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勒島貿易と原の辻貿易

−粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器からみた弥生時代の交易−

第49回埋蔵文化財研究集会「弥生時代の交易−モノの動きとその担い手−」
当日発表原稿(2001年2月10日)
資料集掲載論文

口頭発表用原稿。予稿集で考察の及ばなかった部分などにも触れており,微妙な違いがあるが,当日準備した内容のうち,やむを得ず割愛した部分については省略している。

省略したのは,主に畿内・瀬戸内に関する部分であり,これらについては改めて考察したい気もするが,苦手な弥生時代はもう懲りたというのも正直な感想である。

話し言葉の細かいところまで原稿段階で準備しているが,これほど細かく原稿が完成していたことは珍しい。(15/Apr/2002)

目次


今日のそれぞれのご発表では,まず各地域の発表があり,さらに青銅器・鉄製品・弥生土器のテーマ発表があったわけですが,特にテーマ発表の方は,ニュアンスはそれぞれ異なりますが,いずれも,青銅器なり,鉄器,弥生土器を,交易される商品として捉えておられるようです。

もちろん,交易を論ずる以上,考古資料の中から,商品となったものを見出し,分布などを論ずるのは当然なのですが,私が今回取り上げる朝鮮半島系の土器というのは,あるいはそれ自体が商品であったかもしれませんが,基本的には,商品の運搬用であったり,交易した人の持ち物であったように思われます。その点では,やはり土器を素材として発表された常松さんとは,議論の出発点において同じ悩み,すなわち,土器で交易は語れるか,という悩みを共有していたわけです。

その悩みの成果が今日の発表でありまして,常松さんとは,重複する点や抵触する点,というよりも,ほとんど抵触しているんですが,まずは資料集と,追加資料に沿いつつ,与えられたテーマにお応えすることと致します。

資料集では157ページから176ページまでが,私の発表に関係した部分でして,これに加えてB5判1枚の追加資料があります。


はじめに

資料集の「はじめに」のところに,いろいろとややこしい話が書いてありますが,まとめて言うと,土器が商品ではないと仮定して,それでは商品でない土器を通じて,いかに交易を復元するか,そもそもそんなもん,復元できるのか,という話です。なお,昨日,この部分について,いろいろと深読みをされた方もあったようですが,この部分は,実は,その後の私の結論がどうなるかも決まらないうちに書いた部分でして,深い意味はありません。

さて,商品でない以上,土器から直接には交易を復元できないわけですが,しかし,土器が日常容器であったり,運搬具であったならば,交易に従事した人の動きにつれて土器も移動するはずですから,極端な話,何を交易したんだかわからなくても,交易に伴う人の行動は,復元できる可能性があるわけです。

交易,あるいはより広く,ものや情報の交換において,人がどのように行動したか,ということについては,欧米などで,さまざまなモデルを設定した,難しい理論もあるようですが,土器の動きが人の行動を反映すると考えれば,交易における人の行動のモデルと土器の動きを直接対比することも可能になります。

そう考えて,交易をするとどのように土器が動くか,というのを,資料集の157ページに書いたんですが,文章ではわけがわからないので,ここでは,追加資料に載せました「訪問交易と土器の動き」という略図(Fig.7)をもとに,ご説明します。どこかで見たような図(レンフリューによる訪問交易のモデル)に,土器の動きを書き込んだだけなんですが,うっかりしてまして,追加資料では,資料集の本文とA・Bが入れ替わっていますが,趣旨は同じです。

地域Aと地域Bがありまして,それぞれの特産物の物資Aと物資Bが交換されています。この交易のために,仮に地域Bに住むBさんという人が,地域Aの中にある市場(いちば)に行って,地域Aに住むAさんと,物資A・Bを交換したとします。このとき,Bさんが,地域Bの土器を,運搬用か,あるいは滞在中の生活用に持っていったり,あるいは,滞在先の地域Aで,Bさんにとって使い慣れた形の土器Bを作って使用したことは,充分考えられます。Bさんが往復する間に,土器が壊れたり,要らなくなったり,あるいは中身の物資Bと一緒に置いて帰ったりして,結局Bさんが地域Bに帰っても,土器Bやその破片が地域Aの市場に残されることになります。したがって,交易の本来の目的は物資Aと物資Bの交換だったのに,実際には土器Bも地域Aにもたらされたわけです。

さて,Bさんは,同じように何度も地域Aに行って,交易を行ない,また,地域Bに住む,Bさんの家族や友人も,続々と地域Aを訪れて交易をしますと,その間に,地域Aの市場には,土器Bがどんどん溜まっていくことになります。もちろん,土器Bが地域Aで使われつづけたり,あるいは,地域Aの人たちが,土器Bを模倣して変な土器を作るかもしれませんが,しかし,交易のための短期間の滞在という状況が積み重なっていく中では,市場に持ち込まれて捨てられる土器B以外は,圧倒的に少ないだろうと,楽観的に考えておきます。

このような人の行動の痕跡が,考古資料として観察された場合を考えますと,交易された物資Aや物資Bは,腐ったりさびたりして失われても,地域Aの一部に,本来分布しないはずの土器Bが搬入品としてたくさん見つかる,ということになります。

と,このような図式で,実際の朝鮮半島系土器の出土状況を考えていこうと言うわけです。もちろん,この図のようなあり方が,唯一のものではなくて,実際にはさまざまな交易のやり方があるわけで,先ほど常松さんも私にとって都合の悪い場合をいくつか列挙されましたが,多くは,この図式がアレンジされたものと考えれば問題ありません。たとえば,市場が地域Aの中になくて,地域Aと地域Bの境目のところで物資を交換した場合(境界域交易),交易は行っても,土器は本来の分布範囲の外にはあまり出ないということになります。この図式を絶対のものとして個別の事例に押し付けようというのではなくて,この図式と比べてみて,発想の手がかりにしようという意味にご理解ください。

それから,交易ではなくて,移動した人がそのまま住みつく場合もありますが,これまでの,たとえば片岡さんの無紋土器研究や,陶邑で行われている初期須恵器と韓式系土器の関わりの研究などのように,人が移住して技術移転などが起こる場合の研究はすでに多くの業績がありますので,そのような研究と対比することで,交易と移住を区別していけばいいと思います。

この,交易と移住の区別の問題もそうなんですが,土器がどこで出た,という分布論だけでは,なぜその土器が出るのか,わかりません。土器の出土状態,出土地点の性格,さらには,商品であったと思われる,ほかの遺物などと対比して,蓋然性を高めていくことになろうかと思います。これまでも,何人かの方がそのような研究を発表しておられますので,ここでは,そのような研究も参考にして,話を進めていこうと思います。


1.編年と並行関係

資料集では,158ページから,164ページの最初の方まで,「編年と並行関係」について触れておりますが,既に言われてきたような内容を追認しているだけですので,説明は省略いたしまして,実際の土器の分布をみていきたいと思います。

なお,すでに片岡さんや武末さんによって行き届いた資料集成がなされていると考えましたので,改めて集成図を作成することはしませんでした。


2.日本列島における粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器の分布とその変化

(1) 粘土帯土器の分布

まず,粘土帯土器ですが,165ページの上段が,水石里(すいせきり;Suseog-ri)式土器,いわゆる「断面円形粘土帯土器」,下段が勒島(ろくとう;Neukdo)III式と茶戸里(ちゃこり;Daho-ri)式土器,いわゆる「断面三角形粘土帯土器」ですが,口頭で言う時は勒島式土器とまとめて呼ぶことにします。この図は,片岡さんの書かれた論文をもとにしていますが,一部,編集しています。

上段の水石里式土器は,律義に点を落としていくと,北部九州が一方的に真っ黒になってしまうので,片岡さんの見解をもとに,九州では搬入品だけ,本州では,いわゆる擬朝鮮系無紋土器も含めて,というか,そればっかりなんですが,図に示しました。これで山陰のあたりを強調してみました。それから,福岡市の姪浜(めいのはま)遺跡・大橋E遺跡,糟屋郡新宮町の夜臼・三代(ゆうすみしろ)遺跡群の例を足しておきました。なお,資料集では「糟屋郡」の「糟」の字が間違っています(「粕」になっている)ので,画数の多い方の字(「糟」)に直しておいてください。

これらの分布の特徴や,沿岸と内陸との遺跡の性格の違いなどは,すでに指摘されているとおりですし,後の話と重複しますので,ここでは省略いたします。なお,搬入品と思われるものは弥生前期末から中期初頭で,擬朝鮮系無紋土器には,それよりやや遅い時期のものもみられます。

下段の勒島式土器は,対馬・壱岐と,いくつかの海岸地域に分布しています。ここでは,片岡さんが挙げておられたもののほかに,鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の例を加えておきました。これは,昨年鳥取県立博物館の展示で勒島式土器を見たような気がしたので図に盛り込んでおいたのですが,あらためて報告書を見ますと,該当する土器が載っておりませんでしたので,ちょっと自身がありません。ただ,ここで山陰の出土例があってもなくても,私の話にはあまり支障がないので,ひとまずこのまま話を進めたいと思います。

また,下関のあたりに3つ点が並んでいますが,そのうちひとつは,以前小田先生が報告された沖ノ山遺跡でして,これはもう少し東側の宇部市になります。さらに,分布図に載せた以外でも,最近,福岡市の西新町(にしじんまち)遺跡や東入部(ひがしいるべ)遺跡で報告されております。

そんなこんなで,分布図に問題が多いのですが,時期は大体弥生中期後半です。したがって,水石里式土器が搬入される時期との間に,少し空白期間を挟んでいることになります。

それから,勒島式土器に由来する擬朝鮮系無紋土器は,原の辻遺跡にだけ出土例があります。

(2) 三韓土器の分布

次に,166ページの三韓土器の分布です。遺構の時期は,弥生中期末から弥生終末までのものを挙げています。

最近,福岡市の早良(さわら)平野にある原(はら)遺跡で弥生中期末に伴う瓦質土器が出土しまして,これが日本で出土した瓦質土器の確実な上限になると思います。

三韓土器の分布の特徴は,瀬戸内や大阪湾沿岸で出土例があることでして,たとえば(大阪府)堺市の四ツ池遺跡では,「第V様式の古い段階」に位置づけられる溝から,三韓土器の甕が出土しています。

それから,弥生終末になると,前原(まえばる)市の浦志遺跡や大阪府の久宝寺(きゅうほうじ)遺跡などに,三韓土器の模倣品というか,変容した形のものが見られまして,北部九州や瀬戸内の各地に,三韓の人びとがやってきて活動していたのかも知れません。

なお,資料集167ページの13行目から14行目にかけての文章に,少し問題があります。ここで,「三韓土器に後続する古式新羅加耶土器は,北部九州の布留式段階の集落で主に出土しており,」などと書いておりますが,もう少し時期を限定して,「古墳前期には,三韓土器に後続する陶質土器は,北部九州の集落で主に出土しており,」とでもした方が正確です。いずれにせよ,弥生終末よりも,分布が縮小する時期がある,という意味です。

(3) 楽浪土器の分布

168ページの楽浪土器の分布に話を進めます。

楽浪土器は,土器そのもので時期を決めにくい上に,伴う土器が特定できない場合もあるので,少し考え方を変えて,楽浪土器が登場する上限の時期ごとに記号を変えて,分布図を作ってみました。これに加えて,武末さんや川上さんがすでに論じられた,遺跡ごとの楽浪土器のあり方を突き合わせて考えてみたいと思います。

まず,弥生後期前半以前から楽浪土器がみられる遺跡を黒丸で表しました。対馬でお墓から出た1例を除きますと,壱岐と糸島地域という,極めて限られた分布を示しています。特に,原の辻遺跡,三雲番上遺跡,それから御床松原遺跡では,楽浪地域の炊飯具と思われる滑石混和土器が出土しておりまして,楽浪の人が往来した証拠と考えられます。

さらに,三雲遺跡は,楽浪土城でみられるような多くの器種がそろい,しかも,運搬に適さない大型壺や器台などまでみられるので,楽浪の人がしばらく居住していたという想定もされています。ただ,なかなか時期を決めにくいのではありますが,そのような運搬に適さない器種は,弥生後期前半ぐらいまでに集中するようなので,ひょっとすると,弥生後期後半以降は,ほかの遺跡と同じような器種構成になるのかもしれません。

次に,弥生後期後半・終末ころから楽浪土器がみられる遺跡を三角で表しています。対馬でも,やはり副葬品としてですが,例が増えまして,北部九州でも分布が広がって,さらに瀬戸内にもそれらしいものがあります。

北部九州で分布が増えたうち,糸島郡二丈町の深江井牟田遺跡の場合は,三雲や御床松原などとともに,楽浪辺りからの船が着いた地点と考えていいと思いますが,それ以外の,雀居遺跡やヘボノ木遺跡などは,出土点数も少なく,交易で入手したものと考えられています。さらに,瀬戸内では,今のところ実物の楽浪土器は見つかっていないようですが,岡山県の門前池東方遺跡で楽浪土器によく似た土器があります。このように,弥生後期後半以降,1遺跡ごとの出土点数はわずかですが,楽浪土器が分布が広がります。

さらに,古墳前期から楽浪土器がみられる遺跡を四角で示しましたが,これは博多湾だけです。壱岐と糸島でも,楽浪土器の搬入が続いていたでしょうから,古墳前期には壱岐・糸島・博多湾の3地域にのみ分布するということになります。博多湾の例というのは,博多遺跡群の第17次調査で出土したものでして,遺構は新しいのですが,本来は古墳前期の方形周溝墓に伴っただろうと考え,ここで取り上げました。

例が少なくて,やや証拠としては弱いのですが,古墳前期の陶質土器の分布が北部九州に集中している現象と軌を一にすると考えて,強調しておきたいと思います。


3.粘土帯土器・三韓土器・楽浪土器からみた弥生時代の交易

以上のように,一応の分布を確かめたところで,「土器は商品ではない」という前提のもと,ほかの考古資料とも絡めて,時期ごとの交易について,考察してみたいと思います。これが資料集の169ページ以降の部分です。この,第3章のタイトルに,「楽浪土器土器」となっておりますが,もちろん書き間違いですので,「土器」を1つ消しておいてください。今回のテーマでは弥生中期後半から終末までということですが,前後の時期と比較した方がわかりやすい点もあると考えまして,弥生前期末から古墳前期までを7つの時期に区切ってお話いたします。

(1) 弥生前期末〜中期初頭−移住と需要喚起

まず,弥生前期末から中期初頭にかけて,韓国の人たちが北部九州に渡来・移住しております。このことは,水石里式土器と擬朝鮮系無紋土器の存在,それらが出土する集落の様相などから,すでに明らかでして,交易では説明がつかないと思います。このような渡来の背景には,西北朝鮮での政治変動があったろうと思います。というのも,ちょうどこの時期,沖縄県の貝塚文化後期の遺跡で,胎土に滑石を含んだ無紋土器が出土するのですが,私はこれを古朝鮮(こちょうせん)の土器と考えておりまして,この滑石混和土器(かっせきこんわどき)などから考えても,北部九州に朝鮮産青銅器が入ってくるのと一連の物資の流れが沖縄まで及んだと考えます。

片岡さんの所見によりますと,熊本県には確実に渡来人が行っているようでして,それを踏まえて資料集では,「渡来の経路は,北部九州に上陸したもののほか,山陰に向かう流れや,九州西側を回って有明海や南九州に向かう流れがある。」という風に書いておきました。ただ,この渡来ルートが,渡来人の好き勝手にたどったルートと言うわけではないと思います。

木下尚子さんが作成された,弥生前期末から中期中葉までの南島産貝輪の分布図を追加資料に挙げておきました(Fig. 8)が,これを資料集165ページの水石里式土器の分布図と比べて見ますと,内陸や瀬戸内の部分に若干の違いはありますが,特に,九州の西側を回って南に向かうルートや,日本海沿いを山陰に至る経路に,似た部分がみられます。というよりも,いろいろな分布図のたぐいをあさっても,私にとって都合のいいのはこれだけでした。

貝の運搬に携わったのは,西北九州沿岸部の倭人と想定されているようですが,彼らの交易ルートに乗るような形で,韓国からの渡来人も,西日本の各地に渡来したのだろうと思います。ですから,資料集にも書きましたとおり,いずれ奄美や沖縄からも,水石里式土器の出土が報告されるだろうと期待しております。

さらに,貝製品の分布の話をしますと,弥生前期末から,海岸付近だけでなく,西日本の内陸でも貝製品が分布するようになるわけですが,このように貝製品の流通に見られる変化と,韓国からの渡来人が,海上の交易ルートを利用しつつも,一部が内陸に住み着き,定着していく過程が,似通っているようにも思えます。

いずれにしても,このときの移住をきっかけに,西日本の各地をつなぐ交易網が活発になり,また,舶載青銅器などの登場をきっかけに,鉄製品や青銅製品に対する需要も喚起されたという前提で,この後の話につなげたいと思います。

(2) 弥生中期前半−勒島貿易

弥生中期前半は,新たな粘土帯土器の搬入が知られていない時期ですが,渡来人による青銅器生産も営まれておりますので,この時期に青銅器の原料が供給されていたはずですし,いくつかの鉄製品も西日本にもたらされています。新たな移住を伴わないまま,金属の原料や製品が入ってきていたとすれば,それは交易によったはずです。しかも,交易が行なわれた場所は,日本列島の外,ということになります。

そこで,慶尚南道の勒島遺跡に注目したいと思います。この島では,勒島式土器のころに,北部九州の須玖(すぐ)I式(弥生中期前半)を中心とした時期の土器がいくつも出土しています。これは,まさに,西日本に粘土帯土器が搬入されない時期に当たります。

勒島遺跡で出土する弥生土器には,現地で作ったものも多いようですが,基本的には北部九州の型式変化に沿っているようですし,また,この時期に勒島や慶尚南道の何か所かに弥生土器がみられる割には,粘土帯土器の器種構成や型式,さらには現地の生活様式にまで変化をもたらしたようには,みうけられません。こうしたことから,勒島の弥生土器は,北部九州の倭人が交易のため一時滞在した痕跡であることがわかります。

勒島遺跡は調査中なので,報告された部分だけで話をするのはちょっと恐いのですが,須玖I式と並行する時期が存続期間の中心であったように思われまして,おそらくはこの時期の重要な交易拠点であったと思います。すなわち,北部九州の人が勒島まで出向いて,そこで韓国の人たちと何がしかの交易を行なった,ということです(勒島貿易)。

弥生土器の存在だけでは,勒島で何を交易していたのかはわかりませんが,先ほども述べましたように,この時期には鉄や青銅に対する倭人の需要が喚起され,供給も続いていたと考えますので,おそらく金属を取り引きしていたのだと思います。

また,勒島などで出土した弥生土器の大半が北部九州に由来することからみて,北部九州の倭人が,勒島から金属原料や金属器を入手してきて,これを西日本のほかの地域に,さらに交易によって流通させるという関係であったと思います。このような西日本内部の交易関係は,先ほどもお話した貝輪の流通と,商品の出発点こそ北と南で異なりますが,基本的に共通していると思います。

(3) 弥生中期後半−原の辻貿易と北部九州拠点集落

弥生中期後半になると,勒島など,韓国南部への須玖式土器の流入は終わりに近づきまして,代わって日本に勒島式土器が入ってきます。勒島の報告が出そろってから改めて考えたいのですが,一応,衛氏朝鮮(えいしちょうせん:紀元前2世紀に西北朝鮮に存在した政治集団)の滅亡と楽浪郡などの設置で経済環境が変わって,勒島の交易拠点としての求心力が弱まったと考えておきます。

弥生中期後半にもたらされた勒島式土器は,対馬・壱岐と北部九州・本州の沿岸地域など,海上交通の要衝に集中しています。このうち,原の辻遺跡では,擬朝鮮系無紋土器が生み出されておりまして,韓国の人が原の辻の辺りに住んで,交易に従事していたと思われます。

一方,糸島地域など,北部九州の弥生土器が壱岐に多量に持ち込まれているようですが,(魏志)倭人伝によりますと,壱岐では農産物を自給できず,外から米を買っていた(「差有田地,耕田猶不足食。亦南北市糴。」)ということですから,北部九州の倭人が,農産物を壱岐に供給して,一部は自分で食べたんでしょうが,そのかわり,交易の便宜を保証してもらうような関係にあったのではないかと考えます。また,宴会や祭祀などを催して,交易仲間としての友情を確かめるなどの用途で土器が使われたのかもしれません。

つまり,勒島に代わって壱岐が交易の重要拠点となり,韓国の人や北部九州の人がここに集まって物資を交易していたと考えられます(原の辻貿易)。なお,今回は集落に重点を置いたので,資料集では触れませんでしたが,先ほどの阿比留さんのご発表から考えますと,対馬も同様の役割を果たして活躍していたかもしれません。

弥生中期後半には,北部九州の伊都国や奴国などで,大集落が作られまして,鉄器の使用が日常化したり,集約的な青銅器生産工房を抱えたりしていますが,このような拠点集落を維持するために,対馬・壱岐での交易は重要な意味を持っていたことでしょう。

(4) 弥生中期末〜後期前半−楽浪の政治交渉

4番目の弥生中期末から後期前半については,楽浪の人が新たに登場しますが,これはひとまず政治的な交渉を主とし,これに交易が付随するようなものであったと考えておきます。

この時期の重要な変化は,瀬戸内や畿内の方にあると思います。私に与えられたテーマや,日ごろの興味とはかけ離れているので,あまり深入りしたくはないのですが,瀬戸内や畿内の弥生中期末から後期初めにかけて,流通機構の再編を伴うような変革が起こったと言われているようです(松木武彦氏らの見解を指す)。畿内や瀬戸内と北部九州の並行関係には,いろいろと論議があるようですが,いずれにしても,北部九州の倭人が壱岐を拠点として交易で活躍していた時期のうちのどこかで,瀬戸内や畿内の変革があったということでしょうから,この変革は,壱岐や北部九州の交易のやりかたに変更を迫るものではなかった,むしろ,そうした交易の末端に鎖のように連なろうとする(連鎖交易)ような変革だったと,一応考えておきたいと思います。

先ほど,粘土帯土器と三韓土器の分布を比較しまして,粘土帯土器は日本海側,三韓土器は瀬戸内,という大まかな傾向を申し上げましたが,この時期に瀬戸内が主な交易ルートとして北部九州の東に連なると考えておきます。

(5) 弥生後期後半−原の辻貿易の地位低下

弥生後期後半には,楽浪土器の分布が広がりますが,このころ,楽浪土器の器種も,運搬に有利なものが主体となりまして,政治主体から交易主体の交渉へと,ある時点で推移したのではないかと思います。志摩町の,おそらく港と思われる御床松原遺跡とは対岸の,二丈町の深江井牟田遺跡や曲り田遺跡に,新たに楽浪土器が出土しますが,農地に近く,倭人との接触の多い土地に楽浪の人が活動の範囲を広げたことを示すのではないかと思います。

それから,弥生後期後半から終末にかけて,対馬の墳墓に楽浪土器の副葬が増えることも重視したいと思います。対馬に関しては,吉田さんが魅力的な仮説を提示されまして,あっちの方がいいなぁという気もするのですが,とりあえず,資料集の内容に沿ってお話を続けます。

弥生時代以外の,特に韓国の土器の地域性が明瞭な古墳時代ころの対馬をみますと,対馬で出る陶質土器と,九州や本州で出る陶質土器とは傾向が一致しておりません。むしろ,その時その時の,対馬の対岸の陶質土器が多くみられます。それらは生活や副葬に必要としたから入手したもので,主に農生産物の入手(「市糴」)のために持ち込まれたと考えられます。しかし,そうしますと,楽浪土器を産地から遠く離れた対馬で副葬に用いている,しかもこの時期になって複数の墳墓でそのような例が確認できることは,異例です。対馬の人びとにとって身近に楽浪土器が流通していたか,あるいは,楽浪の人が対馬の近辺で交易をしていたという事態を考えたいと思います。

そうしますと,弥生後期後半には,楽浪の人が朝鮮半島の南部から対馬・壱岐,それから北部九州の伊都国辺りの範囲で,積極的に交易に関与し,各地の倭人もそれに応じたので,楽浪土器の分布が拡散したのだと考えられます。これについて,川上洋一さんは,三韓土器の分布よりも楽浪土器の分布が狭いので,「列島と楽浪郡,朝鮮半島南部との交渉が別の系譜であった」という解釈を示されましたが,伊都国より東側に拡大した楽浪土器の分布は,三韓土器の分布にすっぽり収まってしまいますから,別の系譜などを想定するまでもないと思います。むしろ,楽浪の人の活動は,西日本の交易に大きな改変を迫ることはなく,むしろ,従来からの,地域間の交易関係に取り込まれて,それを利用することで,成り立たっていたとみた方がいいでしょう。

しかし,西日本の地域間交渉にも,若干の変化があったようです。

このころになると,瀬戸内の吉備の地域に,三韓土器や楽浪土器の模倣品というか,変容品のようなものがいくつかみられます。これらは,吉備の人たちにも,実物の三韓土器や楽浪土器を知る機会があったという証拠です。このころになって,吉備の土器が北部九州など各地にもたらされるそうですから,そうすると,吉備の人がみずから北部九州や大阪湾などを往来して交易を行ない,時には三韓や楽浪の人とも直接に物資を交換するような状況が生じていたと考えてよいでしょう。そうすると,西日本の交易の中で,壱岐や北部九州の地位が,わずかですが相対的に低下し,瀬戸内での交易のしかたも変化が生じていたことになります。こうした変化は,実際にはかなりの時間をかけて徐々に進行していたのではないかと思います。

(6) 弥生終末−交易拠点の乱立

弥生終末になりますと,瀬戸内や大阪湾岸で三韓土器の形を持つ在地産土器がみられ,特に大阪府の久宝寺遺跡などには渡来人が居住した可能性が高いようです。日本海側でも島根半島での三韓土器の出土が知られております。これは,三韓の人たちの側の変化というよりも,西日本各地で,いろいろな人が,いろいろな場所で,いろいろな相手と,盛んに交易をするようになったため,西日本各地の倭人が三韓の人に直接会ったり,あるいはそうした交易ルートをたどって三韓の人が西日本の各地に赴く機会があったのでしょう。

こうした状況は,北部九州の弥生中期後半以来の経済的地位を脅かすものだったと思われます。

さて,弥生終末のこのような交易の担い手についてですが,数年前に福岡市教育委員会の田上君が,博多湾岸で出土した飯蛸壺についてまとめていまして,それによりますと,大阪湾岸から播磨灘沿岸にかけて行われていた飯蛸壺漁が,弥生後期後半から終末ごろに博多湾でも行われるようになり,古墳前期に普及するということです。こうした漁撈技術が同じころに伝わるところをみると,弥生終末に各地で交易を担った人びとのなかには,瀬戸内で漁撈を生業とする人びとがいたことがわかります。

(7) 古墳前期−博多湾貿易

これが古墳前期になりますと,陶質土器や楽浪土器の分布は,一転して北部九州に集中し,特に,西新町遺跡などの博多湾岸に異様な集中を見せています。しかし,韓国の人が西新町の竪穴住居にカマドを作って使っていても,結局遺跡の外にはほとんど普及しなかったことを武末さんが指摘されておりますように,やはりこれは交易のための一時的な滞在であったと思われます。

最近の西新町遺跡の調査成果などによりますと,このころ朝鮮南部のいろいろな地域の人が博多湾を訪れ,倭人も,西日本の各地から来ていたようです。韓国でもこのころから,布留式系の甕であるとか,土師器系軟質土器だとかといわれる土器が出土することからみても,交易自体は衰退していなかったと思われますが,なぜか日本での陶質土器や楽浪土器の出土は北部九州にかぎられています。

つまり,弥生終末のように,西日本各地でバラバラに交易をするのではなく,やはり集約点が必要だということになって,古墳前期に博多湾で集約的に交易を行なうようになり,韓国や西日本の各地の人が博多湾で顔を合わせて交易するような状況になっていたのだと思います(博多湾貿易)。

なお,資料集では,古墳前期になってすぐに「加美・久宝寺遺跡群」が廃絶したかのような書き方をしておりますが,これは表現に誤りがありまして,実際には古墳前期のある時期まで,存続していますが,それでも,私の話の趣旨は,変更の必要がないと思います。


おわりに

以上,やや前後に時間幅を広げて,朝鮮半島系土器の分布をもとに,交易の推定を試みました。しかし,こうしてお話をしてみると,今日のお話は,実は土器を素材にしなくても,同じ話ができてしまうような気がします。結局のところ,土器から交易はわからないのか,あるいは,もっと別の見方をすれば着実に交易を復元できるのか,悩みは尽きないのですが,いい知恵がありましたら,この後の懇親会の折にでも,お教えいただきたいと思います。


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