この文章は『理想の里を夢見て一世紀 大津静夫』を編集担当した同編集委員会(吹田市佐井寺4−43―8 関大生協会館、同編集委員会気付け、電話06―6310―7023)に寄せたものである。密度が濃い本だと思うので、ぜひ読んでほしい。本文は第1部に他の方々の寄稿と並んで掲載された。
以下が私が書いた寄稿文の内容である。
いつも大津さんに頼っていた気がする。大津さんが笑いかけられながら一言二言話されると、ああそうかと改めてはっと気づくことが多かった。お前のいいたいことはわかる。そやけど、こういう政策がとられると、差別されている人々にとっては問題がきわめて深刻であることやそれによって引き起こされる混乱を、お前はあいまいに考えているぞと、指摘されたはずだが、語り口が何となく面白いのでアハハと笑ってしまい、それに気づかないことが多かった。
どうも私のことを「市民派」とか「中流主義」と見ていられたようだ。後になって、そうや、この点を抜かっていたな、と思い出したものだ。戦争直後の組合運動から生協運動や部落解放運動などのことも身をもって体験されたことだから、歴史本で知識をえただけの私には、えっ、ホンマかいなと思うときもあったが、さすがに現実に関わって、時の政策に対抗してこられただけに重みがあった。
ある研究集会でご一緒させてもらったときは、壇上から聴衆の行動を促すように歯切れのよい口調で話されていた。聞いている参加者も壇上の私や司会者も、皆シーンとして聞き入っていた。私どもとお話になるときのような、笑顔はそこにはなかった。でも、お話の内容はユーモアもあり、ピタッと鋭く政策の流れを明確にされて、今何が問題か、何をすべきかなど、すごい迫力があった。なるほどこういう風に話したらよいのだなぁと、実感した。そう、私は幸運なことに、大津さんとなぜか一緒に壇上に上がることが多かった。
ところが、あるとき、私が講師として呼ばれたときには、大津さんが受付の机のところにいらっしゃった。ヘエー、先生でも受付をされるのですか?と訊ねた。私は大津さんをいつも「先生」と呼んでいたのだ。そのときに、なんと答えられたかは、もう私の記憶にない。でも、にこやかな笑顔で迎えていただいたことを覚えている。初めての場で張り詰めていた私の気持ちが楽になった。
介護保険制度が始まるとき、こりゃ、不正が大々的に行なわれるぞ、と大津さんは警告されていた。当時は私は介護保険制度を進める市民運動の側にたっていた。だから、これで、少しでも社会は変わるんやと、私は主張していた。ところが、大津さんは別の視点で見ておられた。介護保険で不正受給が発覚するたびに、今でも大津さんの警告を、ああやっぱりおっしゃっていたとおりやと、しみじみ思い出す。
このページの目次へこの文章は、生活経済生活研究所が編集・発行している『生活経済政策』(第128号、2007年09月)に掲載されたものである。記事を書いたのは、2007年07月29日に行われた参議院選挙の直後と記憶している。やや古証文になるし、私としては時論を避けようとしてきたが、今回はあえてここに掲載する。
2007年07月29日の参議院選挙では、民主党系の議員数が大幅に増えた。社会的制度の運営についてあからさまなミスが明白になった。政府・与党などが推し進めてきた競争至上主義政策により、社会的制度に大きな歪がうまれ、社会を構成する人々に貧困が広がってきた。このままの方向で進んで良いのだろうか、立ち止まって見直そうという意識が強くなったといえる。将来への安定感が失われ、人と人との信頼感が崩壊した社会に対する警鐘であろうか。多様な人々が投票した積み重ねであり、主要な要因を断定はできない。
政府与党の失点が民主党の得点となったという見方もある。その見方に立つと、人々の価値観はあまり変わっていないことになる。私も「過剰な消費者意識」はそのままだと思う。
消費者として個々人が活動する方が全体主義よりも望ましいという意見もある。しかし、消費者主義は、滅私奉公には馴染みやすいのではないかと私は懸念する。払うお金はできるだけ少なくして(だれも税金や社会保険料は抑えたいと思うのは当然だ)もっとより多くのサービスを提供してほしいとだけ、遠目で願っている存在といえる。
多種多様な人々がそれぞれ特色を発揮でき、より気持ちよく生活できる社会を創るためには、自分なりの力を発揮する考え方が重要だ。自主的に労力を提供したり知恵を働かせる方法も考えられる。他に方法を思いつかないのであれば、自分たちの社会が必要とするお金を拠出する。より有効に使ってほしいという行動を含めて。
投票に出向くだけでも努力が必要だという意見がある。だが、日頃、もっと多様な役割を担う行動をした積み重ねの一つとして、投票行動もあると思う。納めた税金や社会保険料なども、社会で有効に使われているかを意識し、より適正な方向にする行動も大切だ。
その人なりの方法で、積極的に社会を共に担おうと思っている人々を励ます働きかけが、政治に関る組織の役割だろう。
このページの目次へこのページは私の個人的なエッセイを書いてきた。私にとって2004年夏、お盆過ぎのこのこと(最後に記述する)は、ぜひどこかに記録しておきたい。しかし、自分の文章で書く力はない。どうしようか、悩んでいた。そんなとき、ある通信が送られてきた。奥付に「無断転載自由」とあるので、その記事を転載することは私にできる。少し付け加えることも可能だ。送り主は吉田智弥さん(元・奈良地方自治研究センター事務局長)である。彼が編集・発行している個人誌「蛇行社通信」(第11号、2004年09月)に、「時代を走り抜けて」という記事がある。原文にはない中見出しをweb用に私が付けた。
親しい友人たちは彼のことを「ヤァさん」と呼んでいた。
ヤァさんは1942年、旧満州、現在の中国東北部で生まれた。中学卒業後、故郷の山口から大阪に転居して、高津高校の定時制に入学した。新聞部の活動にかかわり、3年生の時に自治会の役員になった。1960年、アンポの年である。高津をはじめ、定時制の高校生たちが波打つように街頭へ繰り出した。その渦のなかに彼がいた。
勢いをかって、同年8月、大阪府内の活動家集団は、校内や駅頭でのカンパ活動で得た資金で、40数名もの代表を東京で行われた原水爆禁止世界大会へ送った。
11月に大定連の結成大会が行われ、4年生だった私(吉田)が初代の書記長になった。だが、翌年の3月には卒業し、実質的な活動の展開は二代目の書記長になったヤァさんが担った。不言実行型の組織者として彼はそこで頭角を著わし、大定連は市民権を得た。
その後の、60年代後半から70年代の初め、彼は、ある時は能勢(大阪府最北部)ナイキ基地反対闘争に全力で取り組み、別の時には、三里塚闘争の最前線で機動隊と衝突して負傷した。また、新しい職場の自治労(大阪府本部)では、大阪府を相手に「救急医療」に関わる直接請求運動を提起し、事実上の事務局責任者となって成功させた。それは画期的なことであった。
そうした活動を通じて、多くの仲間や後輩たちを鼓舞し、大阪市職反戦を育てた。結婚したのもその頃であった。たくさんの青年男女が駆けつけて賑やかな結婚式となった。そのお連れ合いが私(吉田)の大学での同級のT・Kさんだったのには驚いたが。
75年、病気で失業した私(吉田)は、ヤァさんを含む何人かの友人・先輩にSOSの手紙を書いた。「仕事先を紹介して欲しい」と頼んだのである。折り返し彼から返事がきた。そのお陰で、私は奈良県庁の職員組合に職場を得ることができた。
86年、ヤァさんは大阪自治研センターの事務局長となり、2000年に退職して以降は、介護保険にかかわるオンブズマン活動での大阪での牽引役となった。その傍ら、家庭ではなお現役で働き続ける夫人のために朝食を作るなど、「主夫」業をこなした。(大谷注・今日は相手・お連れ合いのこと、が出張だからゆっくりできると私にも言っていたから、夕食も作っていたようだ。年末にはおせち料理もなんとかできるようになったとの話もしてくれた)。
03年末、久しぶりにメールを貰って梅田で会った。肺癌で入院していたのだという。それにしては皿鉢料理をうまそうに食べて、酒のお代わりもした。別れしなに、「だいたい好きなように生きてきたから、別に未練はないんや。葬式の時には来てや」と言った。
阪急電車の改札口の前で、本を抱えた後ろ姿を見送った。ありがとう、柳原文孝。
以上が、吉田智弥さんの文章である。以下は、私の記録の断面である。
以下は2004年08月21日(土)19時02分に私から発したオンブズマン機構関係者への第1報である―――
「オンブズマン機構・大阪の関係者の方々にお知らせします。
すでにご存知かとは思いますが、柳原文孝さんが8月21日(土)に
お亡くなりになったとの連絡が(お連れ合いの恭子様から)ありました。
私たちの機構にとってもかけがえのない人でした。
まことに残念です。さびしいです。
介護保険の創設にかんして1万人委員会以来の、柳原さんの大きな功績を
思い出しています。
なお、葬儀など今後の予定についてはまだ決まっていないそうです。」
同じような内容を他の友人にもメールをし、電話で連絡させていただいた。
さらに、翌日22日の午後12時57分には、つぎのメールを発信した。
「柳原さんは昨日21日の午後6時01分にご逝去されました。
葬儀は仏式により、つぎのとおり取り行われます。
お通夜: 2004年08月22日(日)午後6時〜
会場 : 公益社千里会館
住所 大阪府吹田市桃山台5―9
電話 06―6832―0034
アクセス 地下鉄御堂筋線・北大阪急行
「桃山台」駅から西へ、徒歩5分
告別式: 日時 2004年08月23日(月)午後2時〜3時
会場 : 同上
喪主 : 柳原 恭子 様(ご令室)
なお、ご香典は故人の御遺志でご辞退されています。
駐車場スペースが限られています。お車でのご会葬はご遠慮ください。
以上です。
今は事務的にしか、メールできません。」と。
私もお通夜と告別式に参列した。多くの方々が柳原さんとのお別れに集まられた。
私も1970年以来の長い付き合いだった。いや、彼によると、60年代末に私が書いた論文を読んでいたそうで、それからの付き合いとなる。私もヤァさんと呼んでいた。
いろいろなところで一緒に活動してきたが、吉田さんの文章にもある大阪自治研センターを立ち上げる前に、1985年に(阪神優勝の年として記念に残る)自治労の全国自治研集会を大阪で開いたときに、ともに実行委員としてかなり関わった。当時もそれ以降も、事務所があった森ノ宮付近で仲間と一緒に酒を飲み食いしながら、あれこれと議論を交わした。
1986年に自治研センターを立ち上げ、初代理事長は吉村励先生(大阪市立大学名誉教授)にお願いした。ヤァさんは事務局長、私は理事であった。その後、吉村先生が退かれたので1999年に私が理事長となり、柳原さんと一緒に活動した。というか、まったくヤァさん任せであった。
20世紀の終わりに、介護保険を創設する市民運動として「介護の社会化を進める1万人市民委員会・関西」をたちあげ、私が表にでて、実質的にヤァさんが事務局長の仕事をしてくれた。二人で市民社会を作る運動に直接に関わった。
その後、柳原さんは自治研センターを退職したが、NPO法人介護保険市民オンブズマン機構・大阪を作る中心を担った。私もよちよちと一緒に歩いていった。会議が終わった後、天満辺りで酒を飲み、会議の続きを行った。お通夜や告別式にも、オンブズマン関係者がたくさん、参列していただいた。彼の最後の仕事が実を結んだ一場面であった。
本人から2002年11月頃だったか、肺がんだということを知らせてもらった。私が出した年賀状への2003年01月の返事メールでは、「どちらにしても、神様がこれまでの人生を『とりあえず締めくくりしなさい』と言ってくれたようなもので、ある意味では『ほっとし、安心』しています。この『安らぎ』はなんともいえない気持ちです。」と書いてある。
その後も、治療の合間には退院して、二人で酒を飲み、食べながら、これまでと変わらない話をした。最後に会ったのは2004年06月04日で、いつものように梅田の飲み屋で、彼はお酒を、私は焼酎を飲みながら語り合った。最後に「もう一本、飲みましょうか」との口癖もでた。
もう一度、8月にでも東京の友人たちも大阪に来るから一緒と飲もうと連絡していた。ところが、東京の友人あてに「半身が完全麻痺状態で、食事も固形物を受付けないじょうたいです。あの世行きの準備に忙しくなりそうですので、お会いできないと思いますので、ご好意だけ受けさせてもらいます」との7月後半の連絡が、最後だった。
いろんな話ができて、いろんな見方を教えてもらい、楽しかったよ、柳原文孝さん、ありがとう。
このページの目次へこのエッセイは、大阪市政調査会が編集発行している『市政研究』(第137号、秋季号、02年10月25日発行)で、同会の創立40周年を記念して企画された「特集 大都市・大阪の課題」に寄稿したものである。総勢21名の方々がそれぞれの専門の立場から文章を書いていらっしゃる。私はエッセイでお茶を濁した。ぜひ、他の方々の大都市大阪への熱い思いの提言を読んで欲しい。
今年の蒸し暑い梅雨から夏にかけた都会で、私にとって面白かったのは、水辺の復活である。ワールドカップで日本勝利の夜に、道頓堀川に多くの人たちがダイビングした。阪神の優勝を祝った飛び込みは今年は無理だったが、今後も大きなイベントがあれば、続出するであろう。人が飛び込める川があって、良かったと心から思う。
京都の街中の鴨川では、飛び込みはどう考えても無理で、歩いてわたる程度しかできない。これでは、多くの人の喜びの気持ちを表現するには、舞台がさびしすぎる。神戸には、人が近寄れる川はない。大阪は街中に水量ゆたかな川を残しておいて本当に良かった。水質が悪いとか、たまたま残っていただけという見方もあるが。
たまたまといえば、アゴヒゲアザラシの通称「タマちゃん」が、東京や横浜の川も生きていて、生物が生存できる事実を証明してくれた。大都市の川で動物が活動する姿をみて、あらためて汚染の深刻さに問題を感じた市民も多かった。「こんな汚れた川で、タマちゃんはかわいそう」という。多くの人間は、その「かわいそうな」環境でも黙って暮らしているのだが。
前置きが長くなったが、だから大都市は環境問題にもっと力を入れるべきだという論点を書きたいわけではない。このイベントはどちらも行政が仕掛けたものではない。むしろ、行政はハラハラしながら、戸惑っていた。様子を見守るしか、なす術がなかった。だからこそ、あれほど市民が盛り上がったのだ。市民が互いに情報を伝え合って集まった。現場では見知らぬ人同士が、同じ期待をもって楽しく語り合った。
携帯電話・携帯メールが普及したから「いま道頓堀で盛り上がっている」とか「タマちゃんがいたよ」と伝わった。わざわざ公衆電話を探してまで、連絡するほどの大事件ではない。ちょっとした発見を携帯に載せれば、人々が集まってくる。
インターネットの世界でも、ニュースのご近所とか身の回りの出来事が、数多く駆け巡っている。マスコミが取り上げた事件の現場や近くにいた人が、伝えなかったささやかなエピソードが、もてはやされている。
もちろん、市民が行動するときには、地図やガイドブック、マニュアルも活用する。突発的な出来事には役に立たない。やはり、個人のすばやい情報伝達が効果を発揮する。
予定されていた催し物や売り出している商品などについても、行政やお店からのお知らせ、マスコミや専門家の手引書などもある。だが、消費者はそれさえも自分で実際に行ってみて、あるいは使ってみて、再確認している。その結果は「宣伝ほどではないよ」とか「思ったよりもお値打ちよ」と、時間と距離を飛び越して、他の市民に伝えられる。表の情報よりも、自分で経験ときの実感や肌ざわりに、重きが置かれる。
自分に関係がある事柄については、行政やマスコミ、専門家などに頼りきらない市民が登場してきた。自分で確かめてみて、流通している情報の質を見極めている。与えられた情報を読み直して、自分の身体と心で確認する。専門家や行政が責任をもって情報を出すように求める場合もあるが、その場合でも、情報の発信主体や水準を判断して、有効に使いこなす。
こうした個人間の情報には、意識的に盛り上げようと脚色したり、嘘も混じっているだろう。でも、そこには、生身の個人が触れた内容がある。自分で見つけて発信した知恵である。かつてから、地域で営業している事業者たちは、人々の口コミがもっとも影響力が大きいと気にかけてきた。
情報が本当かどうかは調べてみなければわからない。自分にも当てはまるかどうか、実際に確認する。あくまで、自分で、あるいは自分たちで調べる。その結果をまた伝え合い、市民相互の共通認識ができていく。イベントやお店の評判が市民の行動によって定まっていく。
地域社会の営みは、自分の身体を使ったこうした営みの中で育っていく。事業者もそれによって改善を図ったり、次の戦略を企画する。たとえ、質の良くないイベントや商品を提供する事業者がいても、市民どうしの付き合いの中で解決していく。こういう経験を身近なところで積んでいる市民が増えている現状を認識したうえで、都市政策を考えるときだろう。
このページの目次へ勤め先で学生向けに発行している『エコノフォーラム』(第8号)編集部から「好きな店」というテーマを与えられた。思いついたお店が、ここに紹介するところである。まったくごく一部の人にしか意味がない趣味的な文章である。まぁ、文章なんて、そんなものだろう。掲載誌が2002年03月25日に発行されたが、読者が限定されているので、ここに転載する。
京都の代表的な通り、河原町を♪姉三六角と数えながら下がって、まさに六角通りを東入ル(そのまま進むと高瀬川・木屋町)、狭い路にブルーの看板がはみ出ているが、気がつく人は少ない。青い下地に「ギロチン」とさっぱりとした白文字。
重いドアーをギィーっとあけると、名前から想像される通り、どら声の罵倒が迎えてくれる。あるいは、拍子抜けするほど静寂なときも。ひるまず中に一歩足を踏み入れると「いらっしゃぁーい」と凛とした女性の声。この店の女主人、通称「ママさん」(まぁ、日本ではどこにもママが沢山いるが)。カウンターの中から「いつものよね」と声がかかる。ほとんどのお客さんは国産ウイスキーをキープ。
でも、毎月珍しい吟醸造などを持ち寄って利き酒会をするグループもいる。常連さんは8席程度のカウンターに。ひっそりと漫画を読みふける人、互いに話を聞いていないのに説教をしあう友人どうし。連れの女性に通ぶってお酒や京都の解釈をする男。
カウンターの上に並べられたお鉢やお皿に盛り付けられた京のおばんざい。小芋の煮っころがし、蕗、わらびなどの野山に生える山菜の料理、お魚の塩焼き、煮つけなど。なんと仕込み数日のカレーもお客さんの呼びかけを待っている。
ふらふらと迷い込んだ一見さんや酔客は、おどろおどろしい名前と、のびやかなしっとりした雰囲気のギャップにびっくり。カウンターの中では、多くは芸大・美大の学生でもあるアルバイトが、知的な笑顔の割には、おぼつかない手つきで注文の皿を出し、水割り用の氷を割っている。お客がお代わりを催促しても知らん顔で物思いにふけっている人もいる。
危ない!気ぃつけや。ママの鋭い指導の声がカウンター内を引き締める。
交わされる会話は、世界革命・政治社会運動から最近の若者論、話題の小説やマンガから、あの人、この人の評価論。すばらしい絵画展から旅行談、おいしい食べ物まで。
なにを喋っても、俺はやなぁ、と横から口出しがあり、互いに知り合いになる。会話を積み重ねると、古証文や昔の武勇伝、古傷が過去と現在の空間と距離を一挙に飛び越す。
ここに行けば誰かに会える。ママやアルバイトの女性と話ができる。お酒はもちろん、特大のおにぎりにもありつける。
実はなぁ、今日こういう嫌なこと、嬉しい出来事があったんよ。慰めて欲しいと言い出せないが、聞いて欲しい。ウイスキーは強張った心の扉を開いて、雰囲気と時間を共有している仲間の気持を受け入れる。もう一軒いこか?と新しい仲間ができる。シャンペンを持参して、その場にいた人たちと祝いあうことも。
お馴染みさんで毎月の誕生会。積立金からママが贈物を見立てて、子ども時代のようにおおはしゃぎ。
年末最後の営業日は、おせち料理で忘年会。店のスタッフたちと、今年1年お疲れさんとばかりに、ちょっと豪勢な食事会もした。
京の巷では大きな活動をしている人たちが、夕方・夜になんとなく淋しくなり、寄り集まってくる母港でもあった。
もう、あの懐かしの「ギロチン」はない。かくいうこの私が「ギロチンに感謝する会」というお別れ会の実行委員長をした。引退・現役のお客サンやこれまでのアルバイトさんと一緒に、この名前をお送りしたのだから。いまも、店でママや常連が待っていてくれると、私もどんなにか助けられたことかと、しみじみと思う。
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