中平卓馬語辞典

この辞典は、語録でもなければ、批評でもなく、解説でもなければ、本当は辞典でもないのだった。これは私が中平卓馬について考えるための私的なメモだ。紛らわしい題名をつけて、ホント、申しわけないです。

詩人は詩を書くから詩人なのではない。それは生き方の問題なのだ、という言い方がある。詩人のことはどうだか知らないが、中平は生き方の問題として写真を生き、写真というシステムを真摯に考え、まさにそのことによって写真家たろうとした。私自身は中平のそういう生き方や考え方をほとんど知らず、ただ近作を見て、すごい、と思い接近していったのだが、その中で中平の思想、生き方を知った。

写真に思想や生き方が写ることはけっしてない。ありえない。写真にはただ事物が、レンズの前に「偶然あった」事物が写るだけだ。中平がこの世界を写し、世界に再投入されたこの写真と、中平のこの思想はほんとうに繋がっていないのだろうか、それとも? はたまた、中平が言う、未知の事物に出会うまさにそのとき自意識が解体され、再生されるというのは、つまりは一体どういうことなのか? 能動的に解体を目指すこと。受動と能動。自分を開いて世界に身を晒すこと。

中平の言い方を借り(て言い換え)るなら、中平卓馬はまさに我々の前に示されたひとつの巨大な疑問符だ。そして、その疑問は大きくなることはあっても、解消霧散することは決してないだろう。

(敬称略)
(最終更新日 2011年5月16日)


[Index]


愛とは嫉妬である〉〈愛の心は安易に消さないこと〉〈〉〈赤馬が見たり
アサヒ〉〈朝日新聞? 0335450131〉〈アタカーマ・チュンガラ
あばよX〉〈暴れん坊将軍〉〈あれ、飼って楽しんでるんだね
あれだ! これだ! 私がここで外化したのは現時点でのひとつの写真結論だ!
言うだけでもいいけどねえ〉〈市村原色版印刷〉〈importantissimo
イメージ〉〈「イメージからの脱出」〉〈馬だけど違う馬だから
うーん、寒くないね〉〈沖縄の、シークヮーサーソーダ!new 男がでてきた
おとなしいんだって!new オレってば、そういう存在だったんだ、今わかったよ
オレの写真見せようか?


階段〉〈火炎像〉〈〉〈カサ・ブランカ〉〈かべなしたくま
鎌倉? 0467?〉〈カミソリ〉〈カメラ〉〈監視の人〉〈北島敬三〉〈象潟
君たちには関係ない人だけど、僕にとっては親友だからnew 99万円new 
議論の錯乱は落語にもならなかった〉〈クリシマ〉〈現像所に傷をつけられた
交通整理〉〈5億円?〉〈ここから……あそこぐらい〉〈ここは、はじめてだね
午後4時〉〈ゴーヤーチャンプルーを食べに行くかnew これはB29だよ、戦闘機だ


再撮〉〈30円ぐらい?new 自画像〉〈自己解体と再生
四国讃岐……徳島県だって〉〈シコクサンシ〉〈知ってる喫茶店があるからそこにいこう
自転車〉〈〜し抜く〉〈シフォン主義!〉〈じゃ送っていきます〉〈社青同
十八歳、海へ〉〈充分に生きた〉〈出発する〉〈小説的虚構new ショート・ホープ
ジョナサンズ〉〈すごい食べ物〉〈すごいね。横浜と全然ちがうよ!
すごく近づいて撮ってるよ。こんなに近づいて撮ったんだっけなあ
生活してもいいの?〉〈全部オーバーなんだよ!
疎開した先にジョナサンズっていうファミリーレストランがあってね
そう! もうすぐ死ぬね!!new その時には離婚まで考えてなかったと思うよ
その人がチャンピオンだねnew 


たいしたことないな〉〈卓馬〉〈食べあげる
中華人民共和国は一切信じない〉〈中小企業〉〈つきじごちょうめさんばんにごう
辻堂団地〉〈吊り革〉〈ディス〉〈ディプティック〉〈天皇
東松照明new 渡嘉敷、具志堅、浜田剛〉〈時計的確化〉〈土砂像
どれぐらい離れればいいの? 30メートル離れてみろっていうの?


ないてないと思うよ。カメの悲しみとか聞いたことないもんね〉〈『なぜ、植物図鑑か』
何法で禁止されているのか!!〉〈慣れたんじゃない?new 日本語
ヌードになってる?〉〈猫じゃなくて違う小さい動物なんだね〉〈ネコス
猫の王国〉〈眠り過ぎだね


はい、そういうことです〉〈バツバツ〉〈ハブ〉〈原宿2-26
バリケン〉〈被害者ヅラをした加害者〉〈左側通行new 百回聞いた話new 
藤田アパート〉〈フール・オン・ザ・ヒル〉〈プロフェッショナル・ミステイク
プロボケ〉〈〉〈ヘンリー・スペンサー・パーマー
他ならぬ、横浜美術館近く、自ら撮影し始めた第一群!!〉〈ポケットnew 

ま・や
まあ、そうだけどねnew マッチ〉〈松永事件new 窓から飛び込む
まんなか横浜駅?〉〈マン・レイって人がきてるの?〉〈ミルクティ〉〈ムツゴロウさん
女神じゃない? 男のカミさんはいないよnew もう消すつもり〉〈もう爆発か
燃えるわけではないよ、俺たちは〉〈もぐり〉〈森山さん〉〈屋根を撮ってるんじゃない
やまいもにたけのこ さざえあわび あげしおにくろだい〉〈柚木明〉〈吉野家さんnew 
弱きを助け、強きをくじく

ら・わ
ライオン〉〈落語〉〈離婚式ってでたことないね。いままで一度もないよ
略歴に下線を引く〉〈ロープ〉〈和風きのこスパゲッティ

(項目末は、採集もしくは記述した日付)


愛とは嫉妬である 『婦人公論』1974年6月号に掲載された「手記・別れてもまだ未練をもたされています−−愛とは嫉妬である」は、中平が書き綴ってきた他の文章とはひときわ異彩を放っている。中平が自らの生活(そしてその苦悩)を書くことはあっても、それは、写真(と、もしくは政治)という世界の中で苦しんでいるのであって、そこから展開する文章はやっぱり写真(と、もしくは政治)に常に帰っていった。77年の破滅に至る過程で、中平の世界は幾重にも停滞が折り重なって、身動きができなくなっていたものと思われる。政治活動の停滞、写真的停滞、だけでなく家庭でも問題を抱えていた。その家庭での一面というか女性関係を覗かせるこの文章は大変興味深い。(2006/2/14)

愛の心は安易に消さないこと SR氏が撮影した〈消さないこと〉というハリガミが写った写真と、友だちの男女が写った写真を組み合わせた時に発言。求めに応じ、そのまま写真の裏に赤ペンで書き記した。直後に「あえて消すこと」とにこやかに発言。(2004/03/12) → →愛とは嫉妬である

 中平卓馬は赤を好む。というよりも「赤白」か。普段の中平は、赤いキャップ、赤いスニーカー、キヤノンの赤(白)のストラップ、赤いTシャツ等を身につけ撮影に出発する。吸う煙草は赤い意匠のショート・ホープ・ライトで、筆記用具は赤いボールペンだ。例えば、彼の蔵書にあった、記憶を失う以前の書き込みには紺の万年筆を使用しているし、赤への執着が1977年以前に発表された文章の中にもないので(火への執着はあるかも)、赤にこだわるようになったのは倒れて以降のことと思われる。何故、赤なのか? という問いに中平は、「ベイスターズ(のユニホーム)は赤白だったね」「横浜に越してきて赤白の塔があった」などと答えるのだが、そこに本質的な意味はないのかもしれない。中平の世代に赤といえば共産主義なのかもしれないが、中平は左派だが、共産主義、というか共産党に対して首尾一貫否定的な態度をとり続けているので、それはベイスターズが赤白ユニホームだった以上にありえない。とりあえず今のところ、中平には赤が似合うとしか言えない。(2004/03/15) →中華人民共和国は一切信じない

赤馬が見たり 『映画批評』に1971年7月から12月にかけて6回連載された赤瀬川原平との連載。「赤」が赤瀬川で「馬」が卓馬だろう。タイトルはテロリストかつ作家であるロープシンの『黒馬を見たり』(漆黒の馬)からの借用(?)であると思われる。6回といっても、11月号では「赤馬が見たり(馬抜き特別号)」、12月号では「赤馬が見たり(替馬代走)」というタイトルが示すとおりラスト2回は「馬抜き」で、これは中平がパリで開かれていた「第7回パリ青年ビエンナーレ」に出展するために日本を離れていたためだ。赤瀬川とはかなり親しかったようで、いろいろメディア上でも(それ以外でも)接点はあるのだが、それはまた別項で。(2006/2/14) →赤瀬川原平

アサヒ 写真家になってからつねに〈アサヒ派〉であった中平は、記憶喪失後もアサヒと決別することはなかった。倒れる以前の中平が『アサヒカメラ』『朝日ジャーナル』『アサヒグラフ』に執筆した記事、写真はとにかく厖大で、自分のメディアとして駆使していたことがわかる。倒れた以降も『アサヒカメラ』は写真を掲載する上でも別格の存在として存在し、なかでも1978年に掲載された『写真原点−沖縄』は写真家として再出発する契機となった。
また、中平が〈使える〉巨大メディアはアサヒしか残されていなかった、とも言える。マイニチにいたヤマギシとは確執があった(きっと〈天皇〉と呼ばれるほどのヤマギシの、はっきりとみえすぎる権力構造は、中平の体質と合わなかっただろう)。ヨミウリはカメラ雑誌を出していなかったし(中平「『ヨミウリカメラ』って聞いたことないね」)、1971年の〈松永事件〉によって決定的な〈敵〉となった。(2004/06/07) →松永事件 →つきじごちょうめさんばんにごう →朝日新聞? 0335450131

朝日新聞? 0335450131 朝日新聞のことが話題に出ると、満足そうに発言。なぜ電話番号まで暗記?!(2004/10/4) →アサヒ →つきじごちょうめさんばんにごう

アタカーマ・チュンガラ 横浜の高島屋前にいたという5人組のフォルクローレの人々。そのグループ名。彼らが演奏していた「コンドルは飛んでゆく」の歌詞を中平がその場で訳した。その歌詞に感動して、観客は次々にお金を払ったという。ちなみに、このバンド名は南米にあるアタカマ砂漠のチュンガラ湖から。(2006/2/14)

あばよX 今までの写真展歴について話していた。名古屋「日常 中平卓馬の現在」、沖縄「琉球烈像」、横浜「原点復帰−横浜」、と話がすすんで、「東京ではやってない?」とひとりがいう。もうひとりが「いや、〈あばよX〉があったでしょ、森山さんのところでやったやつ」。すると中平は「はははー」と今まで聞いたことのないかわいた笑い声をあげた。あの写真展を数えるのかという驚きと、あれは数に入らないよという自嘲に聞こえた。(2004/06/29) →FOTO DAIDO

暴れん坊将軍 北島三郎が出演する時代劇。北島は〈め組の頭〉として登場し、小さいながらに悪者を退治し(「一番、ちいさいんだね」)、番組の最後に歌「津軽ジョンガラ節」を歌う。中平が捉える番組のイメージは以上の通り。中平はこの時代劇が好きでよく見ているというが、その視線は暴れん坊であるはずの将軍からは完全に外れており、将軍についての話題が語られることは全くない。将軍=権力についての冷ややかな感情があるのだろうか。単に松平健が嫌いとか?(2004/04/14) →北島三郎 →弱きを助け、強きをくじく

あれ、飼って楽しんでるんだね 土手を撮影行中、くちゃくちゃの犬を連れて散歩している人を見ての発言。まさにその通りでしょう。(2004/03/29)

あれだ! これだ! 私がここで外化したのは現時点でのひとつの写真結論だ! 2004年にシュウゴアーツでひらかれた「なぜ、他ならぬ人間=動物図鑑か??」展に掲げられた中平の言葉。(2009/07/10)

言うだけでもいいけどねえ 中平さんの写真集を作りたいねえという話をしている時の会話。
−−「俺が500万、ポンと出す、といいたいけどねえ」
中平「言うだけでもいいけどねえ」(2008/09/06)

市村原色版印刷 プロヴォークの3号を印刷した会社。1、2号は「凸版印刷」(2010/01/21) →プロボケ

importantissimo(伊) 「最重要」とかそういう意味。以前、中平が気に入った写真のマウントによく記載していた単語。ほかに〈importantisimas〉(西)、〈exelentisimas〉(西)等。最近ではほとんど書くことはなく、「葉山」などと赤いポールペンで地名を書き記すのみだ。(2006/3/9)

イメージ 中平がいうところの〈イメージ〉とは、〈人間の、世界をこうあれかしと思い描くア・プリオリな理念、像〉のこと。作家はこの脳内ビジョンにしたがい、みずからの作品を作り上げる。
古来、芸術家には強力な〈イメージ〉、そしてそのビジョンが封じ込められた作品が求められていたが、現代においてそれは、世界をあるがまま見ることを怠らせ、世界から目を閉ざすことを意味するようになる、と中平は考えた。
中平は自分の写真から自らの〈イメージ〉を排除し、あるがままの世界を見つめることを求めあがくようになる。(2004/04/06) →『なぜ、植物図鑑か』

イメージからの脱出 「オレが何がしか四苦八苦して考えだしたことなどはもうとっくに昔の人に言われてしまっているのだ。昔の人はいいことを言う。オレはほとんどこんなことを書き続けることに耐えられなくなってしまう。だが危機一髪気をとり直してこう呟く。昔の人は無限にいるがオレはたった一人なのだと。多勢に無勢だ。負けるのが当たり前だと」(「イメージからの脱出」『デザイン』1971年3号)。アラキ語で言えば「マタ過去ニ真似サレチャッタナー」ぐらいの感じのことか。このあたりの温度差がナカヒラとアラキの差かもしれない。(2006/8/22)

馬だけど違う馬だから 寺山は競馬が好きだった、などと話している時に、「競馬、やったことないね。(俺は)馬だけど。違う馬だから」と発言して競馬場で走ったことを否定した。寺山だって競馬はやってただろうが、馬と一緒に走って参加したりしてはなかったんじゃないだろうか。(2004/03/29) →寺山修司

うーん、寒くないね 午前中には既に30度を越えて、さらに暑くなるばかりの日。中平は長袖のTシャツの上に赤いウィンドブレーカーを着て現われた。修行なのか? 熱中症で倒れられてもこまるので、むりやりウインドブレーカーを脱がしたら、「うーん、寒くないね」と真顔で言った。(2010/07/15)

沖縄の、シークヮーサーソーダ!  山下公園前のデニーズでウエイトレスのお姉さんに元気よく注文。「沖縄の」の後に強いタメを作って発音。メニューには「沖縄」とは書かれてはいない。嬉々として注文し、8割方残す。(2008/07/03)

男がでてきた  以前飼っていた猫のネコスが黒い雄猫を産んだ、という意味の発言。(2005/12/22) →ネコス →クロベエ

おとなしいんだって!  八戸の観光牧場で放牧されている馬の説明板に「人懐っこくおとなしい」と書かれているのをみるやいなや、「おとなしいんだって!」と突如柵を乗り越えて駆け寄り撮影。(2005/04/08)

オレってば、そういう存在だったんだ、今わかったよ 2003年11月22日、横浜美術館での「原点復帰」展に際しておこなわれた担当学芸員倉石信乃のレクチャーを聴き終わっての感想。(2007/04/18)

オレの写真見せようか? 中平のポジをみんなで選んでいてしばらく経った後、中平さんが、フト、「オレの写真見せようか?」と言った。……中平さん、今まで見ていたのは一体?(2008/12/10 )

階段 階段を降りる時はできるだけ2段とばし。リズム的には、2段とばし、2段とばし、とばさない、とばさない、1段とばし、1段とばし、1段とばし、2段とばしで、最後は手すりに体重を預けてムリヤリ3段とばし!(2011/04/15)

火炎像 焚き火を撮影した写真のこと。(2011/03/10)

 中平は傘が嫌いだ。傘をさしながら写真を撮ることに結構な困難があるからだろうか。傘のさしかたも如実に「嫌ってる」ようなぞんざいなさし方で、もはやさしてもささなくても濡れ方はほとんど変わらないようにも見える。(2011/04/25)

カサブランカ 「カッサ・ブランカ」もしくは「カーサ・ブランカ」と発音。モロッコ最大の都市であり、中平の父が好きだったという清涼飲料水であり、横浜にあるマンション。(2007/4/13)→弱きを助け、強きをくじく →ライオン

かべなしたくま 「中平さんの部屋には本棚を置けるような壁がないね」という話をしていたとき、「かべがないって? かべなし? かべなしたくま?」と発言。自意識の壁をなくし、事物の世界がみずからの中に〈めりこんで〉くる瞬間の撮影行為。中平の写真家としての本質=自身に壁を作らない=〈積極的受動性〉(浅田彰)の即興的表現か?(2004/03/16)

鎌倉? 0467? いや、〈0467?〉っていわれてもなあ……。(2004/10/4)

カミソリ 東松照明が森山大道をナタにたとえる対照として、中平をカミソリにたとえた。(2007/12/14)

カメラ 中平は1964年に自ら宣言することで写真家になった。同年、結婚祝いに東松照明からペンタックスSVを貰う(ちなみに森山が結婚した時に東松からプレゼントされたのは『性生活の知恵』という本だった)。森山大道『犬の記憶 終章』にはVSだとの記述があるが(129ページ)これは単なる誤りだろう。SVは1962年発売でボディーが23,500円。露出計を内蔵せず、FP接点とX接点がついている。中川道夫氏が証言するようにフラッシュ・バルブが好きだった中平は、これで夜に閃光を放ち、光が切り裂く暗闇の中を泳いでいたのかもしれない。中平が東松にカメラを貰ったという1964年当時、映画料金(大人)が200円、大学卒初任給1万8千円だったという。

1971年のパリビエンナーレに参加した時には、Nikon Fを持っていったことが分かっている。発表された写真に写っている。当時発行のキヤノンの広報誌に掲載されたパリビエンナーレの写真のキャプションを見ると「Canon F-1」という記述もあり、F-1も持って行ったのか、Fで撮影した写真をF-1で写したと称したのか、よくわからない。中平の気質上、カメラを2台持っていくということはなさそうだけれど。

中平が現在も使っているキヤノンF-1(旧)は1971年に発売された。キャンペーン用にキヤノンがプロカメラマンに蒔いたものを中平も入手したのがきっかけのようだ。今あるこの個体を、70年代からずっと使い続けてきたということでは決してない。中平は日中は片時もカメラを手放さず、またカメラの扱い方がある種ゾンザイなために、また多くのF-1を使い潰してきている。

視角をコントロールするレンズ。昔は28mmで、今は100mm。きっと中平は「標準」がきらいに違いない。(2004/03/24-2007/12/14全面改稿) →〈サーキュレーション−−日付、場所、イベント〉

監視の人[1] 2003年の「原点復帰」展。監視の仕事で展示室の隅に座っていた女性が、中平の写真の中に幼少期の自分の姿を発見した。中平に写真を撮られたこと自体、その写真を見るまで忘れていたらしい。

[2]「原点復帰」展が閉幕するとき、監視の方々が全員集まって拍手で中平を見送った。定期券を買ったほうがいい、というぐらい自身の写真展に日参していた中平だが(そしてそんな作家は開館以来中平ただひとりだったわけだが)、ただ毎日通っていただけではそんな空気を掴めないのではないだろうか。(2011/04/25)

北島敬三 新宿のPhotographers' garellyを訪れたとき、中平は、「北島敬三って人がやってるの。北島三郎の息子?」と言った。(2004/08/13) →北島三郎

象潟 きさかた。妻の出身地。山形県。77年、倒れたのち、療養と撮影を兼ねて立ち寄る。この撮影は『新たなる凝視』として結実する。(2004/8/30) →もぐり →『新たなる凝視』

君たちには関係ない人だけど、僕にとっては親友だから 2004年にNHKの番組撮影で訪れた沖縄。一緒に飛行機に乗ってきた NHKクルーの機材が出てくるのを一緒にちょっと待っていたが、すぐにシビレを切らす中平。空港まで迎えにきてくれているという沖縄の友人Tに一刻も早く会いたいのだ。しかしNHKのクルーにとってもふたりの再会は押さえるべき必撮のシーン。中平が冒頭の言葉を捨て置いて走り出す。ようやく揃った機材を抱えて追いかけるクルー。後にNHKの人たちは自分の仕事を忘れて、あれはかっこよかったなー、と回想していた。(2004/02/02)→新日曜美術館

99万円 去年の年収が99万ぴったし(「写真は詐術だ!!」『workshop』第2号、1974年12月1日発行)。(2011/05/11)

議論の錯乱は落語にもならなかった 2005年に行われた八戸「メガネウラ」展のシンポジウムを聞いての感想。(2005/09/22) →落語

クリシマ 中平の心の中に存在する幻の沖縄の離島。通常〈クリシマっていうのがあるんだってね〉というような伝聞形で語られる。中平の場合、作話系の話はほとんどの場合伝聞形で語り、自分の責任をうまく回避している。2006年2月10日、「テルヤジマ」という島も新たに出現。(2006/02/10)

現像所に傷をつけられた ポジをそのままポケットに入れ持ち歩く中平。当然のようにつく傷を、当然のように現像所に責任転嫁。(2007/09/05)

交通整理 日本では車両より歩行者が優先だ、というのが一応のルールらしいが、歩行者である時も中平は率先して車に道を譲る。譲りかたはちょっと独特で、車がそう動くであろう、という未来の軌跡を指先で弧を描くように運転者に指し示す。そして来た車来た車につぎつぎと道を譲り続ける。その時あたかも交通整理をしているように見える。というか、その時中平の目的は交通整理をすることになっているように見える。(2011/04/15)

5億円? 写真展の打ち合わせをしていた時の会話。
−−「プリントの製作費は全部出してくれるんですって」
中平「5万円?」
−−「……」
中平「5億円?」(2011/02/19)

ここから……あそこぐらい 1、自分が綱島で撮影した蛇が、いかに大きかったを身振りで示す。椅子に座っているときには通常、立ち上がって2メートルぐらい離れる。
2、自分が宮古島で捕獲したタコが、いかに大きかったかを身振りで示す。椅子に座っているときには通常、立ち上がって2メートルぐらい離れる。(2006/2/23)

ここは、はじめてだね 撮影行中よく発言。この場所にははじめて来た、という意味ではおそらくなく、この〈時〉この〈場所〉この〈状況〉を向かえるのがはじめてだということ。中平の世界認識の一端がうかがえる。中平は日々迎える日常を〈これは、はじめて〉と認識しているのかもしれず、写真家にとってこれほど強いことはないだろう。(2004/03/12) →〈サーキュレーション−−日付、場所、イベント〉

午後4時 夕食の時間。それから午前1時に寝るまで食事はしない。なぜ4時なのか。中平の友人Tの説では、倒れて以降「4」という数字に恐怖を覚えるようになり、それを克服するためにあえて4時に食事をするようにしたのだ、という(余談だが、その頃はトンネルを通ることにも恐怖していたとのこと)。現在はそういう恐怖感のようなものはミジンも感じられないが、食事の前に喫茶店に入り、4時に食事をして、その後また喫茶店。少しあるいてさらに喫茶店というようなスケジュールに、こちらはある種の恐怖を感じざるをえない。(2007/05/10) →12時12分

ゴーヤーチャンプルーを食べに行くか 今日は原宿のあたりを歩いてみましょうか、という問いに、中平は「原宿は何度も行ったから、ゴーヤーチャンプルーを食べに行くか」といった。そのあたりでの暗黙の了解としては、「ゴーヤーチャンプルー」というのは、横浜にある「沖縄時間」という店で中平がいつも食べているメニューで、つまり「横浜に行くか」という意味なのだけれど、横浜は原宿の百倍は(比喩ではなく)行ってるはずだった。(2008/07/31)

これはB29だよ、戦闘機だ 自身の横浜展で、1960年代に撮った旅客機の写真を見て。(森本美絵氏証言)(2004/9/27)

再撮 うず高くつまれた中平自室のポジ。整理という概念の涯にあるようなこのポジの山にも、実はいくつかの分類が存在する。まず、イルミネーターの上に乗っているのは、中平が一番よいと考えているもので、その周りに積まれているものが場合によっては使ってもいいものだ。「風景」の山とも呼ばれる。そして捨てる山。そしてその間にあるのが「再撮」の山だ。うまく撮れなかったのでまた同じ場所に行って「再撮」するというのは、偶然の出会いを求めるという中平の撮影行為にずいぶんそぐわないようにも感じられるが、「再撮」ポジの中には、二度と出会えないような街中であった猫などもみられ、中平のいう「再撮」とは単純にその被写体をもう一度「うまく」撮る、というようなことでもないらしい。(2007/09/05)

30円ぐらい? 「こっちの方が(バス停に)近いよ」と右に行こうとする中平に、「地下鉄で行くと安いですよ」と左へ誘導してみると、中平は「30円ぐらい?」と言った。そうですよ! 30円どころか10円しか違わないんですけどね!!(2008/07/03)

自画像 自身が写した『新たなる凝視』掲載の馬の写真を称して。(2006/2/14) →馬だけど違う馬だから →『アデュー・ア・エックス』 →『新たなる凝視』

自己解体と再生 中平の撮影行為とは、自己を超えた存在と〈偶然〉出遇うための、システムとしての行いだ。自己を超えた存在には〈偶然〉にしか出遇うことはできない。中平は偶然の〈出遇いを求めて〉自転車を駆り、街を疾走する。自己を超えた存在と出会うとき、自己は解体され、また再生する。中平の撮影行為とは、その耐えざる積み重ねなのだ。(2004/04/26)

四国讃岐……徳島県だって 「四国讃岐」というウドン屋で働いている人の出身地が徳島だということ。通常「さぬき」は香川県。→シコクサンシ(2006/11/8)

シコクサンシ 神奈川県鴨居にあるうどん屋。「四国讃岐」。中平が入店すると「先生、いらっしゃいませ。いつもので?」と暖かく迎えられる。「いつもの」とは雑煮定食のことで、今はもう記されていないのだが、中平のために今でも提供される特別メニュー。(2007/4/13) 2011年2月に残念ながら閉店したという情報。(2011/3/31)

知ってる喫茶店があるからそこにいこう 続けていわく「プロントっていうとこ」。中平さん……普通プロントをそういうふうにはいわないような。(2004/06/18)

自転車 中平が自転車に乗るとき、最初は肩にかけられていたカメラは徐々に擦り落ち、ストラップの支点は肘に移動する。写真家は気にせずそのまま走り続けるので、カメラは街にある様々なモノと偶然に出会い(それはもう衝撃的に)、カメラは自己解体を余儀なくされる。そして多分再生はしない。(2011/04/15) →自己解体と再生 →カメラ

〜し抜く 強い決意をあらわす表現。倒れる以前にもよく用いているが、倒れて以降、『アデュー・ア・エックス』などに掲載された文章の〈〜し抜く〉は、読む者の胸を激しく打つ。(2004/06/23) →『アデュー・ア・エックス』

シフォン主義! 自販機でミルクティを買おうとする中平。
「あ、シフォン(という銘柄)があるね」
「シフォンが好きなんですか」
「うん、シフォン主義!」(2008/02/05)

じゃ送っていきます 「知らない人と偶然あって、〈中平さんですか〉っていうから〈そうです〉って。〈迷ってるの?〉〈ううん〉〈じゃ送っていきますって(笑)〉」(2008/09/06)

社青同 赤白の塔にこだわりを見せる中平。「電波塔ってなんで赤白ばっかりなんでしょうかねぇ。青白とかあってもいいと思いませんか?」「みんな、社青同じゃよろこばないと思うよ」といった。学生運動当時、ヘルメットのカラーリングでそのセクトをあらわすということが行われており、社会党系の日本社会主義青年同盟が青いヘルメットを使用していた。(2006/3/17) →原宿2-26 →黒ヘル

十八歳、海へ 中上健次の小説。1977年10月発行、集英社刊。表紙に中平の写真使用。中平が倒れたのは1977年9月11日。なので、この作業の進行中に倒れたのだと思われる。中平自宅にはこのゲラが残っていた。(2010/01/21)

充分に生きた このセリフはふたつの場面で用いられる。
シチュエーション1 父親が享年97歳で亡くなったときに、中平の従兄弟がそう言ったという話。
シチュエーション2 飼っていた猫のネコスが死んだときに息子がそう言ったという話。(2004/04/15) →ネコス

出発する 中平は、自分がどこかに出かける行為を「出発する」という。ただどこかへ向かうのではなく、目的とある種の意気込みを持った上でどこかへ向かう、気合いの入った表現。(2004/04/07)

小説的虚構 『決闘写真論』には、浜辺で中平がネガやプリントを燃やすシーンがある。中平が写真を燃やしていると、浮浪者めいた男が寄ってきて中平と謎めいた会話しつつ、中平の火を自在にあやつる。
当時中平のアシスタントだったN氏は、実際にネガを燃やす現場に立ち会ったという。その時には、中平、中平の奥さん、N氏と3人でタンスの引き出しごと持っていって、その中身を燃やしたというが、そんな男は現われなかったとのこと。
『決闘写真論』の記述が事実だとすれば、その時とは別の日に、中平ひとりで燃やしに行ったのかもしれないが、おそらくはきっと小説的虚構というべきものだろう。(2011/05/16 ) →ネコス

ショート・ホープ 中平が常用するタバコ。おおむね一日ひと箱ぐらいか。正確をきすなら〈ショート・ホープ・ライト〉でパッケージ表には赤い弓矢のイラストがある。
このタバコにつけられた名、「短い希望」に中平は自分の写真(撮影行為)と共鳴する響きを感じ取った。中平は1989年の写真集『アデュー・ア・エックス』に、写真により世界を総体的に把握することは難しく、世界を撮影するという行為は短い希望が得られるにすぎないのだが、その行為に依拠して生きている、と書く。
また、いろいろな異説があるのだがそのなかでも、もっとも最初のものだと思われるエピソードは以下の通りだ。
友人Tがロング・ピースを吸っているのを見た中平が、〈この悪い時代に長い平和? オレはこれだぜ、短い希望〉と絡んだ。その後、友人はピースを捨て、ショート・ホープに鞍替えしたという。その話を語る友人Tも、くゆらしているのはラッキーストライクだった。時代はゆっくりだがすすんでゆく。(2004/04/07)

中平は愛用の〈ショート・ホープ・ライト〉をとにかく根元まで吸う。フィルターのところまで辿りついた火は、最後の灰とともに灰皿の中に落とされる。それゆえ中平の指はヤニで茶色く染まっている。この光景は「短い希望」に中平が〈すがりつく〉ようにみえないこともないのだけれど、ABCで行われたトークショウで倉石信乃が発言した「タバコというのはつかの間の希望だ」的なセリフを直ちに否定していたので、そういう見方はただしくないのかもしれない。野外で吸い終わったとき、手に残されたフィルターのみの吸い殻は、ジーンズの小ポケットに格納される。(追記2007/06/15) →『アデュー・ア・エックス』

ジョナサンズ 各地に点在するファミリーレストラン。このファミレスで中平がビートルズと一緒に和風きのこスパゲッティを食べたとき、〈このレストランはジョナサンでもジョナサンスでもなくジョナサンズだ。我々はビートルでもビートルスでもなくビートルズだ〉と教わった、という。確かにアルファベットでは〈Jonathan's〉と綴ってあるね。(2004/04/06) →和風きのこスパゲッティ →ビートルズ →疎開した先にジョナサンズっていうファミリーレストランがあってね

すごい食べ物 『Hysteric Six Takuma Nakahira』に収録されているアメフラシとおぼしき物体が移った写真を指差し、「すごい食べ物なんだって」と繰り返し語る中平。地元の漁師がそういったのだという。あまり確実でない話をするときの中平はいつだって伝聞形だ。(2006/10/4)

すごいね。横浜と全然ちがうよ! 東京、門前仲町で寝てる人を撮影中に発言。「なにが違うんですか?」「人が。人が全然違うよ!」。……同じ人が寝てたら怖いじゃないですか、中平さん。(2004/06/18)

すごく近づいて撮ってるよ。こんなに近づいて撮ったんだっけなあ 天皇が掲載されている新聞を複写した、パリでの作品(1971)についての発言。(森本美絵氏証言)(2004/9/27)

生活してもいいの? 目黒の自然教育園で。「ここ、65才以上は無料らしいですよ」「なに? 老人はなんでもできるわけ? 生活してもいいの?」(2006/2/9)

全部オーバーなんだよ! 中平がモノクロームのトライエックスから、カラーフィルムに切り替えたとき、感度が400から100へ1/4になっているため絞りを4段階開けた、というエピソード。(2004/9/24)

疎開した先にジョナサンズっていうファミリーレストランがあってね 中平が疎開した先は葉山で、葉山小学校に通っていた。現在も葉山小学校は存続しており、その近くには中平が今お気に入りのファミリー・レストラン「ジョナサンズ」が建っている。(森本美絵氏証言)(2004/9/27) →ジョナサンズ

そう! もうすぐ死ぬね!! 丸子橋あたりを歩いている時、アスファルトの上をのたうち回っているミミズがいた。それを見た中平は「生きてるよ」と言った。「でももうすぐ死にますね」と返すと、満面の笑みを湛えて「そう! もうすぐ死ぬね!!」と答えた。なぜそんなにうれしそうなのか……。(2007/08/09)

その時には離婚まで考えてなかったと思うよ O氏が結婚した時のことを振り返って。(2004/8/25) →離婚式ってでたことないね

その人がチャンピオンだね 
−−「風邪ひいてないですか」
中平「僕は大丈夫だね」
−−「はやってますよ」
中平「みんな40度でてるって? 死んでるんじゃない?」
−−「42.5度ぐらいなら死なないらしいですよ」
中平「42.5度? すごいね、その人がチャンピオンだね」
そんなチャンピオンにはけっしてなりたくない。(2006/01/23)

たいしたことないな 公園で雑誌の取材を受ける中平。前方のベンチに寝ているおじさんを見つけると取材もそこそこ撮影に。おじさんの前を素通りし、また戻ってきた中平はシャッターを切らなかった理由につき「たいしたことないな」と答えた。(2007/04/07)

卓馬 [1]「一点すぐれた(ところのある)馬鹿者という意味で親父がつけたんだって」、というのが、中平定番の台詞(ギャグ?)だ。高知出身の中平父は、むしろ坂本龍馬をイメージしていたのかもしれない。同じ馬でも上野彦馬ではないと思われる。1964年、中平は写真家を始めるにあたって、東松から結婚祝いとしてペンタックスの一眼レフ(SV)を送られる。そのペンタックスは以前自社製レンズにタクマーと名をつけて売っていた(今はどうだったかな)。赤瀬川原平が中平のことを称して「ぐんぐん伸びるタクマーレンズ」と称したのは、どういうシチュエーションだったか……。(2004/03/25)

[2] 中平を追ったドキュメント映画、小原真史「カメラになった男」の中では「a little excellent foolishest man」と自ら訳していた。「foolishest」のあたりがもしかすると間違っているかもしれない。聞き取れて書き取れているかが自信がない。→一点 →赤瀬川原平 →カメラ

食べあげる 食事を終える。2001年頃から中平と接しているが、肉声として聞いたことはない。日記の中での使用(2004/04/07-2007/05/11) →『新たなる凝視』

中華人民共和国は一切信じない 1971年パリに渡った中平は(ついでにというか、ある目的でというか)北アフリカはモロッコに旅立つ。そこでフランスからの解放闘争が巻き起こっていた。支援に駆けつけた中平の風体を見て中国人と誤解した現地人が「中華人民共和国は一切信じない」と言った、という話。「いっさい」の「っ」のあたりを力強く発音。(ちなみにモロッコのフランスからの独立闘争は50年代に行われ、独立は56年。61年には駐留軍も引き上げている。71年当時のモロッコは、国王派と反乱軍が入り乱れて内戦状態だったようだ。前述の「ある目的」というのはちょっと秘密の方向で。ま、大した秘密じゃないけど)(2007/4/13)

中小企業 70年代の南伊豆。海に潜りトコブシを採集してきた中川道夫氏を中平が揶揄した表現。中平的大企業はアワビを狙う。いやいや大企業は密漁しないと思うけどねえ。(2011/03/10)

つきじごちょうめさんばんにごう 中平は朝日新聞社の住所も暗記している。(2004/06/07) →アサヒ →朝日新聞? 0335450131

辻堂団地 『現代の眼』の編集者であった中平が、柚木明という名を使って最初に発表した写真の被写体。監修を担当していた東松照明がその写真の掲載を決めた。撮影にひとりで行くことを嫌う中平は妻とともに出かけ、妻がヒッチハイクした車に便乗して団地にたどり着いたという。団地は2010年現存。また、ホンマタカシの写真集『きわめてよいふうけい』にも最近の団地が写されている。(2010/08/04) →柚木明

吊り革 中平が電車内で吊り革の輪の部分を掴むことは決してない。中平は輪の上の革のところを掴むのだ。つま先だちになりさらに上の鉄棒を掴むこともままあるのだが、その意味は完全に不明。(2004/10/13)

ディス 北鎌倉にいる体長50センチくらいの動物で、体色は黄色でやや黄緑がかっている。性質はすばしっこいというより根性があり、群れで山を上がっていく。リスとも。(2007/6/15)

ディプティック(diptych) 倒れて以降(すくなくともアデュー・ア・エックスに掲載された写真を撮った時期まで)はヨコイチの写真も多かったが、中京大学の個展の時にはすでにタテイチの写真を2枚組み合わせる、という現在の表現方法に到達していた。2枚組の写真から立ち上がる物語性は確かにあり、中平も「この男を撮ったら、こっちに猫がいた」などと写真の左右の関連を語るのだが、写真の組みはどんどん変更され(「こっち(の組みの方が)がいいかー」)、「物語」は一時もそこにとどまることはない。(2006/2/14)

天皇 会話中、反動の象徴として登場する。もはや天皇制批判などはなく、主に会話相手をヤユする材料として使われる。(2004/03/12)

東松照明 
[1]東松「長いつきあいでかつ、同じ業界にいながら、こういう形で対談するのは初めてだね」
中平「つきあいが長くて、一生をだいなしにされた」(「写真事初」『流動』1977年4月号)
[2]「僕は東松照明がいなければ写真撮らなかったかもしれないけど、ある時期から東松照明をとにかく憎むことに決めたわけです。それでなきゃ写真が撮れないことに気づいた。東松照明は悪い奴だというふうに勝手に決め込んで、東松照明を結果として乗り越えたかどうか全然わからないけれども、とにかく仮想敵国として設定して、それではじめてようやく自分の写真が撮れはじめた」(「写真は詐術だ!!」『workshop』第2号、1974年12月1日発行)(2011/05/11) →仮想敵

渡嘉敷、具志堅、浜田剛 ボクシングの話題になると必ず登場する三人。指を折りながら三人数える。ただこの三人が強かった、というそれだけではなく、中平の中では、虐げられた沖縄人が抑圧する大和を痛快に打ち倒した、というつまり抵抗の文脈に乗っているようだ。(2007/12/14) →弱きを助け、強きをくじく

時計的確化 トケイテキカクカ。自宅の黒電話で時報を聞き、自分の腕時計をあわせること。左手を額の高さあたりまで力強く持ち上げ、確認する。(2004/07/23)

土砂像 うずたかく積まれた土砂、小石、砂利を撮影した写真のこと。(2011/03/10)

どれぐらい離れればいいの? 30メートル離れてみろっていうの? 写真美術館のウィリアム・クライン展観覧時に、監視員からもうすこし離れてみるように注意されてこう発言し、本当に壁際まで移動した。(永沼敦子氏証言)(2004/9/27) →ウィリアム・クライン

ないてないと思うよ。カメの悲しみとか聞いたことないもんね 動物園のゾウガメの濡れた眼を見て。(2006/11/8)

『なぜ、植物図鑑か』 中平は73年の『なぜ、植物図鑑か』の中で、〈植物図鑑〉のような写真がこれから自らが目指すべき写真だ、とした。来たるべき〈植物図鑑〉の条件をまとめると、

1、〈イメージ〉を捨て去り、世界をあるがままに見ること。またそのために白昼に撮影し、事物の陰影を拭い去ること。〈イメージ〉を排除するため、自らの手作業でコントロールできるモノクローム写真ではなく、カラー写真であること。

2、未知の世界との偶然の出会いを待ちかまえること。植物のように「ふとしたはずみで、私の中へめり込んでくるもの」を捉えること。

3、無数の写真で一枚一枚のパースペクティヴ(固定した視点)を消す方向に向かうこと。「部分がつねに部分にとどまり、その向こう側にはなにもない」図鑑的平置を方法とすること。

になると思われる。まだ相当の研究が必要だと思われるが、中平は常に写真的手法の話をすることはほとんどなく、この記述も「手法のように見える」が、実は手法のことではないだろう。つまり物事に対するアプローチや生き方としての比喩だ。だから近作についても、あれは「植物図鑑」を実現しているとは考えない方がいい。ま、こちらも「なんだかそう見える気がする」が、実は違う、と見た方が中平を正しく捉えることになるのではないだろうか(2004/04/08) →イメージ →juxtaposition →"悲しそうな"猫の図鑑

何法で禁止されているのか!! 場所は八戸、種差海岸。海がどんどん満ちてきているのに、海に入り磯の先にまで行こうとする中平。「これ以上行くと帰れなくなりますよ!」と腕をつかんで制止したところ、強くこう抗議された。(2005/09/18)

慣れたんじゃない? 
−−「東松さん、身体の調子が良くないって話、しはじめてからもう何十年って感じじゃないですか?」
中平「慣れたんじゃない?」
慣れるのか? 何十年かすれば慣れるのか、慣れたくないなあ、そんなことには。(2011/05/12)

日本語 1977年、中平は記憶と同時に言葉、日本語をも失った。2004年6月18日にすこしそのことを質問をした。「奥さんの喋る日本語がわかったのか?」との問いには返答を返さず、「日本語は思い出したのか? それとも学習し直したのか?」との問いには、「思い出したところもあったし、辞書を引くこともあった」と答えた。(2004/06/23) また意識が目覚めてすぐにはスペイン語を話したといわれる。このことを2005年2月に中平の姉に確認したところ、英語とスペイン語だけを話していた時期が確かにある、ということだった。(2005/2)

ヌードになってる?  「中平さんヌード撮ってましたっけ?」「オレがヌードになってる?」(2008/09/06)

猫じゃなくて違う小さい動物なんだね 自身が撮影した猫じゃない違う小さい動物を指して。(2004/9/24)

ネコス ネコスとは飼っていた猫の名前だ。戸塚のあたりにネコスという椅子会社の看板があり、横須賀線の車窓から見た中平の息子がそれをヒントに名付けた。『決闘写真論』になぞの記述がある。「それ以来、息子が飼う猫はみんなネコスだった」。そういう事実は今のところ確認されていない。それは小説的幻想かもしれない。(2006/2/14) →男がでてきた →クロベエ →充分に生きた →小説的虚構

猫の王国 赤瀬川原平が出したという幻の写真集。もしかすると『猫の宇宙』(中央公論新社 、2001年4月)のことかもしれない。(2007/5/11)→赤瀬川原平

眠り過ぎだね 2004年、撮影旅行に同行して、機上中平の隣の席で寝ていたら、そう言って笑いながら揺り起こされた。(2011/04/25)

はい、そういうことです 近所の人「先生げんき?」/中平「ええ」/近所の人「名キャメラマン!」/中平「はい、そういうことです」(2009/05/20)

バツバツ その人との関係が悪くなっていること。また、その状態。「あの人とは今バツバツだから」などと使う。1977年以前によく使用していたという。最近使用されることはない。(2004/03/29)

ハブ[1] 中平は一匹の蛇を撮影し、個展「原点復帰−横浜」(横浜美術館)やアサヒカメラ「あえて望んだ斬新熟視」(2003年10月)に発表する。
中平はこれをハブであるという。この蛇の撮影場所が鎌倉であることや、大きさ、模様などからこの蛇がハブである可能性は限りなく低く、なんども訂正するのだが、それでも中平はこの蛇がハブであると主張し続ける。
こちらも〈もうハブでいい〉という気持ちになって来ており、通常この作品は〈ハブ〉と呼ばれることになった。
この、おそろしく低い可能性(つまりあの蛇がハブだという)にかける姿勢に、偶然の出遇いに価値を求める中平の生き方を垣間見たりもするのだが、これはちょっと穿ちすぎかもしれない。(2004/04/15) →

[2] この蛇のことを中平が何回も何回も〈ハブ〉といいつのるのは、こちらの人格を試しているのかも知れないと思うこともある。「そうですか、ハブですか」なんていうと「こいつはすぐに迎合するダメなやつだな」と思われてしまう、という……。(2004/08/13) →

原宿2-26 中平が生まれた時に家族が住んでいたところ。「中平さんは原宿生まれなんですよね?」「代々木じゃないよ」というのは何回か繰り返された中平定番のギャグ。これがなぜギャグなのかわからない人は、自分の若さを誇ってよい。(2008/09/08-2011/03/31)

バリケン 中平が最近もっとも撮影する被写体のひとつ。ゴツゴツとした赤い顔を持ち、アヒルよりひとまわり(ふたまわり?)大きいサイズの鳥類。中平の撮ったこの異形の鳥を見ていると、白日の元にさらされた事物のパワー、事物の思考と私の思考との共同作業、その涯の幻想性、世界が自分にめり込んでくる瞬間、などという中平が狂おしく追求した『植物図鑑』の思想を感じずにはおれない。これが『植物図鑑』が具現化した写真か?!と。……まあ、バリケン、鳥類だけど。(2004/04/03) 最近、バリケンを撮ることは少なくなった。もっとも多く被写体となっていた大綱橋にいた個体が、改修工事でいなくなってしまったのかもしれない。(2006/11/14) 最近になってS氏から、この鳥が死んだという情報を聞いた。以前生息していた場所に慰霊の看板が掲げられているという。(2007/4/13) →『なぜ、植物図鑑か』

被害者ヅラをした加害者 森山大道が中平を称して(『犬の記憶終章』)(2007/12/14) →森山大道

左側通行 「電車に乗る際は列を作って順番に」など、世に数多あるルールからほぼ完全に解き放たれている中平がなぜかもっとも気にして遵守しているルール。他人の自転車の逆走にも非常に厳しく、必ずチェックを入れ、異議を申し立てる。赤信号なんて全然気にしないのになあ。(2011/05/09)

百回聞いた話 通常「もう百回聞いたよ」というのは単なる比喩で、「その話を実際に百回聞いた」という意味では決してないけれど、中平から百回(以上)聞いた話は、実際にいくつもある。「松永事件」「蛇のおじさんの話」「ビートルズと和風きのこスパゲッティ」「アタカーマ・チュンガラ」「牧子さんの話」等がそういう話。同じ話でも徐々にパーツを入れ換えながら微妙に変化していくことに注意。(2011/04/25) →松永事件 → →和風きのこスパゲッティ →アタカーマ・チュンガラ

藤田アパート プロヴォーク発刊時、事務所が置かれたアパート。住所は「東京都港区北青山3-8-3」(2010/01/21)

フール・オン・ザ・ヒル 2004年2月29日、NHK教育〈新日曜美術館〉で中平が取り上げられた際、あたかもテーマ曲のように使われていたのがこの曲だった。ビートルズが好きだという中平へのオマージュだったか?(2004/04/06) →ビートルズ

プロフェッショナル・ミステイク プロミスという黄色の看板をみて、「プロフェッショナル・ミステイク」と独り言のように呟く。(2009/05/20)

プロボケ 多木浩二らと発行していた同人誌『provoke』のことを自嘲気味に表現。(2007/2/19)

 『アサヒカメラ』(2003年10月号)に「あえて望んだ斬新熟視」のなかの1枚として発表した蛇は〈ハブ〉であり、『アサヒカメラ』(1993年9月号)の「刷新たる撮影起結」に発表されたものが〈ヘビ〉である。ヘビが川からあがってくる。小学生が中平に助けを求める。「どこかのおじさんが(ヘビを殺すため)警官を呼んだ、早く逃がしてくれ、悪いヘビじゃない」と。中平は写真を撮ってから両手で掴んで逃がす。ヘビは川を泳いで去っていく。幾たびも語られるストーリー。 →ハブ →弱きを助け、強きをくじく

ヘンリー・スペンサー・パーマー 2003年、横浜美術館で展示された「他ならぬ、横浜美術館近く、自ら撮影し始めた第一群!!」の中の一枚。横浜水道の父。野毛山公園内にある銅像。(2007/05/08)  2011年のキリカエ展に再び登場。パーマーは1838年生まれで、中平とちょうど100歳違う!(2011/04/27) →他ならぬ、横浜美術館近く、自ら撮影し始めた第一群!! →キリカエ

他ならぬ、横浜美術館近く、自ら撮影し始めた第一群!! 横浜美術館での個展中、あらたに撮影した写真を入り口付近に設置された仮設壁面に貼り付けていった56点(7行8列)の作品。(2006/2/24)

ポケット 傘だけでなくカメラ以外のモノを手に持つのが大嫌いな中平は手に余るモノをなんでもジーンズ後ろのポケットにねじ込む。飲みきっていない350mlの缶、農場で頂いたトマト……だいたいその後の惨状は想像の通り。(2011/04/26) →

まあ、そうだけどね 葉山を歩いている時、中平は突如、友琉館を発見した。発見と言っても友琉館はすでに何回も中平の被写体となっている焼き肉屋で、その道を歩いていれば100パーセントの確率で視界に入ってくるわけだが、中平の中にはやはりはっとした驚きが生じているように見える。と、同時に突然道をわたり、入店しようとした。食事は既にすんでいたので、「ここには入りません、もう食べませんよね?」と問うと中平は「まあ、そうだけどね」とのんびり言った。(2009/08/13)

マッチ 徳用マッチの箱から一本取り出すと、もう中身を使い切って随分経ち、よれよれになった「喫茶吉野」のカラで擦る。「そんな勢いはまったく必要ないのでは?」、というぐらいのタメと勢いでマッチを擦って火を着ける。顔を近づけショートホープに火を着けたのち、マッチの火を消すために大きく2〜3回振る。小さい火は消えておらず、それでも構わず灰皿に捨てる。灰皿の中で再び燃え上がる炎。(2011/04/26) →喫茶吉野

松永事件 中平が何回も繰り返すいくつかのストーリーの中でもベストワンは松永事件だろう。語る度に徐々に細部が更新されていった都合上、事実とそのストーリーはすこし違ったものになってしまったが(「(その新聞に掲載された)写真を一目見て(彼が犯人じゃないということが)わかった」「(彼が)こう腕を出してるんだよね」など)、中平が自らの写真論、写真の記録性を考える上でこの事件が転換点になったこと、この裁判への支援が中平を沖縄に結びつけたこと、そしてその千回繰り返さざるを得ない気持ちの強度と、中平を考える上でけっして欠かせないポイント。(2011/04/26)

窓から飛び込む 1977年に倒れた中平が入院していた時のエピソード。病室の窓からトリを見た中平は、それを水の中を泳ぐサカナだと思い、3階の窓から(現実には空気でしかない水の中に)飛び込みそれを捕まえようとした。現在でもセミやサカナをトリと言ったり、ヘビをリスと言ったり、モノとその名称との関連付けは混乱しているが、前述のエピソードを考えると、「名称の混乱」というよりももっと深いなにかなのかもしれない。(2011/04/15)

まんなか横浜駅? 北新横浜駅という駅名を目にしての発言。すこしずらした視点・言葉により、陳腐化させまた混乱させるのは中平の会話の常套手段。(2004/03/16)

マン・レイって人がきてるの? 銀座にあるハウス・オブ・シセイドウの「マン・レイ」展に行った時に。(2004/06/18)

ミルクティ アイスでもホットでもよく注文する。次点はオレンジ・ジュースか。喫茶店でコーヒーを頼むことは決してなく、また出先でコーヒーを出されても口をつけることはない。有名な中平の日記における「昼寝xx時間可能!!」にもあらわれている、不眠恐怖の一環だと思われる。また飛行機や新幹線など、長い旅程にも寝ることは(ほとんど)ない。(2004/06/23) →不眠恐怖 →日記

ムツゴロウさん 中平はある日出会った子供から「ムツゴロウさん」と呼ばれたという。その子供にはテレビにでてくるタレントに似てみえたのかもしれない。中平は、自身がちょうど65歳になるからそのゴロ合わせで「ムツゴロウさん」と呼ばれたのだ、と言い張っていた。そして、その話を大変気に入り70歳近くになるまで続けた。(2011/04/25)

女神じゃない? 男のカミさんはいないよ 八戸市内で観音菩薩像をみて。わりとうまい。(2005/04/11)

もう消すつもり 飲みかけの缶入りミルクティをずっと持ち歩いているので「もう飲まないんですか?」と聞いたら「うん、もう消すつもり」といった。だから消しましたよ、消去!(2011/03/24)

もう爆発か 2007年4月11日発行の自身の批評集『見続ける涯に火が…』の書名を指でなぞりながら読み、そのまま間を空けず「もう爆発か」と続けた。冗談めかしていたが、火と爆発を今でも希求する気持ちは昔も今ももち続けているのだと思う。(2007/04/20) 2007年4月22日に行われたABCのスライド・ショー・アンド・トークでは、『見続ける涯に火が…』には「〈ありや、なしや?〉と続けないと」、と言っていた。(2007/04/22) →EXPLOSION →ヴィヴァ・ラ・ムエルテ

燃えるわけではないよ、俺たちは 「今日は暑いですね」と声をかけたとき、不意に返ってきたセリフ。(2007/6/29)

もぐり 中平と泳ぐこととは切り離すことができない。中平と写真を切り離すことができないように。中平は、自分は泳いでいるのではなく「もぐって」いるのだという。また、ただ泳ぐということは意味のない行為だとも考えているようだ。もぐるのであれば、なにか獲物を(ヤスで)突かなければならない(「ここらへんで泳いでみますか?」「こんなところ、なにも獲れないよ」)。1977年に倒れたのち、静養もかねて妻の出身地である象潟へ向かった。ここでも中平は冬のさなかにもぐり、自分の義父から「まだ、んぐりか? や・め・れってんだ」と言って止められたことを、その秋田言葉をマネしながら話した。(2006/2/14) また、12月25日の父親の誕生日には必ず海にもぐり、海の幸をプレゼントしていたという。(2007/4/13) →象潟 →葉山 →やまいもにたけのこ さざえあわび あげしおにくろだい

森山さん 
−−「中平さんは森山さんと親交が深くておられるので……」
中平「ああ、そうなの?」(2008/10/16)

 

屋根を撮ってるんじゃない 川崎生田にある民家園で、中平が古典的な屋根を撮影中、同行のものが「なぜ、屋根ばかり撮るのか?」と聞いたところ、中平は「屋根を撮っているんじゃない」と答えた。その後「何を撮っているのか?」との問いには無言で撮影を続けた。(2006/7/11)

やまいもにたけのこ さざえあわび あげしおにくろだい 戦中、中平一家は葉山に疎開した。食糧難のおり、中平の父親は家族を養うため、葉山の豊かな自然のなか狩猟採集して食料を集めた。実際の生活がどうだったかはわからないが、指を折りながらゆっくりと発音する中平を見ると、物質的なことはさておき、豊かだったととらえられているのではないだろうか。また、この時期に中平は〈もぐり〉を父親から学んだという。(2004/07/27) →もぐり →葉山

柚木明 「ゆずき」なのか「ゆのき」なのか、「あきら」なのか「めい」なのか、あるいははたまたそれ以外なのか。以前、「これなんて読むんですか?」と中平に聞いたところ「そできあきら」と答えた。いや、袖じゃないだろう、袖じゃ。(2009/06/17) BLDギャラリーで行われたヨシマス×タカナシ対談に於いてタカナシさんが例の名前をユズキアキラと発音したこと。(2011/02/08) 2011年4月23日のシンポジウムで、東松照明は、「ゆずきあきら」と発音したが、倉石信乃の「ホントにそうか?」との問いにはわからない、と答えた。また、以前(1993年頃)多木浩二に別の人がインタビューしたときには、その読み方を決定できなかった、という。
……しかし、なんでこんなこと必死に調べてんのか、私は。(2011/04/25)

吉野家さん 一時期、愛用多用していた牛丼屋。店舗を見つけると「お、吉野家さんがあったよ」「吉野家さんだって」と指を指し同行者に注意を促す。夕食時の午後4時前に見つけると吸い込まれるように入店する。BSE騒動でメニューから特盛が外れた頃から、あまり入ることはなくなったが、それでも吉野家の看板が目に入ると、なにもいわず人差し指を向ける。(2011/04/27) →午後4時

弱きを助け、強きをくじく 中平が語る話には底流にいくつかのパターンが認め得る。そのひとつが〈弱きを助け、強きをくじく〉ストーリーだ。
モロッコの首都カサブランカで解放闘争に加わったこと、沖縄で松永裁判闘争に加わったこと、警察官から蛇を逃がしてあげたこと、め組の頭がちいさいのに悪者をやっつけるとか、弱い少年野球チームに加勢したとか、果てはちいさい栃東が曙を倒すなどいうようないろいろな〈抵抗〉〈反抗〉が形を変えてさまざまに語られる。
この場合、その話の真贋よりも、それを語り続ける中平のメンタリティを問題にするべきだろう。(2004/04/13 ) →カサブランカ →ライオン →暴れん坊将軍 → →松永事件

ら・わ

ライオン 1971年にモロッコに渡った際に出会った抵抗運動のリーダー(「リーダーはライオンだった」)で、かつ野毛山動物公園にいる動物(「中に入って撮った」)。(2007/5/11 )→弱きを助け、強きをくじく

落語 思想性が見当たらず、人を笑わせることを目的としたモノや話を揶揄していう。笑点とも。中平が把握している落語家はふたり。ひとりは「三匹が切る」にでてくる役所広司でも高橋英樹でもないすぐに逃げて行く落語家で、もうひとりは(林家)こん平。(2007/4/13 )

離婚式ってでたことないね。いままで一度もないよ O氏の結婚・離婚話をしている時の発言。中平はウケるとなるとその話題をとことんまで引っ張る。(2004/8/25)

略歴に下線を引く 中平は1977年に記憶を失った。いろいろな表現をされているが、そのとき幼少期の記憶や心の奥底まで深く根をはった事柄以外の、かなりの部分は失われたのだと思う。なぜそう推察できるかといえば、中平が語る過去には厚みが感じられない部分が多々あるからだ。例えば「おれは写真を森山にならったんだよ」などという台詞。そのシチュエーションやディテールが語られることはまったくない。記憶喪失後、相当な努力で、自らの人生を学習しなおした節がある(具体的には自らの著作を読むことによってだ)。自らの略年譜に赤線が引かれているのもそれを裏付けるものといえないだろうか?(2004/03/18)

ロープ 浜田徹監督、中平卓馬撮影の映画。1969年公開。浜田蜂朗が出演している。詳細不明。ほかに中平が関わった映画としては、『天使の恍惚』(若松孝二監督)があり、こちらではスチールを担当している模様。(2009/07/01)

和風きのこスパゲッティ ビートルズと中平は山下公園で偶然出会った。どこか食べるところはないか、と問われた中平はファミリーレストラン〈ジョナサンズ〉に案内し、和風きのこスパゲッティを注文した。ビートルズの面々もそれを気に入って、それぞれ三人前食べあげた、という。スパゲッティが和風である、というところになにかおもしろみを見出していたのかもしれない。いや、マッシュルーム・カットにかけてたわけじゃあるまいな?(2004/04/06) それ以来「和風きのこスパゲッティ」を食べ上げ続ける中平だったが、2年程前のメニュー改編で「和風きのこスパゲッティ」はなくなり今は「カリカリじゃこの和風スパゲッティ」があるばかりだ。とりあえずそれを注文するのだが、「カリカリじゃこの和風スパゲッティ」と発音することはない。(2007/4/13) →ジョナサンズ →ビートルズ →食べあげる