明神岳東稜〜奥穂高岳〜西穂高岳  1979年 1月

 クラブ入って最初の正月合宿でしたね。当時の積雪期は沢渡から歩くのが定番で、釜トンネルまで3時間くらいかかったような記憶あります。それに釜トンもその中にテント張ってるやつもいたし、すごい太い氷柱が垂れ下がっていましたよ。それに上高地方面の出口には蓋がしてあったような。そうしないと雪が吹き込んでトンネル出られなくなってしまったんでしょう。それに下は完全に凍りついていて、坂のスケート場歩いているようでした。まさか釜トンのなかでアイゼンつけるわけには行かないしねえ。


西穂だったか独標だったか、最終日の晴天の記念撮影。

その道すがら、「ピンクレディのミーちゃんとケイちゃんのどっちが好き?」なんてアホな話しならが、私「ケイちゃん」というと「え〜?気持ち悪い、普通はミ〜ちゃんだよ」と。何か時代感じさせるのん気な話ですねえ。え?ところでその二人最近再結成したとかねえ。でも百恵ちゃんはこの頃すでに引退してしまったんですね。

大正池のあたりでは、正月だけ食堂が開店していました。けっこう混雑してましたね。それに警備隊が、計画書の提出をもとめていましたね。上高地で50センチくらいの積雪だったか? でもトレースがしっかり付いていましたが。

 明神の東稜はそんなに難しくなくて、確かメンバーのうち2人は11月に偵察にいっているんですが「そのときと同じだ」とかいってました。前穂を過ぎて吊尾根ではけっこう吹雪かれたまま幕営。翌日奥穂から天狗平にいくときも、ジャンダルムとかロバの耳とかあって、クサリを下ったりしながら「縦走路なのに、冬は難しいなあ」とか思ってました。天狗平でメンバーがスノーソー使って、「キジ場きれいに作ったよ」とかいってましたねえ。西穂に出たときには快晴になって、このときは最高の気分でした。それから上高地に下って、坂巻温泉に泊まったんでしたか?そして帰京。楽しい合宿縦走だったですよ。



ヨセミテ渓谷 1980年6月

 海外のチャンスがあるとしたら、それは登山ではなくて旅行の方が先だろうと思っていた。いや貯金が先である。その前年からバイトを懸命にした。「地球の歩き方」が出版されて間もない頃だ。「岩と雪」に、ヨセミテのトリプル・ダイレクトなるルートが大きく紹介されたのも頃の頃。まずいってみること、詳細は後からだと思った。それでも国内では使ったこともない荷揚げのバックとして、古いキスリングを壊してそれに当てた。ユマール(ペッツル)も購入した。だからそれが即、空身登攀と荷揚げ、後続のユマーリングするような登攀ができるとは思っていなかったのだが、もしかして可能かもという淡い期待も実際にあった。

 エアーのみ往復予約(18万円くらいだった)して、滞在期間は20日間。私にとっての海外は、船でハワイに2日間寄ったことがあることについで2度目。いや実質初めてといってもいい。パートナーは高校時代からの1年後輩。今でもたまに一緒に山に行く、気心は知れていた。彼も初渡航。大体成田に行っただけで多くの外人さんを見て「なんか、これだけで海外だよなあ」と彼。私も同じような気持ちだった。


ルート名などとっくに忘れてしまったが、とにかく国内にはない岩の感触だった(ヨセミテ渓谷)

 サンフランシスコに入る。地球の歩き方に出ていたYMCAに宿泊。「なんか、アメリカって汚いなあ」。海外なのだから、原宿の数倍は美しい町でなければならないと、決めかかっていた。実際そんなユートピアが世の中にあるわけはないのだ。町のきれいさだけを言うなら、日本は世界一のカテゴリーに入る。相棒は、夜街を歩いていて、ビルの上から水をかけられたと嘆いていた。「アメリカってとんでもないところだ」。

 ここでは1泊だけして、さっさとバスでヨセミテに向かう。グレイハウンドという大陸横断バスと、トランスポーテーションという地方バスに乗り換える。1日がかりでヨセミテに入る。ヨセミテは美しすぎた。アメリカは田舎に限るというのも正しい。エルキャピタンはそれこそ村の入り口にあって、地面からあの花崗岩のスラブの1000メートルの岩壁が、まるで生えているようにそそり立つ。「こんなの世の中にありえねえよ」。村にはホテルもある。シャワーも、レストランも、コンビニも、そしてキャンプ場も。さならが上高地のキャンプ場に、スーパーと、シャワーと、レストランと、コンビニを足せば、一応ヨセミテのようにはなる。サニーサイドというキャンプ場は、正確には「ウォークイン・キャンプ」で、自家用車を持たずに来た人用のテント場になる。つまりそれ以外の大半のキャンプ場はオートキャンプであり、それが主流である。

私たちはその歩いて入るテント泊を申し込む。1日2ドルだったか。リミットは1週間の継続宿泊まで。それ以上滞在したいときには、一旦村を出て再入村。それにまた1区画テント3張りまでと決められている。それにしても、3張りで余裕しゃくしゃく。区画内にはテーブルがあり、焚き火用のスペースがあり、デッキソファーを人数分並べても、まだまだ余裕がある。日本のキャンプ場とは大差になる。トイレでは、ペーパーが盗難にあわないようにすでに鍵付きだった。キャンプを申し込むときにタバコを吸ったままレンジャーの姉さんに対応すると「タバコが煙い」と言われた。たまに馬に乗ったレンジャーが見回りにくる。キャンプ内に掲示板があって、中古ザイルの販売だとか、パートナー求むだとかある。

圧倒されたのは、この村内をめぐる無料のシャトルバスが走っていたことだ。朝6時頃から夕方9時頃まで、10分間隔。村はやはり上高地に似ていて、明神、徳沢と続く。そのくらいの距離を周回するようにアスファルトになっていて、そのバスが走る。たまに2階建てバスもあって、それは屋根の上に座席が付いているようなもので、2階席は大人気。運転しているのはサングラスを掛けた女性ドライバーが多かったか。格好よすぎるのだ。しかもオートマチックの電気バス。

僕らは、朝は7時頃にのそのそ起きて、レストランの朝食バイキングに行く。昼飯はパンだったが、夕食はやはりレストランにビーフの定食、10ドルくらいだったか。当時ドルは180円くらいした。でもまあ一応滞在費は合計10万円くらいを目標に、足りなくなったら何とかと思っていた。そんなに節約しない。

すべてに驚かされるその環境で、果たしてクライミングに集中できるのか。いや、はっきり言ってしまえば、クライミングなどしている場合なのかと。

でもとりあえず売店でルート図を買う。ファイブオープンブックスという三ッ峠程度の岩場が適当だった。確かに名前の通りに5本のルートがある。3ピッチくらいで抜けられて帰りは歩いて降りる。グレードも私たちにちょうどいい、4級程度か。しかしアメリカのグレードは何故か5の後に、6くらいから13までの数字で評価する。つまり5,6〜5,13。登れるのは、5,8くらいが限度。最初にそのうち2本を登って、翌日は休養。その翌日1本登ってまた休養。さらに1本と、チンタラのキャンプ生活になる。それに6月だとはいえ、けっこう暑い。雨はたまたま初日に降っただけで、あとは晴天続きだった。

岩の条件は、もう申し分ない。薄いフレークをレイバックで引っ張っても絶対にはがれない。ホールドスタンスが崩れることもない。ナッツを使ったのもこのときが初めてになるが、それでもまあちゃんとセットできる。けれど他のルートに行ったときに気がつくのだが、ハーケン類がほとんど打ってないために、いったいルートなのかそうでないのかがよく分からないのだ。ルートだとしたら「ええ、こんなとこ登っていくの」と驚くばかり。荷揚げの必要なルートに取り付くことなど、あっさり不可能だということになった。セコイアの背の高いあの針葉樹に村は覆われて、まったく美しい。500メートルもあるヨセミテの滝も、ハーフドームも、ただ呆れるばかり。

そういえば、地方バスに乗り換えたときに、日本人の女子学生二人も同乗してきた。同じヨセミテに行くのだが「帰りはどうするの?」「ええ?3週間後くらいになるから、決めてない」「??そんなにいるんだ?私たち明日帰る」。「?じゃ、何しに来たの?」。というトンチンカンな会話にもなる。そうなのだ、彼女たちはそのうちに日本の海外旅行の主流になる、前後の土日を挟んで5日間の有給という方法で、都合9日間の海外旅行だったのである。私も以降はまったくそれに準じたのだが。だとしたら、西海岸ツアーでヨセミテまで入る客はこれまた少数派になってくる。1泊でも贅沢な方なのだ。ところが当時の私は、海外旅行といえば、2,3週間は最低でも必要だと思い込んでいた。まして登山ならそれ以上。彼女たちの旅行に違和感があったし、自分たちはそんなことに、優越感を感じた。

数日でその練習ルートを登った後に、長いルートに臨むことにした。といっても簡単に登れるのは、数百もあるルートの内でただ一つだけといってもいい、ロイヤルアーチという15ピッチくらいのものだけだ。それは確かカモシカの店員さんだった、大蔵さんに店に行ったときに教えてもらったような気がした。取り付きまでは例のバスを利用してさらに1時間ほど歩いた。そのために前日にそこにビバークした。朝6時頃に出発。分かりやすい初級ルートなために、ピッチは進む。でも1時間もあとからきた3人パーティに追いつかれる。ルートの途中に振り子トラバースがあって、そこを普通に登ると5,9くらいだったのか。相棒がトップでそれをこなした。彼は喜んでいる。後続の私は振り子にする。そんなことをしながらも、まあ予定通りに上に抜けて、下山は途中アプザイレンを混ぜたりしたために不明で、追いつかれた後続の3人と一緒に下った。ちゃんとしたルートを登ったのはこれだけ。もちろん計画書はレンジャーに提出していた。確か例の「岩雪」の紹介の中に、予定通りの下山報告をしないと、レンジャーが勝手にヘリを飛ばして捜索にくると書いてあったのだ。私たちは下山予定が夕方の6時。間に合わせるためには走るしかないという、正直者だったために、せっかく一緒になった恩人の3人に挨拶もせずに走った。ちゃんと下山報告した段階で、任務完了かと。

その後は、グレッシャーポイント・エプロンとか短いルート登ったり、あのエルキャピタンの取り付きまで見学にいったり。すでにものぐさになって、取り付きまで徒歩1時間以上のルートには行く気にもならなくなっていた。そのためヨセミテのマークにもなっているハーフドームには行っていない、あそこは遠くにあるのだ。

私はこの1週間ちょっとで、すでに達成感に満ちてしまった。そんなことよりも、やはり女性がバスを運転することや、サマータイムで夜の10時まで明るいこと。ガソリンがリッター本当に30円くらいで売っていたこと(実際はガロンが単位なのであるが)。そういうアメリカに感動してしまったのである。それは例えば、そういう周囲の環境などに目もくれずに、山登りだけするようなデリカシーのなさに、むしろ呆れてしまうほどでもあった。海外の記録を読むと、ほとんど全員の日本人が猪突猛進。本当なのだろうか。ガソリン代30円に気をとられて、やはり山など登っている場合ではないと思い込む。

相棒にこういう。「俺はもうヨセミテを出る。ロサンゼルスとかハリウッドを見たい」。「ええ?あと1週間待ってよ。そしたら一緒にいく」「いや、待てない」。こうして2人のパーティは別れた。以降は双方単独行になる。私はバスでロサンゼルスに向かう。ハリウッドを見る。2,3日するとさらに欲が出て、ラスベガスにも行ってみたくなる。距離は400キロ。バスにまた乗る。すると今度はグランドキャニオン観光のセスナに乗ってみたくなった。ここから出ているのだ。そしてまたロスにバスで戻る。自家用車と飛行機以外ではバスしかないのだ。鉄道に乗る人は日本で客船に乗るくらいに珍しい。そして帰国が迫った頃に、彼と予定通りにサンフランシスコのYMCAで落ち合う約束になっていた。そこに鉄道で行きたくなった。レイルロードもトレインも通じない。アムトラックというのだ。これが12時間以上もかかってサンフランシスコにいく。バスよりも遅いくらいだ。東京〜大阪よりも距離はある。実はそのサンフランシスコは、大陸鉄道から引込み線になっていた。バスで20分ほどのバークレーで列車を降りて乗り継ぐことになっていた。しかし私はそれを知らない。でも不審に思ってはいた。その駅の停車時間の間に、サーバントのような人が、列車の手すりを拭いていた。「サンフランシスコは次だよねえ?」。彼は怒ったように「ゲットオフ、ゲットオフ」と叫ぶ。私慌てて降りた。もし気がつかないといったい帰れたのだろうか。翌日早朝には予定の飛行機が出る。「よかったよなあ、まずいことにならなくて」とあとで相棒と話す。

彼は1日早く約束の場所についていた。私が出てからはたまたま日本人パーティがいたそうで、彼らと一緒に登ったという。そして早く着いた昨日は、観光で適当なバスに乗ったらとんでもない方向に行ってしまって、歩くに限ると2時間掛けて戻ってきたとも。でも2週間の時間を置いて、ちゃんと目的地で合流できるのだから、やはり山屋さんはしっかりしている。下界のルートファインディングを間違うようなヤツは、山へ行く資格はないとこれは今でも思っていることだ。待ち合わせにこないと、さっさと置いていってしまいます。携帯の連絡取りは、未だに嫌いです。

アメリカの山を登る前に、まずアメリカという国を大体分からないと、これできません。わからない国でも山登るほど、私は山に執着はないのかもしれない。

その後80年代の後半になって、例の9日間海外旅行は何度もすることになった。とにかくアメリカの刺激は強すぎたのである。合計でアメリカとヨーロッパには5回ずつくらいは旅行することになった。仕事の関係上、正月休みやゴールデンウィークが短いために、代わりに春休み、秋休みがちょうど1週間あった。それを旅行に当てて、夏はやはり沢に通うというのが、その頃の年間計画となった。

ヨーロッパはアメリカよりも分かりやすかった。クルマがなければ生きていけないアメリカとは違って、歩いても大丈夫だ。日本人の感覚になじみ易い。しかしレンタカーがないと自由に旅行ができないと私は思ったのだ。会社に旅行誌のベテランがいて、彼に聞く。「別に難しいことはないねえ」。国内からエイビスレンタカーで予約を入れれば欧米のどこでも車は用意されることもわかった。特にアメリカはレンタカー代も安い1週間借りて3万円。ヨーロッパは日本並みであったが。


ドロミテの中心地のコルチナ(イタリア)。街の中からすぐそこに岩壁が。

ヨーロッパの旅は自由旅行だと鉄道の旅になる。ツアーだとバス。要するにお城巡りが、名所旧跡旅行の典型になるわけだ。私はそれを嫌った。最初のヨーロッパからして、フランスのドコール空港でそのレンタカーの予約を入れていた。思ったよりスムーズに始まる。ただ最初は「プリーズ」と「サンキュー」だけで欧米を回ろうとしたためにレンタカーの「インシュアランス(保険)をどうする?」の意味が全く分からなくて、希望車種を答えてしまったりもした。

クルマは走り出せばもう都内より標識はしっかりしている。まずシャモニに向かう。当然でしょう。そしてモンブラントンネルを越えてイタリアのクルマイユールに。最初のヨーロッパ旅行で気がついたのだが、冬のオリンピックをやった村を巡れば、それは夏冬ともリゾート地であり、明らかにヨーロッパアルプスの中をさまよえるのだと。結果的にその予想は大当たりをした。大体シャモニからして第1回の冬季五輪の開催地だった。ドロミテはコルチナ、スイスはサンモリッツ、オーストリアはインスブルック。それに皆が好きなツェルマットやグリンデルワルドなどは、どこからでもいけるほど近い。大体スイスなど九州程度なのだから、その気になれば1日で回ってしまう。欧米で1日500キロクルマを走らせるなど難しいことでもなかった。1週間で3000キロ。ヨーロッパでは6日間で6カ国回れる。スイス、イタリア、フランス、オーストリア、ドイツ・・・。そのうちにクルマでヨーロッパアルプスを縦走している気分になってきた。サンモリッツなど標高は1800もある。さらにロープウェイに乗ると、3000までいけた。真夏にそこでは雪が降った。降りてくると半袖でいい。

ノルウェーの山は標高が低いと馬鹿にされるが、2000でも海からそそり立っていれば、それはかなりなもの。トロールウォールはフィヨルドからそそり立っていた。それにあの国は国中がフィヨルドになっている。道は氷河の残骸海に行き止まって、フェリーに乗り換える。それも恐ろしく簡単だった。15分起きにフェリーはくる。止まった船に車ごと入っていく。もちろん大型のトレーラーも入る。で5分くらいで待っている車がすべて乗り込むと船はでる。国内のあのフェリーのチケット購入だとか順番だとかタイヤの車止めだとかの、面倒は一切ない。ドライブマップの道が切れて点線になっていることに焦っていた自分がアホらしくなった。春だとノルウェーなどは峠越えは両側が雪の壁。下界はやはり半袖。驚くやら微笑ましいやら、感動ものだった。

車で景色のいい縦走路を探すことは訳のないことだ、予備知識などいらない。アメリカのアトラスという地図にはシーニックルート(景色のいい道)にはマークが付いているし、ヨーロッパではミシュランの地図でアルプスの峠越えの道を適当に走るだけで期待は裏切られたことがない。スイスの峠越えでは2000を越えるところも多いのだが、それは出合からみた一ノ倉のようなカール地形を大胆にもトラバースするように駆け抜けて登っていく。傾斜も相当ある。それに下りではテールリッジからまっ逆さまに突っ込んでいくような道もあった。あの氷河急行に乗った人なら分かるだろう。鉄道でさえあれだけのスリルがあるなら、自分で運転する道でそれ以上のスリルがあって、楽しくないわけがない。逆にアメリカでは4000の高度があって、富士山以上の高さにまで道がついているのだが、山はなだらかでおとなしく、広大だ。ロッキー越えといっても、バスでボーッとしていると、気がつかないくらいでもある。

こんな経験を何度かして「レンタカーって本当にいいですね」とそのベテランにいうと、「ホントにそれやったんだ。そんな旅行している日本人は1万人に1人くらいらしいね」。ツアーよりも若干割高になるが、楽しさは10倍以上になる。

私の旅行では、つまり登山するその前段階で敗退してしまったともいえるのだ。クルマの縦走で十分。ヨセミテについては、あの恵まれた花崗岩を登ってしまったら、もう一ノ倉などアホらしくて登る気にもなれないと、高をくくって気持ちが離れてしまった。じゃ、ヨセミテで登れない岩壁を登れるように努力したかというと、こういうゲームクライミングは、体型の損得もある。やせ気味で腕力のある人。元体操選手だという後輩がクラブに入ってきたことがあったが、ほんの数ヶ月でクライミングゲームでは負けてしまった。こういうことに腹が立つ。

いまこのヨセミテと上ノ廊下(次項)の年代関係を改めて気がついて、それはわずかに翌年のことだったのだ。相関関係は明らかにあると思える。無意識にそういう登山に変わっていく自分を認識できる。「知らぬが仏だよ」と言われたこともあった。ヨセミテさえ知らなければ、もっと登攀に集中できたのにと。でもまあ人生の結果は同じようなものだろう。どっちが良かったのかは、やはり前者だろう。やりたいことをやって、その結果自分が以降こうしたいと思ったことをしていく。それが次の登山のプランになっていくのだろうと思う。

最初のアメリカ行の帰りの飛行機で「大平さんが亡くなって、鈴木さんが総理になったよ」と聞いて「都知事の鈴木が総理?」と間違えたくらいだから、年代は間違っていない。欧米の山は恵まれすぎている。国立公園の環境がまったく違う。アウトドアでは日本が欧米に勝てる環境にはないのだ。それは仕方のないことである。でも国内の山スキーには、まだまだ飽きてはいないぞ。


黒部川・上ノ廊下  1981年 夏


相棒が撮ってくれた写真で「これエイみたいに泳いでるぞ」といわれたもの。上ノ廊下最初のゴルジュ辺り。

 この年の秋を迎えると私は25歳を迎えるときだったから、まだ24歳の夏のこと。パートナーはクラブで1年先輩、年齢で3歳上の彼だった。計画を言い出したのは私。山岳会に入って3年ほどたっている。
 社会人山岳会の3年というのは、実に早いものだった。普段は岩登りのトレーニング山行をし、正月と5月には雪山の合宿。6月以降はホームグランドの谷川岳に通った。計画山行は毎週のようにある。怠けていなければ「石の上にも3年」を実践できたのであろうか。しかしである。ちょっと風変わりな山行をしたくなった。沢登りといえば、わがクラブは何故か丹沢が多くて、それは岩登りの一段下のランクに思われていた。私は大真面目に「一ノ倉」だって「沢」じゃないか、と反発し、それは笑い話の「屁理屈」と捕らえられていた。本当をいうと、一ノ倉の本当の無雪期である10月の本谷の姿を見てみたいという願望が常にあったのである。しかしそのチャンスというのは、いつも忘れてしまって通り過ぎた。6月から入山する一ノ倉では、いつも雪渓を走って上り、テールリッジから岩場に取り付いた。それは後になってみれば実に合理的なのであるが、そのときは何だか夏道のハイキングみたいじゃないのかと、のぼせたことを思ったりもした。早い話が自分ひとりでルートを発見して登ってみたいという衝動である。一ノ倉ではそんなことは無理な話だった。必ず先輩はルートを知っていたし、周囲に登山者は大勢いたし、他人の後を追っていけば、なんとかなってしまったものであった。北稜の下降というのも、今思ってみても面白いところを下山に選んだものだと、一ノ倉の先人に頭が下がる。

 上ノ廊下に行くと言い出して、パートナーはすぐに見つかった。でも大半の会員からはそういう山行は無視されていた。それだけ日数を掛けるならば、乾いた大岩壁を登りたいと。
 大先輩に大野栄三郎さんがいる。一ノ倉のコップ上岩壁・緑ルートの初登攀者である。当時は会の集会にたまに出席されていた。集会の帰りに電車のなかで大野さんにこのプランを言ってみた。
 急に笑顔になられて、
「おお、それはとてもいい山行だねえ。でも黒部は怖いよ。一雨降るとゴルジュ帯では15メートルも増水するよ」
 からかわれているのか、本当にアドバイスしてくれたのか分からない。大野さんはいつも穏やかに話す人なのだ。しかし威かされたことは間違いない。そうなったらどうすればいいんだ。
 それから数日は、重苦しい日々が続いていく。大きな山行の前の、あの重苦しい気分など今ではほとんどない。しかし入山したならどうにかして計画を遂行したいという、あの意気込んでいる重苦しい気分は、若いときだけの特権なのか。今となっては少し懐かしいのだ。
 まもなく計画の日がやってくる。沢登りという特殊な技術があるのだとしたら、当時の私たち二人にはそれは皆無といっていい。岩登りでは1〜6級というグレードが当時は付いていたが、まあ4級程度なら何とか登れるという程度の経歴でしかない。それと丹沢のいくつかの沢登りの経験だけだ。そのほかすべては現場で考えるということになった。白山書房という出版社から、沢のルート図集が発売されたのもその頃になる。上ノ廊下の項は、後に知り合うことになる、遠藤甲太さんが筆者だった。

 今でもこの山行の日程は忘れていない。ダムから湖岸の道で入山して、平で渡し舟に乗って、ダム尻で1泊。さらに進んで途中で2泊目。3泊目は薬師沢の出合い。最終日が稜線に抜けた岩苔乗越だった。全日晴天に恵まれてほぼ計画通りだった。ただこの年の冬は「昭和56年豪雪」といわれた年で、水量が多いのかなあという不安だけはあっての入山だったのだが。
 当時の何枚かのスナップ写真を見ながら、なるべく思い出すように書いてみる。
 初日には、相棒が釣りの道具を持ってきていて、ダム尻の東沢出合いのテント場で夕刻に岩魚釣りを始めた。私はこれから数日間は人には会わないだろうからと、人恋しくなって、ちょっと藪に入ると奥黒部ヒュッテがあるらしい場所なのだが、そこに向かおうとすると「いいよ、いかなくて」と。何が目的で小屋などに寄るんだというわけだ。まあ言われる通りである。小屋があるらしいところから5分ほど進んで、河原の台地にテントを張る。目の前に悠々と黒部川・上ノ廊下が流れ、他に誰一人いないその河原にパーティの二人だけ。素っ裸になったって誰も見ていない。そんな条件からどうして逃げようとする。確かに相棒の言うとおりなのである。20分ほどで相棒は数匹の岩魚を釣ってきた。餌も釣り道具屋で買って持ってきたようである。見せてもらうと土の中に幼虫がいて、それが餌になる。土ごと小さなケースに入れて運べば、数日は生きているらしい。岩魚は簡単に釣れた。それを焚き火にして焼いて食べる。ただ相棒はさらに釣ろうとして足を滑らせて水中でよろけて、なんと口の開いていたウエストバックの残りの餌や仕掛けをすべてこの初日に流してしまったというのだ。失敗である。私は塩焼きを2匹くらいご馳走になったか。岩魚を食べたのは初めてになる。しかし明日以降のことを考えると、重苦しい雰囲気で、彼と楽しい会話をした記憶はない。夜行で入山したためだろうか、寝付くまでには時間はかからない。


このくらいの渡渉は、杖代わりの棒切れ拾ってグイグイと渡ってしまう。

 2日目。夏山なのだが、沢の水は相当に冷たい。日が昇らないと出発する気にもなれない。「7時頃でいいんだよ」と彼はいう。沢登りなんてそんなものらしい。歩き始めてまもなく、とある数人が沢通しに下山してくる。スノーボートが1台引かれている。仏さんになっている。こちらから言葉を交わしたのか。「ええ、ちょっと」と言葉を濁すのは当然のことだ。様子を見れば分かる。事故といっても、この長大な上ノ廊下のまだ取り付きなのである。そんなところで事故して、そんなに難しいところなのかという思いもあったが、むしろあまりにも非力なパーティの責任ではないかとも思えた。「高巻きの途中で」といわれたような記憶もある。結局遭難や事故はその後の山行では何度も出会うのだが、私はこのとき「縁起でもないものを見てしまった」と思った。相棒は「仏さんに手を合わせたよ」といっていた。

 最初のゴルジュというのは、やはりまもなく現れた。水線近くで落ちても痛くないところをへつっていくか。あるいは水中にいいスタンス(足場)を見つけるか。この水中というのが、けっこう役に立つ。あるいは対岸へ泳いで渡ってしまうか。渡渉などといっても、それは股下程度が限界になる。それ以上はザイルをつけて泳いでしまった方が早い。それも上流から下流に向かって泳ぐ。で相手を確保するときには、逆に上流から引っ張ってあげると、これは楽チンで何もしなくても勝手に体が流されてこちら側にたどり着いてくるのだ。流れがカーブしているところでは、その外側が砂浜っぽくなっている割に流れが速い。つまり内側の岩場をできるだけ前進して、外側下流に向かってジャンプで早い流れを越えて、後は一気に泳ぎきる。このいずれもがダメな場合だけ高巻きになる。水泳が得意だったのは私のほうで、泳ぐときには私が先行した。今となれば声を大にして言えるのだが、渡渉や泳いで横切れるのに「高巻きたい」というのは、奥多摩や丹沢だけで通用する悪習慣であり、むしろ危険なこと。濡れるのがいやなら、最初から沢に入るなと。
 こうしたことは教えてくれる人はいなかった。それでも現場に遭遇すれば、何とか判断できるようになる。流れの外側が速いなどということは、それこそ小学生の理科で習ったような。 実際にゴルジュや流れが速かったのは2日間だけだった。薬師沢上部は源流ともいわれて流れは穏やかになる。その2日間だけに、私たちは10回くらいは流れを左右に横断したのか。その経験だけでも、後日には知るべきことは知りえたような満足感に浸れたものだ。 妙な高巻きは実は危険でもある。人間は本能的に安全地帯の上へ、上へと逃げたがる。しかし結局また沢筋に戻らなければ山行ははかどらない。むしろ上手に下降することが必要なことになる。が、こんなことは岩登りでもよくあったことなのだ。それに高巻きというのは、実に時間を無駄に消費してしまう。早く流れに戻ってそれに沿って進むことのほうがずっと楽しいし、安全にもなる。

 1日の行動時間は長くない。7時から夕方の4時頃までで十分だった。日程はある。ただ一回渡渉するなり泳ぐと、また流れのカーブが見えると同じこと繰り返さなくてはならないという、そのプレッシャーに押しつぶされそうになった。お化け屋敷ではないのだが、何が出てくるのか不安になる。
 地図を見ると、確かに「上ノ黒ビンガ」「下ノ黒ビンガ」とある。懐かしい名前だ。口元ノタル沢」「金作谷」も懐かしい。ただ懐かしいのは名前だけである。2万5千の地図を持っているのだから、そういう支流の沢を目標に「あと1キロ」「あと500メートル」と自分に言い聞かせる。確か上ノ廊下は2万5千の地図が3枚必要だった。それをガムテープで張り合わせて、三度くらい折り返して携行した。最も小さい画面にしてもA5くらい大きい。しかも分厚い。歩みが進むとその画面を折り返すようになって、これがまた前進できた証拠になって楽しいものだった。ゴルジュ以外では気楽な河原歩きの場所も多い。そういうところははかどった。2日目のテント場は、黒五跡と呼ばれる河原だったんじゃないかと思う。「明日は上ノ黒ビンガだけだ」と思ったような気がする。それを通過すれば核心部は終わりになるらしい。
 翌日も前日の緊張感を維持するしかなかった。核心部の後半の部になる。写真にはザックを背負ったまま蛙の裏返しのように仰向けになって、バタ足。ザックを浮き輪のようにした背泳で瀞を通過している写真も残っている。
 核心部を午前中に終えた頃に、相棒が右上空を指して「薬師岳のカールだ」といっていた。私はただ見上げて相槌を打つだけ。わずかながらその様子は記憶に残っているのだが「見上げた山が岩肌だからって何なんだ」という思いだけ。景色に見とれる余裕はまったくない。立石の奇岩という風変わりな巨大岩が立っているのだが、これも相棒に教えられた。それにしても何でこんな山奥に「名称が付いた岩があるんだろう」という疑問は、つい最近になってわかってくる。すべて冠松次郎さんの業績なのである。知らぬが仏、猫に小判、ブタに真珠・・・。若気の至りでそのほとんどを土足で踏み散らしてきたのだろうか、私は。だとしたら、贅沢な時間を過ごしてきたことになる。
 夕刻、薬師沢出合いが近づくと、釣り人がいた。でもそこはまだ出合まで1時間もの距離になる。岩魚釣り人はザイルを使った方がいいような渡渉でも、けっこう平気で流れに身を委ねてしまうものらしい。釣り人は沢登り屋さんよりも、実は沢の遡行は上手なものなのだ。この人の腰のビニール袋には、20匹以上の岩魚が泳いでいた。「すごいねえ」。2時間掛けて、太郎の小屋に運ぶのだろうか。しかし岩魚釣るだけでここまで降りてくるものなのか。ええ、まったくそういうものらしい。「魚を釣らずして何で沢を登っているの?」というような、同じ疑問が聞こえてきそうだ。


渡渉とへつりを組み合わせたものですね。水中にスタンスありました。

 薬師沢出合いは、無事遡行できたことの前祝いみたいな幕営になった。ここから上部は、ただジャブジャブ水遊びらしい。水量も相当減ってきた。焚き火をしてくつろぐ。
 翌日は、それこそ今となっては黒部源流のまさにおいしいところの、景観豊かなお散歩登りなのであるが、それすら自覚がない。ただ「ああよかった、もう怖いところはない」という山行成功の優越感だけ。登りついた岩苔乗越は、雲ノ平からの登山道なのだが、何故かその手前付近でテントを張った。沢登りに幕営指定地はないという、利己主義。まあこれは今でもけっこう実践されているらしいが。夕焼けが実にきれいだったこと。風がさわやかだったこと。
 最終日は裏銀座コースからブナ立尾根を下った。実はこの下山コースもこの22年の間ですっかり忘れていたのだ。今年、高瀬ダムに行ったときにようやくこの件を思い出したしだいだった。他に下山ルートがないはずだという、逆説的な問答から思い出したことになる。ダムサイト脇の不動沢の釣り橋を見て「ああ、ここは通った記憶がある」と。橋の手前で靴脱いで、裸足で吊橋渡ったものだった。相棒と下山競争していたし、稜線では小屋を通るたびに、ジュースを買って飲みまくった。甘いものはおいしい。相棒はその前年にヨーロッパ登山ツアーにいっていて「フランスではジュースを“オジュー”と発音した」といっていた。

 上ノ廊下の無事遡行は、私の登山人生のエポックといっていい。その後こうして黒部源流にまた関わるようになっているのだから、人生は不思議すぎる。もはや、体力的にも夏の大きな沢はいけなくなっているのだが、黒部を見ると、若い時代の自分の山行が妙なノスタルジアとして慰めとなるのだから、おかしな気持ちである。そうか、正確には、奥ノ廊下と黒部源流と別れているらしい。何度も名前を読み替えるほど、黒部川は人に愛されているということになる。
 この山行は、間違いなく以降の沢の基準になった。利根川にいくときも、赤石沢にいくときも、もちろん黒部の下流域にいったときでも、水量は見た目で、「上ノ廊下の何分の1」という基準である。ということは、ゴルジュに遭遇しても、予測ができる。ワラジからフェルト靴にしたのも、ゴルジュ用に半そでウエットスーツを作ったのも、すべてはこの山行が基準になった。物事を三等分して考えると分かりやすいなどと、勝手に仕事に応用したこともある。下ノ黒ビンガと上ノ黒ビンガと源流のことだ。思い込みが激しかった頃のベストクライミングとなった。


旧日電歩道〜剣岳  1981年 夏  

 欅平から黒部川沿いの道って、残っている写真見るだけだけど、やっぱり芸術的な道だよねえ。大正年代に国策企業がダム開発で黒部川に着目して、例の黒部の山賊たちがこれ請け負って、ツルハシで大岩壁に水平歩道を刻みつけたわけでしょ。冠松次郎さんもこの道通ったわけですよ。何も水線に沿って、あのゴルジュ帯突っ込んでいったわけじゃないはずだね。


旧日電歩道の志合谷付近。岩壁をくり貫いてすっぱり切れ落ちている道。

 黒四の建設のときにもまあこの道使われたんでしょうけど、でももう地下トロッコだったと思いますよ。戦前のダム建設だけですね、この道は。それでも廃道にしないで、こうして現在まで通用させているわけだし、まあ極端にいってしまえば、岩壁に傷つけて、大いなる自然破壊だったのだけど、でも歴史感じますよねえ、この道には。その後行ったことないけど、でもまたお散歩してもいいくらいの感じしてますがね。

 写真で見るほど道は狭くないし、まあつまづいてもすぐ身をかがめれば、崖から落っこちてしまうってこともないですよ、でも酔っ払っていると話は別でしょうが。まあ落ちると150メートルくらいまっ逆さまで、命ありません。

 剣岳の夏合宿にこの道から入ろうと言い出したのは、このときの3人組のSで、私も面白そうだったから応じたわけですね。だって剣というと、ダムから歩くか、室堂から入るかが定番で、それにもう飽きていましたからね。阿曽原で1泊して翌日仙人池から剣沢に下って、ベースは真砂沢だったか合流したわけですね。


仙人温泉の露天風呂。山小屋の近くに温泉が湧くという優雅なところでした。

 欅平過ぎてすぐに、奥鐘山の岩壁の対岸を行くわけでしたが、その岩壁の印象というのは、それほどでもなかったんです。要するに下ノ廊下を構成している両岸の一角に過ぎないわけだったんでしょ。渓谷の大きさに比較すると、言われているほどでもなかった。ただクライマーはその壁に注目しているから、ガイド類には実に大きく紹介されていたわけなんでしょうが。その後奥鐘山を登攀するチャンスはなかったです。

 泊まった阿曽原では、BCに荷揚げするウイスキーが重かったもので「飲んでしまえ」ということになり、3人で空っぽにしてしまいました。そのために、翌日は二日酔いでもう気持ち悪かったですね。でも昼ころに仙人池に出る頃には酔いも覚めて、そこの露天風呂にも入っています。「昼から温泉に入るとダレルよなあ」とかいいながらも、池ノ平の小屋だったかラーメン食ったり、そこのバイトの姉さんに見えた山の名前教えてもらったり、この二日掛かりの入山の方が、合宿の出来事よりも覚えていますよ。黒部川の大クラシック歩道でしょ、素晴らしい。

 合宿では三ノ窓に移動してチンネなど登りました。仲間とワイワイで楽しかった頃ですね。



明星山 1981年 秋

 明星にフリースピリッツなんていうルートが開拓されたときでもあったし、日和田山の女岩で何度もトップロープでハング気味の岩を練習していた頃でもあった。たった一回だけいったことのある、明星山になった。岩壁の前が小さな公園のようになっていて、そこで1泊してルートを2本登りたかったのだが、一日目は小雨で停滞。それに石灰岩のこの岩は、ちょっと濡れただけでとても滑りやすくて、パートナーはその日には取り付きたかったようなのだが、私はそこまで貪欲でもなくて、アッサリ停滞を決め込んでいた。その翌日が快晴で、もっとも易しい壁の左側のルートに取り付いたものだった。


紅葉で岩壁が色づいていた頃の登攀。

 岩壁の前を流れる川を横断するのに、送水管の上に侵入するようなことで、岩に取り付いていた。「こんな悪さ見たいことしないと、取り付けないのか」とちょっとビックリした。それに林道のすぐ脇に、その岩壁が聳え立っていて、そんなことにも違和感があった。石灰岩の岩は、秩父の二子山とここしか経験がないのだが、とにかく手のひらが切れるように痛い。それに妙に浮石がテラスにゴロゴロしていて、ちょっと動くとそれが落石となって困った。

 こうして写真を見ると、紅葉というほどでもないのだが、でも少し木々が色づいている。別にのんびりしていたわけでもないのに、後続のパーティに抜かれて、終了して頂上を経由して下山してきたときには、夕暮れが迫っていた。一般ルートからの下山は実に大回りになる。最寄り駅は大糸線の小滝。帰りの最終列車に間に合いそうもない。仕方なくて、ずうずうしくも地元の農家に声を掛けて「車を貸してもらえませんか」と。借りた車でデポのテント用品を回収して急いで駅に向かった次第だった。それでも間に合った列車は糸魚川から信越線経由で翌朝に東京に戻る夜行だけだった。夜行に乗るときには、4人掛けボックスのシートを床に下ろしてしまって、それをベッドの代わりにして、床に大の字になって寝てしまったものだった。車掌も何も文句を言わなかった。そうして本当に熟睡して東京に戻ったものである。信濃大町から中央線で帰る時にも、夕方の6時を過ぎてしまうと、夜10時頃発の夜行しかなかった。当時は朝帰りの列車を利用せざるを得なかったときが多かった。何だかとても懐かしい。

南ア・聖岳・赤石岳・悪沢岳 1982年 1月

 南アルプスの南部に入るには、実質的に畑薙ダムから茶臼岳に登る道以外に、適当な登山道は存在しないのである。大井川のあの長い林道は、林野庁だか環境庁が独占していて、クルマの通行は認めていない。当時から現在までそんな状況が続いている。このとき、私たち二人は、親戚から譲り受けた軽自動車に乗って、東名から静岡に向かった。畑薙ダムまできて、もしかして林道に入れるのではないかとおもったところ、車止めのゲートが当時はワイヤーを張っているだけの簡単なものだった。そのワイヤーをギリギリ押し上げてみると、軽はその下をちょうどくぐれるものだった。それならばと聖沢の出合まで入って、そこから入山することにしたのだった。

 年末だというのに、雪がない。南アはそういうものなのかと。晩秋の山行の様子で、聖沢の登山道を登る。稜線にでる少し前にようやく雪が出てきた。それでも稜線は真っ白でアイゼンの世界になる。


大聖寺平からの赤石岳。正月でも雪は少ない。

 過去夏に2回はこの稜線を歩いているのだが、「冬は何で夏よりも時間がかかるんだろうなあ」と思った。聖平に泊まった翌日に、聖岳を経て中盛丸山までしかいけなかった。その翌日に赤石岳を越えて、大聖寺平まで。中盛に泊まった日に積雪があって、トレースがすべて消えた。しかし翌日は快晴で迷うこともない。雪の日には誰も登山者がいなかったのだが、快晴になると、2人、3人と見かける。「晴れると登山者というのは、どこからか必ず湧いてくる」と思う。私たちも多分そう思われているだろうか。

 悪沢岳を越えた後は、千枚冬季小屋に入る。ここでは10人くらいの登山者とかち合ったのか。だいたい冬季小屋というのは、小屋の2階の屋根裏が開放されていて、まさに狭い洞窟のようなところから入っていくと、中はけっこう広かったものだった。大天井の冬季小屋に入ったときもそんなだった。延々と繋がる南アの主稜線の真っ只中にいるのに、当時はそれが当然のことに思えていた。若いということなのだ。贅沢すぎる山に囲まれていても、それが当たり前のこと。体力が落ちる頃になって、当時の価値が身にしみて分かる。

 下山はそこから椹島へ下ってクルマに戻った。するとクルマがいたずらされたのだろう。後部のガラスが割られていたのである。ここまでクルマで入ったことに他の登山者が嫌がらせしたのか、動揺した。しかし他に被害はない。林道を下って先の車止めのところにくると、監視小屋に人がいる。同じようにワイヤーを上げて通過しようとすると、管理人が×を指示する。といっても帰るだけ。無視して帰途に着く。

 4,5泊の山行を終えて、行きに寄ったおでん屋に帰りにまたよった。同じオバサンが出てきて「いま下山です」というと「早かったのねえ」。4,5泊が早いか?まあ1週間くらいかかると行きにいったから、それを真に受けたのだろうか。

 こうしてなんとなく愛着のあった南アの冬縦走は終わった。

 この山行は計画の段階でこんなことがあった。「危なっかしいヤツ」「危険なヤツ」をパーティに加えそうなことになっていたのだ。

その年の9月か10月に私はこの正月の計画をクラブで言い出した。長年のパートナーが同行することになった。実はその他にAという新人も参加したい旨を早くから言い出していたものだった。「そうだね」とOKしていた。クラブの集会は月に2回ある。そのたびに、装備の計画、食料の計画を本来は話し合う。いや基本計画の打ち合わせ、変更もある。ところが彼はどうも人付き合いが限られていたのか、集会が終わるとさっさと帰宅してしまっていた。そんなことが3回くらい続いていた。通常だと親しい仲間は帰りがけに居酒屋に寄ったりもするのだが、それにも参加しない。彼も交えて打ち合わせをしたいと何度も思っていたのだが、彼にもその意思はないようだし、ついに機会がないままに山行が迫ってきた。私は彼を同行させないことにした。迫った時期に「今度の計画にキミを同行させることはできない」と。彼は動揺したようだった。「どうして、あんなに早く申し出ていたのに」。「いや、一度として計画の話し合いに参加しなかった」。彼はふて腐れたように「そうですか」と。その後彼は穂高の岩登りで転落して入院することになった。退院したと同時に退会した。正直にいえば、どこか気に入らないやつ、可愛気のないやつなど、先輩は導いていく必要はないと思える。この私にしても、これでもどこか先輩に気に入られた部分があって、ここまできた。そういう世渡りが下手な新人というか、先輩に好かれない人、友人として魅力のない人に、なにも無理してこちらが骨を折る必要はないのだ。そんなことを思い出した。リーダーがパーティの行動に気兼ねしていては、ろくなことにならない。

黒部川・柳又谷・カシ薙深層谷 1982年 夏 

 前年の上ノ廊下が沢登り元年だったとすれば、これは2年目の山行だったということになる。ルート図には当時6級の最高グレードが付いていた沢だったが、終わってみると?の感触もあった。本当にそんなに難しいのかと。しかしこの頃は毎年のように、あのトロッコ電車に乗っていたことになる。宇奈月から乗って、途中の黒薙駅で降りて、廃線になった軌道沿いに歩いて柳又谷に達したものだ。しかもその辺りに行くと何故か工事用のトラックが走っていたりして「いったいどこからあのトラックは入っているんだ」と驚いたものなのだが、どうやら越道峠から北又谷に入っていたようで、結局今はダムになっているようだが、その工事用トラックだったのだろう。


ジャンプ一番で流れの6割くらいを越えて、向こう側の浅瀬に着地。

 柳又谷ではしばらく本流を遡行することになる。しかしここも入ってすぐに、ゴルジュで沢の横断が何度もでてきた。泳ぎ、ジャンプなどいろいろ技があるのだが、少なくとも私は瀞を泳ぐときは別としても、足が川床から離れるときには、必ずザイルを使うようにと考えた。それはずっと守ってきた。つまり泳ぐようなところがある沢には、単独では入れないということになる。でも結局はこれまでトップで流されたことはなかったのだが、それは岩登りのザイルのトップで滑落したことがないというだけで、「なら単独登攀ができるのか」という設問と一緒で、それは不可能になる。それが登山というものなのだ。


セカンドは、ザイルに体重を任せて、自然にこちらの岸に引っ張られる。

 本流では何度かの横断をして、支流のカシ薙谷に入るのだが、やはりそこで極端に水量が少なくなってしまったことが、当時はやや残念に思った。だからといって、最初から本流の計画は立てられない。

 支流の様子はほとんど忘れてしまった。ただいくつかの滝をドンドン越えて、最後は雪渓の上に出て、猫又山に登りついたはずである。さらに清水岳から白馬岳へ縦走して、そこの小屋に泊まったことだけは覚えているのだ。遡行祝いにビールで乾杯したら、もう頭がガンガンに痛くなって「これも高山病なのか」と笑いあったものだった。相棒が布団の上でシュラフに入ると「本当に気持ちがいい」といっていた。

 この山行は、水量の多い沢のステップアップみたいなものになった。今にして思うと、平常時でこれだけ水量が多い沢登りは、本当に楽しい。だからいくら上部の岩壁が立派でも、水量そのものが少ない沢はそれだけで、あまり魅力を感じなくなってしまったものだった。増水の状況は別として、水量の多さだけで計画が押しつぶされるようなことは、その後もほとんどなかったといっていい。それは黒部の上流域や下流域に勝るほどの沢は、国内のどこにもないだろうという自負でもあったのだ。

鹿島槍ヶ岳 1983年3月

 大人になって(18歳過ぎ)初めてのまともな冬山は、アルバムの最初のページにあった、77年12月(21歳)の遠見尾根から五竜岳登頂になっている。それ以前には高校時代の山岳部で、正月に八ヶ岳と上州武尊岳。3月に春休みに皇海山と那須岳に行ったくらいであった。この遠見尾根は単独での山行だった。スキー場最上部からトレースに沿って歩き、確か同じような単独の女性と数時間同行したように覚えている。彼女は西遠見にベースを張っている山岳会の合宿に遅れて合流するところらしかった。私も同じようにその場所に夏用のツェルトを張ったものだった。彼女と仲良く数時間歩いたのであるから、じゃ単独の私を自分たちのベースキャンプに招待でもしてくれるのかと実は内心期待していたのだが、彼女もその団体では新人っぽくて、待ちに待っていた新人の女性会員の合流。私などに、古株の男たちが歓迎するわけもないのだろう。当然のように放っておかれたままだった、まあ当然なのだが。

 その日夜に雨が降ってきた。けっこうな雨量だった。冬の雨というのは最悪である。水がテント内にしみてきて、雪をへこませて寝ているその自分の体のところに水溜りができてくる。エアマットが荷物になると、テント内の敷物は何も持ってこなかったのだ。羽毛服を着てシュラフに入っていたのだが、そのすべてが水びだしになった。寒くて夜中に震えて目が覚める。背中が濡れるのがいやだったから、横向きに寝る。眠りについて30分も立つと、その右肩が冷たくて震える。そうすると今度は反対向きになってまた寝る。それでも少し立つとまた寒さに目が覚めて、また反対向きになる。寝床は水溜りになっている。そんなことをして朝になった。雨はやんで曇り空だったか。


五竜岳〜キレット間からの鹿島槍吊尾根。こんなにナイスショットの写真を撮っていたことを、今日まで知らなかった。

 西遠見に幕営した連中は朝になると、ほとんどが行動を開始した。私も彼らのトレースを追って、白岳から稜線の避難小屋に向かった。小屋は正月休みの連中でけっこう混雑していた3,40人ほどが入れる小屋がほぼ満員だっただろうか。小屋から山頂までは2時間ほどかかる。その日頂上に向かったのか翌日だったのか、とにかくこの山行で五竜岳の山頂には運良く立つことができた。その途中に一箇所雪壁を登るところがあった。ザイルを出しているパーティもある。それなのに、そこを前向きに歩いて下山してくる人もいる。雪の急傾斜というのは、やはりいやなものだ。正月だから人通りも多い。とにかく他のパーティを追っていけば自然に頂上に出るという、まあ安易な登山になった。

 頂上からの下りのちょっとした岩場では、登り客とのすれ違いのために順番待ちとなる。それに中には10人くらいの団体もいて、一人の私は順番待ちの間に、自然とその中に割り込むようなことにもなった。「こうして止まっているときには、手足が凍傷になりやすいから、こうやって指先動かしていないとダメだぞお」と、そのパーティのリーダーが言う。「はい、そんなものですね」と、私もメンバーと一緒にオーバー手袋の指をグーパーするのだった。フードをかぶってサングラスをしていると、私もメンバーの一員かと思われたのだろう。かといって、狭い岩稜帯では道を譲るなど器用なこともできない。それに後の人たちも、私のことメンバーの一員だと思っている。でもそうした扱いを受けることが、なんだか単独にとっては、心強いという他力本願の部分もあったのだ。

 先の急な雪壁の下りでは、そのパーティはザイルを出すことにしていたようだったが、さすがにそれに加わるのはおかしくて、慎重にクライムダウンしていった。小屋では1泊だったか、2泊したかどうかは忘れてしまった。実はこの山行に私はザイルを携行していたのである。万が一に条件がよければ鹿島槍方面に縦走できるのではないかという、淡い期待を抱いていたのだ。夏ならそれも一般ルートなのだから。キレットで1回懸垂下降があると、それはガイドで読んでいたのだが、そのためのザイルである。しかし五竜の頂上往復にそれは持っていかなかった。白岳程度のトラバースに慎重を期すなど「冬は思っている以上にむずかしい」と。それに小屋から登頂するパーティは、ほとんどが往復計画の空身なのである。ということは、やはり鹿島槍方面は相当に難しいのだろうということで、期待はあっさり裏切られた。

 その後ベースに戻った。張りっぱなしにしていたツェルトは積雪で半分埋まって、へなちょこに崩れていた。行きに同行していた女性が、「しばらく(やはり2泊くらいか)戻ってこなかったし、心配していました」といった。招待してくれなくても、気ぐらい使ってくれるもんだなあと。「上の小屋でゆっくりしていたんです」。

 それから数年したやはり正月休みに、今度は3人で同じルートにきた。当時買ったばかりの山スキーで3人パーティで入る。実は鹿島槍の大川沢からカクネ里方面に行ってみたかったのだ。ところが荒沢の出合までいけたかどうか。雪も少なくてそこの渡渉をスキーを履いたままGOしてしまったのだ。ずぶぬれ。シールもずぶぬれ。こんなことがあっていいはずがない。私に引きずられたメンバーも「もう戻りましょう」と全然その気がない。私も了解して、遠見尾根に転進したものだった。そのときは、ゲレンデ最上部くらいから少しシールで登ったものの、じゃまなスキーはデポして、やはりトレースに従って尾根を登り、稜線では小屋前にあった雪洞を利用して、また五竜の頂上にたった。そのときに鹿島槍方面の踏み後をみたのだが、それが全くない。「冬にあっちに行く人は相当少ないんだなあ」と。そのときに持っていったスキーは、以降3回ほどしか使わなくて、その山スキーはゲレンデで遊んだことの方が多かったくらいでもある。


キレット小屋は吹き込んだ積雪のために使用不可。その脇にテントを張って泊まる。

 鹿島槍にはなんとなく憧れと執着はあったのだが、あまりにも漠然としていて計画性に欠けていた。

 数えてみると最初の遠見尾根からこの3月の鹿島槍まで5年ほど立っている。その間に社会人クラブで冬、5月の経験を合わせて10回程度過ごしたことになるのだろうか。5月の北鎌尾根にいったのは、その中間くらいになる80年のことだった。

 さて83年の2人での山行は、プランは相棒のものだった。80年5月の北鎌尾根には参加していない彼だったが、以降に冬を登りだした、後に会で長年チーフをやることになったSとのパーティになる。

 近年改めてその彼とこの山行のことを話したのだが、「パートナーが見つからなくても単独でこの山行をやっていたと思う」というのだ。前年辺りに、白馬からの稜線をトレースしていたようで、その続きの山行だったというのだ。目的を持っていたものは進歩が早い。反して私といえば、冬は合宿についていくだけがほとんどになっている。

 思い出してみると。80年の5月の北鎌は、私の前の世代のチーフKの最後の山行だったような気がする。そうしてこの83年の鹿島槍は、後輩であるのだが次の世代のチーフSとの山行だったのだ。思い出してみて、積雪期に関してはその二人のチーフに恵まれた私が、両方の山行に参加して「美味しいところ取り」をしていたのである。もし彼らと出会わなかったとすれば、それは積雪期が未経験に終わっていたかもしれないのだ。先輩と後輩に恵まれたと思わずにはいられない。自分で計画したのは、正月の赤石岳から荒川岳の南アルプスと、同じように正月の常念岳から西鎌尾根だけなのである。チーフ交替時期のメンバーが揃わなかった頃の正月合宿ということになろうか。その程度だけの山行に終わっていたとしたら、悲しい積雪期の経験だけに終わっていたものだろうと思う。

 当時、会は恵比寿で集会を行っていた。その喫茶店で、彼がこの鹿島槍の計画を持ち出した。参加したいと私はすぐに反応する。それは3月下旬の連休をはずして、より時期も早い、10日頃の日程だった。その時期が気に入っていた。「トレースのない積雪期に入ってみたい」という思いだけは前からあったのだ。それにやはりパートナーが彼であることが、心強い。

 入山は八方尾根からだった。ガスのなかを、樹林帯を抜けると実にあっけなく稜線に飛び出して、冬季小屋が見つかった。誰もいない。その小屋の中にテントを張って2泊した。二日目が悪天候で停滞したことを覚えている。さて翌日、縦走が始まる。

 五竜岳に登頂したことはもう忘れてしまった。問題はそこから鹿島槍に向かう稜線に入ってからだ。いきなり急斜面の下降になった。冬山の技術の差がでる。相棒は前向きで降りていく。私は最初クライムダウンの姿勢になった。「お前、知らないうちになんかうまくなったなあ」と思う。それが悔しい。それから延々と縦走は続く。年齢では2,3歳上の彼であったが、クラブでは私が先輩。こういう関係も私から見ると微妙にいいもので、お互い気兼ねなく天気のいい日は勝手に進む。ちょっと休んでいると「じゃ、先にいってるから」と。「ああ、いいよ」。後から行くものは楽である。雪には彼のトレースが残っているし、彼は私よりも先に一人で歩きたいという気持ちが強かったのだろうと、今になると思える。ただ岩稜帯では、トレースもないわけで、なんだか稜線と下の巻き道と別々のルートを通ったときもあったようだ。


キレットを懸垂下降した後に、北峰下部のクサリ場から大トラバースが始まった。

 午後になるといい加減に疲れてきた。朝、唐松岳を出発しているのだから、そんなものなのか。キレットに入るときに、ちょっと小さな雪庇を乗り越えるところがあった。ばてた私はそこで立ち止まざるを得なくなる。先にキレットの冬季小屋に着いた彼は、遅い私に向かって「おーい、おーい」と2,3度叫んでいる。疲れて返事もできない私が少し後に「なんだあ〜」と。「どうした?」「疲れたあ〜」。このやり取りが、後に笑い話となった。心配していた彼は、ほっとしたと同時に、呆れてしまったのだろう。

この鹿島槍に向かう稜線から撮った写真に、ともてきれいに吊尾根が写っているものがあったのは、今回初めて気がついた。人の写っていない山の写真などつまらないものが多いのだが、自分のアルバムの中にこんな素晴らしい写真があったとは。パートナーについて行っただけの山行では、見逃してしまったことも、また実に多いものだった。

 翌日は吹雪かれた。それでもキレットで停滞するわけにはいかない。吹雪の中を出発し、まもなくキレットで懸垂下降し、以降は腰までの大ラッセルき斜面トラバースを1日中続けて、どうにか吊尾根の平坦地に夕方ついたのだ。このルートは、夏の経験もない。彼はどうだったのだろう、聞いたこともなかった。今度会ったときに聞いてみよう。北峰斜面を上部まで登りすぎて行き詰って下降したり、その下降でもアンザイレンしたままになる。一日中ザイルはつけっぱなし。スタカットでトラバースしていた時間も長かった。よくぞ雪崩れなかったものだというのは、今になって思うこと。しかし逃げようがない。ああいう日は停滞するものなのか?行動していいものか? 多分誰でも行動する。運がよかったことになる。


西俣沢出合の大デブリ。こんなの見たのは初めてだった。そこを横断していくパートナー。

 吊尾根テント泊の翌日は快晴に恵まれた。南峰の登りがけっこう急だったことを思い出す。ピッケルの石付きは不要だ。ピックだけを手がかりに、アイゼンの前爪だけで登った。クラストして実に気持ちのいい斜面だった。あとは頂上の記念写真と、延々と冷池の小屋まで。小屋の屋根から水がポタポタ滴っていたのは、快晴だった証拠である。数人の登山者ともすれ違った。ただ赤岩尾根の下りが、一般ルートだと軽視していたわりに、てこずってしまったのだ。稜線からいきなり下る斜面はきつい。ただここにはトレースがあった。1日晴れるだけで、必ず人気ルートには登山者が出没してくるものだ。今年の春に北股谷にいって思ったことなのだが、ここは一般ルートとはいっても、その傾斜はバリエーションルートとまったく同じであるということなのだ。ただ地図に赤線が引いてあるルートはそれだけで易しいと思い込みがちなのであるが、積雪期にはそれは大した意味をもたないものだというのも、今年分かったことでもある。そうして赤岩尾根を下って西俣沢出合に着く。ところがここは北股谷からの大デブリが待っていた。私こんなデブリを見たのも、これが初めてになる。シュークリームのアイスをかき回したように、雪渓が波打っている。後年このデブリのことだけは、忘れたことがない。見ただけで「来てはいけない場所にきてしまった」と思ったものだ。そういうナイーブさが、ある意味で幼稚で消極的な姿勢になっていた。別に見るだけなら誰も文句は言わない。しかし積雪期の谷に入ってはいけないという古典的な格言は、デブリがあるところにも行ってはいけないという意味にもなる。ずっとそう思っていた。

 夏の沢が好きだったのに、冬にはそこを絶対的に回避していたこと。その呪縛から逃れられた最近になって、ようやく山スキーの楽しさが分かるようになった。過去のトラウマから逃れるということは、時間のかかることなのだ。

 この鹿島槍は積雪期の最高の山行になっている。今年6月、この山行から20年もたっているのだが、妙なことから鹿島槍を北股谷から再登することになったのだ。この北股谷もナイス・クライミングとなった。それもこれも、20年前の3月の鹿島槍があったことに他ならない。忘れられない山行というのは、登山観を豊かにすることになった。

谷川岳・一ノ倉沢・滝沢第三スラブ 1983年夏

 20歳代後半のこの頃は、夏の岩登りに最も充実していたときではなかったのかと、改めてアルバムを見ていると思えてくる。パートナーのSとは同期で入会して5年目というところだった。彼とはそれ以前にも剣岳のチンネ、頸城の明星山でパーティを組んだことがある。集会の席で「第三スラブにいくから、誰でもいいけど一緒にいかないか」と誘われた。乾いた岩だけに集中していた彼は当時は絶好調のように見えて「とにかく誰でもいいから連れて行ってやるよ」といっていた。私はこのルートに連れて行ってもらったのである。

 初期の岩登りのことを正直に告白すると、初めて一ノ倉沢を登ったのは、クラブに参加した年の6月の中央稜という初級向けのルートだった。そしてその2,3週後に、当時衝立岩の全ルートの登攀を目標にしていた2年先輩が、そこの岳人ルートにいくのだとパートナーを探していたときがあった。東京岳人クラブが開拓したルートである。たまたま都合のいい相手がいなかったりしたようだった。「キミの週末の予定は?」と聞かれて「私は空いていますから、どこか連れて行ってくれるならば、どこにでも」と。「新人かあ?でもまあいいか」と。こうして一ノ倉沢の2回目の経験で、当時は最難関いや、国内でも最も難しい6級のルートと紹介されていた衝立岩の、それも易しくない岳人ルートという岩場に、付いて行くことになってしまったのであった。「まあ、天気がよければそんなに難しいってこともないから」。


滝沢下部の大滝をセカンドで付いて行く。

 その後の彼の記録を読むと、彼が数年前に始めて一ノ倉に入ったときに、ちょっとした有名な遭難が衝立岩で起こって「彼らの残置したザイルが、岩壁で異様に垂れ下がったままになっていた」と書かれている。そういう光景を目の当たりにしても、彼の目標は衝立岩に当時5本あった全ルートをトレースすることだったそうだ。

 その日の登攀は、朝5時頃に出合いで落ち合って、彼が2本持ってきたザイルの1本を担いで、ほとんど休むことなく雪渓からテールリッジを中央稜バンドまで上がることになった。そこで登攀の用意をして、彼はコピーしたルート図と現場の岩の様子から取り付きを探しならが、私はずっと後についていた。全6ピッチほどのルートはすべて先輩の彼がトップをリードし、私は後から付いていく。途中多少の人工登攀もあったのだが、セカンドで登っていくぶんには、まあ何とかなった。ただ岩壁半ばくらいまでくると、さすがに高度感が出てくる。衝立岩がほとんど垂直に切れ立っているというのは本当のことで、足元から下の斜面が、覗き込まない限りは全く見えない。つまり体全体が空中に張り出しているような錯覚にとらわれて、真下には衝立スラブのあの美しい緩傾斜帯の谷底しか見えないものなのだ。その高度感の恐怖心で衝動的にその小さな岩のスタンスを逃げ出したい気分に襲われる。そういう動揺した気持ちを抑えることに、精神的に疲れたものだった。押しつぶされそうな気分は、如何ともしがたい。冷静に、冷静に・・・というわけである。

 壁の中央くらいまで一気に上って、そこで一緒に休憩をとる。彼がリンゴを持ってきて、それを半分もらった。一息ついたことになった。

 全面的に先輩を信頼していれば、今日の登攀はなんとかなるだろう。「ただ先輩も致命的なミスを犯してしまった場合には、これは一挙に共倒れしかないなあ」と、途中で覚悟を決めた。岩登りでパーティを組むというのは、そういうことになる。

 後半の岩登りは、もう前半で恐怖に対しては慣れっ子になってしまったのだろうか、谷川岳では有名な泥の草付きテラスが、泥ごと全部グラグラしているのだが、それを騙しながら乗っかってしまったりしながら、なんとか終了点まで登りついた。実際には5時間程度の登攀だったのだろうか。下降は北稜を懸垂下降した。そのときにも、ザイルの結び目の位置や、回収の方法など、いちいちアドバイスを受けながら降りていったものだった。まだ明るいうちに余裕で下山できた。

 当時はフリークライミングのブームは始まっていたのだが、それでも「土木工事」と揶揄されていた人工登攀のルートに最高グレードが与えられていた。もちろんその一つのこうしたルートを自分がトップで登れてこそ、本当の成功といっていいのだろうが、付いていって登らされただけでも、やはりこの日の登攀は自慢したくなった。自分ひとりで胸に秘めて楽しむというのではなくて、自慢したくなったとき、それはまったく消化できていないことになる。「もう一回その衝立岩を登ってみますか?」と質問されると、「いいえ、あの1回限りでもうたくさんです」というのが正直な答えなのだ。急傾斜で怖いこと。それと他人が過去に埋め込んだボルトにあぶみを掛ける事に、どうしても違和感があったこと。それにこうした行為が、日本で最高ランクの岩登りであり「これから長い人生岩登りをしていったとしても、グレーディングは、必ずこの衝立岩の下位にランクするものばかりなのだろうか」という戸惑い。なまじ難しいルートを登ってしまったために、グレーディングの弊害をモロに感じて、自分で消化不良を起こす。うろたえてしまったのである。そうしたことに答えが出ないままに、その後飛び越えてしまった中間に位置するルートを同期の連中の登り始めることになる。南稜、烏帽子岩凹状岩壁、変形チムニールート・・・。1回1回の登攀は素晴らしいものなのであるが、どうしてもそれを素直に受け入れられない。「どうせあの衝立岩以下のルートでしかない」。なんとも歪んだ姿勢だったのだと、いま思う。グレードなどは他人が付けたもの、自分でいいと感じたものを素直に認めればと。言葉で言うのは易しい。しかし岩登りに熱くなっている20歳代の小僧たちは、ルートの難易度を盲目的に信仰している連中ばりなのだ。他人よりもグレードの高いルートを登った者が、優位に立つ。無言の競争心に優劣が付く。そんな白けた気持ちから、その2年後に私は早々と、観光旅行のチャンスも含めて、ヨセミテに20日ほど滞在したのだ。


スラブのトラバース。景色が素晴らしすぎる。

 たった20日間、いや実質1週間のヨセミテ体験で、岩登りがうまくなるとも思えない。帰国して「難しいルートにいってみよう」とヨセミテのパートナーと、南稜フランケという一ノ倉では中の上くらいのルートに取り付いた。しかしここは、岩が恐ろしく脆いのだ。つかむそばからボロボロと崩れてくる。2ピッチ登って、私は早々と諦めて下降したい気持ちになった。相棒は「せっかくなのだから、いけるところまで」というのだが、これもなまじっか世界一コンディションのヨセミテを知っているだけに「こんなボロ岩の一ノ倉など、岩登りの対象にならない」と言い切って、この日の登攀をやめてしまった。ある場合には、ぼろくて崩れやすい岩を騙しながら登る技術も、必要なものなのである。しかし「一ノ倉を登る」という目標ならばそれは必要かもしれないのだが「快適な岩を登る」という設定では、やはり一ノ倉はその対象にはそぐわない場合も多いものだ。「アメリカかぶれの大馬鹿者」になってしまったこともあったのだ。

 当時の一ノ倉はシーズン中は大人気で入山者も多かった。極端にいえば、7,8月の週末には、必ず1件は遭難者が出たということもあった。年間に20人以上がこの一ノ倉で命を落としたこともある。ある週末の早朝に、列を作るように入山する自分たちを含めた登山者をみて「今日は、このなかで誰か一人が死ぬ計算だなあ」といって、入っていく。確かに見ていても危なっかしい連中がいくらでもいるものだ。取り付きに行くまでのテールリッジという場所で、早くもザイルを出しているパーティもある。「こんなとこでザイル出すようでどうすんの?」。数年の経験を積むと、そうした言い方はまさに的を得ていることだと自分でもようやく分かってくる。超新人の養成ならともかく、一般のパーティでこんなことしていては、その先の登攀が思いやられるものだ。

 混雑している朝の入山を避けて、前の日に南稜テラスという取り付きまで入って(出合から約1時間半)そこでビバークして、翌日は1番で取り付こうとしたこともあった。あるいは真夏のお盆休みの最終日の夕方など、もうほとんどが下山してしまったあとに、烏帽子スラブや衝立スラブなど一般には落石の通り道として避けられている場所を、あえて登下降してみて「これは快適じゃないか」と楽しんだこともあった。「一ノ倉の登攀はこうあるべきだ」という定説に、あえて逆らってみた時期でもある。いや、本来は岩登りに定説などあるわけがない。自分で判断して正しいと思ったことを実行してみるものだ。ダメならば引き返す。ところがあれだけ順番待ちで混雑していた一ノ倉では、途中までいって引き返してしまうと、これは順番の最後になってしまうのだ。それは、その日の登攀がすでに失敗したことを意味する。バーゲンセールの買い物に殺到するような瑣末なことが、当時の一ノ倉では繰り広げられていたのであった。


第三スラブ最終ピッチ付近、このあと少し歩いてからドームの登攀へと続く。

 そのように、少し理解の仕方が変わって余裕ができてから、古典的なルートといわれる、グレードは中の下のルンゼルートにこだわるようになった。沢登りの延長をこの一ノ倉でもやってみるということでもある。本谷の四ルンゼ、三ルンゼ、二ルンゼ。アルファルンゼ・・・。烏帽子奥壁を登って烏帽子岩に出ても「頂上を回らずに北稜から降りよう」と衝立の頭まで下降しようとしたことがあったのだが、あの烏帽子尾根の烏帽子岩と衝立の頭までがあれほど標高差があることもそのときに初めて知ったことだった。もう見下げるくらいに真下に見えた。また人が少ないときには、衝立の頭からコップスラブに降りて、そのままスラブを下降したこともある。衝立沢からは雪渓に飛び移れないことが多いのだが(雪渓の崩壊が早い)、烏帽子スラブの方だとまだまだ雪渓に飛び移れることも多かった。やはりこの谷は知れば知るほど味が出てくる。これだけの氷河の谷のなかを自由自在に歩きまわれるのは、他の滝谷でも剣でもできないことだ。我がクラブの会長の寺田も「一ノ倉は世界一の岩壁」というが、その意味が少しずつ分かりかけてきた。

 寺田は一ノ倉に多分100回以上入山している。「いついってもいい」「何度登ってもいい」という。そういえば、谷川岳の一般ルートから3000回近くも頂上へ登っているオジサンもいる。そういう気持ちが今になってようやく分かりかけてきた。「1回登ったら2度と登らない」といっている人は、まだまだ未熟者なのである。一ノ倉沢と比べて、では例えば槍ヶ岳を挙げたとしよう。一ノ倉に10回登って、11回目くらいに槍に登ることでそれはちょうど調和すると言い換えることもできるのだ。その次にまた12回目から20回目まで一ノ倉に通って、21回目で槍に行くという意味だ。楽しさのバリエーションを槍ヶ岳の10倍持っているのが、一ノ倉沢になる。大島亮吉の「近くてよい山なり」は、一ノ倉の入山者が少なくなったいまこそ、本領を発揮する。

 さて滝沢の第三スラブの登攀はそんなときの計画になった。もう詳細はとっくに忘れている。でもパートナーとなった同期のSが撮ってくれた写真がたくさん残っているということは、私はカメラも持っていかず、彼はその山行に目的と意思を持っていたのだろう。難しいところは彼がトップをした。すでに当時絶好調の彼は、いざとなったら自分ですべてやってみせるといっていたほどだった。彼も私も運動靴で登ったし、私などはヘルメットも被っていない。あんなものは積雪期のものだと。

 第三スラブは、過去にいくらでも話題になったルートでもある。中央稜辺りからみると、美しく光っている。あれほどピカピカに光った岩は国内のどこにもないと言い切っていい。そこを登っていると思うだけで、自己陶酔のようなものだ。

 ただこの日には、午後から雨模様になって、なんどドームを1ピッチ登ったところで、時間切れになってしまい、私たちは夕立と雷雨のなかを、ビバークせざるを得ないことになってしまったのだ。私の登り方が遅かったせいもある。「しょうがねえなあ、またビバークなのかよ」。彼はこのシーズンにやはり誰かと一ノ倉で、ビバークしてしまったことがあったようなのだ。月曜の無断欠勤がこの夏に2回目だといっていた。

 でも今となってはもういい思い出になる。とにかく、過去600人の遭難という世界一の数字の谷川岳のその大半の人がここで命を落とした。簡単に取り付ける割には、中身はとんでもなく難しいというわけである。濡れた草付きと逆層のスラブ。どんなベテランにでも、緊張を強いる。逆に言えば、一ノ倉を登れれば、穂高も剣も実に易しいのだ。それは本当のことだ。いつも近くにいるのに、それは優しいラブラドールやゴールデンではなくて、野生のハスキーや甲斐犬という狼みたいなものが、この谷になる。水上の温泉客のオバサンが、タクシーを飛ばして今でもこの出合には見学に着ている。けれど私たちは、常に緊張感と対峙するように一ノ倉沢と接しなくてはならない。


南ア赤石岳・赤石沢〜大雪渓沢 1984年 夏

 埼玉の実家を出て、恵比寿のアパート住まいを始めたのが、ちょうどこの夏だったのを思い出す。ものすごく暑い夏で、実家の自分の窓枠付けのエアコンを取りに行って、急遽このボロアパートに取り付けて、どうにかこの夏をしのいだ記憶がある。そんなときの山行になる。私のいつものパートナーと、新人で入会した女性を連れての3人の山行になった。どんな新人であっても、同行させるくらいは簡単なことだと、けっこう自信はあったものだ。このときもクルマで大井川林道の奥まで入って、ほとんど沢の取り付きに駐車したはずである。


赤石沢、下部のゴルジュ

 沢に入ってまもなく、実に珍しいことに10人くらいの大パーティを追い抜くことになった。後で知るのだが、中国か韓国の友好登山パーティだったそうだ。

 最初にいくつかの瀞や淵を通過した後に、核心部の大滝に出会う。黒部の谷と若干様子が違うのは、その大滝辺りでも沢の流れがけっこう急傾斜で上がっていたことだった。それに水量もある。「大きな沢といっても、何も水は横に流れているだけではないんだなあ」と。まあ当たり前のことでもあるのだが。

 途中の高巻きで、勘違いして全く逆方向を登ってしまい、どうにも高巻きの継続ができない。1時間くらいロスして仕方なく降りると、なんと元の地点に戻ってしまう。よくよく見れば、その対岸にそれらしい踏み後がある。得てしてマヌケなことをしてしまうときもあるのだ。どこで幕営したのかはもう忘れた。


聖平はニッコウキスゲの群落でした。

 赤石沢の本流を詰めていくと、縦走路の百間洞に出てしまうだけ。それではつまらないと上流は大雪渓沢に入って、聖岳に出る計画であった。

 そこに入ると、側壁のトラバースが少し続いた。ちょっと登りすぎて怖い思いをしたりもした。さらに上部は雪渓登りになった。頂上から聖平に下ると、そこにニッコウキスゲの群落。これほどのニッコウキスゲは見たことがなかった。このときは小屋に泊まって、翌日下山。思ったより簡単に終了して、なかなか寝付けなかった。林道に下山してクルマを取りに戻る1時間くらいの間に、新人の彼女が冷やし中華を作ってくれていた。素晴らしい沢だと紹介されている割には、期待薄だったのを覚えている。

 

槍ヶ岳・北鎌尾根 1985年1月

 正直にいうと、積雪期の山行でしっかり記憶に残っているものというのは、ほとんどない。つまらなかったのか、印象が薄かったのか。とはいえ山行回数が少なかったわけではない。年末年始の休暇を利用した正月合宿に限ってみても、78年の春に社会人のクラブに入った私は、参加した最後の88年までの間に、会としては毎年行われ、10回の山行があったわけで、そのうち私は9回に参加したはずなのである。最初の年は上高地から明神岳に上がって、前穂〜奥穂〜西穂と縦走した。翌年は不参加だったが、常念〜槍といった年もあったし、南アルプスの赤石岳、遠見尾根から五竜岳・・・。正月に河童橋の上で撮った写真が残っている年があるのだが、その後明神へとだけ書いてあるのは、どこを登ったのだろう?覚えていない。どこかを登って、涸沢岳の西尾根(蒲田富士の尾根)を下ったこともあったのだが、そのときの前半の行動もよく覚えていない。

 もちろんその他にも、5月の合宿も毎年あったのだが、この記憶も少しばかりだ。アルバムを見てようやく思い出すという始末である。剣、穂高・・・。北鎌尾根には数年前の5月にも登ったことは覚えている。2度目になる。

 社会人クラブの合宿計画というのは、やはり組織人としてリーダー格辺りのメンバーが計画を決めて参加者を集める。私はそういう組織人としては、これまで失格者だった。自分勝手な行動が多いとよく言われる。ということは、合宿のプランというのはほとんど自分の物ではなくて、他人が決めた計画に「じゃあ、私も参加しますよ」という相乗りばかりでもあったのだ。つまり他人の計画に付いて行くというのは、合宿数人のメンバーの中の下位になる。ただメンバーの後を付いていけば、まあ頂上に出られるし、下山もできるだろうという安易さがある。別に行動計画の下調べをしないというわけでもないのだが、どこか他人任せ。ならば、美味しいところだけを取れるのかというと、これもそうとは限らない。


独標過ぎた辺りの北鎌尾根。バックに大槍、子槍、孫槍。

 今回アルバムを整理して初めて気がついたのだが、槍をバックに映っているこの写真などは、大槍、子槍、孫槍ときれいに3本の槍が写っている珍しい写真ではないかと気がついた。実はその子槍、孫槍という岩峰の正確な場所や並んでいる順序にしても、つい最近知ったものだった。山の名前を知らなければ自分が写っている写真の山にも興味はないはずだ。別に山が嫌いだったわけではないのだが、ただメンバーについていって、冬山を味わっただけという情けない山行が多いわけだったのだろう。旅行にしても登山にしても、単独じゃなければ本当のことは分からないという人も、少数派でいるのだが、まさにそれは言いえている場合もあるものだ。

 それでも正月合宿に9回も言っているのだから、部分部分ではなんとなく覚えていることもある。両親などは独身時代は「正月に家にいたことが、まったくない」といっていたし、最近では妻も「週末に家にいないねえ」と。普通の山屋さんが家族に言われるようなことを私だって、散々言われてきた過去も現在もある。なのに、冬の記憶は薄い。

 最初の正月は、悪天候のなか穂高の吊尾根で幕営し、翌日は西穂の稜線に入って天狗のコル。その翌日になって西穂の頂上に着く頃に、ものすごい快晴になった。正月でもたまには快晴になるんだと、感動したことがある。

 豊科から常念に入った年は、ラッセルで丸二日かけたところを、後続パーティが数時間で追い付いてきてしまって、ガッカリしたこともある。3日目に山頂に出て、大天井の冬季小屋に入ったのは大晦日。翌日東鎌尾根をできるだけ槍まで近づこうと思ったのだが、結局3人パーティの足並みが乱れて、西岳の下りを最低コルまでいけずに幕営。これが悪かった。翌日は荒天で停滞。さらに翌日も同じ荒天で視界が20メートルほどの吹雪なのだがそれでも時間切れで出発。ところが普通の縦走であるはずなのに、ザイルで確保してやせ尾根を進み、そこから1日掛けてもコルまで下れるかどうか。槍の冬季小屋に入っていた別ルートからの仲間がサポートにきてくれて、最低コルをわずかに超えたところで合流して、暖かい紅茶をもらったという、情けない山行もあった。さらに翌日は、槍に入っていた別の登山者もすべて含めて20人のラッセルで千丈乗越から飛騨沢を下ることになった。ラッセルは胸まで潜る。先頭と2番目は荷物を置いて空身のラッセル。後続がノロノロと続く。結局こうしても、新穂高についたのは夜の9時。旅館に連絡をとって、全員そこに宿泊した。もちろんその時間から夕食を作ってもらったのだ。皆腹がすいていた。米びつが空になってしまった。「おコメを2升炊いたのにねえ」と旅館の女将。そんなこともあった。新雪に閉じ込められるとひどいことになる。晴天のうちに行動ができなくても同じことだ。ただこのときの20人メンバーのうち、他会の人だったと思うのだが、飛騨沢から蒲田川右俣をドンドン下って、滝谷出合いを過ぎた辺りで、「この辺で林道に上がらないとだめなんだけど」と、林道探しに斜面を偵察にいった数人がいた。林道も埋まるそういうラッセルのルート不明のなかで、かつての記憶からこういうことができる連中に頭が下がる思いがしたのだ。

 これは先週にこのルートをハイキングのように始めて下山してきたときに痛烈に思い出した。白出沢出合い過ぎで、とんでもない堰堤にいくつも出くわす。あの谷は新穂高から白出出合いまでは、堰堤のために谷筋が歩けないのである。時として山では驚くような事故もあるのだが、仮にガスと積雪でその堰堤を踏み越えてしまったら、あれは高さが10メートルを越えるものもあるのだ。もうすぐ下界というところで、堰堤遭難など、それこそ笑い話になってしまう。積雪期はトレースが消えた瞬間に、とんでもなく難しくなる、いやそれが本来の姿なのだが。

 さてこのときの北鎌尾根にしても、その数年前の5月の同ルートにしても、やはり取り付きまでが相当悪かった。北鎌尾根を登るというのに、湯俣の少し先の水俣川ゴルジュが越えられないというのも、情けないのだが。

 私はこの2回目の北鎌尾根にしても、独標とか北鎌平という場所を知らなかった。名前だけは知っているのだが、その場所をはっきり特定することは、今でもできない。これも03年夏の西鎌ハイキングでようやくそれらしいものと、登りついたはずの北鎌のコルにしても、なんとなくその場所が特定できた程度のことである。実は5月も1月も、天気が良くて、登山者がいて、ルートがついていれば、その難易度など夏をそう変わらないのである。そんなルートを歩いてきて「北鎌は面白かった」などと気安くいえないし、やはり記憶に残っていないというのは、さほど面白くもなかったというだけのことなのだろう。雪のトレースどおりに歩いてきましたよというだけのことなのだ。

 5月に行ったときには、独標手前辺りだと思うのだが、数パーティのテントと一緒になった。私たちは槍の山頂から槍沢を下って横尾からまた涸沢に登り返して仲間と合流したのだが、後日新聞の事故報道によれば、キレット付近でスリップ遭難死したのは、あの日、北鎌で一緒になったうちの一人だったようであった。そんなこともあった。

 写真にあるように何箇所かはザイルを使っているのだ。最後穂先に登るときには、3ピッチほどちゃんと確保しながら登った記憶はある。数パーティがそこで交錯したことは覚えている。それに穂先へは、ちょっと急斜面だったかなあと。

 この正月の時には、5人メンバーの一人が、途中で軽い凍傷になった。後で分かったのは、体質的なことらしい。気の毒だ。この山行にしても、では頂上からどのように下山したのかこれが、さっぱり覚えていないのだ。そのまま縦走してキレット越えはしていないはずである。かといって数年前のように、一般ルートの飛騨沢下降の記憶もまったくない。まして南岳西尾根といかいう変則ルートでもないはずなのだ。多分飛騨沢なのだろうが、まったく覚えてないのはどうしてか。晴天でただトレースにそって降りただけなのだろうか。少なくとも数年前に正月苦労したことを思い出しても良さそうなものに、それもなかったらしい。のん気な下山風景だ。

 ただ新穂高に下山後、温泉宿泊を予定していたのだが、そこで例の凍傷にかかった彼のことでもめたことだけは思い出す。「凍傷の治療は早いほうがいいから、高山に出て富山経由で帰京する」と言い出したリーダーに対して「楽しみにしていた温泉宿泊がなくなるのはいやだ。どうせ温泉につかれば凍傷の治療にもなる。医者は東京じゃなくてもいる。だから反対」としたのは、私。で5人パーティは私を残して帰京に賛成してしまったのだ。ここでもパーティは別れた。といっても私一人で温泉に宿泊した記憶もない。下山後にこんなことで喧嘩するのは、私に協調性がまったくないからなのだろうか。凍傷はパーティの新人だったのだが、少なくともすでに下界なのであるから「自分一人で帰京できます。メンバーはゆっくりしてください」くらい、どうして言えないのだろうと思った。それも正したのだ。「一人で帰るのは心配です。足も痛いし」。こんなマヌケをかばう必要はあったのだろうか。リーダーは山では厳しいがけっこう優しい人だった。だから人望があったのだろう。会のチーフリーダーを長年務めた。私にその経験はない。だが、現在私と彼はなお会の友人で、残り2人は年に1回会う関係で、新人の彼だけはまもなく自然消滅してもう会っていない。

 自分の経歴のなかで、北鎌尾根を冬と春と2回経験していることなど、実に面映いことになる。今年になって、北鎌の取り付きは、下部の水俣川の状況が悪いために、今では大天井から貧乏沢を天井沢に下って、さらに北鎌沢を登り返してとりつくようになっていることを知った。夏、5月がそうらしい。大天井ヒュッテの主人も、小屋のHPでそれを推奨している。大天井からの北鎌尾根など過去に何回も見るチャンスはあったはずなのに、よく見てないのだ。覚えていない。しかし地図から想像するには、大天井からほぼ同高度に見える槍にいくのに、そこから1000も下って、さらに700登って北鎌のコル。そこから400の縦走して槍というのは、まあ現地にいけば、「何をそこまでして北鎌なの?」ということになりはしないか。それでもそのルートを選ぶ人がいるというのだ。ヒュッテでもそれを紹介する。つまり今でも北鎌というのは、そこまでしても登りたい素晴らしいルートなのかということだ。加藤文太郎が昭和10年頃にここで遭難して、松浪明が戦後に遭難して、悪名だけは高いルートになっている。それでも高瀬ダムなどというものができて、湯俣川の素晴らしい秘境を台無しにした。湯俣山荘にしても客は少なくなった。白けて荒廃した湯俣なのに、それでも北鎌なのだろうか。多分そうなのだろう。

 03年夏に西鎌を少しあるいて、西鎌でもやっぱり積雪期には立派なルートになりえると再認識したものだ。東鎌だって、これも素晴らしい。槍は3方向に急峻な尾根を張り出して、主稜線は北穂へと続く。道がついて晴天ならば、夏も冬も同じようなものなのだが、山の持っている魅力として語るなら、やはり3つの鎌尾根は、いささかも衰えてはいないということなのだろう。年を重ねるとそういう思いになってくる。体力が落ちた分、謙虚になったということか。

  

富士山 1985年3月

 富士山などは、好きでもない山なのだが、登った回数は妙に多いものだった。大体夏の富士に5,6回いっている。いつだったかは、クルマの免許を取った嬉しさのあまり、休日にバイト先の営業車を週末に拝借してしまって、なぜだかスバルラインの5合目まで上がってしまい、革靴のまま冷やかし半分で頂上まで登ってしまったことがあった。4時間で頂上。「いや、ひどい人はハイヒールで登ってくる女の人もいるくらいで、皮靴で登っても大したことはありませんよ」と小屋のバイト兄さん。

 スバルラインの反対側の滝沢林道というは、アルペンドライバーにとってはちょっとした聖地だったこともあって、その悪路を下ったりして、これも面白いドライブだったものだった。最近では数年前に家族で登ったりもした。


閉鎖されている山小屋のベンチで休憩

 毎年11月辺りの雪訓の時期には、ここによく通ったものだ。旧態依然とした滑落停止などという訓練を今でもやっているのだが、あれが本当に役に立ったことはない。何故かあの停止姿勢はアイゼンを履いた足を軽く宙に浮かせるのだが、「それは、雪を引っ掛けたアイゼンで、骨折しないため」だそうである。急な雪面で死ぬかという滑落をしたときに、骨折防ぎの足上げなど、まったく根拠のない嘘だと今でも思っている。ピッケルを刺すと同時に、両足も目一杯広げるなり、斜面をアイゼンで引っかくなりして、岩に激突してでも滑落を防ぐ方が理になかっているのではないかと思うのだ。だから私が雪訓をしたときには、むしろ頂上まで登ったり降りたりしてアイゼンに慣れることの方がずっと重要だと思って、富士登頂することに全力を挙げたものだった。あるいは訓練では、斜面に頭から仰向けや腹ばいで突っ込んで、そこから滑落停止する方がずっと実践に適っていると思って後輩にやらせたものだった。

 本当の冬の富士に行こうと計画されたのは、まさにこのときだけになる。結婚のちょうど1年前は、私は飲酒で免許取り消しの時期で、誰もマイカーがなく、富士急のあのオンボロ鉄道で吉田から入山したものだった。

それでも素晴らしい快晴で、この日ばかりは富士の恐怖はどこにもなかった。耐風姿勢のまま体ごと宙に浮き上がってしまう突風など一切ない。富士吉田の登山口から5合目くらいまで初日に登って、翌日は登頂。写真を見ても、まったくの空身で登っている。

 覚えているのは、頂上付近からの下りで、尻セードを連発したことだった。快晴の直射で雪は少し緩んでいる。ただスピードが付きすぎてしまうと、これが止まりにくい。適当なスピードを保ったまま、どんどん降りていくのだ。股間に突き刺した石付きにすごい抵抗がある。少し下ると、今度は跳ね上げた雪が股間にどんどん溜まってしまって、そのために尻セードが止まってしまう。その度に一旦立ち上がって、股間の雪をどけてからまた開始というわけだった。

 そんなことをして遊んでいたために馬鹿な目にあった。先行の二人が先に行き過ぎて見えなくなった。下山途中からは山中湖も河口湖もきれいに見える。それなのにテントを張っていた5合目にたどり着けないのである。途中で地図と何度もにらめっこをしたのだが、正規のルートよりも右側に寄りすぎて下山してしまったらしい。後で地図を見ると不浄流しというガレ沢に入り込んでしまった。富士の斜面はきれいな一枚斜面かと思っていたのだが、火山の残骸のように、いくらかのガレや尾根があるものなのだ。「どうせ適当に下っても、どこかの林道に出るだろう」とやけになり、その頃には膝くらいの積雪の重い雪のラッセルに、ちょっと苦労したりしてしまったのだ。そんなことしてようやく、滝沢林道の4合目当たりに合流したらしい。まったくトレースがない。膝のラッセルが思い。ここから正規ルートに戻るには、5合目くらいまで登り返して、そこから登ってきた登山道を下るというわけだ。

 自分自身を情けなく思って、仕方なく登り返していると、仲間のコールがようやく聞こえた。私が右寄りを下り過ぎてしまったことを知ると、「ああ、よかった」と彼らは尻もちを付いた。「遭難したかと思った」。確かにろくでもないことで心配を掛けてしまった。仲間が下って迎えに来てくれて、そのラッセルのおかげで、楽になった。天気がよすぎたために、バラバラに下って、とんだお騒がせになってしまったのである。

剣岳・源次郎尾根 1985年5月

 この年のアルバムを整理していたら笑ってしまった。85年5月というのは、結婚した年月である。GWに剣から帰って、入籍が15日。実はこの年の8月にも剣に入っているのだが、それは7月に披露宴をやった翌月ということになる。真砂沢で日航機の御巣鷹山墜落のニュースを聞いた。長男が生まれたのが12月。広樹と名前をつけた。少し山に関係がある名になった。それがすでに高校3年。そうだったのか・・・。「いつもすぐに山にいっちゃった」と何度か妻に言われたことがあったが、振り返ってみると明らかにそうだった。当時は自覚もなかった。わがクラブの会長は寺田甲子男という山岳界では有名人なのだが、「女房と山と、どっちと付き合いが長いと思っているんだ」というのが持論で、私もそう思っていた。付き合いが長いものを優先するでしょ、何事も。途中から割り込んできたものは順序としてその次になる。それにしても露骨な山行を、それ以前と何も変わりなく続けてきたものだ。

 剣には、これまで都合で5,6回入山していることになる。最初はこのクラブに入る前に、針ノ木峠を越えて平から渡しに乗って、あの佐々成政の歴史的ルートから剣沢に入ったのは良かったのだが、そこでわずかに1日だけあった晴天の日に、一般ルートからカニの横ばいなどというところを通って頂上に立っただけ。翌二日間の晴天は、扇沢から入る先輩をサポートするために二日掛けてダムの往復。さて先輩が到着した翌日は雨のために「じゃ、予定を繰り上げて下山しよう」と室堂に向かったのだ。そのクラブは、高校時代の友人が参加していたところで、私はそのとき客人扱いで合流したのだが、このアホ計画に呆れて以降縁を切った。


剣岳。源次郎尾根 雪の斜面

 その後は今のクラブに入ってからになるのだが、ある年は同じように夏に剣沢にベースを張って、さらにチンネ登攀のために三ノ窓にもう一つテントを張ったのだ。運動靴を履いたままそこに合流したのだが、雪渓の多さに驚いて「でも、何か刃物があれば簡単ですよ」と数日前からそこに滞在していた同僚にいわれて「じゃ、ハンマーで大丈夫か」となった。このときはもちろん大人気の左稜線とさらにもう1本の登攀をした。二日後に再び剣沢に戻るときには、しょうがない運動靴のまま三ノ窓雪渓を下ったのだが、大して違和感はなかった。ところが翌日くらいのこと。その後長くチーフを勤めた彼がこの年に新人だったのだが、用心深くアイゼンをもっていたようだった。ところがサイズが合わない。そのために三ノ窓の下りで転倒して、骨折したらいのだ。それでも何とかたどり着いた剣沢から、翌日には合流していたOBにおんぶされて、まさに不名誉の撤退となってしまったのである。「あんなホキなヤツは、どうせまもなく辞めるさ」と誰もがたかをくくった。確かに彼はその後しばらく休職して、松葉杖のまま会の集会に出席などしていた。ところが気落ちしている気配もない。それならばと、冷やかし半分励ましながら遊んでいたが、完治した後にはしっかりと復帰してきた。この85年の正月の北鎌も、この源次郎尾根もその彼がリーダーとなった。正月の北鎌に参加したメンバーでこの5月にも参加したのは、彼と私だけだった。

 そのほか、5月には白萩側から小窓尾根を登って入山したこともある。さらにこの年の夏の剣は、私とパートナーの二人で、剣別山の別山谷を登って、真砂沢の本体と合流した。その他にやはり5月にダムから入山したことがあったのだが、これは忘れてしまった。こうして何度か剣には足を運んでいるのだが、今でも剣と聞くと「あんなに遠いところまで」という嫌悪感が先に立つ。やはり、会のなかで誰かの計画に相乗りしていただけのことという、他人行儀な山行感が免れないからなのだ。

 この年の剣は、アルバムを見る限りでは晴天に恵まれている。ザイルを出した箇所も何度かあって、雪稜の懸垂下降もある。頂上らしいところで記念撮影もしているが、標識も雪に埋もれているのだろう、さっぱり頂上だという思いはなかった。


剣・源次郎尾根 雪稜 ここから岩稜を懸垂下降する。

 ところでこのときの山行にしても、はたしてどこを下山したのか、やはり正確に思い出せないのだ。これまで私は早月尾根を通った経験はないし、かといって室堂でもなかったように思う。記憶の中では5月に池ノ谷雪渓を下ったことが一度だけあるのだが、このときだったろうか?それも多分の話である。

 実は私の数回の剣入山のなかで、最も印象に残っているのは、この池ノ谷の下りなのである。いや正確にいえば、上部稜線からの池ノ谷ガリーの下りだった。急な雪渓の下降というのは、今でもイヤだ。スキーをやっていれば、それが快適な斜面だと思っている人もいるのだろうが、私にはスキーだろうと、アイゼンだろうと、やはり不快になる。ガリーを上部から覗き込んだときに「こんなところ、どうやって下るんだ」と思った。確かにどのパーティも同じようなことを考えている。ザイルを出しているパーティもある。ノーザイルでクライムダウンしている人もいる。そういう中でも、いつも必ずいる数人というのは、普通に前を向いて下っている人もいるのだ。5月に涸沢から前穂・北尾根の5・6のコルに登ったときでも、さらに急な3・4のコルに登ったときでも、そこから前穂・東壁に取り付くために下るあの斜面を、どうやって下るのか。北穂から滝谷に取り付くときにも、松波岩から覗き込む滝谷は、とんでもない急傾斜に見える。しかしそこにも、下ったトレースは必ずあるものなのだ。雪渓の下りをどう処理するのかが、時間の有効な使い方になる。そこに登山の技術の違いが最も顕著に現れる。

 ガリーの下りでは、たしか「こんなとこでザイル出すようじゃダメだ」とかいわれて、結局一人一人最初はクライムダウンで雪渓に入ったように思い出す。そのうちに斜面が少し緩くなって、前を向いて下り始めたのか? その日は三ノ窓にテントを張ったのだが、翌日は三ノ窓雪渓の下りになる。さすがにここではザイルの必要性はそれほど感じないのだが、それでも出してるパーティもある。むしろ厄介だったのは、アイゼンに雪が付着してダンゴになってしまうことだった。私はその数年前にヨーロッパにいった彼に聞いたのだが「向こうのガイドのなかには、腐っている雪の時には片足だけアイゼンを履いている人がいる」ということだった。何かの本で読んだこともある。私もそれを試してみたことが何度かあったのだ。するとこれがけっこう都合がいい。右足のアイゼンを外して、こちらがキックステップ。左足はフラット着地。このときもそれでいこうと、片足アイゼンで下り始めた。やはりうまくいく。ダンゴ雪に気を使うのも片足だけでいいのだ。


源次郎尾根上部

 ところが途中で、実に歩幅の小さい、しかもけっこう深く切れ込んでいるステップが続いているのだ。異様な感じがして何かと思うと、これが女性連れのパーティが、延々とクライムダウンした跡なのである。前を向いて下れるところを、蹴りこんだクライムダウンでは、多分下降の時間は3倍は遅くなるだろうと思える。まさかこんなところで懸垂下降する人はいないが、それでもクライムダウンできるところで、懸垂下降すれば、これは10倍も時間を浪費することになる。下降の技術がどれだけ時間の節約になるのか、それがまた晴天の時にどれだけ安全な場所まで移動できるのか、その成否が実は登山のなかでかなり重要な意味を持つことを、この三ノ窓の下降で思い知らされたのである。むしろ大胆に「多少スリップしてもいいや」くらいで下降する方が、ずっと安全なのである。わかっているのだが、なかなか実行するとなると難しい。スキーと同じである。下降と滑降は同じもので、それこそが技術の差のすべてであるといっていい。

 さて池ノ谷をずっと下ってくと、ゴルジュの手前で踏み跡は小窓尾根に上がっていく。池ノ谷にそういうゴルジュがあることも、そのときに初めて知るのだ。さらに白萩川に下りた後に、また右側の尾根に上がって巻く。そこにタカノスワリがあることも、それは今年になって知ったこと。そういう尾根と谷の弱点だけを突いていく5月の山行を、当時は面倒くさいと思っていた。そう思うということは好きではないということになる。積雪や残雪が嫌いだということにもなる。好きなのは、スキー場の雪だけだった。それなのに、合宿といえば「まあ、参加するくらいなら、なんとかなるからいいよ」と思っていた私。これを山好きと本当に言えたのだろうか、疑問になる。

 妻とは職場の結婚になったのだが、それ以前の3年ほどは、このクラブの仲間も含めて、グループ交際のゲレンデスキーに冬の間は夢中になっていた。それこそ毎週のように出かけていた。大体近場の日帰りが多かったのだが、それはつまり群馬県のスキー場などは、ほとんどすべて制覇したくらいにもなった。

 ところがそのゲレンデスキーにやがて飽きてくる。どんな斜面だって、降りてくるだけなら何とかなると思ったときに「それ以上上手になるには、やはり検定だ」みたいな機運になって、型がどうした、足が揃っているなど、つまらない方向に話が進んでいく。それに嫌気が差した。そうしてクロスカントリーに移っていく。いわゆる市民レベルのレースのスキーである。そしてさらに10年立って、今度は山スキーになってくる。そうしたときに、もう20年近くも前の、あの5月の雪渓下りの重要性を、今になって思い出すのだ。それに5月のあの真っ白な雪山と、真っ青なあの晴天を。不思議なめぐり合わせだと思える。


池ノ谷雪渓の下り

 最初にこのクラブに入った年、その4月の週末に三ッ峠で岩トレがあった。本格的な岩登りは初めてといってもいい。それがとてつもなく面白い。そもそも岩登りがしたくて、社会人のクラブに入会したのだ。2日掛けても、三ッ峠のゲレンデ全部を登りきれるわけでもなかった。さらにまた翌週もここに着て登ってみたくなった。ところが翌週はGWの合宿で涸沢に1週間入ることになっていた。もちろん私も参加する。しかし当時の私は「涸沢に1週間入るくらいなら、三ッ峠で1週間すごしたい」と言い出したものだった。それを先輩に女性会員にたしなめられる。「アナタ5月の涸沢って知らないの?あんなに素晴らしい場所はどこにもないのよ」と。「けど、涸沢いって何すんの?この三ッ峠よりも素晴らしい岩登りができるの?どうせ新人には登らせれくれないし」。そうはいうものの、計画には従ったのだが。やはり実際には、前穂・北尾根と北穂・東稜がのぼれただけで、屏風岩も東壁も登れなかった。登れる技術もなかった。「やはり思ったとおりだ。いま涸沢にいくよりも、この三ッ峠で練習していた方がずっとたのしい」と思った。そう思うことが正解だと思った。あの合宿に参加したために、私の岩登りの練習が1週間遅れたと恨めしく思ったものだ。

 そんな当時の思いを今思い出すとどうだろう。半分は正解か、半分は間違いか。ということはどちらでもよかったということになるのか。ただ今こうして5月の山が好きになったときに、その理由の一つに、やはりあのときの真っ青な晴天の涸沢から見上げた前穂と奥穂の吊尾根の美しさは、やはり脳裏に焼きついているのだ。あの絶品といってもいい真っ白と真っ青なコントラストの景色は、三ッ峠には絶対にない。

 年齢とともに、山の感じ方が大きく違ってきたのだ。当時は全く分からなかったものが、今になるとよく分かる。あるいは逆に、当時は分かったものが今は分からないのかもしれない。しかし、過去と現在が二つあるならば、私は両方を分かっている時代を過ごしてこられたのだと、思う。そういう意味で、長く山に接する機会があることを、幸せに思うのだ。

 

黒部別山沢・右俣 1985年8月

 夏の恒例沢登りもだんだんマニアックになってきたのだろう。会の夏合宿が真砂沢で行われることになって、そこに入山するのに、黒部別山の沢を登ってから合流するという計画をした。パートナーと二人である。資料を調べていくと、我が山岳会の先輩たちも、この別山で夏合宿をしたことがあったようだ。雑誌「岩と雪」の古い号にその報告もあった。当時はバックナンバーなどもできるだけ揃えていたものだった。


黒部アルペンルートを歩いて通過「これより破砕帯」

 入山は扇沢からになったのだが、入った日が集中豪雨の翌日で、そのアルペンルートが不通になっていたのである。足止めを食った私は「歩けば入山できるのか?」と聞いたのだと思う。信じられないことにOKになって、あのトロリーバスの地下トンネルを歩いて入ることになったのだ。「これより破砕帯」という看板で記念写真など撮ったのだが、いまとなっては珍しいものになる。そうしてダムから別山の沢に入って少し行ったところで、ビバークとなった。

 翌日、雪渓の処理に戸惑っていると、なんだか3人パーティが私たちの対岸を登ってくるに出くわす。「今朝、トロリーバスで入ってきたのか?」と思う。だとしたら、昨日苦労してダムまで歩いた努力はいったい何だったんだと。


クレバスの懸垂下降

 雪渓を降りるときにどうにも方法がなくて、身体が入るくらいのクレバスに古木を渡して、それを支点にして懸垂下降して雪渓の下に降りたりしたものだった。そうして雪渓をくぐり、滝を登って、その日のうちに抜けられたのか、さらにもう一日費やしたのかは忘れてしまった。ただ沢を抜けて稜線から真砂沢に向かうときに、私は行動食が切れてしまって、まったく歩けなくバテてしまったのだ。「しゃりバテですか?」と相棒に言われて、行動食を少し分けてもらったりしたのだ。何だかとても情けない。そんなことが今でもトラウマになっていて、最近ではいつも余って捨ててしまうほど、コンビニおにぎりとか、フレッシュサンドを買い込んでしまうのである。1泊山行などで、1個120円のあのおにぎりが賞味期限過ぎて余ってしまって捨てるのはもったいないのだが、まあ食いものがなくなって歩けなくなるよりもましだろうと、これはもう開き直っているものだ。


ざくざくの雪渓崩壊

 別山の山頂は何の標識もなかったと思う。そこからどこを下山したのかは、もう忘れてしまった。ただ真砂について、あの剣沢を簡単な木の橋で渡るときに、なんとも危なっかしい橋だったのと、すでに懐電を点けなければならない時間になってしまっていた。今思えば、剣沢の横断は、毎年雪解けを待って、小屋のオヤジさんが橋を渡してくれているのだろう。とてもではないが渡渉できる水量ではないし、ものすごい勢いで剣沢は流れているものだと、何度も通っていたはずなのに再認識したものだった。

 それと着いたその夕刻は、実は御巣鷹山で日航機の墜落があったあの日だったのである。仲間もラジオでそのニュースを知ったばかりだったのだろう。「どこに落ちたんだ?」というわけだ。佐久辺りから北東方向だったか、そんな話になって「それって御座山(おぐらやま)辺りかと?」。高校生のときに、やはりマニアックな山に私は行っていたのだ。


雪渓上部に滝

 目的を達成して、翌日私は別の一人と下山したのだと思う。最近になって妻に言われたのだが、「あの日の帰りは、墜落の交通規制で渋滞して、遅く帰ってきたわよね」と言われた。まったく覚えがない。実はこのとき新婚の翌月。心配していた妻と、まったく無関心だった私の、自分の登山に対する気持ちの違いだったのか。

 確かに黒部別山はマニアックだといっていい。標高が低い。2300Mしかない。いくら岩と雪渓で構成された山でも、剣の美しいあの岩と雪渓を比較したら、クレードは高かったとしても、興味の程度、インタレストの程度はそれほどでもなかったと思われる。待ち構えている難関は、必ず越えていくと意気込んでいた当時は、行き詰ることはほとんどなかったが、それが今でも記憶によく残っている山行かと問われると、必ずしもそういうものでもないのだ。

 

黒部黒薙川・北又谷〜漏斗谷 1986年8月

 北又谷は黒部下流域では、柳又谷と並んで2大支流になる。その本流の核心部を楽しんだ後に支流の漏斗谷に入って、長栂山2200Mに抜けるという、これも4,5泊費やした長い山行になった。長い沢に仲間5人も集めて入ったのは、これ一回きりになった。


最初の大瀞。突破しようと取り付いたものの、水が冷たくて敢え無く敗退。

 今はもう、小川温泉から越道峠を越えて入ったところは、ダムになっているらしい。歩きで3時間、タクシーだけはそのダム堰堤まで入ると今の地図には書いてある。当時はその工事が始まっていた。林道から北又の流れに出て、河原を少し歩くと、最初のゴルジュに出た。ちょうど先行パーティがいて、それを泳いで通過していたようだった。私たちも同じことをしようと思ったのだが、何しろ水が冷たすぎる。誰かが飛び込んで行ったのだが、「水に入った瞬間に、冷たさでまったく息ができない」と敢え無く敗退。高巻きをしようということになる。一回高巻くと約2時間。ちょっと思いやられるのだが、まあ仲間も多いしゆっくりいくことになった。


初日のテント泊になった魚止めの滝。しかしこれも翌日には登れなかった。

初日の宿泊は、その日二度目くらいの高巻きから降りたところの、魚止めの滝、直前のところだった。大きな釜を持って登れそうもない滝。翌日もまたこれを高巻くことになるのかと、ちょっと憂鬱だったのだ。ところが夕刻にここを単独で泳いで下ってくる河童みたいな人がいた。ウエットスーツに足ひれをつけている。とにかく滝は飛び込んで釜を泳ぐという下りのスタイルなのである。そんなことができれば、今日の私たちの行程は2時間くらいで下山できるのだろうなと思った。深い山の中の谷で、いきなり水中から人が現れて来るのだ。しかも保護色のような緑色のスーツを着て。これには驚かされた。しかしアイデアに富んだ下山の方法である。

翌日、その釜の滝をそれでも泳いで取り付き、登ろうとしたのだが失敗。やはり高巻きに入った。それでもアルバムを見ると、楽しそうな渡渉や泳ぎがいくらでもある。

北又は標高がそれほど高くない。高巻きといっても岩稜が出てくるわけでもなかった。むしろテントの中に、夜間に蚊が大量に入り込んで、朝起きてみると仲間の顔がはれ上がっていることが愉快だった。


ほとんど流れのない大瀞は、全身が没してもそれほど通過は難しくない。

三日目の宿泊だったか、その蚊対策に雪渓のすぐ下流にテントを張った。雪で冷やされた風が流れてきて、確かに虫はこない。しかし逆に寒いくらいのテント泊になった。本流から漏斗谷の出合は、大瀞になっていた。何日目かの朝行動を始めてすぐのときで、全身ずぶぬれになって寒くて動けずに、いきなり大休止して焚き火して時間をつぶしたりもした。


漏斗谷に入って最後の耕作滝。滝の左側を簡単に登れる。

そうして支流の漏斗谷に入り、水量の少なくなった滝を登って、最後には長栂山にでた。朝日岳の頂上の写真もあるから、そこを経由して蓮華温泉に下ったのだと思う。そういえば朝日岳の頂上辺りで一人のオバサンに出会った。何でも上の小屋で何日間かのアルバイトをした帰りだといっていた。ところがものすごく怒っていた。「従業員には、キャベツの芯しか食事が与えられずに、あんなに屈辱的な扱いを受けたことは生まれて初めてで、小屋を逃げて出てきた」と、涙ながらに話すのだ。まだ中高年の登山ブームは来ていない頃。小屋も客が少なくて、従業員の扱いが厳しかった頃だったのだろうか。最近ではヘリ荷揚げなどでそういう話もあまり聞かない。それにしても、こういう長い谷は時間がかかる。焦って短時間で駆け上がろうとしても無理で、ゆっくり着実ということなのだ。

妙高・火打山・能生川本谷 1987年8月

 能生川は妙高の火打山北面を上がる谷である。支流はルート図にも紹介されていたが、それなら本流に行こうということになった。けっこう低いところから雪渓が出てきて、その突き当たりにいきなり登れない滝が現れた。

スタートはほとんど雪渓。

 左から大高巻きしかないというわけで、これを越えるのに2時間以上。その後雪渓、滝が現れて、沢で3泊くらいしたのだと思うが終了は火打山になった。楽しい沢登りとはほど遠かった。


雪渓の突き当たりに全く登れない滝

 沢は楽しいから行くというよりも、そこに沢があるから入山してみるという傾向が強い。その割には週末だけでいけることも少なくて、夏休みを費やしてしまう。見返りが少ないと、なんだか夏休みの過ごしたとしてもったいなかったような気にもなる。

 源流に近い滝

 大きな沢は金食い虫じゃなくて、時間食い虫なのだ。岩質が火山岩だからだろうか。海川の谷も同じようなものだ。ただ登れない滝が多ければ、沢のグレードが上がるという考えには賛成できない。こういう谷は、冬に山頂なら眺めるか、残雪期に一気に上から滑ってしまうに限る、今ではそう思っているのだ。

越後駒ケ岳・水無川・オツルミズ沢 1987年9月

 越後駒ケ岳周辺の最初の沢登りがこのオツルミズ沢だった。今思い出しても、けっこう遅い時期(現役の後半)だったんだなあという思いになる。そう簡単には、この辺りの沢に入れたものじゃないと、思っていたのかもしれない。その後水無側本流の北沢、北の又川滝ハナ沢と登ったが、ここは最初にして最も印象に残るものだった。それにしても、あれだけ越後駒に執着して結局3本しか登っていないというのは、少なすぎる。佐梨川にしても、北ノ又の本流にしても、あるいは荒沢岳にしても、三国川にしてもすべて計画倒れに終わった。まあしかし、この一帯の沢登りなど、所詮9月にならなければシーズンとはいえないわけで、それに10月半ばになってしまえば、もうオフを迎えてしまう。そのわずか数週間の間に、週末で2日間の晴天が必要なわけだ。もちろん天候のために計画倒れになってしまったものも数知れず。まあ事故もなくよかったとするのだろうか。

 越後駒一帯は、谷川岳とは雲泥の差で、真っ白で気持ちのいい花崗岩が露出している沢になる。もちろん残雪も遅くまで残る。それに沢に入る人も圧倒的に少ない。他の登山者に会ったことがない。唯一会った人といえば、頂上の小屋のオヤジだけなのだ。あの頃越後駒山頂の小屋は鉄骨の50年耐用できる立派なものに建て変わった。そこにオヤジさんがいるというのに、宿泊は素泊まりでシュラフの持参だけ。ただカップヌードルだけは売っていて「お湯くらいなら出せるよ」という愛想のないものだった。オヤジは2週間に1回下山して、自分が食べる分だけの野菜を上げるといっていた。お客の食事など「持ち上げられないよ」というのだ。しかし小屋は本当に立派だった。それに客もほとんどこない。それなら、ここに1週間くらい篭って、一人で仕事でもするか?はかどるだろうなあ、とても涼しいと思ったものだった。 

 越後駒の沢に入るには、一応相当の覚悟はいるものだった。とにかく易しい沢というのは皆無になる。一旦高巻きに入ってしまうと、下降は間違いなく懸垂下降になってくる。それも40メートル近くは何の手がかりもない雪渓が融けた後の1枚岩のスラブ。それでも自分の経験に自信があったのだろうか、さほどの不安もなく、クラブのなかでパートナーを探して2人で入った。その彼とは谷川岳・万太郎沢に同行したこともあった。沢登りだけについては、例え相手が新人であっても、私が連れて行ける気概はあったものだ。


カグラ滝だったか、サナギ滝だったか。見上げれば6段200メートルに見える豪快なフリークライミング。

 オツルミズ沢の出合いは、水無川沿いの林道からになる。アスファルトの林道下のドカンに、水は流れ出ていた。いきなり傾斜のきついスラブ状の岩で、沢は林道から駆け上がっていた。前触れもなくいきなり核心部。林道でザイルを結び合う。

 ルート図を見ると、この沢にはカグラ滝とサナギ滝の二つの大滝だけがかかっているように見える。確かにナメ状のスラブで、大きい方は、6段200メートルくらいあったように思う。それが実に楽しく登れたものだ。

 その滝を目の当たりにしたときには、唖然としたものだ。これほど芸術的なものが、こんな人里知れない田舎に、しかも登山者の間でもさほど有名でもないところに存在していいのだろうかと。しかも硬い岩、崩壊の危険性もまったくない。落石の心配もない。ガイドにも「豪快なフリークライミング」と書いてあったように思えたが、まさにとの通りになった。なんで越後駒だけにこんな快適なスラブ大滝が存在するのだろうかと思った。この山行の後に、尾根を挟んだ向こう側にある利根川の越後沢にも行くことになるのだが、そこにも同じような見事な滝があった。同じ山塊の同高度付近に当たるのだろうか。これまでいくつもの滝を見たり、登ったり、高巻いたりしてきたのだが、最も価値のある滝は、まさにこの辺りの滝なのではないだろうかと思えてくる。氷河地形が残っているか、豊富な残雪のブロック雪崩れに磨かれない限り、これだけの滝は出現しないものなのだと思える。越後駒の沢筋の積雪は50メートル内外になるのだ。

 オツルミズは実は大滝が2個あっただけではない。登りにくい10メートル内外の滝が、無数に出てきた。いい加減にイヤになるほど。1日目がいつものように朝の6時頃に取り付いて夕方の5時頃まで。2日目に頂上に抜けたのが夕刻に近かったはずである。途中のんびりしていた記憶はない。ただ大滝の頂上付近から、下界の関越自動車道だけが、大きく蛇行しながら走っているのが見えた記憶がある。つまり沢の登行だけで、20時間ほどかかっていることになる。下山はヘッドライトの中になった。関越道を4時間くらいで東京に飛ばしても、たしかパートナーは最寄りのJRの駅で「始発を待って帰ります」といっていたような気がした。そのまま出勤する時間になっていた。距離は短い沢なのだあるが、それだけ密度が高く、難しく迫っていた。

「豪快なフリークライミング」とういのは、およそ3級程度の岩登りが、延々と続いていくという意味になるだろう。指でなでると、真っ白な岩くずが付きそうなほど白い。それに雪崩れに磨かれた岩は、例え雨が降って濡れても、苔で滑るというようなこともないのだ。普段はカラカラに乾いていて、苔すら生えていない。この沢に、確か遠藤甲太さんは12月にアイスクライミングで入ったことを記録に出していたことがあった。この豪雪地帯の積雪期に沢に入るのだ。それほどにまの勘違いを起こさせてしまうほど、この大滝は魅力的なのである。

 この水無川の本流の北沢にある関門の滝も、こちらはスケールは小さく50メートルほどだったが、ここも同じように快適なフリークライミングで登れるものだった。さらにその先にも、延々とスラブが続いていたものだ。「私たちはそうしたスラブを登るために、こうして延々と10時間以上ものアルバイトに耐えて、沢の奥深くに侵入しているのか」と思ったものである。


大滝の上部を行く。

 沢登りはある程度覚悟ができると、何があっても怖いことはないと思えてくる。登れない滝があったら、それは高巻けばいい。行けそうならザイルをつけて途中まで行ってみる。釜を泳げそうなら、覚悟して水に入っていく。とにかく前進不可能などというものは、さながら剣の幻の大滝と海川の不動川くらいで「そのほかはよほどのことがない限り、なんとか処理できるものだ」と、そう決め込んでいたものだった。

 むしろそれまでの経験の中から意外だったのは、甲斐駒ケ岳の尾白川にいったときのことである。最近では下流部を省略して、黒戸尾根の5合目から流れに下降して取り付くという方法がとられているようであるが、なるほど下流から入山してみてそれがわかった。とにかく最初の滝ですら、ものすごい水量を空中に飛沫する滝で、これは完全に登れないものなのだ。予想を覆されて、このときばかりはちょっと驚いた。それに続いて出てくる滝も同じようにまったく取り付くことすらできない。最も標高が低いところなのだから、いくらでも巻くことができるのだが、それでもブッシュ帯を掻き分けて、けっこう苦労してしまったものだ。廃道になりそうな踏み後もあった。そんなことで1日目は無用に時間を浪費した。2日目は、黄蓮谷の右股から山頂に向かったのだが、やはりそこで夕刻を迎えて、黒戸尾根を下山してきたのは深夜になっていた。あれはまだ6月にもなっていないときで、渓流シューズと皮の登山靴とアイゼンピッケルを携行した沢登りだった。

 この辺りでは、大武川の桑木沢、篠沢は1日で抜けられる沢だったが、本流を行ったときには、釣りを兼ねた軽装気分だったからなのが、林道を抜けて1時間ばかりのところのゴルジュで行き詰ってしまい、右往左往したものの結局引き返してしまったことがあった。土曜は昼の12時にもう寝てしまい、相棒と気がついて起きたのは18時間後の翌日の朝になっていた。仕事の疲れを山に持ってきた釣り山行になった。そんな時間から冷やかしで前進してみようと思っても、廃道が大高巻きしてそのゴルジュを通過しているようなのだが、それを探す元気もなかった。確かクラブの仲間の一人に、甲斐駒の赤石沢の奥壁で岩登りをして、帰りに何を勘違いしたのか、本流を延々と沢筋にそって下山してきた人がいて「とってもひどかった」と一言だけ聞いていたことがあったのだが、中流域のゴルジュというのは、ちょっと間違えて安易に入ってしまうと、これが前進不能になってしまうこともあるものだ、そうとうな覚悟をしていないと。沢はいつまでたっても登山者をうろたえさせる。


源流は実におとなしくなって、普通の河原のまま越後駒ケ岳の山頂に抜けた。

 石空川というのも、その支流になるのだがその南沢にいったことがある。もうこういう選択はほとんどマニアに近い。なんとその沢で私たちは数年前の白骨死体の遭難者を発見してしまったのだ。2日間、まったく人の気配も感じられない沢筋だったのだが、源桃部にいきなり片方の軍手が落ちていたのが、それが妙に異様に見えて、拾い上げて見ると、何だか硬い物が詰まっていた。いま思えばそれは手の甲の骨だったのだろう。そうしていくと今度はズボンが落ちている。すると後続していた相棒が「何だ?何だ?」と叫んでいる。骸骨さんがそこにはあったのだ。わがクラブでは「魔よけのドクロマーク」に愛着があるのだが、その本物に出会ってしまったのだ。腕の骨、腰骨、足の骨が確認できる。いや何も怖いことはない。山でいきなり予想外に出会って怖いのは生きている人間だけ。仏さんはお気の毒に・・・ということになる。まもなく稜線に抜けて、頂上は鳳凰三山の地蔵岳になった。そこの小屋でその旨を報告すると小屋番はいきなり大声を出して「えー、それは本当なのか?」と。疲れているこちらはその声にビックリしたほどだった。どうやら3年ほど前の秋の単同行者のようで、小屋から山頂を往復するといいつつ、戻ってこないということだった。もちろん何度も捜索したらしい。それでおおよその話をしただけで、何しろこのときも頂上に出たのは夕刻に近かった。下山して御座石鉱泉の小屋に私たちは寄って、そこで届けるとういことになった。ところが山麓で登山道からいきなり林道に出る道を、クルマを置いていた関係で選んだ私たちは、そのまま御座石によらずに、とりあえず韮崎の駅までいき、下山祝いだと居酒屋にまず寄ったのだが、実はその居酒屋になんと地元警察と山岳関係者が私たちの下山を待っていたのだ。「ああ、遭難者発見の件ですか?」「何をいっているのかね、発見者は御座石に下山することになっていて、私たちはそれを待っているんだ。それにしても下山の遅い発見者なんだがなあ」と。すでに深夜になっている。「その発見者というのは、私ですよ」「ん?私?御座石にまだ下山してこないんだよ」「いいえ、違う方から下りました」「何でこの店だと分かったんだ」「いや、たまたま。居酒屋はここしか提灯がついていなかったから」。こんなやり取りのあとにしばらくして「おお、遭難者発見に協力してくれたのは、君たちなのか。そうかそうか、それは本当にありがたい」と大歓迎を受けるのだ。ジョッキビールを何倍もおごってもらいながら、彼らは航空写真を持ち出した。隣の席に、地元警察官が来た。いずれにしても歓迎をされている。「発見場所はどこですか?」。しかし3年前の捜索時の航空写真を見せられたところで、そんなものよく分からないのだ。私は白紙におおよその地図を書く。「小屋の南に湿地帯があって、その手前に平地があって、その手前にやせ尾根があって、そのコルに私たちは南沢から登りついた」と。「その登りつく3分ほど手前にそれがあった」と。ところが「奇妙な方向だなあ?その辺は小屋から山頂に向かう逆方向だよなあ?キミたち本当に南沢登ったの?北沢じゃないの?」「あのねえ、2日掛けて沢登りして、入った沢間違うことあるわけないでしょ。そんなことしたら、私たちが遭難ですよ」。結局3年前の捜索は予想外の方向だったらしい。「何かそのやせ尾根に目印でも?」「ああ、それは忘れてしまった」。日を改めて私たちもそこに同行するものだとばかり思っていたのだが、「いえ、今のお話を聞いて、こちらで捜索できますよ」と。その翌日か翌々日には、すぐに彼らは山に入ったようで、発見できましたとの連絡を受けた。遺族から礼状も届いた。むしろ私たちは、そこで何倍ものジョッキビールをご馳走になって、深夜の1時過ぎに店を出て「お気をつけて」の一言で、解放されたことに不思議な思いがした。

 能生川本流のフヨ谷というのは、妙高の火打山の北面を日本海から直接上がる谷であるが、このときこそ本流に入ってすぐの大滝を高い巻いたら最後、延々と大高巻きに終始してしまった山行になった。沢の中で2泊したのだろうか。それでも稜線に出る直前には、ゴルジュの様相を呈している雪渓をつめて、お花畑と雲海の日本海に沈む夕陽を楽しめたものだった。

 どこへ入っても、そう期待を裏切らなかったのはやはり黒部川になる。源流の上ノ廊下の他には、下流域の黒薙川・柳又谷の本流とカシナギ深層谷。北又谷の漏斗沢。いずれも4,5日の山行になった。柳又谷の本流は白馬岳に突き上げ、その源流部はいま春スキーのメッカになっていると聞くと、これも何だか懐かしい友人に20年ぶりに出会ったような感触になる。

 沢登りのプランは、いつも白山書房のルート図集に頼ったのだが、その中でもやはりこの越後駒周辺の沢登りに出会ったということは、難しい山をよく知るきっかけともなった。一つの山を構成する尾根と壁と沢の関係をこんなにも魅力的に分かりやすく演出してくれる山もそう多くはない。仮に丹沢と奥多摩の沢登りだけしか知らなかったとすると、それこそ岩登りができない者が、手短な沢に逃げているだけと思われても仕方のないことになる。山を登降するなかで、沢はとても魅力があるのだが、それも危険に富んだ魅力なのだということを、図らずも多く教えてくれたのが、こうした超一流の素晴らしい沢だったのである。

利根川・越後沢  1988年夏

 沢登りは都合で10シーズンくらい熱中していたことになる。毎年6月から9月までの4ヶ月。週末にして18週。その間夏休みには5日間程度の長い沢登りもおこなった。百名山があるなら、自分の百名谷を遡行してみようなどという、とんでもない目標を漠然と掲げていたこともあった。雨で入山できない週ももちろんあるのだが、それでもシーズンに10本くらいの沢登りをしていたときが、数年は続いた。

 当時は仕事柄、金曜日の仕事明けが深夜になることが多かった。それでも深夜にメンバーと都内で待ち合わせれば、私の車で目的に地には朝の6時頃までには着く。睡眠をとらずにそのまま入山して、その日は沢で幕営。翌日に稜線に抜けて下山するという、まあハードスケジュールでもあったのだ。

 シーズン初めの6月は丹沢とか奥秩父の東京近郊の沢登りをしたて、7月には南アルプス、8月を迎えてようやく目的の利根川だとか上越の沢にいけるようになった。とにかく7月までは残雪の影響で、まだまだ沢登りのシーズンには早すぎるということになる。越後駒ケ岳に上がる沢では、9月も終わりだというのに、雪渓の上で幕営したこともある。それでいて水の確保ができない。しょうがなく暗がりの中で、雪渓の割れているところを探して、ザイルにつないだ水筒を上手に投げ入れて、それで水を汲んだこともあった。まるで井戸水をくみ上げているようだった。つまり幕営した夕刻のその時間では、雪渓を降りるルートが発見できなかったことと、辺り一帯をシュルンドに囲まれて、すでに進退窮まってしまったということである。それでも翌日1日まだ日にちがあると思えば、とりあえず朝になるまでの雪渓テント泊など、当時では日常的なことにも近かった。

 シーズンに1回くらいは、日曜のうちに下山できないことがあった。その雪渓宿泊は、越後駒ケ岳の水無川に行ったときだったろうか。出発が遅れたせいもあったが、日曜の夜にまだ上部ゴルジュの中にいた。同じ越後駒の滝ハナ沢にいったときも、予定より大幅に時間を浪費して月曜下山になった。何故か越後駒ケ岳の沢は時間がかかった。頂上からグシガハナの稜線を水無川に下りたときに、最後の川の渡渉点が分からなかった。どうせ時間も遅いのだ。頂上を出発したのが夕方の4時。それだけ沢に時間がかかったのだからしょうがない。そのときすでに開き直っていた。確か9月は5時半くらいまで明るい。4時に下山すると1時間半だけは明かりの中を下れる。その時間内に上部の岩ゴツゴツを通過してしまえば、あとはヘッドライトの下山でも何とかなるだとうと相棒と覚悟は決めていた。そして最後の渡渉点についたのが、夜9時頃だったろうか。かすかなペンキマークがたまにあるのだが、周囲を1時間くらい探しても分からない。適当に進んでも行き詰まってしまう。強引に渡ろうとすると適当な飛び石も切れてしまう。それに渡った先の踏み跡が分からない。そのうちに歩き回っている自分たちの踏み跡が、なんだか正確な踏み後のように見えてくる。「もうやめよう」と、そこにテント泊。まあ月曜の朝になって日が出れば、なんだ、あっけなくちゃんとした道は分かるのだ。山の中の夜というのは、そういうものだ。

 月曜は無断欠勤ということになった。「そういう時には電話くらいしろよ」と翌、火曜日に上司に言われる。しかし山の中で電話がない。「じゃ、前もって金曜に電話しておけ」という、それが社会人だろうと。どう説明しても下界の人間には理解できない。いっそのこと、遭難しかけたとでもいえば、分かりやすいのだろうか。

 さて利根川の沢登りである。奥利根の沢と言い換えていい。矢木沢ダムの上流を指す。問題はそのダムの通過にある。矢木沢ダムというのは、例えて言えば黒四ダムと同じくらい広いものだ。しかも周囲に道がない。昔の鉱山あとの踏み跡を辿ったとしても、本には、取り付きまで10時間とか書いてある。しかしそれを書いた人が、あの奥利根の怪人と言われる地元の小泉さんなのである。彼なら1日だろうが、私が最初に友人と入ったときには、二日半かかった。そのときですら、もはやここを歩く人はまれなのである。


4人乗りのゴムボートに3人乗ると上半身ははみ出してしまいます。漕いでいる人が撮影しました。(矢木沢ダムをいく)

 その後奥利根に入るときには、ゴムボートを使うことにした。4人乗りの釣り用のゴムボートだと4時間で奥利根を渡れた。丸井スポーツ館のクレジットで4万円くらいで買ったボートである。好きな登山をするためにはお金を惜しんではいけないなどと、自分に課していたものだった。それでも自家用車のバッテリーを電源にして空気を入れれば、5分程度でちゃんと膨らんだ。そこに登攀具の入ったザックと、このときの山行では3人が乗り込んでも、ちゃんとボートは機能した。ただゴムボートというのは、このくらいの小型だと底が真平になっている。ということは、船として水をしっかり切ることができないようで、両手でバランスよく漕いでいるつもりでも、船はその場でくるくると回って、進行方向を変えてしまうのだ。氷の上を滑っているようなものなのだ。それもまあ、どうにか進んでいく。直線距離にしてダムサイトからダム尻まで8キロほど。歩くとそれが3倍も大回りしてしかも踏み跡が途切れて、先の二日半。ボートなら時速2キロというわけで、4時間で目的ににつく。それにボートを漕ぐ力というのは、大して労力も使わない。4時間立ってもほとんど疲れていない。

 そのボートでダムを横切ってまで入山する奥利根の山行は、結局2回おこなった。2回とも利根川支流の越後沢に入って、多分その右俣と中俣をそれぞれの機会に登っている。もううろ覚えになってしまった。このときはその右俣山行だったろうか。週末の二日間の予定でいったものだった。

 朝6時にボートを漕ぎ出して10時着。夕方の5時までに本流から、支流の越後沢に入って、その下部でテント泊。翌日は昼くらいまでに稜線に抜けて、支尾根を出合いに下降して、さらに本流を泳いだりして下る。再びボートに乗り込んだのは夕刻。それからさらに4時間手漕ぎで戻るのだから、真っ暗闇のダムをサイトの横の緩傾斜帯を目指していくわけだ。行きすぎで目の前にダムのあの巨大な壁が出現したときには、ちょっとあせったものだ、漕ぎ過ぎだった。とにかくこうした沢は、出合から稜線に抜けるまでに10時間程度かそれ以上かかる。週末の二日間で、最短時間だといえた。

 越後沢には、3段で2,300メートルの滝がある。沢に入ってまもなく、右俣、中俣、左俣に分岐する。そのどれにもこのサイズの滝が掛かっている。とはいってもそれはフリークライミングで登れる程度だから、これがまた楽しい。秘境にある素晴らしい沢なのである。


越後沢右俣大滝の後半部分。こういう大胆な滝が大好きでした。

 群馬県のこの奥利根と、先の新潟県の越後駒一帯の魚野側の流域とは、実はわずかに1本の尾根を境にして、隣同士になっている。それは利根川の源桃の大水上山という1800メートル足らずの山が、実は群馬、新潟、福島3県の県境にあるからだ。その様相はつまり、上越の黒部川といってもいいくらいの秘境と魅力があった。今にして思えば、知らず知らずのうちに、私はそういう山域が好きだったということになる。それにこの一帯の山は、順層の美しい花崗岩で構成されていた。岩登りをするには最も楽しい岩質だった。それは剣岳のチンネと同じもので、真っ白で美しい。谷川岳のあの逆層のいやらしいスラブの岩の正反対だといっていい。それに積雪量が剣岳一帯と比肩するほどある。9月になっても残雪は豊富だし、また高巻いて降りるときに分かるのだが、40メートルザイルをダブルにして目一杯伸ばしてようやく川床に降りられるという始末で、つまりそれ以下には潅木すら生えていないということになる。それは積雪量がちょうど40メートルあるということの証明になる。だから私は、7ミリの45メートルザイルを2本いつも用意していた。一般の会員が9ミリ40メートルのザイルしか持っていなくて、それを沢に持っていけば「それで十分ですよね」というと、まったくシロウト岩登り屋だと馬鹿にしていたものだった。重いだけで役に立たない。「そんなのいらないから、俺のこれを1本持て」と。すると、「あれ?これ軽いですねえ、こんなんでいいんですか?」という。この頃の相棒は、すでに後輩会員に限られていた。同年代会員は、結婚、仕事で山から離れた。

 今覚えているのは、片道で手漕ぎを4時間も漕いで、よくも奥利根に入ったなあという記憶が大半だ。なぜだか「登るんだ」という架空の使命感。地元の小泉さんや、あるいは確か朝日新聞の名物記者の本多勝一さんも、奥利根に後に入っているのだが、かれらはなぜだか船でこのダムを渡っている。地元山岳会の妙なのだろう。特典付きなのだ。

 それにしてもこういう沢は、それ以前に人が通ったという痕跡すらほとんどない。ルート図には紹介されているのだが、年に1パーティが入ればそれは多いくらいといえようか。


下山の途中からの大滝のようす。200メートル以上はあります。しかしこれが登った右俣だったのか、あるいは中俣か左俣だったのかは忘れてしまった。それぞれの支流にも同じような滝がかかっています。

 私は幸いに自分自身が山で怪我をしたことはそう多くはないのだが、確かこのときの山行で、握った潅木が腐っていて、2メートルくらい思わず落ちてしまったことがあった。それで右足の脛を岩にぶつけた。2センチくらい脛の皮が切れて、骨を覆っている薄いピンク色の幕のようなものが見えてしまったのだ。大して痛くはなかった。しかし処置は早いほうがいいと思って、自宅に戻ってから当直医の医院を探して出かけたものだ。翌日の午前2時頃になっていたか。当直医は仮眠から降りてきて「なんで、もっと早くこなかったの?」「今家に戻ってきたばかりですから」「本当は縫ったほうがいいんだけど、まあ深夜だし、このままでもいいかなあ」と。まあその程度ならよかったと、翌日になっても医者にはいかずに、まもなく傷は治ったのだが、実はそのときの傷跡が今でも右足の脛に残っているのだ。縫い合わせなかったのが悪かったのか。さすがにもう慣れてはしまったのだが、今でも風呂に入ったときにそれを見てしまうと、「つまらないことで失敗した山行があったなあ」とにがにがしく、思い出す。それでも直らない怪我をしたわけではないのだからいいのだが。

 あのときは確か後輩の学生二人を連れていたのだが、連中は先輩の私が最後尾なのをいいことに、目一杯二人で争って登りまくるのだ。もちろん核心部は過ぎている。まあそんなものは放っておけばいいのだが、何故か遅れている私は少し焦って付いていく。そんなときに不用意に潅木を掴んで、それが折れたという失敗だった。

 パートナーと年代が合わないというのは、こういうときにつまらないものだ。山行中に話が合わない。こちらはもう結婚して子供もいる。向こうは20歳を過ぎたばかりの学生。若さにものを言わせてバリバリ登るかと思うと、多少疲れていても今日中に越えた方がいい部分があっても「それは、明日でいいですよ」と、妙な文句をいう。「明日雨だったら、どうすんだ」。「いや、大丈夫ですよ」。小生意気なときもある。このときの山行では、ちょっと私がムッとして済んだが、他のある学生パートナーと組んだときには、山で私が叱ったもので、会を辞めてしまった者が何人かいた。いま私は自分の学生時代を振り返って、やはり生意気で足りないところはあっただろうと思うが、登山のパートナーというのは通常二人で、それは同年代がやはりいいのではないかと思っている。生意気盛りはそれ同士が組んで、あるいはそれが原因で失敗しても、それは自業自得なのである。若い相手が10歳も年上を相手に、年長者を立たせながら登山するなど、よほど人間がしっかりしていないとできるものではない。単純に体力勝負だけの登りになると、年長者はやはり遅れるものである。それに「難しいところを無難に越えた」という年長の責任を果たせたことで、それはゆっくりした歩調で満足感を味わっているのだ。無責任な学生はそれが分からない。どうせ学生連中など、就職して登山を辞めてしまう者が大半になる。このときのメンバー二人もその後の消息は分からないが、クラブはとっくに辞めているし、少なくとも一人は就職して登山をやめている。そんな奴のために私が気を使って、その代償に右脛に2センチの傷跡が今でも残っているのかと思うと、確かに腹立たしいときもある。そういう精神的なショックも多少の原因で、沢登りは、このあと数年で辞めてしまった。もちろん登山に飽きた、年齢的なこともあるのだが。

 でも今となると、やはり奥利根には、また魅力を感じるものだ。そこは上越の黒部だからである。それに黒部以上に交通の便は悪いところだ。黒部のスキー最適期が5月のゴールデンウィークだとするなら、ここも同じ頃である。いずれそれを実行してみたい気はしているのだが。


前穂高岳東面・下又白谷 1988年 10月8〜10日

 奥又白の池というところに、それまで行ったことがなかった。上高地〜横尾間を、それまでゆっくり歩いたことがなかった。いや上高地にマイカーで入ったこともなかった。そんな理由で、下又白谷に行こうと思った。上部に菱形岩壁という岩があるそうで、それも見てみたいという気持ちもあった。クラブの新人を連れての山行になった。


下又白谷F1の支流

 当時上高地は夏の盆時期を覗けば、マイカーを乗り入れることができた。当日朝東京を出て、昼に上高地に着く。時間的には翌朝に取り付けばいいわけだから、徳沢でテント泊。秋の連休になるのだが、徳沢は人も少なくて、静かでとてもいい感じがした。何も上高地〜横尾間は早朝に慌てて通過するだけの場所でもない。

 パノラマコースの奥又白谷の2本隣が、この下又白谷になる。下界(といっても徳沢のことだが)から近い割には不遇を囲っているし、人が入らないから谷も手ごわく、簡単に登れないというのは調べておいたこと。誰もいない河原を、翌朝二人で入っていく。


F2取り付きへの下降

 もう10月だというのに、やはり残雪がある。最初の滝に出会う前に雪渓になった。その雪渓の上を進んでいくのだが、やはり例によって降りる場所がない。シュルンドが大きく口を開けている。F1は当時の資料では未登だということだったが、水量が多い滝であることと、雪渓から降りられないことが、取り付こうという意欲を失わせるものだった。右側の支流に入って、そこを上部まで登ってトラバースかと思ったのだが、その支流に入るための雪渓も降りにくい。けっきょく雪渓上から壁にアングルを1本打ち込んで、それを支点に雪渓下まで懸垂することになった。最初の滝の取り付きからこれで、ちょっと思いやられた。そして支流をどんどん登って上部を巻いてから、本流に降りた。

 この谷は滝が4つしかないとルート図に出ていた。確かに4つだけなのだが、その周辺を巻いたり降りたりの、実に大味な谷だった。普通の谷とはちょっと様子も違う。でもそんな異色なところが記憶に残る。

 F2も素直に登れずに、横を登ってから懸垂下降したようだった。写真が残っている。この辺りから、菱形岩壁が望める位置なのだが、はっきりとそれと分かるものは確認できない。「多分あの辺なんだろうなあ」と。続く、F3と4はその脇をそれほど難しくもなく登れたと思う。

 終了点に出て、そのままガラ場を登っていくと、前穂への急登となって、行き詰ってしまった。右側は痩せ尾根から谷に急激に切れ落ちている。仕方なく戻って緩傾斜をトラバースすると、なんと奥又白の池にいきなり出た。言われているほど汚い池でもない。それに大きい。ある場合はその水さえ飲めるだろうと思った。前穂の岩稜帯のなかに、こんなのどかなところがあるものかと感心する。後は登山道の付いた道をまた徳沢に下山するだけだった。谷の終了が岩稜帯の真ん中という、なんだかおかしい異色な谷だった。


F3登攀

 ところで毎度のことであるが、連れて行った新人が期待はずれだったことを思い出す。滝をトップで40メートルも登ると「ビレー解除」というコールが水の音に消されて、聞こえないものなのだ。そんなことはあらかじめ分かりそうなものなのだが、新人は自分が登ってみて初めて「相手のコールが聞こえない」ということを知る。しかし私は、もうそういうことをあらかじめ新人に教えることをしなくなった。教えてもその場では理解できない。その彼が自分自身で気がつくまで黙っていたのだ。

 気心知った仲間ならば、ゆっくりザイルが伸びているときには登攀中で、それが一旦停止したときはセルフビレー中で、その後ある程度のリズムでまた伸び出したときには、余ったザイルの回収中で、いよいよグイグイ引っ張り出したら、それはラストのビレー体勢にあるということが分かるものだ。ところが私がラストで登りついたときにその新人はこういう。「滝の音がうるさくて、声が通らなくてダメですね」。何がダメなのだろう。ザイルを使うことがダメなのか、こういうルートを登ることがダメなのか、コールを掛け合うことがダメなのか。コールが通らないところまで登ってしまった彼自身がダメなのか。登りついたその滝の上で、彼とその話をして、取りあえずの結論として、「コールが聞こえないなら、そんなところまで登ったキミが悪い。40M一杯登るのではなくて、せめて目視できる20Mでピッチを切らなかったキミの責任だ」というようなことを、私は彼に言ったと思う。彼は膨れ面をした。そうしてまもなくクラブも辞めた。ザイルの操作は、激しい体力消耗の中で的確に素早くできないと致命傷にもなる。別に優秀である必要はないが、機敏で賢くなければならないと思う。そうしたことへの努力のかけらすら見えない人は、はやりパートナーとはなり得ないと思うのだ。


最後の滝のF4は簡単に登れる。

 このとき以来前穂東面にいく機会がなかった。ただ春の上高地スキーに思いを寄せると、何も河原を横尾まで滑っていけばいいというものでもなさそうで、積雪のこの辺りのU字渓谷を今度は覗きに行ってみたいと思うものなのだ。

1989年
 この年の夏休みは、登山をやめてヨーロッパに1週間の旅行をしている。それ以前には、会社の都合で4月とか、11月に欧米を旅行したのだが、なにしろ真夏は旅費が高い。といっても、ベストシーズンのヨーロッパを見てみたいと同時に、真夏の1週間の沢登りへの意志が、多少少なくなってきたとういのが、正直な気持ちだと思える。
 旅行で分かったことは、ヨーロッパ人は自宅に花壇を作ることが本当に大好きだということだ。マンションや団地など庭がない家は、ベランダにちょっと大きめの植木鉢を並べて、赤、黄色、オレンジなどの原色の夏の花を、本当に綺麗に咲かせている。あれは間違いなく、春先に種をまいて、そうして育てたものだ。夏のヨーロッパを車で走っていると、例えそこが都会であっても、花壇に囲まれているような気分になった。ヨーロッパの古いお城の絵や写真などでも、原色があちこちに使われているが、あれも間違いなくテラスの花壇である。現地では誰もが平均的にそういうことをしているのだが、お花が好きという日本人でも、彼女たちの平均値にも近づけない。それには、とても驚いたものだった。特にドイツが美しい。
 それと、イタリアの地中海側とか、ドイツのロマンティック街道を走ってみると、普通の家でも、それは統一されたように、美しい町並みが広がっていた。地中海では、どの家も白で統一され、ドイツはレンガ色。三匹の子豚で一番しっかりした家はレンガの家だったが、まさにあのような家が今でも作られて立ち並んでいる。町の風景を見て、すごいなあと思ったことは、国内ではほとんど無いが、ヨーロッパではどこにいっても驚きがある。合理主義のアメリカ人が、今でもヨーロッパにコンプレックスを持っているとすれば、それはあの歴史から生まれた、そういう文化に対してである。
 ドイツのある田舎町のホテルに泊まることになったが、「ここはロマンチック街道の町だよね」といっても、そのオバサンは英語が分からなかった。それが実に申し訳なさそうにそういう。「間もなく娘が帰ってくるが、そうすれば分かるよ」と。で、地図を見せて、指差すと、ロマンチック街道をドイツ語でいうのだ。「ドイツ語では何ていうんだ」と数回聞き返して「ロマンティッシュ・シュトラウゼ」だと。なんだ、英語もドイツ語も近いじゃないかと思ったが、現地の人はそうでもないらしい。ホテルのオバサンを冷やかして、なんだか面白かった。
 このときとは別の旅行だったが、イタリアで「明日もう一回来る」と、「トゥマロウ」と何度いっても通じない。その田舎の姉さんも英語が分からなかった。それでもどうにか通じて「ドマーニ」ね、ということになった。イタリア語では明日はドマーニ。こんな似た言葉すら分からんのかと。でもその後ドマーニという車がホンダだったか発売されて、私が知っているイタリア語はドマーニだけになる。
 また別の旅行でスウェーデンだったか、そうとう田舎でバスが1日に2本しか通らない町があった。そのオバサンはバスを待っていたのだが、乗り遅れたかでヒッチハイクしていたのだ。暇に付き乗せてあげる。目的地は15キロくらい先にあるだけ。北欧の英語教育はどうも小学校の1年くらいからやっているようで、誰もが話せる。何しろスポーツ番組など、英語放送だけしかやっていないくらいだ。で、日本からの旅行者だと理解して、「スウェーデンの女性はどお?」とか、「ガールフレンドはできた?」とか、聞いてくる。カップルで散歩するには、最適な森がどこにでもあるよとか。なんだか旅行者にナンパ勧めている様でもあった。「若い女性は、相手を気に入ると、楽しく過ごせるのよ」と。それがフリーセックスの国なのかと、これは私の勘違いだったのか。でもオバサンの話を聞きかじると、どうもそう聞こえてきた。降りるときに、バス代だけどと、あれは500円くらいくれた。
 そんな旅行中の与太話はどうでもいいとしても、少なくとも車の運転中に、渋滞は欧米では全くないこと。どこも景色が素晴らしいこと。その2点だけでも、日本は絶対に追いつけないことだし、アジアと比較してどうなると、思ってしまったものだ。外から見ると日本が本当によく分かる。
 この89年は日本の景気は最大だった。会社も給料がよかった。伝票を今より自由に使えた。そんなことで、1週間の休みには、けっこう誰でも旅行などしていたように思える。
 知らないことを知ってしまえば、一応自分の情熱は冷えてくる。2000年を越えて、また一人で観光旅行をしようとは、もうなかなか思えない。でも何か機会があったら、出かけたいとは思うのだが。

朝日連峰、三面川・岩井俣沢 1990年8月

 生涯で最後の沢登りをしたのが、なぜだかこの岩井俣沢になってしまった。最後になってしまった理由は、この沢に失望したこと。なにしろゴルジュが標高200Mで始まって、いま改めてその周辺の地図を見ても、沢の両脇の山が標高500Mとか600M程度しかないのだ。そのゴルジュが終わるのが標高500Mであとは源流。その低さのために、メジロの大群に襲われて、「もうこれは登山ではなくて、アマゾン探検なのだ」と思ったほどだった。しかも連日下界とまったく同じの蒸し暑さで、テントの中では蚊取り線香を炊いてしかも裸で寝る。朝起きてみると、テントの中に100匹以上の蚊が死んでいるという恐ろしいほどの虫体験。またこうした沢が、黒部と同じ程度のグレードで評価されているという、当時良く見ていたルート図集。確かこの帰りに、北軽井沢の標高1700Mで、パラグライダーの1日体験などしてみると、のん気に遊びで過ごしたその標高のなんと涼しかったことか。真夏にアマゾンに突っ込んでいった自分に呆れるとともに、あの暑苦しくて、虫臭い山登りから遠ざかってしまったのである。「高さゆえに尊からず」というが、いや「高いということは、尊いものだ」と再認識したものだ。


おっかないワイヤー橋。足元に丸太、手すりがワイヤー1本。

 実はその翌年にも、同じように朝日連峰の沢登りの計画だけはあったのだが、パートナーが決まらなかったことと、真夏の1週間の休みを、ヨーロッパの観光旅行で過ごしたいという、バブル当時の経済状況の甘えもあったのだ。海外観光旅行は真夏に値段が高騰し、できることならそのシーズンは避けたかったのだが、しかしそれでも夏のヨーロッパアルプスを見てみたいという欲求に耐えられずに、そのときにはシャモニにも、インターラーケンにも行ってみた。期待を裏切らなかった真夏のヨーロッパアルプス。1億人が当時はリッチになったと勘違いを起こして、贅沢になった。私は虫臭い登山から離れることが、リッチになった証拠なのだと勘違いを起こしていたのだ。


岩井俣の穏やかな瀞

 朝日連峰は主峰で標高1800M.なんだか奥秩父にも遠く及ばず奥多摩程度ですらある。日本海に近いことを考慮すると、白馬から北方稜線をいって、犬が岳と同程度か。いわばそうした地味な連峰でもあるのだが、その地味さ加減を当時はよく知りえなかったとも思えてくるのだ。もちろん主峰の大朝日は百名山でもあり、いまでも人気足りえる。しかし如何せん自分の登山軸がぶれていたために、そのよさが分からずじまいで終わっているのだ。何も3リットルのスーパーカーばかりが良くはない。1500ccのカローラのそのよさを評価しようとしなかった自分が悪かったのだと思えてくる。

 三面は新潟の川なのだが、ダムの影響で入山は山形県からだったような気がした。車の林道の終点ですでにメジロが飛んでくる。覚えているのは林道から登山道に移ってまもなく、丸太の一本橋というかワイヤー橋の不気味さなのだ。豪雪に耐えられる簡単な吊橋というと、ああいうワイヤー一本だけの構造になるのだろうが、ザック背負っての橋渡りには違和感があった。まさにマタギだけしか住んでいない山なのだろうか。


ゴルジュ帯を抜けてから滝。

 地図を見ると、岩井俣には両岸から20以上もの支流が合流している。そんなことも今ではうろ覚え。林道から懸垂して三面川に下りて、渡渉して岩井俣に入った。その頃になると100匹以上のメジロに囲まれる。口の中にも入ってくる。ゴルジュで水没して逃げても、また水から上がると囲まれる。腕がパンパンに腫れ上がって、痒い、痛い。沢はトロ、ゴルジュ、滝といろいろあったのだろうが、さして高巻きも必要とせずに、突破する。不可能などということはない。ルート図に核心部は4つほどあったと思うのだが、それも指示に従って通過。沢で2,3泊したと思うが、稜線へは寒江山辺りで抜けたのだと思う。山頂の写真もあるのだが、山は不明だ。そうして相模山の尾根を下って戻る。これが強烈に長い尾根だった。1日で抜けられず、途中でビバーク。このときも食料不足でシャリバテしてしまって、10歳も年下の相棒から大いに遅れて、体力低下を痛感した。こうして林道に下山すると、またメジロが出てきて、車へと逃げるように戻った。

 こんな沢や稜線のどこに魅力があるのだろうと、当時は思っていた。8月という時期が明らかに悪いとも思われた。それ以来朝日連峰に行く機会がなく、結局この山が分からないままに今日に至る。改めてカーナビで山形の寒河江までの距離を確認すると東京から400キロ。富山までと同じくらいだ。富山にはいつでもいくのに、寒河江には行かない。食わず嫌いの山がこの朝日連峰になる。いつか積雪の時期にと思う。

 

1991年
 前年の8月の朝日の沢登りで精神的に敗退して、その帰りに群馬の妻恋村でカモシカの主催するパラグライダーのスクールにはいった。夏から秋にかけて毎週のように通って、秋で終了したスクールの後、冬からは木島平のスキー場で別のスクールのエリアでビジターフライトさせてもらって、この年は始まった。
 そのスキー場でパイロット証のライセンスを取得して、春から夏にかけては、伊豆や朝霧高原でフライトして過ごした。
 バブルスポーツだったパラは、機体のメーカーに言わせると「今世紀最後のフィールドスポーツ」。そのとおりに、理屈だけは今でも生きている。およそ1mの上昇風があれば、数時間でもふわふわと飛んでいられる。
 当時のバブルははじけたものの、今でもパラのスクールは全国にある。いや、その親玉のハンググライダーこそが、歴史は長い。
 一つの趣味の好き嫌いは本人によってまちまちなのだろうが、パラがそれ以上面白くなかったのは、明らかにフライトエリアが限られていたことにある。例えばある日には、コンディションが絶好で、数時間飛んでいられたとする。そしてその翌週も、同じように飛んでいられたとしても、毎週毎週同じことやっていて、何が面白いのかということになる。1キロ四方のエリアを、箱庭のネズミのように行ったり来たり。いつも同じことでは飽きてくるというわけだ。それではエリアを飛び出して、自由に飛行できないのかといえば、多分そういうことをすると、降りる場所が無くなってしまうということになる。結果、誰かの田圃や畑に無断で着陸せざるを得ないとか、悪い場合には、農家のビニールハウスを壊したり、他人の家にぶつかっては、もうどうしようもない。そこが広い河川敷ならばいいのだが、であっても事前にそこ場を偵察して、吹流しを設置して風向きを上空から判断できるようにし、あるいは飛び立つ場所からそこまで確実に飛んでいけるのかも、そのときになってみないと分からない。つまりそれだけ飛行に制約がある。まあ人間がいきなり鳥になれるわけじゃないんだから、そうだろう。
 それと少し高い山にいくと、やはり穏やかな日でも、突風とか急な上昇や下降風に悩まされる。だいたい音速のジェット機でさえ、ある場合には風によってかなり飛行が乱れるのに、時速30キロの乗り物が、いつでも安全にはいられないものだ。
 私の卒業したスクールのカモシカの社長も、その後スクールは閉鎖したし、本人もフライトを辞めてしまった。「周囲であまりにも事故が多かった」というのが、社長のダンプさんの言い分だったが、そういう言い訳もある。
 それに穏やかな日というのは、そういつでもあるわけじゃない。曇りの日に飛んでも、大体10分くらいで自然に着陸してしまう。グライダーというのは、晴天の日に、上昇風がないとダメなものだ。つまり五月晴れとか秋晴れというような、移動高に恵まれた日。そういう日は、実は数えるほどしかないものだ。それと上空では極度の緊張感と、集中力を求められて、それに耐えがたくなったという理由もある。そして数年の後にパラは辞めてしまったのだ。
 それでもこの年は、1年中あちこちにいって、楽しく過ごしたものだった。汗流して登山することは、時代遅れのように思っていた。人間は道具を手に入れると、楽しくある反面堕落する。スキーという道具よりも、空を自由に飛べる道具の方が、機能性が高い。その分、精神的に堕落していたといってもいい。

1992年
 この年には2回ヨーロッパへフライト旅行に出かけた。スキーをやっていればオートルート。岩登りをやっていればシャモニ針峰群。同じことだ。パラ業界にも、ヨーロッパツアーというものが盛んになってきた。
 といっても、何もヨーロッパでフライトするということは、国内よりも高いグレードを求めるだけが理由でもない。当然のように向こうにも初心者は、いくらでもいる。私は、一人で海外旅行するように、そのついでパラも日本から担いでいって、現地で情報を集めて、楽しく飛べないだろうかと思っただけである。それに旅行にもなれてくると、観光旅行だけでは飽き足りなくなる。スキー旅行があってもいいし、登山旅行があってもいい。
 現地で何より驚いたのは、パラというキワモノスポーツでも、町の観光案内所にいくと、最低でも電話帳のイエローページなど見てくれて、ショップやエリアを紹介してくれたことだ。まあ考えて見れば当たり前のことなのだが、観光客が困ったときに案内所というものにいくわけで、そこではその困りごとにけっこう真剣に相談に乗ってくれたことだ。これが逆に日本であったらと思うと「そういう稀なスポーツというのは、わかりませんねえ」といって、追い返されるだけ。まあパラの発祥はヨーロッパであって、日本よりもフライト人口は多いかもしれないが、しかし一般人の感覚からすれば、五十歩百歩。大げさに言えば、あちらの観光行政の充実振りの一端が見えたようなもので、それだけで感激してしまったものだった。
 それにあの観光案内所というのが、日本の県庁や市役所への標識のように、実に分かり易くなって掲示されていたことだ。それに夜の8時くらいまでちゃんと営業している。だって5時に終わられたら、観光っていうのはその時間から始まる場合もあるしねえ。
 イタリアでは、名前は忘れたが、ロープウェーのある標高差600mくらいの山でフライトできた。スイスでも、高速道をまたぐようなロープウェーの山。オーストリアではスキー場。そうだサンモリッツのスキー場には、「エアタクシー」というおかしな会社があって、彼は二人乗りの客を探して、観光フライトしていたのだ。名前も忘れたが、山渓に紹介されたこともあるスイス人で、その雑誌を見せてくれた。なんだか15年以上も前に、自作のパラを作っていて、最初はそれで雪原を風任せに走り抜けて遊んでいたという。
 ただ旅行した季節が、春と秋で、条件はそれほどよくもなく、日本以上の大成功のフライトができたのかといえばそうでもなかったが。
 その翌年だったか、フライトする友人と二人で行ったこともあった。その彼にとっては初めてのヨーロッパだったが、スイスやドイツなどは私も好きな国なのだが、「そういうところはすぐに飽きる」と彼はいった。それはセイコーの時計や車のベンツみたいなもので、実に精密に計画的なのだが、期待はずれなことがないというのだ。むしろイタリアやフランスのようなラテン系の国のほうが、ノー天気なことがあって、楽しいと。ただパラや車そのものを選ぶときには、ドイツ製をえらび、間違ってもイタリアの車などは乗れない。ははあ、同感。
 でもパラでも観光でも、欧米は本当に楽しい。逆に日本に観光にくる外人など、絶対にいないに決まっていると、その頃は思っていたのだが、10年たってみると、これが奇妙にも観光外人が東京にもけっこういるものだ。京都や鎌倉にもいる。それは東京もニューヨークくらいの都市にようやく近づいてきたかも知れないし、歴史のないアメリカ人にとっては、世界最古の木造法隆寺などは、魅力的でもあろうか。
 
 

パラグライダー・甲斐駒ケ岳フライト 93年8月

 パラグライダーはアウトドアの1ジャンルに過ぎない。ところが何故か元山屋さんから、この遊びに入った人も多かった。例えばザックメーカー・ダックスの社長の半谷さん。あるいは登山店カモシカの社長の高橋さん。印象は、現役を引退した山屋さんOBのスポーツとしてもっとも相応しいのではないかとも、思えたからだ。私はそのカモシカの社長の店のスクールに通った。90年の夏のことである。翌年の3月に、別のスクールで、パイロット証のライセンスの交付を受けた。きっかけは実に奇妙なことだった。


甲斐駒岳を鋸尾根に少し下った辺りからのフライト直前

 私が積雪期の山登りを最後にしたのは、88年正月に明神岳から奥穂高岳に登った山行だった。ともかく吊尾根での幕営がとても寒かったのである。まあ正月の山なら当たり前のことなのであるが、パートナーが持ってきたパック入りの日本酒を飲もうとしたら、それがゼリー状に凍っていたのである。それを見たときに、なんだかゾッとしてしまったのだ。それに特に吹雪かれたわけでもないのだが、その日のテント泊がものすごく寒かった。毎年同じようなシュラフを使っていたのにである。「年をとったのかなあ」と思うのだ。それに例によって、積雪期の山登りの歓喜がそう沸いてくるわけでもない。楽しいことよりも辛いと思うことが多くなれば、なんとなく足が遠のく。「あんな寒いものはもう辞めよう」そう思うと、義務的のように参加していた気持ちも、急に休まったものだ。自分でそう決めてしまった以上、未練もなく、以降は一切の積雪期の幕営の山行にいってない。冬のテント泊は寒すぎるというわけだ。冬の楽しみは独身時代から続けてきたゲレンデのスキーだけと決めかかった。そのゲレンデスキーもその後、まもなくやめてしまって、クロカンレースを始めることになったのだ。大体どの斜面でも滑れるようになると、型がどうの、板が揃っていないだの、つまらないゲレンデ能書きに付き合っていられなくなったからだった。レースというのは、クロカンの間では有名な、北海道の湧別、美瑛、札幌のレースだったり、福島の裏磐梯、新潟の六日町のレースのころだ。そして夏の山行は沢登りだと。

 沢登りはそれから3シーズンは続けていた。ところがその最後となってしまったのは、90年の夏。新潟・朝日連峰の岩井俣沢に出かけていた。私はここで実に大きな失望をする。ゴルジュの美しさを期待してその沢に入ったのだが、それは沢登りというよりも、ジャングル探検に近いものだったのである。要するにメジロといわれるアブの大襲撃を受けてしまったのだ。水の中に隠れても、蚊取り線香を炊いてみても、とにかく数百匹というその大群が数日間もずっと付きまとう。息を吸い込んでも喉の中に入ってきてしまうことさえある。刺された腕や顔や足がとんでもなく膨れ上がって、痒くてしょうがない。それに加えて、沢登りそのものも、ルート図に詳しく掲載されすぎて、なんら現場で登って新鮮味がなかったことにもよる。

 つまり新潟の三面川のようなサケも登るようなきれいな川には、そのメジロの大群が常に群がっているということなのだ。それに行ってから気がつくのだが、標高が実に低い。わずかに標高200からゴルジュが始まってくるのである。気温も下界と全く同じで暑苦しい。つまりそれは、黒部川や利根川のように、ある程度の標高と雪渓と涼しさを求めた山行からは実にかけ離れていたものだったのだ。ところが、ルート図の製作者にもよるのだろうが、そうした朝日連峰や飯豊山塊の沢を、黒部や利根川のゴルジュとまったく同等に述べる連中がまた多いのである。あれは明らかに違う。標高の低い沢は、「それは登山ではなくて、アマゾン探検なのだ」と。こうしたことに、私は嫌気がさしてしまったのである。本当ならば、来年はまた気に入ったところに行こうとでも思えばよかったのだが、そのアマゾンの帰りに、例えば軽井沢などに寄っただけで、あそこは標高が1500ある。実に涼しいのだ、あんな観光地でも。そうすると、私の朝日連峰の山行はいったいなんだったのか?と自己嫌悪にも陥ってくる。カモシカのそのパラグライダースクールは北軽井沢の標高1700以上で行われていた。滞在するだけで涼しい。「ああ、もう重荷を背負った沢はいいや」と思ってきたのであった。それに同期の連中の引退などで、パートナーが急に年齢低下してきて、一緒にテント泊しても、話が合わなくてつまらなくなったせいもある。やはり10歳も若い連中と会話しても、これは楽しくない、子供と一緒である。まあ多少言いがかりのようではあるのだが、確かにそういう理由で遠ざかった。


その風の向かい風にテイクオフ

 パラグライダーは、バブルアウトドアの典型だと今になると明らかに思えるのだが、始めた当時は実に楽しかった。なにしろわずか10キロ程度の装備で、本当に空に舞い上がれるだの。空中のモトクロスだといったのは、我が家の近くの北千住に店を持ち、菅平スキー場でスクールを開いていた彼だったが、「今世紀(20世紀)最後のフィールドスポーツ」と宣伝していたメーカーもあった。「鳥になる」というのは、スカイスポーツを初めてやる者にとって、うってつけの誘惑のセリフともなる。

 私は多少の凝り性なのであろうか、初めだしたら毎週のようにレッスンに通った。そして腕を上げる。半年くらいでパイロットのライセンスを取得する。これをもっていれば、どのエリアにいっても、自由に飛ばせてくれるというわけだ。

 もちろん上位者には競技会も多く開かれていたが、それは日進月歩の機種を、常に最新のもので装備してと、お金がかかりすぎる。一般的なフライトで楽しいのは、ある場所をテイクオフして、まあ2時間くらいゆらゆらと飛んで、いい加減に飽きたところで着地するというような、過ごし方であろうか。晴れた日というのは、太陽に温められた空気が山の斜面にそって、どんどん上昇してくるのだ。上昇風(サーマル)という。これをうまくつかむと、あのパラシュート(パラグライダー)は、どんどん高度を上げてくれる。例えば山の中腹から飛び出しても、その山の山頂を越えてさらに上昇できる。富士五湖の本栖湖の裏に毛無山(1900)がある。ここにカラオケの第一興商の不動産部門の投資先としてエリアができた。そこによく通っていた。テイクオフが600下の、標高1300。そこから出て1900を越えて、2300くらいまで行ったこともある。すべて条件次第なのであるが、そう難しいことではない。そうして上空でゆらゆら遊ぶ。たまに急降下して、また上昇したりもできる。

 パラグライダーというのは、時速30キロ程度の乗り物だ。滑空比が7。時速30とういのは、おおよそ秒速8メートルくらいであるから、その間に約1,2メートル下降する計算になる。ところが秒速1,2メートルの上昇風がそこにあれば、永遠に沈下しないということになる。ところが実際には、秒速3だとか5だとかの上昇風がある。上空の空気というのは、風は左右に吹いているような気もするが、実は上下に吹いているともいえるのだ。最も強い積乱雲の上昇風はおおよそ時速100キロと教わるし、そこに巻き込まれると多分上空1万メートルまで吹き上げられて、簡単に死んでしまうよということになる。積乱雲はジェット機の飛行も狂わせるくらいなのだから。

 こうしてエリアで自由に飛べるようになると、やはり元山屋さんとしては、本物の山で飛びたくなる。しかしこれは正式には歓迎されることではないのだ。事故があるかもしれない。他人に迷惑をかけるかもしれないといわれ、まあ「山賊飛び」といわれている。しかし、法律的に規制できるものでもない。欧米でもそういうことは主流になっている。同じ山のクラブのなかにも、私よりも先にパラをやりだした者がいて、丹沢で飛び、そのうちに雪の八ヶ岳、谷川岳、そしてついに夏の甲斐駒ケ岳で飛ぶ計画が進行した。


ホームグラウンドだった毛無山では、背景に富士山が格好よく映る。

 甲斐駒には、伊那からバスで北沢峠までいって、稜線沿いに4時間で山頂に達する。そこでテイクオフできそうな場所を探して、すこし鋸岳の尾根を下る。そこに決めた。ちょうど真夏の快晴、コンディションもいい。そよ風の向かい風くらいが、最もいい条件になる。ところがやはり3000級の山である。もし何かあったらと、事故も怖い。テイクオフしてゆらゆら遊びたいのもやまやまだが、とにかく安全に降りることだけが最優先にならざるをえなかったために、これは「ぶっ飛び」と呼ばれる、失敗フライトの部類に入ってしまったのだ。ただ目的地に向かって下降していくだけだったのだ。上昇風を捕まえるなどという余裕は、このときはなかった。それに上昇風のなかというのは、多少機体がガサガサと揺れるものなのである。エリアならいいとしても、これが標高3000だとやはりちょっと怖い。それに山頂から見るランディング(着地)予定地の戸台の河原というのは、実に遠いものだ。登ったとしたら2日はかかるのだろうか。標高差にしても、2000は越えている。先にパートナーがテイクオフして、私は彼が着地する20分を待ってから飛び立つことになった。もちろん無線でお互い連絡は取り合っている。万が一事故の場合、その相手はフライト中というよりも、ちゃんと地に足が着いている状態がいいというように、お互いの中で決めたものだった。その20分間に、彼は見えないくらい遠方へ飛んでいってしまった。取り残された私は少し寂しくもなる。それに飛行機はとにかく、テイクオフとランディングが難しいもので、飛行中はまあ安全なことが多いものだ。飛行機事故もそのどちらかで起きることが多い。ちゃんとうまくテイクオフできるかどうかでも、ドキドキした。

 相棒が着地してから私はテイクオフした。まあスムーズにできた。飛び立ってある程度すると、もう気分はいい。振り返って甲斐駒の雄大な山容を何度も見返したりしていた。そうして鋸岳からの尾根を越えてドンドン戸台側の下流に向かっていく。千切れ雲がモワ〜ンと真横を通り過ぎて行ったりした。高度が高い場所ならではの経験になる。狭い谷に降りるときには風が安定していなくていやなのだが、そこは広い河原で問題もなかった。こうして約20分で「ぶっ飛び」の計画は終わったのだが。済んでみると、なあんだ、もうちょっと挑戦してみても(上昇風をつかまえること)よかったかなという余裕もでる。

 飛び終えてみて気がついた。条件がよければ標高差2000などというものは、何の問題もない高さなのである。同じように直線距離の8キロ、10キロも問題のない距離なのだ。ところが条件が悪いとなると、それこそ標高差の50や100でも大きなことになる。山というのはそういうものなのだと。正月に扇沢から山越えで剣に入ろうとしたパーティがあって、2週間掛けても、ハシゴ谷乗越までたどり着くのがやっとで、救助されたことがあった。黒部川を横断したのはいいが、そのハシゴ谷乗越へいくのに、雪崩を避けて黒部別山の主峰越えというルートなのである。それにハシゴ谷では新雪に囲まれて、全身のラッセルで、真砂尾根へ取り付いたのはいいのだが、1日でわずかに距離にして200メートルしか前進できない。条件の悪いときはそんなものだ。ところがこれが晴天の下りとなれば、スキーで黒部川まで30分とはかかるまい。条件次第で山は、10倍いや100倍辛くもなるし、反対に楽にもなる。それが山を上空から眺めたときに、一層身にしみて分かったものだった。

 このフライトを前後して、ヨーロッパにフライトツアーを2回行った。ヨーロッパの観光地の案内所は進んでいる。予備知識がなくても、通常の一般の案内所でもパラグライダーの問い合わせに、エリアの場所や、連絡先を教えてくれるのだ。もはや特殊なアウトドアではないのだ。

 八ヶ岳でのフライトは、諏訪側の行者小屋のすぐ下の河原に、積雪があるときがいいという判断で、春先の天気のいい日を見計らっておこなった。このときは充実していた。相棒は2時間、私も1時間くらい飛び回った。赤岳の頂上付近から、硫黄岳の頂上付近を10回以上も左右に往復しただろうか。山頂にいた登山者が手を振り、やはり珍しいものを見るなあという仕草をする。そのまま彼は佐久側に飛んで行って遊園地に降りたようだった。私は行者小屋したにランディングして、下山して美濃戸に置いてあった車で彼を迎えに行った。

 谷川岳を飛んだときも、マチガ沢に雪渓が残っているときがいいと、そこでスキー講習会している間に降りたものだった。このときもぶっ飛ぶプラス10分くらい、上空で遊んだ。テイクオフのときに周囲に観客も多かった。


谷川岳では頂上脇の雪の残った斜面からテイクオフ

 ところがである。このパラに熱中したのも、実質5年間くらいだったろうか。その間はいっさい登山はやらなかった。すでにやめていた冬山ももちろん、沢登りも。この遊びにしても、やはり集中していないとできないものだ。けれどその割りに条件のいい日というのは少ない。季節風の日には飛べない。薄曇りに飛んでもちっとも上昇できない。仮に条件がよくても、「じゃあ、2時間滞空したからって、何?」ということになってくる。簡単に言ってしまえば、ジェットコースターに乗っているようなものなのだ。最初はいい、でも慣れてくるといつも同じこと。どこを飛んでも同じこと。そのうちに条件がいいのに、30分も滞空していると「もういいや、降りて帰ろう」と。どこかで、その次のステップアップというものがない。仮に穂高や剣から飛んだとしても、ぶっ飛び20分で終わって「ふ〜ん、そんなもんか」で終わっただろうか。珍しい乗り物だから、登山客を驚かすのはいいのだが、じゃ、自分一人で飛んでみて、さてどれだけ面白いものなのだろうか。やはりあんなもので空中を飛んでいるのだから、安全の程度というものは知れている。バンジージャンプと同レベルとはいわないが、やればやるほどコクが出るという気にはなれなかったのだ。行かなくなる時期が長くなって、久しぶりにいくと、それは急に衝立岩の真ん中に放り出されるようで、怖くもなる。ついに辞めてしまった。2年前に引っ越したときに、全部ゴミに置いてきてしまった。5年間で40万円ほどするパラを4台乗り換えたのだが。今でもたまに上空を飛んでいる人を見るのだが、ふーんと見上げるものの、またやってみたいという気にはならないのだ。飛んでいるその気持ちはつかむようにわかってしまったためだろうか。あのバブルアウトドアもやはり人口が減ってきているようだ。

 こうして私は96年辺りから6年間は、冬のクロカンスキーをやるだけで、パラも他の登山も一切やらなくなった。冬以外の週末にまったく別の室内ゲームに参加したことにもよる。そうして2003年を迎えた。詳細はこの3月の仙ノ倉谷の記録を「岳人」の紀行に書いたが、それに詳しい。第1に体力低下。第2に圧雪されたクロカンレースにちょっと飽きてしまったこと。第3にようやく、本当の山スキーの楽しさが分かってきたこと。それがクロカン山スキーの始まりとなった。

 人生は何が転機になるのか分からないが、でも仕事以外で楽しいことが常に身の回りにあったことが、とてもよかったことなのではないかと思っている。



1994年
 私、飽きっぽい性格ですか。3年くらい立つと何事も熱が冷めてしまいます。5年位前から始めたゲームのバックギャモンにこの年は凝ります。というのも、それ以前には、そのゲームのメーカー主導で年に1回の大会が開かれていました。といっても、1回戦に負けるとさっさと「帰ってください」というようなもんで、参加者は全然面白くない。甲子園の野球でも、テレビで見ているファンは盛り上がりますよ。でもねえ、参加している方の身になってみると、トーナメントというのは、実に参加者に冷たいもんだ。
 北海道のチームが甲子園にいって、多分あれは開催の1週間前に甲子園入りして、練習だとか毎日過ごす。そうして抽選おこなって、一回戦がさらにまた一週間後なんてこともある。毎日練習場と旅館の往復して、さて試合が始まってみると、野球1ゲームってのは、2時間あれば簡単に終わってしまうもんで、2週間時間待ちされて、2時間で負けて「帰ってください」。
 同じように、アマの将棋のトーナメントなども、週末の二日間で開催されて、土曜の午前10時に試合開始とかいわれて、それで一回戦で負けると、昼前に「帰ってください」というのがトーナメントの基本なのです。プロならそれでもいいですよ。でも私たちアマ連中が、週末をそのゲーム楽しみにしているのに、こんなイベントじゃ面白いはずがない。
・・・というように、ずっと思っていたのです。でこの年に、下平という人が、玩具メーカーがイベントの手を引いたことをきっかけにして、バックギャモンの国内のイベンターとして旗揚げしたのです。それにつられて参加して、実に毎週(当時は隔週)その新宿道場に出入りしていました。そういう室内ゲームでの時間の過ごし方をすると、アウトドアにはまったく出かけなくなります。
 毎週のそのイベントというのは、およそ昼から夕方5時まで。その5時間をリーグ戦で対戦するわけです。トーナメントじゃないですから、負けても次の試合がある。そして個人の成績を、レーティングで管理する。もちろん欧米での同じゲームでの遊び方法を仲間で導入したわけですが、これが実におもしろい。
 週末の楽しい過ごし方を覚えると、二つを同時進行というのは、ちょっと難しい。
 国内ではプロの囲碁、将棋の連中も、このゲームしている人もいました。学生も将棋出身が多い。オセロ出身というのもいます。将棋というのは、やはりやや頭脳明晰集団がいて、米長などは、
「私の兄貴は頭が悪かったから東大に進学したが、私はそれ以上だったから、中卒で将棋界に入った」
 とかいっています。まあ、似たような連中がいました。いや今も大勢います。
 ゲームは頭のスポーツだとも言われていますが、麻雀にしても。アウトドアが体酷使するスポーツだとすれば、この頃から私は頭のスポーツゲームにも参加を始めたということになるでしょう。今となっては、ともに甲乙付けがたい。
 バックギャモンにであって、人生大きく変わってきたともいえますね。それにこのゲームは、昨日今日できたゲームではない。大昔のメソポタミア時代にもあったし、日本には中国から1500年以上も前に伝わっています。ルールが簡単で万人に理解できて、それで戦略が複雑なものが、長く生きることになる。スポーツでいえば、サッカーがまさにそれ。11人でボール蹴って、相手のゴールに入れればいい。これも15枚の駒を動かして、早くゴールすればいいというだけ。もともと双六ですから。
 世の中にサイコロというものが存在するのは、このバックギャモンをやるためなのです。正月に子供がやっている絵の双六は、これの子供用。三つ進むとか、振り出しに戻るとかね。66は三つどころか24駒進むし、ヒットされれば、最大で24駒戻らされる。そういうゲームでした。
 江戸時代の丁半博打は、この双六さえも理解できない愚か者ように、実に偶数、奇数だけで博打を始めたのです。本来のゲームの愚か者要でさえ、当時どれだけの人数がヤミで博打やって、またヤクザはどれだけ寺銭を稼いだか。子供用でさえ面白いのであれば、ちゃんと大人用を理解すれば、その100倍は面白いに決まっています。こうして私は思わぬ方向へ流されていったのでした。

1995年
 ギャモンの国内トップ連中は、毎年2回くらいは海外の大会にいっていました。現在もそうです。なんだかトラック競技のトッププロ連中も、ヨーロッパサーキットとかしてますが、ギャモンも同じ。といってもアマですから、たまにはプロもいますが、自費参加となっています。
 香港のギャモングループも、そこで「アジア大会」を開催したいと言い出したようで、前年には下平が偵察参加していたようでした。大会は10月です。で、この年には、その大会にも誘われたのです。確かに毎週新宿にいって、ゲームをやってはいるが、そのために海外にまで本当に自分が行くのか?と最初は疑問に思ってもいましたが、そのうち数人が行くと言い出して、ついに参加することになったのです。週末の3日間が開催日。
 それまで欧米には旅行してましたが、アジアに出るのは初めてです。香港というところにも、多少は興味ありました。人口の9割はチャイニーズなのですが、それ支配している1割の白人の間で盛んなのです。空港から対岸の島に渡って、その高台にレクリエーションクラブがあって、その広い会議室が会場になってました。
 基本的にギャモンプレーヤーというのは、リッチ系でもあります。なにしろゲームに掛け金が生じる。しかもパチンコのように、穴に入ればいいのではなくて、その勝敗に戦略がいる。それでていサイコロ振っているわけだから、3割くらいは運の要素が付いて回る。麻雀に近いでしょうか。
 会場でゲームやっていて、「コーヒー」とか「飯」とか叫ぶと、そこのメイド連中がすぐに駆けつけてきます。それも私よりも年長者の男のチャイニーズのメイド。それが、サーバントのように働いて、時には散らかしっぱなしで会場を去っても、ベッドメイクしてくれるのと同じで、片付けて、掃除してくれる。そんなことに違和感があり、感動もあり。この身分でメイドに指示していいのかと。でも現地の連中にとってそれは当然のことで、何もおかしくはない。国内でデニーズでウェイトレスに注文するのと同じだといえばそうだけど、ここはレストランじゃなくて、自分たちが遊んでいる場所。日本以外は身分社会で階級制になっているのです。
 こういう大会はトーナメントですが、ギャモンの大会のいいところは、メイントーナメントで一回負けても、まずコンソレーション(敗者復活戦)がある。それに負けると、そのトーナメントからははじかれるが、ブリッツトーナメントとか、サイドイベントがまたある。それなどは、負けてもまたリエントリーができる。他にJPというトーナメントもある。JPはメインと同じくらいに高額賞金でもある。さらにまだまだ、1pマッチのトーナメントというのもある。つまり出る試合、出る試合どんどん負けても、まだまだエントリー(もちろんお金を払うが)すれば、飽きるくらいに、どんどんできる。だからいつでも大会というと、大勢が集まって、誰もが最終日の決勝戦の頃まで楽しめるという仕組みになっているわけなのだ。そういうイベントの開催形式もやはり、欧米のギャモンファンが歴史のなかで作り出してきたことだと思われる。勝負事に一切のお金を掛けてはいけませんとなっているわが国では、ゲームイベントが盛んになるはずがないと思う。子供の遊びじゃないんだから。
 香港の連中というか、アジア人は元々夜遅くまで遊び歩いている連中です。香港は東京よりも遅くまで、午前3時頃まで人通りが賑やかです。そういうチャイニーズの食通とういのも、このときに目の当たりにしたこと。店の中にいけすがあって、泳いでいる魚を料理する店はどこにもあるけど、あのピンク色のナマズはいったいなんだったのかと、思い出す。「当店のお勧めですよ」というのだ。どうせ東シナ海とか、暖かい海のナマズに決まっている。見た目に毒キノコのような色をしている。本当に食えるのか?
 注文すると、そのいけすからナマズをバケツにいれて、一応持ってくる。「ご注文はコレでございますね」と。ナマで見たら、なお気持ち悪い。
 でもそれが、15分くらいで料理されて出てくると、グリルの魚で、こんなうまいもの食ったことがないと思ったほど、うまかった。チャイニーズは何でも食べるのだ。四つ足は椅子とテーブル以外は全部食べる。
 裏通りを散歩すると、鳥肉屋がある。籠に生きたままのニワトリがいくつもいて、客が買うと、本当に目の前で首はねて、売りつける。普通の魚屋でも、泳いでいる魚を、その場で裁いて売ってくる。血が飛び散っても平気。昔の日本にも同じような店はあったのだろうが、最近は見ない。でも香港でそれ見ると、それもまた感激。買っているどこかの家庭の主婦も、それ見ても何ともなくて「見ただけで怖い」なんていう日本の女には、本当の美味しい飯は作れないだろうと思ってしまうのだ。人間は鳥や牛を殺して、本当に食っているということが分かる。
 ギャモンプレーヤーで香港にきていたのは、現地の白人はそうだが、タイ、マカオ、からもいた。実はこのタイというのが曲者で、何もタイの現地人がギャモンやっているのではない。あそこには、ドイツや北欧などから「寒くてイヤだ」と流れてきたヨーロッパ人がゴロゴロと住んでいるものだ。
 あるドイツ人は、年に半年寒いときにタイに住んでいて、とんでもなく物価が安いためにメイドもいて、けっこうドイツからはツアー観光客がくるようで、そのブッキングとかして、簡単に暮らせるといっていた。しかもバーにいると、ギャモンやろうという客もくる。いくらか掛けて、ストリートファイトして、通常勝ってしまう。それが飯の種にもなっていると。「いい若い連中が、将来の生活設計もなくて、その場しのぎの生活のようで本当にいいのか」と思うのだが、老人になっても、ちゃんととのときに設計できるらしい。
 大体タイには日本からも観光客が大勢行く。ヨーロッパからも来るのだ。現地にいてブッキングして、何か母国へ輸出できるようなものがあれば、それも貿易商売になるらしい。だから香港といっても、欧米ほどじゃないが、白人コミュニティだったわけだ。
 さて私はこの大会は40人くらいの規模だったが、サイドイベントの1pマッチのドラゴン・スレーヤーというイベントに勝ち進んでいた。竜を切り殺すという意味になる。エントリー千円。結果64人が参加することになった。一回戦からだと6連勝すると優勝。世の中に勝率50%ゲームで6連勝するってことが存在するのかと思った。でも64人中に一人だけ、そういう人は存在するものだ。
 3回戦くらいで当たったのは、メインで優勝した北欧系の兄さんだったし、でも彼は手つきが割るそうで、イタリアのピッキングのプロみたいな顔つきしていた。それにも勝ったし、その次には三流のギャング映画の悪役にぴったりの男にも勝った。こうして何だかこのときには、ベスト4に3人日本人が入った。向こうの山は下平と長谷川。こっちは私と、あと数は少ないチャイニーズのオジサン。私勝ちあがって、向こうは長谷川。香港の大会の決勝で、新宿のメンバーと当たるというのもおかしかったが、しかしここまでくれば、コレを落としたくはない。ゲームは微妙な展開になったが、私の勝ち。心の中でうれし泣き。
 優勝して、賞金は千円くらいが5万円くらいになった。というよりも、このイベントにも優勝カップがちゃんと用意されていて、それをもって帰ることができた。現在我が家にはいくつかの優勝カップやトロフィーがあるが、この香港の大会のゲットがその一つ目ということになる。大体ゲームの決勝戦にしても、5回決勝戦にでたが、全敗で準優勝ばかりという人もいる。試合というのはそんなもの。それが初めての決勝で、しかも海外で勝ったというのは、これは忘れられない出来事となった。
 ギャモンに熱くなって2年目にこういうことがあって、さらにまたのめり込む。



1996年
 ギャモンにのめりこんで3年目。
 実は、今から10年前辺りのことを、何で思い出しながら綴っているのかというと、私は何で今47歳になるが、はっきりいって体力の低下。で、どうしてそんなことになってしまったんだろうということと、まだ37歳でも十分いいのに。失われた10年は、どうしてあっという間に過ぎてしまったのだろうという、検証をしたいためである。
 楽しい時間はすぐ過ぎてしまうというのは、本当みたいだ。光陰矢のごとしともいうが。それが事実なら、この10年はよかったということになる。
 その矢の如しの証明が、この96年という時代に、いったい何をしたんだろうと思い出そうとしても、コレといったことがない。それで過去の資料を持ち出してみれば、なるほど、新宿のギャモンクラブが夏に閉鎖になって、赤坂に移って、私はそれ以降現在まで会報の担当になっている。つまりクラブの月刊新聞を発行しているとういことだ。それは現在まで8年続いたということ。石の上にも8年か。
 あるいは10月には、前年のように、数人の仲間と香港にいった。でもコレといった成績はない。
 六本木のレストランフィヨルドのママも、このときの仲間の一人で、最近久しぶりに会った時に「あの香港ツアーから8年も経ってしまったのね」と愕然としてしまったものだが。
 それにこの年の春先に、昭和5年生まれの父親が66歳で亡くなって、あれからも8年。
 それ以外の普段は、まったく週末には、ギャモン漬けでもあった。
 でもまあ、仕事は普段どうり順調だったと思うし、子供も二人が小学生だったし、スキーシーズンには、子連れでスキーはしていたはずだし、平凡なり、楽しい時間は過ごせていたはずだと思う。こうして1年が過ぎてしまった。
 もっと何かしておけば良かったと今思ったとしても、当時はそう思わなかったから、何もしなくて、平凡に過ぎていったのだろう。それは、今思い出せることがなくても、良しとしなければならないのだとは思うが。なんとなく老いて、若い時代のカタルシス感じているだけなのかも知れないが。

1997年
 ギャモンで、私も海外転戦を始めようと思った。わが社は、5月のGWの1週間前に休暇がある。ちょうどそのときは、ラスベガスのギャモン大会の日程であることに気が付いた。この世界大会は、週末の5日間行なわれた。それに初めて一人で参加したのが、この年。大会の名前は、ツインバックギャモン大会。そこでは、インターナショナルカップとネバダカップの二つのタイトルが争われて、トーナメントが開催された。アメリカの大会では、ナンバーワンかツーの規模になる。
 ところが仲間は、世界選手権と名の付いた、7月のモナコの大会には10人以上参加していたのだが、このアメリカの大会には参加していなかった。休みの関係だったのか。そんなことで、東京のギャモンクラブの組織の中では、私は「アメリカ担当」とか言われるようになったが。
 この大会で$500の16人JPで2位になった。賞金が$2200くらい出た。過去の世界チャンピオンや、世界の理論家と言われる人との対戦もあったが、それに運良く勝つこともできた。
 しかしそんなことよりも、最初は観光旅行の海外渡航に始まって、そのうちに登山。そのうちにパラ、そうしてギャモンと、旅行に目的が付くようになった自分が、進化したように思えていた。ラスベガスも、過去には観光できたし、ドライブの途中でも寄ったし、このときは3回目くらいの訪問になった。
 この頃は、世界のトップ選手として誰からも認知されていた人に、ウィルコックスというプレーヤーがいた。現在アメリカではナックバラードが第一人者とされているが、当時はナックよりもウィルコックスが明らかに強かった。たまたま大会で彼と対戦して、これはあっさり負けてしまったのだが、友人になった。実は彼はその直前に再婚して、相手は中米のコスタリカ出身の子持ち女性だった。彼女はまだ英語もよくしゃべれなくて私と同程度だったし、夫婦はラスベガスに住んでいたが、まだ4ヶ月だとかで、彼女は車を運転しても道迷うくらいだった。でその年の夏に、コスタリカでUSAカップがあると、主催はアメリカに住んでいる連中。それにおいでよなんていう話にもなった。
 さて夏休みのときに、そのツアーに参加する。最初の週末は、LAでコレはついでにミニトーナメントに出ることになった。ここでまた64人の1pトーナメントに優勝して、私としては二個目のトロフィーのゲットとなったのだが。
 実はそのときのホテルから、会場まではおよそ歩いて20分くらいの道のりだった。二日続けて、その道のりを歩くことにしたのだが、このとき「なんで、20分の距離あるくのがつらいんだ」と思ったくらい、連日疲れてしまったのである。考えてみれば、私は、この3年間、ほとんど運動をしていない。冬の数日間のスキーを除けば、何もない。毎日車に乗っていて、「1日に100歩くらいしか歩いていないんじゃないだろうか」と思い直したくらいだった。それに外人というのは、あのデブった体でも、立食パーティなど苦にしていないらしくて、そんなに椅子に座らないのだ。日本人は背骨でも弱いんだろうかと思う。
 普通のホテルのロビーでウロウロと歩くだけ。あるいはホテルから会場まで20分歩くだけで、私は苦痛な体になってしまったのである。「こんなのではいけない」と思ったのが、このときになる。かといって、20歳代のときのように、またマラソンをやろうとも思えない。膝が痛くなる。じゃ、お散歩、ウォーキングということになる。ちょうど40歳のときだ。思い返せば、35歳までは、普段は何も運動などしなくても、平気だった。でも40歳になると、極端に低下してきたのだろう。初めて自分の健康を思って、何かしなくちゃいけないと思ったのがこのとき。
 そういえば、アメリカではエクササイズのクラブなどが、いくらでもあった。とおりのウィンドーから、あのネズミのように、ルームランナーの上を走っている連中がいくらでもいる。
 およそ世界では知られていない国でも、例えばコスタリカなどでも、ギャモンをやるようなリゾートはいくらでもあるものなのだ。ホテルにはカジノもあった。和子さんという人は、ケニアまでギャモンをやりにいったものだ。世界中でリゾートがない国は、北朝鮮だけかもしれない。インドだって、核兵器を持っているし、金ぴかのロールスロイスも走っているし。もちろんヒンズー教のスラム街で、その日暮らししている人もいる。東京の山谷にも同じような人がいる。「貧しい国」とか「途上国」とか一言で片付けてしまうが、それは全体経済が途上にあるだけで、部分でみれば、観光収入に頼っている土地はいくらでもあって、またそういう土地には、金持ちが観光にいっているものなのだ。コスタリカなんていう国に、ホテルがあるの?とか、カジノがあるの?とか、金持ちが住んでいるの?とかいう、横柄なアホな疑問を抱くのは、この数十年で成り上がった日本人だけじゃないのかと、思う。大正や、昭和の戦前は日本も貧しかったというのだが、それも怪しい断定で、京都にはその頃から料亭があったし、芸子がいたし、そこで遊ぶ連中がいくらでもいたものだ。
 最初の学生旅行が、バスや電車のヒッピー旅行だったのだが、この頃では、ギャモンというリッチな旅行になって、背伸びしならが、優雅な連中の振る舞いを見て、そういうものに、感動していた頃でもある。でもラスベガスなんてとこは、何も金持ちのリゾートというわけでもなくて、東京のディズニーランド程度の、テーマパークだと思うのだが。ラスベガスではまだこのときは建設中だったが、ベラージオというホテルは、イタリアのコモ湖をテーマにしたホテルになった。あのとてつもない噴水のホテルである。でもコモには、この2年前だったか、パラツアーに出たときに、たまたま寄った町がそこで、確かに素敵な湖の小さな町だった。イタリアの連中は、原付は当時無免許で誰もが乗れたらしく、映画のローマの休日でも、ミニバイクが二人乗りで走っています。そんなのがとても多い町だったような記憶もある。ベラージオのそのテーマの現地を知っている人となると、これは極端に少ない。ローマやミラノには誰もがいっても、その北にあるコモはよほど理由がないと行かない。もう少し北に行けばスイスとの国境で、越えたルガノなんていう町は、スイスにあるのに、イタリア語圏だった。スイスには4つの言葉がある。
 そういうことを知っていることに、また優越感を持ったりしてした。
 いずれにしろ、体力低下、20分歩きが苦痛になったことに、気が付いた有意義な年だったということだ。

1998年
 この年の夏には、ダラスのワールドカップ(もちギャモンだけど)の前哨戦に山口と参加。記録を見れば「ああ」とは思い出すけど、年間のオーディナリのスケジュールで、遊びまくりって感じだね。
 実はこの年だったか、前年のコスタリカのときだったか、買っておいたパソコンでネットを立ち上げたときでした。あんなもの本当に必要性がない限りは始めないものです。コスタリカだったかダラスだったか、それに参加するために資料を、これは相手のHPなどから検索するしかない。それもマジに。そういう必要性に駆られてのことでした。ちなみにキータッチは、その2,3年位前に、これはワープロの必要性から、私マジに学校に通ったのです。1限が90分で、それ15限くらいまで、3週間くらいかかりましたか。怖いお姉さんに「ブラインドですから」と言われて、今考えてみれば、あの努力というのは、もう運転免許取得の30倍くらいの意味があったのかも知れません。
 その前には、10万円でワープロ買うくらいなら、10万円の万年筆買うとか、生意気なこと本当に言ってて、それマジにやっていました。悪筆なのに。
 でもこうして時代がパソコンになってくると、字を書くのも、手書きの10倍こっちが楽だということを、今になって理解。けど当時は、ローマ字入力など、並びがおかしいとかいわれて、キャノンの親指シフトがどうとか。でもネットで英文の必要性を思えば、しょうがない世界共通のこのタッチしかないわけです。あの頃親指シフトとか、和文入力といっていた連中どうしたんでしょう、消えたんですねきっと、時代に埋もれて。
 そのタッチが、この年になって、ようやく通常にできたんでしょう。例のギャモンの会報作り始めて、2年ですか。あれは私のタッチの練習のために自分でやり出したといってもいい。それまではとてもじゃないが、文章なんて書く気にもなりませんよ。タッチに神経使われて、書く事忘れてしまいます。必要は発明の母とはいいますが、必要は、やる気も、タッチも母でした。
 そういうデスクワークに追われていました。例によって、アウトドアはかけらもない。そのかけらもなくなって、4年ですか。
 ダラスではなにもいいことなかったですが、やはり10月に香港にいって、この年はスーパーJPで優勝。あれは10万円の8人でスタートさせたのに、その4分の1だけに人数集まって、けっきょく2万5千円の32人という計算になりました。5連勝で優勝。サイモンとか、スティーブネルソンとか、モナコ常連組みとの対戦もありましたが、これ運良く優勝。決勝に上がると、大体勝てるなんていう変な自信もってました。賞金は80万円ほどがセトルでおよそ半々で、40万円くらいでしたが。こうなると慢心して、次は賞金1万ドルだと目標にしたのですが、コレは未だに実現せず。ギャモンもこの年で4年目ですか、大はまりしてました。いまでも・・・。
 ネットのGG、ゲームズグリッドに参加したものこの年だったか。アメリカのサイトで年間6000円くらい。その中に世界中の相手が接続していて、当時は現地の夜になると100人を切って少ないものでしたが、最近はいつでも500人くらいいます。そのネットの向こうの人と対戦する。これから数年して、ヤフーでも同じこと初めて、いまどき将棋でもオセロでも麻雀でも、ナマでやる人などいません。ネットの方がまったく簡便。それにGGでは、その数年後には、お金も掛けられるようになって、自動的にやり取りできる。アメリカのサイトですから。こうなると、町のパチンコやに篭って、いつもお金掏られている連中は、まったくアホに思えてきます。貧乏人がどんどん貧乏になるってのは、こういう仕組みでした。
 そういえば資料見ていたら、ポールマグリエルを下平が日本に呼んだのも、この98年でした。ギャモン界の神様です。数学者の彼は、もしギャモンにはまらなければ、ノーベル賞も取れたかもしれないという天才。そういう連中がこのゲーム界にはゴロゴロいます。皆仕事の余力で、余力が本職の面白さしのいで、このゲームで遊んでいます。ああいう数学者はお金はないけど天才で、やっぱりそういう人にはパトロンがいるのです。当時はパリに住んでいたらしいが、そうそう日本に滞在した1週間は、彼はゴールドマンサックスだったかのファンドマネジャーが、赤坂の高層マンションに住んでいて、ジョンといったか、彼の家にいました。母国へ帰ると、それはアメリカですが、ラスベガスに今は住んでいるようで、そこも誰かのアパートを借りているというか、ポールに「貸して上げるよ」というスポンサーがいるわけですよ。タニマチってのは、お相撲さんだけじゃなくて、数学者にもついているんだなあと、思ったわけです。
 ギャモンは知的スポーツですから、そこに楽しみ見つけて、充実していた時代だということでした。

1999年
 アウトドア空白の6年目。
 10月恒例の日本選手権の大会三日間中に、その夕方からのイベントとして、ジャパンオープンを併設したのは、下平でした。この年は、その第5回目。私過去にジャパンオープンで優勝したことがあったのですが、そのときのトロフィー見て、それは99年の大会だったことを確認。過去の栄光、そんなこともあったのです。
 資料見ると、32人ちょうどエントリーしています。トーナメント5連勝で優勝。たしか賞金40万円くらい獲得したでしょうか。「過去にギャモンで日本一になったことがある」とそれは、いい代えることもできます。でも日本選手権だとか、名人戦だとか、日本一名乗るたくさんのトーナメントがあることもまた事実、楽しいことですよ。
 ゲームイベントの構成としては、ギャモンの世界標準の大会見たときには、最初は驚きました。前にも書いたように、すべてのイベントにエントリーして、それ適当に負けてしまえばいいですよ。しかしどれもどんどん勝ち進んでいったときには、もう1日中、何の休み時間もなくて、次々に対戦がやってきます。それはもちろんとても楽しいことなのですが、しかし一つ一つの試合に集中できなくて、あるいは疲れて、あるときに、ベスト8から4へ勝ちあがる試合に、どれもこれも一挙に負けてしまうというとんでもないことに陥ってしまうものです。過去にそういう人もいくらでもいました。
 テニスの杉山愛などは、シングルとダブルと、ミックスダブルスの3つにいつもエントリーしています。そうして彼女は世界でもある程度強いですから、それもベスト8くらいに勝ち上がってくるわけです。そうなると、1日に多いときには、この3試合すべてやらなくてはならないときがある。彼女若くてパワーがありますから、こういうことできますが、しかし、そういう方法取らない選手もいます。過去の女王のエバートは、ダブルスに興味がなかったのか、エントリーはいつもシングルだけ。それでも何度も優勝しています。当時彼女と多く対戦した、ナブラチロワは、どちらにもエントリーしていました。プレーヤのエントリーは自由です。本人の意思しだい。もちろん勝ち上がって、二つの試合が同じ時間帯に予定されていたなら、主催者は時間をずらすなど便宜は図ってくれますが、それでも一つの試合が終わって、20分くらいの休みだけで、次の試合も戦わなくてはいけない。
 こういう様子は、全くギャモンと同じというか、実はどんな大会でも、運営システムというのは、世界標準においては、同じことなのです。私はこの数年のギャモンの世界大会に実際に参加して、そういうことが本当によく分かってきました。
 冬の五輪には、おはじきみたいな種目で、カーリングがありますが、あの選手などは、各地のクラブ出身者などで構成されています。それは、ギャモンクラブが、国内でも海外でもどの都市にもあるように、これも同じことなのです。クラブ主催の大会もあるし、フェデレーション主催の大会もある。皆同じこと。
 ただ国内のイベントだけ見ていると、それは多いに未熟で何もわからないことになってしまうのです。ある意味で多くのイベントが歪んでいるわけです。
 例えば、日本ではゲームのプロ選手というだけで、何故か尊敬される。それは囲碁と将棋にプロが存在しているからなのです。両団体のパトロンは新聞社。読売は、竜王戦というタイトルに年間3億円のスポンサーをしています。同じように毎日は名人戦に、サンケイも、日経も、赤旗までも、そう朝日も、すべての新聞がこの2種目に出資しています。それを将棋連盟や日本棋院がプロ将棋指し、囲碁打ちに分配しているという構図ですよ。つまりパトロンがいないと、何も立ち上がってこないというのが、日本の現状。でも海外の2流ゴルフ選手などは、自分たちで1万円くらい出資して、100人で大会開いて、優勝者が100万円の総取りだとかいって、2流イベント開催しているのです、私はこの方がずっと健全だと思っているのです。ゲームやりたいという人は、何も乞食じゃない。パトロンやスポンサーがいなければ何もできないなど、結婚しなくちゃ子供がもてないと同じことで、それはひ弱な考えになります。
 先のカーリングの選手はみんなアマだし、アテネのアーチェリーの銀のあのおじさんも、高校教師というアマでしょう。アマの何が悪いのか。登山だってみんなアマですよ。だからこそ好きなことができる。プロとは言い換えれば乞食としか、私には思えないのです。タレントは電波芸者だし、ヤクザの集会でも呼ばれれば出かけざるを得ないもの。プロと名のつくだけで、尊敬のまなざしする一般人は、本当にイベントの構成を理解していないわけです。山のガイドだって、へんてこオバサンに呼ばれたら、案内するしかないでしょ。
 それと国内のイベントがつまらないのは、いつもゲームメーカーだとか、上が建前上に一応大会だけを主催している。それは選手のためではなくて、会社の宣伝だからです。プレーヤーは考えが未熟だから、それに乗っかっているだけ。だからアリバイ的な大会ばかりで、三日間の初日の午前10時の試合開始にいって、10時半にまけてしまうと「帰ってください」となる。せっかく三日間の予定くんでいるのに、「あと二日は何したらいいの?」となる。詐欺ですこんなの。
 プレーヤーが自分たちが楽しみたいからと、企画した大会ではないのです。そうすると、ボランティアだとか、構成企画だとか、自分の能力出さなくてはいけない。そんな汗流すのはイヤだと、日本人は怠け者の歴史があるのです。楽しみ方を知らないといってもいい。だからプロ野球でさえ、チームはそれ自身が自立できなくて、近鉄という田舎の会社でもその部活動レベルを超えられなかったのです。そういうことが手に取るように分かる。
 こういう考えも、ギャモンの大会に教えられたようなものでした。最近は国体でもボーリングだとかビリヤードが種目になっていますが、このギャモンも五輪の種目にと言われたときもあったのです。さながらおかしい話だとは思わない。IOCが主催したものじゃないですが、韓国のIT関連が主催して、マインド五輪が開かれたことがありました。ゲームの五輪という意味でしょう。でもギャモンなど盛り上がらなかったのは賞金がでなかったことです。それは選手のエントリーフィー(掛け金)を禁止していたためで、これじゃ子供の運動会ですよ。テニスやアメリカ大リーグが本当の五輪でも出ないのは、子供の運動会などには参加しないからです。それと同じ。マインド五輪では、将棋や囲碁もプロは出ませんでした。これには二つの理由があって、世界認知のゲームではないことと、国内のプロ対戦で対局料もらった方が、ずっといいからです。大人のイベントというのは、そういうものです。
 およそ自分の過去まとめて、この94年99年の6年間が、ギャモンに最も熱くなっていた頃だったのかと思います。ジャパンオープンの優勝というのは、明らかに過去の栄光であって、しかしその思い出というのは、自分を慰めてくれるものでもあるわけです。誰のものでもなくて、自分がそれを獲得したいと思って、そこに意思が働いていたからです。
 なおその後、このイベントはさらに国際化して、また日本のギャモンレベルもさらに上昇して、年々ジャパンオープンのタイトルは難しくなっているわけです。さらに他にも大きなタイトルがいくつかできました。何故トーナメントに出て、何故優勝を目標にするのかということも、これも各人の意思の中にあります。今の私にとっては、ラスベガスのタイトルよりも、東京のジャパンオープンのタイトルの方に、ずっと意味がある。レベルも遜色ない。
 けっしてこのタイトルは区切りではなかったのです。できるなら毎年勝ちたいとも思う。でもこの99年以降は、納得できるトーナメントの成績はありません。スーパーJPの最上カップでは、決勝戦で負けて2位。いつだったか王位戦も決勝戦で負けて2位。2位は通常銀メダルかも知れませんが、そんなことで喜んでいるのは素人で、トーナメントは最後までちゃんと勝たなくては意味がない。もちろん2位でも賞金はあるのですが。
 人が集まってそこでゲームが開催される。政治ゲームという言葉もあるし、五輪などは明らかにオリンピックゲームと英語ではいいます。そのゲーム、つまりイベントの構成と楽しみ方を学んだのは明らかにギャモンからで、国内にはその参考になるべくイベントは、残念ながらどこにも存在しませんでした。今でもそうです。あるのは私たちの団体のギャモンフェスティバルだけ。そういう自負を育てられたこの6年間だと思っているわけです。



2000年
 理由は不明だったのだが、この年の6月に北海道の美瑛に家の奥さんと二人で散歩に出かけたのである。こんなことするのは、6年間の空白期を挟んで以来。
 奥さんにとっての北海道とういのは、何だったんだろうと今になって思う。子供が小さかった頃の絵本で、お父さんと男の子の無銭旅行みたいなものがあった。北海道のサロベツ原野がテーマで、親子でそこの漁師小屋に寝袋で泊まって散歩旅行していたのだ。絵本は子供にとっては未知の地へのロマン。女房にとっても同じだったのだろうか。どうせサロベツ原野といっても、語るほど現地は旅情に満ちているとは思えないのだが。
 釧路の根釧原野も、本か写真で、漠然とした夢があったかもしれない。この頃、子供が高校生になって、妻は週末二日間だけ、家を空けてもかまわないと思い始めたのかもしれない。いずれにしても、北海道らしいという場所の美瑛に6月にいった。
 いくからにはちゃんとした散歩をするぞと、6年の空白があっても、私はアウトドアの精神は忘れない。しかし現地はどうですか?北海道など、徒歩で旅行している人は皆無なのです。美瑛は昔のスカイラインのCMで有名なケンメリのポプラの木と、美瑛の丘。それが売り物なのです。でも散歩する場所というのは、もうどうでもいいことなのです。格好よく言えば、そこに道があればいい。確かにここ数年は、自宅近くをお散歩していたことはありました。でもそれが「健康のため」という理由になると、コレがつまらない。同じ道を数回歩くと、もうイヤになる。散歩でもそれ自体が楽しくなければとなると、山に行くよりもお金掛けて、遠いところを選ぶようになる。でもいいんですよ。それを旅行だと考えれば。旅行は何も名所旧跡を回るだけが楽しみでもない。散歩してたくさん歩くことが目的になってもいい。そんなふうに思うようになったのです。
 朝から夕方まで6時間くらい歩くと、25キロから30キロ近く歩ける。それだけのパワーがあるなら、何故山に行かなかったのかといわれれば、たくさんの理由があるけれど、山小屋のトイレが臭くて汚いことと、山には虫がいて汗臭いことでした。それに下界の散歩は、いつでも好きなときにコーラが飲める。おお、安易な考えですねえ。
 6月の美瑛には、なんだか修学旅行生がいましたよ。レンタル自転車借りて、集団であちこちの道走っているのです。道は舗装されていても、北海道の田舎というのは、車はあまり走りません。それに牧場というか、草原の中に道があるだけ。草刈の大型機械が草刈っていて、それを大きなローラー型に丸めていて、あれは冬の間の家畜の干草にするんでしょうね。競走馬のサラブレッドの食事かもしれない。でも涼しい北海道には遠くて、もう暑かったですねえ。妻は富良野のラベンダーも見たかったといいますが、そこまで歩くには遠くて、小さなダムとその周辺の美瑛の丘。ケンメリのポプラ。それに都会と違って自販機も少なくて、なんか喉が渇きましたね。昼間なのに人が全然いない場所も多くて、白日無、北欧の夏の真夜中みたいな感じも少しあったね。もちろん宿泊も、その日決めた空いていたペンションでした。
 そういえば、水戸黄門のおじさんは、いつまでも元気だったのでしょう。歩いて全国周り。朝日新聞が同じ散歩のブームに乗じて、伊能忠敬の日本地図を歩こうなんて、イベントしたのも、このミレニアムの年でしたか。高齢化の健康ブーム元年といってもいい。私も高齢化の仲間入りですよ、実態として。



2001年
 我が家散歩ブーム2年目。
 JRも散歩のブームに乗じてイベント企画しました。東海道宿場の開府400年だとかで、東海道歩く人にJR新幹線の3割引キップ発売したのです。そうして東海道の名勝地の紹介を始めました。東京京都間の500キロの中で10区間。1区間を1日行程ということは、全部で10日行程。週末二日利用すれば、2行程走破できると、計画は年間で5回週末。春先から実行しました。奥さんの方が乗り気だったのです。
 春に小田原から箱根越え。翌日に三島から掛川。蒲原の雪という絵が、広重の53次にありますが、あれは名作です。その蒲原へ。
 秋になって、宇津ノ谷峠越えたり、遠くは鈴鹿の峠まで、関や亀山。庄野の雨見たくて、庄野へも。静岡の日坂も。茶畑の小夜の中山。思い出せば切りがない。ちょっと横道にそれて、島田の大井川の木造橋の蓬莱橋はギネスにも乗っています。
 計画通り、10日間東海道で過ごしたのですから、250キロくらい歩きましたか。およそ東海道の半分だし、めぼしい所は皆いきました。でもこれ、同じようなことしている人けっこういるのです。タダの散歩するのに、なんで新幹線に乗るのかと。山登るだけで北海道にも富山にも行くくらいですから、歩きに名古屋にいってもいいだろうと。
 4月には、広島までいくのです。本州四国のしまなみ海道歩こうと。距離70キロ。二日間。因島の民宿みたいなところに宿泊しました。
 瀬戸内は海にしておくのがもったいないような場所です。あそこは海底が固い花崗岩ですか。砂浜になりません。細い海峡にタンカーが走る。陸地の中の運河みたいに見える。海が急速に深くなっている。およそ10個の島を巡って、到着が愛媛の今治。二日目には徒歩には時間が足りなくて、レンタル自転車を使うというインチキしましたがね。本州四国の橋で、歩けるのはここだけでした。途中に渡しの船なんてのもあるし、小さな島にちゃんと人が住んでいるのです。面白すぎる。
 東海道は文化遺産ですね。世界遺産でも、当初は自然遺産が目立つ。グランドキャニオンにしても。でも旅行者の目が肥えてくると、文化遺産に着目するようになる。文化には人たちの歴史があるからです。自然の遺産にはそれがない。若い子向きってことですね。
 その知識で先日、甲斐の武田は歴史に残る業績はないと。せいぜい自分の村の信玄堤だけで、日本史には評価されていない。それは戦場がいつも外だったことと、自分の城のなかで酒池肉林して過ごしただけ。金も銀も溜め込んだだけ。肝心なときに、というのは信長やっつけるときに、病死した情けない武将だと。地元甲府の人は怒ったけど、でも事実。それに風林火山は孫子のセリフで、武田がパクっただけ。なんで武田菱に風林火山だと。
 まあこんな話はいいです。健康散歩ブームに乗じて、楽しいことが多かったとそれを言いたいのです。
 関の古い宿場では、京都からのおばさんが大勢いて「京都はもう観光化してダメ。関や亀山がいいものが残っている」と。そうですか。江戸の町並み1キロも続いていました。家の近所の足立区にも、100mくらいは残っているのです。
 バブル志向はもうダメですよ。金ぴかジャラジャラさせて、ベンツの胴長のリムジンに乗っかって、高級ホテルめぐりなど、ニューヨークのツインタワーが撃墜されて、上階から夜景を楽しもうなんて、およそ品性にかけます。イスラムがそういうバブルの象徴に抵抗するのも、さもありなん。六本木ヒルズを今でも最高の場所だと思っている軽率な人は、あっという間におばあさんになります。
 自分が健康で満足、それに勝るものなし。



2002年
 散歩の3年目。真夏に大町から塩の道歩きました。中山道の軽井沢から佐久、美ヶ原手前の和田まで。
 車で通り過ぎるだけでは、いつまでたっても分からないことが残る。せめて途中で止まって、1時間ほどウロウロすれば分かりそうなところでも、つい通過してしまう。旅行とはそんなものです。
 どうして中山道は、江戸から京都に向うのに、北の群馬県を目指しているのか、永遠に分かりませんでした。高崎から日光へ、レイヘイシの街道があるのですが、どうしてそんなところに昔の街道があるのか分からない。日光へは、江戸から日光街道があるじゃないか。
 資料で調べれば多分頭では理解できるのかも知れないが、それはきっとすぐに忘れてしまう。忘れるくらいなら調べる必要もない。でも見てみたいために出かけて、そこで理解すると、もう永久に忘れない。知識の重積というのは、こういう方法もあるのです。
 正確に言うなら、東海道というのは、江戸から南西に延びているのです。中仙道というのは、江戸から北西に。だから共に同じ角度で西へ向っているために、おかしくない。京都とういのは、江戸の南にあるのではなくて、西にあったのです。おおなるほど。でも関越道(中山道)とおって谷川岳いくのに、西にいくって感覚はないですよ。やっぱり北だあ。
 佐久から和田へは、北八ヶ岳の大トラバースルートでしたね。いくつもの谷と小さな尾根がある。和田から峠越えると諏訪湖。そこから木曽川に沿って中山道ですね。歩いたことないですが。
 それと京都から日光へいくには、江戸に出る必要はありません。中山道の高崎宿からそのまま日光へ出られる。江戸経由は大回りだったのです。
 健康しながら、歴史観察でしたね。こうして散歩3年は終了して、クライミングにカムバックしました。

鹿島槍、幻の大雪渓 

(この原稿は、2003.6.22に鹿島槍の北股谷の雪渓ルートから登頂したときのものです。実は2003.6月号の雑誌「岳人」に、山スキーの仙ノ倉谷の紀行文が採用されて、それで気をよくしてこの山行を再び応募したのですが、どうも落選してしまったようです。それで腹いせまぎれに、ここに掲載します。これもベストクライミングでした。紀行の応募は、他紙との併載は避けてくださいとありましたが、それは自分のHPに公開することも含んでいるのかと思ったわけで、でも今となってはもう非公開の意味もないでしょうということです。山行報告のページとは若干文体が違っていますが、まあ気楽にHPに報告するのと、真面目に紀行文として応募したことの違いでしょう。
 実は岳人のこの応募というのは、私の高校時代の恩師も長年やっていたことなのです。まあ投稿マニアになるのでしょうか。それでたまたま自分でも気に入った山行ができた仙ノ倉谷で応募して採用されて、再びという経過でした。どうも、家族とか子供とかが登場すると、あの応募には採用されやすいようです。
 鹿島槍に長年執着していたのは、全くここに書いてあるとおりです。それにこの山行の成功で、またさらに雪のルートが好きになってきました。写真は、報告ページにあるものを参照してください。なおメールで連絡を取ったエクストリーマーは、@金沢の早川さんでした。ありがとう。)



(ゴルジュの向こうに鹿島槍稜線。左端が南峰、右端が北峰。吊尾根はここまで来てもなお一層美しい)

 標高2400メートルを過ぎたというのに、目的地にはなかなか辿りつけない。急斜面と少し腐った雪に、息が荒い。気ばかりが急く。私たちは事前の約束を破って、上部二股を右俣に入っていた。それで一部悪いところがあったが、それも際どい高巻きで通過できた。かつては冬の北鎌でも、5月の剣でも、急な雪渓はいくらでも経験してきたが、まさか終了点間近で間違いなどあってくれるなと、思う。斜面から身を離せ、アイゼンは水平に保て・・・。何度も言い聞かせながら、僕はパートナーのトレースを外れないように、再び前爪を蹴りこんでゆっくり着いていくのだった。この幻のルートから、どうしても鹿島槍に立ってみたかった。

 今年は偶然にもスキーの楽しさを知って、仲間も増えた。この4月には、鹿島槍見学山行みたいなことをした。まだ雪が1メートルも残っている大谷原から林道にスキーを滑らせる。春スキーのパーティが前後する。1時間もすると春の匂いが満載の、あの西俣出合に着く。白一色の草原のようだ。さらにもうちょっとだけ欲を出して、北股本谷に入ってみる。悪名高い堰堤もすっかり雪の下だ。標高は1500メートルなのに、そこは立派なU字渓谷。雪が融ければまったく楽しい河原が続いている。もしかすると氷河期の北股谷は、剣よりも穂高よりも、高度があったのではないかと思える。

しかし前進できるのはそこまでで、一直線に伸びた本谷の先には、身の毛がよだつほどのゴルジュ。しかもその奥からデブリが延々と迫ってくる。大氷塊にえぐられた爪跡は、覗き込むほど深い。本谷の突き上げる先は、精悍にも切り立った南峰と、同じように一点の曇りもない真っ白なシャーベットに覆われている北峰。それを緩やかにつなぐ吊尾根へと消えている。美しさの比較対照がない。

♪いつかある日 山で死んだら・・・の、ナンダ・デヴィ。

1時間そこにたたずんでいても、帰り際には後ろ髪を引かれた。

初対面は30年前のことだった。

「あの双耳峰の向こうは、もう富山県だよ」

 高校1年の冬に先輩たちと八ヶ岳を登ったとき、顧問の教員に教えられた。純白の吊橋に見えたその山は、東京から夜行の2日目にようやくたどり着いた赤岳から、まだまだ手の届かない地の果てにあった。思いは募る一方なのに、無雪期には見るだけの山となり、積雪期には難しすぎる山になっていた。

 チャンスは10年後、たった1度だけあった。3月に縦走しようという仲間のプランに応じて、猛吹雪のなかをキレット小屋からザイルをつけたままの大ラッセルのトラバースを強いられて、日暮れ前にようやく吊尾根の雪庇の上に2人用テントを張ることができた。この日の移動距離は800メートル。そこに閉じ込められたらどうやって逃げる? しかし疲労が緊張感を和らげたのか、熟睡して気がついた朝は、抜けるような青空に恵まれた。その痛快な山行は、以降まもなく結婚して山から遠ざかった私を、長い間慰めてくれた。

<確かにあのとき私は、あの崇高な吊尾根で一夜を明かしたのだ>。

 大糸線の車内からも、長野道を豊科インターで降りたときも、見上げる先はそこしかない。信濃大町に住んでいる人が羨ましかった。山岳博物館の高台の住民は、高瀬川の向こうに毎日吊尾根が見える。彼らは都会人よりも50年は長生きできるはずだ。

 年齢と共に、大荷物の幕営山行は嫌いになった。鹿島槍が見るだけの山になった理由は、2番目に易しいルートがないことだった。一瞬だけ実現した初恋のようなもの。レモンの味がするとは、口が裂けても他人には言えない。都会生活で醜態を晒す私には、こっけいな味わいになる。

このまま長い時間が過ぎてしまうはずなのに、タイミングよく奇妙な知らせが届いた。春スキー仲間のホームページに、エクストリームのパーティが北股本谷を滑降したという記録が載る。6月のことだ。しかし私が驚いたのは、登頂に同ルートをアイゼンで駆け上がったという報告だった。命知らずのスキー滑降には、正直いってもう驚く材料はない。スキーをつけて空を飛ぶ連中までいる。しかしその谷が登れるという報告は、私はいままで誰からも聞いたことはなかった。鹿島槍50本の難ルートにも、それは紹介されていない。

早速メールを打つ。

<本当に安全に登行できたのか。だとしたらそのアイデアに感心してしまう>

 翌日には返事がくる。

<年間で6月だけは安全だといえます。登るだけの難易度をいうなら易しい。ただし上部は左俣へ。最大傾斜は45度>


(吊尾根見えました。でもまだ遠くて)

 その一言で私の登山観は、覆されたといっても大げさではなかった。2万5千分の1の地形図を虫眼鏡で検証しながら、滑降の可能性を少しでも求めているエクストリーマーは、昭和初期から70年の歴史で登られているこの山に、聞いたこともない方法で安全に登頂、滑降していたのだ。下界から一直線に最短ルートで、最短時間で。

3月までは誰をも寄せ付けない圧倒的な積雪と季節風の吹き溜まり。5月までは超高層ビルが崩壊するようなブロック雪崩れ。7月からはずたずたに切り裂ける雪渓。10月からはまた真っ白な要塞。ただ6月だけは、後立山の女王が裾を引きずるシルク1枚になって、ほんの少しだけチャンスを与えてくれるという。しかも1000メートル以上に渡って、1点のほころびもなく。

 怪しい話だ。美しいバラにはトゲがある。いやそれでもつい数日前に実践した人がいる。敗退してもいいから、途中までいってみよう。初恋の彼女は、30年後にどう私を迎えてくれるのだろうか。長年のパートナーに連絡を取る。6月にはまだ3回の週末があった。

 計画は短時間で綿密になった。まさか白馬の大雪渓を歩くわけではない。早朝に短時間で越えなければならない。のんびりしていられない。雪渓の処理はタイムトライアルの様相になってきた。

 実行した日はたまたま夏至に当たる日だった。それでもヘッドライトに頼って出発。4月には見るものを驚愕させたあのデブリも、すっかりおとなしく跡形もない。河原では10メートルを越える妖怪堰堤が姿を現していた。積雪は室堂の雪の回廊をしのぐ。下部のなだらかな傾斜はアイゼンも要らないのだが、すでに雪渓はゴルジュに入っていく。異様な光景に身震いがする。鎌尾根、ダイレクト尾根という岩稜が左側を迫上がっていく。しかし陽はまだ差していない。空梅雨も味方してくれた。前進不能になったら諦めよう。

 ところが雪渓は素直に続いていた。二股はどちらを登っても吊尾根に出るらしい。ならば下界から高く見える北峰にいこう。ゆっくりだが、もたもたしないように慎重に。高度計が少しずつ吊尾根終了の2700メートルに近づいてくる。

 残り300メートルは、のらりくらりと回っている水車のように、止まることなくただただ足を蹴り込んだ。いっそ駆け上がって、しがみつきたい衝動に駆られる。急傾斜は想像以上の難敵だった。しかし見上げれば、なるほど雪庇の残骸はこちらに張り出している。季節風の吹き溜まりは、南斜面に厚い。残雪が多ければそれだけ危険も少ない。到着は時間の経過と共にいずれやってくるだろう。

 終了点は北峰直下。縦走路がキレット小屋へ下り始める分岐点だった。北峰の対岸は平地とも思えるカクネ里へと、真逆さまに切れ落ちていた。もう登る必要はない。僕らはスキーヤーの倍の7時間かかった。疲れきった切った二人に、双耳峰の気品は依然として揺るぎなかった。


付録

尾瀬・燧ケ岳 1971年9月18〜19日

 通っていた中学校は埼玉大学の教育学部の付属施設だった。戦前でいうところの師範学校で教員養成学部の付属校だったわけだ。学校の運営形態は、イギリス流をずっと継続しているようだった。日本の医学や法律はドイツからだったが、教育はイギリスからだったのだろうか。野球よりあの当時ですでにサッカーを小学生からやっていたし、そのサッカーゴールも妙に大きかったのは、ラグビーのゴールサイズと兼ねていたためかもしれなかった。そういう方針だからというわけでもなかろうが、早熟の同級生の間で、登山がブームになっていた。それに小学校時代には、週に1回のクラブに「アルコウ会」というのもあった。何をやっているクラブかは知らなかったが、卒業間近になってそれは「歩こう会」だということが分かった。夏休みなどに先生と秩父の正丸峠という700メートルくらいの山にハイキングするクラブだったのである。

 この年私は中学3年だった。春にあった学園祭だか何かのイベントに、医者の息子のM君が、自分で持っていた山渓のアルパインガイドを10数冊学校に持ってきて、展示していた。「ふ〜ん、こんなガイドがあって、いろいろな山が紹介されているんだ」と。その展示期間があまりにも長くて、私は嫉妬して、本の巻末にある読者応募の切抜きをすべて切り取ってしまい、それを出版社に送って、雑誌「山渓」を初めて手に入れたものだった。どうせ本人も気がつかないだろうと。


まもなく燧ケ岳。でもこれ上手に映りすぎて恥ずかしい。

 このM君を中心にして、仲間の何人かが、春先に尾瀬の燧ケ岳に登山にいってきた。「あそこは福島県になるんだ。東北一高い山だ」というわけだ。何故か無性に憧れた。

 私の遊び仲間は彼らとは違ったのだが、実はこちらにも山好きがいたものだった。ところが彼は慎重派だった。「友達だけで燧は難しい。その前に易しい山に行っておこう」と。春先に中央線の上野原に近い1400メートルほどの権現山に3人で行くことになった。その準備として、やはり山渓から出版されていた「登山読本」を初めて読んだ。今にしても、登山の入門書としてとてもよかったと思っている。奥多摩山岳会の某氏が書いていた。実はその人は今でも新聞にハイキングコラムを持っていることに最近気がついた。のどかな山登りであるが、その基本がしっかり書かれている本だった。

 今こうして30年も前の登山日時をしっかり書き抜けるのは、やはりその本のおかげでもある。下山したら記録をしっかりと残しましょうと書かれていたのだ。それにアルバムの整理だけではなくて、乗った電車のキップとか食べた駅弁の包み紙も記念になりますよと。私はそれを真似たために、実は降りた上野原の駅で、キップに「無効」のスタンプを押してもらうのに数分手間取ってしまったものだ。あやうくバスに乗り遅れそうになったのだ。その後高校時代には、別の山行でこんなことをしている間に、本当にバスが出発してしまったことがあり、仕方なく持ち合わせの金も少ないのにタクシーに乗り、相手に迷惑をかけてしまったこともある。以降は、乗った電車のキップを保存しておくことはやめた。しかしまあ、その本の教えを数年は守っていたために、この頃の簡単なアルバムは1冊だけ残っているのだ。10年ぶりくらいにそれを開いてみる。

 その権現山が私の人生の初登山になったといっていい。ただ小学5年生の夏の林間学校で、那須の茶臼岳に学年全員で登ったことはあった。そうか、今になるとその登山の印象がとてもよかったからなのかなあとも、思えてくる。ハイキングも学校の指導方針だったのか。

 そして中3の夏休みを迎えた。サッカー部の連中数人とその顧問が、休み中に奥秩父を5泊で縦走するという遠大な計画を立てているようだった。私はテニスをやっていた。その連中は、先の5月に尾瀬にいった中心メンバーのようでもある。それにその顧問というのは、実は中2のときの私のクラスの担任でもあった。知らないわけではない。私はその山行に参加したかった。奥秩父の全山というのは、雲取岳から金峰山のことである。右から左へ全部いうというのだ。ものすごくいきたい。しかし何故か参加は断られた。どういう経過だったか、メンバーに参加を申し込んで、それを先生に伝達してもらうということだったのか。結局クラスが違うからか、サッカー部じゃないからかの理由で、許可されなかった。そういえば、中3の春の遠足も、その雲取山に通じる霧藻ヶ峰という1400メートル辺りの片道1時間くらいのハイキングだった。サッカー、ラグビー、ハイキングはやはりイギリスとフランスから世界に普及した。

 この不許可の一件は実に私を長い間不愉快にしていた。そのための対抗心も湧き出ていた。拒否される理由はどこにもないはずである。例の中心メンバーといっても、かつては同じクラスにいて、顔見知り。中くらいの距離の友人たちである。顧問だって過去の担任。それに私も運動部で体力があることくらいは知られていた。運動会では小学校からけっこういい成績を残している。それに5月には友人と権現山にも登った。あのときに計画は隣の扇山までの縦走だったが、時間切れで途中から下山したものだったが。そう、そのときは、山で時間に遅れたり間に合わないときの処理は、無理しないことだと、同行の慎重派に教えられたものだった。だから断られる理由がない。

 2学期が始まって、先の権現山の3人のメンバーで、今度こそ目的の燧ケ岳に行く計画が具体化した。やはりプランはその山の先輩といっていい同級の慎重派が立てた。土曜の学校が終わってからすぐにいく。自宅の大宮から沼田までの運賃は470円。急行券が200円。そのキップもアルバムに残っている。ほとんど暗くなった夕刻に、バスで大清水に着いた。小屋に泊まる、食事はいらない。素泊まりというやつである。さらに翌日の朝食もいらない。なにしろ出発がまだ暗い時間だったように思った。彼の立てたプランは、実に正確で厳しいものだった。

 今地図を見ながら、三平峠、長蔵小屋、燧の頂上隣にある、本峰よりも高い柴安ー、下りのナテッ窪。懐かしい名前である。

 確か春先の頃には、例の中心メンバーの一人に「最初はコースタイムの2倍の時間を取れよ」とか「固形燃料をもっていくと、ラーメンが食えるぞ」とかアドバイスを受けていた。コースタイムの件はそれほどでもないにしても、固形燃料は持っていく。ガスコンロは中学生ではまだ買えない物だった。

 そうそう大宮駅には駅ビルがその頃にはできていて、OSB「大宮・ステーション・ビル」といったか。その上階にスポーツ店があって、ハイキング用品も扱っていた。そこにホエーブズの小型が並んでいて、5000円ほどしたのだろうか。とても欲しかったのだが、買える様になったのは、3年後になった。今ではガソリンコンロを使っている人はまず見かけない。

 大清水から燧ケ岳を1日で往復するのだから、今でも大変なコースになる。3人で黙々と歩いた。写真を見ると三平峠を越えて尾瀬沼に出たところでもまだ薄暗いのだ。早朝の4時頃には出発したのだろうか。山小屋に泊まったのもこのときが初めてでもある。「登りの時には、両手は後に組んでいるのがいいんだよ」と、慎重派の彼がいう。「え〜だって、木を掴んでグイグイ登った方がいい」と、私ともう一人の相棒。


当時の長蔵小屋。もう建て変わって新しくなっているでしょう。

 頂上を間近にして、持ってきた固形燃料でラーメンを作る。湯が沸騰するまでに40分くらいはかかったか。下山後に例の中心メンバーにこのことをいうと「だから固形燃料はダメなんだよ」と。彼はすでにコンロを持っていたようだった。

 そして頂上に上って、空身で柴安を往復して、ナテッ窪の岩がゴロゴロした道を下山する。さらに来た道を戻り、三平峠からの下りでは私はけっこう疲れた。それに安心して遊びたくなった。友人の肩にもたれて「疲れたよ」。「よせよ、重いから」。赤い帽子を被っていたのだが「そんなことするのは、赤い帽子の熊だと」いわれた。こうして充実した前夜発の日帰り山行は無事に終わった。疲れたよ、山にはもういきたくないとも思ったのだが、やはり多くの人と同じように、それを忘れるとまた登りたくなる。


燧ケ岳から柴安ーへの空身の往復。

 中2から中3にかけては、春、夏、冬休みのたびにどこかに出かけた。1泊のサイクリングで秩父のユースホステルに2人で泊まりに行ったこともある。登山とは別の友人であったが。これも1日に100キロを越える日程で、帰り着いたのは夜になっていた。その後、2泊で富士の西湖と、箱根のこれもユースホステルに泊まってサイクリング。これはその3人組プラス1人の4人組みだった。宿泊先で出会った、あれは女子学生のグループだと思うが「中学生からユース利用するなんて、これからまだまだたくさん旅行ができるわねえ」と羨ましがられた。その意味はよく分からなかったが。冬には、八ヶ岳の麓の松原湖にスケートに2人でいった。新宿から中央線で小淵沢に出て、小海線に乗り継ぐ。帰りにはそのまま小諸までいって、今度は信越線で帰ってくる。清里の辺りから見えた八ヶ岳は、雪を被って真っ白でとても大きかった。その大きさは今でも目に焼きついているのだが、後に同じ条件で八ヶ岳を見ても、あの大きさには映らない。不思議なものだ。

 駅にスタンプが置かれるようになったのも、その頃からだった。これも奇特なマニアが同級生にいて、彼も何かのイベントの時に全国のスタンプを展示していたのだ。鹿児島とか札幌とかまであった。結局それば、往復はがきに「駅のスタンプが欲しい」とかいて、送り返してもらう方法でコレクトしていたというのだ。気の効いた方法なのだが、本当に中学生でそんなこと自分で考えられたのかと今になると思う。いや例え教えられたとしても、実行するというのだから、彼もマニアというか。そういえば、当時はアマチュア無線も流行っていて、これも免許をもってあの機械を親に買ってもらったのだろう、学園祭などではそれを披露していた。早い連中は小学校の4年の頃にすでにハム免許を持っていた。「子供の科学」などという雑誌の愛読者も多かった。手製のゲルマニウムラジオを作るといって、秋葉原に部品を買いに行っている友人もいた。

 そのスタンプコレクターを私とそのときの友人は真似て、浦和から小淵沢〜小海線〜小諸〜浦和の1周コースの全部の駅のスタンプを集めてしまえと思った。

 当時では有名な新宿発23・55分の客車に乗る。どの駅にもだいたい2分は停車する。その時間で改札口まで走ってスタンプを押して、また戻ってくる。「キミたち、列車に乗るの?」とすぐに駅員に言われる。「乗ります」といって、駆け戻る。どうせドアのない客車など、走り出したって飛び乗れるとこちらは思っている。それにホームに駆け下りる時だって、まだ列車が停車していないのに飛び降りているのだ。誰もがそんなことをしているから、中学生もそれ真似しているんだろうけれど。

 松原湖ではスケートをやった。2時間くらいだったろうか。それだけして帰ってくる。この旅行は、夜行日帰りというやつだった。

 何でも遊びたいという中学生にとって、登山は1ジャンルに過ぎなかったのだろう。でもやはり、多くの遊びの中でもその中心に登山はあったように思える。

 サイクリングは高校3年のときに原付免許を取ってからは、やらなくなった。原付で小旅行になる。軟式テニスは高校で山岳部に入って辞めた。電車乗りは原付からクルマに変わって、明らかに乗らない。登山だけは、一旦休止の後にまた戻った。それはどの趣味に自分が合っているのかということだとは思うが、しかし、底の浅いものはやはりどこかでマンネリ化して飽きる。

 下界の人は「山もいいけれど、私は海が好き」とよくいう。そんなもの当時から信じてはいなかったが、その後多くの知識を得た今では「山は科学と芸術だよ。地質学、天体学、植物学。絵を描く人もいるし、文学にだってなる。歴史がいくらでもある。それに比べて海はなんだ? それに海が好きなのではなくて、砂浜が好きなだけでしょ。外洋に出たことありますか?太平洋の真ん中には何もなくて寂しいだけだよ」と。もちろん、これまで誰かに聞いた受け売りである。「フランスからはすべての芸術と科学を世界に普及させた。ただフランスから普及しなかったものが世界に二つだけあって、それはロックミュージックとサーフィン」。これは、地球の歩き方のヨーロッパ編に書いてあったものだと思うが、まさにその通り。つまりフランス以外のものというのは、軽薄で見え透いたものなのだ。サーファー連中がまさにそう。「シロウトと山のことを話すのはいやになる」といったのは、亡くなった小西正継さんだったが、これもその通り。

 しかし今ではこんな硬いことはそういわないが、確かにこんなこと思っていたのは、中学に始まり高校時代に育ったのだと思える。

 何も中3の山行は尾瀬でなくてもどこでもよかったのだ。でも友人3人でちょっとした目的を達成できたことが、その後に繋がっていく。

 後年、例のサッカー部の顧問に同窓会で出会った。私は別に劣等生でもなかったのだが、少しいたずら系でその先生には嫌われていたものだった。ということは、私も好きな先生ではなかった。でも30年立てば改めてそういうことは聞ける。「なんで、連れて行ってくれなかったのだ?」。先生もそのいきさつは忘れていなかった。「あれはサッカー部の旅行みたいな扱いで、私にも責任があるから、部員だけに限ったものだったからねえ」という。その割りには、山行の写真を私は当時見せられたものだった。悔しかった。

「それがトラウマみたいなものになって、コンプレックスとして残っていた」。先生は返事をしなかった。もちろん先生はその後登山はしていない。主要メンバーも辞めている。私のような者を拒否して、その代償は大きかったぞと、言い返したい。当時の先生は27歳のときだった。

奥秩父の縦走はその後、高校時代に、甲武信岳〜金峰山は5月にいったのだが、雲取〜甲武信間は未だに行く機会はない。いや、すでにないといっていい。雁坂峠は日本3大峠の一つだったように思うが、それもついに行くチャンスがないまま残る。いくことはもうないだろう。山の真下には、最近有料道をが開通してしまったし。それに例の3人組や4人組も、さほどの登山はしていない。あの頃の強烈な印象を引きずっているのは、私一人になった。



八ヶ岳 1972年12月

 最初の冬山になった。高校1年の12月。16歳のときかあ、懐かしいねえ。母校は男なのにシンクロ水泳やっていると悪名な埼玉県立の川越高校。映画にもドラマにもなってしまったらしいけど。でも在学中には水泳部もあんな変なことしてませんでしたよ。

 高校生は冬山にいってはいけないとか、アイゼンを使うような山にいってはいけないとか、そういうのは県の教育委員会で決まっていたようだったが、でも各校の顧問に負かされていたようにも思う。私たちは、顧問が山エキスパートだったために、冬でも八ヶ岳にいったわけだ。夜行の茅野から美濃戸を経て、行者小屋にベース。翌日は2パーティに分かれて私たちは文三郎道から赤岳。帰路には阿弥陀岳にも寄ってBC戻り。翌日は硫黄岳へいって、これも帰路に「峰の松目峰」。これ知ってますかねえ。八ヶ岳というのは、峰が8つあるわけで、赤岳、権現岳とあって、この峰の松目もその一つなんですよ。このわかん履いて、胸くらいまでの大ラッセルで、高校生にとっては面白かったですねえ。樹林の山で何の危険もなかったんだけど、時間余って、顧問がそういう体験を高校生にやらせたということでしょう。雪だるまになって下山しましたよ。


山岳部部室前で同級部員スナップ。同級9人。通常2学年で合宿行うと18人くらいで行ってました。

 高校の冬休みはだいたい12月の20日頃からで「クリスマス寒波」という言葉があって、「その前に入山しよう」と終業式のその日か翌日くらいには入って行きましたね。

 このとき1年の私は気象係でしたね。午後6時くらいの気象通報を取るんですよ。でもこれ、なんだか中学生の理科の時間にも実習した記憶があって、難しくないんですね。でもある日その6時の通報取り忘れて「昨日の図を右に3センチくらい動かしておけばいいんだよ」と生徒同士の会話を隣のテントの顧問に聞かれて、大笑いになってバレバレだったときがありましたね。最近は気象予報士の時代になったらしいけど、気象の基本はそんなに難しくないと思いますね。基礎知識は中学、高校で習いますよ。でも今のアメダス情報などはまず外れません、正確になりました。

 行者小屋のテント場には、雪がたんまりあった記憶があります。赤岳鉱泉の方にいくと、ちょっと登った後に滑り台のような下りがあって、これが面白くて何度も滑ったような記憶がありますね。そうしたら、「登りのステップを潰すな」と、これも注意されたのかなあ。まったくその通りですけどね。当時のコンロは灯油のスベアでしたが、雪を溶かして水を作るのも面白かったですよ。コッフェルにいちいち雪を取ってくるのではなくて、大きなゴミのビニール袋みたいのに、がっさり取ってきてそれをテント脇に置いておけば、いちいち外に出歩かなくてもいいと。これも合理的でした。しかしこういうことも、分かっていない連中はその後たくさん、今でも見かけますけどねえ。テントの外にでるときには、オーバーシューズ履いてましたねそのときは。後に像足(羽毛靴下)に進化しましたが。

 赤岳の登りでは吹雪かれました。眼鏡に雪が付いて、こういう対策はどうすればいいのかと。硫黄岳の日は快晴だったのかなあ。鹿島槍が見えたのはこの日だったと思いますね。アイゼン着ける時に、雪に腰を下ろすなと顧問にいわれたのも、この最初にアイゼンを使ったこのときだったか? あれは雪崩れ対策でしょ。とにかく積雪期に限らず、急斜面の上方に背中を向けるというのは、シロウトがやることだね、今でも多く見かけるけど。後に岩登りやるようになって、一ノ倉などで、もろに落石が来るところでも平気で後ろ向いて休んでいるのがいるけど、まあいずれラクの直撃受けますねえ。アイゼンは立ったまま、斜面の上の方に体を向けたまま、斜面にアイゼン置いて、そこに靴をいれるようにと。今でもこれ思い出しますねえ。山では用心深いに越したことはない。

 とにかく冬山というよりも、積雪期のキャンプみたいでしたよ。ああいう登山は、高校生として教育の一貫としてとてもいいと思うし、体験した私もとてもいい思い出になったね。和気藹々とした楽しい3泊の合宿だったけど、そういう経験というのは、その後はないねえ、なんか厳しい山が多くなってしまったし。

山梨県・道志山塊・御正体山 1974年2月

「みしょうたいさん」と読む。標高1682M。最寄りは富士急行の谷村町駅。高校在学中の個人山行で、最も印象に残っているものだ。当時は神奈川の橋本から山中湖に抜ける道志沿いの道も舗装されていなくて、河口湖までしか開通していない中央自動車道の裏街道と紹介されていた。原付で何度か通った道でもあり、そのあとクルマの免許をとった後に、何度も通ったものだった。山梨市から柳沢峠を通って奥多摩へ抜ける道も、中央道の裏裏街道となっていて、これも抜け道に面白かった。今ではどちらも立派な観光街道に変身している。御正体は、その道志川に沿っている。

 私は高校の卒業文集にこの御正体の記録を書いた。それくらい自信に溢れた山行だったのだろう。

 高校2年の冬に、東京でも2回雪が降った後の土曜の夜にここに出かけた。同じ山岳部のメンバーに、北八ヶ岳でスキーをしようと誘われたのだが、どうも仲間とのおちゃらけ山行に気が進まなくて、一人でこの山に登った。今では都留市と言うが、当時は谷村町だった。駅を降りたのが夕刻。1時間ほど歩いて、林道の適当なところから尾根に取り付いた。登山道がよく分からなかったのである。そのまま懐中電灯を点けて登る。期待していたように、積雪は膝くらいある。トレースもない。当時一人で行く積雪期のトレース無しの登山としては、まさに適当で、しかも限界に近いものという予測は見事に的中していて嬉しかった。しかも夜間も歩いていくというカモシカ山行。

 夜中の0時頃だろう、山頂に着いた。休憩の時には懐中電灯を消すということを、健気にも守っていた。電池の消耗を防ぐためである。高校生なのに当時から煙草をすっていて、その煙草の火のわずかな明かりを腕時計に近づけて、時刻を何度も見ていたことを思い出す。「日の出は午前6時頃だから、後6時間か」とか。真夜中といっても、冬は雪明りでうっすらと明るいものだ。まったくの暗黒になってしまうわけではない。そういうことが、寂しいのだけれどなんとなくオシャレな感じに思えた。

 朝を迎えてからも縦走は続く。稜線伝いの石割山を目指している。元々夏には道があるところだから、赤布とかもある。間違えることはそうなさそうだ。石割山に登りついたのは昼過ぎになっていたか。富士山ももちろん良く見える。ただその頃になると、その日の夕方までに下山できるかどうかが心配になる。膝までのラッセルというのは、それほどはかどるわけでもなくて、けっこう疲れた。休んでいると、疲れ目の錯角で、遠いところの木の幹が人の形に見えたり、腐った古木が小屋の屋根に見えたり。そんなことを何度も繰り返しているといい加減に慣れてきて、見えるものを信用しなくなってきた。新田次郎の小説の加藤文太郎の最期でも、そんな幻影のことばかり書かれていた。そういう思い込みもあった。

 石割山の頂上で尾根を間違えて、一旦下った尾根を登り返すというロスもしたのだが、それでも無事に平野辺りに下山できたと思うのだ。バスに乗って富士吉田に向かい、そこから帰り着く。20時間以上の登山になった。

 もう相当遠い記憶なのだが、それでもなんだか楽しい山行だった。下山して足が少ししもやけになっていた。

南アルプス全山(光岳〜甲斐駒ケ岳)6泊縦走 1976年9月

 いまでもよく覚えている。ちょうど20歳の誕生日を迎える頃に、1週間掛けて南アルプスを光岳から甲斐駒ケ岳まで全山縦走したのだ。

 高校の山岳部の3年間の夏山合宿はすべて南アルプスだった。「南アは、北アルプスより山が大きい」とはよく言われた。3000メートル峰の数が、多分北アよりも多い。それに、一つ一つの3000メートル峰が、1000メートル以上の標高差を持って、しっかりと独立していた。「北アに比べて人が少ない」。山に行くのは都会の雑踏を避けてというのが、大儀になっている。人は少ない方がいいのだ。「南アは、合宿らしい大荷物登山に向いている」。というのは、多分に鎖場やハシゴで順番待ちになったときに、大荷物だと対向者に迷惑を掛けるのではないかという配慮からだと思う。それにクサリ場が多い北アでは、大荷物だとやはり通過に不安定になってしまう。「将来は北アにいくのだから、南アは高校生の今しかいく機会がない」。これは実に正解っぽい。どうせ、カール、氷河地形、お花畑というオシャレは、北アに溢れているものだ。体力勝負一本の南アにいくのは、今くらいかもしれないのだ。

 それでも部員20人くらいの中で、合宿の候補地をどこにするのかは投票になったことがある。南ア8票、北ア4票、中ア1票くらいだったろうか。中アのプランを出して票をいれたのは私である、高1のときのことだ。ただそうしただけ。他人に従いたくなく、逆らってみたかったのである。

 高1の夏は、伊那の塩川から山伏峠に上がって北岳まで縦走。一旦広河原に下って再び鳳凰三山に登り返して夜叉神峠に下った。翌年も伊那の遠山川から聖平に上がって、赤石岳、荒川岳と縦走して二軒小屋に一旦下山。再び伝付峠から身延に降りたものだった。さらに翌年は、黒戸尾根から甲斐駒ケ岳に登って、仙丈ケ岳から両俣小屋に降りて、再び北岳に登り返して農鳥岳まで縦走し、大門沢から奈良田に下った。こうして3年間で南アの3000メートルはすべて行ったことになった。ただ足りないのは、最も南にある光岳となった。


聖平のニッコウキスゲ (84年夏)

 縦走だけがすべてであった高校生にとって、なるべく早く歩くとういのは、他人との優劣にもなったし、頑張っている部員の証拠にもなったのである。当時部室にあった古い山渓に「南ア・2泊3日の全山縦走」という信じられない記録が載っていた。走破したのは、今でも覚えているが「山案内人」とうい肩書きを持った、某岩男さんだったか。さらに、沼津に「カモシカ山岳会」という団体があるようで、ここはカモシカ山行、そうつまり夜を徹して歩くという団体だったようである。紹介されたページによれば、1日の8時間行動という規制にとらわれずに、仮に1日24時間行動ができれば、それは1日で3日分の距離を稼ぐことができて、土曜の昼に仕事が終わって出発したとしても、現地に着いた夜から登り始めて、日曜の夜まで24時間に3日分の山行ができるという、まあ屁理屈のような山行方法だったのである。ところが私はこれに妙に引かれていたものだ。確かに夏、冬、春休み以外は、日曜1日だけの登山になるわけで、こういう努力でもしない限り、山にはたくさん行けないのだろうと。

 部員を誘ってまず奥多摩の山でそんなことをしてみた。武蔵五日市からバスに乗って、馬頭刈尾根から大岳山に登ることから始めた。スタートは土曜の午後6時。鋸山、御前山と進んだのはいいのだが、深夜を過ぎると眠くなる。休憩中に二人で居眠りしてしまう。可愛いものだ。小河内峠の林道の辺りだったか、無人小屋があってそこに入り込んでしばらく寝た。朝になると先客がいたようで、彼は学生っぽい。そこに1日中暇つぶし滞在していたようで「冬山入門」などというガイドが転がっていた。こんなとこで積雪期の準備をしていて、なるほど学生は優雅で、大人っぽい時間の過ごし方をしているんだなあと、妙に感心した覚えがある。

 私たちはまた出発したのだが、さて三頭山辺りまでいったものだったろうか? 計画ではそこから延々と東方向に、東京と山梨の県境尾根を進んで陣馬山から高尾に下山する予定だった。つまり予定の3分の1しか消化できない山行になった。しかし真夜中に高校生が懐中電灯だけで二人で歩くという、いい経験ができた。このルートは長谷川恒夫の山岳マラソンのコースになっていたことがあった。

 同じような山行を、富士山でも八ヶ岳でもやってみた。富士山では後輩を連れて、昼間は精進湖で水泳をして遊んで、そこから登り出す。けれどこのときも夜間に少々睡眠をとってしまって、それでも夕刻に5合目の御中道に出て、翌日はそこから大沢崩れの脇を登って測候所裏に出て、一般ルートから下山した。水ポリタンクに各自で4リットルの水を背負っての山行になった。八ヶ岳は一人であったが、清里に着く最終列車で歩き始めて、明け方に真教寺尾根の中腹に出て、赤岳から硫黄岳まで縦走して、稲子湯方面に下山した。やはり普通の8時間行動よりも、少し行程を稼げたような気がする。富士山麓にある御正体山というところに、雪が降った後の2月にいって、このときも夜通し歩いて、忍野の村に降りて富士急行に乗って帰ってきた記憶もある。疲れてくると、幻惑というほどでもないのだが、妙な物が見えるものだと思ったものだ。木の形が人に見えたり、それが動いて歩いているようにも見える。怖がっていても切りがないなあと。加藤文太郎の山岳小説にも、遭難寸前に同じような幻惑があるようなことが書いてあったのだが、疲れてくるとそうなんだと開き直っていたものだった。

 こうして3月の春合宿にも2回、正月の冬合宿にも2回参加して、高校3年間は終えるのだが、それにしても、何の資料もないのに、よくこんなことを詳しく覚えているものだと、我ながら呆れる。年を取ると妙に若い頃のことだけが記憶に残るといわれるが、すでにそうなのだろうか。

 卒業する頃に私は現役での受験に失敗し、浪人して翌年再受験などの時期を過ごして、山登りどころではなくなったときもあった。そうしてこの南アの縦走を計画することになった。

 実はこの年の10月頃から、バイトに精を出すことになって、山登りもしばらくいけなくなってしまうかもしれないなあと、漠然と不安になっていたものだった。そんな期日が目前に迫ってきたときに、急に思いついた山行になった。


三峰川を挟んで仙塩尾根と平行する支尾根・丸山南のコルの荒れた山容 (89年7月)

 それにしてもこの年齢の頃は、本当に若くて元気だ。何をトレーニングしていたというわけでもないのに、それに山登りをするというのも、2年間くらいのブランクがあったというのに、わずかに4日分の食料だけ持って、この南アの全山縦走に向かったのである。静岡から地方鉄道とバスを乗り継いで畑薙ダムに入る。そこから茶臼岳に登りついて、光岳を往復して、後は北上するのみ。計画では1日16時間行動をして、残り8時間は睡眠でいいと、決めかかっていた。まさか例の山案内人のように、2泊で実行できるわけはない。でもその倍くらいならできるのではないかと。確かその案内人は初日と2日目にそれぞれ20時間行動をして、3日目は14時間くらいで下山していた。コースタイムを見ると、どの3000メートル峰も2時間くらいで登っている。というか走っているのだ。北から南下する縦走で、当時は農鳥岳から大井川東俣に下って、雪投沢から塩見岳に登り帰す道があった。スキーの理屈と一緒である。登下降の多い稜線は避けた方が夏の縦走でも早いときがあるらしい。あるいは塩見岳からも今度は大井川の西俣に下って、荒川岳に登り返すという踏み後は、現地の案内人ならではの熟知した秘密の踏み後だったのだろうか。しかしこういう登下降は1500メートルを下って、登り返すものである。それでも2時間少々。化け物である。

 東京駅を夜行で出る東海道線で私は静岡に入ったのだが、畑薙ダムから登り始めるのは午前も遅かったのだろう。茶臼岳の分岐に夕方着く。それでもその時刻から光岳を往復できるものと思って、空身で出発してしまったのだ。ところが1時間ほど進んでさすがにバテてきた。仕方なくザックデポに戻る。稜線にシートを敷いただけのところで夏用シュラフに潜る。

 朝になった。もちろんコンロも食料も持っているが、なんだか睡眠で疲れも回復したような気になって、ろくに食事もせずに再び空身で光岳に向かっていった覚えがある。今地図のコースタイムを見て呆れた。茶臼岳から光岳まで片道6時間になっている。当時の地図では4時間だと思っていたのだが。「コースタイムの半分」と私は決めていて、本当に4時時間足らずで光岳を往復してきたのだ。するとそこに登山客がいた。「仁田池にでもいってきたのですか?」「いいえ、光岳です」。きょとんとした相手に、妙な優越感を持つという、いやらしい縦走マシンである。結局光岳という山は、今でもその形をしらないのだ。山容を眺めてもいないのに、縦走路に従って登頂してしまうという、変則登山が縦走には多い。いや外から簡単に眺められるほど、南アルプスは安易ではない、山が浅くないともいえるのだが。いった光岳というのは、どの下界から見えるのであろうか。山頂からどこの下界も見えなかった気がした。またそういう山が好きであった。昼食を取って、北上を始める。この日(2泊目)は聖平に泊まったと思うのだが、この日だけはよく思い出せない。

翌日は聖岳、赤石岳と進んで、荒川岳を往復する。荒川岳の登りで夕刻。テント場に数人がいた。山頂で寝転がったときに、満天の星空がとてもきれいだった。そうしてノコノコと高山裏というテント場につく。3泊目になった。

 ところがここに水場がない。9月になって枯れてしまったようだ。ポリタンにに数センチしか水は残っていない。それとビスケットを食べて、同じようにシュラフに包まって寝た。


最南部の大無間山に上がる栗代川の大釜(88年)

 4日目は、まったく腹を空かせたまま、水場のある山伏峠に向かう。そこから塩見岳を越えて、熊ノ平のテント場にいく。また夜になった。真っ暗で場所が分からず、見つけた小屋のドアを開けると、小屋番が起きてきた。「テント場はどこですか?」「こんな夜に?いいから小屋に入りなさい」。無料で泊めてくれたのだ。コンロをつけて、このときはスパゲティを食べた。オヤジはビールを飲みながら話しかけてきた。「高山裏からきた」というと「それは健脚だねえ。そこから1日できた人は、今年二人目だよ」。4泊目になった。馬鹿げた予定では明日下山になる。しかしそういう気分ではない。少なくなった食料は何とか節約するにして、計画は最後まで実行する自信が沸いてきた。

 翌日は雨模様だった。間ノ岳を越えて北岳の稜線小屋に入った。当時はそういう名前だった。200メートル下に北岳小屋があって、そこには水場があるために、テント泊の連中は下の小屋周辺に泊まったものだ。後に雪崩にやられたのか今は小屋跡だけになっているらしい。その稜線小屋で「休憩したい」といった。200円払うと、お茶が出てきた。ヤカンごと出てきたものだから、何倍も飲めて得したように思う。また小雨の中を出る。山頂から両股小屋に降りる。そこに素泊まりでとまったのか、無人小屋だったのか。雨の中でテントは持っていなかったのだから、小屋の中で過ごしたことは間違いない。すでにシーズンオフだったか?宿泊者もいた。ここで5泊目。食料も少ないが、所持金も少ない。そもそも高校時代の教えとして、山小屋で買い食いしてはいけないという規律があった。ああいうところは大人が利用するもので、高校生は立ち寄ってはいけないと。山で必要なものは、すべてザックに入っているべきなのだ。当時の顧問の教えは、なるほど立派過ぎるほどだった。もっとも後にさらに詳しく知ることになるのだが、顧問は生涯500回ほどの登山を行い、立派な岳人であり、山岳カメラマンであり、英語教師で、天体学と植物学と書道に詳しかった。松崎中正先生といい、私の最大の登山の恩師になった。

 翌日雨上がり。同行となったオヤジさんと仙丈ケ岳方面に登り返す。カールの頂上から北沢峠に下る。さらに甲斐駒ケ岳に向かって登り出す。やはりまた雨が降ってきた。午後3時頃でも8合目辺りだ。下ってくる人がいた。「こんな時間からどこへ」「甲斐駒です」「じゃ黒戸尾根に小屋があるからそこにいきなさい」「そのつもりです」。そんなやり取りがあった。頂上から黒戸尾根に入って、7合の小屋に入る。無人で開放されていた。6泊目。ついに明日は最終日で下山は約束されたようなものになった。

 実はこの小屋に同宿の3人がいた。学生の様子だ。私が雨で濡れ鼠になって入ってきたのに、彼らは荷物を散らかしたままだった。腹も立つ。シュラフもびしょ濡れで、まったく震えながら寒い夜を過ごした。ビニールに包んでザックに詰めるという習慣がなかったのである。雨対策は遅れていた。彼らの散らかった私物の中に、ビスケットだったか食料も混ざっていたのだ。その一つが転がって、私の方に飛んできた。そのまま連中は眠っている。私も空腹であったのだが、それをありがたく頂いてしまうことにしたのだ。何の罪もない。コメだけがわずかに残っていて、それを炊いて少し食べたくらいだった。

 翌日はただ下山するのみ。着いた村のバス停から実は韮崎まで行けばいいことは分かっていたのだが、バス代をケチって日野春駅近くで降りたために、なんと1時間近く駅まで歩くことになってしまった。甲州街道と鉄道の駅が遠く離れている。田舎ではそんなことがあるのだろうか。それでも新宿にまだまだ明るいうちについて、そこで友人と落ち合ってから埼玉の自宅に戻った。

 それにしても気味が悪いほどこうして27年前の山行を覚えているものだ。自分でも驚く。つまりこれは、自分の頭の中で何度でも反芻したことなのではないかと思うのだ。多分当時は1日に数回でも。それを数ヶ月は繰り返していたのではないか。それだけ会心の山行だったのだろう。この「南ア全山6泊」というのは、6泊に価値があると思っていた。むしろ予定よりも食料は少ないほうがいい。それで荷物は軽くなる。ザックの重さに潰れてしまう山行よりも、腹は軽くなってもザックの軽さで早い行動をした方がいいのだというスマートさを誇りに思っていた。その後腹が減って「シャリばて」で歩けなくなる山行はいくらでも経験してしまったのだが。

 それにこうした危険度の少ない体力勝負の冒険型山行が、実は私は好きなのではないかとも思った。後にフリークライミングよりも沢登りに凝りだしたのも、実はそうした理由か。アメリカにいってもヨセミテを登るよりも、あの大陸にはどういう連中が住んでいて何をしているのかに興味が湧く。こういう人それぞれの興味は仕方のないことなのだ。フリークライミングやスキー滑降の難易度だけを問われても、そこに興味が集中しない限り、これは人並みに達し得ない。それを「劣る」といわれればそうなのかもしれないが、しかしその他すべての関心ごとを総計すれば、まあ大体人間は誰しもがプラマイゼロで、都合等しくなるのではないかと、最近は思えたりするのだ。とにかく長いこと山に接していられるようになっていたいものだ。

 



トップページへ