<多摩丘陵 フットパスまつり Bコース>

2003年04月27日(日)

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多摩丘陵 フットパスまつり Bコース図

「NPOみどりのゆび」が中心になって行う「多摩丘陵 フットパスまつり」A・B・Cの3コースのなかで、「Bコース:若葉の大戸・小松城跡を歩く」を夢連が担当して行った。当日は、暑くもなく・寒くもなくというウオーキングにはちょうど良いお天気で、夢連・みどりのゆびの役員さんを含んで総勢127名で12qを歩いた。大地沢青少年センターでの昼食は、夢連のS訪さんご提供のタケノコを糠信さんがタケノコご飯にしたお弁当(今が旬でとてもgood)と、ボランティアの奥様方に作って頂いたみそ汁と、アイス工房ラッテさんのアイス付きで、みなさんに喜んで頂けたと思う。(記:TOMO)

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午前10時に集合
(予定より大勢になったため、急きょ集合場所を「円林寺前から」バス停前に変更)

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3グループに分かれてスタート

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山王社へ登る

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山王社で休憩
山王社は、明暦3年(1657年)7月15日圓林寺の鎮守神として土ケ谷に創建した。日吉山王大権現と称した。大正3年(1941年)9月に社殿を再建し、また、昭和16年(1941年)4月24日再建した。現社殿は、昭和45年(1970年)1月6日の造営である。御祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)少彦名命(すくなびこのみこと)で例祭は5月3日である。

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法政大学ジョギングコースへ

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列の最後尾
(役員さんは、前日設置した仮設の道標をはずして持ち帰ります)

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セキレイが見ていました(法政大学)

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法政大学西門へ

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大戸観音堂に到着
大戸観音堂は、大地沢青少年センター入口にあり、昔は鎌倉街道と甲州街道へ通ずる要地だったため、大木戸番所の備えがあった。この番所のすぐそばに「了心庵」という草庵があり、後に八王子市山田の広園寺末となって、「大戸祐照庵」と呼ばれるようになった。境内に観音堂が創立されたのが、慶長元年(1596年)で当時から「大戸の観音様」と呼ばれ、門前には旅人宿や居酒屋が立並んでおり、相武24番の霊場として参詣人が絶えなかったという。また、鐘楼は八王子八景の景勝の地として「大戸の晩鐘」とうたわれている。
<夕かすみ たつや大戸の 鐘の音に つま木を負うて 帰る里人>

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大地沢青少年センター入口の境川にいたカモ

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大地沢青少年センターへ

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野外レストランで昼食

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境川源流へ向かう

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境川源流でガイドさんの説明を受ける
川の名については「新編武蔵風土記稿」に「武相の境界となれる川なれば、直ちにその名とせり」とあることから、古くから境川と呼ばれていたようである。流れは、多摩丘陵と相模台地を区分する断層線上にある全長約52qの2級河川で、東京都(町田市)と神奈川県の都県境を流れ、大和市、横浜市の境に沿い藤沢市の遊行寺の前を経て、川名2丁目の新川名橋付近で柏尾川と合流し、更に鵠沼付近で片瀬西浜(相模湾)に注ぐ。源流から河口まで歩くと約15時間20分、歩数90,365歩、橋の数122。橋の名で一番多いのは「境橋」で7つあり、大正橋、昭和橋、平成橋と並んでいるところもある。

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草戸峠でしばし休憩

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草戸山到着
(町田市最高峰365m)

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草戸山からガイドさんはバトンタッチ

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城山湖ダムの周囲を長い行列が続きます
津久井湖に貯水された水を上部の山岳部に造成された本沢ダム(城山湖)に深夜余剰の電力で揚水し、電力の最も必要な時刻に毎秒192tの水を落下させて25万kwの発電をするという純揚水発電所で4年をかけて昭和40年11月に運転を開始した。これは世界でも稀な発電方式で、発電所は地下250mにある。このため湖の水は1日に28mの水位変化をするという。城山湖は津久井湖と連動したロックフィール式(石や土を固めて造る)ダムで、昭和40年10月完成。湖の面積は0.58ku、水深28m、津久井湖との標高差は185m。(津久井歴史散歩 小川良一)

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金刀比羅宮下でガイドさんの説明

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評議原
紅葉がすばらしい「評議原」は、昔、武将達が集まって軍議を開いた場所だと伝えられている。今は降りられなくなってしまったが、そこから小松川方面に下ると「舟出ヶ沢」ということろに出る。敵に襲われた時、舟で逃れたという。小松城の近くには「堀の内」という地名もある。また、堰を築き、水を溜めて敵の侵入を防いだ堰もあったという。

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小松城跡の「堀切」等の説明の立て札

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小松城 本丸跡
宝泉寺一帯が小松城の館跡で、長井大膳大夫という武将が築いたといわれている。寺には、近年までコの字型をした山に囲まれた天然の要塞で、背後の山には櫓跡や曲輪、空堀等の跡が残っている。寺は度重なる火災によって歴史的な文献こそ無いが、宝匡印塔や五輪塔、高さが2mもある応永17年建立の石灯篭(城山町指定文化財)や秩父の青石でできた正嘉2年(1258年)の板碑等石造物が多い。

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下馬梅でガイドさんの説明

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下馬梅
昔、八王子城が豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城した時のことです。どうやってここまで辿り着いたか分かりませんが、伝令の任務を帯びたひとりの騎馬武者がやって来ました。騎馬武者は着くなり土地のお百姓さんに築井城が今どんなふうになっているか訪ねました。お百姓さんは「築井城は落ちてしまいましたよ」と言いました。騎馬武者はがっくりとして馬から下りました。そしてムチのかわりに持っていた梅の枝を道端に突きさしました。やがて、その梅が根付き春ともなると沢山の梅の花が咲くようになりました。いつしか人々は下馬梅と呼ぶようになりました。また、逆さに咲くので逆さ梅とも呼んで大切にしてきましたが、大正の終わり頃、つきてとうとう枯れてしまいました。

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午後4時30分到着

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