原爆はなぜ投下されたか(資料)

(1)広島の証言

(そのとき)立ち上がって、うちに帰ろうとすると、近くでパチパチ音がする。見ると、家がパッと燃え上がるところだった。それで大急ぎで帰ろうとすると、ぼくの体から煙がどんどん出始めた。見るとシャツが破れて、その裾が火を出して燃えるところであった。びっくりして、もみ消そうと思い、シャツをにぎったが、どうしたことが手に力が入らない。みると、ぼくの手はすっかり焼け皮がなくなって、赤い肉が出ていた。(石原秋光『原子雲の下に生きて』中央出版より)
 「ピューピュー」と吹きまくるものすごい風(火事風)とともに「ザーザー」と墨のような雨が降り出した。頭の上には、どんどん火の粉が飛んで来る。両手でおおい、地面にうつぶせになった。熱い火の粉が足に落ちかかるが、体を吹き飛ばされそうで払いのけることもできない。火の粉といっても、大きな火のかけらが雨のように降ってくるのだ。その熱さ・・・(桑原洋子『原爆の子』岩波書店より)
(翌日)昨日までの広島市はどこへ行ったのであろう。7つの川は今や無残にも死体と、煤煙と焼けただれた流木とに充満し、焦土広島を黒々と条を引いて流れている。(水木俊之『ヒロシマの証言』日本評論社より)
 あくる日、わたくしたちは、姉さんをさがしに浦上へ出て来た。死がい、死がい?足下に死がい、右にも死がい、左を向けば死がい。私は死がいに囲まれて、足が動けなくなり、その場に立ちすくんだ。焼け野原の地面は、フライパンのように熱かった。(深堀葉子『原子雲の下に生きて』より)
(その後)幾日か、焼け跡をさがし歩いてようやく小学校1年の弟は全身火傷で、そのうえ、爆風で防火用水の中に吹き飛ばされ、すでに死んでいた。幾日ぶりかにめぐり会えて無事を確かめ、泣いて泣いて抱き合ったのもつかの間、父、母、弟、妹と1週間おきに次々と原爆症で死んでいった。母を求め、母の名を呼び、幾日も食べず、1日中鼻血を出し、口から血を吐き、それでも生命はこときれず、生き長らえれば長らえるだけ、苦しみもがいた妹。スプーンですくって口に入れてやった缶詰のミカンがのどにしみると泣いた妹も、1ヶ月余りで死んだ。(中広富美子『木の葉のように焼かれて』労働教育センター資料)


(2)核兵器の威力とその被害

注:%は高度3万m以下での空中爆発の際のエネルギーの配分を示す。

核爆発の破壊威力 原爆 水爆 中性子爆弾
爆風 爆風後何分の1秒の間に数十万?数百万気圧の爆風が発生。音速よりも速く伝わる。地面に衝突して反射爆風も起こる 50% 20% 爆風や熱線を抑えて物質的損傷を少なくする
熱線 爆発から百万分の数秒で数十万気圧・百万度以上の高温ガスが火球をつくり出す。同時に熱線の放射が始まる。広島・長崎の爆心地の地表面は3000?4000度に達し、約1km以内で泡状の火ぶくれを起こした瓦は1800度以上に加熱されたと推定される。火災や焼夷効果を発生する 35%
初期放射線 火球や放射性雲から放出する放射線。主に中性子線とガンマ線による。非常に強力で、生物体はもちろん地球上のすべてに、物質構造の変化をもたらす。放射線粒子は100万電子ボルトのおおきなエネルギー
5% 80% 人間への殺傷能力の高い中性子の割合を高める(放射線強化兵器)
二次放射線 誘導放射線と核分裂生成物から放出される放射線。いわゆる「死の灰」「黒い雨」と呼ばれる放射性降下物(フォールアウト)から放出される。局地降下物と(成層圏に上昇した微粒子は偏西風によって)全世界的降下物となる 10%

被爆者は今

直接被爆者 23万8000人余 原爆爆発時に広島・長崎の市内にいた人
入市被爆者 9万7000人余 爆発後2週間以内に爆心地から2km以内に入った人
救護活動等による被爆者 2万5000人 爆発の日またはその後において被爆者の救護や死体処理等に従事し、放射能の影響を受ける事情にあった人
胎内被爆者 6000人 上の各項目に該当する女性被爆者の胎児であった人

これは1985年3月現在の被爆者の概数で、原爆医療法(1957年施行)に基づく被爆者手帳の保有者の数である。
 この37万人近くもいる被爆者には、常に原爆症の不安にとらえられている苦悩、被爆をめぐる記憶が何かの祈りにありありとよみがえってくる苦悩、自分が社会から疎外されていると感じる苦悩という3つの精神的な苦悩が今なお続いている。

タブーになった原爆の惨禍
 「原爆の無警告使用がもたらす無差別的破壊の実態が知れると、世界の世論は米国を支持しなくなり、不信感を増すことになる」という考えから米軍占領の全機関を通じて資料収集・調査・原爆災害研究・記録映画・報道などが禁止・没収・発行停止の指示を受けた。
 また、県や市の行政機関が破壊されてほとんどの公文書が焼失し、さらに敗戦で軍事関係の書類も処分されてしまったため、現在でも被害の実態、とくに死亡者の正確な数は不明なままである。
 <最新・図説政経>浜島書店


(1)

コンプトン(『アトランティック・マンスリー』誌)
 アメリカ人、日本人の数十万?おそらく数百万の生命を救ったという確固たる信念を抱くにいたった。原子爆弾を使用しなかったとすれば、戦争はなお多くの月日を要したであろうことは疑う余地がない。(『原爆投下問題資料』から)
スティムソン(『第二次世界大戦秘話』)
 (本土上陸)作戦を実行すればアメリカ軍の死者は百万以上となるかもしれないことが予測された(同上)
マーシャル(『勝利の記録』)
 戦争をすみやかに終結せしめ、多数のわが将兵の生命を救わんがため、ただちにこの新兵器を使用することに決心した。


(2)

マーシャル(45.5.10 最高軍事会議で)
 九州上陸後30日で3万1千人を上回らない。(沖縄作戦より少なくなることは確実)
マッカーサー(同)
 (九州)上陸作戦にかなり先立ってソ連が参戦するなら米軍の損害は大幅に減るだろう。
レイヒ大統領付武官長
 九州上陸兵19万中6万5千人(損害率35%)
海軍の負傷者収容計画(『原爆投下問題関係資料』)
 (上陸後2ヶ月間の戦傷者を3万人と見積もって)そのための船艇とフィリッピン、マリアナ、沖縄にベッド数5万4千の野戦病院。
キング海軍作戦部長(『太平洋戦秘史』)
 日本の敗北は海上と航空の両兵力だけで達成でき、別に上陸兵力による本土上陸は必要ない。(『原爆投下問題関係資料』)
ルメー対日戦略爆撃隊指揮官(アーノルド陸軍航空部隊司令官に答えて)
 9月には攻撃すべき目標がなくなってしまい、10月までには鉄道線のようなものを除いて攻撃するものがなくなることが明瞭であった。すなわち、日本本土に攻撃の目標がなくなれば、もうたいして戦争は続くまいと考えた。私たちはここで10月という返事をした。(同上)


(3)

○アメリカ戦略爆撃調査団報告
 “たとえ原子爆弾攻撃がなかったとしても、日本上陸の制空権確保によって、無条件降伏をもたらし、且上陸作戦を不用ならしむるための十分な圧力を発揮し得たであろうことは明らかだと思われる。・・・一切の事実の詳細な調査に基づき、また生き残った日本関係指導者の証言をも参考にして、調査団は次のような見解に到達する。すなわちたとえ原子爆弾が投下されなかったとしても、たとえロシアが参戦しなかったとしても、さらにまた上陸作戦が計画もされず企図されなかったとしても、日本は1945年12月31日以前に必ずや降伏したであろう。”

○レイヒ大統領付武官長の見解
 他に先んじて原爆を使用したという点でわれわれの道義は暗黒時代の野蛮人なみのレベルに落ちた、というのが私の率直な印象だった。私はそんな野蛮な流儀で戦争するのだとは教わらなかった。帰女子を殺しても戦争には勝てない・・・・。マンハッタン計画に関係した一教授が原爆が成功しなければいいとおもうと私にいったことがある。かれのいう通りになっていれば良かった。と思う。
(「もはや高地なし」)

 ○1945年8月6日、第二目標小倉に飛んだ気象観測機副機長キャリントンの見解
“日本は降伏しようとしていた。無条件降伏に関していろいろ心配していただけだった。とっくに手をあげていたものを、不必要に14万人もの生命をふっ飛ばしてしまったのは、アメリカの悲劇ではないか。”
(「もはや高地なし」)

 ○欧州派遣軍最高司令官アイゼンハウァー元帥の見解
“そんな爆弾は日本に使わないですませたいものだ。アメリカがそんな殺傷破壊兵器を最初に使用する国になるのはしのびない”
(「もはや高地なし」)


(4)

○L.ギオワニティ、F.フリード(『原爆投下決定』)
 バーンズ、グルー、フォレスタルやスチムソン全部が・・・大なり小なり極東において(終戦後)ソ連と対立することを予想した。こんなわけで、最小限の人命の損失で勝利を得ようという目的に、今や強力な、実際的な、政治的な理由が加わってきた。・・・(ブラッケットの発言を支持して)・・・その主な目標は日本ではなくてソ連であった。

○ハルゼー太平洋艦隊指令官(ニューヨーク ワールド トリビューン46.9)
 最初の原子爆弾はいわば不必要な実験であった。これを投下するのは誤りだった。あのような兵器を必要もないのになぜ世界に明らかにするのであろうか。(『原爆投下問題資料』から)

○トルーマン大統領の態度
 “もしそれ(原爆)が私の期待した通りに爆発すれば、あの連中(ソ連邦)にふりかざすハンマーを確実に持つことになる。”
(『原爆投下問題資料』から)

○バーンズ国務長官の見解(フォレスタル日記)
 “バーンズはソ連邦が入って来る前に日本を片づけてしまいたいと熱望していると語った。”(1945年7月28日)
(『原爆投下問題資料』から)
 “原爆は日本を打ち破るために必要なのではなく、ヨーロッパでソ連をもっと禦しやすくするために投下されるべきである。”
(『原爆投下問題資料』から)

○バーンズ国務長官の見解
 1945年5月ジラード博士との対談でジラード博士の記録
“ソ連軍はハンガリーやルーマニアに進軍しており、これらの国々から撤退するようにソ連を説得することはむずかしいが、米軍の軍事力と原爆の威力を示すならば、ソ連に米国の力の強さを印象づけて、ソ連を扱いやすいものにできるのではないかとバーンズは考えていた。”
(『原爆投下問題資料』から)

○アインシュタイン(サンデーエクスプレス紙 46.8.18)
 (2つの原爆投下は)ソ連の参戦以前に太平洋戦争を何としても終結させたいという願望・・・もしフランクリン・ローズヴェルト大統領がまだ生きていたら、そのうちのいずれもありえなかっただろうと私は確信している。ローズヴェルトであればこのような行為を禁じたであろう。(『核時代に生きる』)

○ポツダム会談途中におけるトルーマン大統領の態度の変化(チャーチルの証言)
 “(原爆の威力の詳報を聞いて)これで昨日、トルーマンに何が起こったか分かったよ、これを読んできたのだね、まるで別人のようだったよ。ソ連側には有無をいわさぬそぶりで、会議を一人じめだったよ。”(『原爆投下問題関係資料』)


(5)

○2つの研究所の声
(シカゴ)
 道徳上の理由で原爆使用に反対するというジラードの嘆願書は、「一度この原爆が戦争の道具として使用されれば、これが使用を真似するのを押さえることは極めて困難であろう。そこでこのような新しい破壊を目的とする自然の力を使用する国は予想のつかない規模の破壊時代に門を開く責任負わなければならないと」主張した。
 その嘆願書の要点は、「・・・日本に課せられた条件が細部にわたって公表せられ、その条件を知った上で日本が降伏を拒否しない限り、米国は今次戦争で原爆使用の挙に出るべきでない・・・」というものであった。
(ロスアラモス)
 ロスアラモスにおいて政治問題や軍事問題が常に話題になった訳ではないが、彼等はときどき原爆の使用について話をした。キスチャコフスキーは、「1945年の春早々、ロスアラモスの研究所員は勤務時間中も又勤務時間外においても、多勢又は少人数で集まって長いこと原爆を軍事的に使用するかどうかの問題について?つまりイエスかノーかについて?語り出していた。多くのものがドイツは間もなく潰れる、そして日本はそう長く戦争を続けることはできないのだから、わが方としては無人地区に原爆を落として日本をおどかすだけにすべきであると主張した。・・・又他のものは、単にわが方が原爆を、持っているぞと言ったようなことを発表するだけで、日本を降伏に導くことができるだろうとさえ述べた・・・」と追想している。
(『原爆投下決定』

○賛否両論の働きかけを受けたグローブズがコンプトンに依頼して冶金研究所の科学者たちの意見をきいた。
 コンプトンの話によると、シカゴの研究所の150名がアンケートに答えた由である。意見を述べる人は5つの文章を示され、その内自分の意見に最も近いものを選ぶことになった。その結果は次の通りである。

 新爆弾の使用法に関する意見

  解答者数
(1)軍事的見地から、わが国の損害を最小限にし、日本の降伏を速やかにもたらすように使用せよ 23 15
(2)日本で軍事的実演をやり、この武器を充分に使用する前に、降伏の機会を与えよ。 69 46
(3)日本の代表をも加えて、米国で実験的な実演をやり、充分に使用する前に降伏の機会を与えよ。 39 26
(4)武器の軍事的使用を止め、その効果について公開の実験的実演を実施せよ。 16 11
(5)新武器の開発をできるだけ秘密にして置いて、今次戦争で使用するのはこれを差し控えよ。
3 2
合 計 150 100

(『原爆投下決定』)

賛成の意見(コンプトンが嘆願書から引用)
 戦争中なのに(使用反対の声は)反国家分子とならないか。国家のため生命をかけた人間が設計している兵器を使うというのに何が悪いのだ。要するに、勝利を早める武器がある時、さらに米国人の血を流そうというのか。とんでもない。たとえ少数の米国人の生命を救いうる場合でも、この武器を使おうではないか。(『原爆投下決定』)

暫定委員会諮問委員会の正式報告(6.16)
 これらの爆弾の最初の使用についてのわが国の科学者諸君の意見は一致していない。それは純粋の技術上の公開実験の提案から、降伏をみちびくための最良の方法としての軍事的使用にまで及んでいる。純粋な技術上の公開実験を主張するものは、原子兵器の使用の禁止を願い、もし我々がこの兵器をいま使用すれば、将来の協定のとき我々の立場が害されるであろうことを危惧している。
 他の者は、軍事的にただちに使用することによってアメリカ人の生命が救われる機会が与えられることを強調し、この使用が国際関係を改善すると信じている。・・・我々の意見は後者・・・に近い。戦争を終わらせるような技術上の公開実験を我々は提案することができない。直接的な軍事使用以外に受け入れられる手段を我々は見い出すことができない。(『破局の決定』)


(6)

 バーンズは後日、「・・・ソ連が参戦する前に、終戦をもたらすことが必要であると自分の心中に考えていたことは明瞭であった」と述懐している。
 そして最後にトルーマンの態度についてバーンズは、「・・・ソ連は欧州戦争終結後90日して、参戦すると言ったがソ連側は例の中ソ交渉などのことで気持ちを変えていた。・・・大統領にしても私にしても、原爆のテストの成功を知った以後は、ソ連の参戦を熱望するということはなかった」と述べている。『原爆投下決定』

○T.Kフィンレター(後空軍長官)(西嶋『原爆はなぜ投下されたか』)
 なにゆえにわれわれは原爆を投下したか。ないしは、原爆の使用が正当であったとしても、なにゆえにわれわれは連合諸国主催の実験でその威力を示し、その基礎の上に立って日本に最後通牒を発して、責任の負担を日本人自身に委ねなかったか。・・・
 この質問に対する回答がどうであろうと、次の一事だけはありうべきことだと思われる。すなわち、ニューメキシコの実験で爆発させうることを知った7月16日と、ロシアの対日参戦の期限8月8日とのあいだには、原子爆弾実験用のきわめて複雑な機械を組み立てたり、時間的に手間のかかる実験地域の準備等のために割くだけの十分な時間的余裕がなかったということである。・・・
 いな、もし原爆投下の目的がロシアの参戦前に日本を叩きつぶすことにあったとすれば、ないしはすくなくとも、その目的が、日本の崩壊に先立つロシアの参戦をして、名ばかりの参戦にとどまらしめることにあったとすれば、いかなる実験も不可能であったろう。(『恐怖・戦争・爆弾』207ページ)


(7)

原爆をゆるすまじ  
作詞 浅田石二
作曲 木下航二
 
1. ふるさとのまち焼かれ
身よりの骨うめし焼土に
今は白い花さく
ああ ゆるすまじ原爆を
三たびゆるすまじ原爆を
われらの まちに
2. ふるさとの海あれて
黒き雨よろこびの日はなく
今は船に人もなく
ああ ゆるすまじ原爆を
三たびゆるすまじ原爆を
われらの 海に
3. ふるさとの空おもく
黒き雲今日も大地おおい
今は空に日もささず
ああ ゆるすまじ原爆を
三たびゆるすまじ原爆を
われらの空に
4. はらからのたえまなき
労働に築きあぐ富と幸
今はすべてついえさらん
ああ ゆるすまじ原爆を
三たびゆるすまじ原爆を
世界の 上に

・・・久保山愛吉氏の病状には全国が注目し、空模様がおかしいとなると親達は子どもに絶対に傘を持たせ、しまいには陸揚げさあれるマグロが片端から汚染で廃棄されるに及び、三崎の魚市場は閉鎖され、東京中央卸売市場もセリを中止、寿司屋が商売上がったりとなって原水爆禁止のデモをするなどのことにまでなった。
 こうした状況の中ですでに4月頃から各地で自発的にはじめられていた原水爆禁止署名運動全国協議会」(事務局長=安井郁氏)が成立した。9月23日、久保山氏がついに死亡すると、その衝撃は原水爆禁止の署名運動を一挙に加速させ、12月半ばにはその数2000万を超えた。
 こうして戦後最大の規模と広がりを持った大衆運動、原水爆禁止運動が成立する。(古川勇一『市民運動の宿題』)


 

 主要生産資材生産指数(1936=100)

  1941 1942 1943 1944 1945
銑    鉄 280.2 212.5 189.8 127.9 23.4
普 通 鋼 材 99.3 96.9 95.9 61.6 9.4
アルミニウム 1,068.0 1,605.0 2,305.0 2,435.0 1,641.0
セ メ ン ト 106.5 79.7 68.6 54.1 21.5
石    炭 133.0 129.1 132.8 117.8 53,4
104.9 117.0 143.0 115.7 51.4

  主要民需生産指数(19356?35=100)

  硫 安 過燐酸 板硝子 洋 紙 綿 糸 毛 糸 ス フ 綿織物 毛織物
1940 250.9 163.4 139.9 158.2 73.0 90.8 273.8 82.4 29.0
1941 280.2 124.4 124.5 158.8 50.9 93.3 167.1 41.7 28.6
1942 259.4 56.5 94.3 132.8 23.1 64.0 116.6 42.4 16.7
1943 218.7 55.7 88.7 110.2 15.2 53.4 79.8 34.0 17.3
1944 149.3 11.2 98.3 69.2 9.1 20.4 21.0 5.7 5.4
1945 53.0 12.6 11.1 35.6 3.8 14.2 19.8 1.7 2.2

  <揖西光速『全訂版日本経済史』お茶の水書房 '67>

戦争による国富被害

  被害額 被 害 率
建  築  物 222億円 25%
工業用機械器具 80   34 
船     舶 74   82 
電気・ガス供給設備 16   11 
家 具 ・ 家 財 96   21 
生  産  品 79   24 
合   計 643   25 

(『日本経済辞典』日本経済新聞社)

S45.2.14 近衛文磨上秦文
 敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず・・・・随て敗戦だけならば国体上はさまで憂ふる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂ふるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることもあるべき共産革命に御座候。・・・・ソ連は究極に於て世界赤化の政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。・・・・
飜て国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。・・・・
 職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり・・・・
 是等軍部内一味の革新論の狙ひは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取り巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り・・・・
 徹底的に米英撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部はいかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずるものあり、・・・・
 敗戦必至の前提の下に論ずれば勝利の見込なき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存じ、随て国体護持の立場によりすれば、一日も速に戦争終結を講ずべきものなりと確信仕り候。・・・・
(西嶋有厚『原爆はなぜ投下されたか』より)


参考、引用文献

西嶋有厚 『原爆はなぜ投下されたか』 青木書店 92
西嶋有厚編『原爆投下問題関係資料』
日本科学者会議編『核?知る、考える、調べる』合同出版社 82
マヤ・モリオカ・トデスキーニ編 『核時代に生きる私たち』時事通信 95
中国新聞 『炎の日から20年』 未来社 65
九州大学公開講座11『核を考える』九大出版会 S60
NHK広島『核兵器裁判』NHK出版 97
ギオワニティー・リード堀江芳孝訳 『原爆投下決定』原書房 67
堀江芳孝訳『トルーマン回顧録』 恒文社 66
吉川勇一『市民運動の宿題』思想の科学社 91
<論文>
西嶋有厚「原子爆弾」 歴史学研究会編『講座・世界史』東大出版会96
石川捷治「核の時代と平和の思想」 石川・平井『自分からの政治学』法律文化社96
浅井基文「核兵器と現代」 『講座・世界史12』東大出版会96
ニーベル・ベイリー「もはや高地なし」 『朝日ジャーナル』60.8.14


「原爆はなぜ落とされたのか」