競馬と相場が同じだと言うつもりはないが、マーク・トウェインの言葉を借りるならどちらも「見解の相違で成り立っている」ということは共通していると言ってよいだろう。 どれだけ自分が自信を持って買ったとしても、値段が成立する以上自分と反対の行動、つまり売った相手がいるわけであり、万人が同じ考えに傾いたら値段は成立しなくなってしまう。当然、結果もゼロサムになるので、双方ともどれだけ自信があろうとも必ずどちらかは負けをみることになる。 相場の強弱の材料は日々飛び交っているが、それらの見解を一致させなくても結果はどの道確実に出るもので、その結果を得る確立は説得力の強さとはまるで関係ないと思っている。 こうした世界に身を置いてきたためか、意見を戦わせて相手を説得するという行為が実に面倒になってくる。小さくは家庭内、大きくは社会全般において、何につけ人それぞれの意見があっていい、ということで片付けてしまいたくなるのである。 実に勝手な解釈だが、最近はこうした傾向が強くなってきているような気がする。つまり価値観の多様化といおうか、さまざまな考え方が混在したまま同居をするような感覚である。 相場が見解の相違で成り立っているように、社会もある意味ではそれが不可欠な要素になっているのではないかと思う。 極端な例だが、この世がすべて私と同じ考え方の人間しかいなかったら、この世は成り立たないはずである。これは「私」の代わりにどんな偉人を当てはめてみても同じ事だろうと思う。 多様化する価値観をそのまま受け入れるということは、決して他人の考えや存在を軽視して良いということではない。相場と同じように、絶えず両方の考え方を見聞きした上で、どちらかの決断を下さなくてはならないため、「常にどちらも有り得る」という柔軟性が必要なはずである。 ところがその上で下した判断は、今度は飛び交う情報に振り回されないための信念を必要としてきたりする。厄介なことにこの信念、ともすれば意固地になりがちで、余計な執着心、つまり相場で一番持ってはならないものに早変わりする。 正誤や善悪が紙一重の差で入れ替わる、そんなところも相場と社会の共通点と言えるのだろう。 |