障害者の権利と政策

障害者の権利と政策についてのコメントを載せていきます。
このコーナーが冊子になりました!

このページの目次

バックナンバー

Top page へ戻ります。
2011.12.24

東日本大震災の被災地で行った障害者たち

――大阪の箕面から被災地に飛んだ障害者の思いは――

 これも転載である。大阪府の北部で活動している豊能障害者労働センターが発行している『積木』(第229号、2011年12月21日)は石原礼さんの原題「仙台、箕面、東北、関西、扇町 ヒア・ウィ・カム。」と渡辺健二さんの原題「せんだいにいったこと。」について承諾を得たので、ここに転載する。題名を私流につけさせいたき、中見出しも付けさせてもらった。最後に読んだ感想をコメントという形で付けさせてもらった。この号の表紙には、2011年の11月に運営会議の前で、多くのメンバーが写っている写真(当日お休みなどでいない人もいますと丁寧な断り書きがしてある。本当に多くなったものだ)。箕面市立障害者福祉センター「ささゆり園」で撮ったこの写真の上には「今年も1年ありがとうございました!」と書いてある。是非手にとって読んで欲しい。以下が石原礼さんの文章と渡辺健二さんの文章である。

東北の寒さに恐れを感じたが

 前回の訪問より五ヶ月、11月15日から17日、仙台の被災地障がい者センターみやぎ(CILたすけっと内)を訪ねてきました。

 この度、縁あって豊能障害者労働センターよりカレンダーを、センターみやぎを通じて被災地に届けることになり、センターみやぎの豊川さんとの打ち合わせ、そしてアタクシ個人的としては、11月23日のイベント直前にもう一度訪ねておきたかったというのもありつつの訪問とあいなったのね。

 さて、ともに旅するは、本沢健太郎、渡辺健二両氏。飛行機と、東北の寒さに恐れを抱きつつしゅっぱぁつ、以下報告のような、日記のような、一気にいくよォ。行きますよォ。

仙台空港に到着

 11月15日。昼前には仙台空港に到着。飛行機から見える空港周辺は、津波被害の跡も生々しくといったところ。

 仙台空港駅も、ついこの間、10月より運行再開したところなんだとか。実際、駅構内の売店も仮設店舗といった様子でありました。

 「思たほど寒ないのぅ」「ホンマや、なっ。」等と言いつつ電車に乗り、センターみやぎへ到着。「お帰りなさい」と出迎えてくださり、一寸ジーンと来てしまった(敏感体質なのだ、俺は――原注。以下同じ。)

日常的な支援活動に移行しつつある時期

 初登場の本沢、渡辺両氏も自己紹介を済ませ、スタッフの井上さん、及川さんに近況をきく。現在は、緊急の支援活動(緊急の物資、仮設住宅の調査、などなど)から、より日常的な支援活動(出会った被災障害者の個々の相談などなど)に移行しつつあるという。

 その他、プロレスの話(及川さんはレスラーでもあるのだ)、四方山バナシの無駄バナシなどもしつつ、午後からは車をお借りして、被害の大きかった閖上(ゆりあげ――原注)港へと向かうも、作業中で封鎖されていて入れず、仕方なしで帰ろうとするも、見知らぬ土地、挙句、カーナビの操作に翻弄され、妙なとこを走ってしまい、なぜか山形方面に向ってしまったのだ。あぁ、恥ずかしい。

 何とか引き返し、センターみやぎにもどったのが6時ごろ。したがって、本日はこれ迄也。あぁ、無情。面目ねぇ。

みやぎで仲間と会う

 11月16日。やはり東北は寒い。大阪よりマイナス10度くらい。普段薄着の本沢氏もさすがにマフラーを借り、厚めの上着になる。

 センターの朝は以前と同じく朝8時半よりミーティング。自然にその輪の中に溶け込む本沢氏。彼はどこに行ってもこれである。たのもしいヤツ。

 その後、5月から現在まで、大阪から現地入りし支援活動を続ける大薗クンともう一名の大阪からのボランティアクンとともに、10月より始動したセンター石巻支部へ同行。ここには車いす使用者もふくめ、3名の当事者がスタッフとして活動中(この日は2名お休みで会えず、ザンネン)。

 現在は、11月23日、大阪での報告会の資料作りの大詰め段階で、石巻の当事者、及び、親の会のような皆さんの意見、それらをまとめている真っ最中でありました。この日も、午前中1組、午後からもう1組と聞き取りがあり、その模様を時折「大阪ではネ」なんぞと口を挟みながらの見学。

Uターンをする工事用の車両

 午後に出会った親子は「11月23日の大阪のイベントにあそびに行くからネ」と仰る。またしても自然に溶け込む本沢氏。

 その日は玄関前のスロープを仕上げ中で、この間、渡辺氏はずっと大工さんと話しこんでいた。

 夕方、視察にきた井上さんとともに、仙台へ戻る。東北の冬の日の入りは早く、夕方五時にはもう真っ暗なのです。

 ゆえに、海岸などで復旧作業をする工事車両のUターンも多く、道はかなりの混雑でした。夕方、食事を済ませ宿舎にて過ごす。と、そこに、大薗クンとボランティアクンにビール、焼酎の歓迎を受ける。話も弾む。当然、飲みも進む。そして。

地域性に根ざした支援活動

 11月17日。たくさんいただいたお酒のおかげで寝過ごす(必ず1回はやるのね)。豊川さんに電話でおこされ、センターみやぎへ(面目ねぇ)。午後から、詳しい現在の活動状況を聞く。

 現在、センターみやぎは仙台を中心として、石巻、北の登米、南の亘理と、4つの支部でそれぞれ個々の地域性にねざした細やかな支援活動、そして総じて、この震災を機に、原点回帰、バック・トゥ・ベイシックな活動になりつつあるという。

 ただ、県内全体でまとまっての動きを作るのは、まだまだこれからの課題、といったところでしょうか。その後、カレンダーをどう届けるか、といった打ち合わせ。この件については次号で詳しいご報告を。

仙台から大阪への飛行機

 飛行機の時間まで、荷物、資料の整理。この間、あくまでマイペースの渡辺氏、そして、三度、センターの日常に溶け込む本沢氏。「このまま残ってうちではたらいてくださいよ」なんて言われちゃってるのであった。

 さて、時間とあいなり。センターみやぎを後に。寒い中、外で見えなくなるまで見送って下さり、またもジーンとくるのであった。

 途中何の話もなく、大阪へもどる。そして。

刺激し合うイベントが大阪市内で行われた

 11月23日。(大阪市北区の――大谷注)山西福祉会館でのシンポジウムも大入り満員、ギチいっぱい。東北3県の障害者がここ大阪で一堂に会し、ホットな報告会になりました。実際、仙台の及川さんはハートに火が点いたか、12月はじめの箕面でのシンポジウム迄関西に残り、あちこちを見て回るという、このようにお互いを刺激し合える集まりとなりました。

 また、扇町公園のお祭りも目立ったトラブルもなく、東北からもたくさんお客さんもあり(石巻でであった親子も大薗クンと登場、うれしかった)、雨が降ってもお構いナシの盛り上がりようで、東北⇔関西のつながりのおおきな一歩となりました。

 ご来場くださった皆さん、本当にありがとうございました。打ち上げの後、一人で飲んだビールの旨かった事。さぁお次は、3月25日にまたまたお祭りです。待っててね。

自分たち障害者の姿を見ている

 最後に、もうひとつだけ。なぜおれたちは、この東北の震災にこだわって、関わり続けるのか。それは、同情や博愛精神ではナイ、そこに、自分たちの姿を見るからである。

 連日、報道される被災地の様子、原発の問題。しかし、そこに、それら報道の中に、障害者の姿はない。そこに、自分たちの姿が浮かび上がってくるのだ。

 その悔しさ、怒りは実はおれたちの日常に直結する問題なのだ。だから、おれたちはこだわり、関わり続ける。これからも、ずっと、ずっと、ネ。 以上が石原礼さんの文章全体である。次に渡辺健二さんの文章である。

1日目は被災地センターにたどり着く

 一日めいったひは、大阪の伊丹空港からせんだい空港まで、ひこうきにのりました。空港館内からさいしょにでていってひやっとしました。電車で長町えきまでいきました。そこからあるいて、CILたすけっと、被災地障がい者センターみやぎまであるきました。

 じむしょについて一日よるまでいてから、とまるところの日航ホテルに、1泊だけとまりました。ねました。おしまいになります。

石巻市の被災地障がい者センターでさまざまな人と会う

 2日目は、日航ホテルであさおきて、あさのしょくじのバイキングにいきました。ホテルからでてから、電車で長町えきまでいきました。

 CILたすけっと被災地障がい者センターみやぎまで、またじむしょまでいきました。いってから石巻市の被災地障がい者センターまでいきました。いろいろのひとのはなしをきいてから、まる一日いてからゆうぐれになってから、CILたすけっと被災地障がい者センターみやぎのじむしょに、かえってきました。

 じむしょについて一日よるまでいてから、とまるところの日航ホテルに、1泊だけとまりました。ねました。おしまいになります。

豊川さんの取材

 3日めは、まんしょんでおそくまで、ひるまでねてました。そこからじゅんびしてCILたすけっと被災地障がい者センターのじむしょにいきました。ここでひるのしょくじをしてから、豊川さんのしゅざいをしました。かえるまでのおそくまでしてました。

 おしまいになってから、かえるまでは、じむしょでゆっくりしてました。おしまいになってからじむしょでてから、長町えき、まであるいてから、でんしゃにのってせんだい空港までいきました。

 むこうでさいごのしょくじをしてから、おとこ3にんがひこうきにのってから、ぶじに大阪につきました。おしまいになりました。 これが渡辺健二さんの文章全体である。

大阪箕面から出かけたので言葉の異種交流――大谷のコメント(1)

 多分、言葉の異種交流が実現できたかな。関西弁(大阪弁)と東北弁がどんな会話を交わしたのか?それともこの人たちから標準語(東京言葉)で聞き取りや自己紹介などをしたのかな。

 本題ではないが、どんな種類の言葉が飛び交ったのか興味ある。多分、障害者関係でもNPO法人「ゆめ風基金」の人々をはじめ、関西から多くの人たちが行っていると思うので、どんな交流の内実を明かして欲しいと思う。

 お二人とも、関西弁のことは多く出てくるが、語り口に東北弁のニュアンスが残っていない。関西からの救援は阪神・淡路大震災の経験者だということで歓迎されるが、報告によると、救援支援は「地域にねざした活動」の段階に入っているという。日常生活にかかわる言葉のちょっとしたニュアンスの違いは地元の人が解決する必要があるだろう。そういう意味で「地域にねざした活動」レベルともいえる。

関西に戻って大阪の催し――大谷のコメント(2)

 石原さんの表現にも「ギチいっぱい。」と書いていらっしゃるように、当日の新聞にも「3.11東北・関東大震災・そのとき障害者は!」の模様が書かれている(朝日、2011年11月24日)。山西福祉記念会館で行われたシンポジウムは「約250人」と集会の参加者を発表している。

 また、扇町公園で行われた「東北⇔関西障害者支援 ポジティブ生活文化交流祭」は一時雨模様であったが、約5000人の人が集まり、大盛況だったようである(ゆめ風基金のブログ)。再会できないのが一般だが、多数の参加者の中であるにもかかわらず、石巻市で会った親子と再会した石原さんはさぞ嬉しかっただろう。この催しに関した記事やブログも『積木』に同時に掲載されている。

 刺激し合えるシンポジウムと言うものは滅多にない。関西に残った及川さんが学んだことが東北に被災地でも生きているのか手がかりが欲しい。

障害者が自分たちの姿を見る姿勢――大谷のコメント(3)

 なぜ、被災地とは遠く離れている大阪の北部に位置する箕面の障害者たちが関心をもつのかが、文章で明らかにされた。それは石原さんの文章の後半にある「自分たちの姿を見るから」と言う言葉だ。  確かに被災地の様子、また原発の問題には障害者の姿が報道では見えない。箕面では「障害者市民」ということが多い。被災者市民の中に障害者市民もいるはずだ。それがどこか遠くに隔離されたように、消えてしまったような感じだ。

 障害者が集まると言う特別な企画をしないと、マスコミは取り上げてくれない。障害者もその他の市民とともに被災したという事実が、消えてなくなるのではないかという危惧がある。

このページの目次へ Top page へ戻ります。
2011.12.23

仕事を受注する際の検討課題

――作業所が官庁の下請けを取って来る時の注意点――

 いつも転載させてもらっているNPO法人の「札幌・障害者活動支援センターライフ」が発行している「アドボケイト」(第132号、2011年11月10日)に「アウトソーシングセンター 元気ジョブ」の大加瀬敦さんが原題<「マッチング事業」に求められる『内容』・・・?>という記事を書いていられる。同誌は北海道で社会的事業所の役割を持っており宣伝も行っている。同誌には傘下の共働作業所に勤務している人の貴重な声を集めているだけでなく、レシピ(お店でお客様に提供しているのかな?)もついているし、「北の海鮮めぐり・特選ギフト」の宣伝もある。 以下が大加瀬 敦さんの文章全体である。

受注側と発注側の思い

 元気ジョブの一員となって早一年半。

 福祉事業所と企業(もしくは官庁)のマッチングをしてきた訳ですが、ふと考えました。

 一体どんな仕事を受注側(作業所)は求めているのか。発注側はどんな仕事を作業所へ出したいのか。

発注側から仕事の流れ

 後者は単純。相手の要望に応えれば良い・・・と思うかもしれませんが、意外とそうでもないようです。実際に頂いた仕事の中で企業に営業をし、先方からこの仕事を頼みたいなどと言われたものは殆どありません。

 大抵は同業者からの紹介や類似業務を作業所にお願いした事があって、こちらに連絡が来るケースだと思います。

受注側の働きかけが大切

 では、どうやって営業すれば仕事を獲得出来るのか?元気ジョッブは市の委託事業という存在ですので、どこかの事業所の商品を持って廻るなどということは出来ません。

 ライフの業務で言うと、もじやの印刷だけの営業をすることも出来ない訳です。

 ですから、色々な種類の仕事が出来るという事を前提に、お客様の求めるアイディアや企画をこちらで提案しながら営業しなければいけない・・・正直、かなり難しいです。

受注側の判断項目

 反対に前者ですが、その作業所によって受注可能な仕事の種類が違うのは当然です。ですが、種類や量だけを気にしていて良いのかとも思ってしまうのも事実。

 ・単価は見合っているのか?
 ・利益(工賃・給与)が上がるのか?
 ・就労のための訓練になっているのか?
 ・雇用機会に?がるのか?
 ・社会参加の実感が得られるのか?
 ・地域貢献(参加)が出来ているのか?

人は形になってはじめて望むものが分かる

 それぞれの作業所で大事にしていることは違うでしょう。それを可能な限り見極めなければ、ならない・・・これも難しい。

 発注者・受注者双方に喜んで貰えるマッチングを目指して行きたいと思う今日この頃、なぜいきなりこんな話かというと、亡くなられた某社長の名言――――『多くの場合、人は形にして見せてもらうまで、自分が何が欲しいのかわからないものだ』を自分にちょっと置き換えてみただけです(笑)。 以上が大加瀬敦さんの全体の文章です。

採算に会うものを探す――大谷のコメント(1)

 大加瀬敦さんの困難な仕事があるから、事業所の作業はスムースに成り立つのだ。社会には利益につながる仕事はないように写る。

 その気になって探してみると結構あるようだ。そうした作業になるものを開発する仕事だと思う。

 難しい仕事でもつまらない仕事ではなくて、企業(あるいは官庁)に提案することでお金になる貴重な仕事だ。他にない自分の事業所がもっているノウハウを生かした発想力が必要な仕事だ(工夫と言っても良い)。

 最後に大加瀬敦さんが言われるように「発注者・受注者双方に喜んで貰えるマッチングを目指して行きたい」と。まさに自分がしている仕事の醍醐味を感じとったと言える。

日常から事業所は判断している――大谷のコメント(2)

 並んでみると数が多いように見えるが、どこの事業所もこうした数多くの判断をしているはずだ。私のように大雑把に見ていると、利益につながる作業が少ないとして諦めがちであるが、詳細に見てゆくと案外大きな抜け穴があるものだ。

 この種の人手は足りないはずだが、事業所では新人当初から育成するか、必要な人材をスカウトする必要があり、事業所が共同で育成しても良いだろう。市場としてもまだ未成熟だ。

 障害者がなることもありうる。作業所では障害をあるなしに関係なく、人材を有効に活かしていないと思われるが、小さいところほど必要な人材でもある。

発注する側(企業・官庁)も通常は気付かない――大谷のコメント(3)

 どこにニーズがあるのか発注する側(企業・官庁)では気がつかないことが多い。仕事が廻ってくるのが同業者からであることから分かる。

 同業者の仲間は仕事が廻ってくるという点でも大切にする必要がある。むしろ、共同で人材を育成する面や本人には仕事がその事業所では不適切な場合がある。

 関連する事業所はそういう意味で大切に育むべきだと思っていたが、仕事が廻ってくると言う面も生かすべきだ。共同受注もありうるかも。

このページの目次へ Top page へ戻ります。
2011.12.17

支持される「日本語に縛られない手話表現」

――デフサポートおおさかの試み――

 この記事はNPO法人「デフサポートおおさか」の機関誌「デフサポートおおさか」(第48号、2011年12月)に掲載されていた記事を私なりに紹介したものだ。NPO法人「デフサポートおおさか」ではこのほど大阪市下水道関係職員有志「チーム桜」と協力して現場の職員による「下水道の手話DVD」を完成させた。DVDを各地のろう学校に送った共にアンケートに答えてもらったところ、興味深い結果が得られたので、トップで同号に記載されている。

質問に答えて

 調査に回答いただいた学校・団体は機関誌に掲載されているが、北海道小樽ろう学校・北海道高等聾学校・北海道帯広ろう学校・北海道釧路聾学校・青森県立青森聾学校・岩手県立盛岡聴覚支援学校・福島県立聾学校・埼玉県立特別支援学校坂戸ろう学校・静岡県立静岡聴覚特別支援学校・石川県立ろう学校・茨木県立霞ヶ浦聾学校・高知県立ろう学校・愛媛県立松山聾学校・岡山県立岡山ろう学校・京都府立聾学校・三重県立聾学校・福岡県立福岡聴覚特別支援学校・福岡県立福岡高等聴覚特別支援学校・鹿児島県立鹿児島聾学校・NPO法人レッドベレーズの20学校・団体である。どちらか言うと県立聾(ろう)学校が圧倒的である。

 質問3で「手話の作成にあたっては、日本語に縛られない手話表現にしました。これについてどう思いますか?」と訊ねたところ、回答は「日本語にしばられない手話でいい」と言う回答が24件、それと反対に「日本語に忠実な手話であるべきだ」という反論は5件「どちらでもいい」と言う中間的な態度が2件、「その他」が6件と多い。日本語に縛られない手話が支持された。

客観的評価野で日本語と離れた手話表現が認められたのか

 ただ、DVD自体は「日本語に縛られない手話」で作成されているから、現物を見ていると「そうではない」と否定する意見を述べるのは、現実的にはかなり難しいだろう。日本語に離れた手話が客観的評価野のもとで支持されたとは言えないだろう。また、かなり多い「その他」はどういう意見だったかを知りたい。

 自由記述では「職員自ら『伝えよう』という姿勢が強く見られ好感が持てます。手前の子どもたちにも目線を配って欲しかった。PC画面や説明図が手話から飛び出すような表現を工夫されるともっとイメージしやすい。」という意見もあった。

 さらに、また回答の中には「職員は聴者ではなくて、ろう者がいいという子どもの意見が出た。(手話のリズムや表情がつかみにくい)」という。下水道関係者に対する雇用の問題にまで踏み込む鋭い意見もあった。

自分たち自身で伝えたいという熱意は支持された

 長い質問5だが「私たちの取り組みは、“自分たちのことは、通訳に頼らないで自分たち自身で伝えたい”という思いが出発点になっています。これについてどう思いますか?」と訊ねたところ「そんな必要はない、通訳に任せればいい」という意見は1件だけであり、自分たちにかかわることは自分たちで伝えたいという制作者の思いに「共感できる」と支持を表明したのは15件であり、「その他」は3件でしかなかった。また「未記入」は1件だけに止まった。

 ということは聴覚障害者にも、自分にかかわることは自己発信したいという要求が強いと思える。国連の自分たちに関わりがあることを自分で表現したいという「障害者の権利条約」の創造への精神がここでも生きている。ただ、私が典型だが、手話を解しない人の場が大半であるので、信頼できる手話通訳は手話を理解しない人にも必要だ。

 外国で調査をするときなどは現地の人が話している言葉を、そのまましゃべれるようになることは求めても到底無理だ。その場合、通訳に頼らざるを得ない。現地では信頼できる通訳との人間関係が非常に大切になる。

このページの目次へ Top page へ戻ります。
2011.12.05

夏休みにおける障害児の遊び方

――実際に楽器を作ってみよう――

 これも転載である。川上美也子さんの原題『夏やすみこどもチャレンジ』(大阪府箕面市を拠点に活動しているNPO法人「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」が発行している)『ライフタイムミント』(第79号、2011年12月)に掲載されたものである。この号の『ライフタイムミント』には転載に使った子ども達が楽器を前にしている写真入りの文章の他に、菊池康治氏の坂道に対するアンビバレントな印象を語ったものから、大道広子さんの「震災ルポ」などもあり編集部の注記と共に味わえる。箕面市障害者事業団職員の高田浩志さんの自立生活に向けて一歩を踏み出そうと呼びかけてあるものや、精神障害者による「彼氏の転勤」という連載の「天真爛漫な日々」が綴ってある他、今井雅子さんの「パンのみみ」というエッセイが連載されているなど盛りだくさんの内容があり、最後の12ページには箕面市の地図が掲載されているなど、親切な編集が特徴となっているようだ。ぜひ直接に読まれると好感を持てると思う。川上美也子さんを始め編集委員の承諾をいただいたので以下全文を転記する。最後に読んだ感想をコメントという形でまとめる。転載の承諾をいただいたので、こうして転載できる。以下が川上さんの文章である。なお、フリカナは省いた。

障害者も地域で生きる経験を

 相談を受ける中で、障害のある、特に中学・高校生の放課後と長期の夏休みなどに行き場がないという声をよく耳にします。

 その声に少しでも応えられたらという思いと、将来、地域で普通に暮らしていくというイメージをほんの少しでももてるようにするため、親(多くの場合が母親――原注)とこどもが離れることが『まずはじめの1歩』という思いで、去年に引き続き「夏休みこどもチャレンジ」の2回目を企画しました。

 去年は、1回きりの出会いではなく継続性をもたせた方がお互いになじみができ、少しでも深いかかわりができるかな?と考えて3回連続にしました。

 でも、3回続けてというのは結構しんどい・・・、という意見があったので、今年ははじめ2回の催しを2日続きで、あとの2回は1日ずつで行いました(計6日――原注)。

同じような年の子どもたちと一緒に和太鼓を

 1回目は7月29日・30日の2日間。要望の多かった「和太鼓」を「北芝解放太鼓保存会・鼓吹(こぶき――大谷注)」のメンバーに教えてもらいながら、それぞれの手にバチをにぎりました。

 参加者は8名。鼓吹のメンバーには同じくらいの年のこどもたちもいて、とても自然に教えてもらうことができました。

 デモンストレーションで演奏もしてもらいました。太鼓は息を合わせて大勢で叩くとすごい迫力ですが、ぴたりと音がとまったその静けさがまたすごい迫力です。でも、こどもたちは叩かない、ということがなかなか難しかったようです。

 最後にはみんなで成果を発表しあい、ご家族の方にも見てもらえました。演奏の結びには、バチをもった両手を高く挙げ「ソーリャア!」の掛け声でフィナーレ♪終わりよければすべてよし!!です。

皆で劇「おおきなかぶ」を演じた

 2回目は、8月5日・6日に「割りピン人形作り&劇」をしました。いつも「アートサークル ミントアンサンブル」で講師をしていただいている二人の先生にお願いし、参加者は4名。

 劇はロシア民話の「おおきなかぶ」です。おじいさん、おばあさん、まご、ネコ、イヌなどの登場人物をそれぞれ分担してつくりました。

 背景はみんなで合作し、思い思いに大きな模造紙に色を塗りました。塗ることが大好きなこどももいて、はみ出しながらけっこう無秩序な感じでしたが、それはそれで味のある背景が出来上がりました。

 「うんとこいしょ、どっこしょ」のかけ声にあわせ、みんなでおおきなかぶをぬいたところで終了。これもご家族の方に観劇してもらい、拍手喝采をいただきました。

のこぎりを使って楽器作りにチャレンジ

 3回目は8月20日の「楽器づくり&演奏」で、参加者は5名でした。「ボランティア団体 手づくり楽器の森」の人たちに教えてもらいながら挑戦しました。

 のこぎりを使って竹を切り、竹スリットドラムという打楽器をつくります。のこぎりで竹を切るという作業が持続力と集中力のいるものでしたが、ボランティアの方々にサポートしてもらいながら、思ったより短い時間で完成しました。

 作ることには興味がなかったこどもも、できあがって楽器になると目がランラン。自分流にみんなの前で太鼓をたたいてとても楽しそうでした。

 また、つくるという過程が楽しかったこどももいましたが、最後にはそれぞれがつくった竹スリットドラムとカリンバやらマラカスも加わって、ここでしかない音が響き渡っていました。

子どもたちに、これまでに参加した感想を聞く機会をつくった

 4回目は「みんな集まろう!参加者交流会」。「障害者とともに」を考える企画グループ「ちまちま工房」のメンバーに協力をしてもらい、これまでに参加したイベントの感想を聞いたり、ゲームをしたり、おやつを食べたりしました。本当はこれからやってみたいことまで聞かせてもらいたかったけれどもそこまでは至らず、わたしたちの今後の課題になりました。

 知的に障害がある方の場合、自分がしたいことなど自身の意志を伝えることはなかなか難しいことが多いので、こちらがいろいろな引き出しをつくっておくことが、やはり必要なのだろうと思います。

 やるたびにいろいろな課題がみえてきますが、これから生きていく中で何か問題にぶつかったとき、せめて「ライフタイムミントっていう相談できるところがあったなぁ」と思い出してもらえたら幸いです。

 以上が、川上美也子さんの全文である。

北欧でも障害児が親離れする機会を積極的に作る――大谷のコメント(1)

 中学生たちが住んでいるグループホームでの経験だ。日本流に理解して養護学校(今は特別支援学校という)の付属の寮生活をしていると即座に思ったが、すぐ近くに親がいるとの話だ。

 では、近くには養護学校がないのだろうと理解しようとしたが、2週間ずつ自宅とグループホームを行ったり来たりしているそうだ。どうも親離れの子離れの訓練をしているらしい。大人になったらひとりで暮らすのだから、その時のために親も子どもも練習しているらしい。親が子どもを一人で暮らすのに練習が必要なようである。

 箕面市でも同じ経験がされているという話を聞いて思い出した次第である。親離れの経験に長い夏休みを有効に使うのは、その子の人生にとっても刺激的であろう。中には子どもたち同士が秘密をもつという事もありうる。

他の多くの人々とのふれあい――大谷のコメント(2)

 多くの人たちと触れ合う関係を創る。名称からも分かるが「北芝解放太鼓保存会」は被差別部落にある。障害児たちも福祉差別部落の住民の人たちと繋がりを持つことによって被差別部落に対する親の視点も変わるだろうという期待がある。

 子どもも「あのおじさんは太鼓を教えてくれた人だ」と、近親感を持つことも期待できる。子どもが近親感を抱くようになれば、親たちの差別意識も変わりうる。一挙に解けて流れるようには変化しないとしても徐々に変わってくる。

 「鼓吹(こぶき)」のメンバーに同じ程度の年齢の子がいれば、一緒に遊ぶこともできたはずであるが、そこまでは書いていない。一緒に遊ぶという付合いを拡げていくと面白い関係が創れる。

 その他ボランティアたちとも付合いが広まっている。それも手作りの楽器を通してである。多分、指導員と言う固定した人がいるという学童保育に通うよりも、多くの人と会えて楽しかっただろう。

無音の迫力に興味を感じる人――大谷のコメント(3)

 川上さんの文章は、太鼓を演奏していて「ぴたりと音がとまったその静けさがまたすごい迫力」ということで、静けさの中に迫力を見出せる稀有の人だと思う。

 叩き手についても、それだけ集中力が必要なはずだ。私も音を止めている静寂の中における迫力については上手く述べることができない。

 こうした感性の持ち主が多くいるから、3回連像では指導する人がシンドイというのは分かる気がする。親としては回数が多いほうが望ましいだろうが、子どもたちの指導をする人の企画力・気力・体力に依存しているのだから、指導する側の体制が万全でないと、親としても子どもたちを安心して委ねることはできないだろう。

付き合いのあるところに我が事を相談に行く――大谷のコメント(4)

 多くの場合、様々に相談の重要性が説かれる。たしかに一人で考えているよりも多くの人と一緒になって考える方が有意義だ。その時にあたって人は善意だけでは動かないということを忘れがちだ。

 最近、生活の困ったときや悩み事に陥った場合、相談する公的な場所がいろいろとできているが、人の相談を受けることと同時に信頼を獲得する事は、難しいことだ。

 最後に書かれているように、人は何らかの場合に思いだすのであり、相談の場所にすぐに行くものではないということだ。

 こうして公的機関を避けて、なんとなく付き合ってくれたという民間の組織・機関に相談に行くものだ。ことに遊びの場を提供してくれた組織・機関の方が親しめるし、悩み事があった場合に相互に秘密を持った組織・機関だと解決を図ってくれる気がする。

このページの目次へ Top page へ戻ります。
2011.11.20

震災と障害者

――東電による緩慢な殺害行為――

これも転載である。NPO法人「ゆめ風基金」が発行している『ゆめごよみ風たより』(第55号、2011年11月12日)に載っていた「リレー・エッセイ災害と障害者第36回」から原題『2011年3月11日の震災を忘れない!』というものである。筆者の鈴木絹江さんは「執筆者紹介」の記事によると「NPO法人『ケア・ステーションゆうとぴあ』の理事長であり、障害者自立支援センター福祉の町づくりの会所属。全国自立生活センター協議会(JIL)会員。JIL認定ピア・カウンセラー。JIL人権委員」となっている。副代表理事の河野秀忠さんの規模を拡げる巻頭の論文の他に、陸前市にある障害者作業所「すずらんとかたつむり」が誕生したという記事もあり、「おたより」が「みやぎ身体障害者サポートクラブ<ころんぶす清水>」から届いている。この他にも震災関連の現地報告がある。手にとって見て欲しい。鈴木さんの承諾を得たので、中見出しをつけ、最後に読んだ感想をコメントという形にする。

 以下に掲載するのは鈴木絹江さんが書かれた記事の全文である。

時代の証人になった福島在住の私たち

 福島は原発銀座と呼ばれている。

 「もし、この福島原発が爆発したら、一巻の終わりだよね」と30年も前に友人と笑い話にしていたことが、本当に起きてしまった。

 何もこの時代に、私が生きている時代でなくてもよいだろうに・・・。と苦笑する。まさか、自分が時代の証人になるとは、予想していなかった。

東京の人は許さない

 自然と対立して存在する東京の電力のために、貧しさにつけ込んだ国と東電は原発近郊の人々を札びらでほっぺた叩いて原発を作り、そして福島県民の命と未来を奪っている。

 これが被害者になって、初めてわかったこと。私はこの事実を許さない。

 冬に暖房をつけ、夏に冷房をつける東京の人を許さない。自分だけがよくて、不便なことを貧しい他の人に押し付ける人々を許さない。

かつては山の中で豊かな暮らし

 誰かを犠牲にして生きるのではなく、自分の作物が自分を育て、自分の大事な人をも幸せにすることのできるそんな生活がしたくて、(現在は福島県田村市――大谷注)船引町に畑を求めてすんだのが、1981年、今から30年前。

 8年間電気もガスも水道もない生活を山で暮らした。しかし、それ以外はすべてあった。胸一杯吸い込めるおいしい空気、朝には朝の匂い、雨の日には雨の匂いをたっぷり含んで私の胸をいっぱいにしていた。

 水道の水よりも何倍もおいしい井戸水は、野菜や果物、夫の好きなビールを冷やすのにちょうどいい温度に冷えている。

 薪で炊いたお風呂場から、月を眺めるのが楽しみだった。

 キツネにも山鳥にも、フクロウにもその山で出会った。

原発事故は未来を断ち切った

 2011年3月11日にこのすべてが奪われた。

 地震は、我が家のサラ一枚も割ることなく過ぎ去ってくれたけれど、原発は、私の生活も、未来も、夢も、大事な仲間のつながりも、すべて断ち切ろうとしている。

 原発が爆発したとき、すべてが奪われたと思った。足もとが崩れ落ちるとは、この様な事を言うのだと思った。

 しかし、目の前にあるものは何ひとつ変化しているわけではない。青い空があり、木々は青々として茂り、今は鳥のさえずりも聞こえるようになった。

放射能による緩慢なる殺人に侵されている他の人々も自分も

 しかし、確実に私の周りには、放射能がある。東電の緩慢なる殺人に、私は侵されている。

 「この地から、逃れよ!」と言う、内なる声を聞きながら、私はまだ福島、この地にいる。まるで、緩慢なる自殺に向っているようだ。

 今も進行形の原発は、放射能をまき散らし、これからも福島県を核のゴミ箱にしようとしている。大人も子供も、おなかの中の胎児までをも被曝させながら。

どうやって生きていくのか

 原発の爆発をなかったことにして、生きていくのか?

 それともすべてを知って、この地に留まり、放射能の汚染の中で生きていくのか?この地に留まり、放射能による健康被害を引き受けるのか、家族と別れ避難して、生活崩壊の中で生きるのか。

 私は今、窓を閉め切った部屋の中で、朦朧とする頭で同じところをぐるぐるとしながら、おかしくなっていく自分を眺めている。

100年後の福島県に望むこと

 100年先を見て、シンプルにもの事を考えること、と誰かが言った。

 100年後の福島県に望むものは、緑豊かな自然と共存して生活している人々の暮らし。そこには、大人も子供も、老人も若者も、自然の恵みに感謝して、命と引き換えの便利さではなく、すこし不便でも、少し貧乏でも、助け合って、補い合いながら、土に種をまき、おいしい水で喉を潤し、胸一杯の緑を吸い込むことのできる生活。

 100年後の福島県の夢をかなえるなら、今は原発から、放射能から離れること。そして、すべての原発をすぐに止めること。

原発がなくてもつながりがある生活

 100万年も死の灰をお守りしなければならない原発はいらない!

 原発がなくても、少ないエネルギーを工夫して使い、十分に豊かに暮らせる事を実現しよう!

 私たちはもっと豊かに、助け合い、つながって生きてゆけるはず。

 悲しい出来事の中で出会った、たくさんの人の愛の中で、私はかろうじて、今を生きている。

 私は決して、忘れない!2011年3月11日の震災を。

 以上が詩を思わせる鈴木絹江さんの文章である。怒りが文章から伝わってくる。

何を尺度にして人の幸せを測るのだろうか――大谷のコメント(1)

 文中に「家族と別れ避難して、生活崩壊の中」と言う表現がある。しかも「生活崩壊」の中には、とくに人と人の絆を断ち切られると(人が切る行為をする)人には大きすぎる損失も含まれる。人は社会の存在だから。

 その生活崩壊の中には、仕事にしている農業・林業や漁業などとも、分かれるのが辛い人もいるだろう。大阪府の枚方を拠点にしている「であいの会NEWS」(第336号、2011年11月)の巻頭言では殿山一子さんが「元気をもらった」と書いている「復興の米」と題する記事がある。震災での気仙沼の同級生が震災で被害にあった「田んぼ」から出来た米とりんごだそうだ。農業を仕事にしている農家を大切にしたい。

 現地では、地震と津波に襲われてでも「(応援を)ありがとう。がんばっているよ」と、思いの詰まった米とりんごを独り占めにしてはいけないと、大阪で受け取った人が、友人たちに配って歩いたそうだという。人の助ける代わりに現地から「元気をもらった」という姿が印象に残るほど。

 自分が飼っている動物と分かれるのが辛いと言う人もいるだろう。仕事に使う他に、土地や海や山から別離するのがいやだと言う人もいるだろう。このように多様なものから形成されている幸せだが、どんな尺度で測るのか?

室内で冷房を強くし過ぎる東京の暑さ――大谷のコメント(2)

 東京の室内の温度差は、鈴木さんは東京に行く時は、夏場にはいつも長袖を持って行くそうだ。半袖ではいられないというほどに冷房の効きすぎだそうだ。

 逆に冬場では室内が暑くて仕方がないという。タケノコ状態になるように脱げる服装で東京に行くそうだ。それを受けて「冬に暖房を付け、半袖を来て、夏に冷房を付け長袖を着ている東京の人を許さない」という表現になったという。

 この問題は個人差があるだろう。日常でどのような暮らしをしてきたかにも、その人の肌(体感温度とも)は強く反応してくるはずだ。

 このように過剰に使うスタイルに仕向けた東京の電力会社の戦略が成功しているのではないだろうか。その生活スタイルを変えることが住民には求められているのだ。

反原発が反成長にならないために――大谷のコメント(3)

 最近、経済成長よりも貧しくとも良いから昔の生活に戻りたいという憧れ(「あーあ、昔は良かった」「原発のない時代に戻りたい」という話)を聞くことが多い。

 経済成長によって、人の生活は豊かになったことは事実である。後戻りできない。例えば日常の生活で重宝しているメールやパソコン・携帯は現代経済成長の所産であり、昔に戻るとそうした物は使えない。

 とすると、害を与えるものを分離して役に立つものを別個に取り出すことは、そこには人々が望んだ生活の豊かさがあるという面をも含めていることも否定しないが。人にとって良い面と悪い面とを切り離せるとかつては思っていたが、最近では2面ともにあるのが人生だと思うようになってきた。だから人間は複雑なのだ。

他の地域の支援を呼びかけている――大谷のコメント(4)

 この文章を読むと原発への怒りが伝わってくるが、それだけではない。他の地域で支援の催しを開催するように呼びかけている。そうした企画には「反原発」を打ち出しているものもある。

 それに対して、被災地から遠く離れた関西もNPOの活動を中心に「東北支援」の集会が開かれている。とくにマイノリティの支援継続を打ち出している企画も多いようだ。阪神・淡路大震災に襲われた関西の地域で盛んに行われている。

 大阪を中心とする関西では、他人事のように受け止めるのではない。自分たちがかつては望んだという幸せを価値尺度から変えてしまう企画が目立つ。日本を抑えている大資本の言う通りの生活にはならない。自分が主体の人生だという決意を滲ませて。

このページの目次へ Top page へ戻ります。
2011.11.12

障害者自身による支援活動

――西宮の重度障害者が見た岩手における障害者の暮らし――

これも転載である。豊能障害者労働センターが発行している「積木」(第228号、2011年10月18日)に掲載された藤原勝也さんの原題「障害当事者による震災復興支援――地域での自立生活をめざして――」について執筆者本人と編集委員の承諾をえたので、ここに紹介する。ここで『積木』について今号の紹介をする。絵本作家の「松井しのぶ」さんの原画展&救援バザーの様子が分かる写真(なんと収益5万円を寄付したという)やいくつかの新聞記事が使ってあり、松井さんのカレンダーに掲載した牧口一二さんのエッセイも元気だ。たくさんの写真があると共に、頻繁に新聞記事にも取り上げられる催しをする団体のことが分かる多様な機関誌になっている。農作業の様子も掲載されている。一度手にとって読んでほしい。転載にあたっては、原題を私流に変えたことと、中見出しを作ったこと、最後に私が読んだ感想をコメントという形で就けたこと以外は、そのままの文章である。以下は藤原さんの記事全文である。

西宮の重度障害者が「被災地障害者センターいわて」で活動

 私は障害当事者派遣プロジェクト(後述――原注)の一環で、盛岡にある「被災地障害者センターいわて」(原文では「障がい者」と使われているが、固有名詞でも「障害者」とする。以下同じ――大谷注)に2011年7月9日〜7月16日まで行きました。

 ほぼ毎日車で片道3時間かけて、被災地障害者支援のため沿岸部の被災障害者の暮らす仮設住宅や自宅等を訪問しました。

 そこでの活動は、同じ障害者の立場から様々な相談を聞いたり、自立生活の話をしたりする等でした。ちなみに私の障害は筋ジストロフィーであり、兵庫県西宮市で人工呼吸器を24時間使用しながら自立生活をしている重度障害者です。

メインストリーム協会のスタッフとして活動

 私は兵庫県丹波市の山間部出身で、12年前に大学進学をきっかけとして兵庫県西宮市で自立生活を始めました。大学は実家から離れていて、2人いる弟も同じ障害で両親が私に付きっ切りになるのは不可能という状況でした。

 西宮市にある自立生活センター・メインストリーム協会(後述――原注)の支援を受けて開始することが出来ました。今はメインストリーム協会スタッフとして活動しています。

 メインストリーム協会は全国に120ケ所ある自立生活センターのひとつであり、20年以上前から活動し続けています。自立生活センターは障害当事者が運営を行い、重度障害者の地域での自立生活を支援しています。

 どんなに重い障害があっても、障害のない人と同じように自分らしく堂々と生きていける社会の実現を目指しています。自分らしくとは、特別なことではなくて自分の生活や人生を自分で決めていくことです。

 施設等では重度障害者は生活を管理されることが多く自分のやりたいことができません。主な活動内容はサービスの提供(介助派遣、相談支援等)、権利擁護活動(交渉等)、啓発などです。

被災地の障害者たちが自ら設立した構造

 岩手県の沿岸部は元々自立している障害者が少なく、入居施設か家族と一緒に住んでいる人がほとんどのようで、障害者を街で見かけることがあまりありませんでした。そのため、地震が起こってから、どこでどのくらいの障害者が被災していて、さらにどんな支援を必要としているのか把握することが難しい状況でした。

 その状況を変えるために、被災された障害者の支援のために「東北関東大震災障害者救援本部」(以下、救援本部とする――原注)が東京に立ち上がりました。

 救援本部は、阪神大震災を機に災害時の障害者支援を目的として設立された「ゆめ風基金」、日本の障害者運動のリーダー的役割を果たす「障害者インターナショナル日本会議」(DPI)、「全国自立生活センター協議」(JIL)などの障害者団体が共同で立ち上げました。現地の活動拠点として福島、宮城、岩手それぞれに「被災地障害者センター」を設置しました。

西宮メインストリームの障害者が岩手に派遣された経過

 (2011年――大谷注)5月に救援本部のメンバーが「被災地障害者センターいわて」を訪問した時に、障害当事者を派遣して欲しいという要請がありました。そこで、救援本部と朝日新聞厚生文化事業団が主催し、被災地(岩手県)に障害者を派遣するプログラムが始まりました。

 障害当事者の役割は、被災障害者のニーズを聞いたり、自立生活の話をしたりして、被災障害者が立ち直っていくことをサポートすることです。

 メインストリーム協会スタッフが、この取り組みの最初のメンバーとして派遣されることとなりました。

被災地センターの活動内容

 被災地センターの活動は、主に支援活動とピアサポート活動の二つに分けることができます。

 前者は、避難所や仮設住宅、自宅で生活している障害者への物資提供や人的支援(見守り、介助、移送等)などです。または、地元の社協や支援団体等に繋げていくことも大切な活動です。

 後者は、障害当事者が障害者を支援する活動です。私が行ってきた相談を聞くことや自立生活の話をすること等はまさにこの活動です。

ピアサポート活動の意義が明らかになった日と事例

 私は被災された障害のある方の自宅や仮設住宅を訪問し、自立生活の話を伝えてきました。

 印象的だったのは私と同じような筋肉の障害を持った10代の男性が私の話を聞いて、将来に対して自立生活が可能であることを知り、目を輝かせていました。

 実際にやっている人の話を聞くことがとても有効的だと感じました。

 私が田舎で暮らす重度障害者でありながら、大学へ進学し、自立できるモデルを示せたことは良かったです。

障害者はこれまでよりも厳しい状況に追い込まれた

 4ヶ月以上たった頃でさえも、震災で地域の社会資源(介助サービス、移送、医療等)がなくなった影響で、困難な状況が続いていました。震災復興の分野は多岐にわたり、障害者の分野は十分に進んでいないと感じました。

 もともと岩手県の障害者は施設や親元で生活していて、外にでることがあまりなく、障害者を取り巻く環境は厳しい状況でした。そんな状況で大震災に見舞われたため、障害者はさらに厳しい状況に追い込まれることになりました。

 私は仮設住宅の問題を多く見聞きしました。バリアフリー化が進展していなくて車椅子利用者が生活していくには困難がありました。また不便な場所に作られていることが多いので買い物、通院等で困難が生じていました。

自立生活を拡げる社会づくりを実現しよう

 物的、人的支援活動をやり続けるには限界があり、地元の支援体制が整っていくのに合わせて、地元に繋げていき、今後は自立生活を望む人や繋げていきたい人を中心に岩手県の自立生活センターとともに支援していくことになります。

 自立生活に対しての支援は障害当事者がやって行く必要があり、自立生活センターが不可欠となります。施設か親元かという二択ではなく、自立生活などの多様な生き方が自らの意思で選択できることが大切です。

 そのためには障害への理解が岩手県全体に広がり、バリアフリーや介助制度の充実等が進んでいくことが不可欠です。そうでなければ、本当の意味での障害者の復興支援には?がっていきません。

 ただ単に元の生活に戻れば良いのではなく、障害者が地域へどんどん出て、堂々と生活していける社会が作られていくことが重要です。  以上が藤原勝也さんの文章である。

西宮で活動している人が岩手県に派遣されて――大谷のコメント(1)

 兵庫県は行政も積極的にボランティアを東北に派遣した。企業もボランティアを派遣した。各種市民団体も様々に人員を派遣した。阪神・淡路大震災でボランティアに助けられた経験があったからだ。

 ボランティア活動にしても関西の動きは素早かった。立ち直るまではいつまでも活動を援助していこうと被災者たちを支援する持続的な活動スタイルは維持した。多くの人たちは自分では現地に行けないからと、募金に応じた。

 こうした団体と共に重度の障害者たちが存在した。障害者を含む市民たちは生活上で困っている人たちをいつでも支える行為をした。歴史上後から振り返っても、2011年という年は市民活動に新しい区切りを作ったと評価されるだろう。

東北に居住する障害者は在宅でも地域に出ていない――大谷のコメント(2)

 手元に「ゆめ風基金」の八幡隆司さんの「東日本大震災、障害者支援の現状について」がある(ひょうご部落解放・人権研究所月刊誌『ひょうご部落解放』<142号、2011年秋号>)。

 八幡さんの文章にも、東北地方で障害者は入所施設にいるものだという評価が一般的だ。障害を持っていても在宅で生活している人のほとんどは、本人と家族の頑張りによって在宅で生活していると本記事と同じことが触れてある。阪神地方との地域生活に違いが明らかに感じられる。福祉サービスを利用したいのであれが、まだ生活管理型の入所施設に入っている。

 東北地方の人は「粘り強い」と多く言われる。これまでの日本の政治で強いられたことだと感じられる。政治からの抑圧と共に障害者の生活様式の違いもそうであろう。

「在宅生活」と「自立生活」の力点の相違――大谷のコメント(3)

 同じ表現かというと、八幡さんの場合は「在宅」という状態を示す表現を使っている。藤原さんは「親」と一緒にいると、自立といえないという価値観が強くあり、在宅でも親元の家をでる「自立」を強調している違いがある。

 東北地方では、障害者が入所施設ではなくて在宅で、その場合でも、特に親元や家族から自立している人はいないといえる。

 それだけ社会の壁の厚い壁が障害者を排除している現実の証しとも言える。親元が頑張るか、あるいは入所施設に入ることによって、辛うじて生活している。それは仕方なく生存を保障される生き方である。その人に特有な生き方であるが、親元や施設で営まれているのは自立生活ではないという藤原さんなりの判断がある。

 逆に言うと近畿地方の障害者は在宅で暮らしている現状を見ていると違いはあるようだけど、日本の障害者が置かれている環境は違うわけはない。障害者運動の歴史が現状に見るように生活の違いを生み出したともいえる。障害者運動の先駆者がどれほど苦労したことであろうか?

自立生活の意味――大谷のコメント(4)

 こうして八幡さんと藤原さんの文章には表現の違いには、価値観の相違がありそうだ。 親元から、自立するのが最大の目標となっている西宮の自立障害者たちと、そうは言っても(自立の価値観を分かるだけに)、やはりその他の人々にとって無理なものは無理だとする現実的対応のその他の人々と違いがあると思う。

 こうして同じ在宅でも親元からの自立することの意味を問うていると思えば、障害者自身が積極的に自立生活センターに関わっていく必要性をめぐる価値観の差ともなる。社会的規制が東北地方ではそれだけ厳しいのだろうと言う表現で済ませたい。

 なんとなれば、両者は自立生活センターという場の運営に障害者自らがかかわっていくことまでは否定していないと思う。障害者が動いて初めて障害者の選択権が生じると判断しているのだから。介助と言う表現は別として。

救助をボランティアに依存することの限界――大谷のコメント(5)

 藤原さんの文章には冷たい感じがするかも知れない。とくに「自立生活を拡げる社会づくりを実現しよう」を読むと、感じるかも知れない。災害にあった人たちが自ら岩手県のバリアフリーを実現する方向で進む必要性を述べているからだ。

 やっとのことで地元に支援体制を作っても、運営に携わる人たちで日本の在宅(自立)の歴史を作り出す。実際に役にたったと思う人はその地域に居住する人であり、ボランティア(よそ者)ではない。

 本文に書いてある「限界」と言うよりも、実際に運営するのは地元の障害者自身である。障害者への理解が岩手県全体に広めていくということには、住んでいない者はかかわれないからだ。

このページの目次へ Top page へ戻ります。
2011.11.05

障害者の一般就労の拡大

――「(株)きると」の試みと関係者の人たちの意図――

これも転載である。大阪府吹田市に本拠を置いている社会福祉法人「ぷくぷくの会」が編集・発行している『まねき猫通信』(第111ぴきめ、2011年10月1日)に「障害者の一般就労に向け会社設立−−10月から社員募集開始−−」として(なお「障がい者」という表現が使われているが、以下の本文では「障害者」を使う−−大谷注)「(株)きると(豊中伊丹スリーR・センター−−大谷注)」の中村知社長と入部正也統括部長の話が掲載されている。ご両人と会社「(株)きると」の了解を取っているのでここに転載する。この機関誌の紹介をすることになる。この号の2面から3面にかけて障害者雇用関係の記事があり、4面には「当事者リレーエッセイ」が連載され、視覚障害である三原さんが大阪ステーションシティがバリアフリーであるかどうかを調べている記事もある。給食委員会の「食べものあれこれ」もあり、5面には石塚さんの新聞の作り方講座があり、かんこさんの映画の紹介があり、6面では高畠さんの「吹田の生き物」があり、架空になっているがある市長をめぐる議会内でのやり取りが連載で記録されている。最後のページには「石けんライフのすすめ」とあり、専門家はその都度評価を変えているという話がきている。連載だが、まとめて読まなくてもよいように書いてある。ぜひ一度手にとって読まれると雑誌と言う性格もあるなど、読むと面白いもの知りになれる。「 以下全文を転載する。最後に私が読んだ感想をコメントという形で記述する。なお、フリカナは省略した。

リード部分から−−編集部がつけたもの

来年(2012年−−大谷注)4月、プラスチック容器やペットボトル・缶類など資源化物の選別作業を行なう知的障害者(知的「障がい者」が文章では使用されているが、転載した文章では「障害者」に統一する−−大谷注)の一般就労の場が始動。今年(2011年−−大谷注)10月にはいよいよ一般募集に向けた就職説明会も開かれます。(株)きるとは、豊中市伊丹市の支援を受けて今後、「豊中伊丹スリーR・センター」の分別作業を行なう知的障害者30人の採用や実習訓練を行い、さらに障害者が働く組織として、障害者の自立と就労意識・就労機会の拡大をめざします。「(株)きると」と社長の中村知さん、事業統括部長の入部正也さんにお話を聞きました。(文責・編集部)

新会社が障害者の一般就労に拘る理由

質問:「(株)きると」を設立した目標と経緯をお尋ねする(このように質問の形式を採用した−−大谷注)。

中村 知「きると」社長(以下中村という−−大谷注):毎日行きたくなる会社。ボーナスが出る会社が目標です。社名の「きると」には、「繋ぎあわせて創作・表現する」という願いが込められています。障害者の働く場を創出し、就労意識の向上と自立を実践できる事業体となることが基本理念です。

障害者が自立するための基礎となる「雇用の場」の確保は、非常に厳しいのが実情です。そんななか私たちは、豊中市と伊丹市の福祉・労働担当部局と連携して、知的障害者の一般就労の場づくりを進めてきました。

質問:一般就労に拘る理由や何故ですか。

入部正也統括部長(以下入部という−−大谷注):一般就労にこだわるのは、福祉的就労と違い労働基準法が適用されるからです。最低賃金以上の給料が保障され、社会保険や賞与・年次有給休暇もある労働です。それゆえ作業効率が求められ、しっかり利益を生み出す働き方をしなければなりません。

また、親や周りから言われてではなく、自分自身の中に働く意欲があり、職場の仲間とコミュニケーションできる社会性が大切です。少々しんどくても頑張ろうとする姿勢や、職場の仲間と仲良く挨拶し、報告・連絡・相談ができる能力が大切だと思います。

豊中市・伊丹市における障害者雇用の実態

質問:「スリーR・センター」の試みと設立をお聞きしたい。

入部:障害者雇用の場を作っていくための取り組みは、2007年の「障害者雇用検討委員会」で決められました。(なお「きると社」に付けられている<スリーR>とは、いまさら言うまでもないことであるが、<Reduce(日本語では減らす・発生抑制)>、<「Reuse (邦語では、繰り返し使う・再使用)>となるが、最後は有名であり< Recycle (再資源化・再生利用と訳している)>を意味するという資源節約の関係用語である)。

豊中・伊丹市が共同で運営するゴミ処理施設=クリーンランドが、30年を過ぎて老朽化し、新炉の建設構想(2002年)がもちあがったのがきっかけです。2000年には「障害者雇用の実態調査」が行われ、障害者雇用が進んでいない実態が明らかになったという背景もあります。

2007年に発表された新炉建設計画で、公設民営方式(行政が建設し民間会社が運営する−−原注)による実施が決定され、計画の一部として「障害者一般就労の場の確保」が盛り込まれました。新炉の建設・運営事業を落札した日立造船グループは、SPC(特別目的事業会社)を設立し、事業計画に盛り込まれた障害者雇用のための事業運営について検討を始めました。

雇用形式については、3つの案(<1>直接雇用方式<2>運営会社の構成員方式<3>独立方式−−原注)が提出され、行政・障害者団体・SPC代表が話し合った結果、<3>独立方式が採用されました。

独立方式のメリット・デメリットによる障害者雇用の維持など

質問:株式会社にした理由と危険性は何があるのでしょう。

中村:独立方式は、障害者への十分な配慮が期待できることや、将来の就労拡大などの取り組みを継続することができるというメリットがある反面、請負契約となるので、事業の安定性が確保されず、最悪の場合、倒産する場合もあり得ます。

結局、両市の福祉団体が中心となって株式会社を設立し、SPCと委託契約を結んだうえで、業務を行うという独立方式を選択しました。

NPO法人や社会福祉法人ではなく、株式会社にした理由は、福祉ではなく一般就労の場として自立・運営していく意気込みと覚悟です。株式会社は、利益を追求する組織なので、原則として行政からの支援は受けられません。会社が自立的に維持・発展するよう、役員を中心にスピード感をもって意思決定し、機動力をもって業務改善を行い、新たな分野も開拓していきます。

知的障害者の仕事内容

質問:仕事はどのようなことか具体的に教えて欲しい。

入部:「(株)きると」は、今年(2011年−−大谷注)3月に設立されました。30名の知的障害者を雇って、スリーR・センターで、6本の資源化分別ラインを請け負います。

プラスチック選別ライン=4本、缶の選別ライン=1本、ペットボトル選別=1本です。知的障害者30名は6人で1班のチームを作ってもらい(合計5班−−原注)、それぞれ資源化物の選別作業を行ないます。

運営会社であるSPCと年間10700万円(予定額)の請負契約を結びました。契約は、20年間継続されます。

作業能率よりもコミュニケーションや仕事をする目標が大切

質問:先進事例を実習に行かれたそうですね。

入部:伊丹・豊中両市による障害者雇用創出は、初めての試みなので、各地の先進事例の見学にも行きました。関係者が訪問した「エコパークあぼし」では、20名の知的障害者が、プラスチック・ペットボトル・紙パックの手選別業務を担っています。

ビン選別ラインは、破砕されたガラス瓶から金属・プラスチック栓・ラベル・汚損瓶を除去する仕事です。危険性が高く、相当なスピードでした。プラスチック選別ラインも汚損物や金属を除去しますが、純度が90%以下だと納入先から返品されるそうで、高い作業効率が求められます。

その他、神戸市、寝屋川市、宇治市などに見学・実習に行きました。ここで学んだことは2点です。一つは、作業をする障害者に求められるのは、作業遂行力よりも社会性や意欲です。時間内に作業をこなす作業能力だけを重視すると、障害の軽い人が有利ですが、作業態度に緊張感があり、サボらず、チームとして補い合うための挨拶やコミュニケーションが、長い目で見ると大切です。

就労意欲も大切です。「親に言われたから」というのでは長続きしないし、踏ん張りがききません。「自立生活をしたい」というようなはっきりとした目標をもっている人が長続きすると思いますし、そうした人を求めています。

採用までの段取り

質問:会社でも求人募集や試験を行うのでしょうか。

入部:ハローワークを通して求人募集し、両市と連携している支援学校・福祉施設・作業所などで事業説明会を行います。月〜金の週5日労働で月給=13万円。時給に換算すると800円を超えるはずです。各種社会保険もあります。

11月に面接試験、12月に実技試験を行って、年末までに内定を出します。雇用開始が、12名(1月−−原注)13名(2月−−原注)5名(4月−−原注)の3段階になるのは、一度に全員の作業訓練をするのは困難なためです。先に訓練を受けた人がリーダーとなって、新人に作業内容や手順を教え、チームワークを作って欲しいと思っています。

質問:「(株)きると」社にとって今後の目標はどのようなことですか。

中村:手作業による資源選別は、技術革新によってなくなる可能性もあります。そうした未来も見越しておかねばなりません。分別業務が軌道に乗れば、今後は、(1)収益を見込める新たな事業を開拓し、(2)障害者雇用を通じた企業支援事業も立ち上げたいと考えています。障害者のもつ働く力について情報発信し、雇用の拡大に貢献したいと願っています。 以上が両名のインタビュウである。

一般雇用が求められている−−大谷のコメント(1)

障害者が働く場合働くことは同じであるが、民間企業(全従業員の1.8%)の目標を実現する企業を「一般就労」という。あえて作業所・授産所などでする仕事(労働)を「福祉的就労」という。

上記の本文にもあるように「福祉的就労」は労働者として扱われないで、当たり前に働いているが労働基準法や社会保険も適用されない。最低賃金法(「賃金」とは呼ばずに「工賃」という)の規定も最初から除外されている。

障害者雇用について箕面が行っている新しい方式で「社会的事業所」という選択肢は採用しなかったようだ。福祉的就労に相当する施設建設ではなくて、社会福祉法人を拒否し、株式会社を選ぶようになる。それを避けたのは当然だ。施設に依頼することを「家にいるよりはマシだ」という意識を親が感じているのではないとしても。

障害者を当たり前に見る視点−−大谷のコメント(2)

豊中市は公契約ではないが、行政委託事業に際して障害者雇用に抜きんでた事業所に高い点を付けるなど総合評価一般競争入札も行っているが、障害者雇用の分野では大阪府内で先頭グループに属していると見てよい。障害者や被差別部落出身者など就労困難者の働く支援をする労働行政でも「地域就労支援事業」も行っていることも評価してよい。

福祉分野で自治体ではもっぱら行われてきたが、豊中市はどちらかいうと入所施設の福祉よりも町づくりに力を入れてきた。外出をする障害者が多いと、雇用の分野でも障害者雇用を求める力が強くなるという。

全体として自治体の労働行政に力を入れている。障害児についても「統合教育」といい、地元の学校に入れるようにしているなど、今で言う「インクルーシブ教育」にも力を入れていた。

地元も障害者を受け入れる条件は整っている。その延長かと思われるが、自治体で障害者を採用している経験は長いし、障害者(女性)が市会議員になったこともある。

将来の地域の雇用拡大に貢献する−−大谷のコメント(3)

30名に月額13万円で始まったが、いずれ人手不足は充足されると見てよい。市民は障害者が働いて13万円も企業が成り立つのかどうかを見ている段階であろう。障害者が多く集まることによって、仕事の拡大が求められる時代が来ると思う。

そのために「(株)きると」では、手選別から全自動n選別に備えているというからたのもしい。昔の技術を大事にすることも必要だが、新しい技術を身に付けることにも、飛び込んで欲しい。その際、経誰かが知っているだけではなくて経営ノウハウも身に付けて欲しい。

もし成功すれば、「(株)きると」が優秀な人材を集めすぎて、障害者も労働条件に満足して他に出て行かないとすれば、地域に障害者雇用は拡がらないだろう。むしろこの場合も株式会社が経営難になり、豊中のこの会社から障害者が出て行けば、豊中ほど障害者が出ていない他の地域にも飛び火すれば、地域のためには良いと思える。

ちょうどカリフォルニアのバークレー市生まれであったCILのアメリカ全土への分散を思い出す。そのためには自立生活ノウハウを身につけていることがどこに行っても役に立つと同様に。経営ノウハウが活きるだろう。

このページの目次へ Top page へ戻ります。
2011.11.03

知的障害者の支援方法における「たんのわ」で経験したこと

――話をじっくりとすることでトラブルへの対処――

 これも転載である。社会福祉法人「全電通近畿社会福祉事業団」が発行している「愛&ハート」(第194号、2011年10月10日)に原題が「通所部での支援方法について」という「工房たんのわスタッフ」中野典亮さんの記事がある。工房「たんのわ」の通所部に属している知的障害者の様々な特徴について、一緒になって騒ぐのではなくて、その特徴について穏やかに書いている記事を読んで転載したいと思ったので、承諾をとっているのでここに転載する。最後に私が読んだ感想をコメントという形で付け加える。以下が中野さんの原文である。

多様な個性をもった人の集団の豊かさ

 愛の家には色々な個性をもった利用者の方がいますが、私の所属する通所部(工房たんのわ)の利用者も、実に個性豊かでユニークな方が揃っています。それぞれのもつ特性から、中には自己アーピルが苦手で物静かな方がいたり、逆に自分の気持ちを必死に伝えようとするアーピルが強い方がいたりと、本当に様々です。

 そんな方たちですから、それぞれの個性がぶつかり合い、朝の通所時の送迎車の中から始まって、作業が終わって帰りの送迎が終わるまで、毎日それはそれは賑やかに過ごしています。あちらこちらから我も我もと話が飛び交うわけですから、通所部に配置されたスタッフや支援員は、同時に何人もの利用者の方の話を聞かなければいけないこともよくあります。

 また、利用者の皆さんは、日々取り組んでいる作業についてもそれぞれが色々な考え方をもっています。将来的に一般就労をめざしている方もいれば、具体的にそこまで考えられていない方もいます。

一人一人の大きな違いがある意識

 毎日皆で一緒に力を合わせて頑張っている作業に関しても、一人ひとりの意識に大きな違いがあるのです。そんな中で、私たちは利用者の方の特性にマッチした作業提供を考えて、より充実した日中活動が行なえるように支援していきます。

 また作業だけではなく、例えば喫茶タイムで、コーヒーや紅茶を作ったり他の人の分も入れてあげたりということを利用者の方が自分たちでして、それぞれの役割を自覚し。一緒に働く仲間の一員としての意識をもってもらえるような支援も心がけています。

 それでもその時のコンディションによって、なかなか集中して作業に取り組めない方がいたりもしますし、ふとしことで、こだわってしまったり気になってしまって、他の人とのトラブルになったり、コンディションを崩してしまう方が出たりすることがあります。

じっくり話をする時間をとる

 そんな時は、全体的な支援を視野に入れつつも、できるだけじっくりと話をする時間をとり、話ができる環境を作って、その方の声を聞くようにしています。時には、内容がぎくしゃくしてつじつまが合わないこともあります。

 こちらの声が届かないこともあります。それでも、とにかく話を聞くことを心がけています。利用者間でのトラブルがあった時なども同様に、それぞれの特性を考慮した上で双方が納得できるように話を聞きます。

 こちらからの言葉ひとつで伝わる時とそうでない時があり、失敗することもあります。それでも、一人ひとりの個性を尊重し、これからもそれぞれの方に合わせた関わり方をして、それぞれの方に合った作業を考え、より充実した日中の場を提供していけたらと思っています。以上が「工房たんのわスタッフ 中野 典亮」さんが書いた全文である。

送迎の車中で当たり前の会話――大谷のコメント(1)

 多くの人たちがいると集団でいると目立つものだ。多く集まっているのが子どもや若者であれば、見知らぬ人の子どもや若者への反感も募るというわけだ。

 大学生たちの口が閉じる時がない騒がしさと同じだ。私が今勤めている大学でも、下校時に乗り合わせたバスで、運転手が「静かにしてください」と同級生たち(あるいは同じサークルの人々かも)の互いに交わす叫び声に対して、声をからすほどのうるささである。

 知的障害者が乗り合わせているだけの違いだ。そこで展開されている様子は、緊張を強いられる仕事(学業)が終わった開放感に溢れるだけで何ら変わりがないといえよう。

 同じ仕事をしている場所の同じ車であるということを除外すればということは、多分乗り合いバスなどで見知らぬ乗客と一緒にいれば、多少は落ち着いているという違いはあるにしても。それでも騒がしいのだから。

 知的障害者も障害者をもっていない人と同じ事をしている。作業をしている障害者に特有な違いはないはずだ。私が書きたかったことでもある。

話すとさまざまなことが分かる――大谷のコメント(2)

 多様な人々とじっくりと話を聞く機会があるだろうか。障害を持っている人だけに与えられる特権だろうか?なぜなら、今大企業で働いている人たちも、じっくりと仕事のことなど話をしたいと思っているだろうから。

 職場の様子や現場での与えられた仕事について、私はこう思うのだがということを聞いてほしがっているのではないか?なんとなく、恥ずかしさばかりが表面にでて率直に話ができにくいという現象はあるだろう。それと比べると障害を持っている人がうらやましくなってくる。

 実はそうした決め細やかさが誰にとっても必要なのである。それが組合活動にまで発展するだろう。横道にそれて組合の話にも飛んだ。元々事業団は、全電通近畿(今はNTT西日本労働組合か)の運動として始まった知的障害者達の場である。まんざら的外れでもないだろう。

このページの目次へ
Top page へ戻ります。
2011.10.24

障害児共同保育の試みに対して個別支援が流行する社会

――どんな障害児でも地域で子どもたちと共に生きる経験が重要――

 これもいつもの転載である。障害児共同保育を実践されてきた社会福祉法人「路交館」広報部が発行している「あいどる」(第119号、2011年10月)にはいつもお世話になっている。第119号の表紙には「聖愛園」と「北丘聖愛園」「豊新聖愛園」の「敬老の日のつどい」が写真入りで掲載されているなど、同一の社会福祉法人に加わっている各施設の子どもたちが写真で写っている行事の姿が多く見られる。楽しみながら巻頭の枝本信一郎さんの原題「支援における専門性とは」と題した記字を読むと、共同保育について忘れかけていたことを思い出してハッとする。執筆者からの承諾を頂いたので、ここに全文を掲載する。最後に私が読んだ感想をコメントという形で記す。以下は枝本さんの文章である。

個人を支援する流行

 近年特に、保育や教育、障がい児者(枝本さんはこの用語を使用しているが、私は従来どおり「障害者」という。以下同じ――大谷注)の分野において、一人一人の実態や願いに即した保育・教育、支援(以下「保育等」――原注)の必要性が強調され、個別カリキュラムや個別支援計画によって保育等を行なうべきとされている。そして、そのためにもと専門性が強調される。

 これは誰しも否定しようがなく正しい。利用者(子どもや障害児者――原注)をひとくくりにして保育等を実施すると、一人一人の様々な「違い」=個性が捨て去られ、「みんな一緒」がむやみに強調され、一人一人の持つ魅力や「面白さ」が殺されてしまう。また、保育等を、高い専門的な識見を持って行なうよう努めるべきはいうまでもない。

趣旨と違う「個別性」や「専門性」

 が、これら「個別性」や「専門性」が強調されるあまり、元来それが言われた趣旨とは異なり、保育士や教師、支援者(以下「保育士等」――原注)の側がそれに拘泥し、個別的な発達課題の達成ばかりを目的化し、そのための知識やスキルとしての専門性ばかりを追い求める結果になっているのではなかろうか?

 言い換えると、人は人々の中で生き、その中で自らの生きる力を獲得し、明日を生きようとしている存在であることが、ともすると忘れられているのではなかろうか?実際の保育等の現場で利用者は、何人かのクラスやグループ・班として集められ、そこで日常の取組みが行なわれる。

 が、往々にして群れ集い共に行き合っている現実がないがしろにされ、時間帯毎に特定の利用者を取り出して個別指導することのみが、個別に即した保育等であるとされ、そのための知識やスキルが専門性とされているのではないだろうか?

支援の「個別性」や「専門性」を掲げながら分離に向かう道

 そしてその結果、元来あった利用者の群れは勝手バラバラなままとされ、あるいはそれでは(支援者の側が――原注)やりにくいからと、一斉に、みんな一緒に、のみが強調されてしまうことになる。

 これでは、人が生きていくのに最も根源的に必要な、他人と生き合う力、他人に学ぶ力は育ちようがない。

 もう一回り以上の昔の話になるが、主に学校教育の場で障害を持つ子を持たない子から分離して保育・教育することが当然とされ、それがほとんど強制されていた。

障害児共同保育の実践による小学校との対立

 そのような中で、共に生き、共に学ぶことを大切に考える教師・保育士(当時は保母と呼ばれていた――原注)が、どんなに重い障害を持っていても共に生き、学ぶことが出来るし、そのための場が保障される権利を持っていることを主張し、そのような実践を着実に積み上げていた。

 聖愛園もそのような考えから「障害」児共同保育の実践を積み上げ、聖愛園で培ってきた子どもたちの仲間意識を小学校での教育に引き継ごうと、どんなに重い障害を持っていても地域の小学校に入学し、共に学ぶことが保障されるよう求めていた。

 「障害」児共同保育の具体的な実践と成果を根拠にした「共に・・・」を求める聖愛園の主張に対して、それは出来ない・そうするべきではないとして主張されてきたのが、個別性(最近は障害特性と言われたりもしているが・・・―-原注)に即した教育が必要であり、専門家がその必要を判断しているのだから、それに従うべきという主張であった。

 このようなことから、卒園障害児の就学先を巡って、学校側とシビアな対立をしたことも少なくなかったのである。

分離教育は「個別性」や「専門性」を錦の御旗として進められた

 その後、相変わらず「個別性」に即した「専門的」教育・訓練ということで分離教育が進められているのだが、少なくとも小学校段階では強制的に、あるいはあからさまに分離を進めることは少なくなり、保護者が希望しさえすれば、大方の場合仲間と共に学ぶことが出来るようになり、少なくとも就学時に障害児の保護者とそれを支援する聖愛園が、小学校側とシビアに対立するようなことは少なくなった。

 が、それでもなお、「個別性」や「専門性」を錦の御旗にして、分離(養護学級・養護学校への移籍)を進めることは執拗に繰り返され、小学校高学年のころになると、これに取り込まれて移籍させられてしまうことがある。

 聖愛園の卒園児にしてそうなのだから、障害児の保護者の多くがこの錦の御旗による宣伝に取り込まれ、養護学級や養護学校(現在は特別支援学級・特別支援学校と呼ばれているが、その本質は変わっていない――原注)が大繁盛する状況を生み出しているように見える。

聖愛園の保育士までが「専門家」という時代にあって

 近年、インクルーシブ教育を分離教育推進の文科省さえ標榜するようになった。インクルーシブ教育とは、 包括教育と訳され、障害を持つかどうかに限らず、様々な違いを持つ多様な子どもを包み込むように教育するべきだとする考え方で、今や教育の世界では世界の標準になっており、障害者権利条約もこの考え方を基本においている。

 インクルーシブ教育という考え方が、今後のあるべき方向であることには全く異議はない。が、文科省は「一人一人の個別性を大切にした教育」を強調し過ぎているような気がしてならない。一人一人を大切にという誰しも反対しようがない言葉でいわれるだけに、親や教師も、市民も取り込まれてしまいそうである。知らず、知らずのうちに取り込まれていると言った方が正確なのかもしれない。

 「個別性」と「専門性」の言葉を武器に強力に分離が進められていた時代、それに抗して「ともに・・・」を追い求めていた聖愛園の保育士が、「私たちは、他人と人をつなぐ専門家です」と語った意味における専門性を、今改めて思い起こすべき時なのではなかろうか。以上が枝本信一郎さんの全文である。

分離に向う危険性を重視――大谷のコメント(1)

 障害児とともに歩んだ文章を枝本さんがお書きになった理由が分かる。枝本さんがこの文章を書かれたのは、聖愛園が「共に」を掲げて「個別性」と「専門家」と戦ってこられた共同保育の歴史を語ることが貴重である、と思ったから、転載をお願いした。

 個別的専門的支援は文中にもあるように、全く正しいが、それは「分離」への道ではない。あるいは「個別性」や「専門性」が「知らず、知らずのうちに分離に取り込まれている」という危機感は現実の姿になっている。その批判理由は日本風に解釈された「共に」という声を正当に表現しているし、誰もが反対できないからである。正論だからである。

 どうも保育・教育の「専門家」を養成する立場になると、専門性を身に帯びたくなるものようである。別の職種の「専門家」と専門性を競うような側面もあるだろう。

 あるいは、「共に」の日本風の解釈と合わせて、分離の教育には「個別性」「専門性」が復活することを準備していたとも解釈できる。過大評価過ぎるだろう。そこまでは準備していないとしても。何しろ聖愛園の保育士も「専門家」というほどだから。

日本風の解釈を許した「共に派」――大谷のコメント(2)

 ここで日本風の解釈になった「共に派」は「共に」を「みんな一緒」と解釈したものを言うと思ってよい。私たちが国連の文献から引っ張ってきた「ノーマライゼーション」も同じように日本風に解釈された。北欧では違いは違いとして人の権利は平等に扱われていたと思う。

 もともと、異なる存在する権利を認めようと「ノーマライゼーション」と日本に採用してきたが、日本風に「みんな一緒」とされれば「みんな」の中には、それぞれが異なる行動様式や発想を認める権利を尊重するが、日本の人々にはどうも「権利」論は根付かないようだと愚痴をこぼしたことがあった。

 日本では同じ行動をとる人が「みんな」に属しているだけで、そこで言う「みんな」と少しでも異なると「変な奴」としてしか受け取られないだろう。たぶん、保育等の現場では「魅力」や「面白さ」は文中にあるように「殺されてしまう」ようだ。

その反省からでた「個別性」――大谷のコメント(3)

 むしろ、ちょうど比較の方法に適しているとして、共通性を土台にして個々の差を論じる方法があった。個人に対して「共に」を行なうことによって個人間には共通の土台があり、その子が持っている個性に応じて支援すべきであると「個別性」の論理を立てたつもりである。

 それが同時に「専門家」の指導(パターナリズム)の支配の必要性をなくす方向に進むと信じたからである。それぞれ個性が異なることが画一的な指導の必要性をなくすとして。

 サッカーの例を挙げて話したこともあった。熱心なサポーターは(所詮アマであるから)プロのピッチに立てない例えを引き、指導というより支援という言葉を支持した。

共同保育の歴史的な歩み――大谷のコメント(4)

 最初に「個別」に触れたときに私が感じたことは専門家が支配していると言われるアメリカの流行を追わなくても良いではないかと反発した。ピア・カウンセリングも専門家を尊敬する風潮の中で成立したという独断を曳きずりながら思った。

 最近、勉強してみて分かったことは、アメリカには「人種のサラダ・ボウル」といわれるくらい、多くの人種が集まっている。中には英語が全く出来ない人もいるほどだ。しかも、戦争犠牲者は低所得者の障害者であるし、非白人の障害者も多いという。

 それを「みんな」とは扱えないほど多種多様である。だから「個人個々」に対応せざるを得ない。それで「個別カリキュラム」や「個別支援計画」などは生まれたという話だ。

共に戦線で戦うことが支援より役に立つ――大谷のコメント(5)

 最近は「支援」よりも(今時では珍しいが)「戦う」のが好きだ。障害者・外国人は「社会的排除」に対して「支援」で済まない場合は、どうするであろうか。

 まして、枝本さんも書いていられるように「人は群れ集う共に生き合っている」存在である。個別に取り出して(抽出という)、発達課題を指導するだけではなりたたないはずだ。

 とすれば社会の中で「自らの生きる力を獲得」する必要がある。そのためにも障害者・外国人等が「社会から排除」される傾向にあるときは、共に戦うという立場に立たざるを得ないだろう。その戦いが聖愛園の戦いを引き継ぐはずだ。

このページの目次へ
Top page へ戻ります。
2011.10.14

虐待防止法が成立したが

――「虐待」を個人的に見る見方――

 この文章は、『国際障害者年を機に「障害」者の完全参加と自立をめざす豊中市民会議』(略称「豊中市民会議」、事務局は「NPO法人サポネ」におき、メールはCQT01523@nifty.com)の機関誌『夢のひきだし』(第12号、2011年10月)に掲載された原題「障害者虐待防止法について」と題する文章である。そのまま転載する。原文章にはなかった中見出しを追加した。ふりがなは取り除いた。会員募集も行なっている。

虐待防止法の制定

 2011年(平成23年)6月15日に、衆参の両院で「障害者虐待防止法」が全会一致で可決し、成立した。いわゆる「障害者虐待防止法」と称し(正式名称は「障害者虐待防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律」という)、予想よりも障害者団体の無視により「虐待防止法」については、評価が低かった。

 成立した障害者関係法律であるが、無視したといえる。多くの国会議員では障害者の虐待という事件については議会で成立を重視した。国会の議員とは障害者市民は、今こうした取り組みではないという判断したと思う。

 障害者の多くが市民として日常生活をしていく中で得られた認識は、多くの国会議員よりも市民社会に対する日常感覚がどうも違っているようである。突飛だけど、国会議員の多くの方が「自分のことは自分ですべきだ」「人生に失敗があってもこれに対応すべきだ」というか「他人に頼ることはよくないことだ」として今の市民社会に根強くある「自己責任論」を重視しているように思える。

 この「障害者虐待防止法」法律というのは、立法の目的にもあるように「障害者に対する虐待が障害者の尊厳を害するもの」として「障害者の尊厳」を尊重するためには「虐待」の防止を図る以外に方法はないと判断したことだろう。背景には「障害者の自立及び社会参加」という大目標にとって「障害者に対する虐待を防止することが極めて重要であること等に鑑み」という立場にたっている。

 その方法は社会において「障害者の自立と社会参加の方法」を直接に増進するという法律ではなくて、社会に「虐待」という加害行為があるから「障害者の自立と社会参加」という受身的立場に立たされている。

虐待を個人的に見る見方

 さらに「障害者虐待」を、親や家族の責任だけによる責任(成立した法には「養護者」としている)と障害者を「被害者」に止める立場など、障害者を単に「被害者」ととらえるなど個人的な視点で「虐待」を考えている。だから、市民も「虐待」を防止するのには市民としての責務が分かりにくいのだ。

 障害者への「虐待」は家庭内での親や家族などの「養護者」(法律の言葉)による「障害者虐待」だけに留まらず、障害者福祉施策では従事者等による施設における障害者虐待、さらには使用者による企業における障害者虐待にまで多方面に対象者(加害者)が及んでいる。

 また、加害者が明確であり障害者に対する虐待事件が著しく見られるということから「虐待」を防止する法律を作ったようだ。この法律による「虐待」への対処方法も、国や自治体は、虐待を受けたと思われる障害者を発見した場合は、市民に「速やかに」市町村に通報する義務があり、市町村は障害者の居所に立ち入ることができると規定している。

 立ち入りを拒む場合には罰則が適用される。いわば、個人的な「虐待=悪」という図式にのっとり「治安維持策」優先の構造は先にも成立した「高齢者虐待防止法」にも共通する規定である。

 すでに親や養護者に虐待を受けたという障害者自身の訴えとか、使用者に虐待を受けた障害者の事例に対しては、「障害者虐待防止法」を待つまでもなく、現在の刑法でも処罰されるべきであろう。障害者とか高齢者などの違いはないだろう。この法律は個人的な視点に立つとはいえ、たしかに「虐待の被害者」が障害者に多い現状があるとするなら、障害者の被害状況について放置するのはよくない。

 ただし、法律や警察官あるいは裁判官に障害者の現状を理解できれば、多くの障害者は被害者側を脱することができると思う(なぜ一般の刑法で取り扱わなかったのかという疑問がある)。また、障害者「「虐待」は「被害」にあいやすい障害者側だけが考えてある。それも限界がある理由だ。

加害者も虐待の対象だ

 公正に自分の置かれた現状を分かってもらうだけの取締り過程の明確化と裁判の過程で法務官僚に理解してもらうことを無視されているとすれば、そのことによる新しい「虐待の定義」に相当するはずだと思う。あえて一般市民社会で当たり前に受け入れることから除外される関係にあるから被害者というと同時に加害者にも「虐待」は生じると思うからである。

 その以前に可決した「障害者基本法」の改正案が考えられる際に、基本理念とされていた国連の「障害者の権利条約」においては、差別は「社会的な排除」から生じるという見方があったと思う。差別がある社会だから障害者への「虐待」が起こると考えることはできないか。

 その意味で社会的差別があるから「虐待」は発生するという社会的な視点を取り入れることはできないものだろうか?社会的排除の構造をなくすためには社会的排除には「ともに闘う」視点も含めて市民も地域で「共に生きる」として、障害者のおかれた構造を多少でも切り開くという長い付き合いを経験することが大切と思う。

社会的排除の構造と闘う関係

 こうして社会的経験を積み重ねている段階で、市民として互いに共通する課題に直面するはずである。通報という形で共に社会的改題に取り掛かっている市民間の切れ目をつくることはあるまい。通報すると本来獲得すべき共に差別をなくす同志的つながりを断ち切り、ますますこの社会は息苦しくなるだけだろう。

 法律に言われている障害者の世話が重い負担になるというが、ともに苦痛を耐える関係ではなくて、多少の負担(手がかかる度合い)は「お互い様」と了承し、市民の協力も成功する。一部の市民の負担だけが広がれば「なぜか」と意識し、多少の負担を一層切り詰めようと思うだろう。とすると一層ギスギスとした社会になってしまう。

地域で共に生きる関係

 地域で「共に生きる」ということは、互いに市民も不正してはいけないと理解する過程だ。正当な権利があるにもかかわらず、逆に冷たい社会になり「警察国家」になるだろう。障害者に対する「虐待」は一層法の目標から遠ざかり、「虐待」をする人も増えるであろう。

 さらに社会的にも他の市民も利用を抑制しているのだから、あるいは「不正」だから使う際には真に生活が貧困になり必要がある基準に達している人も放棄するなど、福祉のサービスを利用している人もますます減少すると思われる。それが政府の狙いである。

 社会保障の抑制を図ることが財政緊縮も含めて「小さな政府」になってしまう。市民同士が信頼し合えるおおらかな社会にならないものだろうか?自己責任論は「財政悪化の元」という理由で社会保障を切り詰められる方向にむかうのであろう。多くの人が自分の責任とされて落ちこぼれる。そこでセーフティネットがあるからそれで良いのではないかと、楽観的に考えることはできない。

 今の政府もそうした働きのあるセーフティネットを小さく圧縮しようと政策的にしている。多くの国会議員たちも、セーフティネットを縮めることで財政の膨張を防ぐことができると思っているであろう。

 障害者が社会的差別をなくしていく共通の視点にたつ市民の普段の付合いがより重要になるだろうと、一層社会保障の枠が狭まることを今回の「虐待防止法」を見て痛感したところである。

このページの目次へ
Top page へ戻ります。
2011.08.25

共に働くことのメリットを多少補足する

――NHK「福祉ネット」の取材を終わって――

 この記事も転載である。豊能障害者労働センターが企画・編集している『積木』(第226号、2011年8月5日)にそのグループの「福祉ショップ ゆっくり担当」北川恭子さんが「共に働くって?――NHK「福祉ネット」の取材を終えて――」と題される原稿をお書きになっている。副題にもあるようにNHKがテレビで放映した「福祉ネット」の取材を受けられてからの経緯を書かれている。NHKから再々放送ではあるが、2011年9月6日(火)の午後0:00分から0:29分の間に教育テレビで、大阪府箕面市の「社会的雇用」とあわせて放映される。なお2011年6月27日の朝日新聞紙上に豊能障害者労働センターで働く様子が掲載された。筆者である北川さんの了承を得たのでここに転載する。転載に当たっては、題名が付けられているが、私流に付けさせてもらった。また、原文には素敵な中見出しがあるが、その時の流れで私が自由につけた。最後に読んだ感想をコメントという形で付けることも了承いただいた。以下が北川さんの全文である。

 なお、積木は事務所以外にITを扱う他箕面市内に7つのお店を持っている。その一つの例には北川さんが働いている「ゆっくり」という「福祉ショップ」(ここで名称が「福祉」とあるが、「福祉」を掲げた唯一の例外だ。他は「リサイクルショップ○○」という)。なお、同誌にはいつも話を聞くだけで多いに影響をうける牧口一二さんの記事やバザーを通して東日本最震災で被災した障害者仲間、現地に行って被災した状況に改めてビックリしたという記事、さらには「被災地障がい者センターみやぎ」の代表の人が書かれている。どういう手段で原稿を入手したか聞きたい。いつも読んで興味深い記事が盛りだくさんある。

「豊能障害者労働センター」は担当者が回り持ちでマンネリを防ぐ

 来年(2012年)30周年を迎える豊能障害者労働センターは、障害者の働く権利を保障する箕面市独自の障害者事業所制度(たとえば箕面市障害者事業団の発行物を参照)」として助成を受けて、障害がある人とない人がともに運営を担い、事業を起こし、給料をつくりだす「社会的雇用」の場として、たくさんの方々のご理解と応援を頂き、今まで続けてくることができました。

 箕面市独自のこの助成を受けている障害者事業所が、NHKの「福祉ネット」で紹介されることとなり、福祉ショップ「ゆっくり」で働いているIさん(実名が記事にはあるが、あえてこうした――大谷注)も取材を受けるひとりとなりました。Iさんは、地元の中学校を卒業後、養護学校には行かず豊能障害者労働センターで働くことを選択して10年目を迎えました。

 2〜3年は事務所勤務で、その後、基盤は事務所に置きながら、週に1〜2回いくつかのお店の担当を続け、移動販売・機関誌発送作業・お弁当配達などいろいろな仕事を経験し3年ほど前から、事務所を離れて「ゆっくり」のみの担当になりました。(週1〜2回の「ゆっくり」の担当を含めると、すでに6〜7年目が経っています。)

撮影当日の苦労で新鮮な言葉

 NHKの取材を受けるに当たり、ディレクターさんからは、ともに働く「社会的雇用」の場を映像にするには、短時間の取材ではなかなか難しいこと、また、一般の視聴者の方々が観て理解しやすい映像にすることが大事だとおっしゃっていました。

 何日かに分けて数数時間、Iさんの仕事の様子をカメラが追い続けました。緊張の連続の中で、日常の仕事のことや「思い」を一生懸命に自分の言葉で伝えていました。

 その中で、彼女は「仕事はうれしい」と表現していました。とても新鮮で、素敵な言葉だと思いました。(映像として流れたのが数分だったのが残念です。)

レジの仕事に挑戦してきたさまざまな苦労

 Iさんは、当初から先輩の障害者スタッフの仕事をみていて、いろいろなことにチャレンジをしていました。その1つに、レジの仕事がありました。

 一般社会では、お金の勘定ができなければ、レジの仕事を担当することはありえません。

 彼女は、週1回の「ゆっくり」の担当になった時から、レジの前に立っていました。しかし、おつりを正確に渡すことができず、先輩の障害者スタッフに教えてもらっていました。丁寧に教えてくれるお客さんや、つり銭を出せない彼女に苛立つお客さんなど、楽しいこともつらいことも色々な経験をしていました。

 つり銭表を作ったり、レジに金額のシールを貼ったりと工夫し、また周りの人からのフォローを受けながら、彼女はあきらめることなくレジの仕事を続け、今でもお金の勘定を十分に理解しているとは言えませんが、2年ほど前からつり銭を間違えずに渡せるようになりました。

 何が「できる」のか「できない」のかを、決めつけることなく、経験をすることの大切さ、そして、何かを獲得していくには、人によって必要な時間が違うことなど、彼女と一緒に働くことで色々と気づかされました。

 放映されたのは、お金を健常者スタッフと一緒に数えるシーンに「Iさんは、お金の数え方を練習して、レジの仕事ができるようになりました」とナレーションが流れていました。その言葉は、事実と違うので残念に思いました。練習した結果ではなく、「社会的雇用の場」で働く現場を持ち、仕事を担って、様々な経験をすることで、彼女はレジの仕事を獲得することが出来たのだと思います。

どうしても視聴者は企業に「指示を受けて」働くこと(従属労働)に頼りがち

 日常に抱える様ざまな出来事や、常に葛藤する「働き方」を言葉にして伝えることはとても難しいことです。街に店を持つことで、人と人との接点をつくりだし、そこで生まれる差別や誤解を少しずつ理解の扉へとつなげていく、その日常が本当に大切だと思います。一般的に「視聴者が理解しやすい番組」をつくることは当然のことでありながら、疑問や批判がおこり摩擦が起きることも、新たな価値観の創造となり「ともに働き」「ともに生きる」ことの理解へとつながっていくものだと思います。

 労働センターには、様々な障害がある人が働いています。いろいろな働き方があり、工夫や智恵を必要とします。

 それは、「できる」ことを目的とせず、人とつながるプロセスを大事にしていくことだと思っています。そのことが、きっと私たちにとって生きる「力」になっていくはずです。

 Iさんがレジの仕事ができるようになったのは、「障害を克服」したわけではなく、彼女の「その仕事をやりたい!」という思いが、たくさんの人を彼女自身の渦の中に巻き込んで、「働くこと」を獲得していったものだと思います。

 今、Iさんは、働き始めたころのもじもじとしていた女の子ではなく、お客さんによく話しかけ、顔見知りの方をたくさんつくっています。そして、オムツ配達の準備で個数を間違えたり、配達先に迷ったりする私のフォローをしてくれるのが、Iさんです。ひとりひとりが、支えあう「たのもしい仲間」であることを実感するときです。以上が北川恭子さんの全文である。

Iさんも「できている」のは「ともに働く」仲間だから――大谷のコメント(1)

 北川恭子さんの文章に着目したのは彼女自身が付けた「決めつけず・あきらめず・気長に!」という中見出しにある。すでに現場で使われていた言葉かも知れないが、新しい「社会的雇用」のキャッチコピーが生まれたと私は受け止めた。障害のゆえに「これはできない」と決めつけることが多い企業における一般雇用に対して人材を浪費している傾向が強い。

 企業が解雇したら、その人は二度と復活できないというか、変化を気長に待てない。企業は多様性を持っている人材を使い捨てがちである。もっとも大量に労働力を使い捨てるのが、日本における派遣労働の多さである。

 これに対して「社会的雇用」では節約傾向といえよう。仲間と「共に働く」関係で、最初から「これしかできない」と能力を決めずに、北川さんも書いているように、彼女の「レジの仕事をしたい」という意欲があれば、共に働く中で支えることで、気長に待つことによって障害者の「力」に変えていくことができる。職場で共に働く関係が成り立っていると、そうした長期の習熟ができる。その意味では大企業に相応しい仕事の経験ではなくて、どちらかというと中小企業の訓練に対応しているとみることもできる。

 アメリカのNPOには各種の仕事があるが、保険を掛けているのはレジ係と聞いたことがある。レジ係が逃亡すると大損失になるからだと言っていた。他の国々でも一般の販売職よりも高いランクで支払われているそうだ。その関係では職場で重視されているように受け止めた。日本でもレジ係が高いランクで働いているかどうかについては日本の実情を知らない。

 日本のレジ係りは、使用する通貨が1種類(円)だけしかないと国内に多く、正確に「おつり」を返還できるかで能力を判断される。もし多様な通貨を扱うところで、細かいおつりを出す仕掛けになると、様相が一転するであろう

実際に働いてみて意欲が湧く――大谷のコメント(2)

 就職前からこの職場で「働きたい」という気持ちは健常者も無いが、障害者も実際に就職してからこの現場で気持ちが強まるとするのが普通だ。障害者にも自分がやって見たい仕事があると思う。

 それと対象的に仕事のうちには絶対やりたい仕事があるだろう。相対的なものだ。失業とは絶対にやりたくない仕事でもやらなければならないような状況をいう。失業ではなくて、自ら仕事をするために雇用された場合を、「福祉敵作業所」の業界用語で「福祉的就業」ということに定めてはいかが?

 自分がやりたい仕事についていることきにこそ、仕事を続けたいと願うことを持続するうちに、熱意が生まれるのである。最初から仕事の面白さや仕事への意欲が高まっているわけではない。

 障害者も仕事に就いている間に、その仕事の意味や重要性が分かって来るはずだ。はっきり言うと多くの障害者は仕事に就かないのにそもそも無理だといわれる場合が多いが、先ず仕事についてみて、その仕事が求める能力も分かるだろう。仕事に就いていないにもかかわらず、最初から無理だと言われる不合理について、だ。

 北川さんがお書きになっているように、一度企業に就職したら、その現場で「あきらめず・気長に」という長期の準備期間が必要となる。ここで「社会的雇用」の第二のメリットがある。かつては日本企業も長期にわたり育成してきたのであるが、1990年代からの最近にかけては民間企業の場合は「できる」のを待つという長期に育てるというより、すぐに解雇という場合が多い。

一方的に援助するだけでなく、互いにささえ合う関係――大谷のコメント(3)

 障害者だから援助するが、北川さんのいうように、健常者はそのことで気付くとある。障害児者と非障害児者と共に働くと、障害児者が一方的に支援を受けるだけではなくて非障害児者も双方に新しい発見があると言われる。お互いに不十分さや「そういえば同じような失敗をしたなぁ」と改めて気付くという。それがある種仕事をしていて楽しい発見にもつながる。

 健常者だから全部できるのではない(逆に障害者だからいつも失敗を繰り返すことはない)。逆に健常者だから期待されすぎて大きな失敗をする場合もある。障害者だからいつも失敗をしているかというと、逆にお客さんとの付き合いも上手く行くときもある。自信をつけるのであろう。

 その場合、お互い様だという関係がなりたつ余地(時間的な・空間的に)が必要だろう。そうした人間の面白みが働くことについて共通の意識を持っている人たちが「共に生きる」からである。あくまでも地域で「共に生きる」哲学なはずだ。

これまでの大企業経験者に多かった従来の労働観――大谷のコメント(4)

 マスコミでは評価が高いが、地域で「共に生きる」までを考えると、企業に雇われて働く方が、気が楽だ。ともに事業所の運営を行なうのは難しいことだ。

 だから、テレビを見ている視聴者にも分かるようにというディレクターさんからの指示は、新しい価値観を産む問い合わせもない。従来の方法が第1、気持ちが楽だ。

 経営者が「経営」問題を一方的に担当し、従業員は「指示仕事をする」ばかりという分業に馴染んだ方が、気が楽だろう。まして、企業のなかでは生産性に劣ると(固定観念から)見られているだけに、尚更であろう。

 従来の企業間競争の中で、人間の新しい可能性を発掘するという運営を考えていくのは、これまでの仕事で排除されていた人々にとっては面白い発見といえよう。今の社会にチャレンジする性格をもっている。

援助付き雇用を必要とする人は少数派――大谷のコメント(5)

 そうした企業を考えていくのは少数派であろう。とりあえず、仕事に自分ひとりではないというか、他人の援助を必要とする事を「社会的に支援する」ことが、この社会にもありうるのだという。誰にとっても「自立補助」が必要な認識を、さまざまな仕事を通して実感して欲しい。

 その意味では自立した労働(と考えられているように)に対して「社会的な補助する政策」が必要なことだろう。仕事の内容は「共に働く」ことから、その実態に迫ることまで進んでいるとしても、それをただちには問題として取り上げられない限界がある(企業の労使の間では共同経営決定法が取り上げられているにもかかわらず)。 労働関係法はどうあるべきか、賃金政策はどうあるべきかを含めて、政策論として現実には「共に働き・生きる」の枠組みを大切にするときであろう。

このページの目次へ
Top page へ戻ります。
2011.08.02

障害者虐待防止法よりも市民の自覚

――上からの視点よりも共に歩むことが大切――

 この記事も転載である。枚方市で仕事をしている「社会福祉法人であい共生舎」を運営し、障害者が使うために通所授産施設「ワークショップ虹」などを運営している。その機関紙「虹のかけ橋」(第170号、2011年8月2日)の巻頭に理事長の津田茂樹さんが「障害者虐待防止法が成立しました・・・が・・・」と題されて執筆されている。私の転載編集委員会と津田さんに、承諾してもらった。ここで取り上げる「虹のかけ橋」は、毎号写真が多くて読み応えがある。ぜひ手に取って読んで欲しい。

障害者虐待防止法が成立したが・・・

 (2011年)6月17日(金)に「障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律」(略称:障害者虐待防止法)が成立しました。この法律では「虐待に当たる具体的な行為」が示されるとともに、虐待を受けたと思われる障害者を発見した者に対して、「速やかに、これを市町村に通報しなければならない」とした「通報義務」が明記されました。

 障害者に対する虐待行為として「養護者がその養護する障害者について行う次に掲げる行為」として「・障害者の身体に外傷が生じ、若しくは生じるおそれのある暴行を加え、又は正当な理由なく障害者の身体を拘束すること。・障害者にわいせつな行為をすること又は障害者をしてわいせつな行為をさせること。・障害者に対する著しい暴言、著しく拒絶的な対応、障害者に著しい心理的外傷を与える言動を行なうこと。・障害者を衰弱させるような著しい減食又は長時間の放置、養護者以外の同居人による以上の行為と同様の行為の放置等養護を著しく怠ること。」が規定されている。

 さらに、養護者又は障害者の親族が「当該障害者の財産不当に処分することその他当該障害者から不当に財産上の利益を得ること。」も規定してある。また、障害者福祉施設や使用者も同様な規定がある(第二条の6項、7項、8項、一部省略)。

 これにより、市町村は障害者に危険のある時は、家庭への立ち入り調査が出来るともに警察への援助を求め、家庭側がこれを拒否すると罰金が科せられる・・・といった仕組みになります。来年(2012年)10月からの施行ですが、それまでに市町村は「障害者虐待防止センター」、都道府県は「障害者権利擁護センター」を設置することになりました。

 この法律制定の背景には、近年サングループ事件等々で見られるように、経営者側の知的障害者従業員への賃金不払い、年金・預貯金の横領・着服、強姦致傷、暴行等々・・・虐待というより知的障害者への犯罪があとを絶たない現状が多数ありました。

 又、施設だけでなく、わが子への考えられない犯罪も多数報道されました。このような事が、これからも起こるであろうと・・・そうならないために・・・となったしだいですが、・・・。

当たり前の生活を送るために人々ができること

 だけどこれで本当に大丈夫なの?と思っています。何かとてつもなく大切なものが欠落しているのでは・・・。虐待防止法がダメだということでは無いのですが、これはちょっと何か違うのでは・・・と思います。

 障害者と呼ばれている人たちを法律で守ることなのか、それに係わる人たちは法律が無ければ守れないのか・・・上記のような事件や施設側、親の怪しからん行為が表面に出るのは氷山の一角であると認識しています。それでも、やはり「ウーン」と感じてしまいます。

 わたし達は、日常の中で、障害者と呼ばれている人たちの「お世話」をしているわけでも「支援」をしている訳でもないと思うのです。ましては「自立生活への援助」なんておこがましい限りだと思っています。わたし達は、お互いの「人権」を「共有」するなかで、誰もが住みなれたところで、自分の望むスタイルにより近い生活をしたい・・・を一緒になって実現に近づけることだと思っています。

 今、わたし達に求められているのは、誰からも阻害されること無く、当たり前の生活を作っていく、その過程で起こる様々な社会的バリアーを一緒になって取り除くことではないかと思います。

 それには虐待防止法ではなくて、「人権・権利養護」意識をわたし達それぞれの中に確立していくことが求められています。いつまでも「・・・してあげる」という上からの目線ではなくて、「一緒に・・・」といった本物の共同視線が虐待防止法より先にあるべきだと思いますが・・・こんなこと言っていたら取り残されますかね・・・。

 以上が津田さんの文章である。

人々の分断を起こすことに役立つ最近の法律――大谷のコメント(1)

 本文の方で津田さんが言いたいことの半分も言い切れないので、私が大胆に言ってしまう。津田さんは知的障害者について、多くの悲惨な出来事を見てきたのだろう。そうだとすると犯罪でもあるので、どうしても大胆に言い切れないだろう。では、知的障害がある被害者を放置するかと言われれば、それも何となく肯定しにくい。

 しかし、知的障害者の多くは犯罪を起こしたという被害者の立場よりも、どうも犯罪者に仕立て上げられている加害者にされているようだ。確かに今の社会に受け入れられることは多くはあるまい。少ない情報でもって判断すると刑務所に入れられる、あるいは少なくとも、いるようであると思う(昔は施設、今は刑務所。どちらにも、社会の中から追いやられている)。

 通報義務を科すことは、おかしいと疑って思って人と人を不信感で見る事を進めてしまうとなる。あえて言えば「治安国家」とか「警察国家」になることだと思う。

 周りの人々の中で、お互いに尊重することとは逆行することに通じるようだ。社会を構成している人と人とをますます冷たくする方向に突き進むだけだ。障害者に対する虐待は人と人の関係が冷たくなった時に起こりうる。

労働条件が厳しすぎる――大谷のコメント(2)

 突如として「労働条件」の話が始まる。人と人のギスギスした様子は、人との豊かな付き合いによって癒されるはずだ。障害者虐待もそうしたゆとりのない生活から生まれてくるように思う。

 お互いの労働条件が生存ギリギリであれば、人権を尊重する面で、より能力がないと社会一般の固定観念で人に刃は向けられがちである。共に今の社会の切羽詰った関係を打破する為に、共に立ち上がろうという姿勢というか同志的関係が必要なことはあえて言うまでも無い。

 そのために要求を出せないことさえできない状態にされている現状が問題だ。それを打破して各々が自由に振舞える状態になってから障害者虐待防止法を待っても良かったと思う。

 いつまで待つのだと法律の推進者に言われそう。まさに根本的に考え直さないと虐待はなくならないと思う。津田さんの最後の言葉を借りると「こんなことを言っていたら取り残されるでしょう」ね。

このページの目次へ

バックナンバー


Top page へ戻ります。