鏑木くんはいかに育ったか?:



                                                  
       
    

 1959年生まれ、幼いころは手が早い(え?いまもか?)のでケンカが強かったが、小学校に入るあたりから体が小さいため「いじめられっこ」になり、「奢る平家は久しからず」を人生の早い時期に経験する。そういえば、鏑木家は平家の末裔で大名だったが落ちぶれてヤクザになったこともあるそうな・・・

 中学・高校はあの悪名高い開成学園、まれにまじめな時期もあったが基本的に不良で、学校をよくさぼった。通学路の本八幡のゲームセンターで、ビンボールの最高得点者に「鏑木孝昭」の名前が長らく輝いていたことは今でも親に言えない。
 勉強せず浪人確実の成績だったが、最後の2か月の突貫工事で慶応の法学部にすべりこむ。みんなが遊んでいた大学ではけっこう勉強した。要するに、あまのじゃくなのかもしれない。

 大学で社会学に出会い、「これは面白い!」とのめりこみ、「よし、ひとつ教授になるか!」と思う。思った2か月後、指導教授が急逝し、人生のはかなさを知る(ホントか?)。その後、社会学の延長でシステム論に出会い、コンピュータを使うことになり、結局それを仕事とすることにする。1982年、IHIに入社、情報システム本部に配属。人生、わかりませんねー

 幼い頃は歌がうまかった。開成で音感を破壊されたが慶応の合唱部で少し持ち直し、卒業してからバロック音楽に出会い、音楽家の酒井多賀志と出会ったことで、ものすごくのめりこむ。ついには二人でオラトリオ(酒井作品26番)を製作・上演することになる。ちなみに、奥さんのるんるんアヒルも彼の弟子なのであった。

 1992年からパソコン通信の世界に入り込む、ネットで世界が大きく広がる。1995年の阪神・淡路大震災で被災者の支援ネットワーク、インターVネットの構築に関わったことで、NPO・ボランティアの世界に入り込んだ。その後も、いくつかの著作を書き、いくつかのNPOで活動している。ちなみにこの時期は宇宙開発事業団(現在はJAXA)に出向、宇宙ステーションの開発に参画し、いい経験をさせていただいた。IHI復帰後、横浜に在住。いまもって子供は作らず、数年前までは親の目が厳しかったが最近あきらめてくれたもよう・・・。

     

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