タイトル



レンゲショウマ追悼本

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森にかえったしな乃
森にかえった しな乃」は、交通事故によりたった9歳で、その人生を終わらなければならなかった、わたしたち の最愛の娘、しな乃を悼んで上梓した追悼本の名前です。 「しな乃」という名前から想像された方もいるかと思います。「しな乃」は父親であるわたしの出身地、長野県の旧 地名「信濃」を無断で借用したものです。 1993年、その年の夏の天候は、ことのほか天候が不順でした。この影響で、お米の出来が全国的に悪く、やがて  食べつけない外国米が入ってきた年です。 山に海にと、楽しい思い出を積み上げる季節のはずが、長雨で寒い夏だったため、子供たちの顔は一様に白いままで  した。 9月1日、この日は長い夏休みが終わっての2学期の始まりの日でしたが、夏休み明けの、華やいだ雰囲気とは言い 難い、静かな新学期の始まりでした。 始業式を終えて、午前中で帰宅したしな乃とわたしは、当時高校生だった兄、孝一郎と一緒に、冷凍ピザを温めただけ の簡単な昼食をとりました。これが文字どおり、しな乃にとっての最期の食事になりました。 しばらくして友達からの電話があって、呼び出されたしな乃は、自転車ででかけていきました。 自宅からほんの5〜60メートル、多摩川に沿った遊歩道に出ようとしていたしな乃に、猛スピードの乗用車が襲いか かりました。午後1時38分、まさにこの瞬間しな乃の命は絶ちきられたのです。 加害者Nは、近所に住む20歳になったばかりの専門学校生、そして暴走族でした。慣れからくるスピードの出しす ぎと、脇見運転が原因だったと思われます。 搬送されていく救急車のなかで、左の手足を何度か激しく動かしたのを最期に、やがてしな乃はピクリとも動かなく なりました。懸命な治療と家族の呼びかけにも応えず、翌2日朝9時すぎ、9歳と7ヶ月間動き続けたしな乃の鼓動は 、2度と打つことはありませんでした。 元気だった家族が、突然にいなくなってしまうということは、簡単には理解も納得もいきません。わたしたちは娘が 死んだというよりも、どこかへ行ってしまったようにしか思えませんでした。 しな乃は、自然の申し子のような子供でした。花や昆虫があれば、玩具なんか目もくれません。ハイキングに行った 時などは、まったく別人のようにキラキラした目で、自然にとけ込んでいました。 そんなしな乃を見るたび、わたしは思ったものです。この子はきっと、「森」からやって来たんだろうなって。 そしてしな乃は、森にかえっていきました。わたしたちに残ったものといえば、しな乃の片鱗を写し取った「森にか  えったしな乃」だけです。 わたしは、しな乃を奪った交通事故が憎くてなりません。現在のように発達した車中心の交通社会を、昔のような不 便な形に戻すことはできないでしょう。しかし子供や老人など、交通弱者といわれる歩行者が、むざむざ犠牲になり続 けていくことは容認できません。 しな乃はもう、わたしたちのもとには決して戻ってくることはありません。わたしたち限られた家族を除いて、やが て多くの人たちの記憶からしな乃は消え去っていくことでしょう。 わたしは、しな乃が生まれ、そして生きたあかしを残さなければならない、遺家族としての義務を負っています。 ひとつには「森にかえった しな乃」があります。もう一つは交通事故犠牲者に、光を当てることです。 このホームページは、こんな目的で作りました。

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