彼方から風に乗って、テンッ〜テテンッ〜と太鼓の音が微かに聞こえてくる。少し行くと今度は篠笛の抜けの良いハイトーンが時折り、辺りにこだまする。収穫の終わった田圃に加わる音の風景。この国に生まれた運命をこんなにも嬉しく感じたことはない、無性にそんな想いが湧いてくるのだ。
秋の初めは、旅すがらいろんなところで祭りに出くわす。そんな時思い出すのは、神楽に興味を持ってフィールドワークでいろんな土地に誘われた学生時代のこと。両親が東京生まれでさしたる田舎を持たなかった僕には、それはある種の飢えのようなものを満たしてくれる行為だった、と今は思う。
エキゾチックな魅力に惹かれる心への反作用のように、自分に内在するものに声に耳を澄ませる感覚が、物心ついた頃から僕にはあった。手帳に書き込んでは通い詰めた山里の小さな集落の神社や祠には、百年を超えてなお変わることのない飾らない真心があった。この国の原風景に身を置くことは自らのうちにDNAを遡る様で、不思議な高揚感としみじみした安堵感が一緒になって蘇ってくる。
祭りとはすなわち神祭りであって、その主役は山車(だし)でも傘鉾(かさほこ)でも神輿(みこし)でもなく、そこに招かれる神である。神の存在の前に全てを投げ出し、祈り、捧げるその心が、祭るということなのだ。祭りに出くわしてまず初めに感じるのは、それはその土地に暮らす人たちのもので、決して見せ物なんかではないということ。
けれど通りすがりの僕らがそれを楽しみたいなら、ちょっとした方法がある。まずどこに神様の降り代、つまり居場所があるのかを探してみる。そして何を祈念しているのかを感じ取る。神はその時だけ訪れる、つまり来訪神であるから、それをありがたく思う心さえ共感出来れば、行きずりであっても立派な客として受け入れてもらえるというわけだ。
この国の祭りのほとんどは、稲作と縁を持っている。都会には、もう繋がりをすっかり失ってしまって祭りだけが生きながらえているものも多い。そんな祭りを目にすると、神様は一体どんな心持ちでいらっしゃるのだろうと思ったりする。
だがどうだろう。ポツンと取り残された小さな境内に所狭しと集う町衆。何も変わらなかったように熱く担がれる神輿の賑わい。祈りの中身が移っても、ここに杜があり続けること。この変容に逆らわずに暮らすための、それは紛れもなく拠り所なのだ。懐かしい想いは、この様にして生まれるのかも知れない。
島の神社は、その多くはそれ以前から在った神々しい場所"聖地"の傍らに建てられている。いや、というより、今も島中の至るところにこの"聖地"はある。僕は友人とそのひとつひとつを巡り、いにしえの風に触れる時、えも言われぬ心地よさに包まれる。この特別な地で、いにしえ人の"ウムイ"(想い)にたどり着いたような気がして始めたのが、奄美野外公演"うとぅぬうしゃぎむん"(音の捧げもの)だ。
夏の終わり、年に一度のこのひとときも、有難いことに回を重ねて来年は20回を迎える。禊ぐ演者とその時空を必要とする者とが集い、その日与えられる天候に全てを投げ出し、祈り、捧げるうちに浄められるうちにやがて"祭り"になった。今年の祭りが終わる刹那に聖地を俯瞰するこの眺めはいかがだろう。ぜひ来年はその場所にあなたにもいてほしい。
2023.10.1
今月の曲「祭りのあとで」