90年史 NO3            トップページへ

1976年(昭和51年)

わんだらあ十一号 七十六ページ
一九七六年
 春山合宿 日光・女峰山 三月二十八日〜三十一日
 新入生歓迎山行 万太郎山 五月九日
 第一回歩荷 蕎麦粒山 六月六日
 夏山合宿 南アルプス南部・聖岳・赤石岳・荒川岳 七月二十三日〜二十八日
 秋歩荷 蕨山 十一月五日
 冬山合宿 中央アルプス・経ヶ岳 十二月二十五日〜二十七日

二年部員 青木邦雄 作美幸宏 塩崎健 柳雄 奥沢正士 高根俊章 井上勝海
顧問 小島芳寿 増田寧 牛窪勲 牧野彰吾

 三月の春合宿・日光・女峰山は雨天の停滞日もあったが、登頂日には富士見峠から午前中に女峰山、午後は小真名子山を往復して、春山を満喫した。
 さて夏合宿は南アルプス南部であったが、この年は三年部員の大槻、小畑、東海林、浅野、荻原、粕谷、権田の七人全員が夏合宿に参加するという盛況振りだった。けっきょく彼らは、一年で南アルプス北部、二年で朝日・飯豊連峰、三年で南アルプス南部を登ったことになる。
 それまでの山岳部の三年部員は、新入生歓迎山行を最後に部活引退するという早期引退が慣例となっていた。それを三ヶ月ほど伸ばして、夏山合宿を三年最後の山行にするように、部活を活発化させたのは、この年代が最初のことになる。その習慣はその後長く維持されて、三年部員も全員参加の夏山合宿が恒例化していった。
 この年の夏山合宿は、畑薙ダムから茶臼岳に登り、北部へ縦走した。
〈午前五時五十分、聖岳の頂上で御来光を拝んだ。何ともいえぬ素晴らしい一瞬である。太陽のずっと右手には、真黒な富士山がどっしりと腰を下ろしていた。頂上でスイカを食べる。奥聖岳を往復。高山植物を楽しんだ。聖岳と別れ、ぐんぐん下る。そして今度は、兎岳への登りである。太陽が顔を出してからは、この登りは堪えた。兎岳頂上では大パノラマがあった。素晴らしい天気にこの眺め。いつまでもここにいてもいいくらいだ。南アルプスの主峰のほとんどが見渡せた。中盛丸山は、丸いドーム状の盛り上がった山だ。ここから大沢岳経由でガレ場を通り、百間洞露営へと下った〉
 以降は、赤石岳・荒川岳を越えて三伏峠へ下った。
 冬山合宿の中央アルプス・経ヶ岳は、強風に悩まされたものの、積雪はさほど多くはなく、曇り空の中を登頂したと、報告されている。

1977年(昭和52年)

一九七七年
 第四歩荷 棒ノ峰 二月二十八日
 春山合宿 南アルプス・笊ヶ岳 
 第一歩荷 蕨山 六月五日
 第二歩荷 川苔山 六月十九日
 夏山合宿 北アルプス・薬師岳〜烏帽子岳 七月二十日〜二十六日
 第三歩荷 矢岳 十一月六日
 冬山合宿 平標山 十二月二十五日〜二十八日

二年部員 猪狩尚人 猪狩貞身 寺西考 本郷賢児
顧問 牧野彰吾 山田正志 牛窪勲 小峯昇

 前年から、夏合宿以降にも秋歩荷というトレーニング山行が組まれ、引き続き翌年の二月には、第四歩荷という山行が行われたと報告されている。参加はわずかに三人だったのだが、計画山行は熱心だったようだ。
 ところが三月の春山合宿、南アルプスの笊ヶ岳で、思わぬ遭難騒動が起こってしまった。合宿参加は顧問四人を含めて十五人だったが、初日まだ積雪もなく、稜線への取り付き手前の幕営時に、水汲みにでたリーダーの作美はテントに戻れなくなってしまったのである。本人はかなりパニックに陥ってしまったのであろうが、その後山中で二泊して、自力下山して事なきを得た。川越からもOBや前顧問の松崎先生などが救援に向かったのだが、現地到着寸前に、本人の無事の連絡を受けた。この山行には、卒業直後の三年二人もOB参加していた。
 春にこうした騒ぎがあったせいか、四月以降の新年度では、新入生歓迎山行は中止されたようだ。しかしそれ以降は例年と変わりなく山行は行われた。大勢の新入部員にも恵まれて、初夏に二回行われた歩荷山行には、二十人近い部員が参加した。
 そしてこの年の夏山合宿は、山岳部にとっては十年振り以上となる北アルプスの合宿が組まれた。有峰から薬師岳に登り、黒部五郎岳〜三俣蓮華岳〜雲ノ平〜水晶岳〜烏帽子岳と、今で言うダイヤモンドコースから裏銀座への縦走となった。

〈今日は随分早く、薬師峠を出発した。満天の星が不気味に輝いている。毎度のことながらC隊が先頭に進み、太郎山を経て北ノ俣岳に着いたのは六時ちょっと前。快調なペースである。頂上で御来光を仰ぎ肌寒い空気の中を、いよいよ今日の行程の中で一番高い黒部五郎岳へ向かう。なだらかな稜線上を黙々と歩くと、すぐ左手には雪渓が眩しく、遠くに目を向けるといくらか手前に傾いた雲ノ平の平原と、後立山連峰の峰々が目に映る。こんもりとしたピークをいくつか越え、やっと雄大にそびえた黒部五郎岳の登りに取り付く。ダラダラした道を歩き、かなりばてた。中俣乗越から二手に分かれて、肩の分岐点で落ち合って、ザックを降ろして登頂する。槍ヶ岳の頂が鋭くとがっていたのが印象的だった。頂上で昼食を取り、肩の分岐に戻る。ザックを背負ってカール脇の急な道を下る。
 下りきったところで休憩し、雪渓の雪にコンデンスミルクをかけたかき氷を食べた。この辺はとても高山植物が多い。至るところに咲き乱れていた。今考えてみると、今回の山行ではここが一番美しかったように思われた。約一時間休んでからまた歩き始める。
 道の脇には「ガキの田んぼ」と呼ばれる小さい池が点在し、その周りを高山植物が咲き誇って見事な景観だった。まさに庭園と呼ぶに相応しい。
 天場を確保するために急いで黒部五郎小屋へと向かった。ここのトイレは、モダンで美しい小屋の様相とは裏腹に、ひどく陰気だった。夕方の雨が降ったが三重側溝も空しく、すぐやんでしまった。明日も一時半起床なので、早めに寝た〉

 冬山合宿の上越・平標山は比較的登りやすい山だといわれている。国道一七号の三国峠先の元橋で標高は一〇〇〇m。そこから頂上まで標高差は1000m余り。朝川越を出発して、越後湯沢からバスで元橋へ。その日のうちに林道終点にBC。翌日は停滞し、その次の日に曇り空だったが、山頂まで往復した。ただ積雪は多く腰までのラッセルに苦労した。合宿へ行くときに、夜行列車を使わなかったのは、このときが最初にだったかも知れない。

報告
笊ヶ岳行方不明事件・報告と反省

 俗に当時は「水汲み遭難」といわれた、一九七七年三月の春山合宿・南アルプスの笊ヶ岳入山時の、二年部員チーフリーダーの作美幸宏の遭難は、事件発生から三ヵ月後には、「笊ヶ岳行方不明事件」として、三十四ページの小誌として部内では報告されている。
 笊ヶ岳への登山道としては、現在では廃道になっているが、山梨県早川町の保(ほ)という集落から、保川に沿って4時間ほど登り、そこ(広河原)から大武刀尾根に取り付いて頂上へ達する道が一般的であった。合宿は顧問三人を含めて総勢十四人。午後、登山道入り口から入山し、三時間後に、標高九三〇mの「山の神」という広場で幕営することになった。そこからすぐ下を流れる保川へ水汲みに行くには、
〈直線距離にして八十m。所要時間四分。見通せる水場だった〉
 とこの報告書には記載されている。さらに正確に記せば、一分半ほど登山道を進み、涸沢を下れば、川幅五mの流れに到達するという状況だった。積雪はない。
 三月末の春合宿とはいえ、南アルプスのこの標高では無積雪。せめて山が深いといえば、最終集落の登山口から三時間登山道を進んだという点では、距離にして六キロ程度。道がしっかりしていたとしても、それを見失ってしまえば、相当山奥であることに変わりはなかったのだろう。
 テントの設営が終わって、午後五時過ぎ、彼は水汲みから戻ってきた部員に続いて、自らも一人で水汲みに出かけた。そしてそこからテントに戻れなくなったというのが、遭難のあらましである。以降、山中で二泊して自力下山したのだが、経緯は彼自身が当時報告を書いている。

〈山の神という平坦地に着いたのは、十六時十五分。行けるのなら二俣まで行きたかったのだが、時間的に無理だったので、そこに幕営することになった。雪は全くなかった。テントを設営後、食事の準備に取り掛かった。僕らの隊で外にいたのは僕の他に井上だけだった。テントの中で他の連中が石油コンロをつけている間、井上が同じ隊の柳のサブザックにポリタンクを入れて下の保川まで水を汲みに行った。僕はやることがなくなったので、鍋で水を汲みに行こうと思ったが、外にいたA隊の青木に聞いたら、かなり急傾斜だから鍋では無理だと言われ諦めた。数分で井上が帰ってきたので、僕はポリタンから鍋に水を移し、空になった二つと、外にあった一つ、計三個をサブザックに入れ、
「今度は俺が行ってくる」
 と言って出かけた。井上はテント場のすぐ近くから真っ直ぐ登ってきたようだったが、僕は少し道を歩いてから降りていこうと思った。一分と歩かないうちに涸沢を渡り降りていった。涸沢沿いに降りれば水場に行けると聞いていたので、右岸を降りていった。下は少しザレていたようで、木につかまりながら行ったようにも思う。この辺の記憶が不正確なのも注意散漫だったからだ。時間を気にすることもなくすぐ着いたような気がする。
 そこは砂地で幅が五mくらいの所で、保川の本流からは少し離れていて、決して危険な所ではなかった。まず汲みやすい場所を探した。涸沢の下から水が流れていてそこで汲もうとしたが、水の貯まっていたところが浅くポリタンではうまく汲めなくて場所を変えた。保川の水を汲もうとしたのだが、僕のすぐそばは流れがなく、下流へ数m移動して、流れのあるところで汲んだ。今考えると、随分と時間をかけてこれらのことを終えたようだ。
 水を汲んだところからすぐ登り始めた。とにかく上へ行って右に歩いていけばテントに戻れると思い、どんどん登っていった。ここで重大なミスを立て続けに犯してしまった。登っていって道に出れば平になっていると思い込んでいて、足元しか見ていなかった。しかし実際はいくら登っても、道らしい所に出なかった。後で聞いた話では、涸沢を登山道が横切る所は、あまりはっきりしていなかったらしい。それにしても、周りを良く見て登れば気がつかないはずはない。その上、道を通り過ごしたかもしれないと疑いを持ったのが、ずっと後になってからのことなのだ。ただひたすら道に出るはずだと信じ込んで登っていた。
 迷ったと気付いたとき慌ててしまった。焦ってしまいどうしていいのか分からなくなった。僕だけ残して、テントが消えてしまったのではないかと思ったくらいだった。
「なぜ元のところに引き返さなかったのか」と、後で大勢の非難を浴びた。いろいろな原因が重なったとはいえ、迷ったら引き返すという基本を私は守らなかった。
迷ったというより、自分がどこにいるか全く分からなくなった。かなり高くまで登って来たという感じがしても、愚かにも自分を信じきっていた。「このくらいの高さはあったのでは?」と思うほどであった。とにかく上へ上へと、でたらめに登っていたようで、この辺りの記憶が一番曖昧である。
 戻ったのか、戻らなかったのか、右へどのくらい歩いたのか、高さは、時間は、よく覚えていない。大声を挙げて叫びもした。しかし他の皆はテントの中だろうし、沢の音とコンロの音で聞こえるわけがなかった。いつの間にか辺りは暗くなり始めていて、僕は急斜面の上に立っていた。探すのを諦めると急に落ち着いてきた。自分の馬鹿さ加減に腹が立った。とにかくここで一晩過ごさなくてはと思い、座れるような所を探した。木の根元と斜面の作る平らなところに座った。もう周りの景色はほとんど分からなくなっていた。空には真上より少し西よりに、三日月より少し太った月があり、星も見え始めていた。風はほとんどなく快晴で、真っ暗にはならなかった。ただ露営などしたこともなく、皆は今頃必死に探してくれているのではないかと思い、耳をすましたが、聞こえるのは水の音ばかりだった。僕は保川に向かって座り、右手に小さな尾根、そしてその向こうにも尾根が見えた。ひょっとしたら懐中電灯の光でも見えるかもしれないと思い、テントがありそうな場所を見ていたが無駄だった。何だか信じられなかった。たった一人こんなところに居るなんて、合宿の一日目でもあり、割りと調子がよく疲れていなかったし、雪もなく寒くはなかったし、山の神で塩崎に弁当の余りを少しもらって食べて、空腹でもなかった。生命の危険は感じなかったが、積極的に眠る気にはなれなかった。何となく眠るのが恐ろしく、口笛を吹いたりしていた。時間が立つのが遅く、月がなかなか動かない感じがした。しかし知らないうちに眠ってしまったようだ。
 目が覚めた。二時半だった。寒さのせいだったのだろう。風が少し出てきたようだった。夕べにも増してこんな所にいることが信じられなかった。夢でも見ているのではないかと何度思ったことか。星はたくさん見えている。天気は良さそうだ。夜明けまで眠ろうとしたが、寒くて駄目だった。なかなか時間が立たなかった。
 今日はどうするか考えた。まず昨日の水場に戻ることを考え始めた。とにかく下へ降りれば元に戻るはずだと考えた。もしそれで駄目だったら尾根を登ろうと思った。山の神へ通じる道があったらそこを降り、もしなかったらもっと登り、北側の尾根にある古い登山道を行けば保に着くだろうとも思った。僕は愚かにも地図を持っていなかったのだが、合宿前に柳が持ってきた古い地図に載っていた旧登山道を少し覚えていたのだ。夜はなかなか明けなかったが、今日中には帰れると楽観的だった。東の空が紫色になると、間もなく夜が明けた。
 すぐに真っ直ぐ降りて行った。かなり急傾斜だった。こんなところを登って来たのだろうかとも思った。正面を見ると、保川は西から東ではなく、西から南へ折れて、そしてまた東へ折れて流れていた。怖いくらいの斜面だった。少し降りると岩がゴロゴロしているところに出た。しかし通った覚えがなかった。そこは涸沢のようで周りより一段低くなっていた。このまま降りてゆくと崖に出そうだったし、何よりも降りるのが怖くて、元の場所へ戻ってみた。北を見るとずっと尾根が続いていた。その尾根を辿ってゆくと保に降りることができるはずだった。本来道に迷ったら動かない方がいいのだが、尾根伝いの道なら夕方までには帰れそうだったし、天気もよかったので歩くことにした。とにかく尾根に出れば後は降りるだけだと思った。気分的に楽だった。
 まずすぐそばの尾根に登り、辺りを見渡した。テントらしいものは見えなかった。その尾根は小さかった。北には目指す大きな尾根が青空にくっきり見えた。途中、スズタケや倒木などがあって通りにくい所もあったが、尾根を外すことはなかった。踏み跡のようなものもあり、ビンのかけらも落ちていて、人が通ったことがあるのは確かだった。一時間くらい登ると、四方が見渡せるようになった。西側はほとんど枯木のようで赤茶色だった。相変わらず倒木などがある尾根道を歩いてゆくと左手に伐採地があり、小屋がポツンと建っていた。大きな尾根近くになって、スズタケのかなり茂った所があり、鉈目が付けてあったりした。そこには造林地であることを示す立て看板があった。その辺は見通しが悪かった。大きな尾根に近づくと、急な登りになり、両手も使って登った。雪も少しあった。登るにつれてだんだん雪も増えていった。最後の登りは少しきつかった。やっと大きな尾根に着いた。ひとまずほっとした。ちょうど正午頃だったから、五時間くらい歩いたのだろう。今考えると降りた方がずっと早かったのだが、降りるのは何故か恐ろしく、必死に登ってしまった。尾根の上は三十pくらい積雪があった。
 すぐ東へ歩き出した。樹林帯で見通しは悪かったが、何とか尾根を外さずに歩けた。所々深い雪に足を奪われ、靴の中はびしょびしょになった。しかし下りは楽になり気にはならない。まだ雪の残っているうちに三角点のような石柱を見た。雪がなくなってからも順調に歩けた。腹は空いていたが、水ポリタンがあるから助かる。
 尾根の真中辺りのピークだったろうか、背丈と同じくらいのスズタケが密生して、これには参った。覆いかぶさってきて、とても前には進めない。しょうがなく南側へ少し降りて、巻いてからまた元の尾根に取り付いた。ここで随分と時間をかけてしまった。もう十五時頃になっていたと思う。登るのが苦痛だった。後のピークは楽に歩けた。暗くなり始めたのは最後のピークにいる時だった。その手前で北側の尾根を少し降りそうになって、引き返したりしているうちに、暗くなってしまった。スズタケの山で思わぬ時間のロスがあり、二日目の露営をするほかなくなってしまった。最後のピークは頂上が広く、尾根が幾つも派生しているようだった。すっかり暗くなる前に、眠る場所を探した。頂上の東側からは、街の明かりが見えた。嬉しかった。そこで街の灯を見ながら眠ることにした。枯葉の上に腰を下ろし、木に寄りかかった。靴の中が濡れていたが、昨日より疲れたせいか良く眠れた。一日遅れる事で皆に余計に心配をかけてしまうと思うと残念だった。とにかく早く降りて無事を知らせなくてはと思った。
 誰かそばにいるような夢を見て目を覚ました。誰かといっても部員の一人だが、寒かった。曇っていて、雨でも降りそうだった。寒くてもう眠れなかった。街の明かりが光っていた。曇っていて明るくなるのに時間がかかった。四時頃だったろうか、何か降ってきた。雨かと思ったが雪で、体が濡れずに済んだ。夜明けまでに随分と降った。
 明るくなって歩き始めたのはいいが、どこを降りていったら尾根なのか分からなくなってしまった。雪で空が灰色になってしまって、周りの景色が全然見えなくなってしまった。その上頂上が広くて、益々分からない。みんな道みたいに見えてくる。あちこち随分と歩き回った。雪が積もって足跡が付いて、迷わずに済んだのは幸いだった。しかしけっきょく、東という方向しか分からずに降りることにした。一応尾根らしき所を歩いていったが、十分くらいで尾根は消えてしまい、涸沢みたいな所に出た。沢を下るのは危険で慎重に歩いた。どうやら本当の尾根より南側に来ているようだった。沢は急になったが何とか降りることができた。その涸沢もいつの間にか水が集まり、流れのある沢になっていた。やがて滝が現れるだろうから、その前にトラバースして、どこかの尾根に取り付かなければと思った。その沢のだんだん岩が大きくなり、流れも速くなっていった。
 いよいよ滝が現れたとき、左の尾根へトラバースした。木々はまばらで歩きやすかった。もう雪はやんで、木に積もった雪が溶けて雨粒のように落ちてきた。沢から大分離れ、どうやら尾根らしい所に着いた頃、行く手には道路や人家が見えた。しかし慎重に歩いた。怪我だけはしないように、斜面が急になり、木につかまりながら降りた。その度に木から落ちてくる水滴で服が濡れた。山肌に付けられた道がはっきり見えてきた。河原も見えた。小さな堰堤も見えた。黄色い小屋みたいなものがあって、人も見えた。あと少しだった。何時間くらい歩いただろうか。やっと河原に降りることができた。釣り人が見えた。人が来ているということは、ここからは安全に帰れるわけだ。そう思いながら石伝いに向こう岸に渡った……〉

 彼は標高九三〇mの幕営地から、標高一九二二mの大黒山まで達して、そこから東に延びる尾根を下り、最後に尾根の向こう側を流れる黒桂河内(つづらこうち)川の下流で釣り人に出会ったことになった。二日目未明の降雪は、幕営地付近でも八センチほどあった。
 そして最後に、遭難原因は山を侮ったことに起因すると彼は結論付けている。技術や経験の問題ではなくて、注意不足や気の緩みだとしている。少しばかり経験を積んで、いい気になっていたとも書かれている。
 さて彼が山をさ迷っていた間、仲間は幕営地で捜索を始めた。部員はこう報告している。
〈作美の帰りが遅い。そう思い始めたのは彼が水汲みに出かけて十五分ほど経ってからだった。変だとばかり、柳と共に保川まで下ってみたがいない。ひょっとしたらすでに戻り、隣のテントに入っているんじゃないかと思い、天幕場に戻ってみたがやはりいない。が、まさかこんなところで……という先入観があったために、事の重大さにはさほど気付かなかった。
 しかし彼は戻らず、だんだん心配になってきた。そして遭難という言葉が脳裏をかすめた。すでに夕方で、とにかく探さなければと全員で付近一帯を夜まで捜索したが、その晩は何の手がかりもなく皆言葉少なげであった。場所的にいっても、川に落ちるようなところはなく、河原をくまなく探しても遺留品もなく、彼は夕方の帰り道の涸沢を登っていって道が発見できず、天幕場のある尾根の上部のコブをそれと誤認してしまったのではないか、などと部員たちを話し合っても見た。
 翌日天候は快晴で、やや希望が持てた。慎重派の作美のことだから、無事でいるだろうという者もいた。とにかく悪い方向へ考えがちな心を叱咤して、なるべく良い方向へ考えるようにした。
 報告のため下山する人たちと、昨日に引き続き現地を捜索する人たちに別れた。現地では河原一帯、周辺の道及び斜面、涸沢上部を捜した。涸沢を探したグループは、道の交差する地点より上部から傾斜がきつく、一旦下ってしまった。が再び涸沢を登ると、かなり上部の斜面に滑ったような跡があり、さらにその上部に断続した足跡らしきものがあった(一つは足型のようでもあり、二、三靴を蹴り込んだようなものもあった)。しかし残念ながらはっきりしたものではなかった。その涸沢のツメから渋沢を挟んで道らしきものが見え、また尾根伝いに行けば道のある尾根に出られるので、作美がそっちへ行ったんじゃないかと、青木と気休めの冗談を言ったりした(実際、彼が尾根を辿って行ったとはとても思えなかったから)。しかし、もしそうだったとしても、時間的に追いつくのは無理だし、けっきょく道に迷ったら自力で抜け出す他にないと思った。
 他のグループの人たちも健闘虚しく疲れきってしまっているようであった。探せる所は大体探しつくしてしまった。
 翌々朝はみぞれであった。捜索はできない。作美はどこかで無事でいると思いながらも、丸一日食わずでおまけにみぞれになってしまい、皆いよいよ心配してきた。が、午前十一時頃、無線により新倉で無事救出の知らせが入り、全員歓びに湧いた〉
 仲間も部員も必死だった。さて救助隊や高校はどのように対応したのだろうか。
 遭難翌朝、引率顧問の小島先生とOB一名が午前五時半に幕営地から下山を始めて、七時半に鰍沢警察都川駐在所に届け出て、遭難は世間に知られることになった。地元では早急に対策を講じて、午前九時には現地の三峡建設工業所の事務所に対策本部が設置された。その後午前中には、早朝数時間の幕営地付近の捜索結果を二年部員二人が下山して知らせに着たが「手がかりなし」。地元消防団は九名を捜索隊として編成し、午前十一時に本部から登山を始め、二時間ほどで幕営地に到着し、トランシーバーを置いて一時間後には下山した。
 また川越高校では、午前七時の連絡から急遽対策が取られたと思われ、遭難者の両親、教頭の小室先生、他に野口、田中、牧野先生が車で出発し、午後三時半に現地に到着している。夕方九人の捜索隊が戻ると会議が開かれ、翌朝六時からは幕営地と現地本部の無線を開局し、新たに四十名の捜索隊員が登山することなどが決まった。また川高では夕方までに三年部員、OB、一年前に他校に赴任した元顧問の松崎先生らが集合し、翌日早朝に新宿駅に集合して救援に駆けつけることになった。実際に救援に出発したのは、小柳・増田・小峰先生と、元顧問の松崎先生。さらに十一人の三年部員やOBなどだった。
 みぞれが降った翌日は、現地四十人の捜索隊には午前八時に待機命令が出た。山の神ではみぞれ積雪が八センチ。午前九時半にはガスが出て、視界が三十m程度だったらしい。捜索も膠着してしまった中で、午前十時二十分に遭難者本人が、釣り人に出会って発見された。早朝川越を出発した本校救援隊は、昼過ぎに現地に到着したが、それは無事の報告直後のことであった。なお同行部員や、教頭が本人に面会できたのは、発見翌日の昼過ぎだった。

 さて、遭難報告書では、この春合宿の計画段階からの検証もしている。合宿は、北ア、中ア、南ア、八ヶ岳、上越、安達太良などの候補地のなかから、最終的に北アの蝶ヶ岳か、この南アの笊ヶ岳のどちらにするのかという選択で決定したという経緯があった。例年だと、日光、尾瀬、八ヶ岳辺りが候補地に上がっているのだが、
〈昨年の日光女峰山は、積雪がせいぜい膝辺りまでで、面白くない春山だと各部員が口々に言ったこともあって、今年は是非難易度の高いアルプス方面へ行こうという声が強かったことは否めない〉
 と別の部員が報告している。そして、積雪が多く、稜線クラストが予測される蝶ヶ岳よりも、晴天率が高く、夏山でも全員が南アのどこかを経験しているという理由で、笊ヶ岳に決められたようだった。ところがその後の、この山に付いての情報収集が少なく、計画を実行するまでの間に、意気込みが欠けていたとも指摘されている。
 またこの年は一年部員の少なかった年で、この合宿でも二年部員の参加は七人だったのだが、一年部員はわずかに二人(他に二人の卒業した三年部員と、三人の顧問)。
 さらにまた半年前の夏山合宿では、三年部員の七人が全員参加するという初めての前向きな試みもあったが、その理由は皮肉にも下級生の非活発さが理由だとも指摘された。
〈夏山合宿が終わって、我々二年に部の主導権なるものが移ってからのことを振り返ってみると、今までそんなに気にかけていなかったことが色々と頭の中に浮かんでくるのである。二年が中心になってからの部活動は、活気がなく、いつも部室の中は静かだった。我々の次の世代の一年部員がゼロに近い状態であったからかもしれない。しかしそんな中でも部を盛り上げていくのが二年部員の役目であったのだが。何となくまとまりがなくなってからというもの、勝手に部を無断で休んで帰ってしまったり、各自勝手な事をしていたりで、冷酷に言えば、つながりがなくなってしまっていた。だからトレーニングを行うにしても、部員が集まらなくて行わないという日が数日あったということも見逃せない〉
 原因追求すれば多くの問題点は指摘できるのだろうが、同級部員の報告にあるように、道迷って歩き始めてしまった以上〈自力で抜け出す他にないと思った〉ということを、彼は実践して自力下山できたということは、最悪の事態を免れたという点で評価できるのだろう。
 山岳部は、新学期の二ヶ月間は反省期間として、新人歓迎山行は行われなかったが、以降は例年と同じように部は運営された。幸いにもその新学期には八名の入部もあって、新入生には恵まれた。また三年になった仲間たちも、前年の三年と同じように、夏山合宿に全員参加して、三年部員の夏合宿参加の慣例化は、この頃からスタートしている。遭難の汚名は瞬く間に解決されたと言っていい。




1978年(昭和53年)

部報 わんだらあ12 一九八〇年四月発行 一〇〇ページ
一九七八年
 春山合宿 南アルプス・アサヨ峰 三月二十五日〜二十九日
 新入生歓迎山行 大源太山 五月
 団体歩荷 天祖山 六月四日
 団体歩荷 大持山 六月十八日
 夏山合宿 南アルプス 塩見岳〜北岳 七月二十一日〜二十八日
 秋山歩荷 川苔山 
 冬山合宿 日光白根山

二年部員 一戸清 豊国友二 菅原仁志 守屋秀則 石川一義 斉木光一 土田由紀夫 野村圭一
顧問 牧野彰吾 山田正志 牛窪勲 小峯昇


後列左から:守屋、寺西、本郷、猪狩(尚)
中列左から:鈴木、野村、猪狩(貞)、菅原、豊国、一戸、川嶋、山田先生
前列左から:佐藤、小峰先生、牧野先生


 部報は原稿をわら半紙にコピーして、製本だけは印刷所に任せたものになっている。校内のコピー印刷であるから、印刷濃度によって、判読不可能なページがあるのは仕方がないことだろうか。この年と翌年分が合本になっている。
 春山合宿の南アルプスは、伊那から北沢峠へ登ったが、甲斐駒ヶ岳は登山不許可だったようで、稜線のアサヨ峰二七九九mを往復した。
〈北沢峠を示す道標は八二%が雪に埋まっていた。足元に五〇aほど突き出ている道標を、わが山岳部長は何故かけっこう喜んでいた。本日のテント場はここである。犬が一匹とテントが二張り。天気吹雪。
 本日のテント場である仙水峠にはあっという間に着いた。天気快晴。そしてアタックである。仙水峠から甲斐駒を見上げて感動した(甲斐駒登山は県体連に禁止されているので我々は登らなかった)。向かって右上の尾根に取り付くと、始めから急斜面になった。太陽光線の反射がとても眩しい。アサヨ峰山頂付近は岩がガツガツ出っ張っていて、アイゼンを履いた二年が(私はアイゼンを使っていません)泣いていた。
 頂上は尾根のコブのようなところだったが、三六〇度の展望には感動した。北岳、仙丈岳、甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳を一望できる場所はめったにないだろう〉
 夏山合宿は、そのアサヨ峰から望遠した南アルプスだった。やはり伊那から三伏峠に登り、塩見岳・北岳・仙丈岳と縦走し、北沢峠あらは完成した南アルプススーパー林道を広河原まで歩いて下山した。


冬合宿・日光白根山頂

 また冬合宿は日光白根山へ登った。


武甲山での気絶  一戸清  一九八〇年(昭和五十五年)卒 

◇初めての山行
 武甲山からの下りで、私は気を失い倒れ込んだ。
 一九七七年(昭和五十二年)六月五日、十九時過ぎであろうか。この日は蕨山〜武甲山までの歩荷だったが、私にとって生まれて初めて、もちろん川高山岳部に入部して初めての山行だった。 我々が入部する直前の三月、南アルプス笊ヶ岳での春山合宿中の遭難騒動により、新入生歓迎山行が中止されたためだ。
六月四日(土)授業終了後、飯能からバスで名栗川沿いの幕営地(有馬ダム建設現場付近)に向かった。夕食後、満点の星空を眺め、消灯後も川の流れを聞き、明日の初めての山行を想像し胸を躍らせていた。深夜まで川の流れを聞きながら寝付かれずにいた。
 翌五日、起床は二時頃だったであろうか。殆ど眠れなかったと思う。朝食後、キスリングが二十五kgとなるように石を詰め、五時頃に出発したと思う。長い一日の始まりだった。
 蕨山、鳥首峠、大持山、子持山、シラジクボを経て武甲山まで石を背負ったままであった。途中、鳥首峠付近から一年生二名が体調不良のため、先輩に連れられ下山した。大持・子持に着く頃にはポリタンの水も底をつき、歩幅も狭くなり、時として足が止まってしまうが、先輩から「もう少しだ。頑張れ!」と気合を入れられ何とか歩き続けた。十七時過ぎだろうか、シラジクボに到着した。そこには、OBが迎えにきていてポリタンを差し入れてくれた。しかし、我々一年に回ってくる頃には水は殆どなくなっており、口を湿らす程度に終わった。OBは三年生に、もう遅いから武甲山を断念しここから下山するよう勧めていた。しかし、三年生はOBに会わなければ下山も考えていたようだが、意見されたことにより武甲山に固執したようであった。何とか最後の登りを終え武甲山に着いたのは夕闇が迫る頃であったと思う。石を降ろし、ヘッ電を点けての下山となった。しばらくして、私は意識が遠のき倒れ込んだ。しばしの休憩後、三年の井上先輩が私のキスリングを背負子に載せた。私は朦朧とした意識で下山した。帰宅したのは深夜であったと思う。自宅に着いて、買ったばかりの登山靴を脱いだら、踵の皮が抉ったように深く剥けていた。
 この山行で、睡眠の重要性を身に沁みて感じた。私は、体力には自信があった。小学四年の頃からサイクリングを始め奥多摩湖や鶴峠を走り、中学では三国峠、日光から沼田、福島県原ノ町、山中湖など頻繁に自転車で遠出をしていた。そして、高校に入りアマチュア自転車競技連盟に所属し、ロードレーサーで大宮競輪場を走っていた。また、中学から始めた剣道では、中二で初段となり大将であった。そんな私にとってこの山行は、睡眠が不足すると体力があっても活かされないことを教えてくれた。

◇その後の山行
 初めての山行で厳しい洗礼を受けた私は、その後の山行において辛いと感じることは一度もなかった。山では「食べて寝るものが勝つ」ということを常に意識していたため、どんな時でもどんな場所でも直ちに寝ることができるようになっていた。二回目以降の歩荷でも、雪深い上越のラッセルでも、多少バテはすれども常に山は楽しく、景色を眺め、高山植物を見ることが楽しくなった。
 その後の公式山行は、夏山合宿:薬師岳〜烏帽子岳(一年)、塩見岳〜北岳(二年)、白馬岳〜爺ヶ岳(三年)、冬山合宿:平標山、日光白根山、春山合宿:アサヨ峰、巻機山、であった。
 顧問の牧野彰吾先生は、ほとんどの山行に参加された。そして、夏には高山植物を多数教えていただき、それまで花に興味を抱かなかった私を花好きに導いてくださった。また、歩荷の熊倉山だっただろうか、藪こぎしているときにガサゴソ音がした。誰かが降りてくると思い立ち止まった目の前を、猪が水場に向かって一目散に駆け下りて行った。危うく、体当たりされるところであった。正に、猪突猛進で本当に驚いた。夏合宿では、大学ワンゲルに妙な闘争心を燃やし、必ず追い越していたように思う。
 個人山行では、単独行が好きだった。そして、冬の八ヶ岳が好きで毎年通った。1年の冬に初めて八ヶ岳に向かったときは、ポリタンの水は凍ると思い焼酎の「純」を持参し水分補給を行った。横岳から赤岳を経て阿弥陀岳の下りの頃には、酔いが回りフラフラとなった記憶がある。また、ある時は赤岳鉱泉にいた小屋の従業員が、横岳にもいて驚いたことがあった。大同心を登攀すると縦走路を登るより格段に速いことを初めて知った。
 また、晩秋の奥武蔵、落ち葉の絨毯を歩くのが気持ち良かった。日和田山にもよく通った。豊国と土田が岩登りを好んでいたため同行した。当時、部室前の旧校舎外壁にハーケンを打ちアブミで遊んでいた。彼らは大学進学後、四方津クラブに所属し滝谷や黒部を中心に登っていたようだ。私は、岩は怖く好みではないため参加しなかった。それでも、大学で一回豊国と滝谷に行ったが、まず取り付きに行くまでがとても恐ろしかった。私はリードしないため登攀そのものは楽しかったが落石の多さは恐怖心をあおった。私には向かないと確信した。

◇大学以降の山行
 大学では山岳部を避け、アルペンクラブと称するサークルに所属した。国内縦走をメインに活動する発足間もない小集団であり、執行部の好みで自由に活動した。高校での経験者が殆んどいなかったため、川高山岳部での経験は大いに役に立った。
 印象深い山行は、三年の冬に仙丈岳で役満をツモッタことである。「厳冬期三千メートルの役満」を合言葉に、仙丈岳直下の窪地にコタツと麻雀牌を担ぎ上げ役満が出るまで下山しないと宣言したのである。毎朝コタツの表面の氷を溶かすことから一日が始まった。幸い卓を囲んで四日目に、私が字一色四暗刻をツモリ無事目的を達成した。
 また、一年の夏に単独で南ア全山縦走を試みたことも思い出深い。初日は光岳登り口まで寸又川林道三十km、二日目は光岳から茶臼岳を越え聖平、三日目は聖岳、赤石岳、荒川岳を経て三伏峠、四日目は塩見岳、間ノ岳、農鳥岳、と快調に進んだが台風の接近により断念し、五日目に奈良田に下山した。この山行は、自分の限界に挑戦したつもりであったが、台風の接近で脆くも断念するあたりが自分自身の弱さでもあった。
 大学での忘れられない山行は、四年の冬に鹿島槍ケ岳を目指した山行である。爺ケ岳南尾根から取り付き、森林限界手前で一週間天候回復を待った。高層及び地上天気図上で天候回復が見込まれ、天気予報も久しぶりの晴天と報じた晩に翌日の鹿島槍アタックを決定した。しかし、その晩私は自宅で私自身の通夜が営まれている夢を見た。私は天井からの目線で、自宅に集った親戚を見ていた。皆、私のことを話している。祭壇の写真に目を転じると、なんとそこには私の写真が掲げられていた。私は飛び起き、空を見た。満天の星空、無風快晴であった。私は、起床後全員に下山を告げた。当然メンバーを説得できなかったため、リーダーとしての強権で撤収と下山を命じた。下山途中で天気は一変し雪となった。入山以来八日間連続しての大雪である。我々は二週間の予定で入山していたが、下界ではOBが心配して捜索隊を編成中とのことであった。この日、赤岩尾根から鹿島槍を目指していたパーティーを中心にこの山塊で三十名以上が遭難し、ほぼ全員が亡くなったことが後日報道された。私は、この前年急逝した父が、私達を救ってくれたと確信した。そして、決断すること、決断したら何があっても貫くことの重要性を学んだ。
 大学卒業後、一九八九年のGWに川高同期の豊国と剣岳に行ったことも忘れられない。一般ルートからピークを踏んでの帰路、前剣直下の急斜面を我々は四つん這いになって下山していた。前日の雨と今日の晴天により腐った雪が我々をそうさせていた。中間まで降りた頃、上部に人が現れ前向きに歩き始めた。二人目が十歩程下降したときである、その人が足を滑らせた。笑いながらピッケルで制動を掛けたが、ピッケルは腐った雪には効き目がなく、ドンドン加速した。ピッケルは弾き飛ばされ、滑り台状態で我々に近づいてきた。こっちに来るなと願い、確保の姿勢をとった。その人は我々の五m程脇を、加速しながら東大谷に消えていった。滑落しているときの苦笑いの顔と雪面からジャンプし岩稜にあたった時の鈍い音は今でも忘れられない。彼らは早月尾根を登ってきたエキスパートであり、剣を越えた安堵からアイゼンを外し、ハイキング気分の下山であったようだ。常に初心で事に当たる大切さを学んだ。
 その後、結婚とともに山から遠ざかっていたが、二〇〇五年夏に小三の息子と八方尾根から唐松岳を往復し、久しぶりの山を味わった。二〇〇六年夏には中央アルプスの駒ケ岳を登り、息子も山と高山植物が好きな様子なのでこれからが楽しみである。

◇山と私
 私の今は、武甲山で意識を失い倒れ込んだことにより存在する、と言っても過言ではない。
そのときには、経験したことのない苦痛だった。しかし、それ以降、それを上回る苦痛はなかった。というより、そのような事態にならないように工面することを学習したのだと思う。また、山は多くのことを教えてくれた。
 山は一歩一歩進むと必ず目的地に到着する。そして、己を知り周到な準備と的確な状況判断で望めば必ず目標は達成できる。多少遠回りすることはあったとしても。何事も同じであろう。
 山が人生なのか、人生が山なのか。山との出会いは、私の人生を豊かにしてくれたのは間違いない。



1979年(昭和54年)

一九七九年 
 春山合宿 巻機山 三月二十五日〜二十八日
 新入生歓迎山行 両神山 五月六日
 夏歩荷1 熊倉山 
 夏歩荷2 川苔山 六月十七日
 夏山合宿 後立山連峰 白馬岳〜爺ヶ岳 七月二十一日〜二十七日
 秋歩荷 雲取山 十一月二〜四日
 冬山合宿 北八ヶ岳 十二月二十五日〜二十八日
 
二年部員 川嶋哲也 鈴木稔 佐藤光一 大館敏雄 黒沢資到 小川正樹
顧問 牧野彰吾 山田正志 牛窪勲 小峯昇 吉田洋征

 夏合宿は、北ア・後立山の縦走だった。川高山岳部が北アルプスで縦走を組むのは、十年ぶりくらいのことである。時代が移り変わってきた。白馬大雪渓からの入山だったが、天候には恵まれなかった。頂上で宿泊し、翌日に天狗岳に移動し、さらに五竜岳。ここで一日停滞する。翌日は快晴になった。
〈五竜岳の頂上では、予定通り御来光を見ることができた。その眩しさは朝礼のとき、朝礼台に立って挨拶する校長先生の頭が、太陽に当たって光り輝くのと一致していた。
 久しぶりに出た太陽に当たりながら、鹿島槍を目指すが、太陽が上がるにつれ暑くて我慢できなくなってきた。三千m近いところでは、木がほとんどなく日陰がない。それに水不足は一層深刻になってきた。歩きながら朝霧に濡れた葉っぱを口にしながら、渇きに耐える。近くに見えた鹿島槍だったが、思ったより遥か遠方にそびえ立っていた。その姿はまるで、僕らに挑戦でもしてくるかのように、思えた。
 十時、鹿島槍北峰へ着く。北峰と南峰の間の雪渓で昼食をとる。雪を溶かし水を補給し、カラカラになった喉を潤す。雪にミルクや小豆(OBからの差し入れ)を掛けて氷ミルクや氷あずきを食べる。久しぶりに食べた美味しい食料だ。今回の山行の食料は本当に惨めであった。パンはカビが生えるし、量も少ない。おまけに水不足のため、米をとぐことができない。しかしここで水分補給できたから、どうにか米ぐらいとぐことができそうだ。
 雪渓から南峰の頂上まで一気に登り、今日のテン場予定地である冷池を目指す。下りは楽だった。それに三十キロ以上あった荷物も、二十〜二十五キロくらいまで減った。太陽は西に傾いてきたものの一向に涼しくならない。汗がタラタラと顔を流れる。もう五日くらい風呂にも入っていない。自分の体も臭くて、他人の臭いが気にならない。
 冷池には三時頃着く。水が豊富な冷たそうな池を思い浮かべたが、ここの池はちっぽけで名前だけだった。ここのテント場にも水はない。しかも何と、一リットル当たり、百五十円で売っているというのだ。高いといったらありゃしない。何人か病人が出て、予定の針ノ木には行かずに、明日下山することになった。まことに残念である〉
 こうして翌日には、爺ヶ岳を越えて扇沢に下山した。
 冬山で注意を要するのはテント生活だといわれる。夏山よりも狭い生活空間では、ガスコンロによる中毒、火災、火傷事故などがそれに相当する。この年の合宿ではそうしたトラブルが発生した。北八ヶ岳で組まれた合宿は、初日に渋ノ湯から黒百合平への途中で幕営。翌朝、顧問の不注意で沸いていた鍋が倒れ、熱湯が一年部員の右足にこぼれ、大火傷を負った。彼はそのまま顧問に付き添われて下山することになった。したがって合宿も縮小されて、天狗岳・高見石には登ったものの、麦草峠以北への行動は消滅した。



1980年(昭和55年)

部報 ワンダラー VOL13 一九八一年四月発行 総七十四ページ
一九八〇年
 新入生歓迎山行 白毛門・笠ヶ岳 五月
 第一回歩荷訓練 矢岳 六月一日
 第二回歩荷訓練 蕎麦粒山 六月一五日
 第三回歩荷訓練 御前山 六月二九日
 夏山合宿 南アルプス南部・荒川岳・赤石岳・聖岳 七月二〇日〜二八日
 川女合同山行 二子山 一一月
 秋山合宿 甲武信岳 一一月一日〜三日
 冬山合宿 日光白根岳 一二月二五日〜二八日
一九八一年
 春山合宿 庚申山・皇海山 三月二五日〜二八日
 他に個人山行は、夏の期間中に、南アルプス・北岳、甲斐駒ヶ岳、中央アルプス、北ア・白馬岳、尾瀬、苗場山など。
 
二年部員 八島正知 石井正彦 高橋克己 宇都野正敏 高橋秀一 丑沢正樹 岡田伸隆 米山博久 加島篤人 小泉浩 山中哲夫 草間雅行
顧問 牧野彰吾 小峯昇


夏山合宿 南アルプス 荒川岳(小峯先生提供)

 夏山合宿の南アルプスは、身延から伝付峠を越えて二軒小屋に入り、そこから荒川岳〜赤石岳方面への縦走だった。ところが赤石岳周辺で風雨にさらされた。
〈小赤石岳の少し前あたりから、遂に雨が降り出した。そして小赤石をいつの間にか通過したと思われるあたりで、道を失ってしまった。雨も次第に強くなり、体が冷えていくのを感じだ。やっとのことで、道が分かる(どうやら冬山ルートでありラクダの背付近で、迷っていたらしい)。間もなく赤石岳山頂に着いたが、雨は止まない。すでに全身びしょびしょである。体温を奪われ寒くてたまらない。三角点を踏み、赤石避難小屋に逃げ込もうとしたが、小屋は一杯で入る余地もない。仕方なくそのまま百間洞目指して進む。〉
 翌日も停滞。こうして計画では光岳までの縦走だったのだが、次の行動日に一気に聖岳を越えて聖沢を大井川まで下山することになった。この合宿では全日を通して、午前一時起床、三時出発となっている。
 冬山・春山合宿も、天候にはなかなか恵まれなかった。冬合宿の奥白根山では、頂上に到達したものの〈天気が悪く視界が利かなかった〉と報告されている。


冬山合宿・日光白根山

 春合宿の皇海山でも、
〈天候は典型的な冬型ということで、回復の見込みはないようであった。今日はここで引き返そうという意見が頻繁に出回っていたのだが、先生と部長の首脳会議の結果、雪に負けず進むことにした。僕は今日本当に皇海まで行けるのか不安であった。それから数十メートル進んだところで、なんと幸か不幸か道がなくなってしまった。部長はそれでも勇敢に進んで行ったのだが、やむなくバックした。なんと我々は鋸山にも行けず皇海も諦め、予定通りには全く行かなかった〉
 と報告されている。


1981年(昭和56年)

部報 ワンダラーVOL14  一九八二年四月発行 総九〇ページ

一九八一年
 新入生歓迎山行 五月四日 大菩薩峠 
 第一歩荷訓練山行 六月七日 川苔山 
 第二歩荷訓練山行 六月二一日 三頭山 
 夏山合宿 北アルプス 薬師岳〜槍ヶ岳 七月二一日〜二七日 
 秋山山行 奥武蔵・大平山 一〇月一一日 
 秋山歩荷訓練山行 大岳 一一月二二日 
 冬山合宿 上州武尊山 一二月二五日〜二八日 
一九八二年 
 春山合宿 巻機山 三月二五日〜二八日 
 他に個人山行は、二月の雲取山、五月の谷川岳、甲武信岳、八月の穂高岳、一二月の雲取山、二月の武甲山など。
 
二年部員 矢部大 宮下彰 深代潤 重松裕二 藤田好博 小泉浩 谷川透 新保淳 中川賢尚 橋本和也 弥富英樹 高澤幹哉 田口智英
顧問 牧野彰吾 小峯昇 佐伯勝 高橋守 小室秀雄

 夏山合宿は、扇沢からアルペンルートで黒部平まで。そこから一ノ越へ登って薬師岳への縦走開始。前半は雨模様だったが、薬師岳登頂以降は天候に恵まれて、
〈朝一時に起き、三時には出発。まず間山までいく。途中雪田も多い。疲労がたまって何となく足が重いが、この山行初めて見る御来光に感動する。さらに斜面を行くとはるか遠くに槍の穂が見えた。すぐにそれと分かる姿は感動せずにはいられない。生まれて初めて見る槍に足元もおぼつかない感じだ〉
 こうして、黒部五郎岳、三俣蓮華岳、双六岳、槍ヶ岳と縦走して上高地に下っている。
 冬山合宿の武尊山も天候に恵まれたが、春山合宿の巻機山は荒天だった。清水部落の奥に一泊して、井戸尾根の展望台付近にテントを移動して二泊目。翌日ガスの中を出発。ニセ巻機を越えて辺りからさらに視界が悪化して、
〈ここから巻機まで平坦な道が続くが、巻機の頂上が見つけられないというハプニングが起きた。最高点を確認するため、しばしば四人くらいの先輩が一点から四方へ向かうのだが、視界が悪く目標物が定められないので、どの先輩も知らず知らずのうちに、変な方向へ行ってしまう。難しいものだと思った。けっきょく雪面に出ていたロープと杭を手がかりに、そこを頂上とみなして帰ることになった〉
 ところがニセ巻機まで戻ると、登りに刺してきた竹ざおが見えなくなった。ようやく探しながらテントに戻って、合宿は成功した。


顧問のザック          顧問・小峯 昇(一九七七年〜一九八三年)

 三食昼寝付き? で山にいける! そんなうまい話があるかと思ったら、あったのですね。それが、高校の山岳部の顧問です。しかし、うまい話には何かあるはず。そう、実はいろいろあるのです。
 昔は、テン場について一仕事を終えると、缶ビール片手に稜線に座り込み涼風を受けながら、心ゆくまで景色を眺めると、いうようなこともあったらしいが、今はそうもいかない。
 絶滅寸前ともいえる山好きな高校生を探し出すことから四月は始まる。実際にそんな希少種的な生徒はいないので、授業の合間に入部勧誘をし、なんとか新入生を引き入れ部を存続させている所が大部分であろう。やっと入部したけれども、なかなか動かない生徒の尻を押して、テントを立てさせ、夕飯準備をさせてというか率先してやらねばならず、山の中でも気の休まることがないのである。
 さて、顧問ともなると「顧問ザック」といわれる見るからに小さく、軽い(いや実際に軽い。悔し紛れに小指一本で持ち上げた生徒もいたほどである)ザックを背負っていくことになる。
 生徒の羨望半分、ねたみ半分の視線をものともせずに、顧問ザックならではの山旅を十分に楽しむ? ことができる。
 初めての歩荷で、顧問ザックと自分のザックの違いが著しいことに気づいた小柄の某M君は、何で石を入れて自分で自分の首を絞めることをしなくてはいけないのかと、率直な疑問を呈していた。その通り。だがその疑問は愚問である。やるしかないのだ。
 このM君は、歩荷で「鍋ぶたフリスビー事件」を起こしている。
夕飯当番が飯鍋を準備して火にかけた。さて鍋ぶたをと辺りを見回したが、ない。と、下の川でふたを洗っているM君を見つけて、こっちに持ってくるように声をかけた。何を思ったか、彼はフリスビーよろしく鍋ぶたを投げたのである。こういうときのまぐれというのは、実に恐ろしいものである。何故か投じられた鍋ぶたは、曲がることなく一直線に、割れ鍋に綴じ蓋よろしく、本来一体であるべき飯鍋に飛行を続け、あろうことか飯鍋をスベアから大地に落下させたのである。閑話休題。
 川高から創立時の伊奈学園に転勤し、それまで身につけたノウハウを元に山岳部を作った。そして、後半は女子部の顧問なった。
 今では考えられないが、入部する女子生徒が多くなり女子部を独立させたのである。
 生徒がばててしまった場合、歩荷であれば、「じゃあ、石を捨てろ」と負荷を軽くすることもできるが、夏山になるとそうはいかない。スベアやテント、ましてや食料を捨てていくわけにはいかないのである。そんな時に、I君、Y君、H君、またI君などは率先して荷物を分担して担いでくれたなあ。感謝!
 しかし、女子部ではそうはいかない。ある年の夏山、ばてた生徒を中心に彼女らの真剣な眼差しが一点を向いている。そう、こちらを見ているのである。こんなにたくさんの、熱い鋭い女子高校生の視線を授業中にも放課後にも浴びたことがない私は、一瞬、彼女らの発する強力な電磁波に気圧されてしまった。
 ご想像の通り、数分後には苦行僧よろしく、額から汗を吹きだし、雪渓の上をダブルザックとなった私の姿があった。
 ことほどさように、顧問業は最悪、生徒の荷物を持つことを覚悟しなければならないのである。いや荷物で済めばまだよいのだが……。ある年の冬山、黒百合平で朝飯準備中に鍋が倒れ、よりによって七十五キロ以上もあるU君が足に火傷を負ってしまった。どうして下ろすか、この時一番若くて体力もありそうな顧問は私だった。なぜかこういう時に、生徒たちは細めな子ばかりなのである。
 さすがに参った。何しろ凍っている下り坂だ。踏ん張りがきかないのである。悪戦苦闘の末、病院に運び込み、処置をして顧問が一人付き添って帰った。その後、再び登り返し合宿を続けたのも印象的なことであった。
 山男である以上、パーティを組んだ彼の荷物、あるいは彼そのものを運ぶことをもこころよしとしなければならないのである。
 このためにも、顧問ザックは必要最低限のもので満たされているのが絶対条件であるから、必然的に軽くなる。寝袋の代わりにシュラフカバー、シュラフカバーの代わりにザック等々。
 考えてもくれたまえ。顧問がへとへとに疲れていては、正常な判断は期待できないであろう。それは、即リスクを招くことになる。山行中は、様々な場面で判断を迫られるものだ。
冬山の日光白根で、この斜面を詰めて頂上に向かって危なくないか? 雨が続いた南アルプスで、まだ停滞して待つべきか、あきらめて下山すべきか。
 こんなときに、顧問の持っている判断力、センスが最大限生かせる状態になっていなければならないのである。つまり、限界状態に近い舞台設定で、より適切な判断を下すことが大事なのである。
 さて,ここまで読み進まれた賢明な諸君はもう理解ができたであろう。あの顧問ザックの中には、生徒諸君が歩荷で入れたどんな石よりも大きくてそして重い「責任」というものが詰め込まれていたのである。また件の顧問ザックには、背負っていた顧問の汗と一緒に、ちょっぴりほろ苦い顧問センスという隠し味が染みついていたことも是非覚えておいてほしい。
追記 Mは守屋君、Iは猪狩君、一戸君、Yは矢部君、Hは本郷君である。他の諸君もよく頑張ったし、よくトラぶった。ふと記憶に蘇った諸君を上げさせてもらった次第。


1982年(昭和57年)

部報 ワンダラー VOL15 一九八三年九月発行 一一五ページ
一九八二年
 新入生歓迎山行 平標山 五月一日
 第一回歩荷訓練 蕎麦粒山 六月六日
 第二回歩荷訓練 川苔山 六月二十日
 夏山合宿 飯豊連峰 七月二十一日〜二十六日
 秋山山行 酉谷山 十月十日
 第三回歩荷訓練 鷹ノ巣山 十一月十四日
 冬山合宿 日光・女峰山 十二月二十五日〜二十八日

二年部員 野村正宣 宮岡勲 太田香 田越秀行 
顧問 牧野彰吾 小峯昇 佐伯勝 高橋守 小室秀雄

 この年二年部員は二人だった。ところが新入部員は十二人にも膨れ上がって、夏山合宿の飯豊山行は新入生で膨れ上がる。川越からチャーターバスで新潟県関川村の大石から入山し、連峰北端の?差岳から縦走を始める。ところが縦走二日目に一年部員が体調を悪くして、翌日顧問に付き添われて地神山から下山。またこの日の幕営地の御西岳では風雨に遭遇した。
〈起床時間より二十分ほど遅く起きた。外は風雨が強い。この中でC隊のニュー天幕は崩壊してしまったということである。僕もC隊であったのだが、B隊の黄天幕に入っていたため悲惨な状態は免れた。しかし同じ隊のN君はガタガタと震えていた。C隊は朝食を作ることができないため他の隊のテントで朝食を食べた〉
 それでもその日出発はしたのだが、飯豊本峰から三国小屋でストップ。体調を崩す者の現れて、天幕が壊れたC隊は小屋泊まりとなり、以降一日予定を切り上げて、翌日下山となった。それでも主脈の縦走は成し遂げられた。
 冬合宿は日光・女峰山だったが富士見峠二〇三六mでも積雪がなく、水を探すことに苦労したようだった。
 川越女子高校の登山部と合同山行をするとういうのは、不定期に思いつきで行われていたらしい。この年の十一月に、それは日帰り山行で行われている。場所は芦ヶ久保・丸山である。山行の様子は、女子校の部報「しゃくなげ・一七号」に報告されている。
〈ようやく山道に入ったのだが、しばらく歩いてもまるでよそよそしいのだ、私たちは。登山をする人ってのは内気なのか、硬派なのか、とにかくこういうのは苦手らしい。
 この山行の計画のときは、ほんと山とは言えないようなコースだと聞いていたし、確かに始めは緩やかで、天気もよく紅葉も綺麗で秋山もいいもんだなあなんて思ったものだが、途中からはそんなことは思いもしなくなった。道は急だし、何たってペースが速い。でもそんな思いって私だけだろうし、休憩のとき、
「気持ちが悪い」
 と音を上げたら、川高の人に、
「気持ち悪くなった人がいるんだってよお」
 と呆れられてしまった。
 ともあれ、尾根道に入ると、ペースが落ちたので楽になった。ようやく丸山に着いた。秩父の山々や街が一望できて大変展望が良い。ご丁寧なことに立派な展望台があって、しばらくそこにいた後、降りて昼食にした。私は空腹だったので全部平らげたが、私の近くにいる人たちは、皆あんまり食べないので、がめつい私はその残ったものももらって食べた。このとき共学の友人が、手紙に、
「うちの高校の女子は、皆弁当は幼稚園児みたいなものしか持ってこなくて、放課後になるとパンを五、六個も買ってきて、もりもり食べてんだよ」
 と書いていたのを思い出し、なるほどと思った。それにしても会ったときから、川高の人たちが随分荷物が多いので、不思議に思っていたんだけど、頂上に来てそのほとんどが食べ物だったということには驚いた。
 ここは広くて景色もいいんだけど、それよりも寒くてたまらなかった。だから早く帰りたかったんだけど、何かずるずるとそこに居残ることになってしまい、ようやく二時過ぎに下山することになった。下りは楽で余裕もあったので、登りよりはよっぽどよかった。途中何度か、せっかくこういう機会なんだから、一言も話さずに帰るなんてしゃくだなって思ったけど、けっきょくダメなんだよな私って。気分も手伝ってか芦ヶ久保にあっという間に着いた。ちょうどタイミングよく電車に乗れて、飯能と所沢でほとんどが降りたので、何となく挨拶もしないで別れて、残ったのは四人。川高の人が一人で、川女が三人なんだけど、意外とこれはまとまり易い人数で、気楽になったのか、ホームでも車内でも何となく話が弾んで、何と私は入学してから同年代の男の子と話をしたのは、このときが初めてだったんですよね。正直な話、この所沢から本川越までの数十分が、私にとっては今回の行事の内容として最も有意義で楽しかった時間に思えるんです。
 このようにして今回の合同山行は幕を閉じたわけだけど、川女の登山部にはこのことを契機に、多少なり変化が起こったような気がするのだ。例えば、今まで部室の戸棚の奥にひっそりと身を潜めていた川高の部報が、いつの間にか目に付くところに置かれるようになった。また今まで話したこともなかった川高山岳部の人たちの名前が、度々私たちの会話に登場するようになった。とにかく中味を見ても結果を見ても、登山部らしい交歓会でした〉



1983年(昭和53年)

一九八三年
 春山合宿 白毛門 三月二十五日〜二十八日
 新入生歓迎山行 万太郎山 五月八日
 第一回歩荷訓練 酉谷山 六月五日
 第二回歩荷訓練 武甲山 六月十九日

二年部員 横山敏洋 青木優和 長谷川肇 梶野秀樹 渡辺直光 榎元彰司 野呂伸一 小林延嘉 鈴木稔 伊藤正宏 近谷英悟 青柳秀俊 
顧問 小峯昇 佐伯勝 高橋守 小室秀雄

 部報の発行は、この年から毎年九月発行として、同月上旬のくすのき祭に間に合うように制作されるようになった。山岳部の年度は九月を基点として、三年部員は夏山合宿で卒業するという慣例になったようだ。それは現在まで続いている。創刊して十五号が発行され、すでに二十年以上も、不定期刊行となっていた部報だったが、年に一回の定期刊行が定着したことは前向きな前例として評価できるだろう。
また部報編集の中心は二年と一年で、直前に行われた夏山合宿は一年がまとめ、年初頭の春山合宿や、前年の冬山合宿は一年で参加した現二年が報告を書いている。ただこの最初の年だけは、編集直前の夏山合宿は翌年号へとずれ込んでいる。
 前年に引き続き、春山合宿の白毛門はパワフルな山行となった。この時期は五mの積雪がある。朝川越を出発して、土合駅から尾根一一〇〇m地点に幕営。好天の翌日には、白毛門を越えてテントを笠ヶ岳とのコルに移動させた。目的は朝日岳だったのである。笠ヶ岳からは、快晴の連峰東面を眺めて三月の山を満喫している。
〈翌朝、テントから出てみると、出口に掘った穴が雪に埋まっていました。そうです、雪が降ったのです。私は雪洞に寝た人たちが心配になりました。すると顧問から私に、雪洞の様子を見てくるようにとの言い付けがあり、急いで走って行きました。ビニールシートは雪の重さで垂れ下がっていました。シートの奥は穴がL字型になっていて、もう一つの穴はキスリングで塞がれていました。これなら平気だろうとテントに戻りました。
 本来の三日目の行程は、第二設営地〜笠ヶ岳〜朝日岳の往復でした。
 我々は朝食を取った後、サブザックにカラビナ、細引き、間食その他を入れて出発。視界は極めて悪く、前方はまるっきり見えません。高度が増すに従って雪は硬くなり、雪の中に足を蹴り入れることが困難になり、登りづらくなりました。やっとの思いで笠ヶ岳に着きましたが、その先は断念せざるを得ません。ここで間食を取り、細引きの結び方を復習して、再び第二設営地に戻ってきました。
 戻った後昼食を取り、テントをたたみ、出発しました。目的地は白毛門を越えた第一設営地であります。そこへ辿り着くまでの道のりは、非常に恐ろしいものでした。私がいくらこの恐怖を説明したところで、経験していない者が分かるはずはないと思うのであります。
 白毛門の下りで超急斜面と呼ぶに相応しい場所に出ました。その斜面をキスリングを背負ったまま下ることは困難と見たため、人間とザックを別々に降ろすことになりました。しかしそうするには、ザイルと呼ばれる長い綱が必要なのですが、我々はそれを購入していませんでした。ですから応急対策として、全員の細引きを結んで長くしたものを、ザイルの代わりに斜面に垂らしたわけです。その斜面の初めと終わりに顧問が立ち、一人一人のザックにカラビナを付けて、細引きに通して斜面を滑らせて降ろすという作業を繰り返しました。それが終わると、今度は人間が細引きを伝わって降りました。一人一人時間をかけて下りました。そうしてやっとの思いで第一設営地まで辿り付くことができました。
 そこで幕営作業を終えて一息ついたとき、一日目にここで作った雪の滑り台がそのまま残っていたのを見て、懐かしくなりました。しかしこうやって山を甘く見ることが危険なのです。土合駅に着いてみると、谷川岳登山禁止の立て札がありました。一名の滑落者も出さずに無事に帰って来れたことは、とても幸運であったと思います。朝日岳を断念したことは残念ではありますが、谷川連邦と一ノ倉沢をくっきりとこの目に焼き付けることができたことから思えば、何も言うことはありません〉
 部員にはアイゼンの装備がされていなかったようだった。

報告エッセー
 当時の顧問は“ガッツ小峯”と言われた小峯昇先生が中心だった。部報に顧問の登山歴紹介のエッセーが掲載されている

 山に登り始めたのは今から十二年ほど前になる。大学の化学部の連中に誘われて、五月の連休に大菩薩嶺に登ったのがそもそもの始まりである。その夏にはあの表銀座へテント持参で出かけた。残念なことに槍の頂上では視界ゼロという生憎の天気で、おまけに横尾のキャンプ場で未明に雷雨の襲来に会い、薄明かりの中を寝ぼけ眼で木の下に避難(いま考えると返って危険だが)したのを覚えている。上高地に着いて人の多さには驚いた。河童橋は人通りが絶えることがないようである。大正池も現在よりずっと水量が多く、立ち枯れの木が水面にその姿を写していて大変印象的であった。
 教訓1 山の雷 時間を選ばず
   2 三〇〇〇m越すと夏でも寒い

 翌年は後立山縦走であったが、後半台風の影響が出始め、夜半に強風でテントが倒されてしまった。翌朝、霧の中白馬岳に向かったが、稜線上で風雨共に強く、友人が危うく凍えそうになった。
 教訓3 強風の前にポンチョは役立たず

 あくる年は槍〜穂高のゴールデンコースであったが、悪天候で南岳の避難小屋で一泊し、槍平へ下ることになった。折からの雷雨のため寝る頃にはイワシの缶詰以上に詰め込まれ、某先生お馴染みのダニ達に食いたい放題食われてしまった。何しろ寝袋の中で手足が全然動かせないのだから、さぞかしダニ諸君にとって大変なご馳走だったに違いない。夜中にキジ撃ちに出ようものなら、帰ってきてからは体の幅をゼロに近づけなければ、とても元の位置に潜り込めたものではない。
 教訓4 避難小屋は棺おけにも劣る
「棺おけの中の方がよほど広いで〜、寝返りも打てるし、おまけに花なぞあってきれいや」(大阪方面から来て、我々の隣で潰されながら寝た登山者の弁)

 教員になって初めてのボーナスで登山靴を買った。それまではキャラバンシューズであった。この登山靴はそろそろ分解しそうだが、現在も使用中である。さてこの登山靴で一回目に行ったのが穂高岳で、このときは天候が安定していた。その後八月に、赤石岳〜荒川三山に行くことになったが、愚かにも小渋川の徒渉コースに賛成してしまった。いざ徒渉のときに靴を濡らすまいと思い、二度、三度と靴を脱いだが、友人たちが一人諦め、二人諦めしていくうちに、とうとう靴のまま川に入らざるを得なくなってしまった。その日の行程は何故か非常に長く感じた。
 教訓5 徒渉するならボロ靴で

 暑い河原沿いに二日がかりで大聖寺平に上がった。赤石岳に登ったときは晴天で申し分なかった。このとき遥か彼方太平洋上で台風がこちらに向かって進んでいたのであった。出発前に一つ台風をやり過ごして安心していたが、別にもう一つ新しいのが発生していたらしい。その夜、荒川小屋前でテントを張っていた我々に、例のごとく強風雨が訪れた。朝方ついに荒川小屋へと避難した。そこで一泊したが天候の回復が見込めないため、風雨の中小赤石岳を越えて椹島へと下った。椹島から畑薙ダムへのトラック便はちょうどその日で終わったと聞き、ガッカリ。翌朝、延々二十キロの林道歩きとなった。何故かダムサイト上空には雲一つない。バスを待つ間、あの茶店で飲んだビールが実にうまかった。
 教訓6 遠くにいても台風は怖い
(海岸に高波が打ち寄せる頃は、山でも荒れる)
   7 大井川林道は二度と歩かないぞ
(残念ながらその五年後に、また十五キロ歩いたのでした)

 毎年のように雨にあったせいもあり、雨の中を歩くのはそれほど苦ではなくなってきた。
 教訓8 雨具を着れば蒸れる、着ないと濡れる
(やはり蒸れる方が、濡れるよりも数段増しのようである。濡れて風に吹かれると、体温を奪われ、想像以上に消耗し、夏でも疲労凍死はありうる。注意しなければならない。以前五月末に、蝶ヶ岳〜燕岳に行ったときは、好天のなか強風にあい、体力の著しい消耗を経験したことがある。雪の上を吹いてくる風だけで体温を奪われたらしい。最近は良い雨具ができたが、ゴアテックスといっても蒸れる)

 かくして山岳部の顧問になる前に、友人たちとの山行で多くを体験し、勉強した。しかしどうも人間というものは都合の悪いこと、苦しかったことはすぐに忘れる。頂上でのあの充足感、爽快感だけが強く残るようである。真夏の焼け付くような太陽の下、全身の毛穴から汗を噴出しながら山に登るときは“何の因果でこんなことを”と思ったのは一度や二度ではないはずである。重い荷を背負っての登り降りは体には良くないぞと仲間内で話したこともある。ところが翌年の夏、また何の因果でと考えながら、目に入った汗を拭き拭き登っていく自分にふと気がつく始末である。(友人との山行は決して毎回雨が降るのではない。また私が雨男というわけでもない。数年前に裏銀座へ行ったときは晴天続きであったし、川苔山大焼肉パーティ歩荷山行のときも、好天であったことを書き加えておく)。

 さて自分なりに考えてみると、四、五年前(山岳部顧問になる前)までは、どちらかというと、有名な山、高い山、個性あふれる山に登ろうとしていた気がする。大学時代から北アルプス志向は強かった。個人的に旅行のついでに登った山は、羅臼岳、大雪山、十勝岳、南暑寒別(北海道の尾瀬と言われている雨滝沼の奥にある)、駒ケ岳などの北海道の山に限られていた。また北海道の駒ケ岳に登ったときに、駒ケ岳シリーズを試みたことがある。翌年は秋田駒ケ岳を目指して車で東北に向かったが、雨天候続きで断念し、また北海道へ渡ってしまった。その翌年は夏山合宿で南アルプス北部縦走の予定だったが、初日に一年生がダウンし予定がつまり、甲斐駒ヶ岳を目前にして、仙丈ヶ岳からの下山となってしまった。けっきょく駒ケ岳シリーズは一つだけで、今のところは見通しが立っていない。他には尾瀬に二度ほど登ったくらいで、奥秩父には全然行っていない。
 山岳部の顧問になってからは、牧野先生の多大なる影響を受けて、高山植物に対し興味が起き始めた。カメラの対象も山そのものより、徐々に花中心にと変わっていった。三年前の夏に女房とアラスカに旅行したが、私の写したもののうち三分の一以上が花の写真であった。帰国後、図鑑などで調べてみると、大部分が日本に産するものと似ていた。さらに偉大な高橋先生の登場により、野鳥の方にも興味が湧き始めた(幸か不幸か、ネズミ諸君にはまだ愛着を抱いていない)。今まで単に鳥が鳴いているとしか言えなかったものが、鳴き声を聞いてその名前が分かったときは、花を見てその名前が分かったときのように、新鮮な感動があった。高橋先生の手ほどきにより、歩荷での楽しみ方も一つ増えた。それは早朝まだ空に星が瞬いているときから始まる鳥のコーラスである。金属的な声のトラツグミ、薄気味悪いヨタカ、美声のオオルリと、明るくなるにつれ、その声の大きさや種類が増してくるのを聞くのは、何とも言えないものである。
 かくして現在は、山そのものに登る楽しみに加えて、植物を見ること、鳥の鳴き声を聞くことなどにも関心が向くようになり、山をマルチに楽しむことができるようになった。今年の七月末に岩手の早池峰山に登ったが、その目的はハヤチネウスユキソウを始めとする豊富な高山植物を見に行くことであった。
 生徒諸君も、この先長く山に登るつもりでいるなら、単に山に登るだけでなく、広い目で山や自然を見ることができるようになって欲しいと願っている〉


1984年(昭和59年)

部報 ワンダラー VOL16 一九八四年九月発行 総一一三ページ
一九八三年
 夏山合宿 南アルプス・茶臼岳 八月二十日〜二十四日 
 秋山山行 両神山 一〇月三〇日 
 第三回歩荷訓練山行 一一月二七日 三頭山 
 冬山合宿 一二月二五日〜二八日 日光白根山 
一九八四年
 春山合宿 上州武尊山 三月二五日〜二八日 
 新入生歓迎山行 日光・太郎山 五月一三日 
 第一回歩荷訓練山行 大岳山 六月三日 
 第二回歩荷訓練山行 蕎麦粒山 六月二十四日 
 夏山合宿 南アルプス・荒川岳 七月二十日〜二七日 
 他に個人山行が、八月の苗場山、谷川連峰。一〇月の金峰山。一一月の鳳凰山、丹沢山。二月の雲取山、五月の巻機山など。

二年部員 大山正直 加藤寛樹 佐藤光俊 森田正 山本淳 古川達朗 内野成礼 名和一成 大武昭博 布施浩二 有田博
顧問 佐伯勝 吉沢優 小室秀雄 福田公明 岩井諭


Wanderer VOL16から

 部報の発行は、この年から毎年九月発行として、同月上旬のくすのき祭に間に合うように制作され、その慣例は現在まで続いている。実質三年はすでに受験準備で部活から離れ、編集の中心は二年と一年である。直前に行われた夏山合宿は一年がまとめ、年初頭の春山合宿や、前年の冬山合宿は一年で参加した現二年が報告を書いている。
創刊して十五号が発行され、すでに二十年以上も、不定期刊行となっていたのだが、部報として年に一回、ようやく毎年決まった時期に発行されるようになった。
 年に三回の合宿すべてが満足する山行になることは少ない。八三年の夏合宿は南アルプス南部縦走で組まれたが、連日の雨で畑薙ダムから茶臼岳に登っただけで、敗退になった。横窪沢のテント場は増水してテントの中まで水が流れ込み、シュラフがその水の中を泳いでいたと記されている。
 その代わり、冬合宿の日光白根、春合宿の上州武尊山は天候に恵まれて、ラッセルをしながら大満足の合宿が行われたようだ。武尊は宝台樹スキー場から入山しているが、顧問と生徒一人がスキーで入山し、トップでラッセル要員をした。さらに完全の埋没していた手小屋沢の避難小屋を掘り起こして快適な前進キャンプとして利用した。
 八四年の夏合宿も南アルプスで行われ、前年の悪天候の分を取り替えそうと行われた。伊那から三伏峠に登りつき、荒川岳、赤石岳、聖岳という予定を立てていたのだが、荒川小屋でアクシデントが発生。部員の一人が盲腸炎にかかって、ヘリで伊那に収容され緊急入院となってしまった。残った部員は赤石岳直前で敗退し、小渋川を伊那へ下山するという残念な結果になっている。大聖寺平から広河原に下り、
〈徒渉の連続である。あるものは全身水没し、そしてあるものは……。とにかく悲惨であったのはお分かりいただけるだろう。どうにか湯折付近にテントを張り終えたとき、すでに陽は落ちかけていた〉
 とある。今では小渋川の登山道は堰堤工事で廃道になっている。さて不意の盲腸炎に襲われた当人は、
〈やがて、突然外に運び出された。どうやらヘリコプターが来たようである。このときは、まだわずかながら意識があった。乗り心地などはすごく悪く、あのうるさい音が耳を攻撃し、降りてから三十分くらいは、ずっとあの爆音が耳に張り付いて離れなかった。
 大鹿村の診療所で急性の盲腸炎と分かり、松川町の下伊那赤十字病院に収容された。その間ずっとK先生が立ち会ってくれて、とても心強かった。僕は山で意外な体験をしてしまったのである〉
 大事には至らなかったようだ。
 

南極観測へ    名和一成(なわ かずなり) 一九八六年卒

南極への想い

 小学生のころからだったか、すでに亡くなってしまった父親に山に連れていかれた影響で、山やキャンプが好きになった。テレビも見られず、お風呂にも入れない不便な生活であるが、きれいな景色・夜空や、自然に囲まれた中での家族との語らいに魅力を感じた。その後、川高山岳部、名大ワンダーフォーゲル部を通じ、同年代の仲間と登山するようになった。ピークを踏むことはもちろん目的の一つであるが、日常生活とは違った自然との触れ合い、仲間との語らい、(そして大学時代には)下界に下りてきてからの打ち上げが楽しみであった。
 川高時代の進路選択のときに、道楽としてではなく業として山に行けないかと考えた。竹内均などの啓蒙書を読みあさって地球物理学という学問を目指し、また南極観測隊を意識したのもこの頃であった。高校卒業後一年間の浪人生活を経て名古屋大学理学部に進学したが、進学先を決めた直接のきっかけは、某私立大学の入学手続のためにしばらくぶりに訪れた川高で、顧問の芝崎先生に言われた一言だった。「名大に行ったら南極行けるぞ!」

いざ南極へ
 南極を目指して大学へ進学したものの、しばらくそれを意識しない生活を送っていた。ワンゲル一年目では南アルプスの茶臼〜甲斐駒を二週間で縦走し、川高山岳部三年間の夏合宿で完走できなかった山々を一気に登ってしまった。また、川高時代に雪山の経験が少しはあったので、ワンゲル内では少数派であった冬期登山にも参加した。三年の春休みには沖縄の島々を巡ってのんびりしようと思っていたのだが、雪山経験があるリーダーが不在ということで北海道の山スキー合宿に駆り出された。結果的には、このような経験の積み重ねが南極大陸に導いてくれたのかもしれない。
 大学院進学にあたって、固体地球物理学をやるのか気象や雪氷学をやるのか、決断をしなければならなかった。当時の名大水圏研究所に進学して雪氷学を志すのが南極への近道だと考えていた。一方、学部で配属となった地震学講座では、卒業研究だけではなんとも中途半端・不完全燃焼という感じがして去り難かった。これまでの無理が祟ったのか、ついに壊してしまった腰のせいで夏の二ヵ月間入院生活を送ったことも、それに輪をかけた。修士課程では固体地球物理学を継続することに決めた。
 大学院に進学したその年である。南極・昭和基地に超伝導重力計というセンサーを世界で初めて置くというプロジェクトのことを知った。指導教官であった深尾良夫教授も推進していたプロジェクトで、地球の中心核の動きを捉えるのが目的であった。国立天文台の先生が越冬したあとを引き継ぐ隊員が決まっていないということで、越冬観測を希望する固体地球物理学の学生を探していたのだ。一緒に手を挙げた東大の学生が一学年先輩だったため、私は修士課程を修了してから観測隊に参加するということになった。

予想外の南極生活
 南極観測隊の活動は、越冬開始前年十一月の日本出発からその翌々年三月末に帰国するまで、約五百日に及ぶ。しかし、十一月に出発する隊の活動は、春の乗鞍訓練から始まり、帰国後も「しらせ」の荷降ろしまでとなると丸二年以上拘束されることになる。私のように学生の身分で、しかも独り身で行こうという気楽な人間は少数派で、大半は職も家族もある普通の人達である。そのようなわけで観測隊に参加しようなどという人たちは、南極へのこだわりや情熱を持っている人ばかりだと思っていた。しかし驚いたことに私の参加した隊には会社命令で仕方なく南極観測に参加したという隊員もいた。現在の観測隊には、それほどの覚悟は必要なく、健康であれば誰でも参加できるのである。
 基地での生活は快適そのもので、山にいるときと同じような不自由な暮らしを強いられ自然に立ち向かう……、という想像とは全く違った昭和基地の暮らしだった。今では私が参加した一九九四年当時にはなかったインテルサットが開通したことで、インターネットにも常時接続し、情報過疎地と言われていた基地の状況も一変している。男ばかりの越冬生活も昔の話で、女性隊員の参加も当たり前になってしまった。

楽しく南極
 しかし日本と同じような暮らしができるのは基地の中にいるときだけであって、一歩外に出ると南極観測が始まった五十年前となんら変わりない自然がある。結局のところ南極に行ってまでも、都会(基地)を離れた野外活動が楽しみになっていた。これまでの登山などの経験は、基地生活より沿岸や内陸での野外調査に活かされた。直に自然と接する状況に置かれることにはもちろん抵抗なく、むしろ志願してそのような経験をさせてもらった。
 任務としては原則基地にいて年中動いている超伝導重力計や地震計のお守りをしなければならなかったのだが、二週間のやまと山脈調査などにも参加させてもらった。他のパーティーが調査に出るときには残された自分たちに負担がかかることもありお互い様なのだが、不在時にバックアップしてくれた隊員たちに感謝している。

登山と南極観測
 これまで経験した登山と南極観測を比較したい。ひとりでは困難なことをチームで仕事を分担して成し遂げるという共通点はあるものの、南極観測隊の活動自体は、私がこれまで経験した「登山」とはスケールが全く違うものだった。
 発電機は年中無休で基地の電力を賄い、予熱で雪を融かして水を作る。停電も希で、風呂や洗濯を制限されたことはほとんどなかった。暖房も絶やさず、外に出るとき以外防寒着は不要であった。医療設備や厨房も立派なものがあり医療・調理担当の隊員もその資格のあるものが同行する。基地周辺の移動では夏場は自動車、冬期や海氷上ではスノーモービルや雪上車を駆使し、私が越冬したときには大気観測などのため小型航空機も二機飛び回っていた。通信設備も当時インマルサット(電話・FAX)や、無線・電報があり通信隊員がその任にあたっていた。年に一回の補給のためには海上自衛隊の 砕氷艦しらせがすべての燃料・食料など物資を運ぶ。毎年百人以上の自衛隊員が南極観測の支援にあたっている。
越冬隊四十人が補給なしで丸一年暮らすわけで、せいぜい二週間無補給での山行と違うのは当たり前である。数ヵ月のベースキャンプを張ってのヒマラヤ登山というと多少南極観測スケールに近づくのかもしれない。事実、日本の南極観測黎明期には、ヒマラヤを目指していた東大山の会を中心とした大学山岳部OBが大きく寄与している(資料1)。私の参加した隊の越冬隊長は、横山宏太郎さんという梅里雪山登山の偵察隊長・第一次隊登攀隊長、遭難時の救援隊長を務めた山男であった。

南極観測継続中
 健康診断、ポスト探し(当時は国家公務員でないと隊員になれなかった)など越えなければいけないハードルがいくつもあった。出発前には、とにかく南極に行ってみたいという気持ちが大きく、研究は二の次という状態になっていた。帰ってきた直後も、越冬生活の最大の成果は歌手の森高千里さんから昭和基地にFAXをもらったことかもしれない、などと言われかねない、いわゆる?越冬ボケ状態になっていた。
 しかし、名古屋大の博士課程に再入学し、自分自身でとってきたデータを使ってなんとか科学に貢献したいという気持ちで研究を進めた。その後「常時地球自由振動」現象の発見(資料2)という幸運にも恵まれて、博士号を取得し、工業技術院地質調査所(現在の産業技術総合研究所)に就職することができた。
 帰国後十年以上の月日が流れた。観測隊に参加したことを縁に、現在でも昭和基地周辺の最新観測データを使わせていただき、国立極地研究所などの研究者との共同研究を継続している。私にとっての南極観測はまだ終わっていない。一方、山との付き合いということでは、地殻やマントルの構造を明らかにする目的で、重力計とGPSを持って山々を“車で”駆け回っている。

参考資料
1.南極観測隊―南極に情熱を燃やした若者たちの記録(技報堂出版)
2.産総研・サイエンス・タウン 地球の貧乏揺すり 



無理を重ねた夏山合宿   (内野成礼 一九八六年卒)

 我々の代とひとつ上の代は、歴代の中でも部員が非常に多かったせいか、かなり力任せな山行が多かったように思います。やたら頑健な人もたしかに多かった記憶があります。夏山前の二回の歩荷では、一年生はバテるのは当たり前的なノリでした。当時は石を詰めてキスリングを三十キロ以上にしてましたが、中にはより重く、というのを自発的にやっているのもいました。同じパーティで誰かがばてると、ペースが遅くなるのでほっとしてました。
 夏山でも上級生の差し入れがスイカや瓶のカルピスなど、目方で勝負のようなものが多かった記憶があります。
 それから「下りの行程はエアリアマップの半分以下で行く」みたいなのを「川高ペース」と称して、それが当たり前という風潮でした。
 日常もかなり真面目にトレーニングをしており、毎日、伊佐沼まで走って、腹筋やら腕立てやらをして帰ってくるのが通常でした。たまに「川」という場合は、荒川まで走っていました。
 当時は、他の進学校に比べて、学校全体が受験にはのんびりした感じだったので、三年の夏山まではしっかりみんな行っていたと思います。同じ代で現役で大学進学したのは二割もいっていなかったような……。一浪は、当たり前という風潮があったのも確かです。
 上の代が相当おおらかな人たちで、学校サボって昼からマージャンして、夕方は我々の代を呼び出して夜まで酒を飲んでたりというのが普通でしたからね。当時は川越市内で一番、補導が高い高校と言われていたはずです……。
 当時の活動で一番気合が入っていたのが夏山でしたが、一年の時には天候が悪く途中断念しています。正直、当時は途中下山でほっとした思いもありました。十六時間以上の超ハードな行程を組んでいましたので……。
 二年のときは一年の小久江くんが盲腸になり、ヘリで救出されたのち下山となりましたが、残念な思い以上にヘリの料金がどうなるかが、一番の心配だったと思います。なぜ、そういう状況になったのかなどは、誰も考えなかったと思います。ただ、夏山の死体探しの人々が丁度いて、無線で連絡してもらえて九死に一生だった、ラッキーだったということが、言われてました。個人を含めて三年でも結構行っていた記憶があります。個人でも、意外とキツイ日程を組んでいて、北アで夜中の三時くらいに歩き始めて一日十何時間の行程だったりしていたと思います。
 卒業後、浪人中だったと思いますが、山岳部の同級生と雲取山に行きましたが、鴨沢から入って、鴨沢に降りるという最も楽なコースを選び、もはや以前のような苦業僧のようなことは出来ないなあと痛感し、以来登山靴ははいてません。卒業後に腰やひざが悪い人間が何人かいましたが、多少は当時の無理が関係あるのかなあ、と思います。私自身も、屈伸するとひざがボキボキ鳴るので怖いのと、大学に入ってアキレス腱炎を何度かやり、山とは縁遠くなってしまいましたね。



1985年(昭和60年)

部報 ワンダラーVOL17 一九八五年九月発行 総131ページ
一九八四年
 秋山山行 矢岳・酉谷山 一〇月二八日 
 第三回歩荷訓練山行 一一月一八日 川苔山 
 冬山合宿 女峰山・小真名子山 一二月二五日〜二八日 
一九八五年
 春山合宿 白毛門・笠ヶ岳 三月二六日〜二九日 
 新入生歓迎山行 谷川岳 五月一二日 
 第一回歩荷訓練山行 笹尾根 
 第二回歩荷訓練山行 武甲山 六月二三日 
 夏山合宿 南アルプス 甲斐駒ケ岳〜仙丈岳〜北岳〜農鳥岳〜塩見岳 七月二一日〜二八日 
 他に個人山行は八月の尾瀬、燕岳〜槍・穂。蕎麦粒山。九月の甲武信岳。一一月の鳳凰山。一月の大平山。二月の雲取山、金峰山。四月の丹沢。五月の川苔山・逆川。一一月の金峰山。八月の八ヶ岳など。

二年部員 外山健太郎 山本高義 小久江晋 斉藤雄一 真下俊哉 三瓶達生 
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 浦田文夫 福原勇 福田公明


Wanderer Vol17から 夏合宿の間ノ岳と北岳

 春山合宿は、二年前に下り斜面で苦労した白毛門に再び行くことになった。ただこの二年間に顧問はすっかり入れ替わっている。
 当時と同じように稜線一一〇〇m付近に幕営。翌日は強風で停滞したが、翌々日に空身でアタックとなった。
〈最初から急登の連続である。足にはアイゼン代わりというワカンを着けている。松ノ木沢頭を過ぎる。白毛門が近づいてくる。何とか登れるだろう(空身なので)と思っていたが、なかなか思うようには行かない。雪が腐っていて足場がどんどん崩れていく。果たしてワカンは役に立っているのだろうか。あまりの急登で思わず手まで使ってしまう。四輪駆動である。こんな急坂をキスリングを背負って登るつもりであったとは考えられない〉
 予定では朝日岳までの往復だったが、白毛門から笠ヶ岳、一九三四mの大烏帽子まで到達して時間切れで戻ってきた。
 生徒にはアイゼンの装備がされず、代わりにワカンの爪で登るという顧問の考えだった。
 南アルプスの夏山合宿は、三年振りに成功した。甲府から北沢峠までバスも開通し、初日に甲斐駒ケ岳を往復するという便利さになった。仙丈岳から両俣小屋に下り、北岳へ向かう。
〈なんとか今回の合宿での最高峰、日本第二位山、北岳へ辿り着いた。今回天気にはとことんついているらしく、北岳からの眺めは素晴らしかった。北岳からの下りの途中、ライチョウが現れた。三羽のヒナを連れている。北岳山荘へ着き昼食を食べる。当初の予定では二五日の行程はこれまでだったが、時間が早いということで間ノ岳を越えて、農鳥小屋まで行くことになった〉
 翌日は北荒川のテント場に泊まり、その翌日は三伏峠から塩川小屋まで下って、小屋泊まりがテント料金と百円しか違わないということで小屋泊まりをして、その翌日は朝の臨時バスで伊那へ下山した。


1986年(昭和61年)

部報 わんだらあ VOL18 一九八六年九月発行 一二七ページ
一九八五年
 秋山山行 両神山 十月十二日〜十三日
 第三回歩荷訓練 陣馬山〜高尾山 十一月十七日
 冬山合宿 日光白根山 十二月二十五日〜二十八日
一九八六年
 春山合宿 巻機山 三月二十五日〜二十八日 
 新入生歓迎山行 妙義山 五月十一日 
 第一回歩荷訓練山行 蕎麦粒山 六月八日 
 第二回歩荷訓練山行 大岳山 六月二十二日 
 夏山合宿 南アルプス 荒川岳〜光岳 七月二十日〜二十七日 
  
二年部員 岡村竜弘 東良太 田口悟朗 園尾学
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 福原勇 野口孝 下山田隆

 冬山合宿は視界もほとんどない風雪の中の、日光白根山の登頂となった。五色沼脇の避難小屋から頂上までの急登四百mでは、
〈本当にこんなところへ人間が入り込んでいいのだろうか。人間の来るべきところではないだろうか。人間にはむやみに入り込んではいけない場所があるのではないだろうかと、思うようになっていた。そんなことを考えていると、山頂に着いた。あまりの風の強さに雪が飛ばされ、岩が露出していた。おまけに雪に混じって砂まで飛んできた。記念撮影も早々に山頂を後にした〉
 と書かれている。
 逆に春山合宿の巻機山は好天に恵まれて、頂上から割引岳と牛ヶ岳を往復した。  
 夏合宿の南アルプスでは、光岳まで登頂した。この年は、身延から二軒小屋を越えて荒川岳に登頂して南部へ縦走したが、最終日前日、聖平小屋を出発して茶臼小屋へ移動したメンバーは、元気な二年を中心にして光岳を往復してきた。報告は停滞した一年のものである。

〈聖平小屋は位置もよく、夜も良く寝られて今朝はちゃんと起きられた。本日のコースは短い。聖平小屋を出発し、間もなく上河内岳の分岐へきた。上河内岳をアタックした。展望も良くて気持ちよかった。分岐へ戻り出発した。お花畑を通り、茶臼の分岐まできた。ここで私は足にできたマメとマメもどきのため茶臼小屋でテントキーパー(単なる留守番)、他の人は光岳へアタックと予定を変更した。
 私は十六人の休むべくテン場を確保し、みなが帰ってくるのを日向ぼっこをしながら待ちわびていた。
 一方光岳へアタックした人々は、茶臼岳〜仁田岳分岐〜易老岳〜光岳と進み、光岳付近で昼食を食べた。そして帰りは雨に少し降られたものの、五時半頃私の待つ茶臼小屋へと帰ってきた。K君は私に、
「光岳はよかったよ〜」
 というので恨めしかった。長かった夏山合宿も明日は下山である〉

 また過去は五月の連休といっても、学校はカレンダー通りの飛び石連休だったのだが、祝日移動で休日がつながり、連休中の個人山行も活発になっている。この五月には個人山行で、八ヶ岳を赤岳〜硫黄岳〜天狗岳と縦走したパーティや、斉藤・山本は尾瀬・鳩待峠から一泊で雪原の平ヶ岳を往復した。このコースは実は二年後の夏合宿のコースでもあったのだが、真夏に三日かかった至仏山から平ヶ岳のヤブ漕ぎも、五月は半日コースだったことが分かる。
 前日に鳩待峠までバスで入ったメンバーは、尾瀬ヶ原に降りて大白沢山付近でテント泊。

〈いよいよアタックの日である。気合を入れて手にはピッケル、背中にテルモスやらを詰めたデイパックで四時四十分、薄明かりの中を出発。景鶴山から来る尾根との合流点のピークに登りつく。その直下に二張りのテントを見かける。さらに一九一八mのピークに登り、そこから一挙に白沢山との鞍部に下る。この鞍部から少し白沢山に登ったところにやはり三、四張りのテントを見つける。白沢山までは樹林のまばらに生えた斜面を登っていく。五時四十分白沢山着。目指す平ヶ岳はまだ遥か遠くに見える。可笑しいなあと、あと一本分で着くはずの距離なのに。よく考えて見てやっと原因が分かった。平ヶ岳があまりにもどっしりとしているからだ。
 さてこれから一旦下り、また登り返す。夏になれば池糖が現れるところが、二、三箇所あり、もちろん今は雪の下であるが、この雪原は広くて野球やサッカーができそうである。最後の約二〇〇mほどの雪の斜面を登ると、目の前がぱっと開けて、越後三山などの山が見えた。平ヶ岳の頂上だった。
 やっと着いたという感動が込み上げるのと一緒に、何となく着いたというあっけなさも感じた。頂上は真っ白な雪原で、どこが最高点であるか分かりづらい。三角点は一mほど低い這松の中にあった。頂上には他に誰もいない。二人だけの頂上だった。周りには至仏山や燧ケ岳などの尾瀬の山々、さらに東の方にはこれまたどっしりした会津駒ケ岳、さらに北方に越後三山、西には巻機山が眺められた。二年前の夏休みに燧ケ岳から、さらにこの前の三月に登った巻機山から飽きずにこの平ヶ岳を眺めたことを思い出した。
 七時五分、感動と空しさの混じった複雑な気持ちを残して頂上を辞した(山本)〉

1987年(昭和62年)

ワンダラー VOL19 一九八七年九月発行 総一一一ページ
一九八六年
 秋山山行 男体山・女峰山 一〇月五日 
 第三回歩荷訓練山行 丹沢 一一月三〇日 
 冬山合宿 北八ヶ岳 一二月二五日〜二八日 
一九八七年
 春山合宿 白毛門〜朝日岳 三月二五日〜二八日 
 新入生歓迎山行 谷川岳 五月十日 
 学徒大会 甲武信岳 五月一五日〜一七日 
 第一回歩荷訓練山行 鷹巣山 六月七日 
 第二回歩荷訓練山行 武甲山 六月二一日 
 夏山合宿 北アルプス・穂高岳〜槍ヶ岳〜三俣蓮華岳〜水晶岳〜薬師岳 七月二一日〜二八日 
 他に個人山行は鳳凰山。越後三山。安達太良山。飯豊連峰。那須岳など。
 
二年部員 倉田眞秀 古田茂 植竹満 矢口岳彦 
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 福原勇 野口孝

 冬山合宿は不参加部員が多く、参加は生徒五人と顧問が二人、北八ヶ岳の縦走だった。茅野から蓼科山に向かい、麓の天祥寺原で幕営。翌日は横岳〜縞枯山と縦走して、麦草峠から白駒池で幕営。さらに中山を越えて天狗岳を往復して黒百合平で幕営。そこから渋の湯に下山した。二日目に快晴に恵まれた。
 春山合宿は二年前に続いて三度白毛門。前回朝日岳まで到達できなかったリベンジだと、報告は書き出している。
 今回も稜線一一五四mに幕営。翌日は半日停滞して、空身で白毛門までを往復。
〈空身だから初日とは打って変わって楽しい行程であった。松ノ木頭を越えてから少しきつくなってきた。岩っぽい所を通ったり、白毛門直下の急登はすごい斜面で、しっかり足場を切っていかないと、足を滑らせたらそれこそ「谷が呼んでいる!」になりかねないのである。初日幕営をBCにしておいて良かったと実にこのとき思った。一年最後のキスリング山行で、いくらキスリングが名残惜しくても、キスリングと心中する気にはなれない。そのうちに白毛門に着いた〉
 この日、白毛門までトレースをつけたパーティは、翌日も晴天に恵まれて、朝日岳とその先のジャンクションピークまでを往復することができた。この時代、一年部員は合宿にキスリングでの参加が必須とされていたようで、その義務付けから解放されるのは、もう少し後の時代からだったようだ。
 夏山合宿は北アルプス。上高地から横尾で幕営して、穂高岳往復。そこから槍ヶ岳に登って縦走。双六岳から三俣蓮華岳。水晶岳を往復して雲ノ平に下る。
〈そこでは晴れてきたので、皆いろいろな物を干していた。弁当を食べ終わり暇になったので、会計の人はテン場料金を払いに行った……。雲ノ平にいて感動したことは、夕焼けが綺麗だったということである。第二に星がたくさんあったということである〉
 翌日に薬師岳を往復して、翌々日に折立に下山した。
 他に高体連の関係の学徒大会に参加している。顧問一人に生徒三人。川又から十文字峠を経て甲武信岳で幕営。翌日は雁坂峠から川又まで。登山態度を競っているのだろうが、関東大会への出場は抽選で合格となっていたようだ。
 また顧問の熊井昌男先生は八六年から八七年にかけて二十日間ほどの日にちをつないで、御前崎から糸魚川まで「日本列島徒歩横断」というのを一人で行っている。御前崎〜掛川〜佐久間〜水窪〜大鹿村〜茅野〜松本〜千国街道というルートである。記録は終盤の南小谷まで掲載されている。個人山行では三月の八ヶ岳で雪崩に巻き込まれた事故があった。
 
報告
八ヶ岳雪崩遭難 斉藤雄一

 前年の五月に残雪の平ヶ岳に個人山行した斉藤は、卒業した三月に八ヶ岳の阿弥陀岳・北稜の単独登山のアプローチで雪崩に遭遇した。二月二十七日からの山本との山行で、三月一日には赤岳主稜を途中まで。二日にはジョウゴ沢でアイスクライミングの練習。三日にパーティは分かれて山本は蓼科山へ向かい、斉藤は阿弥陀岳の登攀となった。
 遭難は幸い骨折で済んだが、本人の分析によれば自分で起こした表層雪崩で、流された距離はおよそ一〇〇mだったという。

 いろいろ考えたのでよく眠れなかった。だが結局行くことに決めた。私はそのルートを登りきる力は充分にあると思ったからだ。しかし一つ見落としていたものがあった。それはアプローチだったのだ。
 快晴だった。が時々ルート上を雪煙が舞った。雪の状態はそれほど悪くはない。私は樹林帯の中を一歩一歩進んでいく。すると突然視界が開けた。黒いブルーに目が眩む。そこには目指す阿弥陀岳北稜がそびえ立っていた。日陰の雪と、そそり立つ岩壁の色とのコントラスト。それ全体が快晴の空を背景として、巨大なシルエットを形作っていた。私は足がすくんだ。威圧されたのだ。そこですかさずサングラスをかける。周りの景色が急に暗転する。そして私は落ち着きを取り戻すのだ。
 北稜へはここから一般ルートを外れ、右手の大斜面を登る。高度差二〇〇mを片付ければ、もう雪崩の安全圏、北稜ジャンクションピークである。そこから北稜の登攀が始まるのだ。とにかくそこまで行かねばならない。私は雪崩のことを心配した。すると斜面上部に二つの点が動いた。どうやらあれは人間らしい。私はそれに向かって登り始めた。
 わりかしすぐに追い付いた。二人はアイゼンを着けている。昨日ジョウゴ沢で会った人たちだ。ここから私が先行する。あと少しで安全圏。稜線間近は風が強い。時々雪煙に包まれて何も見えなくなる。そのせいか雪の状態が悪くなってきた。ラッセルを交替してもらう。あと二十〜三十m。二人との間が少し離れた。私は少しピッチを上げようと思った。そのときである。私の足には足応えがなかった。その代わり、周りの雪が崩れ始めた。やばいと思った。小さそうな雪崩であるが、埋められてしまえば死ぬ可能性もある。いきなり足をすくわれた。雪崩が起こってから逃げ出すのは絶対に無理である。これらはほんの一瞬のこと。雪の中に押し倒された。ピッケルストップは、これでは無理のようである。切腹なんかするよりも、このまま流された方がいい。物凄い重圧、息苦しい。だが私はまだ死にたくはない。全身の力を振り絞ってもがく。まるで長距離水泳選手のように、体がだるい。周囲は真っ暗だった。だが私は諦めなかった。苦しい……。
 気が付いたら止っていた。頭が少し下向きで南、足が北、仰向けの状態だった。雪崩から放り出されている。やった無傷だ。上の二人が手を振っている。どうやら巻き込まれなかったようだ。私は手を大きく丸にする。そして斜面を滑って降りる。かなり下り、立って歩かなければならなくなった。左足がズキンズキン痛む。どうやら捻挫らしい。仕方なくかばいながら下る。そしてテント地へ戻る。私は馬鹿だった。ここで助けを求めればよかったのだ。

 こうして彼はベースの赤岳鉱泉から四時間かけて美濃戸山荘へ着いたが無人。さらに夕暮れが迫っている時間に美濃戸口へ向かったが、後続の登山者にタクシーを呼んでもらい、付き添われて病院へ行った。左足の骨が欠けていると診断される。そしてその日のうちに特急で帰郷した。およそ一ヶ月間の松葉杖での生活だけで済んだのは幸いだった。
 雪崩は先行者が歩いたときには発生せず、わずか二十m後の彼が歩いたときに起こった。表層雪崩は自分自身が原因の、自分の足元が崩れ出す雪崩であり、雪崩事故のほとんどが、この表層雪崩だと言われている。
 



1988年(昭和63年)

ワンダラー VOL20 一九八八年九月発行 九〇ページ
一九八七年
 秋山ビバーク山行 両神山 一〇月四日 
 関東大会 箱根外輪山 一一月六日〜八日 
 第三回歩荷訓練山行 川苔山 一一月二九日 
 冬山合宿 日光白根山 一二月二五日〜二八日 
一九八八年
 春山合宿 巻機山 三月二五日〜二八日 
 新入生歓迎山行 乾徳山 五月八日 
 学徒大会 甲武信岳 五月一三日〜一五日 
 第一回歩荷訓練 三頭山 六月五日 
 第二回歩荷訓練 酉谷山 六月一九日 
 夏山合宿 会津駒ケ岳〜燧岳〜平ヶ岳 七月二一日〜二七日 
 他に個人山行は、一一月の八ヶ岳。二月の雲取山、安達太良山など。

二年部員 遠山壮一 中島雄一 込戸努 斉藤晃 岩崎宏和 内田光重 宮田登 市川宏之
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 野口孝 西川正巳

 恒例の秋山山行は前夜の宿泊がテントを張らずにフライシートだけで過ごすという決まりになっている。今年の両神山は坂本部落の先の河原で宿泊して、翌日は山頂から楢尾沢峠〜納宮へ下山した。
関東大会は、同年春の県予選を通過したことから参加になった。新松田から青年の家キャンプ場で幕営。翌日は明神岳〜金時山〜丸岳を縦走して芦ノ湖畔で幕営。次の日は湖上や関所跡の観光。部活で最もリッチな山行となったと記してある。ところがこの関東大会に参加したために、全国大会への出場はならなかったとなっている。
夏山合宿は異色のやぶこぎ合宿となった。会津駒ケ岳からスタートし、登頂後は御池へ縦走して一旦尾瀬ヶ原に出る。燧ケ岳を往復して至仏山に登る。そこから平ヶ岳へは残雪期のスキールートとしては有名だが、夏には今でも登山道がない。背丈の倍もある笹薮に囲まれる。
〈道でないところを歩くというのは、大変なエネルギーを要する。そして蛇にいつかかまれるかも知れないとう危険もある。いったい何が面白いのだろうか。そんな中で私は一つの考えを思いついた。それはとにかくルートファインディングを楽しむというのだ。どんなに辛くとも周りの景色に感動し、笑顔で、やぶをかき分けようと……〉
 春であれば半日のこのコースに、夏では二日かかっている。初日にはススヶ峰にも到達できない。
〈異様にいらだっている。懸命に平常心を保とうとするが、そうすればするほど苛立ちは増す。前の人がかき分けた枝が反動で顔に当たったりすると、苛立ちは怒りへと変わる。まさに地獄をさ迷っているようなものだ。そんなときに、先行者の赤テープが頼りになった〉
 二日目にはススヶ峰の先。三日目の昼間ようやく平ヶ岳に出て、尾瀬口のバス停に下り、奥只見の待合所が合宿最後の夜になっている。

Wanderer Vol20から やぶこぎ合宿となった夏山の概念図

他に顧問の芝崎茂弥先生は、夏休みを利用してチベット旅行を行った。ラサからカトマンズへのバス旅行だった。


報告
夏山合宿・会津駒ケ岳〜尾瀬・燧ケ岳〜平ヶ岳 一九八八年七月二十一日〜二十八日

尾瀬・至仏山から平ヶ岳への二千mの稜線は、夏には道のない相当なヤブ漕ぎで、春にはなだらかな雪原となる有名なルートである。山岳部の夏の合宿でこの縦走を行ったというのは、この年が最初で最後、将来も多分実行されない苦労の連続になったものだろう。計画された経緯は報告されていないが、実行メンバーにとっては、異例な合宿として記念になった縦走であったことは間違いない。しかも合宿スタートは会津駒ケ岳に登頂してから尾瀬に入り、そこで二日間の定着の間に、沢登りを行い、燧ケ岳に登った。その後、至仏山へ登頂してから平ヶ岳への三日間のヤブ漕ぎが始まっている。(編集者)

七月二十一日 会津駒ケ岳 小雨
川越600〜大宮〜春日部〜会津高原1030〜会津駒ケ岳登山口1200〜頂上駒ノ池1645
 桧枝岐の登山口を十二時ちょうどに出発。ついに夏山が始まった。荷は夏山初日とあってかなり重い。道は平凡で景色は何も見えない。ひたすら登り続けて途中の水場に着いた。沢へ降りていって水を汲み、さらに四キロ重くなった。体が慣れていないせいか、相当きつくなってくる。もう会話も無くなり、小雨の中を歩いていくうちに、だんだん木が低くなってきた。森林限界に近づいているようだ。
 途中から木道の上を歩くようになり、少し楽になってきた。しばらくするとついに湿原地帯に入り、それなりの風景に出会えた。湿原は初めてである。ただ小雨ですべてが見渡せない。夕方ようやく駒ノ小屋に到着した。テントを張ろうとしたがどこだか分からず、小屋の人に聞くと、
「テント場はここにはない」
 という信じられない答え。皆で議論したがついに小屋に泊まることになった。それを言うと急に態度が変わって愛想がよくなった。小屋泊まりで調理が楽になり、しかも毛布に寝られる。宿泊料の2500円は痛かった。

七月二十二日 尾瀬ヶ原 曇り
会津駒ケ岳頂上430〜富士見・大杉登山道〜御池1200〜裏燧林道〜見晴十字路1700
 雨は降っていないが霧が濃く視界が悪い。まず会津駒ケ岳へアタック。木道を歩き二十分で着く。小屋へ戻ってから縦走開始。荷は何も減らずに相当重い。途中何箇所かの見晴台があったが、見通しは利かず。一般的な山道を長々と七時間も歩き、やっと御池に着いた。ここからいよいよ尾瀬に入る。今日までは人と会うことはめったに無かったが、ここでは子供から老人まで大勢いる。
 御池からは所々に田代があって眺めはいい。今までが悲惨だったためにここは別天地に見える。初めて見るような高山植物がたくさん咲いている。しかし間もなく異様に疲れる登りが始まった。上田代、横田代、天神田代を経て、三条ノ滝との分岐に来たが、我々二年は元気が無く、三年だけが滝まで往復してきた。F先輩によれば、ナイアガラの滝のようだったと言っていた。二年は近道で見晴十字路へ向かった。途中温泉小屋の辺りから尾瀬ヶ原に入ったが、まさに極楽で素晴らしい景色である。観光客もいて、子共が走り回っている。三年は途中から合流したが、バテた二年は思わず三年を尊敬してしまった。

七月二十三日 センノの沢遡行 晴れ
見晴十字路440〜長蔵小屋〜一ノ瀬810〜センノ沢遡行〜セン沢田代鞍部1200〜白尾山〜富士見峠〜見晴十字路1450
 今日はアタックのみで楽である。木道を歩きながら、湿原や高山植物を見て、昨日までが嘘のようだ。右手に尾瀬沼が広がり、記念写真を撮りながら和やかにいく。
 長蔵小屋を過ぎてから、きつい登りと下りがあって、三時間半で一ノ瀬の入り口に到着。今回のメインコースの沢登りが始まる。
 まずわらじを着ける。慣れないせいか時間がかかる。着け終わって沢に入ると、冷たくて気持ちがいい。K先輩を先頭に沢を登っていく。しばらくすると大きな滝にたどり着いた。大したことはないと思ったが、水しぶきが凄く上に着いたときはびしょ濡れだった。そんなことを繰り返して終点に近づいた。ここまではいいのだが、沢は最後のヤブがきつかった。道に出て昼食を取った後、木道を歩いて下った。
 その日はあまり疲れずに、夕食も楽しく作れた。また夕食後には顧問の西川先生とも合流した。

七月二十四日 燧ケ岳 晴れ
見晴十字路400〜燧ケ岳730〜見晴十字路1105〜上田代1245
 四日目はまず燧ケ岳のアタックから始まる。この日は移動するために、まずテント内を片付けてから四時に出発した。まだ少し暗い。
 樹林の中を登っていくが、何故か虫が多く不快だ。大して疲れない山だが、仲間の一人が腹痛を起こして停滞してしまった。途中JRの年寄りグループに抜かれる。仕方なくゆっくり登っていく。それでも森林限界を越えると仲間も復調して順調になった。これだけの高度間を味わったのは、この山行では初めて。雲海も見える。午前七時ついに山頂に到着した。しかし僕はここで間食を忘れるというミスをしたため、皆から恨まれた。というわけで下山。下に着いてから昼食にして、上田代に向けて移動した。
 見晴十字路からは、ずっと木道が続いている。観光でもポピュラーなところだ。大きなザックを背負っていると、子供が道を妨害したり、並んで歩かれたりして困った。しかしどこまでも広がる湿原は素晴らしい。二時間で上田代に着いた。とても騒がしくていいテント場ではない。隣の大阪弁は異様なほどだった。夕食は先輩が作ってくれたりして、たっぷり休養も取れた。

七月二十五日 至仏山
上田代430〜至仏山830〜日崎山付近夕方
 合宿も五日目に入った。今思い返せば、よくもまあ辛い行程を乗り切ってきたものだと感心する。そして後二日すれば帰れるのだが。そう思うと自然と涙がこみ上げてくる。
 今日から合宿最大のメインに突入する。至仏山の登りはとても辛い。下が雨でつるつる滑る。滑らないように黙々と歩く。途中女子校のパーティが我々を抜かしていった。そのパーティとは至仏の頂上まで一緒だった。軽装で登山を楽しんでいる様子だった。これが本来の登山というものだろうと思い、恨めしそうに見つめながら、黙々と登った。
 もう着くだろうと思ってもなかなか着かない。そんなことを何回か繰り返すと頂上に着いた。しかし私は、登頂の爽快感というよりも、これからのルートのことを思うと、緊張感で一杯だった。頂上でスパッツを着け、誰もが気合の入った顔で、平ヶ岳の方向を睨みつけるのだった。しかも女子校のパーティは下山してしまった。
 道のないところを歩くというのは、大変なエネルギーを要する。それにいつ蛇に噛まれるかも知れないという危険もある。一体何が面白いのであろうか。そんな中で私は一つの考えを思いついた。それはとにかくルートファインディングを楽しむのだ。どんなに辛くても、周りの景色に感動し、笑顔で、ヤブをかき分けようと。
 歩き始めてまず這松のヤブに突入した。私の考えは誤っていた。這松の枝葉固くて、笹のようにうまくはいかない。ヤブといえば笹しか私は知らなかった。体力の消耗と同時に、精神的なショックを受けた。我々は誰もが気が狂いそうになった。ヤブとの格闘はまさに自然界の弱肉強食の世界だった。喉が渇く。水をくれ。そろそろ限界かと思われたときに、倉田先輩が小さな沢を見つけてくれた。これには助かった。ポリタンの水を使わずに、本物の水を飲める。こんな最高なことはなかった。私はまたやる気を出し、笑顔のヤブ漕ぎを始めたのだった。
 もうどのくらい来ただろう。地図の上ではまだ全然来ていないらしい。ススヶ峰はまだまだ遠い。夕方までにススヶ峰に着くことができずに、適当な場所にテントを立てた。

七月二十六日 ススヶ峰
幕営地500〜ススヶ峰〜白沢山付近幕営
 合宿六日目になった、予定通り帰れるかどうかが分からなくなった。私としてはどうしても明日帰りたかった。しかしどうにもならないことは、本当にどうにもならない。今のうちに諦めた。その方が精神的にショックがなくて、気持ちが楽になる。
 朝はとても寒かった。食料もレトルトばかりで栄養が足りないし、異様にいらだっている。懸命に平常心を保とうとするが、苛立ちは増す。歩いているとき、前の人がかき分けた枝が、反動で顔に当たったりすると、苛立ちは怒りへと変わる。何だか地獄をさ迷っているようなものだ。
 しかしたまに「赤テープ」がある。前に通過した登山者が、道しるべに付けてくれたものだ。このテープを見ると、瞬間自分は生きているのだと感じる。それは私にとって救世主であった。わずかに苛立ちが癒された。
 やっとススヶ峰にたどり着いたと思ったら、急に太陽が照り出した。ヤブと暑さのダブル攻撃にあった。しかし何としてでも平ヶ岳に行くのだという執念で、頑張った。それでも今日は平ヶ岳へは行くことができなかった。

七月二十七日 平ヶ岳
幕営地500〜平ヶ岳1100〜鷹ノ巣〜尾瀬口1700(翌日帰郷)
 朝は寒かった。昨日よりも数倍は寒い。シュラフカバーだけできた私は、遠山君から防寒具を借りなかったら死んでいた。
 さあ今日は帰る日だ。そのことを頼りに、私は気合を入れてヤブと戦った。割合今日のヤブは楽だなと思いながら、黙々と歩く。平ヶ岳に近づくにつれ、疲れも増してきた。嬉しかったことはヤブを抜けたことだった。しかしヤブを抜けた感動よりも、平ヶ岳の登りに集中した。途中芝崎先生が雪田を見つけて、疲労も回復した。そしてついに平ヶ岳に達した。感動だった。終わったと思った。私はそこで思いっきり泣きたかったが、涙を出すための水分も枯れていた。
 考えてみればこのコースは高校生には酷だった。しかしそれを乗り切ったかと思うと、大きな自信が湧いてきた。今回、先生方の読図の正確さには恐れ入った。もし先生がいなかったら、絶対に生きて帰れなかった。私も早く読図を正確にできるようにしなければならない。
 ところで今回コースタイムがずれたために、電車の時間がなくなり、各自駅の待合室で夜を過ごすことになった。私とU・Mの三人は奥只見の待合所で、ダメだと言われたにも関わらず勝手に泊まってしまった。あの時三人でやったドボン大会は、楽しかったなあ。





1989年

ワンダラー VOL21 一九八九年九月発行 九五ページ
一九八八年
 秋山山行 大源太山 一〇月二日 
 第三回歩荷訓練山行 一一月二七日 大岳山 
 冬山合宿 土樽スキー 
一九八九年
 春山合宿 黒姫山 三月二五日〜二八日 
 新入生歓迎山行 三ツ峠 五月十四日 
 第一回歩荷訓練山行 奥多摩・鷹ノ巣山 六月一一日 
 第二回歩荷訓練山行 有馬山 六月二五日 
 夏山合宿 南アルプス 荒川岳・赤石岳・聖岳・易老岳 七月二十日〜二七日 
 他に個人山行は、二子山、一二月に三泊した北八ヶ岳など。

二年部員 志賀健太郎 下田隆史 
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 春日敬行 岡田明 野口孝


Wanderer Vol21 表紙は槍ヶ岳


 1年部員は多いようだが、二年部員が少ない年で、冬山合宿はスキーとなり、春山合宿も黒姫山の登頂のみになっている。その分冬合宿と同時期に二年部員は北八ヶ岳の縦走に出かけている。
 夏合宿の南アルプス南部は、畑薙ダムから林道を五時間かけて椹島まで歩き、荒川岳から赤石岳、聖岳を縦走して易老岳から遠山川に下っている。かつて南アルプス南部は、畑薙ダムから茶臼岳に登る道が最南端の便利な登山道とされていたが、林道整備によって、遠山川からさらに南の易老岳に登れるようになった。今では車で林道を入れるが、合宿では四時間の林道歩きで下山している。


1990年

ワンダラーVOL22 一九九〇年九月発行 一一七ページ
一九八九年
 秋山山行 上越・仙ノ倉山 
 第三回歩荷 釜伏峠〜堂平山 十一月十九日 
 冬山合宿 安達太良山 十二月二十三日〜二十六日 
一九九〇年
 春山合宿 磐梯山・猫魔山 三月二十五日〜二十八日 
 新入生歓迎山行 両神山 四月二十九日 
 第一回歩荷 川苔山 六月十日  
 第二回歩荷 武川岳 
 夏山合宿 北アルプス 新穂高〜双六岳〜薬師岳〜黒部ダム 

二年部員 後藤拓 小林靖広 新井清和 服部大輔 福井淳啓 間野正美 土屋健一 小野徹生 新井明良 水村裕記 村山宏 竹林俊介
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 春日敬行 岡田明 野口孝

 顧問が熊井先生の時代には、簡単な沢登りをやるようになった。前年の秋山山行として報告されているのは、上越・仙ノ倉谷のイイ沢だろうと思われる(報告には日時・場所が不明で略図だけが書かれている)。
 前日に土樽の駅で仮眠して、毛渡沢沿いの林道を登る。
〈始めは天気もよく、我々も快調に飛ばしていたものである。しかしそのペースも、沢を登っていくごとに少しずつ落ちてきた。そして傾斜がきつくなったところ辺りから、どっと疲れがでた。その直後にうざったいヤブ漕ぎ、追い打ちを掛けるように雨やひょうが降ってきたのだ。頂上に行く前に体がガタガタになる。
 頂上に着いた。といってもそれを実感させる眺めもなかった。これは仙ノ倉も平標も同じだった〉
 紅葉シーズンの登山というのは、好天に恵まれることは少ない。
 またこの年は秋のシーズンに、この秋山山行と第三回歩荷山行が組まれているが、秋に計画山行が組まれなかった時代にくらべれば、山行回数は増えてきたことになる。
 そして冬合宿の安達太良山、春合宿の磐梯山を終えて、夏山合宿の北アルプスは岐阜から新穂高に入った。定番の南アルプスにこだわらない計画である。新穂高から弓折岳の鏡平へ登り、双六岳から三俣蓮華岳。そこからまた五郎沢を下り、祖父沢を登って雲ノ平へ出るという沢登りを行った。
〈三俣蓮華岳で御来光を拝むことはできなかった。朝出発が遅れてしまったからだ。ここでは三年生の卒業記念写真を撮った。眺めは最高だった。
 そこから山を下り黒部乗越に着いた。沢下りの始まりである。沢下りは順調だったが、少し時間がかかってしまった。しかしスリルもありなかなかよかった。問題は沢登りだったのだ。
 祖父沢は予想を遥かに超えて大変だった。岩がゴロゴロしたところで川幅が広かったりすると登っていけない。普通は川の中の転石を頼りに左右の河原を行ったり来たりするが、そういうときは河原の上のヤブを進んで、大きな岩や川幅を越えなければならない。その道探しも大変で、実に遅れること五時間。キャンプ場に着いたのは五時過ぎで、足はフラフラ、腰はガクガク、大きな誤算に痛みつけられた一日だった〉
 翌日は薬師沢小屋から薬師岳に登り、縦走して五色ヶ原から黒部ダムの平へ下り、扇沢へ下山した。
 また巻頭エッセーでは、もう一人の顧問・野口孝先生は、巻機山の観光化に触れて
〈数年前、この巻機山をスキー場化しようとする開発計画が大手不動産会社と建設会社によって提示された。ちょうど国のリゾート地域指定の動き(巻機山そのものは含まれなかったようだが)もあって、かなり現実味を帯びていた。しかし地元との交渉は難航し、やがて会社側の計画に山麓をリゾートマンション化しようとする意図が見え始め、ついに地元・清水地区はこの開発計画をすべて拒否したのである。
 巻機山は再び静けさを取り戻したといってよいかもしれないが、地元・清水の巻機山開発に向けての模索は、再びゼロからのスタートになったと言ってよい〉
 巻機山は今でも年間を通じて、静かな山行が味わえる。山を登るものにとっては、開発拒否の選択は有難かった。
 

1991年

ワンダラー VOL23 一九九一年八月発行 一三七ページ
一九九〇年
 岩登り講習会 日和田山 一〇月二日
 秋山ビバーク山行 那須・茶臼岳 一〇月七日 
 関東大会 三ツドッケ・御岳山 一一月一一日〜一二日
 第三回歩荷訓練山行 大岳山 一一月一八日 
 冬山合宿 吾妻連峰 一二月二三日〜二六日 
一九九一年
 新人大会雪上訓練 巻機山山麓清水 二月一六日〜一八日
 春山合宿 根子岳・四阿山 三月二十四日〜二七日 中山
 新入生歓迎山行 滝子山 五月一二日 
 第一回歩荷訓練山行 武甲山 六月九日 
 第二回歩荷訓練山行 酉谷山 六月二三日 
 夏山合宿 朝日連峰 七月二〇日〜七月二五日 
 他に個人山行は、4月の山スキー苗場神楽峰。五月鳳凰山、金峰山。八月白馬岳、槍ヶ岳など。
 
二年部員 中山直樹 内野敦史 和田篤史 吉田直人 山野高詞 大久保大輔 山崎弘介
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 春日敬行 岡田明 野口孝

 夏山合宿は朝日連峰に向かい、南部の祝瓶山から北部へと縦走したが、悪天候に悩まされ、また大朝日岳・金玉水で強風のためテントポールが二張り分破損したため、古寺鉱泉へ下山し、予定の半分ほどしか実践できなかった。破損はダンロップテントのポールだったが、当時このテントの評判は悪かった。



Wanderer Vol23から 夏合宿の朝日連峰概念図

 部活の中にも高体連の山行が増え、他行との交流の関東大会、岩登り講習会、また雪上訓練が二月の巻機山山麓の清水で行われた。そこでは悪天候のなか、雪洞やイグルー設営の講習会、ワカンやスキーでの登行指導などが行われ楽しい経験をした。
 また個人山行も活発で、山スキーや北アルプスの夏山登山が行われている。


1992年

ワンダラー VOL24 一九九二年八月発行 一〇一ページ
一九九一年
 秋山ビバーク山行 谷川岳 一一月三日 
 第三回歩荷訓練山行 三頭山 一一月一七日
 冬山合宿 乗鞍・鉢盛山 一二月二五日〜二八日 
一九九二年
 新人大会 巻機山山麓清水 二月一五日〜一七日 
春山合宿 石川・大笠山 三月二十四日〜二九日 
 新入生歓迎山行 乾徳山・黒金山 四月二九日 
 第一回歩荷訓練山行 鷹ノ巣山 六月七日 
 第二回歩荷訓練山行 塔ノ岳 六月二一日 
 夏山合宿 南アルプス 甲斐駒ヶ岳・仙丈岳・北岳・塩見岳 
  他の個人山行は五月の八ヶ岳。八月の朝日連峰

二年部員 吉田哲 関口徹 蛭田亮介 古垣耕
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 春日敬行 岡田明 野口孝

 石川・岐阜の県境、白山の稜線にある笈(おいずる)ヶ岳や大笠山は一八〇〇mの稜線で、北陸地方・豪雪地帯の名峰である。三月の春合宿ではここが計画された。東海道線で米原を経由して入山し、好天に恵まれたもののやはり積雪に苦労した。
〈奈良岳を下って一時間歩くと、とても急な道が目の前に立ちはだかった。ザイルを使うということになり、アイゼンを持っている人たちが足跡をつけながらザイルを上に持っていった。間もなく木に結び付けられたザイルが下に投げてこられて、僕も含めアイゼンのない人がそれを頼りに登った。ここを全員が登り終えるまでには相当な時間がかかってしまったのだが、それから先、大笠山までは、今までとは打って変わってとても楽な道のりであった〉
 目的の笈ヶ岳間では到達できず、大笠山から引き返したが、下山中も部員や顧問がスリップし、悪戦苦闘の連続だったようだ。帰りには奈良岳の西方の奥三方山にも登頂した。


Wanderer Vol24 春合宿・笈ヶ岳の概念図

 夏山合宿は、黒戸尾根から甲斐駒ヶ岳に登り、仙丈岳から一旦両俣へ下り、北岳から三伏峠までの南アルプス北部の縦走を行った。予定通り合宿は進み、
〈朝暗いうちからサブザックを背負い、ヘッドランプを点けながら農鳥岳を登る。荷物が軽いので急な登りも楽で一気に農鳥岳に着く。あいにく出発が遅れ日の出は拝めなかったが、雲海の中で輝いていた朝日は素晴らしかった。そこで行程の変更が発表され、蝙蝠岳を辞めて一気に塩見岳に向かうことになった〉
 登った山すべての頂上で快晴だったと報告されている。



報告
春山合宿 笈ヶ岳 一九九二年三月二十四日〜二十九日

 笈(おいずる)ヶ岳は、標高わずかに1800mを超える程度の山であるが、岐阜の白山の主稜線を、15キロ北に連なる豪雪の北陸地方の名峰である。そこに積雪量が最も多い三月に登山するというのは、なかなか果敢な計画となった。しかし残念ながら計画遂行とはならなかったが、隣接する大笠山(一八二一m)へ登頂し、積雪期の勇敢な記録を実践できたことになった。(編集者)

三月二十五日 千丈温泉 小雨
東京2340〜大垣700〜米原〜西金沢〜鶴来〜千丈温泉1400〜大池1500
 前日夜九時過ぎ東京駅に集合する。この合宿で目指す笈ヶ岳という山に、実は私は抵抗感があった。というのはこの計画が決まったとき、それ以前にも熊井先生が、その山の冬の写真を見て「アイゼンとピッケルの世界だ」としきりに言っていたからである。ピッケルは部活にあるからいいのだが、アイゼンは部活にもなく、自分自身でも持っていない。それに雪上訓練を未だにやったことがない。それに当初は縦走登山を、先生の意向で往復登山に変えたことからも、この山に空恐ろしいものを感じていた。そして何か起こりそうな気もしていた。
 出発のときにもOBが見送りに来てくれたが「死ぬなよ」と冗談半分に言った言葉が妙に心に残った。それでも夜行列車ではよく寝た。
 電車とバスを一二時間以上も乗り継いで、石川県の千丈温泉という所にきた。雨もやんで路面は乾いている。雪は道の脇に、寄せられて汚れているだけ。近くにあるスキー場には雪がない。
一四時、奥池に向けて出発。一時間歩いて奥池に着いたが、もう真っ白な雪原になっていた。

三月二十六日 尾根取り付き 晴れ
奥池545〜尾根取り付き1100〜稜線1300〜幕営地1430
 五時四十五分、奥池を出発した。途中道を間違えて、大して進んでいないのに時間ばかり費やした。予定では二時間で林道が終わるはずであったが、その林道さえも冬のままの雪の斜面の難路になっていて、思うように進めない。けっきょく尾根取り付き点に達したのは、三時間遅れの十時四十五分であった。しかもまた、尾根に入る道が分かりづらく、道を見つけて出発したのは四時間二十分遅れの、十一時二十分であった。
 ところでここにつくまでの間、僕は途中で死にそうになった。ちょっとしたところを渡るときに、前の人たちが手を掛けていた雪の窪みが、僕が手を掛けたときにいきなり壊れて、仰向けに倒れてしまったのである。そこは固い雪の上で、とても怖いところであった。もしさらに滑っていたら、重症か即死で落ちていたかもしれない。しかも驚いたのは落ちた張本人よりも、周囲の人のようであった。特に春日先生などは、僕の姿が自分の姿を重なり合ってしまっただろう。
 さて尾根に取り付いてからは、傾斜が急になってきた。天気は晴で汗ばむくらいだったが、ペースはよかった。ところが一三時二十分頃から次第にガスが出て、あっという間に辺り一面真っ白になってしまった。そして一四時三十分には、濃霧で夕方のような暗さになり、けっきょく奈良岳まで行けずに、平らな場所を見つけてテントを張ることになった。スパッツをしていたが靴下が濡れていた。
 夜シュラフの中で目を閉じると、今日のスリップが何度も思い起こされて、よく生きていたなと思う。反面、林道であれだけの目にあったのだから、これからをの厳しい道を思うと、生きて帰れないのではないかと、初めて本気で思った。明日になるのが怖かった。

三月二十七日 大笠山 晴れ
幕営地530〜奈良岳830〜大笠山1100〜奈良岳1300〜奥三方山1450〜幕営地1620
 昨日奈良岳まで行けなかったせいもあって、この日の行程は笈ヶ岳まで行くのを断念して、その手前の大笠山までのアタックとなった。これで少しは安全性も増すのかと、嬉しくなったが、しかし残念でもあった。
 五時半に出発して、天気は良好で正面には綺麗に山が見えた。しかし雪の斜面は凍り、出だし急な下りで、余裕はない。アイゼンを持っている人が先生を含めて五人いたが、彼らには当然そうした心配はない。途中、ちょっと滑らせたら遥か下の方まで滑りそうなところがあり、しかもピッケルがうまく刺さらなかったりすると、恐怖感が何倍にもなった。縦走予定では、重い荷物を背負っての登山だったかと思うと、ぞっとした。
 八時三十分、苦労したが奈良岳一六四四mに着いた。あっけないような気もするし、相当時間がかかったような気もした。遠くに槍ヶ岳が見えた。
 ここを過ぎてからは、下り、登りを繰り返して一時間ほどで急な道が前に立ちはだかった。ザイルを使うことになり、アイゼンを持っている人が足跡を付けながら、ザイルを上に持っていった。間もなく木に結び付けられて、ザイルが下に投げられた。僕らはそれを頼りに登った。ここを全員が登るのに相当時間がかかったのだが、その先は楽な道のりに変わった。そして一時間四十分後には、無事大笠山一八二二mに着くことができた。南南西には白山が、南には昨日まで目指していた笈ヶ岳が近かった。
 山頂には二十分いて下山した。登ってきた道を引き返し、今度は奈良岳の南南西の奥三方山一六〇一mを目指した。下山でもやはり例のザイルの箇所で時間がかかり、しかも最後にザイルを回収した熊井先生(約三分の一世紀の間山に登っている)が、こけて滑落する事故が起きた。結果的には途中で止まったが、僕はこれが熊井先生の最期なのかと本気で思って、しっかり目に焼き付けておこうと凝視していた。また奥三方山へ向かう途中では、吉田君が何かの拍子に滑落する事故があった。このときも滑っている彼を冷静に眺めていたが、何故か助かると思っていた。
 そんなことはあったが、一四時五十分には皆元気に奥三方山に到着した。
 この合宿でも、他に目指す山もなくなり、後は下りだけ。一年最後の山頂でゆっくりしたかったのだが、五分で出発することになった。テントを張ったところまではかなりあったが、一六時十分、何事もなくたどり着いた。夜はまたシュラフの中で、あの林道を通るのかと思うと憂鬱になった。

三月二十八日 下山 晴れ
幕営地555〜尾根取り付き〜奥池〜千丈温泉1000〜鶴来・解散1200
 この日は快晴に近い晴れだった。五時五十五分下山を開始した。やはり夜のうちに雪は凍っていて、二十六日の足跡がそのまま固まりになってとても歩きにくい。けれど下りが急になったきた辺りで、雪も柔らかくなってよかった。雪山の下りは雪が柔らかければけっこう楽である。それに下山は速いものだ。思っていたよりも早く、尾根の取り付き点に出た。
 六時四十五分、そこを出発した。林道は水が氷になっているところがあった。用心しても滑って腹が立つ。来たときにはなかった大岩も転がっている。落石の危険はこういうときに起こるのかと思った。この林道に出て一時間半ほどで、例の事故現場に着いた。また同じような目に合うのかと思ったが、前の人が雪を削ったりして通過しやすくしてくれたせいもあって、問題なく通過できた。これで僕は初めて「生きて帰れる」と歓喜した。
 十時になると、もう危険な林道もなく普通の道路を歩いていた。川を挟んだ対岸のバス停に出て、その上には雪のない惨めなスキー場が広がっていた。
 その後皆で風呂に入ったのだが、このときに重大なミスに気がついた。着替えを全部ザックの中に忘れてきた。また濡れた下着を着て、金沢駅に着いてからは兼六園に行ったのだが、ニッカズボンのままでは恥ずかしかった。帰りのタクシーの中では、山行は最悪だったが、いつか冬の笈ヶ岳に登ってみたいとも思った。




1993年

ワンダラー VOL25 一九九三年八月発行 一三二ページ
一九九二年
 フリークライミング講習会 狭山モータースクール 十月七日
 秋山ビバーク山行  日光女峰山 十月三十一日〜十一月一日 
 第三回歩荷訓練山行 御岳山 十一月二十二日
 冬山合宿 福島・西吾妻山 十二月二十四日〜二十八日
一九九三年
 新人大会(積雪期技術講習会) 安達太良山 二月十二日〜十五日
 春山合宿 会津駒ケ岳 三月二十四日〜二十七日
 新入生歓迎山行 荒船山 五月八日〜九日
 第一回歩荷訓練山行 御前山 六月六日
 第二回歩荷訓練山行 武川山 六月二十七日
 夏山合宿 北アルプス・剣岳〜黒部五郎岳 七月二十一日〜二十八日

二年部員 升國義浩 長島俊行 小野寺峰夫 清水伴紀 千葉大嗣
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 岡田明 野口孝

 人工壁を利用して、フリークライミングの講習会が行われるようになった。前年秋に狭山モータースクールで開催された講習会には、五十人ほどが出席したと報告されている。ザイルの結び方、ハーネスの付け方、カラビナやエイト環(下降器)の使い方を習って、実際に登る訓練をしたり、最後にはクライミングコンペが行われたが、
〈思ったよりも難しく、完登できた者は誰もいなかった〉(長島)
 と書かれている。
 前年冬山合宿は、福島・西吾妻山で行われ、北斜面、米沢の天元台スキー場(白布温泉)から入山した。キャンプを移動させながら二日掛けて若女平上の標高一八三〇mに幕営し、翌日積雪の中を山頂に到達した。連日腰までのラッセルに苦労し、
〈二年生はザックを置いて空身でラッセルをして、しばらく行ったら交替して再びザックを取りに戻るという本格的なラッセルになった〉
 と書かれている。
 同じように春山合宿の会津駒ケ岳も雪が深く、顧問は山スキー、生徒はワカンで、桧枝岐から七時間ほどで、頂上付近の駒ノ小屋まで到達した。翌日は頂上から中門岳まで往復した。
 また夏山合宿の北アルプス剣岳では、富山から室堂に入って、立山〜剣岳を往復し、そのまま縦走して薬師岳まで。さらに薬師峠のキャンプ場から黒部五郎岳を往復して折立に下山するという充実したものになっている。
 ところでこれまでの山行スタイルは、新入部員は部装備のキスリングを使用して、二年になると個人装備で大型アタックザックを購入するという慣例だったのだが、この年からその伝統を改めると部報の巻頭言に書かれている。
〈自民党一党支配の終わった今年、我が川高山岳部においても伝統となってきた一年がキスリングを使用することに終止符が打たれた。これは伝統というものに限界があり、それを時代に合わせて変えて行かねばならないということだと思う。そして何よりも、今年一年生が九人入部したということに直接の原因がある。いずれ二年になれば、(背負い易い)アタックザックを購入することになるので、入部時点で購入しても変わりがないということなども原因である……。
 さらには一、二、三年生の装備の重さを平等にしていく〉(吉田哲)
 部活動の上下関係が改善されていった。


川高での顧問十一年間(1986〜97年)        元顧問 野口 孝

 自分は大学時代ワンゲルをやっていた。沢登りは少したしなんだ程度で、基本は縦走。冬はやらない。春はスキーを履いての行動が中心だった。そして大学卒業後、新任の学校を8年間勤めた後、川高に赴任した。
 十一年間の川高山岳部での山行は、夏合宿を中心としてどれも思い出深いものばかりだ。その中で特に印象に残る山行を取り上げたい。
 まずは最初の一九八六年の夏山合宿。南アルプスでコースは「転付峠―荒川岳―赤石岳―聖岳―光岳」。大学時代にも南アルプスはたくさん登ったが、転付峠と光岳は行ってなかった。歴史ある峠とは聞いていた。そこから入山するとは渋い。光岳はなかなか足を伸ばせない山。茶臼岳から走るように空身往復をしたが、光小屋の手前十五分ほどの所にあった水場でむしゃぶりつくようにみんなで水を飲んだ。すぐ近くのイザルガ岳から北に聖岳を望んで、「ここまで来たんだ」という思いを胸一杯に感じた。高校の山岳部で行けるとは思わなかった。
 翌年の夏は北アルプス。「上高地―奥穂高岳―槍ヶ岳―三俣蓮華―雲の平―薬師岳」。この合宿は一日も晴れなかった。しかも停滞が一日あり、山中七泊という掟破りの合宿。これを生徒は病気もせず、冷静によく我慢して歩き続けた。高校生離れしていると感じた。
 高校生離れしていたのは一九九二年の夏もそうだった。南アルプスでコースは「黒戸尾根―甲斐駒ヶ岳―仙丈岳―北岳―間ノ岳―農鳥岳―塩見岳」というもの。コースそのものは珍しいわけではない。ただ三十キロ近い荷を担いで黒戸尾根を登り、仙丈、北岳を登る。千mの上り下りを繰り返す驚異のアップダウンコースだ。連日二時起床、四時出発。しかも夕方の四時、五時にサイト着。最後の塩見岳も夕方四時着。頂上から北岳方面を振り返り、一年生の中には涙ぐんで第一応援歌を歌う者もいた。よく歩いた山行だった。
積雪期の山行は、多くの他の学校がスキー中心で、冬は春合宿に備えてのスキー訓練になっているに対して、川高はワカンなので、冬山合宿も厳寒の雪山を着実に歩いた。冬山合宿を二つあげておく。
 まずは一九九二年冬の、西吾妻連峰。山形の白布温泉から入り、西吾妻山を目指した。樹林の中、顧問がスキーを履いても腰までのラッセル。ルート探しも時間がかかる。少しずつ樹林の様子も変わる。ツガがはじめは頭の方だけ雪をかぶっているのが、やがて全体に雪がつき、まるで雪の鎧をつけているようになる。ホワイトファンタジー。ラッセルは深く、進まず。結局目的地西吾妻山まで届かず、あきらめて引き返すことに。下山はたった三時間だったが登るのには三日かかっていた。ひたすら雪の中で過ごした後、白布温泉で風呂に入った。毛穴に温泉がしみこむ。極楽だった。
 翌一九九三年冬は戸隠の高妻山。雪が深いわけではないが、寒波が襲来してマイナス十度の寒さ。夏道のないところを、雪に覆われた藪の上を進む。高妻山は奥深かった。頂上アタックにあたって、午後一時までに頂上に着かなければ引き返すとの条件で進む。生徒、猛烈にラッセルを進め、十二時五十分頂上到着。よくぞ行けた。帰りの日は吹雪模様だった。
 このように高校生離れした山行、山域踏破は、第一義的には生徒の力量の高さによるが、第一顧問の熊井先生の的確な助言と判断があることは言うまでもない。そしてそれを更に補強したのが芝崎先生の慎重な確保技術に裏付けられた沢への誘いと、驚異的な体力だ。
 一九九〇年の夏山合宿は北アルプス。「新穂高温泉―三俣蓮華岳―黒部五郎小屋―五郎沢―祖父沢―雲の平―薬師岳―五色ヶ原―黒部四ダム」というコースだったが、この中の祖父沢の登りが消耗した。ザックを担いで五時間四十分、沢の岩を越え続けた。ようやく雲の平に辿り着いたのは夕方の五時二十分。へとへとだった。テントサイトに着いてみんなへたり込んでいる脇で、芝崎氏は「それじゃビール買ってくるよ」と何事もなかったように言い、三十分ほど離れた山荘に走って、顧問五人分のビールを購入してきたのだ。言葉もなかった。唖然としつつ、乾いた喉にビールを流し込んだ。これも極楽だった。    
 一九九四年夏も北アルプス。「竹村新道―野口五郎岳―三俣蓮華岳―笠ヶ岳」というコースだが、ここには三俣山荘を起点として黒部源流の沢を楽しむ日程が組まれていた。コースを二つに分け、一年は高天原、二、三年は芝崎先生をリーダーに、赤木沢。私は勿論赤木沢に参加した。大学以来のあこがれの沢である。評判に違わず、とにかく明るく美しい沢である地上の楽園である。翌日は祖父沢を下降。ここで私はイワナを釣ることができた。まさに黒部源流を満喫した山行だった。
 川高での十一年間。伝説的と言っていい夏の「藪こぎ平ヶ岳」と春の「豪雪笈ヶ岳」に参加できなかったのは残念だったが、生徒、先輩顧問に恵まれて、大学時代にできなかったことを実現し、さらに自分の山岳人生をこの上なく豊かにしてくれるものだったのは間違いない。



1994年

ワンダラー VOL26 一九九四年九月発行 一二九ページ
一九九三年
 秋山ビバーク山行 谷川岳 一〇月三十一日 
 第三回歩荷訓練山行 棒ノ折山 一一月二一日 
 冬山合宿 高妻山 一二月二五日〜二八日 
一九九四年
 新人大会(雪上訓練)安達太良山 二月四日〜七日 
 春山合宿 巻機山 三月二五日〜二八日 
 新入生歓迎山行 両神山 五月一日 
 第一回歩荷訓練山行 川苔山 六月五日 
 第二回歩荷訓練山行 三頭山 六月二六日 
 夏山合宿 北アルプス 野口五郎岳・水晶岳・雲ノ平・笠ヶ岳 七月二一日〜二八日  
 個人山行は、一〇月の八ヶ岳。五月の奥秩父、尾瀬。七月の西穂高岳など。

二年部員 篠原岳夫 中塚敦 遠藤祐樹 村岡史郎 清水泰岳 本多知巳 山中健一  大久保則夫 新谷彰教 
顧問 熊井昌男 芝崎茂弥 岡田明 野口孝 高橋泰綱


Wanderer Vol26 表紙

 春合宿の巻機山は、夜行の上越線が廃止された以降は、朝川越を出発し昼過ぎに清水、集落奥のキャンプ場で宿泊。翌日天幕を移動して井戸尾根六合目の展望台にベース設営。その翌日に頂上登頂という予定が組まれている。登頂予定日はガスの中を上部避難小屋まで往復し、翌下山日の快晴を待って再び頂上へ往復した。
〈昨日は真っ白で何も見えなかったあの急な尾根が、素晴らしい展望台に変わっていた。谷川岳や越後の山々が遠くまで見えた。一番びっくりしたのは富士山が見えたことだ。地元の民宿のおばちゃんもびっくりすることらしい。これが本当に同じ山かと思うほどの変わりようだった〉
荒天と快晴と、ベースから頂上まで二往復したことになった。
夏合宿は北アルプス。高瀬ダムから湯俣に入り、野口五郎岳〜水晶岳〜鷲羽岳と縦走し、三俣蓮華小屋に幕営し、数日過ごした。翌日一、二年は雲ノ平から高天原〜岩苔乗越と散策した。
〈たった一人で歩く高天原は、本当に“思わず走り出したくなる”ような場所だった。またここからの薬師岳の展望に、僕は絶句した。さらに十分ほど歩くと、ようやく皆が待つ高天原温泉へ到着。イワナを持っていない僕に対する冷たい視線を一瞬感じた。まず熊井先生に報告。僕がボウズで釣れなかったことだが、大して驚いていない様子だった。期待されていなかった。
 硫黄の熱い温泉で汗を流して飯を食ったら気分も一新。我がB隊が先頭で再び歩き始めた〉
 三年は黒部源流を下降して赤木沢を登り返した。その翌日は雲ノ平から祖父沢を下降して、五郎沢から幕営地に戻るという周回登山を二日間繰り返している。合宿はその後、笠ヶ岳まで縦走して新穂高に下山した。
 また七月には松高山岳部との定期戦が行われ、この年は野球の試合を行った。

報告 吉田哲遭難
 この年九月、半年前に卒業したばかりの吉田哲が、秩父の和名倉山で遭難死した。在学中はチーフリーダーで意欲的な部員だった。彼は進学した都立大学のワンゲル部に所属し、川高で一年先輩の山崎弘介(東京工大山岳部)と、個人山行を行っていた。沢登りはすでに終了し、夕方遅く和名倉山から二瀬ダムまでの踏み跡を下山中だった。小雨の中、踏み跡を見失ったとはいえ、間もなく湖の遊歩道に下山する直前に、ほんの三mほどの崖から足を滑らせて、転落死してしまった。報道されたニュースにも「秩父湖周辺の遊歩道から滑落」と報じられたくらいで、誰もが信じられない事故になってしまった。
事故後、山岳部同級生が中心となって、追悼集が編集された。事故当時のパートナーの報告。
〈樹林帯に入ると暗闇となった。私が疲労のためペースが落ち、時々トップを歩いていた吉田と離れたので声で確認を取った。樹林帯をしばらく行くと霧はなくなり、ヘッドランプの光も足元を十分に照らすことができた。対岸の明かりが見える辺りから、下りながら右に曲がる道を探した。しかし見つけることはできなかった。さらに樹林帯の中でどこが道なのか分からなくなり、道を外したと思った。そこで、道はないが左の斜面を下り、秩父湖周遊道路に出ることにした。斜面に木が少なく手がかりはなかった。足元は土が細かく、砕かれている状態で崩れやすかった。二人とも、一、二度落石を起こした。
 幸い直径二センチくらいのワイヤーが伸びていたので、それにつかまりながら降りた。私はややペースが遅れ気味で吉田と距離が離れるときもあった。トップの吉田に数度、湖に落ちないように声を掛けた。一〇〇mほど斜面を下ったときだったろうか。二十mくらい先を歩いていた吉田が、突然、
「ウワー、落ちる、落ちる」
 と声を挙げた。足元を見ていた私が、声のする方を見ると、ワイヤーに吉田がぶら下がっていた。そして二、三秒後、落下した。崖があるのに、気付かず降りていて、突然足場がなくなったので、ワイヤーにぶら下がったと考えられる。私が崖に気をつけて降りながら、
「吉田、吉田」
 と声を掛けると、
「止らないー」
 と返答した。
「平気かあ」
 の呼びかけに、
「唇が切れたあ」
 と答えた。崖に近寄っても姿は見えなかった。再度、
「吉田、吉田」
 と呼ぶと、
「先輩、早く来てー」
 と返事をした。再び、
「吉田、吉田」
 と呼びかけたが、今度は返事もなくライトは木々を照らしているだけだった。
 明かりも突然見えなくなった。私は急いで木の根につかまり、崖を降りた。崖は三、四mくらいの高さがあったと思われる。完全に垂直な崖であった。崖の下は、崖の上と同じで足元が崩れやすく、滑り出すと止らなかった。崖を降りてからザックを置いて、少し下り声を掛けたが返答はなかった。それ以上下るのは危険だと判断し、ザックを置いたところまで引き返した。
 私は斜面を回り込んで歩道に出ようと考えた。ザックから予備の電池を取り出し出発した。最後にもう一度声を掛けたが、やはり返事はなかった。この間、吉田が落ちてから十五分程度。出発したのは午後六時五十五分だった。その後私は二時間近く迷って、ようやく道を見つけた。場所は埼玉大寮の吊橋より少し山に入ったところと思われる。私は吉田が気を失っただけかもしれないと考え、周遊道を寺井の吊橋に向けて歩いてみた。事故現場と思われるところには、吉田のポリタンクが一つ落ちていただけで、声を掛けても応答はなかった。
 そこで埼玉大寮横を抜け、二瀬ダムバス停の近くの公衆電話から警察に通報した。時刻は二十二時近くで、事故発生から三時間以上たっていた。四十分後にはバス停近くに、警察・消防・救急の車が揃い、寺井の吊橋まで行き、そこから捜索に向かった。その晩はポリタンクを発見した周遊道から秩父湖に下る斜面を探した。これは私が吉田は秩父湖に落ちたと思ったからであった。その日は夜遅く、雨も強かったため、それほど長く探さなかったようであった。翌朝早くからの捜索で、吉田は午前七時四十分頃、周遊道より三十m上の岩場で遺体となって発見された。眉間の傷が深く、ほぼ即死だったと聞いた〉
 気の毒な遭難死だった。


吉田哲の死から現在に至るまで  小野徹生(一九九二年卒)

 今年、大学卒業以来初めて、学生時代に一人暮らしをしていたアパートを訪れ、大家さんのおばあちゃんと再会することができた。「窓の下には神田川」が流れ、春になると、部屋の目の前で神田川沿いの桜並木が満開になる。対岸に田中角栄邸、下流の方に椿山荘などがある昔ながらの東京の風情が残る街だった。別に遠い場所ではなかったのだが、当時迷惑ばかりかけていたただの下宿人が、『わざわざお会いしたい』とは何となく言い出せなかったので、卒業してから十二年近くの歳月が流れてしまっていた。この間に、私は結婚もし父親にもなった。結婚式はアパートから歩いていける早稲田のアバコブライダルホールだった。挙式まで打ち合わせで何度も通っていたので、そのとき一度ぐらいは大家さんに挨拶しておくべきだったと反省もした。
 再会した大家さんは、当時と全く変わらない、心優しいおばあさんのままだった。街の風景も、二十一世紀になったがほとんど変わっていない。毎日大学の通学に使っていた狭い路地も残っていた。私たちは、十二年間の時を埋めるかのごとく話し合うことができた。こんなにすてきで優しい人とおつきあいを続けさせていただけるなんて、私は実に幸せな人生を送っていると感じた。
 さて、学生時代そのアパートで、どうしても忘れられない出来事がある。一九九四年九月十八日のことである。この日大学の授業を終え、午後から友人と遅くまで出かけていた。夕立になってしまったので、大家さんのおばあちゃんに、『合い鍵で部屋に入って布団をしまってください』とワガママなお願いをしたことをよく覚えている。
 遅くなって部屋に戻ると、留守電のランプが点滅している。よくあることなので、適当に家事をしながら聞いていると、山岳部後輩の一年後輩の内野敦史のメッセージが入っていた。
「後輩の吉田が昨日亡くなりました」。
 吉田は私の二年後輩になる。こんなに重い内容の留守電なんて、今まで経験したことがない。頭が真っ白になってなぜだか怖くなってしまった。夜も悲しいというより、まだ自分の目で確かめたわけではなかったから、信じられなくてよく眠れなかった。葬儀の前日には吉田のお母さんに会った。本当に悔しそうだった。跡継ぎを亡くしたのだから当然だ。でも、弟さんがとても気丈でしっかりしていたので、ほんの少しホッとした気持ちにもなった。
 吉田が亡くなってからちょうど一年後の命日、私は川越高校で教育実習をしている。そこで過去のワンダラーを閲覧し、その足で可児時計店へ向かった。このときがまさに山岳部OB会のベテラン世代と若手世代の融合した瞬間である。可児さんは、私が三十年以上離れた後輩だと分かると、私を優しくもてなして下さった。さらにその半年後、私は吉田のお墓から最も近い県立高校に採用された。何かの縁だろう。それから数年、命日のときは仕事の後にお墓参りに行った。
 吉田が亡くなってからちょうど十年後、私には男の子が生まれた。吉田は、哲と書いて「サトシ」と読む。この原稿を書いていて、初めて同じ名前であることに気づいた。私はこの十二年間で剣道を学び、その影響で「道」という字を使いたかったのだが、妻が「智」という字を使いたいということで、当時私はちょっとイヤだったのだが、今となってみれば、最高の名前を息子につけることができたではないか。妻に感謝しよう。そして、吉田の分までサトシに頑張って生きてもらわないと。そう思いながら、私も今を必死で生きている。


 



1995年

ワンダラー VOL27 一九九五年九月発行 一一五ページ
一九九四年
 秋山ビバーク山行 武尊山 十月二十九日〜三十日
 第三回歩荷訓練山行 三ツ峠山 十一月十九日〜二十日
 冬山合宿 安達太良山 十二月二十五日〜二十七日
一九九五年
 春山合宿 磐梯山 三月二十五日〜二十七日
 新入生歓迎山行 万太郎山 五月十三日〜十四日
 第一回歩荷訓練山行 大岳山 六月四日
 第二回歩荷訓練山行 武甲山 六月十八日
 夏山合宿 南アルプス南部 荒川岳〜光岳 七月二十日〜二十七日

二年部員 浜下祐樹 飯野元 後藤直行 竹内伸夫 松本健一 渡辺賢 大塚祐基  松木正尋 村田敦
顧問 野口孝 芝崎茂弥 福原勇 岡田明 関根俊彦

 十年間もの長きに渡って山岳部を指導した熊井昌男先生の最後の山行が、春山合宿の磐梯山になった。磐梯国際スキー場の脇にテントを張り、初日には頂上付近の沼ノ平まで登って雪上訓練。翌日に再びそこを経由して登頂した。
〈登っていくうちに、徐々に磐梯山が近づいてきた。それに連れ雪が締まって固くなって危険だ。足場を確保しながら進んでいく。そしてとうとう頂上に着いた。山頂からは三百六十度の展望があった。猪苗代湖が綺麗だった。ここで熊井先生が、
「皆と登る山はこれで最後だ」
 とおっしゃった。また、
「俺から山を取ったら何も残らない」
 という言葉に涙が出た〉
 80年代半ばから90年代半ばに掛けては、熊井山岳部でもあった。
 南アルプスの夏山合宿で、光岳までテントを担いで縦走したのはほんの数回しかないと思われる。総勢二十六人参加のこの年の合宿は、身延から伝付峠を超えて入山し、荒川岳・赤石岳・聖岳と縦走し、光岳まで到達している。前半は雨にたたられたが、後半は好天に恵まれた。
〈光小屋に着くと、空身で光岳へ行ったが、百名山の割りに寂しい頂上だった。そして光石に行って、光以南の山々を見た。それからイザルヶ岳に登った。ここは山頂が広く、長い間景色を眺めていた。西の空は夕陽がオレンジ色を醸し出す。
 翌日朝四時、ふりかけご飯にサンマ缶だった。今日は下るだけの一日である。イザルヶ岳に御来光を拝むために登った。四時二十分山頂に着くと、富士山と赤石岳の間が明るくなり始めた。皆一点を見つめる。四時四十分朝日が顔を出した。とても眩しい光だった。体一杯に大自然を感じる。下界には雲海が広がる。これが最後の眺めかと思うと、下るのが嫌になったりしたが、やはり下りたい気持ちの方が大きかった。鳥の鳴き声を聞きながら、易老岳の分岐へと進んだ〉
 南下してきた縦走の易老岳〜光岳間は、テントを担いだままの往復だった。そして近年開かれた登山道で伊那側へと下山した。下ってもう一泊し、遠山川沿いの林道歩きはさらに三時間を越える。


川高山岳部の十年   熊井昌男

 一九八五年から九五年に掛けての十年間は、顧問熊井昌男先生の指導で山岳部は活動してきた。学生山岳部の経験を生かして、しかも川高に赴任する前には小川高校で二十年間もの顧問経験があったベテラン教員であり、登山家でもあった。温厚な性格は生徒の自主性を重んじて、部員の山行報告にも度々登場してくる。
熊井時代には、春、夏、冬の年に三回の合宿はもちろん、初夏に二回の歩荷、秋にも秋山山行、秋歩荷のトレーニング山行、他に新入生歓迎山行、二月の新人大会(冬山トレーニング)など、毎年8回ほどの計画山行(公式山行)が組まれたが、そのほとんどを引率してきた。熊井顧問は、どのように川高山岳部を指導し、伝統を築いてきたのだろうか。
「川高に赴任する前の私は、昭和四十年から二十年に渡って、小川高校で教職に就いて、山岳部を指導してきました。男女共学の同校山岳部は、前年に同好会としてスタートしたばかりで、テント、コンロなどの共同装備も少なくて、夏山合宿とはいっても部員が一斉に山行に出ることは不可能でした。テントの収容人数が、部員数の半分しかなかったわけです。そのため夏には四泊程度の合宿が男女別々に組まれ、二回引率するというものでした。
 合宿の目的地は生徒の希望が優先されていましたが、登山コースは顧問の私がその山に合わせて組んだもので、経験のない生徒は、どこから入山してどこに幕営すればいいのかを決めることは難しく、それは経験ある顧問の役目だと思っていたわけです。そんなわけで、冬山合宿を組むことは不可能で行われず、三月の春山合宿といっても、営業小屋に自炊の素泊まり利用で、春の雪を楽しんでいるようなものでした。北八ヶ岳や、那須の三斗小屋温泉、安達太良山のくろがね小屋辺りです。
 ところが川高に赴任すると、夏山合宿は六泊の山行が組まれ、入山から下山までのコースは、生徒が自主的にガイドブックなりを参考にして計画されていました。多いときには六コースくらいが候補に上がって、生徒間の自主投票で決められていました。もちろん冬や春の合宿にしてもそうです。こうした自主的な運営が伝統なのだろうというのが、最初の印象でした。ちょうど私の赴任に合わせて、若手の芝崎茂弥先生も赴任して、通常学校運営の中でも山岳部顧問というのはなかなか決まらないものですが、このときはすんなりと決定したものでした。前任からの引継ぎは多少ありましたが、歴史はプッツリと切れて再構築されたようなもので、私は生徒の自主運営を尊重していこうと思ったものでした。
 赴任してまもなく、そのときの三年部員が言うには、まず南アルプスの北部を縦走して、翌年に南部を縦走して、さらに三年目に北アルプスを登らせたいという後輩指導の意向がありました。三年部員も夏山合宿までは現役山行を続けて、それで引退するという慣例はすでに敷かれていたように覚えています。ですから初年の八十五年の夏は、北沢峠から甲斐駒ヶ岳を往復して縦走を始め、仙丈ヶ岳・北岳・間ノ岳・農鳥岳・塩見岳を登って三伏峠まで。翌年は、伝付峠から荒川岳に登って、赤石岳・聖岳を縦走して光岳まで。そして三年目に北アルプスの槍、穂連峰から水晶岳まで縦走し、雲ノ平に降りてから薬師岳を往復するという合宿が組まれました。三年先までの目標を計画通り実行できたということです。
冬合宿、春合宿についても、同じように生徒の希望を通してきました。ただ思い起こせば、計画山行(公式山行)は職員会議を通過した後、県の高体連登山部の承認を得る必要があるのですが、八十七年の春合宿の白毛門から朝日岳への縦走などでは、過去に白毛門頂上付近で雪崩事故があったから注意するようにという程度の助言は受けたことがありました。同じように、九十二年春の石川・富山・岐阜県境の笈ヶ岳の計画でも、埼玉の高体連職員はこの山の登山経験者がいなくて、やはり注意を促されたことはあります。問題があったといってもその程度のものでした。県内の高校山岳部ではやはりかなり秀でている山行を実践してきたものです。
 私自身は、それこそ子供の頃から列車の時刻表と地図を見比べながら、登山に限らす知らない土地を見聞するのは趣味のようなものでした。それが高じて、四季を問わず山登りをし、さらに徒歩旅行も行ってきました。引率する合宿や山行は、私自身のことを言えばすでに登っている山ばかりであって、できるだけ生徒の希望に添いながらも、自分でも楽しんで登ってきたということになります。
 積雪期の合宿に付いては、雪崩の事故が最も怖いことですから、幕営地は必ず樹林帯の中に求めるようにしてきたという程度だったでしょうか。
 年におよそ八回から十回程度の引率山行を、十年間続けてきたわけですし、それ以前の高校部活の引率もありますから、今となっては記憶がかなり混同しています。それでも、八十八年夏のヤブ漕ぎの平ヶ岳縦走だとか、春の笈ヶ岳(登頂は大笠山まで)の登山などはやはり印象に残ったものになっています。
 そもそもこの笈ヶ岳の計画にしても、確か生徒の方から、春山合宿に白山に行きたいという希望があって、それはあまりにも無謀であると。あそこは北アルプスと全く同じ条件の山ですから不可能です。ならばその尾根続きの笈ヶ岳ならどうかということで、決まったものだと記憶しています。生徒全員にアイゼン装備はなかったのですが、ワカンの爪を引っ掛ければ多少のクラスト残雪は大丈夫だろうという思いもありました。しかしなかなかの難敵だったのは確かなことです。豊富な積雪と、大きな雪庇の稜線というのは、やはり福島の安達太良山や吾妻連峰とは比較にならないものだったのは確かなことでした。
 入部してくる生徒というのは、山岳部に入って初めて登山をするようなものです。新入生歓迎山行で気をよくしたものの、次の歩荷訓練で苦しい登山を経験して、いつ辞めてしまおうかと考え始めるのも通常のことです。それでも夏山合宿が成功すればまた次の目標もできて、今度は積雪期の登山をしてみたいと思いはじめます。最初はひ弱だなあと思われた生徒も、ほんの短期間の間に目を見張るように成長して、その驚きや発見は、生徒から学んできたようなものでした。当時の私は四十歳代半ばから五十歳代に掛けての期間でしたが、私も若いときにはこの子供たちのように成長したのだろうかと、自問自答したものです。それに同期の顧問の芝崎先生の影響で、高校生らしい簡単な沢登りを始めようとか、先の平ヶ岳のヤブ漕ぎ合宿などはどうだろうかとか、生徒たちへの提言もありました。そう言えばこの平ヶ岳の山行というのは、新入部員がわずかに二人しか入部しない年のことでした。夏山合宿は二年と三年の経験部員だけになって、ならば例年よりは少しチャレンジ的な合宿にしようという経緯だったかと思います。そしてその翌年には、十五人近くの新入生を迎えるということになり、主力の二年不在のなかで、顧問はコンロの付け方から教えたということもありました。またこの年の冬休みには、私と芝崎先生はネパールのトレッキングに出かけてしまって、冬合宿は翌年一月半ばの連休を利用して、スキーとラッセル訓練になってしまったこともありました。
 私が生徒を指導した期間は、幸いにも大きな事故は一つもなかったのですが、赴任の最後の頃に、卒業したOBが山で遭難死してしまったことだけは、とても心を痛めております。指導期間中は、できるだけ山登りのよさを生徒に分からせて、彼らがそれを糧に登山を理解して欲しいと思ってきました。きっと彼らの心には、当時の山登りがいつまでも焼きついているものだと思っています。

熊井昌男・山行一覧
一九八五年
新歓・谷川岳 歩荷1・三頭山 歩荷2・武甲山
夏山・南ア北部 北沢峠―甲斐駒ヶ岳―北沢峠―仙丈ヶ岳―両俣小屋―北岳―間ノ岳―農鳥岳往復―塩見岳―三伏峠―塩川小屋
秋山・両神山 歩荷3・生藤山 冬山・日光白根 春山・巻機山

一九八六年
新歓・妙義山 歩荷1・蕎麦粒山 歩荷2・大岳山
夏山・南ア南部 田代入り口―伝付峠―二軒小屋―荒川三山―赤石岳―聖岳―茶臼小屋―光岳往復―畑薙ダム
秋山・男体山 歩荷3・丹沢山 冬山・北八ヶ岳 春山・白毛門―朝日岳

一九八七年
新歓・谷川岳 歩荷1・鷹ノ巣山 歩荷2・武甲山
夏山・北ア 上高地―横尾―奥穂高往復―槍ヶ岳―三俣山荘―水晶岳―雲ノ平―薬師峠―薬師岳往復―折立
秋山・両神山 歩荷3・川苔山 冬山・日光白根 春山・巻機山

一九八八年
新歓・乾徳山 歩荷1・御前山 歩荷2・酉谷山 
夏山・平ヶ岳 桧枝岐―会津駒ケ岳―御池―尾瀬沼―セン沢遡行―燧ケ岳往復―至仏山―平ヶ岳―尾瀬口
秋山・大源太山 歩荷3・大岳山 冬山・土樽スキー 春山・黒姫山

一九八九年
新歓・三ツ峠山 歩荷1・鷹ノ巣山 歩荷2・有馬山
夏山・南ア南部 畑薙ダム―椹島―荒川三山―赤石岳―聖岳―易老岳―遠山川―本谷口
秋山・仙ノ倉山 歩荷3・堂平山 冬山・安達太良山 春山・磐梯山

一九九〇年
新歓・両神山 歩荷1・川苔山 歩荷2・武川岳
夏山・北ア 新穂高温泉―双六岳―三俣蓮華岳―五郎沢―雲ノ平―薬師岳―五色ヶ原―平小屋―黒部ダム
秋山・那須連峰 歩荷3・大岳山 冬山・吾妻連峰 新人大会・巻機山 春山・根子岳

一九九一年
新歓・滝子山 歩荷1・武甲山 歩荷2・酉谷山
夏山・朝日連峰 祝瓶山荘―祝瓶山―大朝日岳―金玉水(テント破損)古寺鉱泉
秋山・谷川岳 歩荷3・三頭山 冬山・鉢盛山 新人大会・巻機山 春山・大笠山

一九九二年
新歓・乾徳山 歩荷1・鷹ノ巣山 歩荷2・丹沢山
夏山・南ア北部 黒戸尾根―甲斐駒ヶ岳―仙丈ヶ岳―北岳―農鳥岳往復―塩見岳―三伏峠―塩川小屋
秋山・女峰山 歩荷3・大岳山 冬山・西吾妻連峰 新人大会・安達太良山 春山・会津駒ケ岳

一九九三年
新歓・荒船山 歩荷1・御前山 歩荷2・武川山
夏山・北ア 室堂―立山往復―剣岳往復―薬師岳―黒部五郎岳往復―折立
秋山・谷川岳 歩荷3・棒ノ折山 冬山・高妻山 新人大会・安達太良山 春山・巻機山

一九九四年
新歓・両神山 歩荷1・川苔山 歩荷2・三頭山
夏山・北ア 湯俣―水晶岳―三俣山荘―高天原・赤木沢往復・黒部五郎岳往復―笠ヶ岳―新穂高
秋山・武尊山 歩荷3・三ツ峠山 冬山・安達太良山 春山・磐梯山



1996年

ワンダラー VOL28 一九九六年九月発行 一一八ページ
一九九五年
 秋山ビバーク山行 那須岳 十月二十八日〜二十九日
 第三回歩荷訓練 鷹ノ巣山 十一月十九日
 冬山合宿 黒姫山 十二月二十三日〜二十五日
一九九六年
 新人大会 安達太良・箕輪山 二月十八日〜二十日
 春山合宿 四阿山 三月二十三日〜二十五日
 新入生歓迎山行 上越・大源太山 五月十一日〜十二日
 第一回歩荷訓練 伊豆ヶ岳 六月二日
 第二回歩荷訓練 雲取山 六月二十三日
 夏山合宿 北アルプス・槍穂連峰〜三俣蓮華岳〜薬師岳 七月二十一日〜二十七日

 新入生歓迎山行は越後湯沢の大源太山だった。朝川越を出発して、昼過ぎに大源太キャニオンの旭原に到着し、この日は三十分歩いただけで林道に幕営。五月になっているのだが、林道付近は残雪があり、雪合戦をして遊んだと報告されている。さて翌日は雨になっていた。林道から登山道を三十分ほど歩いたのだろうか。尾根取り付きのための橋が、増水のために渡れないとあり、そこで山行は中止になってしまった。夏ならば簡単に飛び石で渡れる沢であっても、五月には増水のために徒渉ができなくて、全く敢え無く山行中止になってしまう場合もある。
 夏山合宿は、この数年は北アと南アを交互に行っているようだ。この年は北アルプスの槍穂連峰から三俣蓮華岳〜薬師岳の縦走を行った。上高地から入山して、横尾をベースに穂高岳を往復した後、槍ヶ岳から薬師岳に登り、折立に下山している。

北アルプス夏山山行
上高地〜横尾(泊)〜奥穂高岳〜横尾キャンプ場(泊)〜殺生ヒュッテ(泊)〜槍ケ岳〜三俣蓮華岳〜黒部五郎小屋(泊)〜黒部五郎岳〜北ノ俣岳〜薬師峠キャンプ場(泊)〜薬師岳〜太郎平小屋〜折立(泊)
【1日目】
 北アルプスの玄関口である上高地に着いてから、OBの方からの差し入れのすいかを抱き、梓川沿いに歩き始めた。だいたい十分程度で他の部員とすいかを持つのを交代しながら歩いた。幸いこの日の行程は、平坦な道であったため頑張れたが、登りの登山道ですいかを抱きながら歩くことになったら、さぞかし大変であったろうと思う。横尾についてから、すいかはすぐに、みんなの胃袋におさまることとなった。

【2日目】
 テントや荷物は横尾キャンプ場に置いておき、サブザックをしょって奥穂高岳へと向かった。涸沢ヒュッテを過ぎたあたりから、雪の積もった涸沢カールの中を歩いた。涸沢カールを過ぎてしばらく歩いたあたりから急な登り道となり、一時間半ほど登っていくと穂高岳山荘が見えてきた。ここから奥穂高岳への道のりは、岩がごろごろしていて急な道のりであった。富士山に次ぐ標高を誇る奥穂高岳は壮麗で堂々とした趣のある山であった。

【3日目】
 横尾から槍ヶ岳方面へ向かって歩き始めた。前日はサブザックでの行程であったので、余計にザックが重く感じる。梓川の支流の槍沢に沿った上り道を黙々と登り、岩がごろごろしたキャンプ場(殺生ヒュッテ)に着いた。

【4日目】
 真近に見える槍ヶ岳に向かって歩き始める。槍ヶ岳山荘で荷物をすべて降ろし、くさりを使って槍ヶ岳頂上へ向かう。誤って滑れば、大けがをしかねないような場所であるため慎重にゆっくりと登っていった。頂上はあまりスペースがないため、十分程周囲の壮大な景色を楽しみ、槍ヶ岳山荘へと戻った。この日の行程は西鎌尾根沿いを歩くコースでアップダウンはそれほどなかったが、非常に暑かったことや歩く距離が非常に長かったことから疲れがたまってきていた。双六岳は巻いて、三俣蓮華岳を登りきり、そこから一気に下ってようやく今日の宿泊地である黒部五郎小舎にたどり着いた。

【5日目】
 黒部五郎小舎を出発し、二時間余りで黒部五郎岳頂上へたどり着いた。記念の集合写真を撮ってから太郎平小屋へと歩き始めた。途中で赤木岳や北ノ俣岳でアップダウンがあったが、順調に歩くことができ、予定通り薬師峠キャンプ場にたどり着くことができた。

【6日目】
 荷物はキャンプ場に置いておき、今回の山行の最後の名山である薬師岳へと向かった。樹林帯を抜けると、岩がごろごろした延々と道が続き、登山道を登りきると、三百六十度の大パノラマが広がっていた。頂上、風が強かったが、景色の美しさは格別であった。それとともに、山岳信仰の山である薬師岳の神々しさもなんとなく感じることができたように思う。

【7日目】
 トレッキング最終日は、ひたすら下り続ける行程であったため、息が切れることはなかったが、ひざがだんだん痛くなってきていたので、とにかく早く下りきりたい思いに駆られていた。昼頃には折立に着き、午後はボーっと過ごし、疲れを癒すことにした。

【8日目】
 折立からバスで延々と二時間揺られ、富山駅に着いた。下界についてからの楽しみは、なんといっても食事である。駅で弁当やおやつを買い込み、電車の中で食べながら、ささやかな至福の時を感じていた。鈍行列車に何時間も揺られ、無事一週間ぶりの自宅に着き、夏山山行は終了したのであった。(合田知之)

 ところで、合宿に参加しない三年やOBが、合宿メンバーに差し入れをすることは慣例になっているのだが、夜行列車の新宿駅ホームの様子が、こう報告されている。
〈二十三時五十分の電車に乗るのに、二十二時集合は早すぎるような気もしたが、乗り遅れたら洒落にもならないから、仕方がない。そうこうしているうちにOBの方々が差し入れを持って登場してきた。しかしその差し入れには全く驚かされた。それは幾つものスイカ。メロン、パイナップルの各種缶詰に始まり、物凄い量なのだ。中でも驚かされたのが、ビーチパラソル、ネコ缶、パンストである(一体何に使えというのだろう)。そして僕たちはOBの熱唱する校歌に送られて北アルプスへと出発した〉
 さてこの年はこの膨れ上がった差し入れを持ったまま合宿は成功したようだが、翌年は、この「駄物」といわれる荷物のおかげで、合宿は大失敗している。先輩が後輩に与える「ふざけ」は行き過ぎると、余計な負担をもたらすということかもしれない。

二年部員 門田大生 藤間健太 合田知之 市川雅稔 山際邦岳 得丸重夫
顧問 野口孝 春日敬行 福原勇 岡田明 関根俊彦


大荷物の夏山合宿         合田 知之(一九九八年卒)

 私が川越高校に入学し、どの部活に入部しようかと考えていた時に、ふと、この機会に本格的に登山をしてみたいという気持ちにかられ、山岳部に入部することに決めました。
 普段の部活では、伊佐沼までのランニング、サッカー、野球、富士見櫓での歩荷訓練、泥警など、バラエティーに富んだ活動があったのが思い出されます。山行については、特に、高校一年の時に参加した南アルプスでの夏山山行が印象深く記憶に残っています。

★縦走コース概略(一九九五年夏)★
身延〜転付小屋〜二軒小屋(泊)〜千枚小屋(泊)〜千枚岳〜悪沢岳〜荒川岳〜赤石岳〜百間洞山ノ家(泊)〜前聖岳・奥聖岳〜聖平小屋(泊)〜上河内岳〜茶臼岳〜光岳・光小屋(泊)〜易老渡(泊)

 出発の日に新宿駅で集合時に驚いたのが、なんといっても、OBの方々からの差し入れでした。すいかや缶詰、雑誌、ビーチ用のパラソル、使いかけのこしょうなど、ただでさえ1週間分の荷物で重いのに、OBの方たちはいったいなにを考えているんだ……、という気持ちにかられたのを覚えています。幸い、高一であった私は差し入れの荷物は持たずに済みましたが、高二の時は、一日目はすいかを抱えて歩くことになりました。苦労して歩いたかいがあり、すいかはとてもおいしかったのですが、食べてなくなるもの以外は勘弁してほしいなあと思いました。あまりに差し入れが多かったので、高三のときからは、山行の邪魔になるような差し入れは禁止となりました(笑)
 高一のときの夏山山行では、私が一番バテてしまい、一日目の転付峠越え時に三年生の先輩に荷物を持っていただき、非常に助かりましたが、残り行程を無事歩きとおせるのかどうか、その日の夜は非常に不安な思いをしたのを覚えています。その後の行程では、とにかく前を歩いている先輩に遅れないようひたすら付いて行くという感じで、景色を楽しむ余裕はほとんどなく、休憩まであと何分! ということや、もうこの山行から帰宅したら、こんなつらい山岳部はやめよう! 怪我をしたら、ヘリコプターで帰れるかな? などと、いつも歩きながら考えていました。
 しかし、夏山合宿から帰宅したら、山行中に山岳部をやめようと考えていたことはすっかり忘れ、気づいたら高校三年の夏の引退まで山岳部を続けていたのでした。高校二年あたりからは、景色を楽しむ余裕も出てきて登山の醍醐味が少しずつ分かるようになった気がします。
 今、思い返してみると、山岳部での三年間はつらく苦しいことも多かったけれども、南北アルプス縦走など、なかなか普段の生活ではできないことを経験できたので、山岳部を選んでよかったと思っています。これからも、山岳部で得た経験や知識を生かして、山に登り続けていきたいと思います。



山岳部OB会設立の頃    岩堀弘明(一九五六年卒)

 四十歳を過ぎて母校富士見中学校PTA会長を任されていた昭和五十七年、川越高校山岳部の先輩である金子勇二先生が教頭として赴任してこられた。先生は海外含め多くの登山経験を持っていた。しかも今でも山を歩くという。金子先生から山の話を聞かされていくうち、諦めていた山への郷愁が少しずつ募っていった。最初はPTA役員と、その後も誰かを誘って、谷川岳、大菩薩峠などにご一緒した。金子先生と山に行くのは、うれしいことだった。高山植物や植生の話など山の話はどれも楽しい。あの毅然とした先輩の姿に敬愛の念を持ち、多くのことを学んだ。
 その頃のことだ。五年後輩の「幸すし」の長島威君の仲間は、高野七郎君を中心として山岳部OBがまとまっているという。聞けば彼らは、どの年代も南アルプスに行っている。こういう話をしていると同窓意識が生まれ皆親しくなる。必然的に一緒になってOB会をつくろう、ということになっていった。
 平成四年、川高山岳部OB会の親睦山行は、金子勇二先輩を奉って、浅間隠山を選び十七人が参加した。翌年は日光白根山に行き、平成六年からは春、秋と年二回になった。こうして山行を重ねる一方、今は亡き澤田敏夫君の尽力により、高校三回から二十回卒までの名簿ができた。その後三十回までは鷹觜勝之君が補填してくれている。  
 平成八年十一月二十三日、OB七十三名、顧問OB二名の参加を得て、川越プリンスホテルで盛大に設立総会を行った。このとき私は、旧知の浅海弥一郎さんが、昭和五年卒の先輩であり、川中時代に登山部として、北アルプスや富士山にまで行っていることを知らされた。お話を伺うと、当時の川中登山部顧問の先生方が、生徒に山の奥深さを教える気概を持っておられたことが分かる。
 私の後輩年代の山岳部員を指導した松崎中正先生とは、やはりこの頃に、先生自身の生涯登山をまとめられた本の出版をきっかけに知り合いになった。登山家としても私たちの大先輩に当たる人だった。
 そのOB会は、若手の宇津野、加島君。彼らの先輩高野七郎君ら幹事団で、運営されている。もちろん松崎先生も、退職後も盛んに山に登られ、OB会にも積極的に参加され、私たちは知らずしらずのうちに先生によって山にいざなわれ、山の世界に啓発されたような気が する。OB会の内容の充実は先生に負うところが大きい。






Wanderer Vol.28 装備表から

1997年

ワンダラー VOL29 一九九七年九月発行 一〇二ページ
一九九六年
 秋山ビバーク山行 日光白根山 一〇月一三日 
 第三回歩荷訓練 熊倉山 一二月一日 
 冬山合宿 男体山・女峰山 一二月二五日〜二八日 
一九九七年
 春山合宿 至仏山 三月二五日〜二八日 
 新入生歓迎山行 大菩薩峠 五月一一日 
 第一回歩荷訓練 御前山 六月一五日 
 第二回歩荷訓練 中止 六月二九日 
 夏山合宿  北アルプス裏銀座 烏帽子岳〜水晶岳〜鷲羽岳 七月一九日〜二六日 
 他に個人山行は八月の岐阜・白山など。

二年部員 柏木寛之 上原佳久 笠原昌紀 吉田知矢 川名悟 中屋隆博 福島伸介 谷友輔 中井裕樹 潮田広行
顧問 関根俊彦 春日敬行 佐賀博 新堀聡 矢谷真二郎


Wanderer Vol.29 表紙の槍ヶ岳

 春山合宿は、戸倉から鳩待峠までの五時間にも及ぶ林道歩きのあと、至仏山に登頂。
〈山頂直下の登りは暑くてハイネックのシャツが邪魔なくらいだったが、山頂に着くとすぐに冷えた。快晴ではなかったので展望は余りなかった。山頂でパサパサの菓子パンを食べていると山スキーヤーが登ってきたが、昼食を済ませてそんなスキーヤーを横目にいそいそと山頂を後にし山ノ鼻への大斜面を下っていった。野口先生だけはスキーだったが、斜面はけっこうガリガリで、先生は何度もすっ転んでいた〉
六月下旬の第二回歩荷訓練は谷川岳が予定されていた。前日土合駅で仮眠したが、翌日は雨で中止。この梅雨時期には近郊の奥多摩、奥武蔵で歩荷は行われていたが、上越の歩荷はアイデアは良かったのだが残念だった。
 夏山合宿は北アルプス高瀬ダムからの入山だったが、登山道崩壊のために計画通りには行かなかった。当初、湯俣から竹村新道を登って真砂岳に登頂する予定だったのだが、稜線に出る直前の南真砂岳からの登山道に崩落があって、前進不能。残念ながら来た道を一泊かけて高瀬ダムまで戻る。そこから再び裏銀座のブナ立て尾根を登って、野口五郎小屋で幕営。
〈ふと思って、見晴らしのいいところへ行くと、向こうに山脈が壁のように立っていた。その奥からは雲が沸き起こっている。こんな景色を見ていると、地球ってなんて大きいんだろうと思う。しばし感動に包まれて厳粛な気分になった僕だったが、食事の準備のときには、疲労のために怒りっぽくなってしまうのだった〉
 翌日は水晶岳〜鷲羽岳と往復して、下山はやはり来た道を戻り高瀬ダムに下っている。
 合宿では、この真砂岳へ登れなかったという理由が、問題になった。顧問の関根俊彦先生は、部報にこう書いている。
〈今までに登った山には様々な思い出があるが、今年の夏山合宿でも忘れられない山が一つ増えた。北アルプスの真砂岳である。その日は湯俣温泉から真砂岳を経由して、野口五郎小屋までのコースであった。朝四時に出発し予定より少し遅れたが、昼には南真砂岳を通過し、あと三十分もすれば真砂岳に到着するはずであった。ところが道が崩れていて前に進めない。もともと危険箇所であり、古いロープが張ってあった。そこがさらに崩れたらしい。矢谷先生が渡って確かめてみた。そして顧問が相談し、一年生も三十キロ近く背負っている。ザイルが四十mで少し足りないなどの理由で、その危険箇所を全員が無事通過するのは困難だと判断し、湯俣温泉に引き返すことにした。だが八時間かけて登った山道である。下山でも六時間かかる。今度は日没前に湯俣温泉まで到着できるか不安であった。幸い夕立もなく日の長い時期だったため、午後七時には全員無事に湯俣温泉に到着できた。一日十五時間行動になってしまった。
 今回の主な反省点を挙げてみたい。
1、山行のルートは一般的なものにする。今回のルートもエアリアマップに載っているが、途中の標識もなくすれ違うパーティはほとんどなかった。
2、エスケープルートを常に考えられるルートにする。今回は野口五郎岳〜三俣蓮華岳〜笠ヶ岳〜新穂高温泉を予定したが、逆コースにしておけば、選択の幅があった。
3、帰りの列車は、座席指定を取らない。今回は早々にキャンセルを決断したから良いが、こだわると判断を狂わせる可能性がある。
4、駄物を持参しない。高瀬ダムから烏帽子小屋に登るとき時間を節約するために、駄物をデポした。そのときの駄物の量は想像を超えていた。
5、OBからの差し入れは軽く小さく、しかも役立つものにする。差し入れに注文をつけて申し訳ないが、遊び心が体力のいたずらな消耗を招き、今回のように予期せぬアクシデントがあると、取り返しがつかない結果を招かないとも限らない〉

 もう一人の顧問の矢谷真二郎先生も、こう報告している。
〈山岳部の顧問になったばかりの私にとって、夏合宿はカルチャーショックの連続であった。見送りに来てくれたOBたちがくれたスイカ、パイナップル、たくさんの缶詰の量にまず驚いた。共同装備が軽めなのにも関わらず、ザックがやたらと重い一年生たち。一週間程度の合宿でそんなに重たいんじゃ、山を楽しめないよと、言いたくなってしまった。そういえばOBの大学生が、私みたいに山のクラブに入ったケースって、少ないみたいだからなあ。重い荷物のために、山イコール苦行という印象しか残ってないんじゃないのかなあ。私自身は軽量化が好きだった。二十キロ程度で二週間山に篭っている自信もある。今の三年生は、合宿後の重さが十キロ以下になっていて、さすがとは思ったが。
 重い荷物はとにかく山をつまらなくする。足はもつれ、背骨も痛い。第一体を壊しやすい。さらに今回の一年生の歩き方を見ていて痛感したように、山のガレ場でふらふらしていて非常に不安になる。重いものはバランスを崩しやすい。そう言えば埼玉県のとある県立高校が数年前にキレットで落っこちて死亡したのも、重荷が原因だった。
 高校山岳部の事故の大半は、重荷が原因だと思うよ。重荷さえなければ、今流行りの中年ハイカーのように、自由気ままに山を楽しめると思うよ。もう一度考え直そうよ。ちょうど君たちがダムのキャンプ場で無駄な荷物をデポしていったように。そのときの、異様に盛り上がっていた君たち同士の教えあいが、私にはとても心強く感じられた。
 山を楽しもう、苦行とするのではなく。そこに高校山岳部の本当の意味があるんじゃないの? ところで共同装備の重さは、二年、三年、一年の順番で重くしていった方が良いと思う。あと冬山山行でも、新聞紙は要らないと思う〉
 この合宿に三年部員として参加したリーダーも、
〈今年の夏山は、山に対しての考えが甘くなっていたと感じる。まず山の準備の段階から表れていた。山の計画を時間をかけず、一人一人がしっかり理解していなかったと思う。次に体力面だが、部員数が多いため、一人当たりの装備量が少ないにも関わらず、ペースは遅れ、バテる者もいた。その結果、真砂岳の登りの途中で足止めをくらい、引き返すことになったのではあるまいか〉
 往復で三日間のロスはいい教訓になった。




1998年

ワンダラー VOL30 一九九八年九月発行 九三ページ
一九九七年
 秋山ビバーク山行 両神山 
 第三回歩荷訓練 棒ノ折山 一一月二三日 
 冬山合宿 四阿山 一二月二五日〜二七日 
一九九八年
 春山合宿 中止 三月二五日〜二八日 
 高校総体予選 大滝村・白泰山 五月八日〜十日 
 新入生歓迎山行 雲取山 五月三十一日 
 第一回歩荷訓練 武甲山 六月二八日 
 夏山合宿 南アルプス 北岳〜農鳥岳 七月二一日〜二十四日 
 高校総体全国大会 徳島県・三嶺 八月一日〜六日

二年部員 日置陽 永田祐介 林修一郎 松永尚明 釜田淳志 中原邦彦 平原力 藤井宏騎 槙田純一 日下充 永松隼一 松浦学 上辻秀治 菊地敦士
顧問 関根俊彦 春日敬行 斉藤和弘 室田栄治 関根修


Wanderer Vol.30 表紙の鳳凰・地蔵岳

 最後の冬合宿が行われたのが、この年の部報に報告されている一九九七年十二月の四阿山になった。翌年からは二月に高体連が主催する冬季講習会が合宿の代わりとなっている。引率できる顧問がいなくなったというのが、大きな理由らしい。しかも残念なことに、この年は暖冬だったようで、クリスマスだというのに積雪がない。合宿では四阿山に向かったがほとんど雪もなくて、一日で根子岳も往復して、合宿は短縮された。
 また春山合宿では安達太良山が計画されていたが、運も悪く鉄山付近でガスによる死亡事故が発生し、食糧計画もすべて準備が整っていたのだが、前日に中止になったということだ。しかも三月の春山合宿も翌年から同じ理由で計画が組まれなくなり、最後の春山合宿は前年(一九九七年)三月の至仏山が最後になっている(その後春山合宿だけは二〇〇二年に再開された)。つまりこの年から数年間は、積雪に登山するのは、二月の冬季講習会だけになった。
 夏山合宿は、その後の高校総体の予定があったのだろうか、短縮されて南アルプス白根三山の縦走で終わった。
 その高校総体の全国大会は、八月一日から一週間、五月の予選を通過して出場した大会だった。四国徳島の山で行われた。登山活動の多くが審査され、得点化されているようだ。
〈さらにバスに乗って矢筈幕営地へ行った。さっそくテント設営の審査があり、結果はペグと張り綱がしっかりできておらず、テントの入り口を閉め忘れ、最悪の出来であった。次の食事の審査に入った。ここではほとんど減点はなかった……。
 イザリ峠の登りが一番きつかった。そういう所に審査員がおり、隠れて見ている審査員もいた。イザリ峠で昼食後、交流会があった。同じ班の学校はほとんどインターハイの常連で、七年連続出場なんていう学校もあった。またどこの学校も、部員不足であり困っていた〉
 羽田から空路往復し、山中三泊。縦走路の最高峰の三嶺は標高一八九三mで、
〈低山に分類されるような高さだが、森林限界を越えており、その山容はアルプスにあってもおかしくない程の美しいものであった……。遠くには西日本第二の高峰剣山が見えたのだが、山頂直下まで林道が整備されているのを見たとき、日本の山の将来が心配になった〉
 と報告されている。埼玉からは所沢高校も出場したようで、優勝は山口県だった。



1999年

ワンダラー VOL31 一九九九年九月発行 七五ページ
一九九八年
 秋山山行 甲武信岳 一一月一五日 
一九九九年
 新人大会(雪上訓練) 安達太良・箕輪山 二月一三日〜一五日 
 新入生歓迎山行 熊倉山 五月三〇日 
 歩荷訓練 六ツ石山 
 夏山合宿 北アルプス 槍ヶ岳 
 他に個人山行は穂高岳、剣岳

二年部員 渡辺耕祐 小林祐太 得丸光夫 洞口夢生 柳田亮介
顧問 関根俊彦

 冬山合宿は行なわず、二月の雪上訓練を合宿としたようだ。高体連主催のこの時期の訓練は恒例となっている。大宮から夜行バスで現地に行き、箕輪山中腹で雪洞一泊。翌日吹雪のなか途中まで登り、下山して温泉に二泊目。最終日も訓練の後下山。天候が厳しいシーズンのラッセル訓練となっている。
 夏山合宿は上高地から槍ヶ岳。信越線も夜行列車がなくなり、早朝に川越を出発して、横尾で幕営。翌日頂上を目指し、
〈ちょっとロック・クライミングふうだった。登っている途中小さな落石があり、かなり危なかった。山頂は狭く立つのも難しかった。水の不足と体力的な問題で予定が変更になり、そのまま帰ることになって、けっきょく二泊三日で終わってしまった〉
 合宿前の歩荷訓練も一回になり、夏山も短縮し、部活が縮小している。
 この年の三年は、けっきょく一年のときに失敗した北アの夏山合宿を経験し、二年では南アルプスの北岳から農鳥岳の短縮合宿。三年で槍ヶ岳への二泊三日の合宿を経験したことになった。北アルプスの失敗で、一週間の合宿は高校生には難しいと判断したのは顧問であり、時代の流れなのだろう。それでもこの年の三年部員にとっては、一年の失敗合宿が最も記憶に残っている山行のようであり、
「再び登り返した野口五郎岳や水晶岳、鷲羽岳は天気にも恵まれて、楽しい合宿となりました」
 と話している。高校山岳部は、生徒の気質や顧問の裁量に左右されることは仕方がない。



山岳部過渡期の登山        渡辺耕祐(二〇〇一年卒)
 
 私の入学した年の前年に最後の冬山、そして2年前に最後の春山が行われたと聞いたのは、卒業して大分経ってからのことであった。実際、在籍中の3年間で一度も行われなかった冬山・春山の存在はとても遠いものであった。そして、よく見れば前年の夏合宿は1週間もあるではないか。私にとっては、川高山岳部の夏合宿はいつも3泊4日であった。つまり、川高山岳部史上もっともヌルい時代に私はいたのかもしれない。
 私は入学前の中学生時代に、父に連れられて甲斐駒の一般ルートくらいは登ったことがあった。けれど本格的な登山とは縁が遠い。たとえ冬・春の合宿がなかったとしても、私にとって山岳部の部活は結構たいへんな思いをしたというのが、正直なところである。
 だがそんな思いも序盤だけで、上級生になるにつれて夏合宿だけでは足りずに、父と個人的に北・南アルプスへ登山へ赴いた。

 初めは先輩について下を向いてハァハァ息を荒げるだけであった。しかし数々の山行をこなすうちに「なぜ山に登るのか」という問いに、いつしか私は「皆と騒いだり苦しんだり、そういう時間のためかもしれない」と思うようになった。山そのものに対する感動も大きかったが、共に登れる仲間の存在が非常に大きかった。当時、登山のイロハもよく知らなかった私たち1年生は、下界での机上講習はあまりなかったと思う。普段のトレーニングは技術や勉強よりも、体力作りが中心だったからだ。先輩に連れられて伊佐沼まで走った私は、先輩について行こうとして無理に頑張ったせいか、吐きそうになりヘバってしまった。後に荒川スペシャルと呼ばれる荒川までの往復ランニングにまで至り、当時は何回ランニングしたかわからなかった。そして体力作りの一環として行われていたサッカーも、休憩なしで延々と夜までやっていたものである。富士見櫓での歩荷訓練も山行前を中心に行っていたが、何故かこうした体力作り中心のトレーニングばかりであった。もう少し知識や技術の勉強会をしても良かったのではと思うが、行った現場で実践しながら教わるのが当時であった。

 新入生歓迎山行で初めて行ったのが雲取山であった。このときの印象は今でも忘れない。山頂付近の草原のような風景を間近で見た私は、思わず顔がほころんでしまい、進む足も速まってしまった。下山後、バス停でバスを待っていたとき、時間がかなりあったので自動販売機でジュースを買って飲んだ。そのとき、関根俊彦先生に一喝された。まだ山行途中であり、こんなところでジュースなど買うな、捨てろ、と。私は大いに驚いた。登山もこんなスポ根バリバリの世界なのか、と。

 だが、関根俊彦先生には大いにお世話になった。私たちが夜テントでいつまでも話していると、よく怒声が飛んできたものである。しかし、山に対する思いはこちらにまで伝わり、当時の顧問の中でもっとも私たちの面倒を見てくれた先生であった。今思えば、いろいろと口うるさく言って頂けたのが有り難かった。叱ってもらわなければ非常に脆弱な体勢で山行を行っていたのは目に見えていたからである。

 私が確か3年生の頃、初めてクライミングの大会に川高山岳部が参加した。もちろんみんな未経験で、シューズすら履いたことがなかった。しかしあれよあれよと登ってしまい、なんと私はノーミスで決勝まで進んでしまった。決勝では惜しくも落ちてしまったが、クライミングの楽しさの一端を知るには十分な経験で、今でも余裕ができたら再挑戦したいと思っている。

 後に信州大学農学部へと進んだ私は、さっそくワンゲルへ入部した。海外遠征をするほどの登山組織も大学内にはあったが、私にそこまでの勇気はなく、中程度の登山活動を行うワンゲルへと入った。1年生の頃は松本に暮らし、常念岳を仰ぎながら毎日大学へ通い、週末は周りの山々へ登る生活をしていた。2年生からはキャンパスが松本から長野県南部に位置する伊那へと移り、今度は木曽駒を背にして仙丈を毎朝眺める生活へと変わった。大学ワンゲルでは夏に2週間程度の合宿を行い、先輩の中にも太平洋から日本海までアルプスを縦断する強者もいたりした。厳しい気候の中で春夏は爽やかな草原を歩き、秋にはヤブをこぎ、冬にはワカンを穿いてラッセルをするという3年間であった。窓を開ければ山があるという環境は私にとって至極最高な生活であった。
 大学卒業前にはマレーシアのマウント・キナバルにも行ってみた。在学中に岩をやりたいと思っていたが、バイクツーリングやレース、音楽にまで手を出していた私に、そこまでの時間も金もなかった。結局現在までロープワークを含む岩登りは未経験のままである。今の私は就職のため東京へ戻ってきてしまったが、正反対の環境に毎日が戸惑いの連続である。
 もはや私は山がそこにある環境に慣れきってしまい、東京という大都会に窒息しそうである。日々、信州へ逃避するチャンスを窺っている。

 しかし、川高山岳部でも大学ワンゲルでも苦労した点が1つだけある。新入部員の確保である。このことについては大分悩まされた。本当に人が入ってこなかったからである。幸い今の川高山岳部は私の時代と比べて人が増えているようではあるが、私の頃は本当に人が部活説明会にすら来なかった。規定の説明会以外にも2〜3回説明会を開催し、挙げ句の果てには山の料理を作ってご馳走するというとんでもない説明会まで開いたが、それでも来なかった。私が3年生になった年、新入部員は梅沢氏の1人だけであった。
 人が少ないということは非常に寂しかった。活気がないわけではなかったが、部室に行っても誰もいないことはザラにあった。大学ワンゲルでも同じ苦しみを味わったが、若年層の山離れを肌で感じた出来事であった。

 今秋、8年半ぶりに雲取山へ登った。新入生歓迎山行で登った頃にはなかった立派な避難小屋が建ち、背負ってきたテントの幕営に迷いながらも、フライシートを広げた。山頂到着後、皆で昼食のパンを食べたことがふと思い出された。思いの外暑かった下山後のバス停も、前泊でテントを張った登山口近くの砂利置き場も、ほとんど変わらずに残っていた。その後、三峰へ抜けた私は、秩父鉄道と西武秩父線に乗って東京まで帰った。横瀬から見えた武甲山は、かつて歩荷訓練で河原の石をザックに詰めて雨の中登った山だ。正面から見た山容は痛々しいが、裏から登ると素晴らしい山であった。当時は足がつって、雨も止まず、下りもヘトヘトで、帰りの電車でも爆睡していた。大学時代は峻険な山々に囲まれていたせいか、秩父の峰々が妙に新鮮に映った。
 正直、就職してから毎日が忙しく、なかなか山へ行く気も起こらなかった。最近になってようやく山へ目が行くようになり、川高時代に登った秩父や奥多摩の山へ、再び登りたくなった。今思えば、川高山岳部は私に登山の基本を、そして皆と山へ登る楽しさを教えてくれた。駅や雪洞で寝ることもなく高校生活を終えていたら、今の山に対する思いは生まれていなかった。
 川高山岳部は、確実に私の大事な一部分を形成してくれた。先生方、仲間、そして山岳部に感謝の意を表すと共に、これからも益々発展することを願っている。




2000年

ワンダラー BOL32 二〇〇〇年九月発行 六三ページ
一九九九年
 秋山 谷川岳 一一月十四日 
二〇〇〇年
 冬山 黒姫山 二月一九日〜一二日
高校総体予選 大滝村
 新入生歓迎山行 丹沢
 歩荷訓練 鷹ノ巣山
 夏山合宿 八ヶ岳 七月二一日〜二十四日

二年部員 矢笠嵐 藤森章光 川村慎一 柳瀬貴司
顧問 吉田立志 中村潔 関根修 関根俊彦 島田俊一

 高体連の冬山・雪上訓練は四人参加で少ない。バスで黒姫に着き、一日目はラッセル登行で中腹に幕営。二日目は登頂を下山してホテル泊。三日目は戸隠奥社を参拝して下山。
 夏山合宿は一三人参加。小淵沢から入山し、初日が青年小屋。赤岳〜横岳と通過して、二日目にオーレン小屋。荒天が続く。
〈やっとのことで赤岳の頂上に着いたが、天候は思わしくなく霧のため視界は不良であった。今日は出発の時間が遅かったため赤岳までノンストップで登り、疲労回復と水分補給に努めた。赤岳の頂上から数えて、一、二本過ぎた後、深い森林地帯に入ったのだが、雨が降ったのか湿っぽいのか、地面も倒木もとにかくよく滑る〉
 三日目は双子池。四日目に蓼科山を登って下山した。


現代山岳部の気風     顧問 吉田立志  

 私が、川越高校に赴任したのは七年前(一九九九年)だった。山岳部は前年度にインターハイに出場していて「すごいところに来てしまったな」というのが最初の印象である。部の雰囲気は、上級生から下級生に、自分たち山岳部の伝統・流儀がしっかりと受け継がれ、細かいことに顧問が口出しをする必要はなかった。唯一の悩みは、年により部員数の変動が大きいことである。私が赴任した年の新入部員はたった一名。責任感の強い熱心な生徒であったが、山岳部のルールをすべて一人で下級生に伝えることに苦労していた。逆に、全学年が参加する夏合宿の参加人数が二十三名になる年もあった。バスの乗車、テント場の確保、歩行中の安全確保など、思わぬところで頭を痛めた。
 最初の頃は、山岳部の活動だけでは物足りなく個人山行に出かけていた生徒もいた。勝手に出かけるので心配することもあった。しかし最近はまったくない。安心ではあるが、反面、寂しい気持ちも大きい。また、火気も最初の数年はガソリンバーナーを使用していたが、次第に取り扱いが楽なEPIのガスバーナーに取って代わった。
 普段のトレーニングはかなり熱心である。日頃は、放課後、部室に集まり市民グランドでサッカーやソフトボールをしているようである。地学部(探検隊)と対戦していた頃もあった。山行前は伊佐沼へのランニングが中心であり、もちろん富士見櫓でのボッカ訓練は受け継がれている。
 一年生が初めて参加するのが、新入生歓迎山行(五月)である。丹沢山、大菩薩峠、両神山などで行っている。共同装備も調理も上級生で分担し、一年生は見ているだけ。最近は鉄板を山に持ち込み、焼き肉をするのが恒例となっている。
五月の学総体(インターハイの予選)には二年生中心で参加している。ここ数年、甲武信岳方面で行われていたが、今年は関東大会、来年にはインターハイが埼玉県で実施されるため、今年は白泰山域と両神山域を歩く新しいコースが設定されている。生徒には活躍を期待するとともに、私も役員の一人として、大会が成功するよう努めたいと思っている。
六月には夏合宿に向けてのボッカ訓練合宿を行う。梅雨の時期なので、ほとんど雨との戦いである。以前は第一次ボッカと第二次ボッカが行われていたらしいが、最近では一回だけである。
 七月の夏合宿が三年生最後の山行になる。毎年、卒業生が川越駅に差し入れを持って見送りに来る。スイカに代表されるこの差し入れは、通称「駄物」と称され、年々豪華になり、生徒のザックの重量が増す原因となっている。
 地区新人大会(十月)は、埼玉県を東西南北の四地区に分け実施されている。各校の親睦を深めることが目的である。一泊二日で谷川山域や上州武尊山域で行われている。
 秋合宿は十一月末に行っている。本当は紅葉の季節に実施したいのだが、学校行事の関係でここでしか実施できない。悪天候で中止になることが多く、また寒さにも慣れていない時期でもあり、良い思い出は少ない。
 日帰り山行(十二月)は、冬場の活動が乏しいため数年前から実施している。奥多摩方面に出かけることが多い。
県新人大会(二月)は、戸隠山域と安達太良山域で交互に実施されている。初日はバス車中泊、二日目は雪洞泊、三日目は旅館泊とバラエティに富んでいる。ワカン(かんじき)による行動で、寒さも厳しくハードな大会であるが、各校(ベテランの顧問)が集まることにより安全を確保している。
 春合宿(三月)は、北八ヶ岳で行っている。雪もたっぷり残っていて、ワカンをつけた行動が中心になる。晴れたときの山の景色も、雪中歩行も最高であるが、天気が荒れれば、すべてが最悪になる。また、登山活動と並行して、三年前に赴任した森林教諭(本校OB)の指導のもとクライミングの活動も行っている。平日は学校にあるボードで練習し、休日にはパンプで練習を積んでいる。大会にも積極的に参加して優秀な成績を収めている。
 山岳部は他の運動部と違い順位を競わない。そのため脚光を浴びることは少ない。しかし部員は伝統ある山岳部の一員という自負を持っているようである。部長就任のときには「第何代部長、誰々」と言う挨拶が必ず聞かれるのもその表れであると思う。私自身も川高百周年記念誌により、山岳部の歴史を知り驚いた。今後もこの伝統を引き継ぎ、卒業してもなお山登りを続ける部員が増えるよう、山の魅力を伝えて行きたいと思う。


2001年

ワンダラー VOL33 二〇〇一年九月発行 六一ページ
二〇〇〇年
 秋山 雲取山
二〇〇一年
 冬山山行 二月一六日〜一九日 黒姫山 
 学校総合体育大会 甲武信岳 五月一二日〜一四日
 新入生歓迎山行 大菩薩 五月二七日
 歩荷山行 男体山 六月二三日〜二十四日
 夏山合宿 剣岳 七月二〇日〜二十四日

二年部員 海澤祐介 大和田達寛
顧問 吉田立志 石塚稔成 中村潔 関根修 島田俊一

 学校五日制で土曜日は朝から山に向えるようである。歩荷訓練は日光・男体山で行われたが、参加生徒は三人。土曜朝川越を出発し、志津小屋で宿泊。翌日雨天の中男体山に登頂し、中禅寺湖へ下山。日帰り温泉も各地に作られて、下山後の温泉入浴も恒例となっている。
 夏合宿は剣岳。初日は上越線経由で富山から室堂へ、雷鳥沢幕営。二日目に一ノ越から立山を縦走して剣沢へ。三日目はサブザックで剣を往復して、雷鳥沢へ。
〈しばらく危ない道を長く歩き、やっと“カニの縦這い、横這い”に着いた。前には九〇度近い岩肌。背面には文字通りの絶景が広がる。花を身近に感じつつ、ガシガシと登っていく。五〇mほど上に進むと頂上が見えてきた。山上でのひと時だ。気分は爽快、三六〇度の展望は素晴らしく、日本海と富士山が遠くに霞んでいる。近くには昨日歩き回った立山が見える〉
 最終日には、再び一ノ越まで出て、黒部平へ下山してアルペンルートで扇沢に出た。



2002年

ワンダラー VOL34 二〇〇二年九月発行 九六ページ
二〇〇一年
 秋山山行 那須・茶臼岳 一〇月二七日〜二八日
 日帰り山行 大岳山 一二月
二〇〇二年
 冬山登山新人大会 安達太良山 二月一六日〜一八日
 春山山行 北八ヶ岳 三月二十四日〜二六日
 登山競争大会 武甲山 四月二一日
学校総合体育大会 甲武信岳 五月一一日〜一三日
 新入生歓迎山行 丹沢山 六月一日〜二日
 歩荷訓練山行 谷川岳 六月二二日〜二三日
 夏山合宿 北アルプス 燕岳〜常念岳 七月二三日〜二七日

二年部員 村松直裕 菊地隆太 大石憲孝 島村実
顧問 吉田立志 中村潔 関根修 島田俊一


Wanderer Vol.34 夏合宿報告の表紙から

 二月の高体連雪上訓練は恒例で、夜行バスで安達太良山へ。冬山に参加しない部員も多く、今年は生徒四人と顧問一人。ラッセルはワカン隊とスキー隊に分かれているが、多くはワカン隊で、男子約百人に女子二人と報告されている。初日は箕輪山中腹で雪洞、二日目は温泉宿、三日目下山という恒例のスケジュールになっている。部報もこの年辺りから、ワープロ原稿が増えてきた。
 この年から春山合宿が復活。北八ヶ岳の縦走。川越出発は朝で、その日に渋ノ湯から稜線を越えて白駒池幕営。二日目は縞枯山まで縦走して双子池。三日目に親湯へ下山している。
 武甲山での登山競争は、高体連も協賛している大会で、影森の先の茶屋からスタート。一般の部は自衛隊も出場しているようで、高校の部参加は二三人。トップタイムは山頂まで五〇分ほどだそうだ。部員はこの大会に数人で参加したが、部員の大和田達寛さんが優勝。全国大会へも招待されたが、不参加だった。
 年一回が恒例となった歩荷訓練は谷川岳だったが、巌剛新道をラクダのコブまで登って、雨天のため下山した。
 夏合宿の北アルプスは燕岳から入山。一日目に大天荘まで。二日目はガスが濃いために槍ヶ岳方面の計画を変更して、常念小屋。ここで体調不良の部員は顧問と下山し、三日目は蝶ヶ岳から横尾。四日目に下山した。



2003年

ワンダラー VOL35 二〇〇三年八月発行 一一六ページ
二〇〇二年
 北部地区新人大会 武尊山 一〇月六日〜七日
 一二月山行 鷹ノ巣山
二〇〇三年
 冬山登山新人大会 黒姫山 二月
 春山山行 蓼科山 三月二五日〜二七日
 学校総合体育大会予選会 酉谷山
 新入生歓迎山行 大菩薩嶺 五月三十一日〜六月一日
 歩荷訓練山行 乾徳山 六月二二日〜二三日
 夏山合宿 白馬岳〜蓮華温泉 七月二一日〜二十四日

二年部員 川原弘之 笠原薫 小竹宏明 木戸俊吾 杉田亘 諏訪部孝紀 山田貴士
顧問 吉田立志 島田俊一 濱口政弘


Wanderer Vol.35 学校総合体育大会・酉谷山報告

 北部地区新人大会は、学校間の交流会。前夜宝台樹キャンプ場で開会式と交歓会。翌日は雨のために武尊山中腹までの往復だった。
 一二月の鷹ノ巣山はアイゼントレーニングになったようだ。
 春山山行は蓼科山で、初日は山麓の天祥原。二日目に登頂を目指したが豪雪で途中敗退。
〈途中、道を間違えてしまうというアクシデントがあったが、何とか蓼科山の麓まで行くことができた。しかし、雪が深いことと時間の関係で登頂することは諦めた。とりあえず昼食の菓子パンを食べてから下山する。下山は登った道と違う道を通ることになった。この道はかなり急な道だったが、下りは楽しかった。楽しく下りすぎて、いつの間にかテントよりも下ってしまい、少し登った。夕食まで時間があったのでトランプをした〉
翌日は下山した。
 夏山合宿は、初日に白馬大雪渓の白馬尻。二日目に白馬岳へ。
〈明日の天気が悪そうなので、今日白馬岳に行き、一旦テント場へ戻ってから杓子岳へ行くことになった。白馬岳までは登りが急で、ピストンなのに少し歩くと息があがってきた。頂上に着くと風が気持ちよくて、眺めが素晴らしく、これが登山の醍醐味だなあと思っていた。日本海も見えたらしい。そのとき私は日本海と反対側の断崖絶壁を覗き込んでいた。五〇mくらい真っ逆さまに落ちれそうである〉
 翌日は蓮華温泉へ下山した。
 部報には普段の部活動も紹介されている。
1、 歩荷……富士見櫓を二〇キロほどのザックを背負い、一〇〜二〇周昇り降りする。
2、 ランニング……伊佐沼まで往復。さらに伊佐沼を周回。他に一三キロコースもある。
3、 サッカー……週に二、三回行う。
 山の食事の紹介では、
焼肉丼……キムチや焼肉のタレと、牛肉・豚肉を合わせてご飯の上に乗せる。人気がある。
ビーフシチュー・スパ……スパゲティの上にビーフシチューを掛ける。カルボナーラは人気がある。
 洋風雑炊……山岳部の一番人気。コンソメベースのお粥だが、食べやすく、気持ち悪くならない。ただコンソメを忘れてしまうと、病院食になってしまう。
 炊き込みご飯……市販されているものを使う。簡単・美味しい・重くないの三拍子揃っている。
 カレーライス……アウトドアの基本だが、これまであまり採用されなかった。
 バーベキュー……上級生が新入生のために、山に登りに行くとは思えないような、多くの差し入れを持ってくる。
 チーちく……ちくわの中にカマンベールチーズが入っている一品。今期から人気が上がり、いまや魚肉ソーセージの人気を抜いている。
 麻婆豆腐……これも市販品を利用するが、寒い場所には最適のメニュー。近頃は麻婆ナスを作ろうとの意見もある。
 カルピス……厳しい条件にいる山岳部員にとって砂漠のオアシスのような飲み物。


2004年

ワンダラー VOL36 二〇〇四年八月発行 一五九ページ
二〇〇三年
 北部地区新人大会 白毛門 一〇月五日〜六日 
 秋山山行 日光白根山 一一月八日〜九日
 日帰り山行 大岳山 一二月二三日
二〇〇四年
 冬山登山新人大会 安達太良・箕輪山 二月一三日〜一六日 
 春山山行 北八ヶ岳 三月二五日〜二七日 
 学校総合体育大会予選会 甲武信岳 五月一五日〜一七日 
 学校総合体育大会一般 雲取山 五月一五日〜一七日 
 新入生歓迎山行 両神山 五月二九日〜三〇日 
 歩荷訓練山行 谷川岳 六月一九日〜二十日 
 夏山合宿 北アルプス 穂高岳 七月二三日〜二六日 
 
二年部員 西田拓郎 茂呂将典 柴田裕作 岩城久 川瀬俊介 田端敦也 吉山和樹
顧問 吉田立志 菅崎俊幸 濱口政弘 森林憲史

 二月の冬山新人大会は高体連の雪上合宿。部員一〇人、顧問二人の参加だが、総勢は大宮駅から夜行バス三台、一二〇人である。早朝マウント磐梯スキー場に着いて、スキーA、B隊とワカン隊に別れ訓練。箕輪スキー場で雪洞を作って宿泊。二日目は百人もの行列で旧土湯峠を越えて旅館へ。翌日下山した。
 春合宿の北八ヶ岳はここ数年の恒例で、渋ノ湯から白駒池幕営。縞枯山を縦走して双子池幕営。翌日親湯へ下山している。

Wanderer Vol.36から 春合宿の北八ヶ岳からの展望

 学校総体はA〜Eの五コースに分かれていて、予選会は厳しいAコース(甲武信岳)とされている。三峰口で午前中の開会式の後、ダム建設で新設された大滝道路から中津川に沿った大山沢林道の奥でキャンプ。翌日はタイムレースを兼ねているようで、十文字峠に規定時間までに到達しない場合には長野側へ下山させられるようで、川高は一〇校中五位。その日甲武信岳で幕営。翌日も二時起床で、雁坂峠を経て豆焼沢のトンネル道路へ走って下山した。関東大会への出場は、修学旅行と重なって放棄している。
 一般の部へは1年が中心になってDコース(雲取山)で参加し、三峰口から太陽寺の先東谷林道で幕営。翌日雲取山を往復して同泊。こちらは一般登山になっている。
 歩荷訓練は、この数年谷川岳で行われ、初日はマチガ沢出合いで幕営。ところが膝の故障者が出て、九人入部した一年でこの山行に参加したのは四人と報告されている。巌剛新道から登頂し、天神平へ下山して田尻沢の下山道は閉鎖との理由で、ロープウェーで土合へ。
 夏合宿は、涸沢からの穂高、北穂高だった。川越を朝出発し、横尾で幕営。二日目は涸沢で幕営し、北穂高往復。三日目は穂高岳往復して徳沢へ下山した。涸沢までは登ったものの、体調不良で稜線まで上がれない部員も二人いた。
 体力の低下、体調不良は致し方ないが、登頂できなかったことは残念である。ただ合宿恒例の幕営山行、自炊などは守られている。


2005年

ワンダラー VOL37 二〇〇五年八月発行 一五五ページ
二〇〇四年
 北部地区新人大会 土合 一〇月三日〜四日
 秋山山行 金峰山 一一月二〇日〜二一日
二〇〇五年
 冬山登山新人大会 黒姫山 二月一二日〜十四日
 春山山行 北八ヶ岳 四月二日〜四日
 学校総体予選会A・Bチーム 甲武信岳 五月一四日〜一六日 
 新入生歓迎山行 大菩薩嶺 五月二八日〜二九日 
 歩荷訓練山行 丹沢山 六月一八日〜19日 
 夏山合宿 南アルプス・北岳〜農鳥岳 七月二七日〜三〇日 

二年部員 片瀬圭祐 沢厚太朗 新見哲也 岩田哲 大塚学 楠井冬樹 野沢正人 日高優也 望月翔
顧問 吉田立志 菅崎俊幸 濱口政弘 森林憲史

 部員が増えて、新人大会に参加したのは一五人だった。雨天で山行計画はキャンセルされ、土合から一ノ倉沢出合いまで歩いた。
 秋山山行は、富士見平で幕営して、初日に瑞牆山往復、翌日に金峰山往復して下山。週末で金峰山にいけるのは週五日制の利点。
 春山合宿は恒例の北八ヶ岳であるが、早朝の川越出発でも、初日に黒百合ヒュッテ幕営。二日目に白駒池幕営で、天狗岳、中山、高見石と登頂し春山を満喫。
 学校総体予選も恒例で甲武信岳。チーム四人で二チームが出場した。
 ところでこの年から部活でもフリークライミングを始めている。学校の近くにクライミング・ボードがあって、平日でもそこで練習。学校総体の高校生クライミング大会も開催されているようで、04年一一月には都内・赤羽での大会に四人が出場。〇五年六月の大会も四人が参加し、総勢では八〇人の大会になっている。顧問の森林憲史先生の報告によれば、
〈フリークライミングの練習は、夏山直後の八月二日から開始された。「この夏中に、一つクレードアップしよう」との目標は充分に達成されたと思う。二年生のI君は、念願だった5・12の世界に突入。ここからが正念場で、山並みは果てしなく長くなることになるのだが……〉
 と続く。フリークライミングも高校の登山教育の一環となってきた。

2006年

ワンダラー VOL38 二〇〇六年八月発行 一四八ページ
二〇〇五年
 北部地区新人大会 武尊山 十月四日
 関東大会 御前山〜三頭山 十一月十一日〜十三日
 秋山山行 雲取山 十一月二十六日〜二十七日
 日帰り山行 三ツ峠山 十二月十七日
二〇〇六年
 冬山新人大会 安達太良・箕輪山 二月十一日十三日
 春山山行 北八ヶ岳 三月二十九日〜三十日
 新入生歓迎山行 鷹ノ巣山 五月七日
 学校総体 秩父・白泰山 五月十三日〜十五日
 歩荷訓練 奥秩父・乾徳山 六月十七日〜十八日
 夏山山行 立山・室堂 七月二十六日〜二十八日

二年部員 森田敏行 加瀬雄大 北尾俊博 
顧問 吉田立志 菅崎俊幸 濱口政弘 森林憲史

 高体連(高校体育連盟)という文部科学省の行政組織と、高校山岳部の登山というのは、一切関係がないと思って、自由な登山だけをしていた時代もあった。しかし時代の変遷は必ずしもそうではなくて、この年は年間に四回の行政組織主催の登山に参加している。
 十月の北部地区新人大会は武尊山で行われ、前日に宝台樹で幕営し夕方参加校同士の交歓会。翌日に武尊山を登頂した。
 十一月の関東大会は一都七県から五十八校、生徒二百四十八人、顧問六十九人が参加して行われた。一日目奥多摩・氷川小学校で開会式があり、その後バス移動して奥多摩湖対岸の行政施設「山のふるさと村」の広大なキャンプ場で幕営。二日目はサブザックでバス移動して、奥多摩湖ダムサイトから御前山へ登頂。縦走を続け三頭山で登頂チェック。鞘口峠まで戻って幕営地へ下って二泊目。三日目は撤収と閉会式となっている。他校も含めて大勢でワイワイと登山している。
 二月の冬山新人大会の安達太良・箕輪山も恒例となっている。参加は一、二年の九人と顧問が二人。前日さいたま新都心に集合して夜行バスで猪苗代町から箕輪スキー場下まで。スキー場を二時間登って、上部で雪洞を作って宿泊。二日目は箕輪山一七二八mへの登頂が予定されているが例年風雪で不可能。下り方面に縦走して鬼面山一四八一mを通過して、稜線向こうの野地温泉旅館宿泊。三日目は再び雪山に入ってバスの待機しているスキー場下まで。この年は稜線歩きにも苦労したようで、
〈みんなただ黙々と歩くことに専念しているようで、話し声は全く聞こえてこない。昨日とは違いほとんど平坦な道ではあるけれども、雪の量が半端じゃないのと、ときおり吹く強烈な風は、大型台風を突っ切っていくようなものだ〉
 と報告されている。
 五月の学校総体は秩父・白泰山一七九三m。参加は顧問含めて四人。朝三峰口で各校点呼を取り、バスで秩父湖まで移動。そこからすぐ上の林道沿いの大黒山九九二mを半日縦走して、栃本のパーキングで幕営。二日目はそこから白泰山へ縦走し、さらに北へシャクナゲ尾根を歩いて中津川林道脇のパーキングで幕営。ここで各校のしおり交換の交流会。最終日はバスに送られて下山した。アスファルトのパーキングは整地いらずで幕営も楽だったと書かれている。
 さて夏山合宿は北ア・立山周辺だったが、この年は梅雨明けが八月にずれ込み、荒天の停滞のみで残念ながら登頂はできなかった。朝川越を出発し、上越新幹線〜北越急行ほくほく線を乗り継いで、午前中に富山着。その日のうちに室堂へ入った。計画では雷鳥沢周辺に三泊して、立山・剣岳から一ノ越を越えて黒部ダム方面に下山予定だったのだが、雷鳥沢で二泊の停滞をし、帰り地獄谷を散策して下山している。