートの最終ページには、
〈○○高校山岳部 一年 長沼〉
 と書いては、一人悦に入っていたものだった。今でも私にとっての川高とは、山岳部があるために入っただけの高校だったという気持ちが、ちょっぴりある。
 合格した後に、山岳部へ入部するために先輩に迷惑をかけてはいけないと思って、春休みに、名栗側の山から武甲山まで登り、有馬谷から日向沢ノ頭へ抜けて川苔山までを歩いたりした。主に北側斜面の樹林帯の中でのラッセル訓練を目的とした山行だった。
 入学してからは、山岳部一年先輩の神崎俊宏さんが声を掛けてくれた。しかも同じ所沢から通う中学の先輩だったのだが、そのときまで一面識もなかった。西武線の乗り方を教わったのも先輩からだった。その頃の西武線はわずかに二両編成で、前の車両には川高生と工業の生徒。二両目に川越女子校の生徒が乗るという不文律があった。ところが私は、所沢駅の改札口に近いという理由で、知らないまま二両目に乗って通学していた。一年の私がこんなことを続けていれば、いずれリンチの対象にもなり兼ねない行動だと、注意を受けたものだった。
 先輩は所沢にある山岳会のメンバーとも交流があって、さっそく私は引き合わされた。この会もようやく岩登りを始めようという機運のときでもあったようで、ロッククライミング用具もほとんどない中で、武甲山の岩登りを狙っていた。

懐かしい山道具
 当時の山道具はどんなものだったか。50年も前の道具である、随分と変わってきたものだ。
 登山靴は米軍放出の軍靴を手直しして履いている者がいた。折り返し皮のあるナーゲル靴が多くて、ビブラム底の靴はほとんどなかった。皮底の登山靴には、クリンカー、ムガー、トリコニーなど様々な形をした鉄鋲(ナーゲル)が打ち付けてあった。今でもその歩く音を思い出すのだが、週末の上野駅や新宿駅のコンコースはこの鉄鋲が打ち鳴らす音や、場合によっては火花までが飛び散って、それは騒々しかった。しばらくしてゴム底(ビブラム社製、ピレリ社製など)靴が普及してきて、一般にビムラム靴と呼ばれるようになった。私もその後岩登りをするようになったが、ゴム底では岩壁のスタンスから滑ってしまうのではないかと心配して、祭礼の獅子の金歯のように、トリコニー6の鉄鋲をゴム底の縁全体に打ちつけていたものだった。その後冬山へ行くようになってからは、鉄鋲に雪がダンゴのように付着することが分かって、辞めるようにした。
 登攀用具も大きく変わった。昭和32年に知り合った仲間とは岩登りをするようになったが、ロップと呼ばれていた貨物自動車の荷物麻縄をザイルの代わりにしたと、年長者からはよく聞かされた。当時は麻ザイルの全盛期で、しかも高価。巻いて束ねるときも縺れ(キンク)しないようにし、靴でザイルを踏もうものなら、きつく叱られた。さらに高価なナイロンザイルも出始めていたが、編みザイルはまだ出現していなかった。
 カラビナ、ハーケン、ハンマーもすべて鉄製で、三ツ道具と言われていた。ハーケンはまだKS式のものがなく、あご無しで、残置ハーケンは首が曲がったままで、慎重に使わざるを得なかった。アブミは木製のものからジュラルミン製へと、転換する頃だった。今ではナッツ、フィフィ、エイト環など多種多様になって、これらはギアと言われている。当時はもちろんエイト環はなかった。当然懸垂下降は肩がらみだった。クレッターシューズは話には聞いていたが用いたことはなく、むしろ岩登りでも新人にはワラジを履かせていた時代だった。ヘルメットももちろんない。最初はハンチング帽を被っていたが、それでも所沢の山岳会は早めにヘルメットを被るようになったと記憶している。ある年の夏、穂高へ岩登り合宿で入山するとき、先輩が松本の駅前で焼き鳥屋へ連れて行ってくれて、
「これはコップ岩壁初登攀を競っていたときの帽子だけど、お前にあげるよ」
 とハンチングをもらったことがあった。
 寝袋も当初は米軍放出のものであって、先輩は、
「このシュラフは朝鮮戦争で死んだ兵隊の遺体をドライアイスで輸送したときのものだ」
 と、新人を脅かした。放出寝袋は一晩眠ると中は抜け出た羽毛が舞い飛んで、くしゃみが止らなくなった。
 リュックは、昭和40年代になるまでは、横長でキスリング2尺2寸、2尺4寸などと、口布の長さで大きさが表現された。学生たちの貧乏旅行も同じキスリングで、狭い汽車の中を横歩きしてカニ族と呼ばれた。このザックはそのうちに縦長になり、大きさもリットル容量で表すようになってしまった。尻皮も同じように見かけなくなった。雪山へ行く登山者が腰につけて、いつでも雪の上に腰掛けられた。当時は自由に捕獲できたカモシカの尻皮もあって、神崎さんが使っているのは羨ましかった。

武甲山岩壁の消滅
 私たちの初期の岩登りのゲレンデは、飯能の天覧山、馬頭刈尾根のつづら岩、越沢バットレス、三ツ峠などだったが、本格的なゲレンデとして武甲山へも行くようになった。当時の西武線は吾野が終点で、そこから秩父行きのバスに乗って横瀬の根古屋で降りて、裏参道から屏風岩下の広場に着き、周辺の岩登りルートを何度も登った。しかし今では、これらの岩場はすべて削り取られて、跡形もない。当時の岩壁そのものは削り取られた空中のどこかに位置するはずで、あの懐かしい岩壁は単に思い出の中に存在するだけとなってしまった。
 それでも過去の写真集の中には、はっきりとその姿は留められている。「ふるさとの思い出 秩父」(清水武甲編 昭和58年刊 国書刊行会)には北東方向から撮った昭和30年頃の武甲山の全景に屏風岩もはっきりと映っている。「写真集 武甲山」(秩父山岳連盟編 昭和51年刊 木耳社)でも、屏風岩や雨乞岩の写真がある。見るたびに思い出は現実味を帯びてくる。痙攣しそうになる足をなだめながら乗せたスタンスや、しっかり指を曲げて掴んだホールドの感覚も蘇ってきそうだ。
 屏風岩には3本のルートがあった。西ノドウエはポピュラーで何度も攀じているが、神崎さんとも、あるいは吉原さんや繁田さんともご一緒したと記憶している。
 その頃から埋め込みボルトとアブミを用いた人工登攀も始まっていた。私たちもそれに刺激され、中ノドウエの直登ルートの開拓に取り組むことになった。従来このルートは、中央のオーバーハングを避けて左側のルンゼ状に取り付くものであった。イタリアで言われていた直登ルートの選択(ディレッテシマ論)を聞き込んで、その熱に感染したのかも知れない。
 実際の登攀は、まず取り付きに埋め込みボルトを打ち込んで、それにアブミを掛けて立ち上がり、さらにその上に次のボルトを埋め込むという、岩をタガネで掘りあけていくという作業の繰り返しになった。数人で交替しながら、50センチ間隔でジリジリと上部へルートを伸ばしていく。最上部のハング帯へ到達するまでに何日も掛かり、そこから垂壁となる辺りでまた私の番となった。アブミの掛け代えで最上段まで登り、そこからやっと姿勢を保つバランスクライミングで石灰岩をせり上がる。中穴の空いたような石灰岩特有の取っ手状のホールドだった。こうしてようやく50mほど続いた岩壁を通過した。こうして私たちは中ノドウエ中央正面壁ルートの初登攀に成功した。オーバーハングの程度は、上部からザイルを垂らすとすぐに分かる。空中懸垂となった後の着地点は、5mほど取り付き岩壁から離れていた。その後しばらくは、エコールートと呼ばれていた。
 雨乞岩といわれる岩壁は、下部が切立っていて高度感の出る岩場だった。バランスクライミングが要求されるフリールートで、若い仲間たちが狙っていたルートだった。ある日、神崎さんと二人でザイルを組んだ。ピッチごとにつるべ式で登ったが、確保地点が狭くて、やむを得ず相手の足を踏んで体を入れ換えたところもあって、取り付きから左側へのトラバースと直登を繰り返して、雨乞岩上の社のそばが、登攀終了地点だった。そして駆け下って最終バスで所沢に戻ったが、出迎えてくれた山仲間と飲み屋に入ってからも、各ピッチの細かいルートを身振り手振りで説明しながら、延々と興奮は収まらなかった。
 こうした思い出の武甲の岩場はすべて消えてしまった。そして幾度となくザイルパートナーとなった神崎さんももうこの世を去ってしまった。


一九五九年(昭和三十四年)

わんだらあ 第二号 一九六〇年六月発行 四一ページ
(要写真)
冬山合宿 安達太良山 一月二日〜六日
春山合宿 八ヶ岳・赤岳 奥秩父・金峰山〜雲取山 三月
夏山合宿 北アルプス・燕岳〜槍ヶ岳〜穂高岳 七月二十二日〜二十九日

二年部員 斉藤雄二 長島威 大石一博 小久保英夫 星野光伸 福島秀世
顧問 石川正明 内田正一 岡田潔

 部報「わんだらあ」二号は、翌年に発行されたが、この年の報告はそれに掲載されている。部活は引き続き活発だった。
冬山合宿は正月が開けてから安達太良山で行われ、そこは顧問の故郷だったという理由らしい。山岳部にとっては初めての冬山合宿で、登頂と山スキーなどを行った。
 さらに三月の春山合宿では、二年が八ヶ岳に、一年が奥秩父にと、二パーティに別れて合宿が組まれた。二年は赤岳などに登頂。
 山岳部有志で一年先輩の千野さんをリーダーとして、農場口から赤岳鉱泉を経て赤岳石室に不法滞在四日間続け八ヶ岳を踏破する。(大橋)
 一年の奥秩父では二mもの積雪があったようで、苦労した雪山体験だったようだ。
 冬の装備も市販されているものは少なく、八本歯のアイゼンは、メーカーに特注して作らせたりしている。
 また生徒会報には部活の様子として、

〈部としての山行は十月三峰雲取で県体が行われたが、日々の関係で参加できなかったのは残念である。
 部としては非公認ながら少数部員が集まって、二月の雲取、六月武甲西の岩場、八月奥秩父等をやっているようだが、学割の制限で部員の個人行動が狭められたことは、部として大きな後退であって残念なことです。遠くへ行くにはそれだけの理由があるので、憧れや何かで行くのではない。部員は個人負担があまりにも多すぎるので頭が痛いところへ、またきては“カックン”である。学割はここで一部変更になるが何とか学校側で考えてもらいたいと部員一同願っている。
 昨年部報「わんだらあ」創刊号を出し、今年十月上旬頃二号を出す予定である。(部長 大橋)〉

 個人山行では、二年の四人組(仲・清水・長沼・大橋)が二月の雲取山に出かけ、三峰神社から最終の登りケーブルを使い入山。冬山の夜間行動は初めてとあって外は風が吹き寒そうだった。どれだけ寒いか試しにピッケルを舐めたら、べろっと舌の皮が全部剥けてしまった人がいた。(大橋)

報告
冬山合宿・安達太良山 一月二日〜六日(生徒会会報から)


 激しく進歩する現在の文明社会に暮らす我々にとっては、誰もがその目まぐるしさの中から抜け出て、都会の雑音とはおよそ縁の遠い非人工的な大自然そのままの姿に包まれて、緑なす木々と共に新鮮な大気を思う存分吸ってみたいと願うに違いない。
 山はあるときは新緑のしたたる山々、またあるときは赤や黄色に紅葉し、冬ともなれば新雪を頂く峰々、四季折々の衣装を付けて我々をとき問わずして迎えてくれる山々。
 唯一の運動部として60周年記念文化祭に参加でき、資金の面では予算不足で困ったが、部員のカンパで昨年よりはるかに盛大にできたことは幸いである。
 山行においては今冬登山に対しては、費用、装備の不足等で敬遠してきたのだが、我々の代より個人負担は以前より多くはなったが、個人、個人がどうやら装備を整えたので始めることができたのは部として大きな進展である。
 石川先生の故郷、安達太良。3月には積雪2米以上もの中での、八ヶ岳合宿。奥秩父縦走等が冬山、雪山としてでき、他校から高校山岳部の域を出て上級程度の山をやっているといわれたが、別に我々は危険を冒してまで、また他校の見栄のために冬山を行うのでなくして、普段からの練習によって、また最大なる準備、綿密なる計画によって、より高度な山が望めるのだということを念頭に入れ、その成果として冬山目標が達せられたのだと部員一同自負している。(大橋・昭和34年度卒業)
一月二日より四日間、スキー訓練を兼ねた冬期宿は、南北の剣、安達太良山群に於いて十名参加の下に行われた。
 最初の日、天候に恵まれた我々は早速頂上を極め、銀白の世界を満喫することができた。翌日より岡田先生指導の下に、スキー訓練を行った。スキーは初めてという者が大部分で、大いに転んだり、止めようとして止まらず投身自殺の様であったりもした。
 またその合間を利用して雪山訓練を行ったり、吹雪の中を再度頂上に向け出発したが視界が利かず、登頂を断念したりして過ごしたが、初めての冬山を嫌というほど楽しみ、我々は安達太良群の白い勇姿を後にした。(長島)

春合宿 八ヶ岳
 前夜新宿を出、茅野よりバスで農場まで行き雪の降りしきる中を行者小屋へ向け出発した。積雪が2米以上もあり、その上に新雪が降り注いでいる中、歩行はとても困難であった。
 翌日赤岳へと向かったが、荷物が平均八貫くらいあるので急な登りのため、二回に分散して石室小屋へ運んだ。小屋には番人はいず小屋の中まで雪が積もっていて、窓から出入りする始末であった。
 次の日からは赤岳、阿弥陀、横岳、硫黄岳へとの日々をたちまちのうちに過ごしたが、とうとう小屋に泊まっていたのは我々一行だけだったが、夜間氷点下十度の寒風が吹く中での星空など楽しいものだった。
 毎日快晴に恵まれ北ア、南ア、奥秩父の眺めは素晴らしく、また同じ日に出発し、途中別れ奥秩父に行った一年生(現二年)の活躍と無事を祈って、秩父の山々に向かって大きく叫んだりもした。
 帰りは同じ道をとりながら、無事目的が達せられたのを喜ぶと共に、来年も来ることができるよう祈りつつ帰途についた。(大橋)

 
報告
春山合宿・奥秩父主脈縦走の思い出・金峰山〜雲取山
  一九五九年三月
 三月の奥秩父を、一年生が主体で計画したときに、
「ちょっと無理じゃないかなあ」
 と幾度か言われた。その度に、
「奥秩父だ。いくら冬だといっても三月、夏と大差ないんじゃなかろうか」
 といった安易な気分が出発まで僕たちを支配したことは否めない。しかしやってみてこの縦走は、雪山の厳しさ、苦しさ、辛さそしてあの美しさ、楽しさを嫌というほど僕たちに教えてくれた最初の山行であった。
そもそもこの山行はついていた。増富温泉から入山した日にかなりの積雪があり、金峰山から国師岳〜甲武信岳にかけて二mを越えると思われるところが幾度かあったのに、ラッセルを強要されたのは金峰山の下りと、大弛小屋から国師岳への登りだけであった。というのは降雪直後であっても、入山者がいたということと、僕たちと前後して無言の励ましとなった熊高山岳部によってラッセルされていたからである。
日を追って振り返ってみると、思い出に残るものに最初の雪の降る山道の苦労がある。一週間分以上の食料と団体装備に膨れ上がったザックが肩に食い込み、
「もう、こんなところに来るもんか」
と思ったものだった。ところが翌日は快晴に恵まれて、金峰山頂上の三六〇度の展望、八ヶ岳から南北両アルプスと奥秩父の主峰群、及び富士の秀麗な姿を目の前にしてすべて吹き飛んだ。
三日目の三月二十八日には、好天の中での大弛小屋から国師岳頂上までの膝上ラッセル。それに続く甲武信岳までの馬鹿尾根の苦しさ。しかし間もなく楽しい思い出に変わってきた。しかも甲武信小屋での飯は、生涯忘れられないほどのうまい飯だった。
縦走は、心臓部の甲武信岳まで来てしまうと、後は比較的楽であった。二十九日のはガスに巻かれて気味が悪かったが、雁坂峠の美しいカヤトの草原で気持ちも和らぎ、三十日は、標高も二千mを前後するだけで、残雪もわずかで、曇天の中をぼうっとした墨絵の富士に見とれて歩いた。そして三十一日の夕方からは雲取付近に三十センチの降雪をみて、四月のバラ色の朝を山頂の避難小屋で迎えた。山頂に立つ私たちの目の前では、薄いヴェールが剥がされるようにガスが消え、奥多摩水源の山系が現れた。
奥秩父主脈は、山梨県や埼玉県側は、道標も少なく粗末なものが多かったが、東京都側に来ると赤ペンキ縁取りの独特な立派な道標がユーモラスだった。
反省としては、パーティの意見が分かれることがあったのは、僕らの未熟な経験と自我が強く譲歩が無かったことも原因だろう。パーティの力量がほとんど同じ同級生だけだったことも理由であろう。しかもリーダーは互選で適当に決めていた。それでもこの学年はチームワークが取れていると自負している。(長島威)


夏山合宿 北アルプス・燕岳〜槍ヶ岳〜穂高岳 一九五九年七月二十二日〜二十九日
 二年は今回の計画をするに当たって、一年部員の皆無といっていいほどの山の経験を考え、前半を銀座コースの縦走に費やすことにした。我々の持っていた銀座コースの知識は、北アルプスのハイキングコースということだけであったが、後半の涸沢定着合宿をより有意義なものにするために、この踏破は必要であると考えたからである。
 パーティは三年大橋朋伊、二年斎藤雄二、星野光伸、長島威、大石一博、一年沢田敏雄、都築昭夫、富沢護、高野七郎、高野誠、染谷明、OB新井、井上、顧問内田、岡田。総勢十五名

第一日 曇り(新宿〜燕山荘)
 列車が新宿駅を出発したときは真夜中ではあったが、別に寝るということも無く、皆で話をしていた。列車が長野県に入った頃夜が白み、八ヶ岳や南アルプスが見えてきた。左に諏訪湖の小波を見たりしている中に松本駅に着いた。そして大糸南線に乗り、有明で下車。さらにバスに乗ってからは山はぐんぐんと近づき、花崗岩の岩肌はいよいよ手に取るようにはっきりしてきた。終点の中房温泉で下車した。
 さてここからいよいよ肝心の登山が始まる。登りはかなり急勾配であり、リュックも重く、汗がダラダラ流れる。暑い、とにかく暑い。途中から霧が出て、少し寒くなってきた。休んだときに後を振り返ってみたが、自分がどこを登ってきたのか分からない。霧は恐ろしいものだなあと思う。霧の合間から雪渓が覗くが、清清しく感じられる。合戦小屋に着く頃には、ペースは歩き五分に休み五分になっていた。
 合戦小屋の少し上の大木林から這松帯へ移る所で少し晴れた。餓鬼岳、唐沢岳がはっきりと見えた。さらに登って燕山荘まで行き、近くにテントを張った。テントの脇には雪渓があり、雪を腹いっぱい食べた。夜はカレーライスを食べて寝た。

第二日 曇り晴れ(燕山荘〜西岳小屋)
 朝だ。天候は曇り。霧が出ている。食事を済ませて燕岳に向かった。道は花崗岩が点在する中にあり、這松があちこちに生えている。視界は百mほど。歩くとサラサラと砂が崩れ潜る。高さが二十mはあろうかと思われるような巨大な花崗岩が各所に散在する。頂上へ到着したときは視界がゼロであった。途中雪渓が各所に見られたが、表面は風のためであろうか、魚のうろこのような形ででこぼこしていた。
 山頂を後にして燕山荘に引き返し、テントを畳んで出発する。まず大天井岳に向かっての行程であるが、次第に右側が晴れてきた。左側は霧が風に運ばれてどんどん吹き上がってくる。太陽光線は雲に覆われてぼんやりしているだけ。ただ気温だけが高くて、雪渓に着くたびに雪をかじったり、水筒に入れたりする。腹がどうにかなってしまうだろう。
 大天井岳の頂上では雲が槍ヶ岳の辺りを流れていたが、小槍も見えた。頂上から下ったところで、フランスパンにミルクをつけて食べた。ここでの味は格別だ。その後奇岩の林立する尾根を歩いて、西岳小屋へと向かう。途中雷も鳴り出した。やがてお花畑の続く道となり、西岳小屋の先にテントを張った。明日はあの雲に覆われた槍ヶ岳に登るのだ。(高野)

第三日 雨のち曇り(西岳小屋〜槍ヶ岳〜一ノ俣)
 縦走最後の日くらい晴れても良さそうなのに、雲が垂れ込める。出発して間もなく急な下り。そこが水俣乗越だった。そこから登り返しになり、しばらくいくと上に大槍ヒュッテが現れた。しかし激しい雨になった。それでも前進すると一時間ほどで肩に着く。元気な者だけが槍の穂先へ登っていったが、濡れた岩に悩まされ山頂に到着したものの、視界は五mほどしなく何も見えなかった。今日は山の機嫌が悪いのだろうか。他に登山客はいない。パーティが揃うと、再びヒュッテ目指して慎重に下りが始まる。昼飯を食べたが実に不味い。元気を取り戻して槍沢を下ったが、寒さと緊張感で皆青ざめていた。それでも無事に一ノ俣に着いたときには嬉しかった。テントを張り終えた頃晴れてきた。

第四日 快晴(一ノ俣〜涸沢)
 天気はいいのだが、装備衣服すべてが濡れていて、停滞気分で十時まで濡れたものを乾かしていた。一ノ俣谷から流れ出た水も、今日は清流に変わっていた。すべての衣服を縫いで水泳パンツ一枚の者もいたが、衣類が乾き出してから出発する。
 横尾にはすぐに着いた。見上げる前穂、明神が美しく輝いている。ここの丸木橋も昨年よりよくなった。その橋を渡ってテント村を通過すると、素晴らしい岩壁が見えてきた。屏風岩である。この岩を半周すると横尾谷の本谷雪渓を右にして涸沢に方向が定まる。黒々とした岩が見え始め、穂高連峰のその峰一つ一つの名前を言えるようになるころ、涸沢のテント村に到着した。実に素晴らしい場所である。ここに来ただけで合宿の喜びを感じる。
 テントで飯を食い、夕闇に浮かび上がる穂高を眺め、母に抱かれる乳飲み子のように、山の幸せに感謝して七時頃に寝た(斎藤)

第五日 晴れ(奥穂高〜前穂高岳往復)
 五時半に起床すると、涸沢の雪渓が朝日に照らされて美しかった。七時キャンプ地出発。八時三十五分穂高小屋到着。そこからすぐに岩肌の登りにかかった。かなり急だったが、ペンキ印があるから助かる。九時十三分奥穂高岳頂上に着いた。小さな神社が安置されている。中にはたくさんの名刺が入っていた。僕も手帳を破いて「昭和三十四年七月二十六日・埼玉県立川越高校山岳部」と書いて置いてきた。なおも中を引っ掻き回していると、小さな木片に山で遭難した人の名前を書き付けたものが出てきた。名前が穂高という人がいたが、その人の父親は穂高連峰が大好きだったのだろうか。その子供が山で遭難したということは、父親は悲しい。
ここからは、槍の素晴らしい姿が見えた。前穂への道は、岩の間を縫うようにして作られていた。途中道が左右に分かれていたが、先頭を歩いていた私たち四人は右の道を進んでしまった。他のパーティにつられて進んでしまったが、岳沢から上高地へ下る道だった。その平坦地で少し休んだ。そこから登り返したときに、女学生の一団が降りてきた。そして我々のために道を避けてくれた。狭いから一列にならないとすれ違えない。
「こんにちは」
と女学生が言ったが、我々は、
「こんちは」
 と返す。どんな奴だろうと思って顔を上げたが、ずっと上まで並んでいたから、また顔を伏せた。その後もう一度顔を上げたら、目の前にゴツイ穂高の岩壁が聳えるばかりだった。私たち四人は、頂上へ出るのに、相当大回りをしてしまったということになる。山頂に着いた頃には後続よりも大分遅れてしまった。十一時頃だった。後続の七人は三十分も前に頂上に着いていたようだ。
 ここで昼食にした。大天井、常念、西穂が見える。涸沢にはカラフルにテント村が見える。数えてみると六十張りくらいあった。帰りは来た道を引き返す。
 奥穂高に戻った頃に霧が出始めた。天狗沢は霧で隠れて、ジャンダルムも霞んでいる。雪渓を下りながら、
「昨年は上高地から登り、今年は涸沢から登ったから、三度目は槍ヶ岳から縦走しよう」
 と思った。テントに着いたときにはもう夕飯はできていた。今日のキーパーは、明日北穂へ登る一年の数人だった。(都築)

第六日 晴れ(北穂高岳)
 部長はこの日早朝に下山した。その後外が薄明るくなって、僕らはそそくさと起き出した。太陽はまだ出ていない。山頂から吹き降りてくる風は冷たく身震いする。下の方からガスが昇ってきた。しかしすぐに消えてしまう。飯を炊いている頃に、遠くの山が明るくなり太陽が昇り始めた。
 飯が炊け腹いっぱい食べた。おかずはキューリだけをかじった。さて北穂高に登る。各自ピッケルを持ち、ベース守は三人だけ。少し登るとすぐに雪渓が出てきた。雪はまだ固い。ここを横断して草木の生えている南稜へ入っていく。少し行くとガレ場になり、水も流れている。その先で鎖が出てきた。上から四人が下りてきてすれ違う。岩の間には高山植物が生えていて目を楽しませてくれる。振り返ると前穂を目指して雪渓を登っているグループもいる。下は涸沢のテント村。目を見張るばかりの絶景である。大きなザックのパーティとすれ違い、曲がりくねった登りづらい道をいくと、前方の一段高くなったところに大勢がいるのが見えた。頂上だ。「頂上まであと三分」と書いてある。頂上手前に小さな雪渓があり、狭い幅の道が切り開かれてある。下はすごい傾斜になっている。用心深くピッケルを握り締めて前進し、頂上に出た。
 頂上である。前方に槍がくっきりと見える。見も心もポワーンとして天国へでも行ったようないい気持ちになった。槍は鋭い岩壁を突き出していた。常念、前穂、奥穂の素晴らしさ。ここにずーっと居たいような気がしてきた。山は苦しみと喜びの場である。初めて本当の喜びが体中に伝わってきた。その後無事涸沢の天幕地に着き、午後は先輩にグリセードを教えてもらい、夜は火を焚いて皆で合唱し、最後の日を大いに楽しく過ごした。(宮沢)

第七日 快晴(涸沢〜上高地)
 今日は一路上高地へ向かう。まだこの場所に当分居たかったが。横尾を過ぎ、徳沢から上高地に着いたのは二時頃だった。朝から何も食べていないから、不味そうな売店の物でもいやに目に付く。残った最後の缶詰で最後の食事をして、一年と別れた。彼らともう一日一緒に暮らしたかったが、何分食料が十分ではなかったから仕方がない。残留者は小梨平でテントを張り、三時間以上かけて夕飯を作り、上高地をでかい顔して歩き回った。ウェストン像を見に行ったが、彼は今の上高地をどう眺めているのだろうか。

第八日 晴れ(上高地〜川越)
 今日も穂高は美しい。梓川の流れも清く澄んでいる。この分では当分天気はよいだろう。我々は今回の山行の成果を語り合いながら、バスの停留所へと進んだ。(斎藤)


勤務先で訪れた世界の山々   斉藤 雄二(一九六一年卒

 私の山登りは高校一年に始まり、大学を出て社会人となって終わりました。この間約十年、最初の山登りは川越高校山岳部の五月連休の鳳凰三山で、まだ雪の残る中、ズックで登って足が冷たかったこと憶えています。
 この年の夏合宿に、槍、穂高岳を目指して横尾にテントを張りましたが、大雨で梓川が氾濫し、中洲にテントを張っていた私たちは、朝方、体がプカプカ浮くのでこれは何だと飛び起きて、川のなかにテントを張っていたのに愕然とし、即撤収して、命からがら丸木橋を渡って、横尾山荘まで逃げたことがありました。この丸木橋の下は濁流の梓川が流れ、何の支えも無いので目が回って落ちそうになりました。この日他パーテーの人ですが、丸木橋から落ちて亡くなられたと聞きました。以後、丸木橋を渡るたびに恐怖感に襲われる条件反射に悩みました。
 この時は上高地周辺の河川も氾濫し、島々まで歩いて脱出しました。島々では高校のOBの方々が救助にきてくれていました(歩いたのは沢渡までで、あとはバスだったかも知れません。四十年以上も前のことで記憶がちょっと不鮮明です)。上高地に災害救助法が適用されるという日本山岳史上最悪の災害でした。私はその後も山登りをしたわけですが、これほどの自然災害は経験していません。最初に最悪を経験することで、以後山に対して謙虚になり、山登りを無事に継続出来たものと思っています。
 その後十年、穂高や谷川の岩登りで進退窮まり、落ちそうになったこと、後立山の稜線直下で雪崩に遭い、テントごと埋まってしまったこと等ありましたが、親に心配はかけましたが、泣かすことは無く山登りを終えました。
 最後の本格的山登りは大学の経済研究科修了時、早稲田大学山の会の積雪期の槍、穂高岳でした。私はOBとしてコーチ役で参加しました。本隊は抜戸尾根から笠ヶ岳に登り、そこから槍、穂高岳に縦走するもので、私は中崎尾根を登る槍、穂高岳のサポート隊で新人達の教育係もやりました。槍の肩直下では、晴れてはいましたが夕暮れが迫っており、風も出始め、斜面が凍りだしたので、私が先頭で足場作りをし、この日は新人も無事登りきりました。
 ところが翌日、荷物の回収に出かけた二年部員二人が、西鎌尾根上部で滑落してしまいました。幸いなことに、氷雪の斜面百メーターぐらい落ちたところで止まったのですが、一人はピッケルを足に刺してしまい、この二人を槍の肩まであげるのが一仕事でした。こんな事故もあり、怪我の回復も待って、肩の冬小屋の中にテントを張って何日か過ごしました。この山行では結局穂高岳までは行けなかったのですが、晴れ間を見つけて、サポート隊を含め怪我人除きほぼ全員が槍には登りました。厳冬期の槍ヶ岳ですからそれなりの達成感はありました。
 下りは槍沢を使ったのですが、回復途上の怪我人二人を降ろすのが大変な仕事でした。七十キロぐらいある人を時々背負って降ろしました。私もOBとして責任を感じており、当時の五十五キロ位しかない体で七十キロを背負いました。これは苦行でしたが、下りて行くに従い、陽が出て、春のそよ風が吹き、雪の下を小川が流れだしてくると、心和んで、なにか幸福感で一杯になったのを覚えています。幸いにして怪我した二人とも後遺症無しで済みましたが、私の最後の本格的な山登りはほろ苦く終わりました。

 社会人ともなり、結婚もすれば危険な山登りは敬遠されることになり、山に登るのではなく、山を見るのを趣味とするようになりました。
 私の勤めた会社はホンダで、三十五年間主に海外事業を担当しました。海外の仕事をしたおかげで、海外の山を見る機会に恵まれました。時系列で追って、私が見て感動した世界の山を十選報告致します。
 一)若い頃オセアニアを担当し、最初の海外出張はニュージーランドでした。ここの南島にサウスアルプスがあり、この機会にと思って週末に最高峰のマウントクックを見にゆきました。ここにはセスナでマウントクック直下の氷河まで行く観光サービスがあります。氷河を歩くのは初めてであり、周りの雄大な山々に抱かれている感じで、大変幸福でした。頂上直下まで行っても飛行機で行ったのでは、登ったのではなく、見たことになるのでしょう。最近の山岳娯楽映画にバーティカルリミットというのがありましたが、ヒマラヤのK2が舞台ですが、撮影はサウスアルプスで行われています。
 二)出張を終えて、駐在したのがオランダでした。夏休みに家族でヨーロッパアルプスに行きました。車で一日走ればスイスです。アルプスの山域は、アイガーのあるグリンデルワルト、マッターホルンのあるツェルマット、モンブランのあるシャモニーの三つに別れます。それぞれ甲乙つけがたい迫力があり、全部行って来ました。その中で私が一番感動したのはクライネシャデラックから少し歩いてアイガー北壁を基部から見た時です。一ノ倉沢から見た衝立よりもずっと近くにあり、凄惨な北壁に身震いしました。ヨーロッパアルプスは、交通の便(登山電車、ロープウェイ等)が良く、頂上近くまで簡単に行けるのが強みですが、これらの費用が高くつくのが弱点です。
 三)同じオランダ駐在時代、二輪、四輪の販売店さんの招待旅行でアフリカのサハリに行きました。ライオンや象やキリンがサバンナで生息しています。その自然な動物達の背後に、雪を頂いたキリマンジャロがあります。雄大にして穏やかなアフリカの自然に心洗われました。この時は仕事で家族は連れておらず、いつかこの景観を家族に見せてやりたいと思いました。今のところ実現しておりませんが。山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」ではナイロビは主人公が左遷されるところですが、達観すれば、サハリの自然と生きるのも豊かな生き方のように思えます。
 四)次に駐在したのがインドでした。二輪の合弁会社を作り、私はホンダの初代責任者でしたが、主に営業を担当しましたのでインド全土を回りました。ネパールもテリトリーでしたので、販売店設定等でよくカトマンズまで行きました。このカトマンズの小高い丘から見るヒマラヤは正に絶景でした。エベレストまで百キロ以上あるのですが、頂上を確認できます。近くにはマナスル、ヒマールチェリ、アンナプルナが迫ってきます。インド時代から単身でしたが、この景観を家族に見せたくカトマンズまで連れてきたことがあります。残念ながらこの時は、ヒマラヤは微笑んでくれませんでしたが。カトマンズは是非もう一度行きたいところで、出来ればエベレストのベースキャンプまで行きたいのですが、体力が持つか心配です。尚、カトマンズのホンダの販売店は私が決めましたが、今もお店に私の写真が飾ってあるとのことです。
 五)同じインド駐在時代によくカシミールまで行きました。首都シュリナガールからしばらく奥地に入ると高度三〇〇〇メーターの地に小奇麗な観光地があります。ここの小高い丘から魔の山ナンガパルバットを見ることが出来ました。カシミールヒマラヤでの青く光る秀峰で裾野は広く天に向かって聳え立っています。この山はヘルマンブールが単独で初登頂しましたが、その前に沢山の登山家が遭難しており、魔の山と言われています。尚、今はパキスタンとの国境紛争でカシミールには入れません。インド人には悪いのですが、カシミールは地理的、人種的、宗教的にパキスタンに属するものと私には思えます。
 六)次に駐在したのはイギリスでした。欧州本社で四輪販売の責任者でした。よくホンダの弱点は欧州だと言われますが、ホンダだけでなく、日本の自動車メーカー全てが欧州で苦戦しています、念のため。
 オランダ時代にアルプスには数度行っていたので、イギリス時代はスコットランド、ウエールズの山岳地帯を見て周りました。単身であったので一人で車を駆使して行ったのですが、友人、同僚からは何が楽しいのですかとよく聞かれました。スコットランドの山々はせいぜい一〇〇〇メーターぐらいの高さですが、氷河に削られ急峻で、海からそそり立っているので高度差あり、天気が悪くいつもガスに覆われているので、荒涼としていて迫力があります。ここを登るには本格的な技術が必要に思えます。ウエールズの山は同じ一〇〇〇メーターぐらいの岩山ですが、天気も良く観光地化しており、こちらは初心者でもトレッキングが出来そうです。スコットランドには、山ではありませんが深くて底の見えないネス湖、この世の地獄を思わせるグレンコーという峡谷があります。
 七)次の駐在はアメリカで、ホンダの関係会社のホンダトレーデングアメリカの責任者でした。アメリカは初体験の国で、また継続して単身でもありましたので、休みを利用しては頻繁に山を見に行きました。アメリカで最大の山はアラスカのマッキンレーで、野生動物の宝庫であるデナリ国立公園から見たマッキンレーはでかくて真っ白でした。山が近くて高度差があるので頭を上げて頂上を見ることになります。ヒマラヤの迫力と、いい勝負だなと思われます。問題は、マッキンレーはいつも天気が悪くて、全貌を見ることはなかなか出来ないことです。私も息子にこの迫力を体験させたく、日本帰国前にデナリにつれて行ったのですが、この時マッキンレーは顔を出してくれませんでした。
 アラスカではこの他に、氷河が海に崩れてゆく景観を見に行きました。ボートツアーで、こちらは天気に関係なしに見られるので当たりはずれはありません。アラスカは観光シーズンが六月(春)七月(夏)八月(秋) と短いこともあり(後はすべて冬)、レンタカー、ホテル代等がシーズン中は異常に高く、個人で行く場合は事前のチェックが必要です。
 八)アメリカではありませんがカナデアンロッキーは手ごろであり、数度見に行きました。一度は家内と、一度は息子と、それ以外は一人で行きました。最高峰はピラミッド型のマウントロブソンで、四〇〇〇メーターあります。基部から全貌を見ることが出来ます。ロッキーは、ヨーロッパアルプスやサウスアルプスと同高度ですが、北に位置しているので天候が悪く、難易度はこちらの方が高そうです。氷河が至るところにあり、氷河へのアクセスが容易なことが特徴です。特筆すべきはレイクルイーズと氷河の組み合わせで大変美しい景観です。尚この地もシーズンの制約あり、六月から九月の期間しか入れない場所が沢山ありますので、この期間に限定して旅行することお勧めします。
 九)アメリカにもロッキーはあり、一度行ったことあります。デンバーから車で数時間走るとすぐ三〇〇〇メーター位の高度まで行くことできますが、山としては氷河が無く余り面白くありません。アメリカの西海岸にはシェアラネバタと呼ばれる山脈があり、ここにヨセミテという山域があり、ここにも今や氷河はありませんが、氷河で削られた岩峰があり、こちらは迫力一杯で二度ばかり行きました。一〇〇〇メーターの一枚岩のエルキャップテンや半分氷河で削られたハーフドームがあります。エルキャプテンの基部から垂直な壁を見上げていると首が痛くなってきます。ここにはよくクライマーが張りついています。天気はまず問題ないので爽快な岩登りが出来るのでしょうが、エルキャップテンを登るには私はちょっと年を取り過ぎました。
十)同じアメリカでも、山と言えるのか疑問もありますが、コロラド川沿いに大変魅力のある国立公園があります。最もポピュラーなのがグランドキャニオンでアーチーズやモニュメントバレーもあります。最初一人で行って次に家内と最後に息子と行きました。グランドキャニオンやアーチーズはトレッキングも出来ますが、意外な岩山で鎖とか柵とか身を守る物がないので怖く感じることがあります。アメリカ的民主主義で自分の身は自分で守れということなのでしょう。モニュメントバレーはジョンフォードの「駅馬車」等の映画で有名になったところです。
 土漠地帯に岩山が立つ一種独特の風景ですが、ユタ州の方から入って遠くモニュメントバレーを見ると何か郷愁を感じます。

 以上の十選をベストテンで順位付けすると、ヒマラヤ、アラスカ、アフリカの順で、ヨーロッパ、カナダ、ニュージーランドは同格、次にアメリカ、イギリスと続きますが、それぞれに魅力あり、ランキングは余り意味ない気がします。
 見てない世界の山としては、アンデス、ロシア、中国それに南極があります。アンデスは、一度は見てみたいと思っています。チリのアンデスは出張時、前衛鋒を垣間見たことがありますが。ペルーのマチュピチュも是非見たいところです。パタゴニアの氷河の崩れるところも見たいのですが、これはアラスカの氷河を見たことで我慢することにします。
 山ではありませんが、ナイアガラの滝もすばらしいもので、アメリカの我が家から日帰りも可能で数度見にゆきました。しかし、このナイアガラをして可哀想と言わしめた、ブラジルのイグアスの滝は是非見てみたいと思っています。
番外編で日本の山は一番が穂高岳、二番が剱岳だと私は思います。涸沢や剱沢で寝ころんで空を見上げると本当に自然に抱かれているなと思ったものです。日本の山の弱点は氷河のないことです。しょうがないことですが。




一九六〇年 昭和35年 


一九六〇年
 冬山合宿 南アルプス・甲斐駒ヶ岳 一月三日〜五日
 春山合宿 八ヶ岳 赤岳・硫黄岳 三月二十六日〜二十九日
 夏山合宿 北アルプス裏銀座 七月二十日〜二十七日 参加十三人

二年部員 沢田敏夫 宮沢護 森田正弘 高野誠 染谷明 佐々木一郎 古島照夫 高野七郎 都築昭夫 長根照夫
顧問 石川正明 内田正一 岡田潔 中西章 中島俊郎

 前年三月に一年だけの奥秩父を縦走した学年は、二年の冬に正月の甲斐駒ヶ岳で合宿を組み、上手に登頂している。生徒たちだけの自主的な山行になった。
 また三月の春合宿では、先輩と同じように再び八ヶ岳に登山した。赤岳稜線の石室の避難小屋で二日間滞在して好天に恵まれた合宿となった。気温はマイナス十五度まで下がった。避難小屋をBCにしたというのは、当時山岳部は冬山テントを持たないために、無人小屋が利用できる山域を探していたという事情があったようだ。前年三月の奥秩父も、この正月の甲斐駒ヶ岳も、夏用テントで入山したようだ。実はこの積雪期にも活躍した年代が一九六一年(昭和三六年)卒業組みで、現在のOB会の中心メンバーとなっている。
 また山岳部は一九五八年(昭和三十三年)から運動部としては唯一、積極的に「くすのき祭」へ参加を始めた。
 くすのき祭実行委員会によれば、第一回は「自由作品展」という名称で一九四八年(昭和二十三年)に始まり、以降文化部だけで歴史は続いたが、一九五二年(昭和二十七年)に、「文化祭」という名称が使われ始めたときに、運動部では山岳部だけが、美術・書道・物理・図書部と合同で、この展示発表会に参加したという記録が残っているようだ。
 その参加は多分単発的なものだと思われるが、その後間もなく、一九五八年から山岳部だけは継続的な参加になっている。
 第二回目に参加した一九五九年(昭和三十四年)のことが、この「わんだらあ 二号」に紹介されているが、
〈今年の文化祭は、川高創立六十周年を記念して、九月二十六日より三日間、例年より一日多く盛大に挙行されました。これで運動部唯一の参加部としてのわが山岳部も二回目の参加を迎えたことになります。去年はどう企画してよいか分からず、写真の展示が主になって終わってしまった寂しいものでした。しかし今年はその上に積み重ねて、プレーヤー、テープレコーダーなどを駆使してガチャガチャとがなり立てて、参加部の中でもユニークな存在として、大変な人気を博したことは、去年より随分進歩したと自負しています。
 部屋の中に木を生やし、アルプスならぬ教室のテントの中でヨーデルをが鳴らせ、一応演出が成功したと思いました。特にハイキング相談所を設けて、我が部のアピールに努めようと思ったのです。いささか期待はずれではありましたが。しかし二、三の人には喜んでもらって、無駄ではなかったと思います〉
 明らかに現在の展示の原型になっているようだ。
 なお文化祭という名称が「くすのき祭」と変わったのはさらに後年の一九六六年(昭和四十一年)の二十二回大会からで、他の運動部が参加を始めたのはこのときからとなっている。

報告
冬合宿・甲斐駒ヶ岳 一月三日〜五日

パーティ・斎藤雄二・大石一博・星野光伸・高野七郎
一月三日 晴れ 川越〜五合目小屋
前日の新宿発二十三時五十五分の列車で、日野春に着いた。朝食を取り五時半に出発した。我々は南アルプスで最もポピュラーな甲斐駒ヶ岳を一月に登ることにしたのだ。冬の朝はひんやりしていたが、東の空が白んでくる頃から身体も温まってきた。牧の原の四つ角で小休止。そこから大武川に添って進んでいく。間もなく真正面に待望の駒ケ岳が姿を現し始めた。ぐんと切立った摩利支天、いくら見ても見飽きぬ名峰である。明日はあの頂上に登るのかと思うと、自然とファイトが出る。右手に八ヶ岳も見えてきたが、雪は思ったほどないようだ。横手を過ぎて甲斐駒神社には八時に着いた。登山者名簿に記入し、参拝してから出発した。
 この頃からすっかり晴れてきて、歩くと暑いくらいになってきた。面白味のない坦々とした道を二時間半ほどで、白須から合流する笹の平に着いた。さらに二十分ほど行ったところで昼飯にした。ラジウスで湯を沸かし、即席しるこを作った。これは甘くて格別だ。元気を取り戻した。しかし夜行の睡眠不足でペースは落ちる。
 その先で、痩せ尾根の刃渡りに差し掛かった。ナイフの刃のように左右は切立っている。そこを慎重に通過し、刀利天狗へ。さらに黒戸山を巻き小屋のある鞍部へと急いだ。
 五合目小屋に着いてすぐ食事の支度をし、ビフテキと飯を食べた。その後他パーティの囲炉裏の火にあたらせてもらい雑談した。七時半、床に炭俵を敷き、その上にグランドシートを敷き、テントを掛けて明日の好天を祈りつつ眠りに就いた。

一月四日 晴れ 小屋〜甲斐駒ヶ岳往復
 四時半に起きた。サブザックに四人分のパンとジャム缶と少しの食料を詰め込んで、七時に出発した。快晴でコンディションはいい。前に聳えている駒ケ岳は、朝日を浴びてキラキラと輝いている。
 出発してすぐに、鉄線のかかった岩場の登りがある。その後道はなだらかになって、七丈小屋に着いた。その上で森林限界を越えて眺望が素晴らしくなってきた。鳳凰・北岳が堂々と構えている。白一色の道をさらに進んで、大鳥居が立っている八合目に着いた。そこでキャラメルや羊羹を食べながら休憩。奥秩父・八ヶ岳・南ア連峰がくっきりと見える。もう一息である。
 慎重にアイゼンを効かせ目指す頂上へ前進。ついに頂上だ。疲れは一片に吹き飛んだ。まさに絶景アルプス。北アルプスまで見通せる。上越・東北の山まで手に取るように見える。一番大きいのは、仙丈岳・北岳は素晴らしい。仙丈をバックに一人ずつ写真を撮る。三十分ほどいて、少し下って風除けで食事をすることにした。
 昼食後は気温も上がって、アイゼンが効かなくなった。ゆっくり慎重に五合目へ下る。夕食はカレーで、最後の晩となり果物缶やコーヒー他飲食物はほとんど食べてしまった。八時頃に寝た。

一月五日 晴れ 五合目〜川越
 四時半起床。すぐにラジウスに火をつけて、餅を焼いて醤油をつけて食べた。六時半小屋を出発。帰路は親しみを覚えた登山道に安心感がある。クラストした長い下りを急いだ。笹の平でアイゼンを外してなお下る。駒ケ岳神社に着いた頃には、汗でびっしょりになった。昼食のパンとソーセージを食って、横手から柳沢まで一時間半ほど。柳沢から牧の原の四つ角までバスで行き、そこから日野春駅へは二十分ほどであった。(大石)

報告
春山 八ヶ岳 赤岳・硫黄岳 一九六〇年三月二十六日〜二十九日

 メンバー・斎藤雄二・長島威・大石一博・小久保英夫・星野光伸・沢田敏夫・高野七郎
 
 我々は、春期八ヶ岳登山を昭和三十五年実行に移した。パーティは学校山行ではないから、以前から行ってみたいと思っていた連中だけだった。残雪期の八ヶ岳は初めてであり、幕営装備不足の関係から赤岳石室をBCとして計画した。
 第一日 川越〜行者小屋
 我々一行は、二十五日夜新宿駅に集合した。二十三時五十五分発の長野行きを利用した。茅野駅へ着いたときはすでに空は白みかかっていたが、雪が降っていたため八ヶ岳の連峰は全く見えなかった。しかし茅野の冷気は身に沁みる。ここで農場行きのバスに乗り込む。登山者で満員のバスは、雪の中を上下に揺れながら農場に着いた。山麓の一画に立って目に入ったものは、朝もやの中に立つサイロ、黄色いブルドーザー、馬が遊んでいる牧場などが目に飛び込んできた。小屋で雪を避け、固いオニギリを頬張る。一時間ほどして雪の降りしきる農場を出発した。坦々とした一本道を三十分に五分の割合で進んだ。広い柳川を渡り、もう一つ支流を渡ると美濃戸山荘に到着した。
 ここから柳沢南沢に入った。夏道を頼りに沢を行く辺りから、ザックの重みもぐっと肩に食い込む。積雪もだいぶ増えてきてピッチを落として歩く。歩くにつて雪も盛んに降るために、道が消えてしまい神経を使った。風も強くなって阿弥陀岳の左を回り込んで、この沢もテントが五張りも張れるくらいの広さになり、雪は腰まで潜る。皆あまり声は出さなくなった。ここで完全に方向が分からなくなり、四方を偵察したが分からず、傍らのテントで行者小屋の所在を尋ね、大体の方向を知る。しばらく膝までのラッセルで進むと、立ち木に赤布を見つけた。その先に小屋があった。小屋の人が心配して迎えに来てくれたのは嬉しかった。三時二十分小屋に入ると、北沢を行った人たちはすでに着いていた。ストーブで着物を乾かしながら夕飯を作った。分厚いビフテキがうまかった。

 第二日(行者小屋〜赤岳石室〜赤岳)晴れ後曇り
 翌朝四時、我々だけ自炊のため震えながら支度をする。これから四日間を過ごす赤岳石室に入るのだった。七時半小屋を出て遥か稜線を望むと、涸沢を思い出した。これからの登りはなかなか急である。鬱蒼とした森林帯を各々冗談を飛ばしながら三十分ほど登ると、森林限界に出た。左手には横岳から大同心、小同心の雄姿。右手には赤岳西壁、阿弥陀とそのコルの素晴らしい曲線を眺めながら、急な岩混じりの尾根をアイゼンを効かせて快適に登った。
 九時二十分全員稜線に着き、そこから石室まで五分ほどだったが小屋番が入っていたので、懐の具合で隣の山渓小屋を使用した。小屋はさほど雪が詰まっていなく入り口と窓をブロックで固め強風を防いだ。十二時頃に小屋の整備、昼食も終わり、二人のキーパーを残して他の者で赤岳に向かった。強風の中を二十五分ほどで山頂を踏んだ。頂上で全員写真を撮り、阿弥陀に続く尾根を五分ほど下ってそれを偵察し、急いで小屋に引き返した。一時四十五分頃に戻った。

第三日(BC〜硫黄岳〜阿弥陀岳)晴れ
 午前五時BCの第一夜が明けた。マットを持参しなかったためシュラフが少し濡れていた。今日はいよいよ硫黄岳を往復する。半数の四人は七時四十五分山渓小屋を出発した。雲一つなく日本全土が見えるかとさえ思えた。横岳の諸ピークは全く快適に登れた。横岳主峰に近ずくにつれ、稜線に付着していた雪は見る見るうちに溶けて、岩肌が一面に表れてくる。アイゼンが岩に引っかかりすこぶる歩きにくい。横岳の一つ手前のピークからは、赤岳、阿弥陀岳、それに今回初めて見参した権現岳、そのすぐ後方にはさすがに雪が豊富な南アルプスの山並みが雲一つない空にくっきりと横たわっている。その左手には富士が丸見えだった。またその手前に奥秩父連山を見て、昨春の奥秩父縦走が懐かしく思い出された。思わず二十分ばかり休んでしまった。
 五分ほどで横岳主峰に着いたのが八時五十分頃だった。さらに岩の現れた稜線を二十分ほどで硫黄岳石室に着いた。ここから両神山が見えるようだ。さらに二十分で北面に大火口を有する頂上に立った。ここは以前ガスで方向を間違えた苦い経験があった。北八ヶ岳の美しい樹林帯が眼下に広がり、火口の縁に立って過ぎし日の思い出に浸った。石室に下って羊羹と凍った夏みかんを食べ、九時半石室を出発、急ピッチでBCに戻った。途中大同心に人がいるのが見えた。十一時四十分BCに帰る。(星野)
 午後も依然として快晴。風は少し吹いているが暖かい陽が降り注いでいる。午前中は行動しなかった半数は、阿弥陀岳へ向かう。前日に踏んだ道を行き、赤岳に登り中岳のコルへと向かう。注意して下って最後に登ると中岳のピークである。この辺りはヤッケを着ていると汗が出てくる。ここから阿弥陀岳へ一気に登行。一歩一歩慎重に進む。最後登り詰めると目の前が開ける。ついに阿弥陀の頂上に着くことができた。喜びの表情が顔に出る。記念写真を撮り十五分ほど休む。眼下には幕営している天幕がだいぶ見られる。阿弥陀からの遠望は、南北アルプス、奥秩父等である。どの山も真白き雪に覆われていて実に気分爽快。のんびりと山頂の気分を味わった後、阿弥陀を下り赤岳へ戻る。
 帰りの足取りは軽い。赤岳からは十分くらいで小屋に着く。皆無事である。小屋では停滞の者がお湯を沸かしてくれた。阿弥陀へ行ってきた後、一人の指の様子が変である。石室の小屋の伯父さんに頼んでみた。皆で手分けして治療に努めた。思わしくないようである。夕食後協議会の結果、明日下山とする。皆自分のものを整理して就寝。

第四日(赤岳石室〜川越)晴れ
 今日は下山である。皆嬉しそうな、また残念そうである。石室の伯父さんに別れを告げて行者小屋へ下る。今日もとても陽気がいい。行者を過ぎたところでアイゼンを外し、さらに一時間の地点で休み、故障者のザックを皆で手分けする。ここからは農場まで、個人個人になって急ぐ。阿弥陀を眺めながら、残雪の八ヶ岳に名残惜しい気持ちになる。農場で遅い昼食を取りバスで茅野へ向かった。駅ですでに診察を終えた彼と合流したが、心配するほどではなく安心した。帰りの汽車は準急新宿行きに乗ることにした。初めて準急に乗ったが、あまり心地のいいものではなかった。(小久保)

夏合宿・北ア
 前半烏帽子から涸沢への縦走を行った。初日のブナタテの登りは辛く、皆かなり参っていた。一年生はよく頑張ったものである。
 翌日からはさほど辛くはなかったが、午後はほとんど雨が降り快適な尾根歩きではなかった。槍の穂への登頂中あまり人間の多いのに驚いた。さすがは銀座の玄関口である。後半は涸沢に入った。
 雪渓の少ないのにはがっかりしたが、霧に浮かぶ穂高はアルプスの王者に恥じない。
 最終日、4時に起きてそのまま北穂に登った。初めてといってよいほどの快晴で、近くは槍、遠くは八ヶ岳から南アルプスまではっきりと指摘できた。「山岳部に入ってよかった」。一年生諸君はこう思ったに違いない。
 以上であるがこれはすべて尾根歩きである。しかし高等学校山岳部としてはこれで十分だと思うし、またこれらの一歩一歩の前進がやがて穂高の、北岳の岩壁に我らを導くであろうことを信じている。山へ行くことのほかに部の活動といえば六月に部報「わんだらあ二号」を出し十月の文化祭に参加したことである。最近は先輩との関係も密になった。ところで登山が他のスポーツと区別される点は危険という要素を多く含むことである。対象が自然であるのだから勝利の喜びやそこから得られるものは実に大きい。しかし敗北は実に悲惨だ。幸いなことにここ一年間は悲惨な目というものにあわなかった。これは部員の団結と不断の練習、山の研究及び顧問の先生の適切な指導等によっているのだと思う。(斉藤)


山は人生   高野七郎 一九六二年(昭和三十七年)卒

 感動は、健康の源! 私にとって……。
 川高山岳部OB会は「オールドボーイズ・山の会・通信紀行文集」にあるように、最初は限られた年代が集まっての飲み会でした。それまでに七回の山行を重ねて、一九九六年(平成八年)十一月三日に川越プリンスホテルでのOB全体会へと発展し、現在に至っています。
 その間、一九九九年(平成十一年)の、七月二十八日から八月二十五日まで、川越高校旧制中学百年ということで、埼玉新聞県西版に「くすの木の下で・部活動でたどる川越高百年」山岳部特集を九回取り上げていただきました。
 なお「会」とはいっても会費はなく、新年会や山行の参加費残や寄付金で運営しています。この間、幾多の方々とめぐり合い、また高校時代からを含めて、故人となられた方もおります。まずもって、ご冥福をお祈りいたします。
 OB会で知り合った方々はたくさんいますが、数名の方を記させていただきます。
 顧問の松崎先生は、私にとっては山の先生です。一九九八年頃からご一緒いただき、山行回数は数十回となりました。その間、連続毎月山行三年七ヵ月を達成しました。いろいろな運も伴いますので、記録更新は「?」と思われます。
 大体は先生が企画してくださり、外れた山はありません。但し道のないコースが入るのは、ほぼ毎度です。
 六期の岩堀さんは代表幹事として会を束ねていただき、今日に至っています。またご自宅にも度々呼んでいただき、ご迷惑をおかけしています。そして、何といっても二〇〇三年からの夏山です。十三期の長島さんと、三十四期の加島さん(二年目から)と一緒に、最初の年は雨の飯豊山、翌年は晴天縦走の飯豊山、その翌年は朝日連峰南部。予定していた小屋に泊まれないこともありました。〇六年は集大成の朝日連峰北部縦走で、好天に恵まれました。いずれの山行でも山で飲む水は美味しく、花々は数量共に多くて綺麗でした。
 年齢は離れていても四人は飲み仲間。下山の宿での祝宴は楽しみです。同行させてもらって感謝しています。
 十三期の長島さんはずっと会の中心で、有志山行のときはいつも最高の料理を山で食べさせてくれます。その他諸氏に付いては申し訳ありませんが、割愛させていただきます。
 山のことわざ 「山は天気だ」といわれます。季節が変わればその時々の花や景色が見られる。しかし天候が一番。晴れていれば雪庇も見える。景色も見える。山も読みやすい。でも日に焼ける。
 雨の日は濡れる。カッパを着ても中から濡れる。雪が降ったら寒いし、道に迷う心配もある。風が加わるとさらに大変。
 山の天気を家庭や職場に置き換えてみると更によく分かる。子供の成長(別の楽しみではありますが)など、家族との関係、特に配偶者(妻)の理解がなければ、なかなか山には行けない。職場の人間関係や仕事の内容によっても、行けない時期はあります。
「山に危険はつき物だ」その一。
危険と緊張感は紙一重。私の山はレベルは浅く、種別は広く楽しんでいます。
 私は本格的な岩登りはしませんが、岩遊びは大好き。これはもう危険が一杯。油断したら命がない場合が多々ある。しかし一般的に岩は眺めがよい。
 好きな山は、妙義山、福島の霊山、中之条の嵩山など。
 沢登りも危険度最大、常に緊張を強いられる。滑って転んだ、尻を打った回数は数え切れない。しかし後遺症になったものはないかな。夏の醍醐味としての濡れる沢や、秋の紅葉期の沢などは特に楽しい。やや趣の変わった沢登りとしては、残雪期の沢では踏み抜き注意だが雪解けに伴う花々が楽しめる。
 雪国山を除き、秋の後半から春にかけては水量も減り、葉が落ちて眺めもよい。登山コースが分かっている場合や時間に余裕ができて、下山などでいい沢にあった時は、すぐに沢を歩きたくなる。昔に比べて、砂防ダムが大部分の沢にできたので、いい沢は山の麓にはなくなった。
 好きな沢は、巻機山の沢。ここ数年は毎年通っている。
 雪山は天気がよければ遠足気分だが、荒れたら不透明になる。雪崩は怖いが、雪庇があるような山は、視界不良のときには登らない。吹雪いたら行き先が分からなくなるような場所は、随所にある。新潟、福島の山を中心に登っていきたい。
 普通の登山コースでも、ガニ股の足には、木や岩がよく当たってくる。笹や草に隠れたらなおさらだ。切り株の残りや、石、たまには思いがけない人工物もある。
 道に迷う。踏み後が不明瞭になったらなおのこと。二つの道が合わさったのに気づかず、帰りに「?」ということもよくある。
「山に危険はつき物だ」その二
 動物の中で、マムシ、スズメバチ、熊(ヒグマは論外)、猪が浮かびます。山の危険には別の問題として、交通事故もあります。私は運転中でも眠くなることがあるので、例え先生を乗せていても(なおのこと)、停まって寝ます。眠気と寝るペースの兼ね合いは分かっています。
 事故は自損に限りません。他車からのもらい事故はもちろんのこと、山では落石や崖崩れなどもあります。家に帰って登山完了です。
「悔いがないように」登山をしたいが、諦めも肝心です。相矛盾していることを心がけています。登山コースの脇にある水場、展望所、岩、花や巨木などなど、寄り道して楽しむようにしています。そして手ごわそうな岩などの場合はさっさと諦めます。
「山は逃げない」と言われますが、武甲山や叶山のように失われた山もあります。あるいは若いうちは仕事のことや諸般の事情により、この言葉を信じてパスしていると、歳を取ってから「体が付いて行けない」ということも起きてきます。年齢だけではなく、トレーニングとの絡みもあります。自分では個人山行(単独行)もします。これは仕事や用事の都合がなければ、天気を見て日程変更や行き先変更がし易い。
 山が逃げる原因は、仕事または家庭の事情で時間が作れない。体力の不足(レベル変更で乗り切り可能)。単独行をしない場合で仲間がいない。お金が不足。これは自分も含めて同情しかない。
「他人に迷惑をかけない範囲で好きなことをする」という心構えでいます。けれどひとたび遭難して動けなかったら、自前で救助できる山岳団体は皆無に近いのではないでしょうか。OB会しかりだと思います。今では大部分の県警でヘリを持っているようですが、安易な依存は慎みたいと思います。普通山では携帯電話は通じなく、電源切りの状態です。遭難の状況によっては翌日まで生きていられるかは、分かりません。
 遭難して動けなくなった場合、パーティの中に、下山して再び案内でいるだけの同行者がいることが望ましいが、むやみに動かないことも大事です。
 ハプニング どのような山行でも、ちょっとした打ち身、擦り傷は数え切れません。
 高校時代では、奥秩父の山行で下山が一日遅れてしまいました。また八ヶ岳では、私の右手薬指の凍傷で、みんなに迷惑をかけました。
 卒業後では、丹沢の年の暮れの沢で、足を石に挟まれました。同行者に動かしてもらえば何でもない石ですが、体勢の関係で自分では動かせません。一人なら完全にアウトです。
 妙義山では、同行者が鎖から手が離れて落ちましたが、下で見ていた仲間が受け止めてくれて、ほぼ無傷でした。その他、大きく迷ったことはありませんが、道が分からなくなったり、行き詰って戻ったりすることは毎度のことです。
「山を甘く見てはいけない」ということです。マイカー登山に慣れると、どうしても装備が雑になりがちです。遭難したら死を覚悟では、いけないのかな。
 夏でも雪渓は冷えるが、厚着をして汗をかくとよくない場合もある。なかなかうまく行かないこともある。
「誘われるうちが花」という言葉は、我が家では夫婦の合言葉です。誘われるうちが花、行けるうちが幸せです。自分が歳をとれば、付き合う周りも歳を取ります。自分も変わるし付き合う人も変わる。話が出たときに実行しないと、それっきりになる場合もあります。ちなみに私は「お世辞」と「飼い殺し」という言葉が嫌いです。お世辞を本気にしていると話が進みません。飼い殺しに至っては、他の予定も立てられず、中途半端になってしまいます。友達や仲間の見極めは大事です。
「自然に感謝の気持ちを抱いて山に登れ」ということです。山の麓に寺社があれば、山に来ることができた諸々の感謝と安全を祈願する。遭難碑があれば頭を垂れ、山の上に祠があれば手を合わせる。下山したら無事を感謝したい。山の中で花や景色に感動すると、思わず「有難う」とつぶやきます。
「人の心に花一輪」というのは、むしろ人生訓ですが、山からは幾多の花一輪を受けた。人との出会いで心にトゲを残してはならない、花一輪を。これは私事では実行できてはいない。自覚以上にトゲを残しているようだ。
「ロマンチストはエゴイスト」でもあります。周りに夢を与えている。亭主(妻)は元気でするがいい。理想に生きることと、はた迷惑は紙一重。
「山から学ぼうとする者は生き残れる。学ばないものは生き残れない」ということなのでしょう。
 私は職場で、ある時期「冒険家」とあだ名を付けられたので「冒険をしない冒険家です」と言い「冒険をしないから今まで生きてきた」と言いました。家族にもそう言っています。しかし、自分の言ったことを忘れるから新鮮味や感動を味わえる一面もあります。
「知ったかぶりはできない」ということなのです。
 新しい感動に出会ったときは、いつも思います。予想外や予想以上ならなおさらです。花の時期や咲き方は、年によって違います。積雪。残雪の量や沢の水量、秋の紅葉も違います。状況によっては通行できない場合もあります。
 人生訓 「芝居の修行」で言われることは、修行そのものは教えられるものではなく、盗むものであると言うことです。それも自分の技量分しか盗めない。また技量を超えたことを教えられても分からずに、自分がそこまで到達したときに盗むしかない。盗んだつもりでも真似ただけではダメで、それを基にして自分なりの方法を編み出すことによって生きてくる。
また芝居では、他人のセリフがあってこそ、自分も成り立つものだと教えられます。台本の自分のセリフに線を引くことをしていたら、自分しか見えなくなっていいことではないのです。
「中年からの生き方」としては、若さよりも、人間年輪を大切に育てよう。
「運転の心得」は大事です。マイカー登山のドライブ(山行・旅行)は楽しい遊びではあっても、人生の生死を預かる運転行動は、決して遊びであってはならない。眠くなったら車を停めて寝ましょう。
「新聞投書」で見かけましたが、どんな失敗をしたって、取り返しの出来ない失敗などは一つもないというものです。


長島威先輩お元気な理由   染谷 明 (一九六二年卒)

 昭和三十四年、川越高等学校に入学すると、先輩から、
「運動部に入ったか?」
「昼飯は三時間目に食べろ」
等々お説教が続きました。
 私は、同じ中学校から行った高野誠君にどこか部に入ったのかと聞いたら、山岳部に入ったと聞き、じゃあおれも山岳部に入ろうと決めました。中学の三年に所沢中学校を卒業した春休みに、同級生や担任の小川正夫先生らと子の権現や日和田山にハイキングに出かけた楽しい思い出が残っていたからです。
 山岳部に入りましたが、新入生歓迎登山は行きませんでした。すぐに先輩の長沼友兄さんと神崎さんに連れられて武甲山の岩場「西の洞」へ行き最初から岩場登りでした。ハーケン、カラビナ、アブミ等を使って引っ張り上げられて登った記憶があります。
 夏になり、夏山合宿は、北アルプスの縦走です。無我夢中でついていった感じです。大石先輩から早く歩くと荷物が軽いのではないかと怒られたり、野菜をポリエチレンに包んでキスリングの中に入れておくのですが、傷がつくとすぐ腐ってにおいを発し早く目的地に着かないかな思ったものです。コースは新宿を夜中に出かけ、有明というところに着き、合戦小屋経由で大天井まで行きました。夜行列車は、先輩に教えられてシートの下の床下に新聞紙を敷いて寝るのですが、熟睡できません。大天井から尾根伝いに西岳、槍ヶ岳へ行き、槍沢を下って横尾へ、そして涸沢へ上がり、テントを張って北穂高、奥穂高等を登って帰ってきたのですが、長島威先輩のこととはこの縦走中のことです。
 西岳にテントを張って泊まることなり、夕闇も迫ってきました。西岳というところは、前に槍ヶ岳がはっきり見え、水場がありません。雪渓を下の方まで降りていって、飯盒の米をとぎそしてポリタンに汲んでくるのです。先輩の言うことは命令ですから聞かねばなりません。澤田敏夫君と私は、長島先輩にこう言われました。
「明日は早く出発するから、飯を炊いて、握り飯を作って入れておくように」
 澤田君と私は夕飯を食べたあと「大キジ」を岩場の影で撃って、手を洗っていません。水は貴重ですし、下の方までまた手を洗いに行けないほど疲れていました。そこで澤田君と私は、そのまま握り飯を作り知らん顔していました。朝になってその握り飯をまず長島先輩が食べ、澤田君と私は違うものを食べて朝は過ごし、槍ヶ岳を目指しました。
槍ヶ岳は天気が良かったのですが、槍沢を下るとき雨となりずぶぬれになって横尾へ着いたのを覚えています。長島先輩は終始お元気でした。
 現在、川越高等学校山岳部OB会が春と秋の登山を主催してくれ、私もなるべく参加しようと心がけています。また新年会やら幹事会やらこの長島先輩にはいつもお会いしていますが、六十歳過ぎても元気に登山をつづけておられます。このことを話すと、
「お前のおかげで今は元気に過ごしているよ」
 と言ってくださいます。私にとっては川越高校山岳部の先輩ではありますが、よき師であり、また愉快な仲間でもあります。
すでに大石先輩、澤田君もこの世を去ってだんだん仲間が減ってきていますが、岩堀弘明先輩を始めいい山の仲間に会えたと心から感じているところであります。今は、健康のために自然に親しむという感覚で山に登ろうと考えています。おかげで春と秋の山行は二〇〇〇m程度の山のため何とかついていっていますが、だんだん年齢とともに、山より付き合いの温泉のほうが楽しみとなっています。最後に、埼玉県立川越高等学校山岳部よ、万歳。



一九六一年

夏山合宿・北アルプス・穂高岳

二年部員 市野川恭三 浅野裕幸 本郷功 中村武夫 大西貞幾
顧問 内田正一

 この年の三月に卒業した大石一博は、入学した立教大学ワンゲル部の夏山合宿で、無念にも疲労遭難死してしまった。川高時代の三年間には、登山でバテることとは無縁に思えた部員だっただけに、同級生はショックを隠せなかった。

山岳部OB大石一博さん 苗場山での疲労遭難
 一九六一年七月三十日没 享年十八歳

 川高を卒業したその年の夏、OBの大石一博さんは、進学した立教大学のワンゲル部で、最初の夏山合宿に参加した。群馬・水上の上ノ原高原(宝台樹)にある、大学の小屋に集結するという合宿で、参加八パーティ、総勢八十四人という大部隊の山行だった。
 彼が参加したA隊は、志賀高原の発哺温泉から岩菅山〜烏帽子岳を縦走し秋山郷に下り、苗場山を登り返して元橋に下り、さらに平標山から上越国境を縦走して朝日岳に至り、そこから宝川温泉に下って、上ノ原に到着するという八人パーティ、八日間の長期行動だった。
 当時のワンゲル部報によれば、入山二日目頃から体調を悪くして、五日目に途中の苗場山から付き添いと共に下山して帰郷したと報告されている。ところが帰郷して二日目、突然亡くなってしまった。一九六一年七月三十日のことだった。部報には「重症筋無力症」で入院し、突然息を引き取られましたと記されている。
大柄だった大石さんは、川高時代もその後も、体力的には頼りがいのある部員だと思われていた。それが逆に仇となってしまったのでは、不遇である。当時の大学ワンゲル部報から転載してみる。
〈七月二十二日、多数の見送りを受けて、湯田中行き臨時夜行列車で上野を出発。
 七月二十三日、早朝湯田中に着き発哺温泉までバスに乗る。バスを降りた一行は、今日の幕営地岩菅山に向かって縦走を開始。大石君は昼食直前に、足が吊り気味だと言っていたが、その後全員元気に岩菅山幕営地に着く。
 七月二十四日、岩菅山幕営地を出発すると尾根道になり、幾つかの突起を越え、裏岩菅山、烏帽子岳を経て笠法師より一気に切明まで標高差八百mを下る。今日の予定はこの切明より、平坦な林道を和山温泉まで五十分ほど行くと終わる。大石君は切明までは元気に歩いてきたが、切明を出てから遅れだす。パーティは遅いペースで歩いたが、幕営地手前二十分ほどのところで、足が痛み疲労の色も濃いので、彼の荷を減らして歩くが、どうも足がしっかりとせず、空身にして和山温泉に着く。その日彼はテントの中で休養する。
 七月二十五日、大石君は昨日の休養で回復し、パーティと共に予定行動を取ることにする。今日は苗場山に幕営する予定である。部落を抜けて二時間ほどの緩いのぼりは皆な快調であったが、昼近くなって大石君は遅れだした。栃川で一時間の大休止昼食にする。そこからの急登は調子よく登り尾根に出るが、尾根で大石君の調子は悪くなり足の痛みも訴えるので、昨日と同じ空身にして歩く。そのため今日の予定は取りやめて、大石君と小口、三年の荒川がゆっくり登ることにして、私は他のメンバーを率いて、苗場山山頂から一時間手前の水場で幕営し、夕食の支度を始め、私と二年の橋本が大石君を迎えに戻る。大石君は空身でも思うように歩けないようであり、我々の肩を貸してテント場まで上がる。この夜彼は吐き気を催した。
 今日の調子を見ると、明日から彼を下山させることに決め、下山コースはポピュラーな湯沢温泉に出ることにする。
 七月二十六日、この日大石君は状態が思わしくないので予定を取りやめ、午前中は休養し、午後からテントを苗場山頂上に上げた。彼は空身で歩き、夜はかなり状態もよくなってきた。
 七月二十七日、本隊と別れ、サブリーダーと三年生に付き添われて湯沢へ降りる日である。彼は本隊を分かれる赤湯の分岐点までは元気だったが、下りにかかるとぐっとペースが落ちてきて、今日中に到着できるか心配された。ちょうど下山してきた北越製紙の方々の手助けによって担架を作り、林道へ出た。林道からトラックに乗り湯沢の旅館に着いたのは七時近くであった。
 湯沢での医師の診断によると、「単なる疲労です、回復するでしょう」ということであった。この日大石君の自宅へ電報を打ち、明日帰宅する旨を伝える(一方本隊は縦走を続け、予定より一日遅れで、三十一日上ノ原に集結した)。
 七月二十八日、湯沢から上越線で大宮へ。車中大石君は体の痛みを訴える。二時半頃大宮に着き、迎えに来て下さった家族の方と自動車で川越の自宅に着く。
 自宅で彼を診察した医師は、重症無筋力症で、一週間で回復するとのことであった。医師の言葉で安心した付き添いの二人は、その日夜行で本隊に合流するべく土合に向い、翌二十九日、蓬峠で本隊と合流した。この日の彼は、少し元気を取り戻してきたようだった。
 七月三十日、一時回復に向ったのであるが、この日午前七時頃突然息を引き取った。医師も付き添っていない突然のことであり、彼の意識は最後までしっかりしていたといい、医師の言葉も楽観的なもので、ご家族も安心されていたときのことだったそうである〉
 
 大石さんのご遺族は、実姉が健在だった。
「ほとんどこん睡状態のまま、体を支えられてようやく下山してきたのだと思います。現地でもトラックに拾われて、ぐったりしたまま駅までたどり着いて、川越に戻る電車の中でも通路に倒れこんだままだったようです。
 自宅に戻っても食事を摂れないまま、どうにかスイカのジュースを飲んだだけで、それも吐き出していました。そしてそのまま入院して、日大病院では、当時の人工呼吸器「鉄の肺」という装置で再生を図ろうとしたのですが、その直前、帰宅して二日目に亡くなりました」
 無念である。梅雨明け、真夏の登山は最も安全であるとその頃は言われていた。脱水症、熱中症の危険が叫ばれるのは、もっと後の時代になってからである。
 他方、大学山岳部やワンゲル部には、新入部員のシゴキ事件があると言われた時代もあった。事実、四年後の一九六五年には、東京農大ワンゲル部の「死のシゴキ事件」が、社会問題化した。それは一人が死亡し、二人が重体、二十五人が怪我をしたという刑事事件になった。起訴された上級生八人は七人が有罪となり、大学は一人を退学にして上級生十七人を無期停学にしたと、新聞資料に残る。
 大石さんの周辺でも、同じことが起きたのではないかと、川高同級生は疑った。病床で彼が家族に話したのは、
「登山を継続するのは無理だから下山したいと申し出でも許されなかった。ワンゲル部も辞めたいと申し出たが、辞めさせてくれなかった。体が弱っているのに、歩け、登れとしごかれた」
 という遺言のような幾つかの言葉だけが、実姉の記憶に残っている。けれど、当時の部報を改めて読む限り、上級生の対応は誠実だったようにも思える。大柄な体躯だから登山に向いているというのは、誤りでもあった。ワンゲル部の部報も、
〈今一度、創部当時に返り、考え直すことが必要である。自然を友とする我々は、一歩間違えば遭難という危険を経験する。我々の反省は、何らかの具体的代償が払われるまで忘れ去られていく。今度の代償は十分すぎるものであった。大石君の冥福を祈ると共に、彼の死を無駄にすることなしに努力したい〉
 と結ばれている。上ノ原高原には、彼の慰霊碑が建立されている。(編集者)

あの年の夏、故大石一博の記憶
                    長島威(一九六一年卒)


昭和三十六年四月 池袋三丁目立教大学
 この春に立教大学に入学した。四月も終わりになるのに、昼休みのキャンパスは新入生でごった返している。何とまあ、騒がしいことか。科目選びのオリエンテーションも終盤となり、ほっとしている顔も多い。赤レンガの本館を抜けた通称四丁目と言われる中庭のベンチにいる。芝生が青い。通りは新入生を当て込んだ体育系文科系を問わず、各部活の新人勧誘の机が立ち並んで、大声を挙げている。
 第一学食の前、銀杏の大木の下にアルペンテントが二張り見える。「立大山岳部」と書かれたそれは、春山の虫干しか、それともデモンストレーションか。
 さすがに強靭そうな明るいオレンジ色のそれは、今まで見た私らのものとは比べるべくもなく立派だった。
「もう入ったのか」
「いや、まだだ。親がうるさくてなあ」
「俺はワンゲルに入ったよ。長島は山岳部にと言ってたな」
「う〜ん。入部の紙は貰ったけれど、まだ出してない。大石はワンゲルか、いいな。夏までには決めるよ。おふくろに話してみる」
「ここの山岳部は怖いぞ。大学で初のヒマラヤ遠征隊という話、聞いているか」
「ああ、知ってるよ。だからよけいにね」
 大石一博とは、川高山岳部で三年間同じ飯を食って、同じ大学に入学した。親友だった。気も高ぶっていた。勉強にも真面目な大石の現役入学はもちろんなのだが、暮まで山で遊んでいた私には、とても幸運な合格になった。友人たちには公言せずに受験したものの、今こうしてキャンパスで大石と再会できることは、本当に嬉しかった。大学キャンパスはあまりにも華やかだった。学生手帳によれば女子は二割もいないというのに、この四丁目の藤棚辺りは文学部も近いし、七割まで女子学生に占められている。男子も一年や体育系は黒の詰め襟だが、ジャケットや替え上着姿が多い。
 長島茂雄さんは、一昨年の姉の入学のときに卒業していたが、野球部は今年の春の六大学リーグ戦でも、また優勝候補らしい。でも今年の早稲田には甲子園にいった吉田さんがいるぞ。そんな空気の中での大石とのやり取りは、川高の延長のようでほっと和む時だった。
 私は正直なところ、親に山岳部への入部は止められて、参っていた。それも当節の山の遭難騒ぎが原因かと思う。昨年の冬から春にかけては、大学や高校山岳部の遭難が新聞を賑わせていた。親たちが目を尖らせているはずだ「山をやるために大学に入れたのではない」。しかし、山の映画は花盛りだった。イタリア・ドロミテの「アルピニスト・岩壁に登る」とか「ヒラリーとテンジン・エベレスト初登頂」。日本版も「花嫁の座・チョゴリザ」を皮切りに「マナスル」への数度の挑戦が続いて、山好きを煽っていた。後年私たち山岳部の大先輩の金子勇二先生がマナスル登山隊の一員であられたと聞く。
 この入学した一年は、ざわざわとした時代だった。六十年安保の翌年である。ノンポリ学生が多いといわれた立大でさえ、構内でデモが行われていた。鉄兜と手拭で顔を覆い「我々はア〜」と例の調子でアジテーションに乗せられて、同級生も何人か参加していた。もちろん東京オリンピックを三年後に控えていて、都心の高速道路や代々木のスタジアムの建設が急ピッチで進んでいた。
 大学の部活では、マニアックな山岳部に対抗して、ワンダーフォーゲル部通称ワンゲルが民主的風潮で「女子もどうぞ」と勢力を伸ばしていた。だがここにもシゴキはあったのだろう。
「とにかく、夏まで入部は待つよ。今年は一人で頭を冷やしてくる。川高の夏合宿は今年も北アルプスと聞いている。終わり頃に涸沢に入ってみるよ、大石は?」
「俺はその頃は、ワンゲルの合宿だ。谷川の方だ」

七月二十三日 夕刻の新宿駅
 それから三月たった。いつもの夏山騒ぎの中央線だ。例によって新宿駅南口で「二十三時五十五分・長野行」と書かれた白い木札の前には、六時間も前なのに、五十個以上のザックが順番取りに並んでいる。私も同じようにザックを置いて街にでる。昨年まで長沼さんたちに連れて行かれた歌声喫茶「ともしび」。店内はアコーディオンと歌声で「わ〜ん」としている。山の歌・草原情歌・ロシア民謡など。昨年までは大石や星野、斉藤たちと縮こまって座っていたものを「ビール」といってピースに火をつける。少しは学生っぽくサマになっているのかと、辺りを見回すが誰も見ていない。夜行列車の車中では、さっきの騒ぎが嘘のようだ。慣れた振りして四等寝台といっている座席の下に潜り込んで、新聞紙を敷いて寝る。

七月二十六日 上高地の夜
 槍ヶ岳を往復して上高地に舞い戻っている。前日は贅沢にも小屋泊まりだった。横尾谷の丸木橋もすっかり頑丈に架け替えられていた。二年前の夏、三本丸太の真中が細く垂れ下がっていた橋。増水した梓川の濁流の中を渡っていると、体が左右に動いているようで本当に怖かった。そのときすがっていた針金が木の柵になっていた。
 上高地キャンプ場の炊事場の軒先を仮寝の宿としている。ビバークの練習で、キスリングの荷物を出して中にシュラフで潜り込む。姉貴に頼んで縫ってもらったザックの中折れを引き出すと、すっぽり体が包まれる。これは星野に教えてもらったのかな。特性のオーバー寝袋になる。
夜中に何か分からないが目が覚める。少しぼんやりしていた。高一の正月は雪の安達太良だった。勢至平の風雪の中、寒くて足のモモが吊ったのを石川先生にさすって暖めて頂いたのを思い出した。次から次へと高校時代が懐かしい。斉藤、星野、小久保、大石が、二十人もいた部員の最後まで一緒の仲間だった。高一の春は、この五人で奥秩父の縦走をした。冬と春の山行は学校から禁止されたため、黙って出かけた山行で絆を深めたのだと思う。高二の冬の甲斐駒は、正月の店を抜けられなくて不参加で悔しかった。その春の八ヶ岳は、新人の高野、亡くなった沢田敏夫も参加した思いで深い山行だった。合間には学校をサボって部室からザイルを持ち出して、武甲山で沢登りの真似事も練習していた。星野は身が軽くて、中のドーエとか、西のドーエとか、上級をやっていた。私は初級で大棚沢だった。
 高三の五月は鳳凰三山で、一年の五月を思い出しながら強くなった足腰を確かめた。卒業記念の最後は、受験も終わった三月の安達太良だった。スキーの板を担いでいったことや、くろがね小屋の源泉が熱くて雪ブロックを投げ込んだことなどをぼんやりと思い出す。一人で山に行くと、何故か大石や皆の顔が浮かぶ。……梓川の川音で眠る。

七月二十七日 西穂高岳の遭難者
 西穂を目指している。小屋への搬入かボッカが背負子で頭の上にまで箱を積み上げて前を歩いている。このバイト一回で千円少しだと聞いたが、一杯五十円のラーメンを何杯食えるか。重さは五十キロはありそうだ。小遣いの節約にどうだろうと考えたけれど、とても私には無理そうだ。九日間の食料と装備で自分のザックは精一杯。ボッカさんに遅れないように付いていく。ボッカは休むときでも立ち木や岩に荷を預けるだけで、立ったまま休んでいた。
 西穂小屋を過ぎると一人になった。お花畑の頃からガスが濃くなる。山頂に立つ頃、三角点と道標で、やっと「ここが頂上か」といった感じで、皆目周囲が分からない。すぐ近くだった岩陰が遠くのピークに見えたりする。あの時はテントも持たずに、本気で悪天候のビバークをやろうと思っていたのだろうか。
「こんにちわあ、すみませんが」
「入れよ、一人? 何とかなるよ」
「申し訳ない」
 西穂を過ぎて、三つ目くらいのピーク下、大きな岩陰にテントを見る。名古屋のトヨタ「山の同好会」の方々でした。四人パーティで「雨も降ってきたから大変だろ」と、快くテントに入れていただいた。申し訳ないのでとっておきの、コンビーフを進呈する。
 夜八時頃だろうか。テントを叩く音で眼が覚める。
「こちらに男女二人のパーティが来なかっただろうか」
 聞けば西穂の小屋の人で、まだ帰りがない宿泊二人を探しているらしい。午後「西穂のピークまで行ってくる」と言ったままで、暗くなっても小屋に戻らないらしい。「私より先、キレット方面には行っていないと思う」。
 私とトヨタのリーダーの二人が、小屋の人に同行して戻りながら探すことにする。西穂の頂上辺りはガスに巻かれると道が分からなくなる。雨は大したことはないが濃霧で懐中電灯に浮かぶガスは渦巻いている。独標を過ぎた頃、下から大勢の灯を見る。小屋からの応援の人たちで声を掛け合う。
 女の人は自力で小屋にたどり着いたという。別れたお花畑付近を捜す。夜九時過ぎに、降りかけたガレ場で男の人を発見。ズック靴、軽装な若い人で無事だった。島々の駅で知り合った男女だったという。お騒がせな二人だ。私は大騒ぎになっていた西穂小屋に迎えられて、トヨタのリーダーとビールとご馳走をいただき、蒲団で休んだ。大勢の後についてコールを掛けていただけなのに、申し訳ないくらいだ。山で初めて飲んだビールは本当にうまかった。

七月二十八日 奥穂高岳
 そのまま私たち二人も小屋で寝てしまった。朝暗いうちから丁寧に送り出される。早くテントに戻ろう。西穂のピークを過ぎた頃に急にガスが晴れて、陽が足元の右側から差してきた。「見て」。トヨタの人が指す方向に、二人の影がガスに浮かんで、周りに丸い虹らしきものが見えて、不思議な気持ちになった。美しさのあまりに絶句。それ以来二度とない現象だった。何気なく「大石は今頃どの辺だろう」と、谷川へ向っている大石を思い出した。
 テントに戻って厚く感謝してパーティと別れた。西穂の稜線を無難に通過して、奥穂高岳から涸沢へ降りた。そこで内田先生に出会った。先輩顔して川高生のテントに入る。

七月二十九日 上高地
 午前中は涸沢でグリセードをして遊び、上高地でも川高の野営に同宿する。生徒から離れて、五千尺の食堂で、石川先生、岡田先生に「ま、いいだろう」と、一杯のビールを注がれた。これにはびっくりで、学生ともなると偉く違うものだと変なことに感心した。明日も一日伸ばして、再び西穂へ後輩を案内することにする。一度の山行で、同じピークに四度登ったことになった。

八月二日 川越
 星野、斉藤、小久保と大石の家から出る。前日帰ったときに、星野から大石の訃報を聞いて絶句した。「一体何があったんだ」。ご挨拶した大石のご両親、特にオヤジさんの涙顔に全員言葉がない。思い返せば、早朝の西穂でブロッケンを見て大石を思い出したとき、彼は疲労困憊で下山して、再び西穂に登ったその日息を引き取っていた。

八月十四日
 大石の新盆で皆と泉湯のお宅へ伺う。大石の家は銭湯だった。またまた言葉にならない。昨日山岳部への入部届けを破り捨てた。でかい体でザックを頭の上に担ぎ上げて背負うのが奴だった。いつもは無口だったがキャンパスで最期に会ったときは、妙に饒舌だった。私と同じく入学した高ぶりだと思った。人なつっこくニッと笑うと金歯が一本光った。目が痛いのは白い入道雲と青い空のせいだけではあるまい。

三十年後
 こうして私の登山は終わった。後年三十年たって五十歳を過ぎた頃、中央公民館の館長になった大石の弟さんと再会した。「あれ以来山には行ってなくて」。言葉少なく別れた。その弟さんも若くして病で亡くなった。
 それから数年過ぎて、可児さん、岩堀先輩、沢田英教さん、高野さん、沢田敏夫さん、皆さんの山遊びが始まろうとは思いもよらなかった。沢田敏夫さんは、OB山行が始まった頃、幹事として手配や記録に大変お世話になった。今のOB会の基礎を作っていただいた。病で急逝されて数年になるが、OB山行の度に偲ばれる。高校の頃、歌詞だけを覚えたエーデルワイスの花をミヤマウスユキソウとして飯豊や朝日の以東岳で岩堀さんや高野さんに教えていただいた。忘れようとしていた山の喜びを年月が癒して、思い出させてもらった。大石が亡くなって半世紀。六十五才になった心では、山の景色がまるで違う。
「川高OB山の友」にお誘した金子先生、松崎先生という大先輩に、花の名前をお教えいただくことができた。
 人生先に行く者、後から追いかけて行く者、高校のときに頂いた、割と丈夫な体で山の楽しみをもう少し先へもって行きたい。起承転々。

法師温泉の夏(長島威)


一九六二年(昭和三十七年)

夏山合宿 北ア・白馬岳〜五竜岳

二年部員 鈴木建夫
顧問 内田正一

遠見尾根へ再び  森田孝一 一九六五年(昭和四十年)卒


 思えば、私が川高山岳部に入った昭和三十七年の夏合宿は、おそらく川高山岳部史上稀に見る悲惨と言うべきか、だらしないと言うべきか、とにかく惨憺たる合宿でありました。
 その夏の計画は、白馬から針ノ木まで、いわゆる後立山全山縦走という、長大にして華々しいものでした。しかしながら我が山岳部の状況はといえば、頼りになる三年生が引退した後は、ほとんど機能停止といってよい状態でした。部報「わんだらあ三号」巻末の部員メンバーを見れば、私たちの上級生の名前が一人も記載されていません。というのも先輩諸兄から技術なり伝統なり受け渡す役割の二年生は、ほとんど幽霊部員という感じで、一方三年生も受験に忙しいのか部室にはほとんど顔を見せず、私たち一年生にとっては上との関係が全く断絶されているという状況でした。
 そんなわけで私たち一年生は、四月の歓迎登山を行っただけで、夏合宿に突入したわけであります。山岳部どころか、高校に入ったばかりの山など全く知らない一年生六名で突撃するわけですから、いくら孤軍奮闘しても孤立無援の初年兵にとって、所詮は玉砕の運命だったのかも知れません。
 真新しいキスリングにたっぷり荷物を背負わされて、真新しい登山靴で修学旅行に行くかのように、喜び勇んで夜に新宿駅0番線ホームから準急穂高号に乗り込んだのであります。大冒険でした。頼りになるのは顧問のロクさんという内田先生と野口先生のみ。
 初日は猿倉から白馬村営小屋下のテント場までの予定でした。しかしあの当時の装備でしたから、ザックは今とは比較にならないくらい重く、白馬尻辺りで早々に脱落し始めました。大雪渓は、もう勝手に歩けという無政府状態。その日は雪渓途中の葱平の避難小屋に泊まらざるを得なくなりました。この避難小屋は現在は存在していませんが、斜面の大岩を利用してコンクリートの屋根を被せただけの代物で、内部には雪解け水がたまりとても眠れる状態ではありません。仕方なく、水溜りの上に這松の枯れ枝など敷いて、ようやく眠る場所を確保する始末で、どうにも情けないアルプス第一夜でした。
 翌日は稀に見る晴天となりました。初日に痛い洗礼は受けましたが、坊主どもは一晩で元気回復。白馬山頂に達しました。稜線に飛び出したときの剣立山連峰の大観は、以降今日まで私が登山を続けるきっかけとなったものでした。そして白馬頂上から勇んで後立山縦走路に足を踏み入れて、杓子岳、白馬鑓と通過して天狗池湖畔の幕営となりました。
 三日目は不帰の険をどうにか通過したものの、唐松岳でストップ。ずいぶん楽で短すぎる行程だったのは、詳細は忘れましたが、おそらくへばった者がでたのでしょう。とても遅れた行程など回復できそうにもないし、まして先には八峰キレットも控えています。そこで先生たちは、こんなヘボ連中を引っ張ってとても針ノ木は無理と判断し、天候の悪化気配を理由に、五竜岳まで行ってその先は中止という決断になりました。引率にしてみれば、ごく常識的かつ冷静な判断でした。私たちといえば、がっかりしたのか、それとも早く家に帰れると喜んだのか記憶は定かではありません。多分後者であろうと思います。
 四日目は五竜岳へ登って、白岳沢の雪渓をへっぴり腰で恐る恐る下って、西遠見の池で幕営。五日目は雨の中を延々と遠見尾根を神城駅まで歩いてその夏の合宿を終えました。それまで一度もバテなかった私も、長い雨の中の長い遠見尾根の下りには泣かされました。雨の地蔵小屋で飲んだ一杯のお茶の美味しさは今もって鮮明に覚えています。
 かような夏山合宿で、その後一人消え二人消え、十名近くいた同級生も最終的に残ったのはわずかに四名。こんな山岳部の危機ともいえる状態を救ってくれたのが、翌年入部した後輩たちでした。以後、この頼りになる後輩たちとせっせと山を歩き、ようやく山岳部も活況を呈するようになりました。この間、わずかに顔を出してくれたK先輩に頼んでは、東松山の石切り場で懸垂下降やらザイルの扱いを教えてもらい、初めて山岳部らしい技術を習得しました。しかし冬山は誰も教えてくれる人もなく、見よう見まねで雪山に入ったものです。
 初めての雪山は二年の冬の奥秩父の縦走でした。装備といえば夏用テントと、川越じゅうの燃料屋を駆け巡って集めた炭俵がマット代わり。アイゼンはこれまた夏用のX型の四本歯です。それでも多少なりとも経験を積んだ結果か、三年になる頃には初めて冬用テントを装備に加えたり、夏用のフライシートを購入したり、うまい飯が食えるようにと圧力釜なども買い、何とか山岳部らしい格好を付けられるようになったのであります。
「わんだらあ三号」はそういう部活立て直しが一区切り付いた時期のものであります。その意味で私にはとても懐かしいものであります。
 昨年夏、針ノ木から五竜岳まで単独テント泊で縦走し、およそ半世紀ぶりにかつて辿った道を歩き、当時のことを懐かしく思い起こしました。その昔のテント場の西遠見の池は、今は幕営禁止で綺麗に整地され、泣きの涙で下った遠見尾根も今は小屋泊まり三食付、軽装の中高年が軽々と登ってきます。すれ違うときにちょっと綺麗なオバサンに、
「お年の割りに重い荷物で大変でしょう」
 なんて誉められて、助平オヤジは、これだからテン泊は辞められんわいなどと、鼻の下を長くしたりしつつ、地蔵の頭まで来てみれば、もう地蔵小屋はどこにあったのかも定かならず、神城までの長い道もゴンドラで一っ飛び。半世紀近い時の流れを感じたものです。
 しかしこうしてこの年齢までテントを担いで山を歩けるのも、昭和三十七年に始まる川高での経験があればこそと思っています。



一九六三年(昭和三十八年)

わんだらあ 第三号 一九六四年三月発行 三六ページ

一九六三年
 新人歓迎登山 雲取山 五月一二日
 奥武蔵トレーニング山行 七月一四日
 夏山合宿・南アルプス 甲斐駒ヶ岳〜北岳〜農鳥岳 七月二一日〜二八日
 県体登山 雁坂峠 十月一一日〜一三日
 冬山合宿・奥秩父縦走 金峰山〜雲取山 一二月二四日〜三〇日
 他に個人山行は八月の穂高岳、九月の谷川岳、一二月八ヶ岳など。

二年部員 吉田幸雄 斉藤憲 森田孝一 高瀬昭雄
顧問 内田一正 唐木近一 野口進 富樫裕

 ガリ版印刷、タイプ印刷など「わんだらあ」の印刷方法は年代と共に変遷してきている。この第三号までは、印刷職人によるガリ版切りの印刷だったと思われる。手書き文字ではあるのだが、活字に似せた職人文字はとても読みやすい。しかも印刷も鮮明である。年代を感じさせる出版物になっている。後年、生徒の手書きガリ版の時代もあったが、仕上がりが不鮮明だったとしても仕方がなかろう。
 なおこの当時の部報は、かな書きで「わんだらあ」だった。
 この年の夏山の南アは、戸台だから北沢峠に上がって、甲斐駒を往復して、仙丈ヶ岳〜北岳〜農鳥岳と縦走している。顧問に唐木、内田先生と、参加部員は九人。南ア北部の縦走では、やはり北岳が目標となっている。
〈両俣から黙々と歩くこと五時間ばかり。憧れの北岳頂上に着く。三一九二m。日本第二の高さである。さすがに高いというのは、風が吹き汗をかいていたからかも知れないが、ヤッケを着たほどだ。山頂で昼食を済ませ、北岳小屋目指して進む。岩峰を越え、ハイマツに入る。稜線より二〇分くらいで小屋に着く。午後一時一五分。ここの夕方は素晴らしい絶景だった。目の前に男性的な北岳、正面の雲海の上にどちらかといえば女性的な富士山が静かに見えた〉
 冬山の奥秩父は合宿だったのか個人山行だったのか。日程は十二月の二十四日から三十日までと長い。参加は二年二人に一年が一人。それでも夜行列車で韮崎から金峰山へ入山し、五泊して雲取山から三峰へ下山している。雪は少なかったようで、アイゼンもワカンも使わなかったと報告されているが、顧問不在でも生徒の自主的な山行が組まれていた。
 なお、この同じ時期に、二年部員二人はOBとの三人パーティで、八ヶ岳に入った。日程は十二月二十九日から一月五日まで。八ヶ岳で四泊して阿弥陀岳北稜を登り、下山後に金峰山に回ったと報告されている。


自慢の山岳部   斉藤憲 一九六五年(昭和四十年)卒
 
 遠い記憶を辿ってみると、山岳部の夏山合宿は三年間とも私は参加しました。一年の時には北アルプスの白馬大雪渓を登ったこと。誰だか忘れましたが、一年で大バテしてしまった者が出たのです。初日には予定の稜線まで登りきることができずに、途中の避難小屋に宿泊したのはいいのですが、私は雪渓を二往復したことを覚えています。荷物を放棄して登った部員の荷物を取りに雪渓をまた下って、運び上げました。
 その翌日ですね、白馬の稜線に登りついて、これは大感激しました。素晴らしい山々が延々と続いている。あの晴々した達成感は今でも覚えています。でもその先はどのように縦走したのかは不確かなのです。雪渓を登るというのは難儀だったのですが、上に登ってしまえばあとは平坦な縦走だけで、意外にも楽だったのです。不帰のキレットを越えて唐松岳に登り、五竜岳を往復して遠見尾根を下ったと言われれば、そうだったのかなあと思いますが、最後は神城駅に辿り付いたことは覚えています。
 二年の夏山合宿は南アルプスの仙丈ヶ岳〜農鳥岳でした。この合宿は大成功だと思います。
 顧問の内田先生は、北沢峠付近の河原だったと思いますが、海水パンツに着替えて水浴びを始めました。あの先生は、山の中でそういうことをする元気な先生でした。すれ違う他の登山者からは奇異の目で見られたものですが、平気なのですね、ご本人は。実は私は、その北沢峠で登山靴のビブラムがはがれてしまって、翌日の甲斐駒ヶ岳往復は参加できませんでした。針金ではがれたビブラムを応急処置して、翌日からの山行は続けたわけです。
 この合宿は、落伍する者もいないし、天候にも恵まれて、第二位の高峰の北岳にも登り、農鳥岳まで縦走する充実したものでした。
 三年の夏は、受験対策で参加しない者がほとんどでしたが、私は参加しました。信濃大町から今では高瀬ダムに沈んでしまいましたが、高瀬川沿いの登山道を歩き、湯俣から直接三俣蓮華岳に上がる登山道(現在は廃道)を登りました。でもここでもバテてしまった部員が出て、やはり元気だった私は二往復してその部員の荷物を運びあげたことがありました。そこから双六岳〜槍ヶ岳へ縦走して一旦横尾に下りました。そして涸沢へ登り返して、私はそこで停滞しましたが、元気な一二年は穂高岳を往復してきました。
 積雪期の合宿にも参加しましたが、実は高校生は冬の八ヶ岳には行ってはいけないと言われていたものですが、三年先輩の佐々木一郎さんに連れられて、冬の八ヶ岳に内緒で行ったことがありました。その佐々木さんとは不思議な縁なのです。所沢の駅で雨宿りしていたときに「君は川高か」と声を掛けられたのが出会いでした。私が山岳部の後輩だと知ると、山に誘われたのです。最初はどこの練習場だったか、岩登りの基礎とザイルの使い方やハーケンの打ち方を教わりました。その後八ヶ岳の個人山行になったのです。佐々木さんは日大に進学されて、登山の同好会メンバーだったようです。冬に四、五日も八ヶ岳に入るわけですから、荷物は四十キロにもなったかと思います。メンバーは私と高瀬と佐々木さんの三人。彼が私たちを指導しながら、ポーター代わりのようなものでした。このときも一回ではすべての荷物をBCまで運び上げられず、二回に分けて往復しました。
 行者小屋から阿弥陀岳に登ろうというわけで、私は八本歯のアイゼンを用意しましたが、高瀬は四本歯アイゼンしかなくて、それだけで怒られたものでした。登り始めてからも、先輩にとっては簡単な岩場なのですが、私たちは越えられない。そんなときも何だか怒られて、一般登山道から回り道して登った記憶があります。私もそんな山行に付いて行ったくらいですから、登山は好きだったのでしょう。いつの山行だったか、キセル乗車をして鉄道警察に捕まった部員もいました。のどかな時代だったのです。
 在学生の中には、山岳部員の他にも山好きがいて、同級の井花や市野は誰だったか先生を中心にして「くすのき山岳会」というのを組織していたときがあったようです。五年くらい活動していたのだと思います。
 私は大学に進学してからは、部員OBではありませんが、同級の高篠芳夫とよく北アルプスに出かけていました。実はそのときの記憶の方が強いのです。富山から室堂に入って、薬師岳〜黒部五郎岳〜三俣蓮華岳と縦走したことがあります。そのとき三俣蓮華で大雨に降られて、夏なのにとても寒くて一晩中石油のラジウスを付けっぱなしで震えていたことがありましたが、何とそこで同級の高瀬昭雄に出くわしたのです。彼は東洋大学に進んでそこの山岳部メンバーでした。もう三年生くらいだったかと思いますが、後輩を指導しながら彼らも天候待ちをしていて、こんな山の中で同級生に再会するなど、世間も狭いものだなあと思ったこともありました。その高瀬は大学時代にヒマラヤに遠征するチャンスがあったようなのですが、残念ながら実現しなかったようです。
 それ以降は登山の機会には恵まれません。三十歳代で腰痛を患って、仕事も忙しくなってしまいました。でも高校大学時代に、こうして他人様に話せるような登山経験があったということは、大きな意味がありますよ。登山をしなければただのダラダラした学校生活だけだったかも知れません。


一九六四年

夏山合宿 北ア・湯俣〜三俣蓮華岳〜槍穂高岳

 北アルプスに行ったのは初めてのことで、圧力釜を持って行ったのですが、北アルプスには燃やす枝などが少なく、飯を炊くのに苦労しました。北アルプスは合宿には向かないとの結論になりました。(木本)
 以降十年以上に渡って、南アルプスで夏山合宿は組まれたが、背景にはこうした理由もあったようだ。

二年部員 遠藤孝 木本栄一 中沢晴夫 中島次郎 星叡 平岩昭 石井進 
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿 唐木近一


一九六五年(昭和四十年)

わんだらあ 第四号 一九六六年三月発行 四〇ページ

 一九六五年
 県強化合宿 高倉山 一月一五日〜一七日
 春山合宿・金峰山 三月二四日〜二六日
 新人歓迎山行 大菩薩峠 五月三日
 トレーニング山行 二本木峠 六月二七日
夏山合宿・南アルプス 鳳凰山〜北岳〜塩見岳 七月二一日〜二八日
 奥秩父縦走 八月一六日〜一九日
 冬山合宿・北八ヶ岳 一二月二四日〜二八日

二年部員 神田久男 磯田久男 大沢昇 小沢悦郎 斉藤正次 
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿 渋谷紘

 夏山合宿の南アは、夜叉人峠から鳳凰山、一旦広河原に下って北岳から塩見岳までの八日間になっている。参加は顧問の唐木、松崎先生の他、二年が斎藤、神田、磯田、小沢の四人、一年が神田、岡田、桜井、小室の四人の少人数だったが、最初の三日間ほどは三人の三年生も参加している。入山数日は雨にたたられ停滞もしたが、後半は快晴に恵まれた。
〈高嶺へ向かう。急な下りは辛かったが、この下りでついに北岳が僕らの前にその全容を現した。ぐうっと切れ込んでいる大樺沢。あの上の方の白い所は雪渓だろうか。なんて美しく、でかい山なんだろう。山頂の辺りに引っかかっている一片の雲が、晴れ上がってきた空によく調和して一つのアクセントとなっている。二年のOさんは「俺は、こんないい景色を見たんだから死んでもいいや」などと物騒なことをいっている。これから下る野呂川の岸辺の河原が下の方に見える。あそこまで下るのか〉
 そして翌日には北岳の頂上に立つ。
〈北岳頂上から二時間くらいで北岳小屋へ着いた。ここからの展望は、前には富士、左には北岳、右には間ノ岳の絶景である。みんな「すげえなあ、やっぱり来てよかったなあ」と言っている。夕食は五目飯だったが実にうまく、残らず食べてしまった〉
 冬山合宿の北八ヶ岳は、顧問二人に生徒六人。渋ノ湯から黒百合平へ上がって、初日には天狗岳。二日目にはニュウと白駒池を往復した。雪上訓練なども行っている。


1966年(昭和四十一年)

わんだらあ 五号 一九六七年二月発行 四〇ページ

一九六六年
トレーニング山行 二月一二日〜一三日
春山合宿 奥秩父 三月二十五日〜二十八日
新人歓迎登山 二子山 五月七日〜八日
トレーニング山行 武甲山 五月二十八日〜二十九日
学徒総合体育大会 雁坂峠 六月三日〜五日
トレーニング山行 蕨山 七月一六日〜一七日
夏山合宿・南アルプス 荒川岳・赤石岳・聖岳 七月二十六日〜八月一日
雲取山 八月十四日〜十五日
両神山集中登山 十月十日〜十一日
トレーニング山行 有馬山 十一月〜十九日〜二十日
冬山合宿・北八ヶ岳 天狗岳・麦草峠 十二月二十四日〜二十九日

二年部員 小室裕 神田高至 岡田章 桜井理喜 高康行 宮本義明
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿

 夏山合宿は南アルプス南部。顧問は松崎、小島先生で生徒は十一人参加。連日晴天で計画通り実行できた。それでも当初の希望から縮小された合宿だったようで、記録最後の項目に、
〈今年度は学校側が厳しく、合宿は八日間までと制限されたので、三伏峠から光岳まで行くことが許されなかった〉
 との記載がある。可能な限りの長期合宿が希望だったようだ。
 秋になると、両神山を三コースから登頂しようと集中登山を行っている。最も長いコースは南側の梵天尾根から登頂するパーティで、前日夜に三峰口で仮眠した。なおその日は体育祭で、夕方からの出発だったようだ。当日は秩父御岳にまず登って、そのまま稜線沿いに両神山までの縦走計画だったようだが、さすがにヤブ漕ぎで一旦下山。通りかかったトラックに乗せてもらって中双里付近まで行きそこから登山。この日も途中でテント泊して、三日目に山頂で他パーティと合流し、さらに全員で北へ縦走して八丁峠から金山へ下山した。
 他のパーティは、納宮から楢尾沢峠へ登り、そのままヤブ漕ぎで天理岳を通って縦走し、三つ目のパーティは通常の日向大谷から清滝小屋を経て頂上へ達している。もちろんどのパーティも山中で宿泊し、テントだけのシュラフなしの耐寒訓練を兼ねていた。なお参加は、四人、四人、三人の合計十一人。
 北八ヶ岳の冬山合宿は、渋ノ湯から黒百合平で二泊。麦草峠に移動して二泊。営業小屋からスキーを借りて練習したり、最終日は自由行動だったようで小屋で一日中寝転がっている者もいたようで、のどかな合宿となっている。
 個人山行として武甲山の岩登りの記録もある。山頂の南西側に通称三ツ岩と言われるあまり登られない岩稜があるが、石灰岩採掘がさほど行われていない時代には、こうした岩場が登られていた時代もあった。
〈裏参道を登っていくと、バスで一緒だった三人パーティに出会う。彼らはラジウスを焚いて昼飯を食べていた。挨拶をして一足先に行く。右の沢を五分くらい詰めると滝に出る。ここで帽子を出しスパッツを履き、右側の岩を登りだす。ホールドスタンスも多く、大したことはない。P1に登る。石灰岩の岩肌が風化によって鋭く尖っていて手が痛い。後を振り向くと、秩父の町並みが霞みの中に見える。P2へ向かう。P2の壁は一番高度感があり、一瞬足がすくむ。しかしホールドが多いので心配はない。
 P3を過ぎた。ナイフリッジの前で小休止をして写真を撮る。両神が見え、西尾根に午後の日差しが隠れていく。もう大した岩はないようだ。左右のスラブ状の岩は鋭く立っている。黒々としている。ザックにカメラを入れて出発。P4を過ぎると、もうヤブである〉
 正午から一時間くらいで登り、頂上に少し滞在して、浦山口に午後四時に着いている。
 実はこの年のチーフリーダー小室裕は、卒業後も山岳部の指導に熱心だったのだが、進学した國學院大學のワンゲル部で登山を続けた後、就職して数年の頃に積雪期の白馬乗鞍岳で遭難死した。

初冬の白馬乗鞍岳に散った命
一九七六年十月三十一日 白馬乗鞍岳 小室裕(ゆたか)遭難 享年二十七歳

 紅葉の季節を早々に過ぎた北アルプス栂池周辺は、すでに積雪が始まっていた。川高山岳部から、国学院ワンゲル部を卒業していた小室裕さんは、大学OBとして冬合宿の偵察山行に、一人で栂池から白馬乗鞍へ上がっていた。
「すでに積雪があるだろうから、ピッケルくらいは持って行くように」
と、兄から言われていたのだが、あまり気にはかけていなかったようだ。
 天候がよければ、栂池から白馬岳方面への偵察縦走を行うつもりで登り始めたのだが、風雪になった。途中数パーティのテントを追い越して、白馬大池の平原に出た。標高は二四〇〇mを越える。辺り一体は北アルプスには珍しいほど、火山岩がゴロゴロした地形である。当初、二人で偵察する予定だったのだが、相手の不都合が生じて、単独山行になったことが仇になってしまったのだろうか。
「遭難の連絡を受けたのは、快晴になった翌日に、後続パーティが弟の遺体に遭遇したということからでした。火山岩の上に新雪が積もって、それを踏み抜いてどうやら足首を骨折してしまったようでした。それでも白馬大池山荘に自力で戻ろうと行動を続けたらしいのですが、あの辺は吹雪かれると方向も見失うし、小屋の発見も難しいのでしょう。小屋からわずかに一五〇m足らずの地点にビバークしたらしいのですが、いかんせんテントは基部にデポしてしまっていました。そのまま疲労凍死でした」
 と、小室さんの登山の指導者でもあった、次兄が話す。
 小室さんは七人兄弟の三男だった。すでに登山をやっていた長兄や次兄は、ヒマラヤにも遠征した社会人の職域山岳会に所属していた。その兄に連れられて、子供の頃から山登りをしていたわけだから、川高山岳部に入っても同級生より登山は熱心だった。もちろん学年のチーフリーダーになり、高三で大学進学が決まった後の春合宿にも参加しているし、国学院大学に進学した後も、川高OBとして高校の合宿にも参加していた。
 大学ではワンゲル部に所属して、夏には剣岳周辺で一ヶ月も過ごすような登山を続けていた。卒業して建設会社に就職した後も、ワンゲル部OBとして登山を続けていた。積雪期には、次兄と北アの五竜岳に登り、その帰りに八ヶ岳に登ったりもしていた。その頃の事故である。
 高校在学中の記録は当時の部報に幾つか残っている。高二のときのエッセーに、
〈俺の一番バテた山行を紹介しよう。八ヶ岳の赤岳鉱泉にテントを張っていた。帰る日の朝、あまりにも良い天気なので小淵沢へ下ることに変更。一人なのでマイペースでいく。赤岳を越え、権現岳を越え、そしてやっと編笠岳へたどり着いた。そのとき食料はもう干しブドウだけ(昼食抜き)と、水が少ししかなかった。目の前に小淵沢の街が点々と見える。それをいつも前に見ながら歩く。なだらかな下りにかかる頃には、もうバテていた。太陽が容赦なく照りつける。一人暑さと疲労に耐え忍んで、黙々と歩き続ける。短い距離が嫌に長く感じられる。頭の中で考えているのは、
「水がどこかにないかな」
 ペースは完全に崩れた。体も思うように動かなくなり、足も進まなくなった。
「これを頑張らなくちゃいけない。それ行け、歩け! 歩けなくなるまで歩こう」
 と口癖のように言っていた。飛ばしたのは人家が並ぶ街へ入ったときであった。本当に苦しい山行だった。
 冬の赤石岳にアタックした帰りも大変だった。広河原小屋から徒渉の連続で、ようやく解放されて釜沢へ着いた。そこでタクシーを頼んだのだが、あいにく来られないと言われて、皆がっかりした。足も切るように冷たいまま。夕方の五時を過ぎて、辺りは暗闇に包まれ、星が憎いほど輝いている。ヘッドランプを出したいが皆すぐには出ない。荷が重いがそのまま歩き出す。ザックは肩にぐいぐい食い込んで、歯を食いしばって痛みをこらえる。しかも林道は前日の積雪で、全面凍っている。前を歩く人の姿がぼんやり見えるだけ。その後をひたすら氷の上を注意深く歩く。
 それでも大きくズデンと転ぶ。自分の体重と荷の重さが一度にかかると、腰や腕を痛める。このときも人家の明かりが突然見えた。喜びは例えようもない。それから皆は目を覚ましたように活気付いて、陽気に歌って歩いていた〉(わんだらあ五号から)

 北アルプスの鎮守は穂高神社(安曇野市穂高)だとされている。そこでは毎年十月に大祭が行われ引き続いて、上高地・明神池の奥宮では慰霊祭が催される(嶺宮は穂高岳頂上にある)。事故当時、新婚間もなかった次兄は、生まれたばかりの長男の穂高さんを背負って、弟の遺体ひき降ろしに現場まで登山した。裕さんが亡くなってからの年数と、長男・穂高さんの年齢は同数である。名が慰霊神社と同名になったのも、因縁だろうか。慰霊祭では、今でも故人の名前が朗読され、それは遺族にとってせめてもの慰めになっている。
 川高を卒業して十年。登山家として最も充実していただろう年齢のときだった。残念な事故になってしまった。(編者)



1967年(昭和四十二年)

わんだらあ 六号 一九六八年三月発行 三六ページ
一九六七年
 上ノ原(宝台樹)高原スキー 二月
 春山合宿 金峰山 三月二十五日〜二十七日
 新入生歓迎登山・浅間隠山
 夏山合宿・南アルプス 仙丈ヶ岳・北岳・農鳥岳 七月二十五日〜三十一日
 冬山合宿・北八ヶ岳・蓼科山 三月二十四日〜二十七日
 他に沢登り、秋山山行、カモシカ山行など。

二年部員 中島敏博 江田正 萩原梅司 橋本信行 河原俊昭
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿

 部報の四、五、六号は毎年続けて発行されている。この毎年発行は、創刊当時からの目標だったのだが、実行されたのはこの三年間が初めてのことになった。以降もまたしばらく不定期発行となるが、本格的な定期的発行となるのは、さらにしばらくしてからのことになる。
 二月の上ノ原高原スキー山行というのは、水上の宝台樹スキー場が整備される前の、リフトもない時代の山行である。2mものゲレンデスキーを担いで、自力で登り、テント宿泊のスキー山行に、十名以上も参加している。
 三月の春山合宿は、顧問不参加で生徒だけの山行になったようで、富士見小屋から金峰山を往復しただけで終わった。
 夏山合宿は、この数年決まったように南アルプスの北部と南部の繰り返しを行っている。この年は、戸台から入山して、甲斐駒ヶ岳を途中まで往復し、仙丈ヶ岳から両俣に下山し、再び北岳から農鳥岳を縦走し、大門沢を下降した。
 冬山合宿は、双子池から大雪の蓼科山を往復した。
〈樹林帯に入るとさすがにワカンを着用しなければ不可能なほど雪は深くなった。昨日も使ったワカンを慣れた手つきで素早く着けた。トップが疲労を感じたら交代というシステムで、樹林帯の未だ歩かれていない滑らかな凹凸の雪に、一本のトレースを付けて歩いた。展望は白い木々に遮られ全く開けなかった。しかし所々に大枝で区切られた、空の青、その周りの白、印象的であった。ラッセルに嫌気がさした頃、目の前に半円球をした蓼科山が見え出した〉
 こうして晴天の蓼科山に登頂。翌日は親湯に下山し、スケートなどをして遊んだようだ。


山岳部の思い出       河原俊昭(一九六九年卒)

 川越高校の山岳部に在籍したのは、今から四十年ほど前のことである。卒業してから、金沢や京都に住むようになり、母校を訪問する機会はほとんどなかった。しかし時々は、懐かしい校舎は今はどうなっているのか、正門を入ったところにあった豊かな緑の「くすのき」はまだあるのかと、思い出したりした。
 構内の奥にあった山岳部の部室が懐かしい。お世辞にもきれいとは言えない部室であったが、それなりに居心地のいい部屋だった。汗臭い体操服や、書き込みでいっぱいの教科書やプリントなどが目に浮かぶ。練習後に部員達と他愛もない話をして一、二時間を過ごしたことも懐かしい。今では連絡も途絶えたが、みんなは元気だろうか。
 毎日、放課後に部室に集まってから体力増強の運動を行った。学校から近くの神社へランニングをして、そこで腕立て伏せを五十回ぐらい、懸垂も二十回以上、腹筋も五十回以上ぐらい行うのが定番のメニューだった。あるいは喜多院近くの公園で訓練をすることもあった。次の登山に備えて、基礎体力をつけておくこと、山に関する知識を増やすこと等に、訓練の重点がおかれていた。この頃は、毎日毎日身体が鍛えられていくことを実感していた。
 実はこのエッセイを書くために、実家に戻って高校時代の記録や資料を探したが、もうそんな古い資料は残っていなかった。あやふやなことを書くかもしれない。ただ「山岳部九十年史」という貴重なホームページがあるので、それを参考にしながら、思いつくままに書いてみたい。
 一番の思い出は、やはり一年生の時の夏山合宿であろうか。一九六六年七月二十六日から八月一日までの一週間ほどの山行であった。南アルプスの荒川岳、赤石岳、聖岳に登ったのである。北から南へと縦走したのか、その逆に南から北へと縦走したのか、記憶が定かではないが、二軒小屋や三伏峠をはじめに通ってから南アルプスの山々を縦走して、静岡の方へと下っていったような気がする。
 この夏山合宿で、三千メートル級の山にいくつも登ったが、幸いなことにほとんどの日が天候に恵まれて、素晴らしい思い出になった。山の頂に立つと、次の山の頂がすぐ前に見えているので、すぐに次の山に行けそうだが、直線でいく方法はないので、当然、何時間もかかってしまう。千メートルほど下って、それから上へまた千メートルほど登るという行程であった。みんなでヘリコプターがあればいいなと、言い合ったものだった。二時間ほど歩いて二十分ぐらい休むというリズムであったようだ。登りは比較的順調にいけたが、下りは一行のスピードがついて膝ががくがくしてしまうこともあった。すべったり転倒したりするのは、下りの方が多かった。
 頂上の近くでは残雪がところどころにあった。雪をお椀にもって持参の粉末ジュースを振りかけて即席の氷メロン、氷イチゴをつくってみんなで食べたのも懐かしい。誰一人お腹を壊さなかったことから考えると、雪は清潔だったのだろう。
 この年の夏山合宿で(次の年の夏山合宿だったかしれないが)、初めて雷鳥を見た。誰かが雷鳥だと声をあげるので、その方向を見ると鳥がいた。地味だけど清楚な鳥だなという印象だった。カメラを持っていて映していればいい記念になったろう。
 二番目の思い出は、一年生の秋に、他の一年生部員と一緒に二人で武甲山に登ったことである。武甲山は手近なハイキングコースとしてもよく知られていた。個人的な登山だったので、重たい荷物も背負わずに、疲れたら勝手に休むという気楽な登山だった。緑がまだ色濃かった。ところどころに、秩父セメントの石灰石の採掘のために、山の斜面が削られていた。そのことは、当時から登山家達の間で心配の種となっていたが、今はどうなったのであろうか。3年生の卒業記念に再度武甲山に登ったが、途中の道が石灰の粉で一面が白かったのが記憶にある。
 三番目の思い出は、一年生の秋(十月十日から十一日)に、両神山集中登山を行ったことである。いくつかの班に分かれて登山を行った。我らの班は、訓練のために、テントを張らずに、シュラフだけで寝たように記憶している。この時だったが、先輩が白楽天の「林間独煖葉」という漢詩の話をしてくれた。「林間に酒を暖めて紅葉を焼く」という句が心に残った。いつの日か、こんなところで紅葉を焼いて酒を飲んだならば、風流なことだろうと思った。先輩は、古典の時間に習った漢詩の話をしただけかもしれないが、高校生のころは、一年の差でも大変な知識量の違いがあって、先輩は風流なことを知っているなと感心したものだった。
 一泊の登山となると、夕食後はみんなで他愛もない話をしたものだった。思春期の高校生ならば異性の話をするだろうが、男子校なので部員のほとんどが女性との付き合いもなく、あまり話題にならなかった。その代わりに、辺りがしーんとしている中で、怪談がよく語られた。たき火の明かり以外は何も見えない中で、怪談を聞いていると、実際に魑魅魍魎どもが暗闇から現れてくるような気がして不気味だった。
 この代の部員達の特徴としては、みんな歌がうまかった。無骨な感じの部員達だが、歌を器用に歌うのは驚きだった。テントの中では、部員達が順番に自慢の歌を披露していくのだが「いつかある日」「山男の歌」「銀色の道」「シーハイルの歌」「エーデルワイス」などがよく歌われた。私は残念ながら音痴なので、もっぱら聞き手であったが、登山と音楽とが強く結びついていることを感じたのであった。歌の上手だった二人の先輩はもう物故されている。
 川越高校の山岳部で自分が一番学んだことは何か。やはり自然への畏敬の念を抱くようになったことになるだろう。文明の手の届かない自然の中で、生きる体験をするのは貴重である。木を拾い集めて何とか火をつけて、飯盒やコッヘルで煮炊きをすることで、自然と人間の結びつきを再確認することができたように思う。
 ところであの頃は、重い荷物を担いで山に登ったのだが、今は手ぶらで平地を三十分歩くのもきつい感じがする。この二十年間ほとんど自動車を使ってきたので、足腰が弱くなったのだろう。昨年京都に移住したことを機会に、いろいろな寺社を訪ねて「歩く」という習慣を取り戻そうと考えている。




1968年(昭和43年)

わんだらあ 七号 一九七〇年七月発行 八六ページ
一九六八年
 春山合宿・四阿山 根子岳 三月二十四日〜二十九日
 新入生歓迎山行・大菩薩嶺 四月二十九日
 第一回トレーニング山行・有間山 六月二日
 第二回トレーニング山行・外秩父 六月二十三日
 夏山合宿・南アルプス中南部 七月二十五日〜三十一日
 初秋山行 裏妙義山 九月二十四日
 冬山合宿・八ヶ岳 天狗岳 十二月二十四日〜二十八日

二年部員 藤井亮助 高橋宏 安田明 
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿

 この年、二年部員は三人だけという少ない学年で、春山合宿は快晴の四阿山、夏山合宿は南アルプス、冬山合宿は八ヶ岳だったが、詳細は報告されていない。しかし一年部員が八人入部し、翌年は再び部活は活発になった。


1969年(昭和44年)

一九六九年
 春山合宿・苗場山 三月二十五日〜二十九日
 新入生歓迎山行・稲包山 五月四日
 第一回トレーニング山行 武甲山 六月一日
 第二回トレーニング山行 川苔山 六月二十二日
 夏山合宿・南アルプス南部 荒川岳〜茶臼岳 七月二十二日〜二十九日
 沢登り講習会 ヒツゴウ沢 八月二十七日〜二十八日
 初秋山行 浅間山・武尊山・裏妙義山 九月二十二日〜二十三日
 トレーニング山行 丹沢 十一月二十三日
 冬山合宿・安達太良山 十二月二十四日〜二十八日
      黒百合平 十二月二十四日〜三十日

二年部員 大竹良介 新井康民 中里孝 鈴木茂 田中章夫 李健秀 平井正巳 山崎和達 
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿

 部報の七号は、実は二年分をまとめてボリュームのあるものがこの年に発行された。しかも印刷所に依頼したタイプ印刷で編集されている。後付には限定一二〇部とされ、通し番号が付されている。
 三月の春山合宿はスキー合宿のようなもので、卒業した三年や、さらに一学年上のOB小室裕さんらも参加して総勢十八人の合宿となった。まだスキー場としても開発されていない頃の苗場山で、和田小屋まで丸一日がかりのラッセルで到着し、上部は神楽峰までで敗退しているが、充実した山行だったようだ。
 またこの年一年は当初十二人が入部し、五月の新歓は総勢二十七人参加という、大所帯となった。メンバーが多く、合宿でA・B隊とパーティを分散するようになったのはこの頃からである。
 夏山合宿も総勢二十人で、南アルプスの三伏峠から茶臼岳まで。また谷川岳のヒッゴー沢では沢登り講習会が行われ、二年が三人と顧問が参加している。
 九月の初秋山行では同時期に三箇所の登山が行われたようで、浅間山には七人、武尊山には九人、裏妙義には五人がそれぞれ参加している。同じように十月のカモシカ山行でも、両神山へ十人、武甲山に十人と二箇所で山行が組まれた。同じように冬山合宿も、安達太良山と八ヶ岳の二箇所が組まれていた。
 


1970年(昭和45年)

わんだらあ 八号 一九七一年九月発行
一九七〇年
 新入生歓迎山行・雲取山 五月十日
 第一回トレーニング山行・武甲山 六月七日
 第二回トレーニング山行・秩父 六月二十一日
 夏山合宿・南アルプス北部 七月二十四日〜三十一日
 合同山行・蕨山 十一月十五日
 冬個人山行・八ヶ岳 赤岳・硫黄岳 十二月二十四日〜二十八日

二年部員 小沢忠雄 細野浩一 安藤時義 菊池敏文 小林義明 小峰清経 福田敬 水村祐一 森田英和
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿 

 新入部員はさらに増えて、この年の新入生歓迎山行の雲取山へは、前年を上回って総勢二十九人の登山となった。山岳部の歴史の中でも最盛期の頃である。
 夏山合宿の南アルプスでも二十二人の登山になった。もちろん個人山行も活発になっている。
 十一月、報告としては初めてのことになるが、川越女子校との合同山行・蕨山が一泊で行われた。本校からの参加は十人。
〈食事は女子が大体作ってくれて、男子は手伝う程度で良いということだった。僕とSは玉ねぎの皮をむくのを手伝った。動物園のサルのごとく必死にむいていたが、ふと目を移したときそこに重大なる発見をした。何とそこには「まな板」があったのであります。「越えてるう」思わず感嘆のため息。なんていっても僕らなどは、せいぜいベニヤの端っこ(汗が染みて反り返っているやつ)がいいとこ、大体コッフェルのふたで間に合わせているのだから。
 楽しい夕食の後のつまらない自己紹介が終わり、勝負は各テントへ分かれてのミーティングへと持ち越された。僕とSと二年生のHさんと、可憐な美女三人(テントが暗かったから言えるのです)とは、互いにどうも純情すぎるのか?話が進まない〉
 翌日はすでに雪がちらつき始めた蕨山へ登頂している。
 この年冬山合宿は組まれずに、代わりに二年部員は四人だけで、八ヶ岳の山行を行った。晴天の行者小屋から赤岳を登行した四人は、
〈スリップしないという奇跡をひたすら願って登り続けた。やがてさらに雪の状態が悪化し、滑りやすくなった。トップはステップを切って少しずつ登った。ピッケルを支点に、脇の岩にホールドを求め、徐々に頂との高度差を縮めていった。
 誰もが終始無言であった。聞こえてくるものは、我々に無関係に吹く風、前からの後からも響いてくる短く鋭い呼吸と、長くて緊張から逃れ安らぎを求める嘆息。ぎこちないアイゼンやピッケルの岩にぶつかったり氷に食い込む音や、ヤッケ・オーバーズボンの擦れ合う甲高くって快い音ばかりだった〉
 こうして前日には硫黄岳、この日に赤岳を登頂して翌日下山している。


遠回り好きな山仲間達        小沢忠男(一九七二年卒)  

 野球部、テニス部、サッカー部、卓球部、剣道部、体操部、美術部、音楽部等々……。
 高校一年の四月、中学の先輩に紹介され門を叩いた川越高校山岳部では、十二名の同期に出会った。彼らは中学校で、このような多種多様の部活出身者だった。ともに個性豊かな連中だった。一学年上の二年生十名も、輪をかけてユニークで変った人々の集まりだった。この二学年のチームの和を保つことの至難さは容易に推測できた。私たちは二年生にかなり感化されていた。
「自分にとって部活とは何か」
 そんなことが、高校生活のテーマに上がっていた。それぞれが新人として、新人歓迎合宿や夏合宿の南アルプス、春山合宿、個人山行等に真剣に打ち込み、皆が「山」を極めようとしていた時期。世相はフォークソング・ブームになった。反戦運動も含めた強烈なメッセージ・ソングは、PPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)の三人組であり、S&G(サイモン・ガーファンクル)の二人組みだった。我々は没頭した。高校の予餞会には、小室等や吉田拓郎、泉谷しげるなどが来ていた頃である。
多感な時期に、すべてを同等に位置付けようとしていた。山の話をしながら、写真が張り巡らされる部室に篭る。部員の弾くギターを聞き、歌を歌う。社会について語り、意見が食い違う中で夜遅くまで討論した。何人かは、限られた時間の中で山行回数が少なくなることに葛藤があった。
「第一優先は何か?」
「何よりも山に行きたい。山について語り、スキルアップしたい……」
 このような中で、ある者は部を去り、ある者は微妙なバランスの中で両立させていた。同期部員が多いことは誇れるが、個々人にとっては扱いの難しい、研ぎ澄まされた感性を持っていた集団であった。
もちろん山岳部員であるから思い出も多い。今でも同期が集まれば、上越高倉山の雪上訓練で稜線の巨大な雪庇を踏み抜いて腰を抜かした事件はよく語られる。私個人も、正式に許可が得られず顧問に相談して内緒で行った冬の赤岳の頂上で、下山時に転倒しかかり肝を冷やしたことなどはスローモーション画像で鮮明に覚えている。
 そして四十年たった今、私たち同期はほぼ全員が、新年会や五月の連休、夏のキャンプ、忘年会と頻繁に顔を合わせ、時には家族や親しい同級生を巻き込んで「山岳部での仲間の絆」を深めている。年代と共に、相互の助け合いや適度の息抜きの場として、肩肘張らない付き合いの場となってきている。
 十五歳で出会ってからの、たった三年間の山行をきっかけとして続いた四十年。貴重な輪が続いていることを本当に不思議に思う。「山は心のふるさと」だからだろうか。




1971年(昭和46年)

わんだらあ 九号 一九七四年二月発行 五十ページ
一九七一年
 春山合宿・武尊山 三月二十五日〜二十九日
 新入生歓迎山行・平標山 五月九日
 学徒大会・叶山 五月一八日
 集中山行・武甲山 六月十三日
 夏山合宿・南アルプス南部 光岳・上河内岳 七月二十二〜二十九日
 冬山合宿・蓼科山 十二月二十四日〜二十八日

二年部員 柳川俊泰 志村孝夫 小林輝行 小林三千雄 手塚賢一 戸田徹 戸部秀明 野本芳孝 早川誠 森本克之 山田俊也
顧問 内田一正 松崎中正 小島芳寿 増田寧 

 部報の発行は三年ぶりになった。部員が多いのにこういうことになったのは、登山が忙しくてデスクワークをやる者がいなかったためであろうか。数年ぶりに発行された部報では、その年の山行報告はあるのだが、過去の山行は記載だけで報告が飛ばされているというのも、執筆の中心が二年部員だという理由だろうか。
 例えば夏山合宿などは、荒天の中寸又峡温泉から延々三十五`もの林道歩きの末に光岳に登頂したものの、その後茶臼岳から上河内岳を往復しただけで、畑薙ダムに下山するという天候不順に悩まされた合宿となった。
 この数年顕著なことは、個人山行が相当活発になっているということだ。この年個人山行は七回行われ、翌年には十回行われている。部員は平均して年に六回ほどの計画山行に参加し、他に二、三回の個人山行を行っているということになる。

三日間停滞した南アルプス・光岳  戸部秀明(一九七三年卒)

 私が、川越高校に入学したのは、昭和四十五年のことである。当時、七十年安保による高校紛争が終わった直後で、制服が廃止されるなど学校内は大変自由な雰囲気であった。安保自動改定の日であったと思うが、上級生が校内でデモをするなど、紛争の余韻もまだ残っていた。
 私は、競技で勝ち負けを競うことや運動部的な体質が嫌いだったものの、何か運動はしたいと思っていたことと、中学生のときの八ヶ岳登山の体験が忘れられず、親の反対はあったが山岳部に入部した。思えば山岳部とは、何かの型にはめ、集団的活動を強いるといった運動部的体質とは異なって、個人の判断・責任において行動しなければならない部分が大きく、自立的で自由主義的な活動が、私の性分にあっていたのだろう。
 同学年の部員は、柳川俊泰、志村孝男、戸田徹、小林輝之、小林三千雄、森本克之、手塚賢一、野本芳孝、早川誠など十人位だった。顧問は我らが松崎中正である。
 新入生歓迎登山で雲取山。飯能から秩父へ抜けるぼっ荷訓練登山など経て、一年の夏合宿は南アルプス北部の縦走を行った。伊那を起点に戸台川をつめて北沢峠までいき、仙丈岳を経て(甲斐駒に登った者もいた)、馬鹿尾根をとおり塩見岳まで縦走して三伏峠から下山した。このときは大変天気に恵まれたが、どこで幕営したときか忘れたが、夕飯の支度をしているときラジオから北海道の日高山脈の山中で大学生がヒグマに襲われたというニュースを聞き、驚いたことを覚えている。
 翌年、昭和四十六年の高校二年の時の夏合宿では、南アルプス南部をめざすことになった。当時川高山岳部では、北アルプスなど馬鹿にするといった風潮があり、夏合宿はアプローチが長い南アルプスを一週間かけて縦走することが当然であると考えられていた。当然、次年度は南アルプスの南部といっても、悪沢岳、赤石岳、聖岳を縦走するという一般的コースを目指すものと思っていたが、中正先生が、
「そのようなところは行き飽きた。光岳に登りたい」
との一言で光岳から聖岳までだったと思うが、縦走することになったのだ。「行き飽きた」のは中正先生であって、私たち生徒は行ったことがないのだから、光岳を登りたいという中正先生のわがままに付き合わされた訳である。光岳は、南アルプス最南端に位置し、這い松の南限であり、なかなか行きにくいところであったので、中正先生としては是非とも登りたかったのであろう。
 アプローチは、静岡県側からで大井川鉄道で金谷から千頭に行き、井川線に乗り換えて井川まで行った。そして寸又峡から、柴沢の途中まで林道三十五キロを含む長い距離を歩かなくてはならないというとんでもないアプローチであった。記憶では確か、途中で通りかかったトラックの運転手に頼み込んで、荷台に乗せてもらい、途中で降ろしてもらったという、今では考えられないようなこともあったように思う。
 この年は、折から台風が襲来して、柴沢から雨中のアプローチの途中で蛭に悩まされながら登ったが、下級生の万燈君のあごに蛭がついていて、それを振り払ったこともあった。 しかし、台風の直撃で林道途中の廃屋のような釜の島小屋で二日停滞した。このときにアオダイショウが小屋の梁から落ちてきた。行くべきか留まるべきかの判断は、生死の問題に直結するといって過言ではない重要な事柄であるが、釜の島小屋で中正先生と部員のみんなで協議して決めた。行きたいという気持ちとどのように折り合いをつけるのか、難しい場面を経験したのは、若い頃の自分にとって貴重な体験であった。
 停滞後、光岳に登頂したが、南アルプスの他の山と異なり丸い土に覆われた山頂であり、雨がやまずガスっており、見晴らしは全くなかった。山頂近くの光岳小屋の近くに大阪大学の学生がテントを張っていたが、強風に吹き飛ばされそうになっており、中もずぶ濡れのようで、学生が開き直って幕営していたような印象があった。光岳に登頂したもののやはり風雨が強く、光岳小屋で一日停滞した。
 その日の午後二時過ぎころであったろうか、福島県の工業高校のパーティーが疲労困憊して小屋に到着したが、中正先生の教えてくれた、どんなに小屋が狭くとも人が沢山いようとも詰め合って受け入れる山のルールに従って、狭いところに福島の高校生とひしめき合って一晩過ごした。福島の高校生がもちを焼いて食っていたのが、強く印象に残っている。
 結局、停滞の影響で茶臼岳までで下山し、畑薙ダムに降りていき、高校二年の夏合宿は終わった。
 当時の私は、大学受験やその他の将来に対する漠然とした不安を抱いていた。このような不安感は、今の十代の高校生にも少なからず共通することであろう。
 その中で、山に登り、自然に触れて無心になることによって、バランスをとっていたのだと今にして思う。必ずしも熱心に活動していたとまではいえないが、私の青春、高校生活にとって、川高山岳部はなくてはならぬ存在であった。川高山岳部に入っていなければ、全く違った人生を歩んでいただろうと、本心で思っている。私の山に対する憧れは、戻ってこない青春への懐古とないまぜなのである。


1972年(昭和47年)

一九七二年
 春山合宿・至仏山 三月二十四日〜二十八日
 新入生歓迎山行・白毛門山 五月十四日
 夏山トレーニング1 武甲山 六月四日
 夏山トレーニング2 川苔山 六月十八日
 夏山合宿・南アルプス 塩見岳・北岳・鳳凰山 七月二十五日〜三十一日
 冬山合宿偵察・八ヶ岳 八月二十三日〜二十四日
 冬山合宿・八ヶ岳 硫黄岳・赤岳 十二月二十四日〜二十八日

二年部員 前田泰 山下敏之 岩田好司 石川進 西海敏夫 三上光一 万灯章雄
顧問 松崎中正 小島芳寿 増田寧 

 冬山合宿の偵察山行というのが、この数年前から行われている。参加はチーフリーダーと二、三人なのだが、この年はその山行が夏休みの間に、二年のチーフと一年一人で行われた。ということは冬山合宿の予定は、すでに夏山合宿の前には決められていたということであり、また学年をまたいだ少人数のパーティで山行が行われることもあったということだ。それだけ、部内の山行は活発だったということにもなるだろう。
 
報告
北アルプス縦走記 八月十一日〜十七日

 二年部員の万灯章雄は一年部員の渡辺と、南アルプスの夏合宿の終了後、北アルプスの個人山行に出かけた。この時代、合宿の定番は南アルプスと決まっていて、北アルプスへは個人山行でも組まないと登れないという雰囲気があった。それを実践した部員も多かった。
 信濃大町から七倉を通ってまだ建設中の高瀬ダムの脇を通って、湯俣へ出る。そこから現在では廃道となっている湯俣川沿いに三俣蓮華に突き上げる伊藤新道を登って、双六岳から槍ヶ岳へ登りついた。しかし全日を通して曇りとガス。そこで二人はあえて中岳のテント場で一日停滞して、翌日の晴天を待った……。

 起床一時。ピュッと飛び起きてテントから首だけ外に出す。「晴れた」と思った。空は天然のプラネタリウムである。どれが何という星座だか一杯ありすぎて分からない。口を開けてすうーっと大きく息を吸うと、光る粉が口の中に入ってきて、とても美味しい感じがする。しばらくはこの満天の星空に浸った。東を見れば、星の出ていないところと、出て粉粒が見えるところの境を辿っていけば、常念岳の形になった。南を見て同じことをすれば穂高の形になった。残雪は星明りで薄っすらと光って見えた。
 出発のときは、すでに東の空は赤くなり、太陽によって星屑は食べられようとしていた。歩いていても一歩ごとに東の空は明るくなり、星の粒が一つ一つその光に食べられていく。
南岳の稜線のところで御来光だった。遥か彼方から続く雲海が、太陽の出現と同時に赤く染まった。そしてこの数日間晴天から飢えていたのか、すかさず槍と穂高の山々が、太陽から一直線に伸びてきた光を吸収する。西を振り返れば笠ヶ岳の縞模様が光の当たる面と平行している。誰もいない静かな夜明け。
平坦な南岳を過ぎると、大キレットにかかる。一歩一歩慎重に下るが、ガイドブックに書いてあるほど恐ろしいところではなかった。行く手には北穂の山頂の小屋が光って見える。次第に尾根は痩せてくる。ハシゴやクサリ場があるから、必要なときはそれを使った。滝谷の谷底から吹きすさぶ風は冷たく、僕の顔をなでる。足を止めれば蒲田川の流れの音が滝谷を伝わって聞こえてくる。
 大キレットは槍と穂高を結ぶ大きな吊橋である。その床板は糸のように細く、辛うじてつながっていた。飛騨泣きがどこなのか分からない間に、すでにキレットは終わり北穂へジグザクの登りに入る。胸を突くような急な登りを終えると山頂に立った。南岳からの吊橋がよく見える。今まで遠くにあった奥穂の頂も、この吊橋を越えただけで急に身に迫ってきた。空は青く澄み渡っていた。昨日までの天候が嘘のようである。今見る槍ヶ岳は、高瀬川を遡るとき見た槍ヶ岳でも、西鎌尾根の最後の登りで見た槍ヶ岳でもなかった。もっと鋭く、太陽の光線をその穂の一点に集めたエネルギッシュな槍ヶ岳であった。その穂先が天頂を一突きにするように見ることができたのである。
 北穂の山頂を出ると南稜のテント場が見える。そのカラフルなテントの上の岩稜帯を進む。今日も渡辺は調子がいいらしい。僕を置いてどんどん先へ行ってしまう。しかし僕はちょっとバテ気味だったから、無理はせずマイペースで行くことにした。北穂と涸沢岳の間は大キレットにも増して危険なところである。クサリを使いながら進む。滝谷を登るロッククライマーの姿が見える。向こうの笠ヶ岳まで響くようなハーケンの音がこだまする。途中で女の子のパーティを話したりする。涸沢岳の山頂でやや休憩した後、穂高岳山荘に一気に下った。
 穂高岳山荘の女の子もそうであったが、最近こんな山奥にいてはもったいないような可愛い女の子が増えている。槍ヶ岳へ泊まったときも、山荘に可愛い女の子がいるといって、渡辺が喜んでいた……、などと考えながら登っているうちに、奥穂の山頂へ立った。そこには大ケルンがあり、数パーティの人々がそれぞれの形で山頂でのひとときを楽しんでいた。
周りの山々は、みんな僕らを見ているようであった。午後の陽は山の形を和らげ、朝見た北アルプスとは違った山がそこにあるようだった。三一九〇mの山頂の大ケルンは、和らいだ山々を一心に引き立てようとし、すべての北アルプスの山々を統制しているように見えた。
 二十分山頂でくつろいだ後、前方に見える前穂高へ向かった。ジャンダルムは黒く、午後の陽で和らいだ山々の中にあって、一人胸を張ってそびえているような感じだ。遠く上高地を望みながら吊尾根を行く。西穂高とジャンダルムの凹凸のある稜線の隙間から漏れる西日は、もう岳沢の谷底を照らさない。前方の明神東稜がやけに光って見える。遠く南アルプスの山々は、視界の中から消え去ろうとして水蒸気のベールを着ようとしていた。
 前穂高の頂上は大きな石がゴロゴロして歩きにくい。ケルンが乱立していて、そのケルンの向こうに奥穂が見え、北穂が見え、槍ヶ岳が見える。もしかしたら高校生活で最後の三千m峰になるかもしれない……、そう思うと長居がしたくなった。空はもう雲が発生し槍ヶ岳が見え隠れしていた。山頂には誰もおらず、とても静かだ。北アルプスの山々ともこれでお別れだと思うと、名残惜しくもあったが、山頂を出発し岳沢に下る。もう岳沢は夜だった。僕らはその闇の中に吸い込まれていく。その闇の中からそびえ立っている穂高、穂先と稜線だけが夕陽を浴びている穂高、その両方の穂高が混じり合って作り出している穂高は、今まで見たことのないような巨大な山に見えた。
 岳沢ヒュッテに下ったときは、闇がすでに北アルプスのすべての山を包もうとしていた。ヒュッテのテント場は水場に苦労した。残雪の雪解け水を使うのだが、水滴として少々垂れているに過ぎない。ポリタン一杯水を入れるのに、相当な時間を要した。僕らの隣のテントはお巡りさんのテントであったらしい。夜遅くまで思い出話や自慢話をしているのを聞いていて、とても面白かった。
翌日、八月十七日は僕の誕生日である。今日で十七回の誕生日を迎えたことになるのだが、これほど充実感に満ちた日はない。昨日、岳沢へ下るときの三日ぶりに樹林に入るときに湧いた満足感と、今の充実感は山からの最高のプレゼントだった。今まで三日も樹林から離れていたせいであろうか、岳沢の木々も上高地の木々もその緑が眩しかった。梓川の流れは、硫黄臭くて周りが赤土で樹林のない地獄のような湯俣川に比べると、とても美しく見えた。
 一口に言って今回の山行は、マッチを忘れたり、石油が足りなくなったり、行動においては最低であった。が、北アルプス、槍穂の連山を一通り歩いたことによって、この六日間で、来る前よりも一段と自然が自然らしく見えるようになったということが、何よりも嬉しかった。


一九七三年(昭和48年) 
一九七三年
 春山合宿・皇海山 三月二十五日〜二十八日
 新入生歓迎山行・裏妙義 五月十三日
 トレーニング山行・武甲山
 トレーニング山行・三頭山 六月二十三日
 夏山合宿・南アルプス 聖岳・赤石岳・荒川岳 七月二十三日〜二十八日
 冬山合宿・武尊山 十二月二十五日〜二十八日

 部報は三年後に発行されたものとの合同で、山行は記録のみで、この年の山行報告は一切なかった。それでも例によって個人山行は多く、年間に十九回行われていた。
 主なものを拾い上げてみると、五月の甲武信岳、八ヶ岳・赤岳、雲取山。
七月の三ツ峠山、富士山、仙丈〜甲斐駒ヶ岳。
八月の剣岳〜槍ヶ岳、奥秩父・火打石谷、燕岳〜槍ヶ岳、飯豊連峰、金峰山。
九月の甲武信岳、妙高連峰、八ヶ岳。
十月の常念岳。
十一月の北岳、八ヶ岳、茂来山〜御座山、両神山。
ほとんど年間を通じて、計画山行以上に単独または二人のパーティで個人山行が行われた。

二年部員 新井英生 渡辺直治 加藤啓一 赤塚貢一 岡崎正 松本秀樹 鷹觜勝之 塚越茂 成田淳
顧問 松崎中正 小島芳寿 増田寧 牛窪勲 牧野彰吾


残雪期の鹿島槍ヶ岳とスキー  鷹觜勝之(一九七五年卒)

 四十歳代半ばになった頃に、あるきっかけで六月の鹿島槍ヶ岳の北股谷の雪渓を詰めて、いきなり双耳峰の吊尾根に登りついたことがあった。ちょうど夏至の日だったが、まだ暗い午前三時に行動を開始して、夕方五時に下山するという十四時間の日帰り山行だった。スタートから登頂まで、ずーっとあの吊尾根を正面に見ながら、そこに少しずつ迫っていく。地図上こんなルートは、夏にも冬にもない。但し、頂上から千m、女王がシルクを引きずっているような全く雪割れのない雪渓がこのときだけ、ここにあった。鹿島槍に登る、最も美しいルートだと思えた。
かつて三月のこの山に、キレット小屋から風雪をついて同じ稜線までラッセルしたことがあった。下山の時に通過したその北股谷は、等身大以上のデブリに埋め尽くされていた。それから二十年近く。積雪期の鹿島槍は北壁を登れなければ一人前じゃないと言われた時代に、私は挫折していた。雪が付いた時には二度と登れないだろうと思っていたのだが、すでに現役登山を引退していたときに、こんな思わぬルートがあることを知り得た。
 信濃大町に住んでいて、毎日この山を眺めて生活できる人は、百歳まで生きられるだろうと思っている。この山は日本で最も美しく、毅然としている。
 積雪期の谷には入るなと言われていた時代が長かった。表層雪崩、全層雪崩、点発生雪崩。積雪への注意はし過ぎて困ることはない。少なくとも、四月一杯は危険だとされるこの谷に、それを過ぎると今ではスキーヤーが滑降を始める。三月のデブリは、五月には消えていく。情報はそうしたスキーヤーからだった。平均斜度四十度、最大斜度四十五度。滑れはしないが、登るだけならできそうだと、後輩の入沢君とパーティを組んだ登山が、これだった。雪の付いた谷の登下降とは条件が揃えば実に簡単で、エキサイティングだった。危険な山が、年間のある時期だけ、登山者に提供してくれる、美しい谷の登下降。それまでの私の登山観は一変することになった。
 
 在籍していた山岳部時代には、三回の夏山合宿と、四回(冬と三月)の積雪期の合宿が組まれた。三回の夏山で南アルプスの高峰はすべて登ったが、積雪期は不安ばかりに襲われた。十二月の八ヶ岳では、赤岳や硫黄岳には登頂したが、行者小屋から鉱泉への下りで尻セードばかりして、登りのトレースをすべて潰してしまったことに怒られた。気象通報の記録は、朝の天気図を夕方は右に三センチずらせば、聞かなくても誰にも知られなかった。
 三月の皇海山では、ずるっと一mばかり滑ったことが、トラウマとしていつまでも心に引っ掛かっていた。雪のステップはすぐに崩れる。
 高二になって、十二月の武尊岳では、いったいどこを登っていたのかも不明だったし、三月の那須岳では強風に煽られた記憶と、テントの脇で雪の中に寝たこと。成田や新井と雪洞を掘ったことだけを覚えている。
 卒業してからは、男女交際が自由になったように、岩登りができるようになったことが嬉しかった。社会人山岳会に入って、谷川岳に通うようになる。その一ノ倉沢の出合で、一年先輩の前田さんに会った。筑波大学の友人とやはり岩登りに来ていて、運動靴だとスラブを走って登れると言っていたが、私も同じことをやっていた。会の先輩に連れられて、衝立岩を登ったが、これで岩登りは一人前になったと勘違いした。後輩の入沢君とヨセミテに岩登りに出かけて、圧倒的に登れずに挫折する。アメリカまできて登山するよりも、公園のバスの運転手がブロンドの女性であったことと、すでにバスがオートマチック車だったことに、むしろ呆然として、ホームシックにかかった。二十四歳の時のことである。
 フリークライミングのブームがその頃押し寄せてきたが、すでに制限体重を十キロほどオーバーしていた私は、昨日クライミングを始めたという女の子よりも登れなくて、また挫ける。夏の沢登りにのめり込んでいった。
 六月の甲斐駒ヶ岳、七月の赤石岳、黒部渓谷、八月の奥利根、九月の越後駒ヶ岳。当時七ミリ四十五mのロープを二本用意していたのは、黒部や越後の沢を下降するときに、灌木の最も低い支点で、その長さが必要だった。つまり冬の積雪はその程度ある。奥利根に週末の二日間だけで入るには、矢木沢ダムをゴムボートで渡るのが早いと、それでも四時間かかった。歩くと丸一日は今でも必須である。
 もちろん冬には、槍ヶ岳の北鎌尾根も、奥穂高の吊尾根も西穂高への稜線も歩いたし、残雪期には、剣岳の八ッ峰も小窓尾根も登ったが、記憶に残っている風雪は、槍ヶ岳から飛騨沢を新穂高温泉までの延々十四時間以上もの下りラッセルの経験だった。
 豊科から三人でラッセルして常念岳から大天井岳に登ったのが四日目。途中三日目の午前中に、その日の朝に出発したという単独行に追いつかれて、積雪というのはトレースの有無と条件次第で、どうにでも難しくなり簡単になるものだと驚いた。
 さて大天井岳からトレースをたどれば一日で槍ヶ岳の冬季小屋に入るつもりでいたのだが、西岳の下りでパーティの具合が悪くて幕営となった。翌日は風雪に閉じ込められる。さらに翌日どうしても行動しなくてはならなくなって、冬季小屋に入っていた仲間のサポートを受けて、ホワイトアウトの中を動きだして、どうにか小屋に入れた。問題はここからである。正月も三が日を越えて集結していた他パーティも含めて人数は二十人を超えた。猛烈な吹雪と積雪の中を全員でラッセル下山を始めることになった。西鎌尾根を下り始めて、千丈乗越から迷うことなく飛騨沢に入って槍平を目指す。トップの二人は空身でラッセルしなければ進まない。槍平から滝谷出合を通過して、白出沢から林道に入った頃にはすでに夕方になっていた。その間休憩はない。胸まで没するラッセルというのは、二十人がいても、延々と進まない。新穂高温泉に着いたのは夜の八時を過ぎていたか。このときでも、白出沢合流の手前から、ゴルジュと堰堤を避けて、斜めに登り上げる夏道のルート探しは、他パーティの経験者に任せっきりで、私は何もできなかった。
 積雪期とは徹底して怖いもの。さらに持っていった日本酒も凍りつくほどの寒さである。三十歳を過ぎた頃に登山を終えた。パラグライダーというスカイスポーツにはまって、冬は歩くスキー(クロカン)だけを細々と続けるようになった。

 怠慢な生活を続けていると、老いというのはすぐにやってくる。立食パーティで二時間立っていることが辛くなる。午前中に三十分を歩いて得意先に出向くと、息が切れて話ができなくなった。極めつけは、クロカンの八十五キロのレースの六十キロ関門で、時間切れとなって収容車で運ばれることになってしまった。こんなことではいけないと、クロカンスキーを持ち出して、再び山を散策することを始めてみた。登山以外の目的で山に入るのは初めてだったかも知れない。三月に土合橋から湯檜曽川沿いにスキーを進めてみる。この時期に湯檜川を眺めるのは初めてのことだった。河原全面が積雪で埋め尽くされていることはもちろん、夏には何度も通ったマチガ沢も一ノ倉沢も、積雪の下でわけなく通過できた。私は何で通いなれたこんな風景を、今まで知らなかったのだろうと、山知らずを恥じる。翌日は反対側の土樽から毛渡沢の河原を歩いてみた。夏には平標山に行く時も、西ゼンを登るときにも、何度も通った道なのだが、冬は全く景色が違っていた。
 結局この日は、私の登山人生のなかで、山スキー初日となった。支流の仙ノ倉谷に入って少し登ってみると、それは西ゼンの下部だった。斜面が急になる手前で辞めたが、しかし上空七百mには、仙ノ倉山の上越稜線が迫っている。このときに同行した息子と二人。平地を三時間ほど歩いただけなのだが、思ったよりも山は深くて、他に登山者は誰もいない。荒らされていない真っ白な雪だけが続く。春に近かったが、冬の谷というのはここまで魅力的なものなのだと、唖然とさせられた。バックカントリーのブームが始まる頃だった。

 登山の趣味というのは多岐に渡る。一月になると、水上辺りから見上げる谷川岳は、岩や土の黒い地肌が一切見えない。真っ白な雪の濃さは、濃くなればなるほど私の気持ちは高揚した。あの白さは、槍ヶ岳や剣岳でも敵わない。しかしそれは遠くから見ているだけのことが多かった。
 クロカンとは、圧雪されたコースを滑る競技としても成り立つが、そもそもは自由に谷に入っていけるスキーとして発祥している。実践してみるまでに少し勇気がいるだけで、初めてみればこんなに楽しいものはない。真冬の新潟津南を車で飛ばすことよりも、谷川岳を眺めるロッジでビールを飲んでいることよりも、山の目前までスキーで接近してみることは数倍楽しいことなのだと、このとき初めて気がついた。選ぶルートは、どの山に行くにも、春になったら積雪の谷である。
 その三か月後、初夏の谷としてはこれ以上の芸術品はないだろうと決め付けたのだが、鹿島槍の北股谷の登行だった。この登行に成功して、私は進化した二十一世紀の山スキーブームの末席に座ることになった。
 四月の尾瀬ケ原は、戸倉スキー場から半日歩かないと入山できない。現地の積雪は三mを超える。あの広大な尾瀬ケ原の雪原に私一人というのは、いくら今が快晴であっても、天候悪化で閉じ込められはしないかと、押しつぶされそうなプレッシャーに襲われる。いやその反動なのか、覚醒効果で気分だけは異常に高揚する。そこはグリーンランドか南極大陸か。頭が混乱しそうになる風景でもある。
 そこから一日かけて、平ヶ岳を往復してみる。奥利根の平ヶ岳と、黒部の水晶岳や黒部五郎岳は日本で最も深い百名山だと評価されているが、春はどちらの山も里からさらに遠い。スキーはその遠さを半減させ、山が一年中で最も美しい時に、私を誘い出してくれた。白馬岳も双六岳も、上越の越後駒ヶ岳も、会津駒ヶ岳も。
 谷川岳の蓬峠も清水峠も標高は千五百mにも満たないのに、どうして樹林の一本さえ生えていないのだろうと不思議に思う。夏は草付き平原で、冬はここも真っ白になる。上越国境稜線という響きは、高校生の頃から大きな憧れの対象だったが、冬にこの稜線を一人日帰りで越えられると、それは四十年近い登山人生の結論を見たような感動に襲われる。

 因縁の新穂高温泉〜槍ヶ岳も、今の山スキーブームの中では、中級者向けになる。四月のこの蒲田川右俣は、スタートして三千mの飛騨乗越まで行程七時間、標高差二千m。下りは二時間。雪の条件が多少違うにしても、私たちが十四時間かけて下山したそのルートを、わずかに二時間で滑降してくるとは、一体何なんだ。上部の稜線から、東に槍沢を、西に飛騨沢の穏やかな源流部をぼーっと眺めていて、私は自分の過去を疑っていた。
 春ならいざ知らず、真冬に晴れが二日間続くことはない。スキーはラッセルと登下降を急速にスピードアップさせた。どこへ行くにも日帰りである。冬山に一週間入っていた危険を、天候のいい時の日帰り二回で済ませる。白馬岳の主稜や、果ては鹿島槍の北壁や、一ノ倉沢を滑る連中が現れると、スキーを使わない冬山登山はあり得ないとまで思えてくる。冬の登山の方法を大転換させたのが、スキーだった。
 五月の剣岳の三ノ窓雪渓や長次郎雪渓は、半日で登下降できるのに、何で私は、八ッ峰や源次郎尾根を二日も三日もかけて登ったのだろうか。室堂からの下山に、わざわざ観光客に混ざってアルペンルートで降りたのはどうしてか。立山から黒部ダムに簡単に滑降できるのに。同じ頃には、鹿島槍ヶ岳の西股沢も自由に登行できるのに、赤岩尾根の雪壁を怖い思いをして下ったのはどうしてか。スキーを使えば、知らなかった残雪期の新たなルートがいくつもある。カルチャーショックは果てしない。
 六月に終わるスキーシーズンは、夏を挟んで十一月からまた始まる。ニセコが外人スキー客によって、ついにアウトゲレンデの滑降を認めるようになった。スキーよりもさらに性能のいいスノボー人口が過半数を越えて、パウダー(新雪)時期でも、彼らはスノーシューを履いて、大挙してスキー場の外に出る。日本中どこの山にいても、GPSはわずか五mの誤差で、二万五千地形図から自分の場所を特定してくれる。カービングやファットスキーの出現は、オートマチック車に変わった時代よりも革新的な技術で、スキーを安全に易しくした。スキーを履いて膝まで潜るような雪は、脱げば胸まで潜る。あの苦しめられたラッセルでも、スキーなら楽しい。しかもパウダースノーである。装備の進化は登山もスキーも思わぬ展開を見せた。そんな時代まで登山ができて私は嬉しい。
 
雪の粘性、結合力、積雪と温度勾配、表層雪崩の最多傾斜……。これまで知らなかった言葉がどんどん出てくる。デジタル時代になって、研究が加速している分、封鎖されていた情報が溢れる。だがしかし、雪崩に対しては猫のようにスキーヤーは臆病になった。温暖化になったはずなのに、穂高の岳沢ヒュッテは雪崩に潰された。槍平の小屋脇でテントを張っていたパーティは、対岸の奥丸山から本流を越えてきた雪崩に潰されて亡くなった。
 そうだろう。槍ヶ岳へ行く夏道の滝谷を渡る橋は、どうしていつも仮設の木橋なのだろう。剣の真砂沢小屋前の鉄橋は、冬になると取り外されるがどうしてなのか。新潟朝日連峰の猟師が渡る橋は、今でも羽目板のないワイヤー橋である。理由が分かったのは実は最近のことだ。白馬の雪渓尻の小屋も、白馬鑓の小屋も、冬には解体され、また春が来ると建ち上がる。全層雪崩の破壊力は、以前と何も変わってはいない。立山の大日岳の雪庇は、三十mにも達するとは、最近の事故裁判で初めて明らかになったことだ。積雪に対するマネジメントは進んだが、不可解なことはまだまだ多い。
 けれど、ただラッセルに堪えるんだと言われた家畜のような登山から、一つずつステップアップしてきたこの数年の私のスキーは、単独行が多いだけに、その逐一を理解して実践できたことが、充実していて楽しい。インターネットの中には、山スキーヤーが国内に千人いる。彼らの報告が逐一入手できるということは、千人の会員がいる山岳会が存在するということだ。かつて冬山登山とは、正月と、三月連休と、五月のことだった。それも他力本願で、他パーティのラッセルトレースを利用しながら、それで登頂したつもりになっていた。それが逆に、今では一本のトレース、シュプールがあるだけで不愉快になる。スキーとは処女雪に一人で登行するための強力な装備なのだと、それが自由化された二十一世紀の冬の登山なのだろうと思う。
 冬山に不慣れなスノボー集団が、三時間かけて四百mをラッセルして、その高度差四百mの壁をその日一本だけ滑って、それがシーズン最高の極上パウダーだったと、涙を流している様子を見ると、これも登山の一つのカテゴリーになったのかと思う。
 谷川岳の天神平では多い時には六mの積雪がある。それはおよそ三十mの降雪があったことになるらしい。ならば、吹きだまりの一ノ倉沢の中間部では、五十mの雪の堆積があるということは、二百m以上が吹きだまって飛んできたという計算になる。地球の温暖化とはいっても、日本のパウダーの降雪は、多分世界一ではないかと思っている。
 二月までのパウダー、四月までのシャーベット、六月までのザラメ。私はクロカンスキーという道具を知ったために、年間に半年以上もあれだけ怖かった積雪の山に、今は楽しく入っていけることになって、これも登山の大きな発見になった。そして今こそ、他人と争わなくていい、オリジナルの冬の登山ルートを発見できることになった。


 

新入生歓迎登山             顧問・松崎中正
 新入生歓迎と銘打った五月恒例の一泊山行だが、歓迎とは名ばかりである。山はほとんど初めての新人たちは、ビバークの訓練との名目でテントの外に寝かされ、翌朝は暗いうちから叩き起こされて炊事の支度などにこき使われるのが落ちなのである。
 三時起床。しっとりと水気を含んだ新緑の裏妙義山麓。姿は見えないが、鳥たちはもう歌っている。食事当番は焚き火で苦戦していたが、どうやら飯が炊けたらしい。圧力釜のネジを緩めた一年部員が何やら一生懸命引っ張っている。パカッ、やっと外れた蓋の下には、蓋の形そっくりに飯が盛り上がっているではないか! 釜ぎゅう詰めの米は、かわいそうに膨らむ余地がなかったので、みんなの腹に納まってからやっとのびのびすることができた。おかげで今日は腹持ちがいい。五時過ぎ、三十人近いパーティーは元気いっぱい出発した。
 稜線を西に向かうと、鎖の下がったチムニーがある。今までのにぎやかな話し声がぴたりとやんだ。みんな真剣な顔をして下ったが、この難所に一時間もかかってしまった。
 どこかの女子高校のパーティーと擦れ違って、わが山岳部はエキサイトする。こんなときは岩場をへつる山道は狭いほど嬉しいものだ。
「センセ、女子校の顧問の方がいいでしょうネー」
 余裕の三年部員が同情してくれる。二年間の同じ釜のメシを食った仲には、生徒と教師を隔てるものがない。
 昨日松井田の町から望んだ妙義山塊は印象的だった。午後の白っぽい光の中に黒々と突き出た岩々は、まるでぶつぶつ言っているように見えた。こんな立派な姿をしているのに、背は1000bしかないんだ、と文句を言っているみたいだった。
 そんなごつごつした岩の稜線を縦走して着いた三方境には、はっきりした峠道が交差していた。しかしここから先、尾根道は急に踏み跡となって、貧弱な道しるべの立つ大遠見峠に来ると、早速道に迷ってうろうろした。
 西上州には地図に出ていない岩場が隠れていて、近いと思った所に意外と手間がかかることがある。イワザクラがいじらしく風に震えているキレットをやっと擦り抜けたりして山頂を踏むまでに、私たちが何と朝から八時間を要したとは、谷急山は面目躍如である。三等三角点の展望は絶佳。目の下の谷間を隔てて、高岩が低いながらもひとかどの姿で新緑の中に突っ立っているのを眺めながら、二度目の昼食をとった。
 十三時半、予定していたとおり北尾根を下りはじめた。登りと同じコースはなるべく敬遠したい。このはっきりした踏み跡をたどって並木沢から入山川に下り、キャンプに帰ろうというのである。
 地図によれば、北尾根はやや下って二手に分かれる。私たちはうっかりその西側の支尾根に引き込まれてしまった。これでは並木沢には下れないし、キャンプにはひどい回り道になる。それに踏み跡もはっきりしなくなった。大人数のパーティーは、もたもたと回れ右した。
 ところが、東の支尾根の踏み跡も下るにつれて怪しくなった。六十個もの目玉のうち十個ばかりは熱心にきょろきょろしたのだが、私たちはとうとう三つ目の岩場の上で立ち往生となってしまった。
 この岩場はどうにか下れないことはあるまい。だが、その先の保証はあるわけではない。個人の責任において山仲間と来たのだったら、どんな難儀が待ち構えていようとも、このまま未知の谷に飛び込んでもいい。しかし相手は生徒である。事故は絶対に不可だ。
 これまでの下りの途中で何度か不安を感じてはいた。が、その度に考えたことは、折角ここまで来てしまったからには、少しくらいの困難はあったにしても下ってしまおう、ということだった。実際、重力に逆らって登り返すのは気の進まぬことなのだ。
 しかし私は、パーティーを預かるリーダーとして、ここで引き返すべきだと思った。確信した。「道に迷ったら元に戻れ、引き返せ」とは言うは易く、行うは難し。だが鉄則だ。途中、大遠見峠で暗くなるのは覚悟の上だが、最も確実な選択はこれしかない。
 事故のなかったヒマラヤ登山は話にならない、と深田久弥が言っていたような気がする。確かに、あまりにすんなり成功した登山は、彼にとっては物語る内容に乏しいだろう。だが、そうした話題豊かな社会人の登山とは、高校山岳部のそれは一線を画すべきだ。登山の神髄は遭難にあり。これも一面の真理かもしれない。著名な登山家のどんなに多くが山で命を落としていることだろう。しかし私は今、私の大事なパーティーを無傷で学校に連れ戻すのだ。
 キレットで二年部員のKがバテた。腹具合がよくないらしいが、彼は中学校では陸上部で長距離の選手だったのだから、きっと頑張ってくれるだろう。
 夕闇濃い大遠見峠で左折して、稜線から沢沿いに下ったのが十八時少し前、もう時計の針との競争だ。暗い樹林の中で、遅れがちなKをかばいながら、気だけが急ぐ。一刻も早く電話のある所まで下りたい。学校や家族の心配そうな顔がちらつく。祈るような気持ちだ。こずえを照らした誰かのライトかと思ったら、稲妻であった。闇に加えて雨の追い打ちだ。雨具をまとって雷雨にせき立てられてゆくパーティーが、閃光の中に、まるで逃亡する敗残兵のように浮かび上がる。

 高等学校の数ある運動クラブの中でも、登山部は特異なクラブだ。いくら着実に活動したとて、チーム同士競うということに縁の薄いこのクラブは、予算を食う割には学校の名に貢献しない。それどころか、ややもすれば事故を起こして話題を振りまく。
 保護者にしたところで、一般的には子供が登山部に入るのはあまり歓迎ではない。冬山と聞くだけで、世の教育ママはもう息子が遭難すると思い込む。夏の奥深い南アルプス三000bの稜線の縦走よりも、冬の八ヶ岳のクリスマスツリーの本物を眺めながらの雪中幕営だけの方が安全度は高い、ということは理解してくれない。
 もっとも、こんなこともあった。山に特別熱心な二年部員Tはひとりで初冬の常念岳に行きたいと申し出た。この季節の山は難しい。顧問は行かせてやりたいのは山々だったが、学校としてはすんなり許可はできない。しかし彼も引かない。たまり兼ねた私は保護者に学校に来てもらった。
「親が責任を取らせていただきますから」
 父親のひとこと。この親にしてこの子あり。Tは無事山から帰ってきて、私も胸をなで下ろした。
 至れり尽くせりの過保護の坊ちゃんが、土の上に寝て焚き火で炊事するのは貴重な体験だ。暗い山中で、仲間同士助け合って局面を打開しようと努力している姿は頼もしい限りだ。圧力釜満タンの飯を炊いたり、女子高生にハッスルする生徒たちはかわいいではないか。ああ、山岳部顧問冥利に尽きる。頑張らなくてはならない。

 今にも見失いそうな並木沢右岸の踏み跡を、ライトで探りつつたどる。いつの間にか三方境からの道を合わせていた。幸い雷雨も大したことはなさそうだ。ほっとすると、いろいろな鳥の声が耳に入ってきた。ヨタカ、トラツグミ、ジュウイチ。ホトトギスも鳴いている。闇に聞く彼らの声は私たちへの声援だ。
 十三曲がりの急坂を無事下り切って、伐採跡の草むらをずぶ濡れになって横切ってゆくと、とうとう人家の明かりが見えた。傾いた道標を見つけてライトで照らすと、消えかかった文字が板切れに読めた。
「谷急山、道悪し」        〈雑誌「岳人」一九九七年四月掲載〉



谷川岳マイナス登山 顧問・松崎中正

 川高山岳部OB会恒例の合同山行秋の部は谷川岳登山。会員にはOOBが多いんだから、幾つもある登山コース中でも一番省エネらしい天神尾根を往復し、そのあと谷川温泉でうんとこ盛り上がろうという魂胆らしい。何だか山よりも宴会でくたびれそうな予感だ。山岳部顧問OOBの私は、そんな谷川岳登山じゃあと、くよくよしながらも義理堅く仲間入りといった和気清麻呂なり。
 ところが当日は、不幸か幸か岳の紅葉真っ盛りの三連休初日、しかも不運にも雲量ゼロときたから車は水上インター下りるのさえ、もう大ごと。料金所道から本線までもはみ出た車は、下り車線は手前の短いトンネルまで続く長蛇の列。なんぼヤマタノオロチだって、ましてや拙者の鼻の下だってこんなに長くはないんじゃないか。「そーれ見ろ、やっぱETCだよ!」って公団の声が聞こえる。年は取っても私の早耳はピピッとくるんだ。
 やっとこさ駆けつけたロープウェイ乗場もうんざりの絶景かな。天神平でドラゴンから吐き出されたときは、いやはや、ほとほと降参した。
 ところで、仲間は一体どこへ行っちまったのか。この人ごみでは、いつも山に持ち歩いてる二・五万分の一虎の巻開いたって目っけようもない! そこで私はさっきの箱の中の押し合いへしあいで、ひらめいたことを早速実行に移すことに決めた。谷川岳マイナス登山だ。
 会の幹事から申し渡されたのは温泉の集合時刻だけ。さすがOB会である。学校から規則校則って微に入り細をうがって指導監督され、がんじがらめになってる川高山岳部現役諸君よ、ざま見ろや。山ってこんなものなのだ。
 年寄りは気が早いっていうから、はなから温泉直行の連中もきっといるに違いないと、小生は鋭く、かつ勝手に判断して、登らずしていきなり下山するという山男の良心の呵責から多少なりとも逃れようとしたのではあった。
トマノ耳から南東に下りてくる天神尾根は、天神平スキー場の後ろに天神峠のピークを起こし、さらに高倉、湯蔵(ゆぐら)、今倉山と連なって、今は景気さっぱりらしい谷川温泉ホワイトバレースキー場に消える。
 ここらでちょっと、くそまじめな講釈を許してたもれ。現在は天神平の南の一三五〇bのコルを天神峠と呼んでるようだけど、昔は天神平の背後の・一五〇二(一五〇二b独立標高点)を天神峠といっていたんだ。少なくとも半世紀も昔、私が初めて谷川岳に登ったころは。ピークが峠とは変におかしいと思う向きもあろうが、峠はトッケ(尖峰)がなまったものとの説があるのよ。例えば、有名な「三ツ峠」を考えてみてね。 ほかにもう一つ、この尖ったピークがあの偉い天神様の姿そっくりだからとの説もあるんだけど。そんな厄介な屁理屈なんか、と思ってるのんきなヤカラは前記の最低鞍部を天神峠と呼んですましてるってわけだ。長生きするだろうよ。
 次に、高倉山から先のピークにはみんなクラがつくが、そのクラは一ノ倉、茂倉などと同じく嵒(くら)(ーとも)、すなわち岩、岩場だ。谷川温泉の奥に有名な俎嵒(まないたぐら)があるじゃんか。んだからおいらと同じく険しい山が好きなカモシカ君を山の人はクラシシ(嵒羚)っていってる。彼は岩の上にじっとたたずんでる習性がある。「クラ立ち」っていうんだナ。なーんちゃって、ごめんなさい。
 さてさて、顧問現役のとき、高倉山から谷川温泉への尾根は山岳部と二回歩いた。厳冬期の高倉尾根の登りでは、先頭は空身になって胸まで潜る三重連ラッセル車まがい。その前をピョンが耳だけ雪の上に出して泳いでいった。高倉山頂のキャンプで拝んだ黎明の谷川岳の荘厳な姿は、四十年後の今もありありと白内障の老眼に焼きついとる。稜線も深い雪泳ぎに終始したが、元気な部員はもちろん、今は昔の顧問だって、喜々として白い恋人と戯れた。
 ついに老いぼれたりといえども川高山岳部顧問OOBの端くれは、何年か前の春先、加島、宇都野の壮年二君を唆(そそのか)してこの懐かしい稜線を、今度はホワイトバレーから逆にたどろうと画策した。これぞ谷川岳正真正銘プラス思考登山である。が、私たち三人じゃあ年齢は十二分な割に人数に不足してたので、ラッセルにてこずって湯蔵山にさえ届かずにバンザイ三唱。とにかく、私の足はいまだこの尾根の地面にじかに着いてないのが山男の恥だったのである。
 今こそ。私は山頂を目指す有象無象とは正反対の方向に勇躍足を向けた。高倉山の頂上に立って双眼鏡をのぞくと、本日は晴天なり、あやにしきの天神尾根を、それに引けを取らぬ派手な彩(いろどり)の登山者がアリの熊野詣でだ。西黒尾根にだって、ひどいうごめきようだ。
 ところが、当方の目指す稜線は残念ながら紅葉にはいまいちの感。が、湯蔵山のブナやカエデは逆光の中で、緑基調のゴブラン織りといいたげだ。いよいよ、谷川銀座天神尾根の喧騒がまるでうそのように静謐な尾根歩きが、ジャジャジャジャーン、これから始まる。しめしめ。
 道は思ってた通りしっかりしていた。これならたちまち温泉に下っちゃう。ひと風呂浴びて、下戸は大好きなノンアルコールビアでもキュッと一杯、渋滞の天神街道できっと遅くなるに違いない連中をのんびり待つことにしよう。
アリャリャのリャッ! 行く手に見下ろすのは湯檜曽川じゃないか。キツネにつままれて地図を開いた。私は、地図にない道を下って、湯蔵山から北東に張り出す枝尾根の一二三〇bあたりでうろうろしているのだった。この道は当方に断りなしに最近こさえた送電線巡視路というやつらしい。
 これはしたり、慌てて稜線に引き返したが、地図にある破線の尾根道は、奇怪や、影も形もなかった。凶悪犯人の山狩りに向かう武装警官もこんな気持ちだろう、思い切って強行突入した樹林は、まだびっしり葉をつけているもんだから全然見通しが利かぬ。それでも大汗かいて湯蔵山の古ぼけた山頂標識は見つけることは見つけた。しかし、ここまではまだ序の口、この先の道は完全に自然に返っていて、我輩が人一倍得意としているはずの薮コギには、ほとほと閉口した。高倉山からホワイトバレーまで、とうとう人っ子一人会わずにしまった。それもそのはず、よーく考えてみれば、みんな谷川岳の頂上へいっちまったんだから。昨今はかなりおいでの妙齢のおばさんにでも会えればよかったに。歓迎なんかしないブユの畜生(ちきしょう)は、しこたま寄り付いてきやがったが。
 やっと間に合った宴会は、今日の殺人的人出の話で持ち切った。翌日の新聞によれば、驚くべし、なんと一四〇〇人もが頂上を目指したそうな。衝撃的なOOBの感想――
「先がつッかえてゆっくりとしか進めず、その上度々止まるので、あまり疲れなかった」
 楽をするはずの私は、とんでもなく疲れた。 (二〇〇二年十月十二日の山行)







1974年(昭和49年)

部報 ワンダラー10 一九七六年三月発行
一九七四年
 春山合宿・那須岳 三月二十四日〜二十六日
 新入生歓迎山行 平標山 六月二日
 トレーニング山行1 武甲山 六月二十三日
 トレーニング山行2 川苔山 七月十四日
 夏山合宿・南アルプス北部 甲斐駒ケ岳・仙丈岳・北岳・農鳥岳 七月二十日〜二七日
 冬山合宿偵察 日光白根山 十月五日〜六日
 冬山合宿 日光白根山 十二月二十五日〜二十七日

二年部員 茂木清 入沢清 青木由紀夫 増井知幸 都築淳郎 
顧問 松崎中正 小島芳寿 増田寧 牛窪勲 牧野彰吾


Wanderwer VOL10 から

 部報タイトルは「わんだらあ」で創刊九号まで続いてきたが、この号から「WANDERER」に変更された。また発行された部報は予算の関係で、生徒自身によるガリ切りと、校内の印刷室で制作された手作り部報の最初の号となった。それでも印刷所顔負けの読みやすいもので、以降しばらくはこの手作り部報の時代が続いていくのだが、完成度はこの最初のものが最も高かった。
 この年三月の那須岳は吹雪の中で登頂できなかった。トレーニング(歩荷)山行は夏山合宿の前に二回行われるのが慣例となっている。その二回目川苔山の報告から。
 前日午前中の授業を終えて、鳩ノ巣キャンプ場に着いたのだが、時間が早すぎてまだテントが張れなく、仕方なく駅前にテントを設営することになった。
〈どういうわけか、三年のMさんが僕たちと一緒にここまで来ていた。Mさんは遊びに来ているだけで、トレーニングに来ている僕たちとは全く気持ちが違う。夕食後、いつもならシュラフに潜り込んですぐ眠ってしまうのだが、この日は違った。Mさんが大きな声でずっと喋っていたため、僕たちはほとんど眠れなかった。朝になったら石を詰め込んで出発しなければならないのに。テント内の蒸し暑さも加わって、とうとうその日は三時間程しか眠ることができなかった。
 駅前にテントを張ったため山にきた感じがしない。水道を使ったり、夜中にバイクの音がしたり。ともかく朝食を済ませ汗と泥の染み付いた大きなキスリングに石を詰め、検量して妙なテン場から出発した。……
 途中で一年のOがぶっ倒れた。ザックから樹林の中に落ちたようだった。僕は驚いて助けようとしたのだが、体が言うことを利いてくれなかった。幸いOは怪我もなく、少し先の樹林の切れた明るいところで休憩した。そこで写真を撮ったのだが、何もなかったような元気な顔で写っているOには参った。そこから少し登ったところで調べてみると、実に彼のザックは三十七キロもあった。あの小柄な体で三十七キロも背負うのであるから、ただ驚くばかりである〉
 確かに一時期には、ザックの重さを均等にしようということで、バネばかりを歩荷山行に持ち込んだことがあった。通常は三十キロの重さを最大としていたが、時に量り間違えて大荷物を担いでしまう場合もあった。
 この年の夏山合宿は、黒戸尾根を登って甲斐駒ヶ岳から仙丈岳、北岳、農鳥岳から大門沢を下降した。
 また冬山合宿は日光白根の頂上まで到達している。
 また顧問の松崎先生は、二年前に七、八月の二ヶ月間アラスカに個人山行を行い、ウィザースプーン峰の頂上付近まで登行して、この部報に概要を報告している。



顧問・松崎先生の「アラスカの旅の日記から」
Mt Cardozo 10958ft




 山岳部レジスタンス運動  渡辺直治(一九七五年卒)

 山岳部同期は九人だったのだが、そこに五つの派閥があったというほど、私たちはバラバラで全くまとまりがない学年に見えた。ツッパリの東松山組、状況分析の東上線組、岩登りの所沢チーム、中立の飯能組、そして風来坊の一人。私自身ももちろんそのどこかに入る。
 思い起こせば、入部間もなく二年から「入部の動機は?」なんて聞かれるオリエンテーションがあった。「山が好きだから」という大半の中で「体力を付けたいです」と答えた者がいた。それは二年にとって餌食だったのかもしれない。それだけの理由で入部したのかと。逆に新入生にとっては、それだけの理由じゃ何が悪いのだと。
 六月の二回の歩荷訓練に耐えた。その意味は夏山合宿で南アルプスの三千メートルの夢を実現できるというものだった。この年二年は大いに張り切っていた。なぜなら前年の夏山合宿は荒天に阻まれて、三千メートルには一つも登れなかったという残念な経過だった。南ア最南部の光岳へ寸又川を延々二日半掛けて三十五キロ歩いて登頂したものの、合宿はそれだけで終わっていた。二年のそのコンプレックスは、部室の片隅に置かれていた前年の部報を見ればよく分かった。
 翌年、二年のこの意気込みに、ツッパリ組みはレジスタンス運動を始めた。三千メートル登頂の有無が、二年と一年の経験差と実力差と命令系統の違いというならば、今年の二年には経験も実力もないという屁理屈を持ち出す。一学期末試験後の休みを利用して、一年だけで三千メートルを登ってしまおうと、富士山が計画された。当時の一二年部員には誰も三千メートルの経験者がいない。ただ一年の一人に小学生時代に父親と富士山に登頂した者だけがいた。彼が実質この個人山行のリーダーとなった。もちろんその後、計画は一年全員に知らされたが、風来坊が奇妙なことを言い出した。
「夏の富士山に五合目までバスで上がって登るだけじゃ、オヤジハイキングと一緒だ。富士吉田の一合目から歩くなら俺も参加する」
 それが採用された。しかし岩登りチームだけは、この山は登るに値しないと、参加は一年七人中(残りの二人は秋になって入部した)六人になった。不参加の一人が、翌年チーフリーダーになる。夜の最終で富士吉田に着いて、そのまま深夜から登り出す。五合目辺りで夜明けを迎えて、昼前に頂上に着いた。天気はいい。夏合宿が始まる一週間前のことだった。
 実はその頂上では参加全員のスナップ写真が妙に残っているのだが、その理由も「登頂証明写真」だったという妙なものだった。山行前に、どうせバスで登るに決まっているだとか、途中でへばってしまうと二年に言われたことへの、裏返しの証明になる。寒くてガタガタ震えて頂上の小屋で寝込んでしまった者こそが、写真だけは忘れなかった。部室に今でも残っているらしい。
 下山後学校に戻ると、二年の一人は「なんだ、一年は勝手に富士山を登ったのか」と嫉妬を買う。もちろん計画書は提出している。同期は生意気盛りだった。
 この年の夏山合宿は、三伏峠から三千メートルの塩見岳に登り、間ノ岳にたどり着き、さて農鳥岳の往復登頂はどうしようかということになった。
「一年は先に北岳のテント場に行って、テントを設営してくれ」
 と二年がいう。顧問も同調する。この日の行程は長い。全員で農鳥岳まで往復すると幕営に不安が残る。
「俺たちにとっては、今回が最後の夏山なんだ。三千メートルを登らせてくれ」
 二年のそれは、山岳部の統率だったのか、嫉妬だったのか。しかし全員が登らないという選択よりもよかったと、今になれば思える。
 当時の部報を見ると、その合宿と同時期に、まだ入部していなかった一年は単独で八ヶ岳の全域を縦走している。八月には二年が二人で槍穂に行き、二年と一年の二人パーティは三俣蓮華岳から槍という縦走をしている。ほかに一年二人は飯豊連峰を縦走した。冬山合宿偵察山行も八月に行われ、十二月に計画していた八ヶ岳を二年と一年二人のパーティで偵察してきた。九月にはやはり二年と一年の二人が、越後駒ケ岳へ登っている。
 単独行や個人山行は、私たちの二年上の柳川さんが最も得意としていた。シーズン中は毎月単独山行をしていたようで、羨ましくもあった。そして誘われれば、学年が違っても誰でも連れて行ってくれた。個人として登りたい山が優先して、相手がいなければ単独でも登り、相手が見つかれば誰とでも行った。そんな大人っぽい山行の組み方ができた時代だったと思う。それはまた、二年は下級生を指導し、一年は二年に教わる。そして二年の夏山合宿が終われば、その指導から開放され自分の好きな山に登れるという理屈でもあった。
 私たちが二年になった南アの夏山合宿も大成功したが、三年は誰一人合宿には参加せずに、合宿一週間前に合宿行程のハイライトの甲斐駒、仙丈ヶ岳を三日間で全員参加の山行をしている。一週間も下級生の面倒など見ちゃいられないというわけだ。
 私たち二年も徹底した。合宿前には二年と一年二人の三人パーティで富士山の大沢崩れからの登頂。夏合宿が終わると剣、薬師岳に二年が二人。燕、槍穂にやはり二年が二人。奥秩父に二年と一年。飯豊連峰に一年が一人。妙高に一年が二人。積雪期に入っても、金峰山に一年が二人、浅間山に二年と一年二人の三人パーティ、北八ヶ岳に二年二人と一年の三人パーティ。浅間や八ヶ岳はスキー登山だった。他に単独行も数多い。
 こうして同級生にメンバーを求めないのは、言うことを聞く下級生の方が自分の主張がすべて通るということになる。ある意味、合宿は長期山行で魅力的なのだが、しかし最大公約数的な山行になる。自己主張ができる本来の自分らしい山行というのは、個人山行でこそ実現できると何故か同級はそんなことを考えていた。
 そうそう二年の夏山合宿ではこんな記憶もある。当時の夏山合宿はABCと三隊に分かれていた。参加者は二十名近い。その上、各隊は行動中に一度も合流しないというあまりに強すぎる個性を発揮した。せめて昼飯時くらいは他パーティを待って合流するべきだったのだが、三十分待っても後続が来なければ予定幕営地へ出発してしまう。当時の夏山は混雑していて、早めに次の幕営地に着かないと理想のテント場を先取りできないという理由もあった。
 合宿の最終日、荒川岳を越えて二軒小屋での幕営となった。翌日は伝付峠に登り返して田代入り口でバスを待つだけである。ところがA隊はヒステリックなほど早起きして真っ暗な中を出発した。伝付峠で夜明けだったというから、午前中早く下山してまだ込まないうちのバスに乗り込んだのだろう。そして身延からさっさと川越に戻ってしまった。残った隊は、昼頃下山したのが、この時刻になると当時の定期バスは大いに込み出して満員通過されたり、ようやく夕方駅に出て、早い隊がここでも待っていないことを確認して、帰郷する。
 後日A隊のリーダーは、顧問に注意を受けた。せめて下山後の駅では合流してから解散するべきだと。もちろんそれは正しいのだが、しかし午前中に下山したいというA隊と、さほど急がなくてもいいだろうという他隊では、そもそも主張が違うわけだし、統一性を取ろうとするなら、隊別行動の意味がない。まさか二十人の大集団登山では能率が悪すぎる。もちろんA隊にも顧問が付いていた。つまりこれは顧問同士の統率取れていない証拠でもあるだろうと、高校生レジスタンス運動は顧問をも混乱させた。
 三年になると、この学年も五月の新歓を最後にして事実上引退した。ある意味それは受験準備でもあるのだが、九人中二人の三年は合宿に空身で参加した。参加しなかった三年の二人は、八月に燕から槍穂に行っているのだから、受験準備とは名ばかりである。もちろん二年も一年も、私たちの影響で山行は活発だった。
 同期メンバーは、その後も中大山岳部のリーダーになったし、社会人クラブのリーダーにもなった。私は大学進学と同時に別の目標もできて、きっぱり辞めた。しかし誰もが、あの三年間であそこまで自分本位に登山した学年は他にはないだろうという自負がある。つまりそれは川高山岳部を一番誇りに思っていることの裏返しでもある。
 この私たちが三年のときの一年が大槻の年代になる。後に聞いた話では、大槻は三年の引退を夏山合宿だとして、参加を義務付けた。三年になっても六月の歩荷には参加する。しかも秋のシーズンにも歩荷を始めた。私たちから見れば、考えられない締め付けでもあるが、しかしあるときの一学年がそういう伝統を築いてしまえば、下級生はそういうものかと、延々と伝統は続いていく。夏山合宿が高校部活動の集大成だとすれば、三学年が揃って参加するのだから、それは充実したものになるだろう。私たち以降にこれが三十年間続いたのであるから頭が下がる。さらに部報「わんだらあ」の不定期作成が、夏合宿締め切りで「くすのき祭」発行と確定したのだから、相当な後輩たちである。しかも大槻君は、卒業して大学合格した三月の春合宿にも参加して(そのときにたまたま遭難事故があったが)、自己主張が強い部活の雰囲気を、統率が取れたものにと考えた。それは多分、私たち年代の山行スタイルの裏返しだったように思える。
 七〇年安保世代の遅れた生き残りが私たちであり、大槻世代はその後の統率の取れたまとまり世代だったことになる。



1975年(昭和50年)

一九七五年
 春山合宿 巻機山 三月三十一日〜四月三日 
 新入生歓迎山行 熊倉山 五月十一日
 トレーニング山行1 武甲山 六月十五日
 トレーニング山行2 御前〜大岳山 六月二十九日
 夏山合宿・朝日飯豊連峰 七月十九日〜二十六日 
 冬山合宿 乗鞍高原・鉢盛山 十二月二十五日〜二十八日

二年部員 大槻晴男 小畑勝利 東海林均 浅野新 荻原克則 粕谷伸男 権田和司
顧問 松崎中正 小島芳寿 増田寧 牛窪勲 牧野彰吾

 三月春合宿の巻機山では、清水部落の上部にBCを設営した後に、天候悪化を見越してか、その日のうちに井戸尾根から吹雪の中を頂上へ向けて登行。井戸壁を越えた上部が第二BCの予定地だったようだが通過。ところがその上部でついに吹雪となり撤退。
〈天候は待ってくれない。数分前よりもますます風雪が強くなってきた。視界はなんと5m。あ!踏み後が見えない。遭難とは考えなかった。いや考えられなかった。茫然とたたずむだけであった。
 顧問の先生の声で我に返り、急いで下りだした。道はかすかなピッケルの刺し跡を頼りに、勘を最大限働かせて下った……〉
 こうして風雪の中で、第二キャンプ予定地にメンバー全員収容の十五人用雪洞を掘って、ビバーク。コンロ、シュラフ、食料は持参していたようだが夕食はラーメン。
 翌日も悪天候で、そこからBCへ下山して、午後は雪上訓練。その翌日の下山日に快晴になったのは残念だった。
 夏合宿の朝日飯豊連峰は、大朝日岳に登頂してから一旦小国に下山。そのまま飯豊連峰を縦走するという一週間の合宿になった。
  冬山合宿の鉢盛山は、十年に渡って顧問をした松崎中正先生引率の最後の合宿になった。


息子に登山とスキーを押しつけて  鷹觜勝之(一九七五年卒)

 次男坊が小学校六年の冬も、我が家は例年通りに、十二月の新潟津南のスキー場にいた。歩くスキー(クロスカントリースキー)の市民大会に年に数回参加するのは、当時の私の趣味であり、女房や子供を連れ回した。
「貴方の息子さんは東京の子供だけど、なかなかスキーのセンスがよろしい。中学に進学したらスキー部を作りなさい」
 とスキー連盟の髭を蓄えた初老紳士に言われたことがある。
「といっても、区立中学に入れるつもりですが、無理でしょう、東京じゃ」
 と言い返したのだが、そうでもないらしい。ふむふむと詳細を聞いて、父親としては冷やかし半分にやってみようかと、悪乗りを始めた。
 春を迎えて、子供は区立中学に進学した。
「校長先生のところにいって、スキー部を作りたいと、言ってみな」
 母親と相談して、次男坊は真に受けた。
 夏は好きな野球部でもいい、冬になったらスキー部。自分の過去を振り返れば、毎日毎日山岳部は伊佐沼マラソンをしていたが、もうちょっと有効な時間の使い方もあっただろう。高一の時に、都内でビートルズのフィルムコンサートに出て部活を休んだ時、先輩に嫌味を言われたことがあった。夏山合宿の初日にバテて、幕営地の河原でほんの少し水遊びをしただけなのに、咎められた。そこまで規律を強いて何のつもりだったんだと、今は思う。優秀な川高生はもっと自由でいい。年老いてくると、そんな理屈を振り回す。
 次男坊が進学した中学校長は少し理解を示した。教育委員会を通じて申請すればいいだけらしい。すると区立中学にもスキー部が創設されて、名前だけの顧問がやってくるが、活動内容は本人に任せられる。それは父親のスキーに息子を同行させることが、活動になると私は理解した。
 その年の冬シーズンが来た。どうやら都内全域の区立中学を見ても、スキー部員は息子一人だけだったようだ。ライバルには明大中野中学、豊島学園中学など私学があった。しかも他校の部員にしても、アルペン部員がほとんどで、クロカン部員とは十数人に満たない。都スキー連盟は、それでも十二月下旬を迎えると、年間唯一の合宿を新潟津南で行った。一週間の日程で連盟役員が子供にスキーを教えて、最終日にタイムを計って記録を残す。そして上位の数名は東京都代表として全国大会に派遣される。もちろん旅行費用その他は、半額ほど親の負担になったのだが。

「登山なんてものは、他人と競争するものじゃない」
 現役時代の私は、同級パーティが積雪期の八ヶ岳・阿弥陀岳南稜に先輩の社会人登山家と出かけるという計画を聞いて、羨ましくなった。ならば私だって、十月の常念岳くらいには一人で登れるだろうと顧問に計画書を出した時に、叱られた。
 同じ頃に、山岳部としては名誉だったのだろうが、NHKから番組に出演して欲しいという依頼があった。遠慮した部長や副部長は私に一任した。というのも、先輩部員が雑誌「岳人」の高校山岳部アンケートにしっかり答えたようで、それが評価されたという理由である。番組の相手として登場するのは、当時女子高なのにヒマラヤの前衛5千m峰に遠征したという立川女子高。ゲストに登山家の吉野満彦さんが出るという。奥多摩の河原で雑談してそれを収録したいという話だった。NHKの担当者が自宅に電話をくれて話したのだが、しかし私は断った。
 第一にその収録の六月の日曜日は、歩荷訓練の予定と重なっていた。NHKの収録は大事で、山岳部の訓練山行は大事じゃないというニュアンスに聞き取れて、不愉快に思ったこと。
 さらにどうせNHKなどは、建前だけの高校生の青春部活の番組を構成したいに決まっているわけで、そんな安易なものにのこのこと出かけるほど、私は素直じゃないし、おめでたい人種でもないという生意気盛りだったこと。人前で山を語れるほど自信もなかった。頂上まで登ったからといって、万歳するほど、登山とはそんな能天気なものでもあるまい。
 さらに、当時は南アルプススーパー林道の工事と、自然保護からのそれの反対運動が盛んな時期で、特に南アルプスに親しんでいた一人として、この問題に自分なりに結論を出すことができないという、不快さもあった。自然保護で反対と叫ぶことは簡単なのだが、しかし建設されてしまえば誰もがそれを利用するわけだ。そういう大人の矛盾に、呆けた怒りを覚えていた。あれから三十五年後の現在、甲斐駒ヶ岳の麓の北沢峠までバスで行くことに躊躇はない。
 そして後日、その番組は吉野さんと立川女子高の数人が、やはり奥多摩の河原で車座になって、登山とは本当に素晴らしいというような内容で放送されていたが、まあ見るに堪えないものだと当時も思った。ところが後日、顧問から、
「ああいうテレビ局からの申し入れには、素直に応じるものだ」
 と私は注意された。だったら、その時に言って欲しい。いや言わなくても、まさか高校生がこんないい話を断るとは思わなかったのだろう。
「たとえ内容がどうあれ、NHKは学校の教職員、高体連の先生たちがみんな見る。川高山岳部員のアピールになったのだ」
 テントを買う予算も学校から出たかもしれない。普段は砂場でテント設営の遊びのような部活も、実は大したものなのだと誤解が解けたかも知れないという。
しかし他人との競争じゃないと言われ、競争がない自分の判断で出演しなかったのに、今度また怒られた。不可解さだけが残る。
他方で、試合に勝てれば結果オーライの運動部連中には、
「山岳部なんて自己満足だろう」
と冷やかされる。これにまた腹が立つ。

 部室で喫煙していたのを見つかって、担任教師に怒られたことがあった。担任はバレー部顧問で、日体大の学生時代にはメキシコ五輪の補欠だったという、業界のビックネームである。顧問をしていたバレー部は、県内大会の決勝まで進む強豪だった。
「スポーツにはルールというものがあるだろう。未成年の喫煙がルール違反なのを知らないのか。登山にもルールというものがあるんだろう」
 そう言われた時に、思わず反発した。
「先生、登山にはルールはありませんよ。ルールは自分で決めるものです」
 こうして、喫煙行為に反論した。社会のルールをスポーツに普遍化させて、それを登山も共有するという理屈に、一時間以上も先生と言い合った。それでも話は平行線のまま。
「実は私もこの学校に赴任したときには、ジプシー教師は帰れと横断幕を張られて、とんでもない学校に来てしまったものだと驚いた。キミも同じだ」
 七十年安保騒動の余波は、川高にもあったらしい。
野球部の全国大会は甲子園であり、他の運動部では国体かインターハイだった。運動部といえば、全国レベルの教師には平身低頭するものらしい。逆恨みがある。陸上部の中距離選手もこんなことを言い出した。
「お前なあ、国体出場なんて、全然レベルが違うんだからな。在学中から喫煙しているようなボンクラに、絶対出られるわけがない」
千五百mを五分でどうにか走れた私に、彼は四分二十秒で走ったのだが、四分ジャストじゃないと、全国大会には出られないと、凄んで見せた。国体出場なんて、憧れだ、神様だと。それは決して私の劣等感にはならなかったが、羨望の対象であったことは間違いない。だから私は息子に強いたのか。

 次男坊が幼稚園年代に、福島の裏磐梯の大会に参加した私は、およそ二時間半の時間を子供一人で遊ばせていた。子供用ソリを手渡すと、体育館の屋根まで積もっている雪の斜面を子供は長靴で登っていって、上からソリ遊びに高じていた。
「お父さんはスキーの大会に出るから、三時間くらいは一人で遊べるね」
「うん」
 どうせ同じような子供が遊んでいれば、他の親が一緒に監視してくれるだろう。放っておいて大丈夫だ。
 ところが私の競技中に場内放送が聞こえる。
「東京から来た、悠史くんのお父さん。男の子が迷子になっております」
 その時に出場していたレースといっても、参加することに意義がある程度だったわけで、コースを外れて仮設テントに出向いた。
「私が父親です」
 息子がいた。
「あれっ、悠史。お前迷子になったのか? 一人で遊んでいたんだろう? 迷子じゃないよなあ」
「うん、迷子じゃないよ」
 放送したアナウンサーはキョトンとしていたが、
「じゃ、今度は見つからないように少し離れて遊んでいなさい」
 私はまたレースに戻った。
 数年後、次男坊が小二の時だから、二歳上の兄の広樹は小四だった。長男には素晴らしい名前をつけた。雪国のブナ林の意味がある。子供は片道五キロの往復コース、大人は片道十キロの往復コースという設定の大会は、妙高の池の平で開催されていた。主催者は横山さんという娘二人を五輪に出場させた先生であった。妻も短いコースに出ていて家族四人で現地にいた。
 私が十キロを折り返して戻ってくるときに、五キロを折り返した息子二人を追い抜いた。
「わーい、父ちゃん」
 兄貴が叫んで手を振る。父と息子が一番仲が良かった頃かもしれない。私はペースを落として二人を見ていた。
「い〜か、今からこの坂を滑るから、下で待っていろ」
 と兄貴が仕切って、弟は下で待つ。ところが兄貴は途中で転んで、大笑いして遊んでいる。その頃から、スキーのセンスは弟にあると、父には思えた。
「先にいくからね」
「うん、いいよ」
 私がゴールして、しばらくして二人が最下位で戻ってきた。大会関係者はもう二十人くらいしかゴール付近にはいなかったけれど、二人は拍手で迎えられた。大勢の大人に囲まれて、その真中で表彰台に立ったような二人は、人生で初めての晴れ姿だったのかも知れない。妻が聞いたところでは、
「何か大人に拍手されると、緊張したよなあ。でもよかったなあ」
 こんなことは、子供たちがしばらくクロカンを続けたほんの少しの理由にはなったのだろう。クロカンは登りは辛いが、下りは楽しい。雪上のマラソンとも言われる。バブルだったあの時代に、そんなマイナーなスキーをやらせたことも意味があった。ゲレンデのアルペン競技などは、見栄の張り合いだけに終わってしまう、金食い虫のようなものだった。
 それにしても、この大会の特別賞とは、家族四人が完走した我が家に贈られるものかと期待したが、提携していたスウェーデンの大会への無料チケットは、優勝した全日本B級の某選手に贈られた。横山さんもセンスがないよと内心思った通りに、間もなくこの大会も不景気のために消滅した。私が息子にスキーで勝てたのも、この頃が最後になった。
こうして、チビの時代からスキーを履かせて遊ばせていたわけだから、中学に進学して、今からスキーを始めるという他校の部員に負けるはずがない。最初のシーズンの全国中学生大会は、北海道旭川で行われた。中学校の体育教師が引率してくれて、子供は初めて飛行機に乗った。出場の嬉しさよりも、訳の分からない遠方へ連れ出されて、戸惑った大会になったらしい。いいのだ、それでも。
 それ以降は押して知るべしで、中高生の六年間に渡って選抜されて、ほとんど毎年参加していた。高校に進学して三学期になると、東京都予選、東京都大会、インターハイ、国体、南関東大会とスケジュールが続いて、学校には通わない。参加して戻ってくると、背中に「Japan」と縫いこんである上着をもらってきたし、同じ「Japan」のザックを持ち帰った。日本代表という意味じゃないが、選抜された全国大会出場という意味か。大会を私自身が見学に行ったのは、群馬の片品高原で開催された時だけだったが、ニンマリほくそ笑んでいたのは私だけだった。親の見栄か? 親の自己顕示欲を子供に実現させたか?
実は本人にとっては、こうした大会もいい迷惑だったらしい。東京都の大会であれば表彰台に上がれる成績であっても、全国大会ともなれば二百人も出場するなかで、百八十番程度だった。
「成績は関係ないんだよ、出場したことに意義があるんだ」
 と言っても、子供には分からない。ほとんどビリっ尻の順位ならば、みっともなくて出ない方がいいと思っていた節がある。片品高原のその大会にしてもそうだった。優勝者は全国選抜で間もなく五輪にも出場するという選手である。雪国の選手は年間で半年は雪の上で練習するが、息子の練習時間は年間一週間。だがしかし、冬に一週間だけのスキー部だったが、彼の中高時代は充実したものだったろうと、親は思う。見学した大会では、学校の顧問とも酒を飲んだ。しかし教師にはスキーの経験はない。
「子供さんが立派でご父兄としてはいいですねえ」
「そんなことはないでしょう。冬山を理解する一つの通過点ですから。それよりも私自身がスキーを楽しんでいますよ」
 年下の教師たちに私の話が理解できただろうか。
 さて大学に進学した子供は、親の予想外に、体育会のワンゲル部に所属した。いつまでも親なんかと一緒に住んでいられないと、二人ともそれぞれアパートに出た。ゆとり教育の真っただ中に育った割には、自覚があると内心誉めた。兄貴はアルバイト生活中心だったが、夏にオートバイで北海道の一周を二回も行った。弟の大学ワンゲルというのは、当時の川高山岳部と程度は変わらない。ただ夏合宿だけは長期間山に入っていた。一年のときには槍ヶ岳から白馬岳、日本海の親不知まで一ヶ月の縦走をした。二年のときにはカリフォルニアのヨセミテ公園からジョンミュアトレールを、ホイットニー山まで縦走したらしい。冬には私の山スキーに何度か付き合わせた。ところが二年の秋にこの部活を辞める。
「何だか時間の無駄遣いが多くってさあ」
 という。
 親不知まで縦走した息子は、その後一週間福井の方まで海岸線を徒歩旅行して戻ってきた。大集団の縦走に、完全燃焼できないものがあったらしい。ある休みには、
「ちょっと旅に出る」
 と気障なことを言いながら、青春十八切符で四国へ旅行してきた。学生時代のヒッピー旅行などは、私の年代は必修科目だったような気がする。あの頃米国のバス乗り放題の一ヶ月定期券が五万円ほど。それに同額程度の往復旅費を足せば、残りは一日千円でいつまでも風来坊旅行が送れた。条件は今でも同じなのだが、やっている学生はものすごく少なくなっている。そうした青春満喫部活の初心者として、我が息子たちも年齢相応に目覚めたものだと、親は思う。
 そしてワンゲルを辞めた息子には、登山という趣味がいつでも人生の最優先であるはずがないと、私はエールを送る。私もそういう時期があった。仕事が、家庭がその理由になることもあるが、大学生活そのものの何かが、優先するときがあってもいい。いやむしろ、そういう時期がないことの方がおかしい。長男にしても、学生時代の友人がスノボーに誘うようだが、
「あんなものは、子供時代にとっくに卒業したんだよね」
 とウソぶいていた。
 やはりスポーツとは、自分にとって何なのか。たとえ競技で優勝しても、翌年は多分勝てない。プロアマ問わずに、間違いなくそんなものだろうと思っている。つまりそれは自分の価値観に対して、やり遂げたことにどれだけ意味があったのかの、自問自答の繰り返しになる。二人の子供に登山やスキーを押しつけて、その断片でも分かったのなら、私の子育ては成功したのかと思う。そして父親は、そういう魑魅魍魎とした意味不明の趣味が、結果的に人生の基軸になったことを、子供に伝えたかった。それに比べれば、国体やインターハイなどは、やはりただの通過点に過ぎなかったということを、親は子供を通じて理解した。
 過去の栄光をいつまでも引きずるなどは、愚かなことである。自慢したいほどの記録は、自分が落ち込んだ時の慰めにはなるが、未来への糧にはならない。登山の課題とは今である。過去のどんな登山やスキーよりも、次回に計画した登山やスキーが、どれほど魅力に満ちているだろう。年老いてもなお積み重ねる。ロッジの窓から、真冬の谷川岳を見上げるだけでも、私はどれだけ満たされることか。登山観とはそういうものだ。
子供は親の大いなる犠牲者だったかも知れないが、崇高な犠牲者であったことを、いずれ悟るだろうと、わがままな父親は思い返す。