■ [ 2001.12. 3 ] 読売新聞 交通事故特集記事より 輪禍輪禍をなくせ 第3部 動き出した人々 5![]()
遺族だから、事故憎む人の輪を
■ 犠牲者に光を 「6歳女児はねられ死亡」「トラックと正面衝突、乗用車の男女死傷」。日野市下田の会社員 戸川孝仁さん(57)のホームページ(HP)には、日々、こんな見出しが書き加えられる。 全国で年間の死者が9000人を超える交通事故。そのほとんどが「ありきたりの事故」とし て片づけられる。「犠牲者に光を当てたい」と、2年前から毎日欠かさず新聞が報じる交通事 故をHPで紹介している。 9年前、2女のしな乃ちゃん(当時9歳)を亡くした。酒の力を借りた時期もある。 「心のいやしになれば」と始めたHP「森にかえったしな乃」は娘の生きたあかしを残すため でもあったが、今は「ストップ・ザ・交通事故」とサブタイトルが付いている。 ■ いやし、闘う 戸川さんは全国交通事故遺族の会の副会長の顔を持つ。刑事事件と違い、交通事故の被害者は 耐えてしかるべきだという風潮が強い。 「保険金でもうかるんだろう」「被害者面をするな」と言われることも。「加害者への正当な 怒りすら、我慢しなければならないのか。同じ仲間と話したい」。戸川さん自身も、事故から 一年ほどして、ワラにもすがる思いで入会した。 交通事故の被害者には3つの段階があるという。悲しみを共有し、いやし合いたい「悲しみの ステージ」。そして加害者と刑事・民事裁判で争う「闘いのステージ」。 そして、事故撲滅のための「社会的活動のステージ」。会では、それぞれの段階で会員同士が 思いの丈をぶつけ、支え合っている。 ■ 法律を変えた 最近の戸川さんは、会の中心メンバーとして悪質運転罰則強化や免許証のICカード化などを 訴え続けてきた。 こうした活動に動かされ、飲酒運転などの悪質な交通事故を厳罰化する法律改正が先月28日 に成立。年内に危険運転致死傷罪が新設され、刑罰が最大で3倍に引き上げられる。 「遺族だからこそ車の怖さ、車社会の問題を訴え続けてこられた。被害者の声が通った意義は 大きい」と、戸川さんは充実感を感じている。 来年は会の原点に戻り、被害者の心のいやし合い、裁判のサポートに再び力を注ぎたいとも思 っている。 ■ 認めてはいけない 今年9月のしな乃ちゃんの命日に訪れた加害者の男性が、何気なく、「私も人並みに家庭を持 ちまして子宝にも恵まれました」と話した。 「彼も28歳の将来ある若者。避難する理由はない」と思う反面、「娘を殺しておいてよくも ・・・」と激しい憤りも感じた。 「事故を、起きても当然のものと認めてしまってはいけない。被害者や遺族だけでなく、一人 ひとりがどんな小さな事故も憎み、撲滅に取り組むことが大切なんです」。 戸川さんの言葉を、私たちのすべてが胸に刻まなければならない。■ [ 2001.4.20 ] 読売新聞 交通事故特集記事より 読売新聞は、東日本13都県の地方版で、春の交通安全運動に合わせた特集記事を組みました。 狙いは、交通事故被害者が置かれている悲惨な状況と、それにたいする加害者の量刑問題を骨 子にしています。 東京・多摩版では3部構成にして秋の交通安全運動までのロングラン企画を組まれました。 遺族の会では、この企画に全面的に協力し、各地の被害者を紹介しました。 以下の記事は4月19日の多摩版に載った、私が取材された記事です。
絶やすことなく花を手向けてきた戸川さん。 しな乃ちゃんは事故後できたカーブミラー の所から花の所まではね飛ばされた。
<輪禍をなくせ 第一部・現場からの叫び 5> 「普通の事故」か「殺人」か。被害者の叫びに差なし。 自宅の庭は妻が育てる花であふれ、夫がそれを川の土手に手向ける。あの日から 「現場」に花が絶えることはない。 「知らない人は、ガーデニング好きの幸せな家だと思うでしょうね」と戸川孝仁 さん(56)は春風に揺れる花を見つめた。 1993年9月1日、事故は、日野市の自宅からわずか50メートルほどの多摩 川の土手沿いの道で起きた。始業式を終えて帰宅した後、友達の家に遊びに行く と言って家を出た娘のしな乃ちゃん(当時9歳)は、土手の上のサイクリング道 路に上ろうとしていた。そこに乗用車が突っ込んだ。 次第に呼びかけに応じなくなり、動かなくなる娘の小さな手を握り締めながら、 ・ 戸川さんは必死で叫んだ。それを打ち消すかように、救急車のサイレンが響いて いた。 現場は見通しの良い直線道路。スリップ痕は衝突地点より先から始まっており、 「現場に立つ度に、考えられない事故だと思う」。 20歳だった加害者には、やがて罰金五十万円の処分が決まった。「よくある事 故として片付けられたのか」。納得できずに調書を閲覧して驚いた。 スピード違反に信号無視での処分、暴走族としての逮捕歴、そして事故の数か月 前に自損事故、、、。 「本当に過失と言えるのか。法律無視の反社会的集団に属し、違反と事故を繰り 返し、最後は人まで殺して『過失でした』では納得できない」と涙をぬぐう。 事故後しばらくは、浴びるほど酒を飲まないと寝ら れなかった。妻は今でもカウンセリングを受けている。加害者は、年に一度姿を 見せるものの、「目を直視すると何をしてしまうかわからない。 相手も下を向いたままで、顔はいまだにはっきりわからない」という。
ある日、娘の同級生が家に手を合わせに来てくれた 時だった。 その子たちの成長を見て、「失ったのは一人の女性 だったんだ」と涙が止まらなくなった。 「生きていれば、ずっと続いたであろういくつもの 命が奪われたと思うと、悔しくて悔しくて、、、、」 全国交通事故遺族の会の活動に、その悔しさをぶつ けてきた戸川さんは、悪質事故厳罰化の傾向にも、 「特異な事例に隠れて、残りの一万近い命が『これ は普通の事故。運が悪かった』で片付けられる可能 性がある」と警鐘を鳴らす。 「どんな事故にも厳罰化であたり、それを憎む。 そういった姿勢がなければ、交通事故はなくならな い」奪われた命の重みに差はない。 残された家族や、体や心に傷を負った被害者の叫び に、ハンドルを握るだれもが耳を傾けなければなら ない。(村山誠)

[ 2000. 06 . 10 ] 朝日新聞 「票の海 Vol 7」より交通事故 解決への道遠く 娘の死後にミラー設置 カーブミラーが立っている。日野市の住宅地のはずれにある多摩川沿いのT字路。 戸川 二美子さん(52)は、自宅からわずか100メートルほどの場所に立つこのカーブミラーを 「娘が死んだ代わりなんだな、と・・・。 人が死なないとカーブミラーもつかないのかと思いました」とつぶやく。 ■ T字路に暴走車 1993年9月1日。小学校4年生だった次女のしな乃ちゃん(当時9つ)は、始業式から帰ってくると 自転車に乗って遊びに出かけた。 両親はいつも「車が通らない川の土手を走りなさい」と教えていた。T字路を渡って土手に上がろうとし たしな乃ちゃんに、暴走してきた乗用車が突っ込んだ。 小さな体は、衝突場所から25メートルも跳ばされた。自転車はさらに20メートルほど先に転がった。 しな乃ちゃんは、意識が戻らないまま翌朝、9年半の短い命を終えた。 事故後何もなかったT字路にあっという間にカーブミラーがついた。 突然、最愛の娘を亡くした衝撃は計り知れない。母の二美子さんは、長女と長男とは年の離れたしな乃ち ゃんを、ことのほかかわいがっていた。 「とてもかわいくて、気持ちの優しい子でした。電車でお年寄りが乗ってくると『お母さん、席を立とう』 と言ったり、家に帰ってくるときに『お母さん、こんなに落ちてたよ』と空き缶を拾ってきたりしました」 ■ いえない心の傷 家族5人が明るく談笑しながら過ごしていた一家の暮らしは事故後、一転した。 二美子さんは気持ちの整理がつかないまま日々が過ぎた。入院もして中学校教員の仕事も何度か長期間休 んだ。心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。 「どうやって生きていけばいいのかわからないでいる」。いまも月2回のカウンセリングを受けている。 父親の孝仁さん(55)は、「人と車が分離できない社会で、事故をなくすための対策が不十分だ」と言う。 危険な場所にカーブミラーを設置することや、道路を立体交差にするなど、道路の整備を進めることが大切 だと感じる。 ■ 精神的な援助を しな乃ちゃんをはねた男性は略式起訴だった。「加害者の責任の軽さに納得できない」と夫妻は言う。 孝仁さんが副会長を務める全国交通事故遺族の会の会員の中には、過去にも死亡事故を起こしている人に よって家族を奪われた人もいる。 事故を起こした車で通夜に来た加害者もいた。「車を運転することの責任、モラルが一体どうなっている のだろう」と感じる。 二美子さんは「乱暴な運転をする人間に簡単に免許証を与えてはいけないのではないですか」と話す。 玄関には、しな乃ちゃんがはいていたピンクの長靴が置いてある。洗面所には歯ブラシ。勉強部屋も当時 のままだ。ピンクのランドセルやぬいぐるみが残されている。 7年たっても、事故から遠ざかれない。戸川さん夫婦は、心に傷を受けた家族を救済するための精神的な ケアの援助も必要だと訴える。 交通事故で死亡した人は昨年1年間で9千6人。一万人は切っているが、死傷者全体では105万940 3人で初めて100万人を越えた。 1998年には超党派の国会議員が、「交通事故問題を考える国会議員の会」を設立した。しかし、66 年から衆院に設置されてきた衆院交通安全対策特別委員会は、96年の通常国会を最後に設置されていない。 孝仁さんは言う。「国会に交通問題を考える場所が欠落している。国として交通事故をなくすことを考え る頭脳がないのと同じだ」 (神田 明美)
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| 7年近く経った今も、しな乃ちゃんの部屋は元のままだ | 事故の直後に設置されたカーブミラー |

2000年5月19日 朝日新聞「論壇」 戸川 二美子 交通事故遺族に心のケアを 「行ってらっしゃい」。朝元気に送り出した我が子との再開が、救急救命センターの集中治療室 か霊安室。我が子には似ているがとても我が子であるとは信じ難い。 これが「よくある交通事故」のよくある例だ。交通事故は現代社会ではごく日常的に起きる。 昨年の交通事故は85万件。死亡者は1万人弱。それゆえ、私たちの感覚は麻痺しており、被害 者は単に「運が悪かった」と受け止められてしまう。 それでは「運悪く」命を奪われてしまった年間数百人にも上る子供の親たちは、その直後から、 一体どのような心理状態・精神的痛苦を味わうのだろうか。 数年前に比べると現在は、犯罪被害者、交通事故被害者またその遺族への心のサポートが必要で あるとの主張がされるようになり、民間のサポート機関も全国で10カ所以上が設置されている。 従って事故直後から精神的なサポートを受ける機会がゼロである場合は少なくなってきた。 しかし、交通事故は通り魔的殺人と同様、青天の霹靂であり当人(もし意識があれば)にも、「 著しく驚異的で、なおかつ破局的な出来事」なのだ。 親たちはすぐさまサポートが得られたとしても、突然の我が子の死が理解できず、錯乱したまま だ。人により違いはあるが、かなり時間がたってからも、生き残った自分を終始責め続ける。 自分の悲嘆と苦痛を理解されない故に疎外感を深め、次第に周囲から孤立していく。 生きる希望を根底から失い、虚無のうちに一日を生きるだけが精一杯になる。ゴミ捨てに出る、 という簡単なことすら出来なくなり、普通の生活が送れなくなる。 これらの人々を「著しく驚異的な、あるいは破局的な出来事」の精神的後遺症である心的外傷後 ストレス障害(PTSD)罹患者と認定することは無理であろうか。 私は6年半前に9歳の娘を暴走車に奪われた。一年後、夫は加害者の刑事罰の余りの軽さ(罰金刑 50万円)に納得できず、民事訴訟を起こした。 その一項に、私のPTSDによる病休・休職への損害賠償、慰謝料請求を入れた。 たとえ10円玉一枚でも認定してもらいたい一念であった。診断書は当初入院していた病院の精 神科医と、5年間にわたり月2回のカウンセリングを受けているPTSDの第一人者、武蔵野女子 大の小西聖子教授による。 95年9月に出た一審判決では全面的に勝訴した。画期的であった。 その後、大阪でも交通事故とPTSDの因果関係を認めた判決があったが、こうした例はまだ少 ない。 交通事故遺族の心の問題に関し2点問題提起したい。第一に早急にPTSDの臨床ができる専門 家の養成を図ってほしい。 私の体験からも精神科医の中にPTSDについての実践的知識を持つ人が極めて少ないと思う。 2、3回は話を聞いてもらうがその後は入眠剤、抗うつ剤などを出して欲しいがためだけに通院 している遺族も多い。 日本の精神科医にPTSDへの理解が不十分なのは、被害者心理学、精神医学が主に米国から移 入されてまだ日が浅く、国内で臨床と研究をともに進めている専門家が極度に少ないことによるの だろう。 しかしこれは実は大きな問題を含んでいる。従来はひたすら忍耐を強いられてきた潜在的PTS D罹患者が、今後は多数顕在化するのは想像に難くないからだ。 その時対応できる能力を培った専門家が絶対的に不足する。第2に、サポート機関の設立を担っ てきたのは大部分遺族自身であるという問題である。 92年に東京医科歯科大学内に開設された「犯罪被害者相談室」のきっかけも遺族の涙ながらの訴 えであった。各都道府県の警察署内に被害者対策機関が設置され始めた向きは好ましい。 が、問題は「心」を共有する力量を持つか否かである。しかも素早く対応し必要な情報を提供し なければならない。公的機関の質、量の拡充を図り、自助団体への援助を要望したい。

2000年1月28日 朝日新聞「声」 戸川 二美子 事故の現場に礎(いしずえ)を建てたい 手元に一冊の通帳があります。開けられません。私ども二人の2年分の収入ほどの額が記されて いるそうです。娘の命の値段です。 娘は9歳半の夏、暴走車にはねられ、「かあさん」と呼ぶこともなく、この世から姿を消しまし た。その後、あれほど強いきずなで結ばれていた母子なのだから、娘は何としても私の所に戻って くる。今日が駄目なら明日は必ず。そうやって一日一日をしのいでまいりました。 気付いてみれば早7年近い時が流れていました。幽明の境を自在に越えてゆかれる心持ちがして います。死者たちのいる世界が何と親しく思えることか。 私の心は止まったままですが、肉体の上には容赦なく時間が刻まれます。 考えるだけでも頭が爆発しそうな、娘の命の値段の後始末も考えなくてはいけないようです。 私は鈍い頭で考えて一つの結論を得ました。死者の礎を建てたい。事故の現場に。一人ひとりの 命の重み、無念の思いを忘れないために。 ヨーロッパの街のれんがの壁にさりげなく刻まれている死者の名と生年と没年。そのように日本 の道端や交差点、そのほかの所に小さな一枚ずつのプレートを建てたいのです。被害者の身勝手な 思いでしょうか。2000年2月1日 朝日新聞「声」高校教員 遠藤 芳男さん(埼玉県東松山市 49歳) 事故現場に礎、願いをかなえて 先月28日の声欄に「事故の現場に礎を建てたい」という投書があった。 我が家の近くの雑木林を抜ける道のカーブに5年ほど前まで、小さなモミの木が植えてあった。 その木の根元に直径十数センチの白い石が置かれ、その石に薄れた字で、次のようなことが書か れていた。 この急カーブで自転車に乗った通学途中の男の子が、スピードの出し過ぎでカーブを曲がりきれ なかった乗用車にはねられ、13歳で亡くなった。 今後の事故防止と、我が子の霊を慰め、亡くなった場所を忘れぬために植樹した、と。 少年の家族の、悔やんでも悔やみ切れぬ心情を思うと、子を持つ親として胸の詰まる思いがする。 そのモミの木も白い石も、道路改修の折りに行方不明になってしまった。もう、あそこで事故が あったことすら、忘れられてしまっている。 事故から十数年以上たっているので、仕方のないことかもしれないが、遺族の方々の胸には、1 3歳の学生服の息子さんが忘れらぬ思い出とともに生き続けているのだろう。 事故の現場に礎を建てたいという気持ちは、決して身勝手な願いではない。道路わきに置かれた 白い花束を見て、スピードを緩めるドライバーも多いのだ。 事故防止のためにも、関係者の一考を期待する。
1998年12月17日 朝日新聞「声」 戸川 二美子 交通事故死に、取り組み長く 超党派の議員連盟「交通事故問題を考える国会議員の会」発足の記事を読み、感慨ひとしおです。 今年は日本の交通死亡事故史において画期的な年でした。片山隼君のご両親の粘り強い行動が2 0万人もの人々の心を動かし、マスコミも巻き込んで、ついに検察の不起訴処分を取り消し、再審 理を引き出しました。 その中で人々の目に明らかになったことが何点もあります。 1、死亡事故捜査では被害者が口をきくことが出来ないため、必ずしも事実が把握されるとい えぬこと 2、その捜査結果と、加害者の一方的な証言により、調書が作成されること 3、その調書に基づき、刑事罰が下されること 4、現状では、死亡事故の加害者の多くが起訴されないこと 5、被害者の遺族は蚊帳の外に置かれていること 私も大切に育てていた娘を5年前に交通事故で亡くしました。目撃者はゼロで、位置関係やスピ ードなど納得できない点が多々あったものの「調書によれば」の一言で片づけられました。 加害者は略式起訴で罰金50万円。9歳半の娘は、彼には50万円の痛手で終わりました。 交通事故死亡者は毎年一万人もいるのに、身内に被害者が出るまで、多くはひとごとです。「交 通事故に遭う」のは「運が悪い」の代名詞さえ使われ、私たちの感覚がマヒしていることを示して います。 議員連盟の方々の、息の長い、地味ではあっても実効のある取り組みを期待しています。
1998年6月29日 朝日新聞「声」 戸川 二美子 命の尊さ託す、事故現場の花 今朝、夫と小さないさかいがありました。昨日用意しておいた花を、現場に持って行ってくれな かったからです。 夫は「おれだって、いやなんだ。持って行きたかったら自分で行けばいいじゃないか」。 私が現場に持って行かれるなら持って行く。でも一度も、あの子が命を奪われた場所の近くに行 くことすらできない。 私どもの末娘は9歳半の、これから楽しみというかわいい盛りに、ある日突然、この世から姿を 消しました。暴走車にはねられ、壊れた人形のようになって。もう5年近くになります。 今日こそ「ただいま」と元気よく帰ってきてくれる。明日目が覚めたら元通りの生活に戻ってい る・・・。 娘の死を受容できぬまま、錯乱した頭と、からっぽな心を抱えて一日一日をやっとしのいでいま す。月日を重ねるにつれ、悲嘆は増すばかり。よちよち歩きのころから花を摘み、いとおしんでき ました。娘に花を見せてやることだけは続けてきました。 事故現場には夫か、もう「兄ちゃん」と呼んでくれる妹のいなくなった兄が運び続けました。 全国の交通事故死亡者は年間1万人。死者の無念の思いを忘れてもらわぬよう、すべての遺族が 現場に花を供え続けたら、車の利便性を享受するだけで、事故などひとごととしか感じない人々に、 車社会について考えていただけるのではないでしょうか。
1994年3月23日 朝日新聞「声」 戸川 孝仁 幼く逝った娘、散骨し慰める たった9歳という幼さで娘が逝ってしまって半年が過ぎました。交通事故という突然ふってわ いた出来ごとに私たちは打ちのめされ、いまだに悲嘆のどん底にあります。 娘が不憫(ふびん)でならず、まだ遺骨は手元に置いてやっていますが、妻は自らの手でかわ いい骨壺を(こつつぼ)を焼いてやり、娘はいま、その中に納まっています。 約半分量残った遺骨を、私は機会をみて散骨しています。生前の娘は自然が大好きで、常に花 に囲まれて育ちました。 梅園の紅梅の根方、野水仙の原など、娘が喜びそうな場所、そして娘が生前、その足跡を残し た、例えばがんばって登った山の頂など、さらにいつかは娘と一緒に行きたかった旅先にも連れ ていき、景色のよい所を選んで散骨するのです。 散骨とはいっても、ほんの少量の遺骨を深く掘った地中に埋めるのですが、こうした行為を快 く思わない人もいるのではないかと思います。 そのため、散骨は必ず人目を避け、場合によっては夜陰に乗じて行うこともしばしばです。 何とも気のめいる、悲しい行為と日々ですが、これが不運に死んだ娘への親としてしてやれる唯 一の務めであると、私は確信しています。
1993年9月13日 朝日新聞「声」 戸川 孝仁 交通死の娘に心込めた葬儀 自転車に乗った9歳の娘は、暴走してきた乗用車にはねられ、短い人生を路上に散らしてしま いました。狂乱状態の私たち親でしたが、周りの人たちに叱咤(しった)され、ともかく葬儀を ということになりました。 自然が大好きだった娘にふさわしい葬儀をという母親の願いから、私たちは従来の形式にこだ わらない形式にしようと決意しました。 まず一切の宗教色を除くこと、子供を中心としたわかりやすく、共感のもてるもの、そしてい まわしい交通事故を糾弾する3つの方針をたてました。 祭壇の中心には山野をイメージした、たくさんの花だけで飾ったモニュメントを造り、花の昆 虫や本も配しました。 その中に娘が今まで残した絵や焼きものなどの作品を展示し、近くの壁には娘の生いたちをあ らわす数十点の写真を、母親のコメントつきで張りだしました。 会はお別れ会とし、娘を可愛がってくれた近所の老人やクラスのお友達のおもいで話を中心に、 娘のピアノ発表会のテープや宮沢賢治の朗読をバックに流しながら献花でしめくくりました。 何はともあれ終了後、参会者からほめていただきました。 たくさんの友人の寝食を忘れたボランティアがあったればこそとも思いますが、私たちは娘の ために一番良かれと思う形の葬儀ができたことに満足しています。