<平和問題ゼミナール・プレゼミ>
1997.2.28 柳原敏昭
はじめに
鹿児島に視点をすえて沖縄戦を考える。
T沖縄戦について
1.沖縄戦にいたるまで
(1)沖縄戦の位置づけ
@「島嶼守備要領」(1944.8.19)「島嶼守備に任ずる部隊は、熾烈なる敵の砲爆撃に抗戦しつつ、長期持久に適する如く陣地を編成・設備し、敵の攻撃を破催」
(原カタカナ混じり文)
A「帝国陸海軍作戦計画大綱」(1945.1.20)
a.沖縄戦の位置づけ=「皇土防衛の為、縦深作戦遂行上の前縁」
b.「右前縁地帯の一部において、状況真に止むを得ず敵の上陸を見る場合においても、極力敵の出血消耗を図り、且つ敵航空基盤造成を妨害す」
(2)近衛上表文(1945.2)
@敗北を必至と見て、天皇に戦争集結を促す→支配層も敗北を認識。
A天皇の態度「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
*沖縄戦=国体護持のための時間稼ぎ作戦、捨て石作戦
2.沖縄戦の経過
□1944年
3 日本軍、沖縄・奄美「防衛」を任務とする第32軍を編成(司令官:牛島満)。
10.10 沖縄方面に初めての本格的な空襲
11 32軍から、最強の第9師団を台湾に移す。*最終的に32軍は12万人ほどの兵力。
□ 1945年
3.23 米軍の艦砲射撃・空襲始まる。
3.26 米軍、慶良間諸島に上陸。
4.1 米軍、沖縄本島(読谷・北谷・嘉手納)に上陸。
5.4 日本軍総攻撃をかけるも失敗(24師団の60%が戦死)。
5.16 32軍、大本営に対して敗色濃い旨の電報を打つ。
5.22 32軍、南部摩文仁への撤退を決定。27日、首里を脱出。
5.30 米軍、首里を占領。
6.7 米軍、32軍に降伏を勧告し、攻撃を一時休止。
6.15 小禄地区陥落。海軍司令官大田実、自決。
6.23 牛島満中将・長勇参謀、自殺。
7.2 米軍戦闘終結を宣言。
9.7 沖縄・南西諸島の日本軍正式に降伏
10.2 国頭支隊(遊撃隊)降伏
3. 沖縄戦の特徴
□ 住民の犠牲が軍人の戦死者を上回る
県外出身日本兵6万5千人
沖縄県出身軍人軍属2万8千人 沖縄一般県民9万4千人(12万人)
(1) 32軍の戦術の問題
@ 32軍の南部撤退の問題
a.すでに戦闘力を失っていたにもかかわらず降伏しなかった。
・ 牛島の言葉:「主戦力は消耗したが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とで最後の一人まで戦い続ける」
b.なぜ、戦闘力を失った軍隊が降伏しなかったのか。
A 32司令官と参謀長の自決
牛島司令官の最後の命令(6月18日)
「全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」
* 天皇のために最後まで戦って死ね。降伏は許さない。
(2) 住民の軍隊への編入
@ 学徒隊
a.女子学徒隊 6校581名が動員され334名死亡(57%)
b.男子学徒隊 10校1780名が動員され890名死亡(50%)
A 防衛隊
a.防衛隊とは
陸軍防衛収集規則(1942.9制定、1944.10改正)によって収集された人々。すでに徴兵令で収集されていた人を除く、17歳から45歳までの男子が対象。
b.現実
・ 13歳から70歳までの男子2万2(5)千人が収集される。うち死者は13000人。
・ 軍隊としての訓練は受けていない。銃も行きわたらない。主力部隊の温存のために最前線に立たされた例が多い。
(3) 住民虐殺
@ スパイだとして殺害
県民総スパイ視
「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しあるものは間諜として処分す。」(米軍上陸直後の沖縄軍司令部の命令)
A 南部の壕(ガマ)で
a.住民を壕から追い出す。
b.軍人がもっとも安全な場所に陣取る。
c.敵に見つかるからと幼児を殺す。
d.投降しようとする住民を脅す。
(4) 「集団自決」
日本軍の強制であった側面が強い(虐殺と同じ)
(5) 八重山諸島のマラリア禍
軍命で強制移住させられマラリアに(波照間島から西表島へ移住した人1275人中98.7%が離間し36%が死亡)
4. 日本軍とは何だったのか
(1) 日本軍は近代国家の軍隊か 「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)
(2) 日本軍は国民を護るための軍隊か
@ 天皇の軍隊、国体護持のための軍隊=皇軍
a.天皇の軍隊の一員であるという事が、一般国民への優越感となる。→皇軍の護持が自己目的化される。
↓
b.軍の安全が一般国民の安全よりも優先される。
c.軍の安全のためなら、それを脅かす国民を殺害しても構わないという意識を生む。
U 沖縄戦と鹿児島
1. 特攻
(1) 特攻とは
(2) 鹿児島の航空基地と特攻
@ 出撃時期と目標
a.時期 45年3月後半から8月15日(ピークは4月、5月)
b.目標 沖縄海上の米空母機動部隊
A 各基地における戦没者(12基地、沖縄が目標ではないが鹿児島からの出撃あり)
笠野原
鹿屋 826人(市史)
知覧 431人(郷土史)
串良 406人 (県史)
国分第一 249人(郷土史・百科)
出水大野原 207人(百科)
国分第二 147人(溝辺町郷土史)
万世 196人(基地関係者とも、市史)
岩川 87人(町史)
指宿 82人(市史)
垂水 9人(市史)
★ 総計2640人
* 沖縄特攻作戦の全死亡者=3067人(鹿児島県から出撃した人が85%を占める)
B 米軍の被害
a. 34隻沈没、386隻が被害を受ける。
b. 沖縄戦における海軍戦死者4900人(陸軍4600人、海兵隊2800人)。
c. 沈没したのは駆逐艦以下の小艦。空母で戦線離脱は2。
C 九州(鹿児島)からの特攻作戦の客観的位置づけ
沖縄戦の一環。九州(鹿児島)における沖縄戦。
2. 甚大な空襲の被害
(1) マリアナ基地のB29による空襲
第1期 高高度精密爆撃(兵器工場・軍事施設) 1944.11〜
第2期 焼夷弾による6大都市無差別夜間爆撃 1945.3.10〜
第3期 中小都市空襲 1945.6.17日〜8.15
(2) 沖縄作戦支援作戦(1945.4〜5)
@ 沖縄作戦支援作戦によるB29飛来数(参考文献(17)により作成)
空爆回数 | 出撃したB29 | 攻撃に参加したB29 | B29の損失 | |
鹿児島県内の基地 | 46 | 931 | 810 | 10 |
鹿児島県外の基地 | 51 | 1133 | 1003 | 12 |
計 | 97 | 2084 | 1813 | 22 |
* 鹿児島県外の基地は、太刀洗・大村・大分・宇佐・佐伯・宮崎・冨高・都城・新田原・松山。
* 空襲回数は、作戦任務番号一つごとに一回とした。
A 鹿児島県内基地別飛来数(参考文献(17)により作成)
基地名 | 空襲回数 | 出撃したB29 | 攻撃に参加したB29 | B29の損失 |
串良 | 6 | 133 | 106 | 3 |
国分 | 14 | 188 | 162 | 1 |
指宿 | 2 | 21 | 20 | 0 |
鹿屋 | 14 | 306 | 273 | 3 |
鹿屋東 | 9 | 144 | 124 | 1 |
出水 | 8 | 128 | 117 | 1 |
知覧 | 1 | 11 | 8 | 0 |
3. 「本土決戦」=沖縄戦の再現
(1) 本土決戦とは
(2) オリンピック作戦
米軍は、鹿児島県の吹上浜・志布志湾に上陸し、本州侵攻の基地とする計画を立案(1945.5決定、11決行予定)。
(3) 1945年の鹿児島県
日本軍も吹上浜・志布志湾の上陸を想定し準備を始めていた。
(4) 根こそぎ動員
@ 「戦時教育令」(45年5月22日)
本土決戦に備え、国民学校・盲聾学校にまで学徒隊を編成するという命令。
A 「義勇兵役法」(45年6月22日)
15歳から40歳までの男子、17歳から40歳までの女子をすべて「国民義勇戦闘隊」に編成するという法律。
(5) 軍の住民に対する方針
@ 『上陸防禦教令(案)』(44年10月・参謀本部教育総監部)
(前文)「本書は現戦局下に於ける上陸防禦の訓練および戦闘実行の為『島嶼守備隊戦闘教令(案)』に必要なる増補、修正を加うると共に、本土等における沿岸要域の直接防禦の為必要なる事項を合わせ記述せるもの」
A 『島嶼守備隊戦闘教令(案)』
「住民の利用如何は戦闘遂行に影響するところ大なり。ゆえに守備隊長はこれが指導に周到なる考慮を払うと共に、関係機関との連絡を密にしてその状況を明らかにし、各種の労役に服し、あるいは警戒、監視に、あるいは現地自活に任じ、終には直接戦闘に従事し得るに至らしむるを要す。而して不逞の分子等に対しては、機を失せず断固たる処置を講じ、禍根を未然に芟除(さんじょ)する等、之が対策を誤らざるを要す。」
B 『国土決戦令』(45年3月20日)
「敵は住民、婦女、老幼を戦闘に立てて前進し、我が戦意の消磨を計ることあるべし。斯かる場合我が同胞は生命の長きを希はんよりは皇国の戦捷を祈念しあるを信じ敵兵撃滅に躊躇するべからず。」
(6) 奄美諸島の場合
@ 家族単位の防空壕 遠隔防空壕 非常防空壕
A 非常防空壕は自決の場所と考えられていたという多数の証言がある。
B 1945.8.13瀬戸内町呑之浦では、「皆さーん、いよいよ最後の時が参りました。自決に行くときが来ました。」
V 沖縄と鹿児島の歴史認識
1. 沖縄の歴史認識
(1) ひめゆり平和祈念資料館
1989オープン 第一高女・女子師範の同窓会による。
(2) 沖縄県立平和祈念資料館
1975年開館、以後2回にわたり展示改善工事を施す。
(3) 南風原町・南風原文化センター
2. 鹿児島の歴史認識
(1) 知覧町 特攻平和会館(町立)
@ 75.3遺品館
A 87.2特攻平和会館
B 知覧基地関係者の遺書・遺品中心の展示
(2) 鹿屋市 海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(海上自衛隊)
@ 72オープン
A 93.4新装
B 海軍航空隊から現在の海上自衛隊まで展示(特攻は一部分)
(3) 加世田市 加世田市平和祈念館(市立)
@ 93.4オープン
A 万世基地関係者の遺書・遺品中心の展示
(4) 「牛島満大将生い立ちの碑」(1980年6月23日建立)
矢弾尽き天地染めて散るとても魂還りつつ皇国護らむ
秋を待たで枯れゆく島の青草は皇国の春によみかへらなむ
第三十二軍司令官牛島満大将は、昭和二十年六月二十三日未明大東亜戦争最後の決戦場となった沖縄摩文仁の丘で、辞世二首を遺して自決。十八万六千余名の将兵住民と共に玉砕された。大将、明治二十年七月東京で誕生。此の年厳父陸軍中尉牛島実満が病歿されたため、母堂竹子に抱かれ幼い兄弟と共に帰郷して此の地で成長された。甲突川川畔の自然と母堂の大愛、薩摩伝統の郷中教育の中で大将の誠忠仁恕豪放の人格は形成されたのである。(原文は、カタカナ混じり文。句読点を補った。)
おわりに
□ 摩文仁丘「韓国人慰霊塔」
「1941年、太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年達は日本の強制徴募により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴用として動員された一万余命があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。(後略)」
【主要参考文献】
(1) 防衛庁防衛研修所戦史室 戦史叢書『沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、1968年)
(2) 防衛庁防衛研修所戦史室 戦史叢書『本土決戦準備(2)―九州の防衛』朝雲新聞社、1972年)
(3) 藤原彰編『沖縄戦―国土が戦場になったとき』(青木書店、1987年)
(4) 纐纈厚「沖縄戦における秘密戦」(藤原彰編『沖縄戦と天皇制』立風書房、1987年)
(5) 『公式ガイドブック ひめゆり平和祈念資料館』(同祈念館、1989年)
(6) 特攻隊慰霊顕彰会『特別攻撃隊』(特攻隊慰霊顕彰会、1990年)
(7) 新崎盛輝「新版・観光コースでない沖縄」(高文研、1990年)
(8) 小松裕「戦前期熊本の在住朝鮮人について」(『指紋押捺』3、1990年)
(9) 朴壽南『アリランのうた−オキナワからの証言』(青木書店、1991年)
(10) 『平和への証言 沖縄平和祈念資料館ガイドブック』改訂版(同資料館、1991年)
(11) 北元静也「終わりなき旅路−鹿児島の朝鮮人強制連行−」(1)〜(9)
(南日本新聞連載記事、1991年8月8日、8月16日)
(12) 森本忠夫『特攻』(文芸春秋社、1992年)
(13) 苗村七郎『陸軍最後の特攻基地 万世特攻隊員の遺書・遺影』(東方出版、1993年)
(14) 朴慶植「朝鮮人強制連行」(朴慶植・山田昭次監修、梁秦昊編『朝鮮人強制連行論文集成』明石書
店、1993年)
(15) イアン・ブルマ『戦争の記憶』(石井信平約、TBSブリタニカ、1994年)
(16) 拙稿「『特攻』は地域でどのように記述されてきたか」(『九州の平和研究』3・4合併号、1994年)
(17) 小山仁示訳『米軍資料日本空襲の全容』(東方出版、1995年)
(18) 藤原彰他編『昭和20年/1945年』(小学館、1995年)
(19) 菊池保夫「集団自決の場所−奄美諸島から−」(『奄美郷土研究会報』36、1996年)