元陸軍将校の遺言
「戦争は絶対反対!」

 since 2003/9/8

 

 プロローグ 

 世の中何も分かっていない人が多すぎる。広島に原爆が落とされたから「戦争反対」。沖縄に修学旅行に行った孫がひめゆりの塔を見つけて「戦争反対」。何と言う短絡的な歴史観なのだろう。これじゃ「幼稚園では、皆仲良くして喧嘩をしないようにしましょう」と全く同じ理屈でしかない。せめてなぜ原爆投下されてしまったのか。原爆投下した米軍の責任はどうなのか? 同じように、ひめゆりはなぜ自殺しなければならなかったのか、そうなってしまった原因はどこにあるのだろうか―――。その程度の疑問もわかないのだろうか。

 戦前の陸軍士官学校は、市ヶ谷に移転してきた防衛庁の敷地内にあった。就学期間は3年間。卒業すれば陸軍の幹部になった。当時の大日本帝国陸軍は国家機関の中枢になる。陸軍士官学校を卒業して軍人になるというのは、例えてみれば財務省と法務省と防衛庁を合わせたくらいの省庁に入省することに匹敵した。当時のエリート集団になる。

 昭和15年に士官学校に入学したものは3年後の18年の3月に卒業したが、同期2400人中その半数の1200人が、戦死した。昭和16年に入学したものは19年3月に卒業したが、3分の1の800人が戦死した。ほとんどが二十歳前後の男子である。太平洋戦争は、兵隊を使い捨てにしたのだ。人の命などなんとも思っていなかった。

 そういうわずか50年前の出来事を、若い人にしっかりと理解してもらいたい。学校の歴史の授業ではこんなことは決して教えない。教師も知らない。小泉総理だって昭和17年生まれ。こういうことさえ知らない。つい最近の自分の国の歴史さえ知らない者が、これからの日本や世界を動かす人間にはなれないものだ。

 日本の社会化教育は、最新の歴史で140年前の幕末を習うことで終わりになっている。いやさらに260年前の戦国時代の、信長、秀吉、家康を習うことに終始している人も多い。それはいいとしても、なぜ昭和20年の終戦、いやそれ以前の日清、日露戦争から日中戦争にいたる経過を検証しないのだろうか。これほど最近の事情を避けて通っていいわけがない。しっかりこのページで学習して欲しい。

平頂山(へいちょうざん)の虐殺事件
 平頂山という町は、朝鮮半島の少し北、中国東北部で当時は建国間もない満州国の中にあった。私たちは2004年新年早々、これまでの中国旅行の仲間たちと絵画展を開いた。もう中国旅行はこの15年間の間毎年行っていて、ほぼ中国全土といってもいい。

展示した油絵でございます。力作です。

 さて平頂山には日本軍の虐殺事件というのが、昭和7年にあった。満州国を建国して間もない頃である。当時中国人は日本の占領にゲリラ戦で応戦していて、2000人のゲリラが炭鉱を占領した日本軍に襲い掛かってきたらしい。日本人の死者は7人と記録されている。
 このゲリラに対して、日本軍は平頂山という集落がゲリラを匿ったとして、中国側の試算で400世帯、3000人のその集落を機関銃掃射して、火をつけ、ダイナマイトで爆破して全滅させたのである。これが明らかになったのは日本の敗戦後で、掘り起こすとがい骨がいくつも出てきたというのだ。現在その場所では、400体ほどのがい骨が観光客に展示されている。まさにこの絵の通りでもあるのだ。敗戦後中国での裁判では、首謀者とされる7人が絞首刑にされたが、一般住民を皆殺しにしたという残虐な行為を、当時日本軍はしていたことを、忘れてはならない。日本軍の当時の占領は、傍若無人だったのである。

月夜の晩の長城ということですね。大きな絵です。

 もう一つの万里の長城は、田中角栄が日本中国の国交回復をした当時に、最初に公開された長城である。これはおなじみの観光地。西側に向って、銃撃できるように、長城には切り込みがはいっているのだ。(2004・1・12)


日清、日露戦争で日本は勝利していない

  明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争に日本は勝利して、残るは米国だけとなって太平洋戦争に突入したと、とぼけたことを近代史では習う。これは間違いである。せいぜい飛車や角が前進したために、相手が金と銀を1回だけ引いただけに過ぎなかったのだ。なぜなら、戦勝国の日本が、では清の戦争責任者を処刑して、日本軍が清国を支配できたのだろうか。日露戦争でも、樺太と大連の関東州を占領できただけのこと。ただ進駐した日本軍が勢力を伸ばすことに成功して、中国とロシアの侵略を始めたという事実だけに過ぎない。こんなものは戦勝でも何でもない。相手はまた飛車、角、金、銀の駒組みを整えて、また反撃を始めるだけのことになる。日本軍は大きな勘違いをしていたのだ。

関東軍の毒ガス作戦

 何も地下鉄サリン事件だけが毒ガス事件ではない。世界最初の毒ガス兵器を製造していたのは日本軍になる。明治37年の日露戦争で、翌年ポーツマス条約が結ばれる。樺太と大連(関東州)を手に入れた。さらに昭和6年の満州事変で満州国も手に入れる。そこで関東軍は明らかに毒ガス兵器の製造を始めた。その証拠は今でも中国に関東軍が隠していた毒ガス兵器の残骸が発見されて、そのガスで被害がいくらでも起こっているのだ。そればかりではなく、ケシの栽培も行われ、麻薬の密造も現在でも行われているが、それは関東軍が残したものを利用してのことになる。侵略したよその土地で、日本軍はとんでもないこともしていたのだ。

南京大虐殺は30万人

 日中戦争(日華事変)は昭和12年7月日本軍が杭州に上陸したときから始まる。そして半年後の12月までに、200キロ前進して南京を攻略したとされる。その間に日本軍は何人の中国人を虐殺したのだろうか。

 最近では日本に留学している中国人女性も多いものだが、どこのキャバクラにでもいるそうした中国人女性に聞いてみても「30万人が日本軍に虐殺された」と答える。当たり前だ。中国ではそう教育し、テストには「○○万人が虐殺されました」に「30」と記入しなければ、×になってしまうらしい。

 さてここで「南京大虐殺のまぼろし」というノンフィクションが20年ほど前に、文芸春秋で大宅賞に輝いた。しかしこれは、賞の歴史上でも大いなる失態だったということが、出版界では定説になっている。

 狭い意味で南京大虐殺を解釈するのならば、二人の某兵隊が遊びで「100人斬りをしたのかどうか」ということになる。当時の新聞には、日本軍の手柄として、その100人斬りが存在したということになっていた。ところがそれはどうも、兵隊が手柄を立てたいために、「新聞記者にウソの報告をしただけ」というのが、その賞を取った本の趣旨になっている。ある泥棒が人の家に侵入して30万円を強奪して「それでは、テーブルの上にあった、子供の小遣いの100円も強奪したか、しなかったのか」程度を検証しただけのお粗末なノンフィクションだったのである。そんなことの存在の有無は、もうどうでもいいのだ。問題は確かに万の単位で半年間に日本軍の虐殺の経緯があって、それを30万人と教える現在の中国政府に対して、日本は「正確には不明」となったままであるという、事実が重要なことなのだ。まあいまさら確定できる数字は検証のしようがないのだが、5万人程度というのが、どうも実数らしい。

 問題は、ある土地を侵略するのに、兵隊でもない罪もない一般市民を5万人から30万人の間で虐殺しなくては、侵略できなかったという国際法違反のお粗末な作戦しか展開できなかった日本陸軍にある。せめて米軍のイラク攻撃を見習って欲しい。多く見積もっても1000人程度の現地死者を出すだけで、とりあえずアルカイダを一掃してイラクに新政府を樹立させようとしている米軍の作戦の方が、ずっと理に適っている。

 さて日本軍は昭和12年に南京を攻略したものの、実は蒋介石の国民党をさらに奥の重慶に追いやっただけに過ぎなかった。もちろん毛沢東の共産党も奥地で勢力拡大を狙っている。ところが実は、米軍はベトナムのハノイ辺りから陸路で重慶の中国軍に物資の補給をしていたのである。日本軍はそれに気がつかない。それから4年間この日本軍進行は膠着した。中国では「国共対日」で、とりあえず蒋介石も毛沢東も米軍の援助で協力して、南京と重慶の間で対日戦線をはって、膠着させていたのである。その4年後、日本は痺れを切らして真珠湾攻撃に突入した。すでに包囲網を叱れた負け戦は明らかだったのである。

スマトラからビルマ侵攻のお粗末

 スマトラというのは、インドネシアのことになる。太平洋戦争は日本の石油確保のための、侵略だったともいえる。インドネシアには今でも豊富な石油資源がある。そこには昭和16,17年当時には、フランス軍もイギリス軍もいた。連合軍である。彼らは日本軍の奇襲にあって、とりあえず逃げて奥地に隠れる。本国から遠く離れた石油の番人など、飛ばされた兵隊と同じで戦闘意欲もそうない。ところが日本軍はそれに喜んだ。「スマトラを確保した」と。そうしてビルマ(ミャンマー)に侵攻する。これがお馬鹿さんなのだ。日本からの食料補給ルートも確保できていないにも関わらず侵攻したものだから、実に日本軍はビルマではほとんどが餓死によって、部隊は全滅してしまったのである。そんな浅はかな作戦しかできなかった。

特攻隊は自爆テロだった

 昭和16年12月8日に日本軍はハワイの真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が始まった。戦争期間は、昭和17年、18年、19年、20年の8月15日までとして、おおよそ4つに分けて理解して欲しい。

 日本軍が米軍に対して、有利に戦争を進めていたのは、大甘にみても、最初の昭和17年だけになる。以降の3年間は、どんどん米軍に包囲網を敷かれて、攻め込まれてくる。それは最初の年の奇襲攻撃が成功しただけなのだ。

 特攻隊というのは、マフラーをなびかせて、ゼロ戦に乗っている格好いいパイロットのことではない。彼らは、日本から敵地への片道燃料しか積んでいないゼロ戦に乗って、しかも積み込む爆弾もない状態で、機体ごと敵の戦艦や基地に突っ込む自爆テロだったのである。つまり特攻隊命令を受けたパイロットは「そのまま突っ込んで死になさい」という指令が下ったのとまったく同義語だった。士官学校を出て海軍のパイロットになったものでも、この命令には誰もが涙したものだった。こうした馬鹿げた作戦を「1億人、総玉砕」といったわけだ。「どうせ負けるならば、死んでやる」と。昭和19年以降に激化したことだ。こんなものは、戦争の作戦でもなんでもない。機関銃やライフルに包囲されている場所に、丸腰で裸一つで出て行っただけなのである。しかも戦闘機はその攻撃の度に失ってしまうだけ。

 仮に終戦が1年早く、つまり昭和19年に日本が降伏していれば、東京大空襲もなかたし、長崎にも広島にも原爆は投下されなかった。無駄死にする国民も圧倒的に少なかったわけである。

 馬鹿げた作戦を指示していた、時の陸海空軍の大本営(つまりそれは、日本政府であり内閣であり、天皇)の責任はあまりにも大きかったのである。

絞首刑になるなら、国民も道連れに

 昭和19年、20年の1億玉砕は、世界の戦争でも例を見ないほどの、大本営の悪あがきだったといえる。太平洋戦争の終結は、もはや条約によって日本が中国やロシアに獲得した土地を返還することだけでは、終結できない事態に陥っていた。勝つか負けるか。それは米国を日本の支配下に置くことができるのか、逆に日本が進駐されるのか。

 戦後東京裁判で、東条英機らA級戦犯は絞首刑になったが、仮に前年に降伏していたとしても、同じ道を歩んでいたことになる。大本営で戦犯にならなかったのは、天皇ヒロヒトだけになる。絶対に敗戦を迎えるに決まっていても、玉砕で悪あがきを考えたのが、大本営だった。いつの時代でも政権というものは、権力者自身が地位の保全をしたがるものなのだ。国民を道連れにすることを良しとしてしまう。

 仮に戦勝国を肯定するならば、「原爆でも投下しないことには、このイエローはいつまでたっても戦争を辞めない」と思うもの。米国は、ドイツにも原爆を投下することを考えたようだったが、日本を選択したのは「同じ白人社会ではなかった」というのが、理由の一つにもなっている。

 原爆投下のような無差別攻撃は、明らかに国際法違反に該当するのだが、米国にそうさせた理由の一つに、その1億玉砕があったことも、また理由になる。あるいは、投下しなければ、なお戦争は続いていたとも思われる。ここでは、原爆を投下されなければならなかったほど、大本営は正気ではなかったということを、指摘したい。

連合軍の質量の違い

 敗戦は、スマトラで迎えたものだった。戦争で荒れた道路を確保しようということになり「またツルハシで工事か」と思ったのだが、いや連合国がもってきたのは「ブルドーザー」だったのである。当時の日本軍といえば、刀とツルハシだけ。M38銃というのは、明治38年に開発された、まあ火縄銃に毛の生えた程度の銃を昭和20年でも使っていたものである。対して連合軍は自動小銃とブルドーザー。最初から勝てる戦争ではなかったのだ。そうした事実を見ても、いったい日本は本当に正気の沙汰で米軍に宣戦布告したものかと、疑わざるを得なかったのである。呆れてものが言えない。

市民革命の歴史がなかった日本

 1789年に市民が王様を襲ってフランス革命が起こった。「自由・平等・博愛」主義である。それが世界に広がっていく。革命は時の支配階級を切り殺していったのだ。そうして日本はその80年後の1867年に江戸幕府が倒れて明治政府になり「無血革命」がここに成功したと歴史で習う。笑わせるな!

 薩長は本当に市民だったのか? いや支配階級である。倒幕に成功して明治政府を乗っ取る。太平洋戦争の後、財閥は解体されたかに見えるが、三井、三菱は今でも存在している。いや天皇家こそ、日本の有史以来ずっと継続しているのだ。わが国は歴史上に革命は存在してこなかった。

天皇制の問題点

 天皇制に問題点があるとするならば、3点挙げられる。

1、まず法の下に国民が平等とするならば、天皇家だけは特権階級の世襲制になる。これは明らかに憲法に違反している。

 2、逆にいうならば、自由は誰にも与えられているという解釈をするならば、天皇家に自由はない。世襲によって天皇家を継がなければならないからだ。それに苗字がないという不自由な事実もある。

 3、存在が利用されている。明治政府ができたときも、実は薩長は天皇制を利用して自分たちの地位保全をおこなった。戦後の日本再建でも、今度は米国が天皇制を利用して上手に日本に進駐してきた。日本の天皇制は大いなる宗教である。初詣には8000万人が三が日に神社に参拝するが、わずか50年前までは、天皇が神様であり、イコール神社に祭られていたことになっている。いつの時代でも政権に利用されるのが天皇だと言い換えることができる。それは正しいことではない。

靖国神社に参拝はしない

 戦死した人の霊を弔う。理屈はあっている。しかし実際に靖国にいってみればよく分かる。鳥居に菊の大きな紋章が入っている。それは天皇家の紋章になる。つまりA級の戦犯になった者が、しかも何がしかの戦争責任もあった天皇ヒロヒトの紋章の中に祭られているところへ、素直に慰霊する気持ちにはやはりなれないものだ。霊を慰めることよりも、そうした霊を作ってしまったことへの怒りの気持ちが大きいということになる。鳥居に我が家の紋章でも入れてくれるなら参拝でもしよう。

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